2006/10/03

「Web2.0(笑)の広告学」(笑)の広告学

毎回B級ぶりが楽しみな日経ビジネスオンライン「Web2.0(笑)の広告学」だが、今回も読者の期待を裏切ることはなかった(もちろん皮肉だが)。今回はインターネットを利用したクチコミマーケティングだ。

須田氏自身の「成功事例」としてあげられているDLPチップ利用の液晶プロジェクタの試写イベントだが、まず、今までにも普通に行われていた製品モニターとの違いがわからない。

新製品や新サービスを出すとき企業がモニター募集の広告を打って、応募者の属性からよさそうな人を選び、実際にその製品・サービスを使ってもらう。もちろん従来のモニターなら、アンケートを回収したり、言いたい放題言ってもらったことを記録して終わり、となるが、ネットによるクチコミはモニター(須田氏曰く「クチコミニスト」「インフルエンサー」)が自分のブログにその感想を書き込む点が違う。

ただ今回の記事だけでは、モニターの選定基準や、報酬、モニターの人々がブログに書き込んだ記事を企業側がチェックするのかなどが分からず、本当に須田氏の言うような「正直なクチコミ」なのか読者には判断できない。「dislose!」を3回も繰り返し書いておきながら、今回の須田氏の記事そのものが情報開示不足だ。

また、サイバーバズ社のインフルエンサーが運営するブログを、Googleで見つけようと、いろいろ努力してみたのだが、いまだに見つけることができていない。したがって、インフルエンサーが本当に「正直」にクチコミしているのか日経ビジネスオンラインの一読者として判断できないし、それほど見つけづらいブログでクチコミを展開して広告効果があるのか疑問だ。

また、基本的に公共性というマインドを欠いている日本人が、ブログ上のクチコミに素直に反応するかどうかも疑問だ。須田氏のようにアメリカナイズされている人々は、アメリカ的理念への無批判な追従者として、「正直なクチコミ」という概念を疑いもしないのだろう。

しかし日本語のブログ社会では、他人のブログをコメントやトラックバックで「炎上」させるということが日常茶飯事におこっている。そのため有名ブログは、たいていコメントやトラックバック機能をオフにしている。(このトラックバックも須田氏の考えに批判的なので、スパム的に読まれる可能性が高い)

サイバーバズのこのビジネスは日本人の「民度」から考えると、おそらく鳴かず飛ばずに終わると考えられるが、ともかく、結局のところこの連載コラム、須田氏が日経BP社のサイトを借りて、自分のビジネス展開を「広告」するのが目的だということがはっきりしてきた。次回から読む必要はなさそうだ。コラムの名を借りた須田氏の「広告」は、少なくとも僕のココロには全く刺さらなかった。

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2006/09/28

須田氏のネット事大主義・第3回

日経ビジネスオンラインのコラム「Web2.0(笑)の広告学」第三回が掲載された。この記事を書いている時点でトラックバックが1件もついていないので、早速ツッコミを入れてみる。

やはり須田氏と梅田望夫氏はよく似ていて、ネットを過大評価する傾向にある。ネット事大主義とでも言えばいいだろうか。

前回、須田氏は、実際にはバーガーキングのPR戦略でしかない取り組みを、YouTubeの新しい広告モデルだと誇大広告したが、今回も冒頭から懲りずに誇大広告を展開している。

米国でドリトスがテレビCMをネット上で公募したことを、「CGM」(消費者が作るメディア)時代の証明だと誇大広告しているのだ。これも実際にはバーガーキングと同じく、話題性によるPR戦略と、CM制作費を賞金1万ドルと安く上げる工夫でしかない。

そして今回のテーマはSNSのミクシィだ。ミクシィの利用者数は570万人で、確かに須田氏の言うように若者にとっては加入していて当たり前のインフラかもしれない。しかし1億2000万人の日本人のうち、たった570万人しか利用していないサービスを「セロテープ」「サランラップ」「ゼロックス」と同列に論じる須田氏の無神経さには言葉を失う。これはネットの過大評価以外の何物でもない。

そしてミクシィのコミュニティーから映画『ホテル・ルワンダ』の国内公開が決まったエピソードで、この映画を「ヒット映画」と称しているが、国内興行成績で一度も10位以内に入っていない映画をヒット映画と言えるかどうかは疑問だ。

しかもこの映画の評判が広がった直接の原因は、この映画のミクシィ内のコミュニティーが、映画評論家・町田智浩氏のブログに取り上げられたからであって、町田氏のブログのメディアとしての権威と認知度によるものだ。

さらにその後、コミュニティーの主催者であった水木氏が、署名活動など、リアルの世界で寝る暇を惜しんで公開運動を進めたからこそ国内公開が実現したわけで、水木氏の情熱があれば、ミクシィでなくても、たとえば5年前のYahoo!JAPANのテーマ別掲示板でも同じことは起こっただろう。

部分的にネットを巻き込んだ口コミというのは、ネットが普及している今、それほど珍しいことではない。『ホテル・ルワンダ』の事例が特殊なのは、水木氏の情熱であって、ミクシィの成功例だからではない。その点で須田氏の議論は完全におかしい。そのため須田氏の議論は、広告がいかにして水木氏の情熱が先導したような「仲間内の盛り上がり」を作り出せるか、という奇妙な展開になっている。

「SNSはユーザが極めてプライベートな感情を交換する場です」という定義も完全に間違っている。ミクシィは「足あと」機能をはじめとして、自分の行動の履歴が参加者にいちいち明らかになってしまうので、実際にはかなり神経をつかう場だ。

そんな場でプライベートな感情を交換しようものなら、たちまち仲間はずれにされてしまう。例えばこのブログのように須田氏のコラムをいちいち批判するような心性は、ミクシィのような仲良しサークルには許容されない。

SNSは決して「ハートとハートのオープンなコミュニケーション」(須田氏はクリエイターのわりに言葉選びのセンスが悪い)ができるような場ではない。気をつかって仲間の機嫌を損ねないように振舞わなければ、誰も仲間になってくれない場である。

そしてファイブミニの広告キャラクターの話が出てくる。こんなキャラクターがあるなんて初耳だったが、この広告コミュニティーを、「ハートとハートのオープンなコミュニケーションを企業がすれば、参加者も応えてくれ」る事例とするのは、須田氏のこじつけもいいところだ。

このバカげたキャラクターのお遊びについてこれる人々が結果としてコミュニティーに残っただけであって、しかも彼らはおそらく「アクダー・マーキン」(悪玉菌)というキャラクタの、下らなさ、バカらしさを知った上で、そういう下らなさに反応する自分の下らなさを楽しんでいるのだ。

決して企業のハートのあるメッセージが消費者のココロに刺さっているわけではない。ここで起こっているのは、対象物の下らなさを知った上で、そんな下らないものに反応している自分の下らなさを楽しむという、高度なシニシズムの遊びだ。

須田氏は消費者をなめている。完全になめている。毎日これだけ膨大で良質な広告や、楽屋オチ満載のバラエティー番組にさらされている消費者が、企業の心のこもったメッセージにストレートに感動してキャラクター遊びに参加するはずがないではないか。

最後に第3回目のコラムは、ミクシィのようなSNSは「マス媒体」と呼べるのか、「マスメディア」の本質とは何なのかという問いで終わっている。須田氏の定義を頭の良い言葉で言い換えると、「マス」とは伝播速度も減衰速度も高いメディアで、ミクシィのようなSNSは伝播速度も減衰速度も低いメディアとなる。

「SNSがパワーを持っていくことは、既存のマスメディアにどのような影響を及ぼすのか?そもそも『マス媒体』『マスメディア』の本質とは何なのか?」という須田氏の問いに答えよう。

SNSは趣味趣向の同じ人間を出会わせる媒体にはなる。例えば『エウレカセブン』好きの人間を出会わせる媒体にはなる。しかしその一人ひとりが『エウレカセブン』と出会うのはマス媒体である。このようにSNSとマス媒体は補完関係にある。

つまり一定数の消費者が飛びつくネタを提供できるのはマス媒体しかない。そして同じネタに反応した人々が、今までなら専門誌や同人誌、イベントでしか出会えなかったが、今はネット上のコミュニティーで地理的制約・時間的制約を超えて効率よく出会える。

『ホテル・ルワンダ』も米国で本当の意味でヒットしたからこそ(=マス媒体)、日本にもそれに反応する人々がごく少数だが生まれた。彼らがミクシィで出会って、有名映画評論家のブログ(=マス媒体)を利用することで、日本国内にも一定数のコミュニティーを形成できた。

このことが糸井重里の「ほぼ日」(=マス媒体)で話題になることで、さらにコミュニティーを広げ、最後は映画の配給会社(=マス媒体)でより多くの人にリーチできるようになった。極めつけは日経ビジネスEXPRESSという典型的なマス媒体のインタビュー記事に取り上げられたことだろう。そして須田氏のコラムも同じ日経BP社のマス媒体である。

このようにマス媒体と、ミニコミ媒体(SNS、専門誌、同人誌)はいつの時代も補完関係にある。別にSNSが特別新しいことをやっているわけではない。かつての紙媒体(専門誌や同人誌)と比べると、地理的・時間的効率がいいという「程度の差」があるだけで、「質の差」はない。

だからSNSが時代に本質的な変化をもたらすだとか、広告展開に革命的な変化をもたらすなどといった過大評価は避けなければならない。

さて、ますます連載第4回が楽しみである。

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2006/09/19

日経ビジネスオンライン「Web2.0(笑)の広告学」

日経ビジネスオンラインで「Web2.0(笑)の広告学」という連載が始まっていることに気付いた。筆者の須田伸氏自身が「(笑)」という文字をつけていることからも、梅田望夫氏のようなWeb2.0崇拝とは距離をおいているようだ。

しかし連載の第一回では、梅田望夫式の形式至上主義から、内容至上主義に反転しただけのように読める。

梅田式の形式至上主義、つまり、「Web2.0」の形式さえあれば社会に革命的な変化をもたらすという極論を捨てて、正反対の内容至上主義、つまり、テレビだろうがネットだろうが、中身さえ良ければ勝ち残るという極論に転換しているだけのように読める、ということだ。

このような枠組みが、はたしてインターネット広告の今後について考えるために有効なのだろうか。

連載第一回では、最近YouTubeにアップされたテレビの一場面(お笑い芸人の謝罪シーンや、某ボクサーの父親と漫画家の舌戦など)を例にとり、これらの場面がアップされたのは、やはりコンテンツとして面白いからだ、という議論になっている。

果たしてそうか。逆に、わざわざ時間をとって見たくもないゴシップだから、ネットで見れれば十分と判断されたのではないのか。この手のゴシップが媒体を問わず人々にもてあそばれるのは、洋の東西も、時代も問わない。

もし須田氏が、広告などゴシップと大差なく、大衆にいじられてなんぼだと割り切っているなら問題ないのだが、「ココロに刺さる」という須田氏の表現からは、広告は少なくともゴシップより上質であるべきだという含意が読みとれる。

また、須田氏は内容至上主義を採用することで、消費者の多様性を軽視してはいないか。同じゴシップでも、YouTubeで反応する消費者もいれば、女性セブンで反応する消費者もいるし、そもそも無反応な消費者もいる。多様な消費者グループがお互いにコミュニケーションなく並存しているという状況を軽視してはいないか。

須田氏は、連載の第一回の末尾に次のように書いている。

「これまでは広告主が消費者にリーチする目的と、数の限られているキー局や全国紙、有力な雑誌のコンテンツをファイナンスするだけの費用との間に、バランスが成立してきたとも言えます。/しかし今、このバランスが崩れつつあます。/インターネットやゲーム、ケータイ電話と、消費者が接するメディアもデバイス(機器)も多様化し、マスにリーチするのが以前よりも難しくなっているからです。」

ここには、消費者が多様化している現代においてなお、実在しない「マス」にリーチしたいという、須田氏の実現不可能な欲望が読みとれる。そのような欲望を基盤にするからこそ、広告とゴシップの区別があいまいになるような、内容至上主義が導き出されてしまうのだ。

資生堂の「TSUBAKI」の広告展開が成功しているという須田氏の意見に対し、第二回でさっそく読者から反論されていることからもわかるように、須田氏は広告そのものが、80年代の糸井重里全盛期のような「マス」ではなく、「マイナー」と化していることを十分に自覚していない。

連載の第二回では、YouTubeにおける、消費者を広告の作り手として取込んだ米バーガーキングの新しい取組みに、須田氏はネット広告の可能性を見出している。

しかし、バーガーキングの狙いがPR効果にあることは明白だ。

同社の目的は、YouTubeのユーザで、かつ、映像編集できる技術を持つ超少数派(おそらく米国でも数千人だろう)に訴求することではなく、こうした新奇な取組みが既存のマスメディアに取り上げられることによるPR効果にあることは、広告の素人である僕にだってわかる。

現に須田氏自身が、日経というマスメディアをつかって、そのPR効果に手を貸しているではないか。

したがって、須田氏の主張に反して、バーガーキングのケースがYouTubeの新たな広告モデルになることはない。少なくとも従来の広告より投資効率の良い広告手法にはならない。

ネット上で無償サービスを提供しているすべての企業が、いまだに従来どおりのクリエイティブによる広告や、グループ企業内の金融事業からの収益に依存しているのは周知の事実だ。この広告モデルを打破するような「奇跡」など、ネットは起こしてくれない。

須田氏が企画しているYouTubeに似た「アメーバビジョン」も、収益を上げるには至らない断言できる。(こうしたネット上の草の根メディアは腐るほどあるし、今後も亜流が無数に登場するだろうからだ)

「奇跡」が起こらない理由はきわめて単純だ。消費者が自由に処分できる資源が限られているからだ。特に「時間」という資源である。

ネット広告が一定の収益をあげるには、まず広告を掲載するサイトが消費者の滞在時間を伸ばすために、多額の投資で無償サービスやコンテンツを充実させる必要がある。(ホリエモンのように社長自ら広告塔になる場合さえある)

そして、その多額の投資が、ページビューの増加を通じて広告料に反映される。消費者が「時間」という究極の資源的制約をもつ限り、これ以外の広告モデルは存在しない。時間の制約がある限り、さまざまなメディアが消費者の有限な時間を奪い合い、それに応じて広告料が配分されるだけだからだ。

広告市場そのものが拡大するのは、広告が進化しているからではなく(メディアミックスは江戸時代から存在した)、商品やサービスの品質で差別化することが難しくなった結果、広告による差別化が、相対的に投資効率が良くなっただけのことだ。

こうして考えてくると、須田氏はネットに幻の「奇跡」を求めているとしか読めない。この点で須田氏は梅田氏に近づいてくる。梅田氏は「Web2.0」は一大革命だという幻想をもち、須田氏はネットが広告にブレイクスルーをもたらすという幻想をもつ。

さてさて、どうしてこうも次々とネットに妙な幻想を抱く人々が現れるのだろうか。

このようなネットの偶像化・神格化・理想化こそ、本当に論じるべきテーマであって、ネットが広告にどんな変化をもたらすかなどという、結論の見えた問題をテーマにしてもつまらない。

そこで、須田氏がなぜネットに幻想をもってしまうのかを勝手に分析させて頂ければ、(1)広告の存在価値は「ココロに刺さる」コンテンツにあり、同時に(2)広告は「マス」にリーチすべきものである、という相矛盾したことを前提としているためだ。

「この矛盾の克服こそが広告の奥深さだ」ということは、広告の素人である僕にも想像できる。しかし、だからといってネットにその解決を期待するのは安易という他ない。

3回目の連載が楽しみである。

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2006/05/27

東浩紀を読んで梅田望夫氏の根本的な誤りを考える

久しぶりに東浩紀の本を読んだ。『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)だ。斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫)の文庫版あとがきだったかで触れられていたからだが、しばらくぶりにフランス・ポストモダン思想系列の読書に戻って来たといったところか。

実はジョン・R・サール『マインド―心の哲学』(朝日出版社)を半分ほど読み進めていたのだが、やはりどうも二元論や唯物論を地道に論駁するスタイルがまどろっこしくてついて行けない。決して面白くないわけではないので、続きはまた読みたいのだが、斎藤環や東浩紀など、ポストモダン系の言説の快刀乱麻ぶりと比較すると、どうしても読み続けるのがおっくうになってしまう。年をとったということか。

で、『動物化するポストモダン』でオタク系文化を分析して東浩紀が書いている「データベース型消費」を読み、大発見があった。それは、梅田望夫の『ウェブ進化論』の方法論的な誤りである。しかも致命的な。

梅田望夫の根本的な誤りは、「大きな物語」が失われた後の世界を象徴するインターネットに、なおも「大きな物語」を読み込もうとしている点にあるのだ。グーグルという会社に関する類書も同じ誤りを犯している。まるでグーグルが、梅田氏の言う情報発電所をもって世界を支配しているかのような「大きな物語」を、インターネットという本来は中心のない構造の中に誤って読み取ろうとしている。この点が梅田望夫氏の決定的な誤りである。

おじさん世代が梅田望夫の言説に「すごい!」と反応し、「わかった」つもりになってしまうのは、まさに「大きな物語」を提示しているからである。おじさんたちの生きてきた時代は、戦後の圧倒的なアメリカ文化の存在だったり、冷戦時代の自由主義と共産主義の対立だったり、自分の生きている世界をすっきり説明できる図式があった。東浩紀はこのような図式を、大塚英志の言葉を借りて「大きな物語」と呼んでいる。

しかし、現代の消費生活を見れば、人々の趣味や嗜好は細分化されており、世界政治を見ても、冷戦時代のような西(自由主義諸国)と東(共産主義諸国)、80年代の北(先進国)と南(発展途上国)といった大きなくくりはもはや無効になっている。

そしてそのような現代を象徴するインターネットも、中心がなく、分散化された情報が、恣意的なハイパーリンクで互いに接続されているという点にその本質がある。インターネットは、接続手段という点でも、パソコンからでも携帯電話からでもテレビからでも、いかようにも使えるし、使用目的という点でも、一人ひとりが好き勝手に利用できるし、利用者によってどのようにも使えるものである。

そんなインターネットに対して、グーグルやアフィリエイトプログラムといった特定の企業や機能が、あたかもインターネットの本質を規定しているかのように「大きな物語」を持ち込んでしまっているのが、梅田望夫だったというわけだ。

そうすることで、梅田望夫はインターネットの本質を完全に誤解させることに成功している。そして梅田望夫の本を読んでインターネットがわかったつもりになったおじさんたちは、自分が誤解していることにさえ気づかない。

東浩紀にならって言えば、「大きな物語」がなくなった世界で、麻原彰晃という人物の提示した「大きな物語」に飛びついてしまったオウム真理教の教徒たちと、梅田望夫の提示したインターネットに関する「大きな物語」に飛びついて分かった気になったおじさんたちに、大きな差はないということになる。


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2006/05/07

『日経ビジネス』「著者に聞く」に梅田望夫氏登場

先々月だったか『日経ビジネス』無料試読キャンペーンのダイレクトメールが届いていたので、2006/05/22号まで無料で読める状態にある。今日2006/05/08号を読んでいたらp.75にいきなり梅田望夫氏が登場。でも『日経ビジネス』も今ごろ『ウェブ進化論』を「著者に聞く」コーナーで取り上げるのは遅すぎるだろう。

たった1ページの記事だが、梅田氏は本書を書いた狙いを、企業組織の中の「大人」たちにネット世界で起こっていることを理解してもらうためだったと語っている。

「僕の若い友人が『ウェブ進化論』を何冊も買って、上司に配って回ってくれたそうです。そうしたら上司が『おまえたちが言っていることがようやく分かった』と。それに続けて『おまえたちの説明が悪いから、これまで分からなかったんだ』と言われたそうです」

『ウェブ進化論』を読んで梅田氏の友人の上司が、いままで理解できなかった「ネット世界の最先端で起きている変化」を理解できるようになったというのは、おそらく勘違いだろう。彼らは理解できた気分になっただけで、しかも、理解できた気分になっただけだ、ということに気づいていない。

その証拠が「おまえたちの説明が悪いから」という言いぐさである。いかにも上級管理職らしい言い訳ではないか。彼らは自分たちに理解できないことに出会うと、必ず他人のせいにする。

彼らが本当に梅田氏の意図を理解したのであれば、「でもまだわからんところがあるから、こんど詳しくネット世界の話を聞かせてくれよ」と言うはずではないか。そう言わずに、『ウェブ進化論』を読んだ後でもなお、自分の理解の限界を若者のせいにしている事実こそ、『ウェブ進化論』を彼らが理解していない何よりの証拠だ。

組織の中の「大人」たちは、結局のところ『ウェブ進化論』がベストセラーであるということ、そして筆者の梅田氏が学歴からしてエリートであることから、理解したような気になっているだけなのだ。

どうして梅田氏の「若い友人」は「どういう風に理解されましたか」と上司に反問して、本当に理解したのかを確認しないのだろう。『ウェブ進化論』を読んだことに安心して、上司と部下の対話が止まってしまったのでは、逆に、梅田望夫氏の2つの別の世界の橋渡しをしたいという意図が、完全に裏切られたことになるのではないか。

このように冷静な状況分析をせず、友人の話に「『ウェブ進化論』を書いて良かった」と思っているらしい点がいかにも梅田氏らしいし、梅田氏の「友人の上司」もまた、『国家の品格』の場合と同様、あっさりベストセラーという権威に流されて物事を理解した気分になって思考停止すると同時に、理解不足を自分の部下に責任転嫁している点が、いかにも「おじさん」世代らしい。

梅田望夫氏のベストセラーは何も変えてはいないのだ。いや、むしろ「おじさん」世代を分かった気にさせることで、かえって「おじさん」世代とネット世代の若者の対話を止めてしまっているとさえ言える。

梅田望夫氏自身がそのことに気づいていないのだとすれば、梅田望夫氏はやはり、彼自身、典型的なエスタブリッシュメントなのである。

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原因と結果をとり違えている『ウェブ進化論』のロングテール論

今回は『ウェブ進化論』第三章「ロングテールとWeb2.0」の議論の問題点について考えてみたい。ここではロングテールという言葉の定義は省略する。『The Economist』がロングテールの活用例としてあげていたのは、アマチュアが制作した音楽・映像作品や中古品の流通を拡大したことだ。

一方『ウェブ進化論』では、「ヤフー・ジャパンや楽天のようなサービス提供者が Web 1.0 のままだと、その周辺にロングテール追求の事業機会が生まれないのである」(p.131)と書かれており、明らかに『The Economist』と違っている。

『ウェブ進化論』では「ロングテール追求の事業機会」は、Web2.0へ一歩踏み出すこと、つまり「自社が持つデータやサービスを開放し、その周辺で誰もが自由に新しいサービスを構築できるようになり、そしてまたその新しいサービスのデータやサービスが開放されること」(p.130)によってしか実現されないとしている。

『ウェブ進化論』で梅田望夫氏が考える「ロングテール追求の事業機会」とは、ネット世界の三大法則の第二法則「ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏」、つまり、Googleの「アドセンス経済圏」と、Amazonの「アフィリエイト経済圏」といいうことだ。このような文脈で梅田氏が、APIの開放こそが「ロングテール追求の事業機会」の必要条件と考えているのは当然といえば当然である。

(余談になるが、「経済圏」などという表現をつかうと、まるで他社を排除した閉鎖的な市場ができているかのような誤解をうむので、単にGoogleのアドセンス事業と、Amazonのアフィリエイト事業と書けばいいと思うのだが、梅田氏の過剰なレトリックは自制がきかないようである)

しかし、アドセンスもアフィリエイトも、要するに手数料ビジネスである。Webサイトの運営者が広告を掲載することで、1クリックあたりいくらという仲介手数料を得、Amazonの特定の商品へのリンクを掲載することで、1個売れたら何%という仲介手数料を得る。

それに対して、『The Economist』がロングテールの実例としているアマチュア制作の音楽・映像配信やeBayでの中古品売買は、市場経済がより完全なものに近づいていく数百年前からの発展の延長線上に位置づけられている。

交通手段が乏しかった時代には、市場が存在しても、そこで取引される商品は近隣の産品に限られている。交通手段の発達で、世界中の商品が取引されるようになる。テレビの通信販売はさらに物理的な制約を少なくし、居ながらにして世界中から商品を取り寄せることができるようになった。

しかしそれらはあくまでマスメディアが提供する商品情報だったが、インターネットの登場で、マスメディアが時間の制約上、紹介することのできないマイナーな商品情報も得られるようになり、市場経済はより完全なものに近づきつつある。その一つの現象がロングテールであるというのが、『The Economist』の議論だ。

ロングテール追求の事業機会はAPI公開(=Web2.0化)によってのみ得られるとする梅田望夫氏の議論は、情報流通の劇的な流動化で市場経済をより完全なものに近づけるとする『The Economist』のロングテール論と比較すると、技術的な側面しか見ていないことがわかる。

『The Economist』の議論は、要するに、いままで知ることもできなかったようなマイナーな商品・サービスの情報が、インターネットのおかげで知ることが出来るようになった。それがロングテールだという、読者にとって実感とともに理解できる内容だ。

それに対し、梅田望夫氏のロングテールの議論は、なぜか手数料ビジネスに的をしぼり、APIを公開しなければロングテール追及の事業機会を逸するという限定的な内容になっていて、読者にとってあまりピンとくる内容ではない。

さらに梅田望夫氏の技術偏重の議論は、重要な点を漏らしている。それは『The Economist』が指摘している、ネット事業者間の激烈な利用者の囲い込み競争である。書籍販売ではAmazonのひとり勝ちはほぼ決定した感があるが、現に日本では、楽天に対してYahoo!JAPANが、オンラインショッピングで急速な追い上げを見せている。

ネット事業者にとって、ロングテールの事業機会を追求できるようになるための大前提は、ネットの世界でクリティカル・マスとなるだけの数の利用者を囲い込むことだ。これが『The Economist』でふれられているネットワーク効果のことで、逆に言えば、GoogleやAmazonは、決定的多数の利用者を囲い込むことができたからこそ、APIを開発する資金を得たのであり、そのAPIを無償開放できるのだ。

要するに梅田望夫氏は何が原因で、何が結果かについて、重大な誤認をしているのだ。

梅田望夫氏は、GoogleやAmazonはAPIを公開して、自社の孤島に誰もが橋をかけることを許したから(=Web2.0化したから)、ロングテールの事業機会を追求できていると書いているが、この因果関係の見方は間違っている。

『The Economist』が書いている正しい因果関係は、次のようなものだ。GoogleやAmazonは既存メディアを巧妙に利用して、ネットワーク効果を生み出せるほど多数の(=クリティカル・マスとなる)利用者の囲い込みに成功した。

その結果はじめてロングテールの事業機会を追求できるようになり、「恐竜の首」からだけでなく、ロングテール部分からも莫大な収益を手にすることができるようになった。それによって得た資金でAPIを開発し、そのAPIを無償開放することで、アドセンスやアフィリエイトという新たな事業(手数料ビジネス)に参入できた。

先日は組織論について、梅田望夫氏がその基礎を理解していないためにとんでもない議論をしてしまっていることを指摘した。このロングテールの議論においても、やはり梅田望夫氏は単なる技術屋であり、ロングテールやWeb2.0を「より完全な市場へ」という文脈で読み解けないために、原因と結果をとり違えるという失態を犯している。

梅田望夫氏が『The Economist』のいう極度の楽観論者であるのは、技術的な領域しか見えていないことが一つの大きな原因だということが、以上の議論からもよくわかる。

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2006/05/06

英『エコノミスト』誌と梅田望夫氏『ウェブ進化論』の対比(2)

さて、『The Economist』2006/04/22-28号の特集「A survey of new media」をネタに、梅田望夫著『ウェブ進化論』の議論の浅薄さを検証する記事の第二回目だ。

「A survey of new media」の第5節はポッドキャスティング第6節はアバターとアマチュア映像作家についての記述だが、特筆すべき面白さはないので、気になる方は直接『The Economist』のWebサイトをお読み頂きたい。

今回とり上げるのは第7節の「ロングテール」現象の議論からである。第7節にはCBS、ウォルト・ディズニー、ワーナー・ブラザーズと、既存のメディア企業に勤務した後、Yahoo!の経営者となったテリー・シーメル氏の発言が引用されている。

シーメル氏は、20世紀におけるテレビの登場より、インターネットははるかに大きな変化をもたらすとし、その変化を2つの点に要約している。一つは利用者が同時にプログラマーであること、つまりは参加型メディアであるということ、もう一つはヒット作が不要なこと。つまりWired誌のクリス・アンダーソンが名づけた「ロングテール」現象のことだ。

シーメル氏はこの2点において、インターネットという新しいメディアは、だんだんと株式市場のようになっていくだろうと語っているようだ。コンテンツの提供者と、それを探す人たちをできるだけ円滑に結びつける働きをする株式市場のようなはたらき。ネット上の中古品売買がその典型だと書かれている。

そして市場というアナロジーは(『The Economist』は梅田望夫氏のように、自らアナロジーを禁じながらアナロジーを使うという初歩的な矛盾は犯さず、堂々とアナロジーをつかう)、「ネットワーク効果」という重要な含みをもたらすと書いている。いったんネットワーク効果が達成されると、それは新規参入者に対する障壁になるということだ。

梅田望夫氏の根拠のない楽観論とは異なり、『The Economist』は自由な交換という「市場」のような性格をもつインターネットが、「ネットワーク効果」を通して寡占・独占状態をもたらす危険性をちゃんと指摘している。だからこそ既存の大型メディア企業はこの「ネットワーク効果」を活用しようと、先を急いで利用者の囲い込みに走るのだと書かれている。

そして「ネットワーク効果」を最大限に活用するために、自社の提供するサービスの「流動性(liquidity)」を最大化する必要がある。つまり、誰もがかんたんにコンテンツや商品を掲載でき、誰もがかんたんに必要なコンテンツや商品を検索・入手できるようにする必要があるのだと。

さて、問題のYahoo!とGoogleの対比論が出てくるのはここからだ。この流動性を最大化する戦略において、Yahoo!とGoogleは対照的な方法論をとっていると『The Economist』は書いている。梅田望夫氏のようにYahoo!を一時代おくれたネット企業とし、Googleに偏った評価を書いているのとはまったく違う。『The Economist』はYahoo!とGoogleについて、梅田氏より公平な評価を下していると考えてよい。

その評価とは、Yahoo!はニューヨーク証券取引所に似ているのに対し、GoogleはNASDAQに似ているという評価だ。その心は、いまだにフロアー上で人間が取引をするニューヨーク証券取引所のように、Yahoo!は生身の人間による編集作業を重視している。それに対して、NASDAQが全ての取引をコンピュータ化しているように、Googleは純粋にコンピュータの計算処理で情報を編集しているということだ。

なんと分かりやすいアナロジーだろうか。「インターネットの意思」「インターネット神への信仰心」(『ウェブ進化論』p.55)などといったあやしげなアナロジーでGoogleを神格化することなく、『The Economist』はYahoo!とGoogleの違いを伝えることに成功している。

『ウェブ進化論』でも宗教的アナロジーぬきのYahoo!とGoogleの対比は、p.92ページから議論されている。『The Economist』で紹介されているのとほぼ同じ論旨だが、この部分では今度は「情報発電所」というアナロジーが議論の正確さを台無しにしている。

この点は『The Economist』の証券取引所のアナロジーの方が適切で、Googleの検索エンジンやページランキングの仕組み自体が新しい情報を生産・編集しているわけではない。ただ人間に代わって情報の流通を自動化・高速化しているだけだ。

そして最後の第8節では、インターネットがもたらす革命とは、いったいどんな種類の革命なのかを、正負の両面で偏りなく考察している。第8節の冒頭で『The Economist』は、一般的に「革命」というもののもつ三大法則をあげている。梅田望夫氏が切り出したネット世界の三大法則と比較すれば、どちらが信じるに値する議論かはすぐにわかる。

『The Economist』の言う革命の第一法則は、およそ革命というものには、熱狂的な人々と、そうでない人々がいるということだ。梅田望夫氏のような種類の人は、『The Economist』の分類ではもちろん前者の「ジャコバン党」のような急進的な人々ということになる。

革命の第二法則は、特定の年号にひもづけられている革命は長続きしないが、固有名詞(ルネサンス、宗教改革、産業革命など)にひもづけられている革命は長期的な影響をもたらすというものだ。この点は梅田望夫氏も『ウェブ進化論』の中で正しく指摘している。インターネットのもたらす変化は、数十年にわたって徐々にその効果をあらわすような漸進的な変化だということだ。

革命の第三法則は、およそ革命というものは、すべてが良くなるとか、すべてが悪くなるとかいったものではなく、その両方が入り混じったものだということ。第8節では特にこの最後の法則について議論が深められている。

グーテンベルクのmovable typeがもたらした「良いこと」は、聖書を誰にでも読めるようにし、ラテン語の支配から各国語を解き放ち、国民国家の誕生を促すとともに、印刷物の配布コストを劇的に低下させたことだと『The Economist』は書いている。

では活版印刷技術がもたらした「悪いこと」とは何か。誰でも聖書が読めるようになったことで、原理主義者の台頭を許し、間接的に宗教戦争の引き金をひいたこと。名作だけでなく、ポルノグラフィーや、『わが闘争』のような大衆煽動の書までもたらしてしまったことだと書かれている。

そして『The Economist』はインターネットという新しいメディアについては、楽観論と悲観論の開きが極端すぎると指摘している。この指摘は的確だろう。梅田望夫氏の本を読めば、その楽観論の極端さは明らかだ。

『The Economist』は悲観論者として、Yahoo!とGoogleの両社に投資しているベンチャー投資家マイケル・モリッツ氏(CNET Japanの記事で梅田氏がその発言を取り上げている)、楽観論者として未来学者ポール・サッフォー氏などの名前をあげている。

そして、参加型メディアの「市場」としての流動性が民主主義を促すとか、逆に若者の国語力を低下させるとか、実際には人々は情報の洪水を前に、量より質、焦点を絞ることの喜びを求めるようになっているなど、さまざまな賛否両論を紹介している。

では『The Economist』の結論は何なのかと言うと、「The honest conclusion, of course, is that nobody knows whether the era of participatory media will, on balance, be good or bad.」(正直な結論を言えば、当たり前のことだが、最終的な帳尻として、新しい参加型メディアが良いものなのか悪いものなのかは、誰にもわからないということだ)

これでは何の結論にもなっていないではないかと言いたくなるが、『The Economist』の記述はここで終わっているわけではない。一見このような平々凡々たる結論で終わるように見せかけて、最後の最後にいろいろと考えさせられる言葉が残されている。

「Joseph de Maistre, a conservative who lived through the French Revolution, famously said that "every country has the government it deserves." In the coming era, more than ever before, every society will get the media it deserves.」(フランス革命の時代を生きた保守主義者ジョゼフ・ド・メストルは有名な言葉を残した。『それぞれの国は、その国にふさわしい政府をもつ』。これからの時代はいままで以上に、それぞれの社会がその社会にふさわしいメディアをもつことになるだろう)

なるほど。これに照らして『ウェブ進化論』がベストセラーとなった事実を考えるとどうなるだろうか。新書のベストセラーという旧来のメディアによって、はじめて梅田望夫氏のような新しいメディアの楽観論が普及するという事実は、日本社会「らしさ」をよくあらわしていると言える。

楽観的な新メディア論が、旧メディアを通じてしか、広く知られないという逆説。ここに日本社会における参加型メディアの「限界」があらわれているのではないか。

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2006/05/04

英『エコノミスト』誌と梅田望夫氏『ウェブ進化論』の対比(1)

英国の『The Economist』誌が2006/04/22-26号で「A survey of new media」(新しいメディアについての調査)という特集を組んで、ブログ、ウィキペディア、グーグル、ポッドキャスティングなど、ここ10年間にインターネットに新しく登場した様々な技術が、社会や既存のマスメディアに与える影響を冷静に論じている。梅田望夫著『ウェブ進化論』の煽動的な書き方を中和するためにも、その内容を検討してみたい。

「新しいメディアについての調査」は8つの節に分かれている。第1節では、グーテンベルクによる「movable type(組みかえ可能な活字のことで活版印刷の要素技術)」の発明と、Movable Type(周知のとおりブログ管理システムの名前)の登場のそれぞれを、時代を画する出来事ととらえている。

グーテンベルクによるmovable typeの発明はマスメディア時代の幕開けとなり、ブログ管理システム「Movable Type」の登場は参加型メディア時代の幕開けとなったと書かれている。

参加型メディアの特徴として挙げられているのは、ふつうは聴衆が非常に少ないこと、大メディア企業どうしが聴衆の取り合いをするのでなく、小さな会社や個人どうしが競争、というより協働しあう世界であること、かつては聴衆だった人々どうしが「会話」すること、その「会話」は参加者どうしは対等だと考え(Technoratiの創業者デヴィッド・シフリーの言葉)、間違いの可能性を認めた上で、終わりなく続くものである(ハーバード大学バークマン・センタの研究員デヴィッド・ワインバーガーの言葉)ことなどだ。そして新しいメディアの時代の基本的な考え方は、真理の出どころは一つではなく複数あって、僕ら自身がどれが真理なのかを選び出すことだ(JotSpotの創業者ジョー・クラウスの言葉)と書かれている。

TechnoratiやJotSpotなど、Web2.0の世界の企業家たちが実際に語ったことを引用して、新しいメディアの本質を簡潔に浮かび上がらせる『The Economist』の書き方には説得力がある。少なくとも、情報を持たない僕ら読者に対して、逐一情報源である人名を明記してくれている点で、『The Economist』の記述は信用できるものになっている。この点をまず『ウェブ進化論』の粗雑な記述との大きな違いとして指摘しておく。

つづく第2節には、ブログの新しさは、簡単にリンクを張る機能と、一素人の発言が編集なしに公開される点にあると書かれてある。ブログという言葉の起源もちゃんと書かれてある。1997年(この「愛と苦悩の日記」が始まったのと同じ年)にジョーン・バーガーという人物が自分Webサイトを「weblog」と呼び、1999年にピーター・マーホルツという人物がそれを「blog」を略したのが始まりということだ。親切な記述である。

この第2節では、ブログの世界でもやはり、ブログの執筆者が同時に、他人のブログの読者でもあり、両者の区別がなくなっている点を、新しい参加型メディアの特徴だと書いている。Hotmail開発者のサビーア・バティア氏の発言として、「ジャーナリズムはもはや一方的なお説教ではなく、一種の会話になるだろう」という言葉が引用されている。

ところで、この第2節では梅田望夫氏が決して触れない事実が一つ示されている。Movable Typeの開発元であるSix Apart社の3番目の製品「LiveJournal」の各ブログの平均読者数が7人であることだ。これはSix Apart社の創業者トロット氏の発言として引用されている。

このように参加型メディアの聴衆の規模が非常に小さいことを根拠付けるのに、『The Economist』はリバプール大学の人類学者ロビン・ダンバー氏の提唱する「ダンバー数」を引き合いに出す。ダンバー氏は大脳新皮質の大きさと、その生物種が形成できる集団の個体数の間に、安定した相関関係があることを発見している。人類の場合、その上限は150人と計算される。ほとんどのブログの場合、お互いがお互いのブログの読者であるような集団は、150人よりもはるかに少なくなっていると『The Economist』は指摘している。

梅田望夫氏は『ウェブ進化論』の第四章「ブログと総表現社会」の中で、エリートと大衆の間に数百万人規模の中間層を想定し、「まさにこの『ふーん、そーだよねー』的な連帯が、1000万人の総表現社会参加者で生まれることこそが、全く新しい可能性なのだと思う」(p.150)と書いている。

しかしSix Apart社の創業者自身が提供するデータによれば、これが大変な誇張であることがわかる。『The Economist』は、参加型のメディアではお互いがお互いのブログの読者であるような「連帯」を生む集団の規模は、数百万人よりもはるかに小さいと書いている。梅田氏のイメージは、数百万単位の「玉石混交」の中から、「甲子園」式の競争によって「玉」が選別されるというものだが、参加型メディアで相互作用が起こる規模は、実際にはもっと小さいということだ。

次の第3節ではジャーナリズムも参加型になることで、より良いものになると書かれている。韓国でのOhmy NewsというWebサイトが、一般市民からニュース原稿を集め、読者がそれを評価することで執筆者に報酬を与えるという仕組みで大成功した事例としてあげられている。しかし、Ohmy Newsが韓国では唯一の成功例であるという現実も忘れず伝えている。

ただ、既存メディアは、記事に対する固定リンク(トラックバック)を許可したり、自由なコメントを許可するなど、読者参加型の仕組みを取り入れなければ、新しいメディアの時代に生き残ることはできないだろうという指摘もしている。この点は梅田望夫氏の主張と一致しているが、『The Economist』は「既存メディア=忌むべき権威」というステレオタイプの図式はとらず、New York Times紙のWebサイトなどの技術革新を、既存メディアの「反撃」として肯定的にとらえている。

第4節ではWikipediaが取り上げられているが、冒頭の驚くべきエピソードは、『ウェブ進化論』のp.193~194、Wikipediaでは間違った記事がどれくらい迅速に修正されるかについての実験例から漏れている。ブライアン・チェースという人物がWikipediaに投稿したガセネタが、実に132日間もそのままの内容で残り続けたというこのエピソードを、梅田氏は知らなかったのか、知っていて書かなかったのか。

さらに梅田氏は「ウィキペディアは、今の私を含む不特定多数無限大の人々の行為を集積することで、この百科時点を作り出す場になっているわけで、厳密に言えば、今日のウィキペディアと明日のウィキペディアは違う。日々、進化を続けているわけです」(p.188)と書いているが、この梅田氏のWikipediaについてのイメージは、『The Economist』でWikipediaの創設者自身によって否定される。

Wikipediaの創設者ジミー・ウェールズ氏は次のように語っている。ダーウィンの進化論的な仕組みは、Wikipediaのコミュニティーを語るにはふさわしくない。Wikipediaの編集プロセスは皆さんが思うよりずっと伝統的だ。記事の編集の半数は、全利用者の1%より少ない人数で、実際には数百人のボランティアで運営されている。彼らはお互いを知っていて、その名声に値する現実のコミュニティーである、と。

つまりWikipediaは梅田氏の言うように「不特定多数無限大の人々」が、日々その内容を付け加え、修正することで進化しているわけではなく、お互いの実力を知る数百名の精鋭部隊によって運営されているということだ。これは『ウェブ進化論』の第五章に梅田氏つけた題名「マス・コラボレーション」とは言えない。ここでも梅田氏はWikipediaの革新性を誇張して、僕ら読者に間違ったイメージを植えつけている。

その他、ブリタニカ百科事典に見つかった間違いと、Wikipediaに見つかった間違いの数にそれほど差がなかった点は、梅田氏が『ウェブ進化論』で書いているとおりだ。そしてブリタニカ百科事典の編集者が、その事実に敵意むき出しの反応を見せたのに対し、Wikipedia側は大して反応しなかった点を、興味深い事実として取り上げている。

第5節以降は、新たに記事を起こして検討する。

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インターネット上の対話が生産的であるためには

残念ながらブログ「北の大地から送る物欲日記」の筆者の方との議論は先方から打ち切りということになったが、以下の点を確認しておきたい。

(1)グーグル自身が、梅田氏のいう「二つの対立した視点」について知っているかどうかを、確かめる手段はない。

(2)まして、グーグル自身が、梅田氏のいう「二つの対立した視点」のうち「後者の視点で世界を眺め」ているかどうかを、確かめる手段はない。

(3)『ウェブ進化論』の中で梅田氏は、上記のことについてグーグルに直接確かめたとは書いていない。

(4)以上のことから、上記は梅田氏独自の意見と考えられる。

(5)そして僕は梅田氏の意見に賛成できない。したがって反論する。

(6)それだけでなく、何が事実で何が意見かをはっきりさせない梅田氏の書き方にも賛成できない。これは情報を持っていない読者に対して卑怯な方法なので、反論ではなく、非難する。

以上の議論を打ち切るためには、「私は(理由はうまく書けないが)梅田氏を信じる」という立場をとるしかない。ブログ「北の大地から送る物欲日記」の筆者の方は、最後のトラックバックでもそのような立場をとられている。

建設的な議論というのは、「すべての意見は間違っている可能性がある」という観点からしか生まれない。ある意見を信じてしまった時点で、今回のように議論は停止し、それ以上何も産み出さない。

インターネットは電子メール、掲示板、ブログなどの技術で、見ず知らずの人間どうしが対話を続ける可能性を産み出した。しかし、その対話を続けるか止めるかは、やはり人間の側の自由な選択である。

止めることを選択すれば、対話はそれ以上何も産み出さない。続けることを選択すれば、たとえば『ウェブ進化論』の場合、梅田望夫氏以外の意見を参考にすることで、梅田氏とは異なる意見を見い出せるかもしれない。

それこそインターネットのもつ民主主義らしさだと、僕は考えている。

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2006/05/02

ブログ「北の大地から送る物欲日記」の梅田氏擁護への反論

またまた『ウェブ進化論』について梅田望夫氏を擁護するトラックバックを頂いたので、僕の方でも懲りずに反論しておく。どうやら梅田望夫氏はすでに卑俗な取り巻きをもつ偶像(アイドル)になってしまっているようだ。このままでは氏の著作は本当に古書店で100円均一で投売りされることになってしまうおそれがあるので、梅田氏は注意した方がいい。

『ウェブ進化論』の中の「ITの進歩によってはじめて可能となる新しい仕組みを是とし、人間の側こそそれに適応していくべき」(p.55)という箇所について、ITが主人、人間が奴隷になるべきだと梅田氏が明言していると僕は書いた。

それに反論してブログ「北の大地から送る物欲日記」では、グーグルのページランキングという仕組みのことを梅田氏は「ITの進歩」と呼び、人がそれを受け入れるべきだと書いている。無数のウェブサイトを作り出しているのも人なら、それを評価するのも人であり、ITはそれを支援しているだけだ。だから梅田氏はITが主人で、人間が奴隷になるべきだなどとは言っていない。こう書いている。

地球上に人間という種が誕生する以前から存在したものを除いて、すべてが人間の作ったものであることは当たり前だ。最新のITもウェブサイトの内容も人間が作り出したものである。おっしゃるとおり。

しかし梅田氏の議論の要点はそんなところにはない。「ITの進歩」を無条件に「是」とし、人間にはそれに適応するかどうかを選択する自由はない、ITの進歩にただ人間は適応するべきだ、と梅田氏は書いているではないか。梅田氏は、人間にはもはやITの進歩を受け入れるかどうかを選択する自由はないと主張しているのだ。この箇所はそう読まない方が曲解である。

この人間はすべからくITの進歩を受け入れるべきだという梅田氏の議論は、暴論以外の何ものでもない。梅田氏がネット世界では民主主義が機能するというグーグルの社是を本当に理解しているなら、「人間はITの進歩を受け入れない自由もある」と書くべきだったのではないのか。

グーグルが、ページランキング・アルゴリズムはリンクという民意だけに依存している点で「民主主義」だと主張していることは理解できる。しかし梅田氏はそこから、だから人間の側はそのITの進歩に適応すべきだと、人間の側の自由を制限するような主張を臆面もなく展開している。

グーグルが何を主張しようが自由だが、そのグーグルの成果物を拒否する自由は人間の側にないと主張する梅田氏は、明らかに民主主義に反している。僕はそれを梅田氏の行き過ぎであり、暴論であると言っているのだが、何か間違っているだろうか。

ブログ「北の大地から送る物欲日記」の作成者の方は、梅田氏の扇動的な主張に陶酔するあまり、すでにその議論の粗雑さが見えなくなっているようだ。もちろん梅田氏の根拠のない扇動にのるのもそれぞれの人の選択だが、一応はっきりと反論させて頂いた。

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2006/05/01

梅田望夫著『ウェブ進化論』の完全に間違った組織論

梅田望夫著『ウェブ進化論』批判を愚直につづけたい。今日は第二章の「5 グーグルの組織マネジメント」における梅田氏の「はてな」自画自賛と、その組織論の基本的な誤りを取り上げる。

p.78で梅田望夫氏は自ら取締役をつとめる「はてな」というインターネットベンチャー企業の仕事のスタイルを自画自賛している。なるほど取締役にとってPR活動は重要かもしれないが、組織マネジメントについての基本的な誤りを犯すべきではなかった。

はてなというネット・ベンチャーでは「社員全員が、戦略の議論、新サービスのアイデアから、日常の相談事や業務報告に至るまで、ほぼすべての情報を社内の誰もが読めるブログに書き込む形で公開し、瞬時に社員全員で共有する。」(p.79)


「しばらくして私は、この仕事のスタイルは『組織と情報』に関するコペルニクス的転回なのだと気づいた。私たちが慣れ親しんできた『組織の仕事』では、組織内の情報は隠蔽されているのが基本だ。」(p.79)「だから、貴重な情報を握ってコントロールすることが組織を生き抜く原則となる。」(p.80)

しかし、はてなの仕事のスタイルは、残念ながら「組織と情報」に関するコペルニクス的転回でも何でもない。小さな組織が全員で情報共有するのは当たり前だ。そして組織が大きくなるにつれて、組織内で機能分化が進み、機能別に部署ができ、部署間では必要最小限の情報だけが共有化される。

それは別に情報を隠蔽したいわけでも何でもなく、部署間の意思疎通にかかるコストを最小限にして、もっとも効率よく成果を生み出すための合理的な組織設計というだけの話だ。このような組織を「官僚制」と言う。

貴重な情報を握ってコントロールすることが組織を生き抜く原則だとは、うがった見方にもほどがある。部署間で必要最小限の情報だけを交換することで、効率的に運用されている大きな組織の中では、地位が上がっていくことで、結果として貴重な情報を握らされる。それだけのことではないか。

そうではなく「貴重な情報」という言葉が「組織の運営に必要な情報」を意味するなら、そのような情報を握ったまま隠蔽する従業員は、梅田氏の議論とはまったく逆で、組織にとって実に困った人物なのである。だから一般の会社組織では、あれほどうるさく「ほう・れん・そう」を言い続けるのではないのか。

すべての組織設計の基本が官僚制であることは、『ウェブ進化論』と同じくちくま新書から公刊されている沼上幹著『組織戦略の考え方―企業経営の健全性のために』の第一章だけをお読み頂ければすぐに分かる。梅田望夫氏にとっては必読書である。

余談になるが、ベンチャー企業出身者で、大組織に大した理由もなく嫌悪感をもっているタイプの社会人は、やたらと制限のないコミュニケーションや情報共有を重視する。臆面もなく「直接会って話すのがいちばんだ」と言ってのける。

しかし組織の中で仕事を進めるときに、いちいち直接会って話さなければ前に進まないような企業文化を根付かせたが最後、その企業は従業員数が増えるにしたがって、業務効率は悪化する一方になる。

梅田氏ならこのようなタイプの人物に対しては、きっとITの活用によるコミュニケーションの効率化を提案してくれるだろう。そして沼上幹氏もやはり、上掲書の中で「官僚制」に対する「修正」の一つの方法として、ITの活用をあげている。

沼上氏の切れ味鋭い「官僚制擁護」を、僕の下手くそな文章で余計に難解にすることは避けたいので、今日の議論はここで切り上げる。梅田望夫氏にはただ、沼上幹氏の本を読んで自らの不明を恥じるようにとだけ伝えたい。

「アナロジー」については、ファインマン教授の言葉まで引用して再三にわたって禁じ手としながら、至るところでアナロジーを使っているし、組織論については上述のような本当に基本的な間違いを犯しているし、『ウェブ進化論』という書物は実に苛立たしい。

その意味で『ウェブ進化論』は精神衛生上よろしくないのだが、まだ気力が残っていたら、別のテーマで再び根気よく批判を続けることにしたい。

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2006/04/30

梅田望夫氏が求める新たな「権威」とは

この「愛と苦悩の日記」の『ウェブ進化論』批判について、ようやくトラックバックを頂くようになった。今日『いっつあんのひとり言』というブログから頂いたトラックバックの記事「『ウェブ進化論』は権威主義か?」に書かれていた反論に、ここで反論しておきたい。

まず「いっつあん」さんは、僕が、『ウェブ進化論』がベストセラーになっている原因は、梅田氏の学歴や経歴に対する日本人の権威主義的な反応だ、と書いていることに反論して、「まず梅田さんが興味を持たれているのは東大の院卒だからというわけではないと思う。むしろシリコンバレーで長年コンピュータ界の変化を見てきた"経験"、また"はてな"のプロジェクトに参加していることなどの方がよっぽど重要だろう」と書いている。

しかし、シリコンバレーは、アメリカという国に対して複雑な感情をもつ日本人にとって、そしてITに強くない人々にとって、立派な「権威」である。シリコンバレーでの日本人としては先進的な活躍、その後の「はてな」という斬新なITベンチャーでの活躍、これがITに弱い多くの日本人にとってなぜ「権威」でないと言えるだろう。むしろ筑摩書房はそのような梅田氏の経歴に、ネット世界を語るだけの「権威」があると見て、白羽の矢を立てたと考える方が自然だろう。

また「いっつあん」さんは、僕が、ネット上の総表現社会では、多種多様であるべき意見が一つの意見に集約されていくと書いていることに反論して、「梅田さんは別に日本人の意見が多種多様になるとは本書で述べていない。現在のブログの様子は結果的に多種多様ではない、権威主義的な日本人の姿を率直に反映しているだけではないか」と書いている。

この点は「いっつあん」さんの書かれているとおりだ。梅田氏はたしかにウェブによって日本人の意見が多種多様になるとは書いていない。しかし梅田氏は『ウェブ進化論』の第四章などで、玉石混交の状態が「玉」へと集約されていく期待を明記している。それは既存の権威と戦う必要があるからだ。

同書のp.147で梅田氏は次のように書いている。既存の権威は「『石』の悪質さを過激に指摘する方向に走ったり、玉石混交の面倒さを切々と論じたりする」。そのような「権威側が指摘する諸問題を解決するためのテクノロジーは、日進月歩で進化している。既存メディアの権威が本当に揺らいでいくのはこれからなのである。」

この部分をよく読んでみると、梅田氏が玉石混交を「玉」へ集約すること自体は善であると、何の議論もなく前提としてしまっていることに気づく。梅田氏が問題にしているのは、その玉石混交から玉を選別する権利を、既存の権威が独占していることであって、玉石混交から玉を選別すること自体ではない。

依然として権威主義の強い日本において、このような梅田氏の議論は、ネットをもう一つの「権威」にすること以外の何を意味するだろうか。既存の権威は「玉」を選び出す権利を行使することで「権威」たりえているのだから、それをネット世界が持つようになれば、ネットは新たな「権威」になる。わかりやすい議論である。

その証拠に、梅田氏がネット世界の言論を描写するとき、「甲子園」とか「コンテンツの自由競争」などといった表現を使う。これは多種多様な意見が、多種多様なままにとどまるのではなく、その意見の中から「勝者」=「玉」が決まることを梅田氏が期待していることを示している。

梅田氏は、グーグルのページランキングやWikipediaのような仕組みが、「玉」を選び出すためのテクノロジーであると明言している。つまりこれらの新しいテクノロジーは、既存の権威から「玉を選別する」権利を奪うために必要なテクノロジーだと明言しているのだ。これが新たな形の権威主義でなくて何だろうか。

もし梅田氏が本当にネットを新たな「権威」にしたくないのであれば、単に次のように主張すればよかったのではないか。「どうして『玉』を選び出す必要などあるのか。『玉』か『石』かを決める権利は誰にもない。ただそこには永遠の対話があるだけだ。『玉』か『石』かを決めなきゃいけないなんて、それこそ権威主義だ!」と。

もちろん政治的な意思決定の際は、民主主義は多数決の原理に従わざるを得ないが、ネット上の議論で一体どうして「玉」か「石」かを決める必要があるのだろうか。なのに梅田氏は、それを決める必要があると明記している。そして近い将来それを決めるのが、既存の権威ではなくネット世界であるという期待を表明している。梅田氏は新たな権威による「玉」の選別をはっきりと求めているのである。

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梅田望夫著『ウェブ進化論』の「アドセンス」評も完全な間違い

梅田望夫氏は『ウェブ進化論』第二章で、グーグルのアドセンス事業は「全く新しい『富の分配』メカニズム」(p.77)だと書いているが、これも完全な間違いである。

梅田氏は「リアル世界における『富の分配』は、巨大組織を頂点とした階層構造によって行われるのが基本であるが、その分配が末端まであまねく行き渡らないところに限界がある」(p.77)と書いている。

それに対してアドセンスは、個人の小さなWebサイトにも、そのサイトに頻出するキーワードに応じた広告を自動的に表示することで、「リアル世界における『富の分配』メカニズムの限界を超えようとしている。上から下へどっとカネを流し大雑把に末端を潤す仕組みに代えて、末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組みを作ろうとしている」(p.77)というのだ。

どうやら梅田氏は市場経済の基本の基本さえまったく理解していないようである。梅田氏は僕らの住んでいるこの市場経済の世界では、カネは上から下へどっと流れるのだという。かくも不正確な経済観しか持ち合わせていないのなら、梅田望夫氏は決して経済について書くべきではない。自分で自分の顔に泥を塗るだけだ。

梅田氏の書いていることとはまったく逆で、僕らが生活している市場経済こそが「末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組み」そのものである。梅田氏はいったい何を勘違いしているのだろうか。おそらく梅田氏は工学部出身で、社会人になってからも経済学の教科書を一冊も読んでいないのだろう。

市場経済はそのような仕組みを、貨幣流通と価格形成の仕組みを通じて実現している。当たり前のことだが、市場経済に参加するすべての人たちは、すみずみまで一人残らず富の分配をうけている。というより、富の分配をうけることで市場経済に参加している。それも、各人の「貢献に応じて」である。

社会に出て働いていれば、僕らは所属する組織をつうじた社会への貢献に応じたお給料をもらう。子供たちは一般的には養育者から富の分配をうける。定年退職した人たちは年金をもらう。さまざまな事情で仕事につけない人には、社会福祉制度を通じて税金から富が分配される。

もちろん、子供の養育費、年金、社会保障などは、市場経済というよりは「市場経済の修正」と言った方がいいかもしれないが、いずれにせよ僕らの生きている現実のケインズ的な市場経済では、富の分配システムの一部分であることには違いない。

そして分配された富でモノを買ったりサービスをうけたりすることで、その富は今度はモノやサービスを提供する人たちや組織に分配される。富が組織に分配された場合は、その組織の中の給与規定などの分配ルールにしたがって、経営者や従業員にさらに富が分配される。

要するに「カネは天下の回りもの」という至って当たり前のことで、貨幣という形で富は人から人へと循環し、その循環過程にあるモノやサービスの価格は需要と供給のバランスで決まり、循環する貨幣の量は中央銀行が調整している、ということだ。梅田望夫氏が誤解しているように「カネは上から下へどっと流れる」わけでも何でもなく、循環しているのである。

また、梅田氏は富の分配システムを論じるこの箇所で、特異な例を引き合いに出している。

「たとえば時価総額二兆円の製造業ならば、下請け企業群、素材・部品納入企業、販売会社や保守サービス企業など、その企業を中心とした巨大な経済圏が形作られ、地域経済を潤す効果が大きい。その感覚がグーグルには全くない。その代わりに、全く新しいグーグル経済圏をネット上に形作ろうとしているのだが、製造業の経済圏に慣れ親しんだ私たちにはそれが見えない」(p.76)

何も見えていないのは梅田氏の方なのである。大手製造業の下請け企業は、たしかに顧客である大手製造業から富の分配をうけている。しかし、大手製造業を頂点とするピラミッド構造で富が分配されていくという見方は、完全な誤りだ。

なぜなら、その大手製造業は自社製品の消費者(個人または組織)から富の分配をうけるからだ。ここにあるのはピラミッドでも何でもない。さまざまな個人や組織が、おたがいに富を分配しあう網の目(ウェブ)構造である。自社の販売先が購買元でもあるというのはよくある話だ。

大企業が「中心」になって「巨大な経済圏」が作られているわけでは決してない。規模の異なるさまざまな組織と無数の個人が、あるときは組織の構成員として、あるときは一人の消費者として、刻々と変化する網の目状の取引構造を形作っているのである。こんなことは、市場経済学の常識ではないのか。

グーグルのアドセンスは「富の分配」という観点からすると、種々のインターネット広告の一つに過ぎない。他のインターネット広告代理店と差別化するために、広告を出稿するWebサイトの頻出キーワードをもとに、表示する広告を自動選択するという便利な機能をつけている。それだけのことであって、「全く新しい経済圏」を形作ろうとしているわけでも何でもない。

しかもWebサイトの頻出キーワードを自動判別すると言っても、所詮は同一ドメイン単位であり、しかも以前ここに書いたように、グーグルのロボットが文脈を含めて自然言語を理解しているわけではない。キーワードの出現頻度を統計処理しているだけのことである。

さらに言えば、アドセンスだけで自活できるようなWebサイトを運営しようと思えば、そもそもアドセンスなどに頼らずとも十分自活できるくらいの、特定分野での専門知識か、それだけのWebサイトを運営する時間的余裕を作り出すための経済的余裕(たとえば過去に投資した不動産が勝手に稼いでくれる等)が必要なことは当然である。

アドセンスはせいぜい小遣い稼ぎ程度の富の分配にしかならず、僕らが生きている市場経済の巨大な交換(取引)の網目に、部分的に編みこまれているに過ぎない。

このような僕の考えはアドセンスを過小評価しているだろうか。仮にアドセンスが本当に「全く新しい富の分配システム」なのであれば、貨幣の流通速度が飛躍的に高まり、グーグルの利用者が比較的多い先進諸国が未曾有の好景気に沸くはずではないのか。

経済の基本をまったく理解していない梅田望夫氏のアドセンス評は、完全な間違いであることがお分かりいただけたと思う。梅田氏自身、『ウェブ進化論』がベストセラーになることで、大手出版社のリアル世界への大量の広告費投入の恩恵をうけたのだから、今ならアドセンスを過大評価したことを実感をもって訂正できるに違いない。


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2006/04/29

梅田望夫著『ウェブ進化論』の偏ったグーグル擁護論

今回は、グーグルが自らの企業理念「ウェブ上の民主主義は機能している」と明らかに矛盾していることを論証してみたい。それによって、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』の偏狭さも明らかにしたい。

梅田望夫氏は『ウェブ進化論』の第二章で、グーグルがWeb2.0時代の理想的な企業であるかのように称揚しているが、その議論はやはり狭い視野と激しい思い込みにもとづいている。

たとえばグーグルのWebサイトに掲載されている同社の企業理念にあたる文章「10 things Google has found to be true」(グーグルが真実だと見出した10の事柄)の中に、「Democracy on the web works.」(ウェブ上の民主主義は機能している)という項がある。このグーグルの理念を擁護して、梅田氏は次のように書いている。

「権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、『世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか』というたった一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイトに張り巡らされるリンクの関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランキング・アルゴリズムなのである。リンクという民意だけに依存して知を再編成するから『民主主義』。そしてこの『民主主義』も『インターネットの意志』の一つだと、彼らは信奉しているのだ」(p.54)

梅田望夫氏はこの理念に賛同するだけでなく、それをもっと強化しようと読者に呼びかけている。「ITの進歩によってはじめて可能となる新しい仕組みを是とし、人間の側こそそれに適応していくべき」(p.55)という視点で、グーグルという会社は「世界を作り直そうとしている」(p.55)と書いた上で、グーグル擁護論を展開する。

この部分で梅田氏は、ITが主人、人間が奴隷になるべきだと恥ずかしげもなく明言しており、梅田氏の主張はヘーゲルの弁証法以前の水準にとどまっており、あまりに素朴すぎて痛々しいほどだ。

しかしグーグルが提供しているページランキング機能やアドワーズ、アドセンスなどのサービスが、本当に「民主主義」の前提となる言論の自由を担保する仕組みになっているかどうかは、きわめて疑わしい。

たとえば昨日も書いたように、ブログ上の『ウェブ進化論』書評のほとんどは肯定的評価になっている。その肯定的評価が同書の売上増につながり、さらに肯定的な評価のブログ書評が増えるという循環がはたらいている。

それによって『ウェブ進化論』が売れ続けていることは、ほぼ事実と認めていいだろう。チープな経済誌風に表現すれば、これこそWeb2.0の新しい「口コミ」マーケティングなのだ!!となる。

この循環の過程で、グーグルのページランキングという仕組みがどんな役割を果たしているかは、少し考えればわかる。

Aさんがブログで『ウェブ進化論』は良いと書く。Bさんもたまたま同書を読んでいて、グーグルでAさんのブログを見つけると、「同じ意見の人がいた」と、喜んでトラックバックでAさんのブログから自分のブログへリンクを張る。

ブログ作成者どうしでは、トラックバックされたらお返しするのが、ネット世界ではすでに慣習になっているので、Aさんもトラックバックして、Bさんのブログから自分のブログへリンクを張る。

ここにCさんという人がいて、『ウェブ進化論』など根拠薄弱で読むに値しない本だという書評をブログに書く。Cさんの書評はAさんやBさんのような人からは無視され、リンクが張られることはない。

このようにして、開始時点で『ウェブ進化論』を擁護するブログが少しでも多ければ、トラックバックとそのお返しによる相互リンクが、擁護派の間でどんどん張られていき、グーグルのページランキングの仕組み上、それら擁護派のブログが「ウェブ進化論」というキーワードでグーグル検索したときの上位を独占することになる。これは今、事実として起こっていることなので、グーグル検索して確かめて頂きたい。

逆に『ウェブ進化論』批判派のブログは、相互リンクのネットワークから排除されたままなので、グーグルのページランキングで徐々に下位に押しらやれていく。

グーグル検索で上位のページは閲覧されやすいので、ますます閲覧されるようになり、下位のページは無視されやすいので、ますます無視されるようになる。上位ページに『ウェブ進化論』擁護派が多いという事実が、ますます擁護派を増加させ、世論を擁護派へと収斂させていく。

このようにしてグーグルのページランキングという仕組みは、最初はわずかだった擁護派、反対派の差を、相互リンクの増殖がページランキングを上げるという好循環を通じて、人々の意見を多数派の方向へとどんどん強化していく働きをするのだ。

補足しておくと、相互リンクというブログ間のリンクは、「ネットワーク効果」によってグーグルのページランキングシステムに、単に一次関数的な影響を与えるだけでなく、指数関数的な影響を与える。

たとえば5個のブログがお互いにリンクを張ると、合計10本のリンクができ上がるが、これが倍の10個のブログになると、単に2倍の20本ではなく、45本の相互リンクができ上がる。現実には全てのブログがお互いにリンクを張るなどということは起こらないが、それでも相互リンクの相乗作用で、類似した内容のブログのページランクを押し上げる効果をもつのは事実である。

仮に『ウェブ進化論』の場合のように、著者自身のブログのページランキングが始めから高い場合、『ウェブ進化論』擁護派のブログが驚くべき速度で増え、逆にこの「愛と苦悩の日記」のような『ウェブ進化論』批判派のブログがますます無視されるのは、当然といえば当然の帰結なのである。

では少数派のブログが巻き返しをはかる方法はないのかと言えば、グーグルを使って一つだけ方法がある。それはアドワーズの広告主になることだ。たとえば誰かが「銀河鉄道999」というキーワードでグーグル検索したときに、検索結果画面の右端に、自分のブログの広告が表示されるようにする。「銀河鉄道999」という検索キーワードの広告主になるのである。

誰かがそのキーワードでグーグル検索して、自分のブログの広告をクリックするたびに広告料が発生し、後からまとめてクレジットカードでグーグルに支払う仕組みになっている。

ただし市場原理にもとづいて、人気のあるキーワードには非常に高い値段がつく。したがって個人で買える検索キーワードはマイナーなものに限られるが、それでもこの「愛と苦悩の日記」は一時期「銀河鉄道999」「Notes/Domino」などのキーワードの広告主になって、限られた予算の中で少しずつ読者を増やそうと努力していた。

ところが、である。ある日グーグルから突然メールが届き、あなたのWebサイトは不適格であるとして広告の出稿を止められてしまったのだ。

グーグルはアドワーズ事業において広告主を独自の基準で選別することで、少数派の意見がネット上で認知を得る手段を奪っていると言える。これはグーグルの「Democracy on the web works.」という企業理念と完全に矛盾している。

実はグーグルのもう一つの広告サービス「アドセンス」や、ページランキング機能でも同様に、グーグルがサービスの利用者に突然、利用停止を告知したり、特定のWebサイトをページランキングから削除するなど、事実上の言論統制を行っている。また、グーグルが中国でのビジネスにおいて、特定の宗教団体のWebサイトをページランキング機能から除外しているのは周知の事実である。

佐々木俊尚氏の『グーグル―Google既存のビジネスを破壊する』(文春新書)には、このようなグーグルの負の側面も取り上げられているが、梅田望夫氏は一切ふれていない。

梅田望夫氏のグーグルのアドセンス事業についての説明や、グーグルの組織マネジメントをとりあげた部分にも、初歩的ともいえる誤りがあるのだが、それはまた次回、詳細に論じることにする。

『国家の品格』と同じように『ウェブ進化論』もほとんど「妄想」と呼びたくなるほど救いがたい独断や、致命的な矛盾が散見され、ほとんどまじめに論じるに足りない書物である。しかしそんな書物がベストセラーになっている以上、僕ら少数派はきっちりとブログで批判を展開しつづけなければならない。それこそがネット上の真の民主主義だと、僕は考える。

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2006/04/28

梅田望夫氏の「総表現社会の1000万人」のまやかし

梅田望夫著『ウェブ進化論』をグーグルで検索してみると、個人ブログの書評はほぼ全て肯定的評価になっていて非常に不気味だ。『国家の品格』でも同じことが起こっている。

梅田氏は『ウェブ進化論』第四章で、「不特定多数無限大」の人々がネット上の言論に参加することは衆愚を招くという意見に対して、「総表現社会の1000万人」という考え方で反論する。ブログでネット上の言論に参加している「総表現社会の1000万人」は、エリートと大衆の中間層にあたる。<