2003/04/15

矢野龍渓『経国美談』

■矢野龍渓『経国美談』(岩波文庫)の上巻をほぼ読み終えた。解説によればこの漢文書き下し文体の小説は、龍渓が英国の正史文献を参考にしつつ、古代ギリシアの歴史を『太平記』風の小説にして民権伸張、憲政擁護を鼓吹することを狙ったとのこと。坪内逍遥の『小説神髄』が出る前、明治十六年の作である。

物語は、スパルタの侵攻により寡頭政治に堕したセーベ(テーバイ)を、アゼン(アテナイ)に難を逃れた有志者たちが数年間機の熟するを待って一計を案じ、民政に復帰させるという勧善懲悪の筋で、全くつまらないが、漢文脈のスピード感は読み進めるうち癖になる。

「斯クト見ルヨリ、奸党等ハ絶驚狼狽シナガラモ、兼テ坐辺ニ備ヘ置キタル短剣ヲ抜キ合セ、早ヤ組付カント、飛ビ入リタル有志者ニ、渡リ合イ、刺シ傷ケント、揉合フタリ。十二名ノ有志者等ハ、国ノ為メ、又世ノ為メニ、積モリ積モリシ、多年ノ鬱憤幾ソ干ゾ、ソノ艱難モ、皆是レ奸党ノ為ス業ニテ、今其仇ニ、面リ近ク、出逢フコトナレバ、春待チ得タル優曇華ノ花、咲キ出ル心地シテ、勇気日頃ニ、百倍スレバ、何カハ以テ堪ルベキ、ペロピダス、セヲポンプスノ両人ハ、難ナクポーリアルチ、クリチアースヲ組伏セテ、直チニ縄ヲカケタリケリ」(202-203頁)。

でもさすがにこの調子で下巻まで読もうとは思わない。こうなったら次は成島柳北『柳橋新誌』か。どんどん時代を遡っているような気がして明治二十年代からこちらへ戻って来られなくなりそうなのだが。「橋、柳を以って名と為して一株の柳を植えず。旧地誌に云う、其の柳原の末に在るを以ってなづくなりと。而して橋の東南に一橋有り、傍に老柳一樹有り。人呼んで故柳橋と為す。或ひと云く、其の橋柳有れば即ち往昔の柳橋にして、今の柳橋は即ち後に架して其の名を奪う者と。其の説地誌と齬すなり」(『柳橋新誌』冒頭)。まあ四方田犬彦の『月島物語』とあまり変わらないかもしれない。

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2003/03/15

十川信介編『明治文学回想集(上)』

■十川信介編『明治文学回想集(上)』(岩波文庫)を読んだ。明治初期の文学を楽しむのに時代背景のお勉強もちょっとは必要だということから。通勤電車で読める軽量の明治文学を求めて、何年か振りで神保町の古書店めぐりをした。結局買ったのは古書ではなく、新品の文庫本3冊。何を買ったのかはこの日記の中で明らかになるだろう。

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2002/11/24

最近明治文学を気に入っているわけ

■最近明治文学を気に入っているのは、それが近代日本の青春時代だからである。青春時代は「私は誰か」というアイデンティティーの問題に悩む年代だが、グローバル化の今ほどそのことが再び強く問われたことは明治以来なかったのではないか、という考えが僕をして明治文学を読ませているのではないか。本棚からしいて明治文学を選択しているのは僕自身の意思であるにもかかわらず。

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2002/11/21

広津柳浪『河内屋・黒とかげ』

■先週末、近所の市立図書館で岩波文庫を3冊借りてきて、うち一冊、広津柳浪(ひろつれうろう)『河内屋・黒とかげ』(とかげの二文字目がパソコンになかつたので平仮名とした)を4日間で読み終えた。広津柳浪は明治時代に観念小説・深刻小説の一時代を築いた小説家といふ。巻末の解説によれば『河内屋』という明治29年の作品については露伴は絶賛、鴎外も高い評価を与えているらしい。

日本の近代文学史における観念小説の位置づけに詳しくないが、作者の価値観を強く反映した小説で、写実主義の対義語になるやうだ。ただ作者の価値観を反映しない純粋写実などありえない。眉山の『観音岩』は観念小説と言ひながら「社会派」とでも呼びたくなるものだつたし、色恋沙汰ではなく、社会の暗部に焦点を当てたものが観念小説なら、小杉天外の『魔風恋風』だつて観念小説になりさうなものだ。

収録の3作(表題作以外に『骨ぬすみ』)はいづれも悲劇的な結末で、登場人物が泣いてばかりなのには辟易するが、たしかに上手い小説だ。ただ最近の夜のテレビドラマ風の大袈裟な物語の展開に依存する面があり、鴎外等淡々とした展開に心理描写が織り込まれる成熟とは距離がある。物語に依存しないという意味では『骨ぬすみ』がもつともよいと思つた。

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2002/11/08

永井荷風『おかめ笹』

■前回のこの日記は鴎外の『雁』を読み始めたというところで終わっていたが、しっとりと静謐な余韻を残すこの名作を読み終えた後、永井荷風の『おかめ笹』を同じく岩波文庫で読み終えた今日、月を越して久しぶりの日記となった。

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2002/10/30

森鴎外『雁』

■四迷の『其面影』を意外に面白く読み終えたので引き続き鴎外の『雁』を読み始めた。また明治文学月間が始まるのだろうか。ちなみに『雁』は岩波文庫10月の新刊だ。明治文学なのに新刊だ。鴎外は『鴎外漁史とは誰ぞ』というエッセーの中で自らの文学に対する批評として、虚子の「鴎外も最早今まで我らに与えたほどのものをば与うることを得ぬであろう」という言葉を引いているが、これに反して読むという経験によって鴎外は今までに与えたものをわれわれに与え続ける。ちなみに岩波書店のホームページによれば来春には四迷の『浮雲』が新刊で出るらしい。

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2002/10/28

二葉亭四迷『其面影』

■さてみなさんは何を楽しみにこの日記を読んでいらっしゃるのだろう。何ということのない日々の出来事の報告をお望みなら、僕が一昨日から二葉亭四迷『其面影』を岩波文庫で読んでいると書いておこう。数か月前に一度読んだような気もするのだが、この作品は発表当時、四迷が文壇に復帰したと歓迎される一方で『浮雲』と同工異曲であるとの批判もあったらしく、『浮雲』を読んだのを『其面影』と勘違いしている可能性もなくはない。

また昨夜、二つの川の流れにはさまれたなだらかな平野に広がる住宅街に建築中だった、頂上が雲に隠れるほどの巨大な鉄塔が、見ている間に音もなく空から崩れ落ちてきて、真下に建っていたマンションの屋根を変形させたところ、最上階の住人は血相を変えてベランダに飛び出し、頭上に鉄塔の残骸がしなだれかかっているにもかかわらず、何が起こったんだと叫びながらあたりを見回して異変を探しているその滑稽さに笑ってもいられない、といったような夢を見ていたのだということを書いておこう。

さてこれでみなさんが満足したかどうか。最近「喜ぶユーザの顔」を仕事でまったく見なくなってしまったものだから、せめてこのホームページで読者に喜んでもらえればと思う次第だ。ユーザの喜ぶ顔を見ずにITコンサルタントとして何を喜びに仕事をすれば良いというのだろうか。

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2002/09/30

菊池寛『真珠婦人』

■いつの間にか「文学モード」がやや脱線して「通俗小説モード」に変わり、菊池寛の『真珠婦人』を読み始めた。今春からフジTVの昼メロで話題になったために、新潮文庫と文春文庫の両方から文庫版が発売されているが、川端康成があとがきを書いているということで後者を購入した。先日フジTVでその昼メロの総集編を放送していたのを偶然見始めたところ、あまりのくだらなさにハマってしまったのが原作を読もうと思い立った原因だ。

川端康成の解説にもあるように『真珠婦人』はれっきとした通俗小説だが、ドラマの脚本は原作に対してさらに大幅に通俗的な脚色を加えている。ドラマを見ただけで菊池寛がこんなひどい通俗小説を書いていたのかと判断するのは早すぎる。実はちょうど今さしかかっている箇所で登場人物がまさに明治時代の「通俗小説」について議論を闘わせているのだ。その中では紅葉山人の『金色夜叉』がこてんぱんに批判される役回りである。菊池寛は自分が新聞にこのような通俗小説を連載しながら、やはりかつて新聞に連載された『金色夜叉』を「通俗小説」だと登場人物の言葉を借りて断じているのだから事情はそれほど単純ではない。

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2002/07/13

武者小路実篤『お目出たき人』

■まだある。武者小路実篤を筑摩書房・日本文学全集第20巻で読んでいる。今のところ『お目出たき人』を読んだだけだが、はっきり言ってショックである。僕は今まで武者小路実篤を読んだことがなかった。しかし小中学生の夏休みの推薦図書にでもなりそうな随分と健全な小説を書く人だろうと思っていた。

ところがこの『お目出たき人』という明治44年の小説は、作者が志賀直哉らと『白樺』を創刊する2か月前に書かれたものだが、26歳でいまだ童貞の主人公が片思いの女性、鶴との夫婦生活を空想しながらも鶴と直接の接触を持つことなく悶々と過ごす。

冒頭近く主人公は書く。「自分は女に飢えているのだ」。なんと身もふたもなく直截な表現だろうか。最後には鶴は相思相愛の男性と結婚するのだが、それでもなお主人公は鶴が自分を思いながら望まぬ結婚をしたのだと妄想し続ける。同時に主人公は自分のことを淫欲に負けることなく道義的に生きている人間だと主張する。健康だと主張すればするほど病的になるという矛盾をおしげもなく露呈している、『お目出たき人』はそんなとんでもない小説だったのだ。

実はまだこれから金子光晴を読まなければならない。純文学ばかり読んでいるとストレス発散どころか精神的に鬱屈してくるが、読書がいちばん金がかからないのだから仕方なかろう。

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2002/05/15

尾崎紅葉『多情多恨』

■昨日、尾崎紅葉『多情多恨』を読み終えた。『金色夜叉』に比べれば大したことないだろうとあまり期待せずに読み始めたが、どうしてこれが新潮文庫に入らないかと思うくらい面白い作品だった。下記にもあるように主人公が最愛の妻を失った絶望から、友人の妻との交流を通じて次第にふつうの日常を取り戻していく心理的な変化の過程がていねいに描かれている。

社会と個人の対立、利他と利己の対立といった図式がない分、さすがに漱石のような意味での近代性は皆無だが、明治初期に台頭した恋愛を基盤とした結婚生活という中流階級の新しいライフスタイルを心理面から描写することには見事に成功している(もちろん自由恋愛を前提とした結婚というのも後年のフェミニズムからすれば一つのイデオロギーなのだが)。

坪内逍遙の『当世書生気質』が明治20年、『多情多恨』が明治29年。たった9年間でこれだけの心理描写の深化と、言文一致体の可能性の広がりを見た明治20年代とは日本文学にとって今からは想像できないほど劇的な変化の10年間だったのだなぁと実感できる。

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2002/03/23

川上眉山『大さかづき』『ゆふだすき』

■川上眉山は器用貧乏な作家だったのだろうか。同じく筑摩書房の明治文学全集で『大さかづき』(明治28年)と『ゆふだすき』(明治39年)を読んだ。『大さかづき』は渡米して肉体労働によってひと財産築いた男が、結婚を約束した女も、唯一の係累である父親も、自らの命も失ってしまうという厭世主義100パーセントの短編。

こういうのをいかにも川上眉山らしい「観念小説」と呼ぶらしいが、晩年の『ゆふだすき』はうってかわって自分の妻との結婚の経緯を読者に向かってのろけるような作品で、両者は文体もまったく違う。さまざまな文学運動が乱立した明治時代に眉山は時代の流れに翻弄されつづけ、ついにどこにも安住できずに40歳で頚動脈を掻き切ったということか。

でも社会派小説にしても厭世主義にしても浪漫主義にしても、それなりにこなれているので、これらさまざまな顔をコラージュした作品を書いたならば、もっとも眉山らしい作品ができ上がるのかもしれない。現代日本文学全集の『書記官』『うらおもて』も読んでみたい(が、近くの市立図書館が整理期間中で4月になるまで開館しないんだなこれが)。

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2002/03/17

森鴎外『舞姫』

■お出かけの電車の中でのひまつぶしに新潮文庫で森鴎外の『舞姫』を読み直した。鴎外の冷酷さがきわだつひどい話で、これが代表作として教科書にまで掲載されている理由がよく分からなくなった。でも『舞姫』を読んでも文語文という気がしなくなったのは、最近明治文学ばかり読んで文語調に鍛えられた証拠。この年齢になって文語の美しさを再発見できるのは幸福だ。

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川上眉山『賤機』(しずはた)

■ひきつづき明治文学全集で川上眉山の『賤機』(しずはた)を読んだ。別荘に逗留した貴婦人に、とある山荘の若い管理人が許されぬ恋愛感情を抱き、ついには東京まで追いかけて来たのを、貴婦人がその一途な思いを憐れに思い下男として雇ってやった。

華族に生まれたばかりに望まぬ結婚をして表向き幸福な妻を演じなければならない貴婦人は、管理人との飾らぬ交流に一時の安らぎを得たのだ。だが男が断ち切れぬ思いをなお彼女に吐露するのを悔悟させるべく、一人前の人間として姉妹のように対等に語り合えるまで姿を現すなと暇を出す。

数年後、上野の美術館に展示された釣り人と美女の見事な水墨画が東京中の評判となった後、密かに貴婦人宅に寄贈されたが名前は紛れもなくあの男。その画題はまさに二人が出会った場面だった。しかし男はついに貴婦人の前に姿を現すことはなかった、というお話。

叶わぬ恋を思い切ることから学問のない男が水墨画に人生の意味を見出すというとてもポジティブな話なのだが、全集の解題には華族に生まれながらわが身を嘆く貴婦人の姿に眉山の厭世観を見ているのはちょっと不公平な評価ではないか。テーマに沿った端正な文体も素晴らしい。眉山は文学史に厭世による自殺者として登場しないわりに、実際読んでみると期待以上の作品だ。

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2002/03/14

川上眉山『観音岩』

■『観音岩』と川上眉山でWebを検索してもそう件数は出てこない。1919年に日活が白黒・無声映画にしているようだがキャストは不詳。僕が読んだ明治文学全集の解説によれば岩波文庫化されたこともあったらしい。硯友社の戯作的作風に嫌気が差して内田魯庵らの社会小説に傾いた後、明治36年の作品。10年前の『賤機』はかなり幻想的、浪漫主義的で、作風に苦悩していたということか、それは他の作品も読んで確かめたい。

『観音岩』冒頭で自殺を遂げるのは主人公・正也の学友・石巻だが、その死の背後には故郷で石巻家が「村刎ね」にあっていることがあると正也は知る。石巻の父を弔問した正也はその妹・幸子を東京のわが家に引き取り、相応の教育を受けさせることを請合う。

村で「坂の上」と呼ばれる有力者によって9年間も迫害され、一人息子が自殺してなお「機が来れば」と忍耐する石巻の父に正也は秘策を嗅ぎとる。ところで正也には幼なじみの千枝子があるが、悩んだ末に郷里で学友の名誉を回復すべく幸子との結婚を決める。村人たちは石巻家が東京の有力者である正也一家との関係を深めることに危機感を抱き、挙式の準備で帰郷していた幸子を村の白痴に誘拐させる。

幸子は貞操を守るため観音岩から身を投げる。二人の子を失い、悲嘆に暮れてなお「機が来れば」と繰り返す石巻の父に正也はさすがに苛立つが、幸子の葬儀が終わったまさにその日、村を30年ぶりの大水が襲う。瀕死の村人たちを石巻は一家あげて救助し、「坂の上」の命をも救い、米の備蓄を惜しげもなく差し出す。村人たちは石巻の真意に触れて改心し「村刎ね」は過去のものとなる。これが石巻の父が待っていた「機」であった。正也は石巻の媒酌で千枝子と結婚することになり、村で挙式する。正也と千枝子は式の場で第一子を石巻の遺産相続人とすることを誓うのだった。以上が『観音岩』の概略だ(超ネタバレ)。

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2002/03/13

川上眉山『観音岩』読了

■川上眉山『観音岩』を読み終えた。東京のアップタウンを舞台にした民放のトレンディー恋愛ドラマだとばかり思って読み進めたが、むしろ「村刎ね」(村八分とほぼ同じ意味)の旧習が残る農村と東京を舞台とし、農村の朴訥さや野性味と洗練された都会人の対比、冒頭に自殺する学士の死の謎解き、大自然の脅威など雑多な要素が入り混じったNHKの2時間ドラマといった感じ。たしかにご都合主義的で脚色が過ぎるが娯楽作品としては意外に楽しめる。物語のテンポも早いので余程お暇な方はご一読を。文庫本でおよそ300ページ程度。

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2002/02/16

坪内逍遥『妹と背かゞみ』

■ひきつづき明治文学全集で坪内逍遥の『妹と背かゞみ』を読んだ。文庫本にして200ページ弱の作品だが、やはり小説というより人情本に近い。ちなみに題名は「妹」と「背かがみ」という意味ではない。「妹と背(いもとせ)」は夫婦、「かがみ」は映し出す意味。つまり夫婦の生活を描写するという意味の題名だ。

題名のとおりこの小説は「自由恋愛」で結婚した夫婦と、親の都合で結婚させられた夫婦のいずれもが不幸な結婚生活を送る様子を、逍遥自身の小説論に忠実に写実主義で再現しようとしている。その意気込みの証拠に第一から第十八まですべての回に「写しいだす~」という副題がついている。

第一回は「写しいだす三田台の仮寓居」、第二回は「写しいだす人の身の栄枯盛衰」、第三回は「写しいだす新年の骨牌(かるた)あそび」などなど。『当世書生気質』と異なるのは人物の心理がより丹念に描かれている点。描かれる人物の苦悩は漱石に出てくるような利己主義どうしの葛藤ではなく、私情と世間の対立、義理と人情の対立だ。

たとえば第十一回、親の意思で田沼という男と結婚させられようとしているお雪の心理を逍遥は「お雪の本心ハ果たしていかに。今一魔鏡を取いだして。お雪の肺肝を写しいださん。(お雪肚の裏に思ふやう)」と書き起こしている。「いつそ思ひきつてお母さまへ。妾の肚の中をお知らせ申して。此縁談を断らうか。イヤイヤ田沼さんを断れバとて。別に是ぞといふ目的もなし。生中田沼さんと破談になつたら。いつかの縁談がまた・・・・・・」と、この「・・・・・・」という句点法はたしか『当世書生気質』にはなかったもの。言葉に尽くせない内面を示しているのか。

ちなみに中村眞一郎はこの作品を次のように評価している。「現代の小説の通念からすれば、あまりにも説明なり、議論なりが多いということになり、小説としては純粋でないということになるかも知れない。しかし、私はこうしたロマンチックな作風(作者の介入という意味であって、伝奇趣味ということではない)も、小説の展開のために、大いに意味があると思う。叙述、分析、描写、説明を自在に用いて、物語を進めるこのやり方は、小説というものを、とらわれた写実主義から解放してくれるだろう。そして、方法意識の強い前衛的な作家ならば、たとえば女主人公の心の描写に、二十世紀小説の『意識の流れ』の方法の先蹤さえ発見するだろう」。

たしかに逍遥の話法はときに「そりゃやりすぎだろう」とつっこみを入れたくなるほどバラエティーに富んでいる。作者自身がしゃしゃり出てきたり、延々と独白が続いたり、新聞記事の引用があったり、余計な注釈が入ったり。雑然とした逍遥の小説世界が、逆に現代に小説の多様な可能性を想起させる役割を果たしているのではないか、という中村眞一郎の問題提起にはなるほどと思わせるものがある。

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2002/02/06

坪内逍遥『小説神髄』『当世書生気質』

■最近の純文学系読書は樋口一葉以来、専ら自然主義以前の明治文学なのだが、徳田秋声『不如帰』を岩波文庫で読みかけたところが現代かな遣いのせいか気分が乗らず、近所の市立図書館で明治文学全集の第一巻、坪内逍遥を手にとった。まさに日本近代文学の幕開け、『小説神髄』と『当世書生気質』を並行して読んでいる。進歩主義的な文学観から写実主義を近代小説の原理であるとうたった『小説神髄』に比して『当世書生気質』は余りに戯作文学の影響が強く、失敗作とも言われるが、風俗小説としてはかなり面白い。地の文が無駄に七五調なのも笑える。明治文学全集第一巻がこんなに下らなくていいのだろうか。

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2002/01/14

三宅花圃『籔の鶯』

■近所の図書館で講談社『豪華版 日本現代文学全集 樋口一葉』収録のテニスン『イノック・アーデン』翻訳と三宅花圃の『籔の鶯』など明治初期の女流文学を読んでいた。三宅花圃は樋口一葉と同じ萩の舎出身だが、残されている写真は一葉と対照的に洋装で『籔の鶯』も西洋風の舞踏会なんぞを物語の舞台としている。当時の女性の社会的地位に関する言及や、上流階級の社交場での言葉づかいから車夫の雑談までが入り混じる言語空間はなかなか面白い。

同じ全集の幸田露伴の巻に樋口一葉論を読んだが、一度しか面会した事のない露伴が一葉は『にごりえ』の主人公お力のような人物だという風評を必死で否定しようと論じているのも面白い。ちなみに露伴が一葉の傑作としてあげているのは日記と『にごりえ』だそうで、やはり一葉の日記が傑作なのは露伴も同意するところらしい。

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2002/01/13

樋口一葉の日記

■樋口一葉全集で彼女の日記を読んでいるのだが、記憶力や生真面目さに驚かされる。ある集まりで男性と女性、年齢の合計はどちらが多いかというゲームになったという下りがあるが、日記には20人近くの年齢が逐一記されている。おそらく一葉は翌日になって前日の行動を反省しつつ日記を記したと思われるが、ここまで律儀に日記を書く人も珍しい。また、図書館通いをして男子学生の中に自分ばかり女性で気恥ずかしい思いを書いている部分や、生計を立てるための針仕事の疲れについ勉強を怠ってしまう自分を戒める部分は、眉をよせながら筆を走らせる姿が思い浮かべられるようでチャーミングでさえある。

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2002/01/03

国文科の樋口一葉のテキスト

■正月、妻の実家を訪れたところ、学生時代に国文科で使っていたという一葉のテキストを発見。テキストらしく実に事細かな校註つきで日記が抄録されており、半井桃水が一葉を尾崎紅葉と引き合わせようとしたが浮名惜しさに一葉がそれを断る経緯が面白くついつい引き込まれた。まるでそれ自体ひとつの小説であるかのように自らの私小説を克明に写す日記に驚き。これは図書館で全集を借りてくるしかないか。

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小杉天外『初すがた』

■小杉天外『初すがた』(明治33年)読了。『魔風恋風』が通俗小説家としてのベストセラーなら、自然主義作家としての出世作はどうかと読んでみた(筑摩書房刊・明治文学全集65)。冒頭、延々とつづく演芸会のスケッチ風描写は「読者の感動すると否とは詩人の関する所では無い、詩人は、唯その空想したる物を在のままに写す可きのみである」(『はやり唄』「叙」より)の思想にそって、群衆の要所要所を会話中心に点描するスタイルが鮮やか。

この調子でと読み進めたところが後半は単に物語を語らんがための急速な場面転換となり、直接話法による会話の他はほとんどが人物の服装に関する描写のみで『魔風恋風』が顔をのぞかせている。物語自体は一葉『たけくらべ』の大人版といった面白みも何もないもの。天外のスタイルは風俗小説家としては無駄のないものなのかもしれないが『はやり唄』以降の全集は読む気がしなくなった。

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2001/12/15

樋口一葉『大つごもり』

■こういう本をいままで読まずに過ごしてきたかと思えばそのことがひどく悔やまれる。先日とある酒席で例によってウーロン茶を飲んでいた僕に「酒が飲めないんじゃどうやってストレス解消してるの」とたずねた人があったが確信をもって言おう。読書がストレス解消法だ。

ストレスを「抑圧」ととれば目には目をで酒なりニコチンなり別種の力を借りなければならないが、それは生活が仕事に従属しているためだ。そもそも仕事と生活はどちらが主従ということはなく二つの並行した世界である。だから仕事に疲れれば生活に逃げればよい。生活に倦めば仕事に逃げればよい。

僕にとって読書は生活の不可欠な一部であり、仕事のために生活がある人の言う「ストレス解消法」にあたる。このページで既に紋切り型になっている「酒の力を借りなければ本音の言えないサラリーマン」が活躍する年の瀬にふさわしい『大つごもり』という題名の作品で始まる角川文庫版『たけくらべ・にごりえ』こそ僕にこれまで読まないことを悔やませた本、「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の往来にはかり知られぬ全盛をうらなひて」とは、たしかに註でもなければ読む気も失せるが、読後感を言えば「まるで溝口健二の映画のよう」、改行も読点も鉤括弧もなく風景の描写も心理描写も会話も切れ目なくなめらかにつながっていながら流れの底からふつふつと人の情念が沸き出すような文体は溝口映画のカメラワークのよう、流れるべきところは流れ、光景の転じるべきところは残酷なほど一転し、『にごりえ』(五)にある主人公お力の心理描写は圧巻、物語の終末とあいまって『近松物語』を思い起こさせるその迫力は改めて一葉に触れる機会を与えてくれた高橋源一郎大センセイへの感謝の念を改めさせた。

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2001/11/17

国木田独歩『武蔵野』

■岩波文庫で国木田独歩『武蔵野』を読んだ。1冊の作品集のなかにも現代人が読んでもさほど違和感のない言文一致体と、どちらかといえば古文と呼びたくなる日本語が混在している。たとえば『忘れえぬ人々』から。

「『そこで僕は今夜のような晩に独り夜ふけて燈に向かっているとこの生の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催して来る。』」

他方『わかれ』では次のような感じ。

「『われ君を思い断たんともがきしはげに愚かの至りなりき。われ君を思うこといよいよ深くしてわれますます自ら欺かんとて企てぬ。』」

国木田独歩は高橋源一郎『日本文学盛衰史』を読んで手にとったのだが、表題作『武蔵野』を読むと今までこの日本語にふれなかったことが悔やまれる。日々あたりまえのように書いている(というより入力している)この日本語が明治の青年の、新しい書き言葉を生み出そうと言う胃壁から血の出るような努力の結果だということを、たまには再確認するのも悪くないだろう。

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