2008/05/22

医療支援で中国の要求優先は当然

中国に派遣された日本の国際緊急援助隊が、本来、被災現場での作業に適した人員なのに、成都の大病院内の医療活動に従事することになった。

この中国と日本の意向のすれ違いについて、日本のマスコミは中国を非難しているが、勘違いもいいところだ。

中国の支援のために行くのだから、現地の意向を優先させるのは当然ではないか。なぜ被災している中国側が、日本の意向に合わせる必要があるのか?

今回の件で中国を非難する日本人は「助けてやっているんだから、こっちの言うことを聞け」とでも言うのだろうか。この種の日本人は、やはり中国人を蔑視しているとしか言いようがない。

また、これは今朝のテレビ番組で江川紹子が珍しく良い事を言っていたのだが、AMDAという国際医療ボランティア組織があるらしい

このAMDAは、日本政府が今回の援助隊を派遣するより以前に、台湾の医療チームを現地に派遣していたというのだ。

中国の被災地で効果的な医療活動を迅速に行うなら、日本人ではなく、中国語が話せる台湾の医師を手配して派遣するのが合理的だ。その意味で、AMDAは日本政府よりもはるかに合理的で迅速な判断と活動を行ったことになる。

いずれにせよ、被災地に対する援助は被災地の要求を優先すべきことは言うまでもない。それを、まるで中国側が「わがまま」を言っているかのように非難する日本人や日本のマスコミは、思い上がりや見当違いもはなはだしい。

中国人のことを蔑視していながら、自分でそれに気づくことさえできない日本人は、まだたくさんいるのだと思うと、悲しい。

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2007/11/04

ドイツがアフガニスタンに作った女子学校

NHKの衛星放送で、今朝、世界のニュースを見ていたら、ドイツはアフガニスタンで女性の教育水準を高めるための女子学校の運営を支援しているらしい。


ドイツは一方でアフガニスタン北方のISAFの活動に派兵し、多数の死者を出しているが、他方で現地警察組織の強化や、この女子学校の例のような、長期的なアフガニスタンの安定に資する活動もしている。

アフガニスタン支援といえば、まるでインド洋の給油活動しかないような情報操作をしている日本の政府とはずいぶん方法論が違う。

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2006/09/12

英『エコノミスト』誌のおちゃめな記事

2006/09/07付け英『エコノミスト』誌にこんな皮肉たっぷりでおちゃめな記事が掲載されていた。

Fear of flying - Welcome aboard

導入部分だけ翻訳するとこうなる。「機内アナウンスは全部本当というわけではない。もし正直な機内アナウンスがあったら、どうなるだろうか?」

本来は全文訳出したいくらいだが、無断転載はできないのでそうもいかない。かなり笑えるので、頑張ってお読みいただきたい。ちなみに、途中に登場する「sudoku」は今そこそこ流行っている数字版クロスワードのようなゲーム「数独」のことだ。

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2006/03/28

短命ドラマ『西遊記』に見る薄れゆく中国の影

■今朝の日本経済新聞に「上海の事業拡大見通しやや陰り」という記事があり、森ビルが外資系企業347社に調査したところ、今後三年間、上海で事業拡大が続くという見方が、一年前に比べ縮小しているとのことだ。その理由の一つに「反日」デモも含まれているという。

小泉首相が頑固に靖国参拝を続けていることと、麻生外相が外相でありながら露骨な中国脅威論をことあるごとに傍白してくれているおかげで、すっかり中国と日本の関係は改善のきざしが見えない。それに比べると、台湾や韓国との関係の良好さが際立つ。

中国と日本の関係が改善しようがしまいが、僕個人にはどうでもいいことで、米国政府が中国脅威論を捨てない限り、日本が単独で中国との関係改善にのりだせるはずもない。

フジテレビが並々ならぬ力を入れて1月から放送を始めた『西遊記』も、あっさり1クールで放送終了になったようだ。この外交的な雰囲気では、誰も中国の昔話など観たくもない。草なぎ剛が韓国なら、香取信吾は中国てなぐあいで、フジテレビが広告会社と組んで、妙な使命感を抱いて「こんなときこそ」という思いで『西遊記』を復活させたのかもしれないが、完全にあてがはずれたということか。

NHKで放送されている『宮廷女官チャングムの誓い』がアニメ化までされてしまう(『少女チャングムの夢』)ほどの、相変わらずの韓流ブームとは天と地ほどの差がある。

僕自身、中国語の勉強を再開するか、韓国語/朝鮮語の勉強をやり直すか考えた末、韓国語の文法入門書を購入してしまった。年齢や結婚生活のせいもあるかもしれないが、フェイ・ウォンの新譜はここ2年くらい出ていない。女子十二楽坊の他に日本で目立って人気のある中国出身アーティストもいない。

女子フィギアスケートで日本の良きライバルになるのも韓国人の少女。国際野球やサッカーで韓国と日本の試合は話題になるが、中国の話題はまったくない。卓球選手・福永愛の中国での活躍も、他のスポーツに比べるとまったくと言っていいほど報道されない。

一般の日本人が日常的に触れる文化領域から、中国の影が確実に退いていっている。

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2006/03/23

右傾化しても左翼健在のフランス

■少し前のクーリエ・ジャポンに特集記事があったのだが、フランスは先進国中でも例外的に出生率が高く、2.0近い。その特集記事によれば、別にフランスの少子化対策が功を奏しているからではなく、子供を産まない女性に対する社会の風当たりが異常に強いためらしい。

要するにフランス社会は保守化しているようなのだ。僕が高校生のときに読んで、フランス現代思想を研究しようと思い立つきっかけになった『第二の性』で有名なシモーヌ・ド・ボーヴォワールを輩出したとは思えない保守化ぶり。もちろんもともとフランスは女性差別が根強く、だからこそ逆にボーヴォワールのような偉大なフェミニズム思想家を生み出したのだとも言えるのだが。

ただ、報道でもご存知のように、政府の新しい雇用政策に反対してフランス各地で大学生たちのデモが続いており、沈静化の気配がないらしい。来週には労働組合も含めてフランス全土でゼネストに突入しそうな勢いだという。こういう報道を耳にすると、フランス国内の政治は左右のバランスがとれていると感じる。政府は自ら右傾化を否定しなければならないほど右傾化しているが、激しいデモをやめる気配のない左翼学生たちも健在というわけだ。

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2006/02/12

日本に米国の「へたり牛」発覚を批判する資格があるか

■米国が日本向けに輸出した牛肉について、成田空港で危険部位の混入が発見された件(2006/01/20)、そして米国農務省監査局(OIG)の監査報告書で、歩行困難ないわゆる「へたり牛」20頭が原因不明のまま食肉処理されていた件(2006/02/08)について。

たしかに米国が日本との規制に違反し、しかも大統領や米国議会からそれを正当化するような発言が聞こえてきているのは許しがたい。また、日本国内には「米国と日本とでは食べ物についての考え方が根本的に違う、米国は食の安全性の管理について本当にいい加減だ」という意見も多くあるようだ。

ただ、成田空港で危険部位が見つかった直後の、いわば最悪のタイミングで、米国農務省の監査報告書がちゃんと「へたり牛」の食肉処理を公式に報告できている、その米国社会の制度的な透明性には、あきれる一方で、非常に驚かされる。

日本国内で安全性が問題になった事件といえば、2000/06の雪印乳業の低脂肪牛乳による集団食中毒、2001/10の雪印食品による牛肉偽装事件、最近ではヒューザーが販売したマンションの耐震強度偽装が真っ先に思い浮かぶ。

ご承知のように雪印食品の牛肉偽装事件は、雪印食品の取引先の内部告発でようやく明るみに出ており、マンションの耐震強度偽装も同じくイーホームズから国土交通省への情報提供から始まっており、こちらも内部告発である。雪印乳業の集団食中毒にいたっては、実際に被害者が出るまで明るみに出なかったという始末だ。

米国では農務省の監査制度がちゃんと機能しており、「へたり牛」の問題は内部告発や被害者が出る前に明らかになっている。それ以前の問題として米国国民はBSEのリスクを承知で国内(米国)産の牛肉を食べている。

それに対して実際に被害者が出たり、関係者からの内部告発があるまで、「食」や「住」など、国民の生命にかかわる問題が明るみに出ない日本のこの不透明さ、制度がまったく機能していない体たらくはいったい何だろうか。(地震大国の日本が建物の耐震強度を確保するための制度をまともに運用できていなかったのだから、なおさらだ)

もし僕が米国人なら、日本人の友人に対してこう言いたくなるだろう。「牛肉偽装や耐震強度偽装を内部告発でしか明るみに出せないような日本の方が、よほど国民の生命の安全について鈍感なのではないか」と。

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2005/01/15

日本のことは忘れてください、中村修二さん

■青色LED訴訟が総額8億4000万円の支払いで和解したが、中村修二氏の記者会見なりインタビュー記事なりを見るたびに違和感を禁じえない。氏の意見はまったくの正論だが、ある意見が正しいためには文脈が必要である。

全く同じ意見でも誰がその意見を言ったか、いつどこで言ったかなどの文脈によって、正しいか、正しくないか、どちらでもないかが決まる。中村氏の意見は地球人が「火星に水がないなんて許せない!」と言っているようにしか聞こえない。日本企業の集団主義を日本で嘆いても虚しい。中村氏のような突出した才能の持ち主は、正当に評価してもらえる米国のような環境で存分に活躍すればいい。捨てた日本に唾することはない。

中村氏が仮に日亜化学在籍時すでに自分の才能の開花を確信していたのなら、青色LEDを発明する前に渡米すべきだった。そうでないのなら才能が開花したのがたまたま自分の祖国であったことを恨むしかない。つまり自分が日本に生まれたことを恨むしかない。

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2004/11/07

新『セサミストリート』に完全に失望

■今朝、2004/10から放送が始まっている新しくなった『セサミストリート』(第5回放送)を初めて見た。NHKが放送していたときとはまたく内容が様変わりして、がっかりさせられた。ただ、今回NHKが放送できなくなったのは、NHKが日本語版の制作を拒否したからで、日本語版制作はこの番組の提供元である「セサミワークショップ」の考え方だからやむを得ない。このあたりについて詳しくは、All About Japanの『子育て事情』(ガイド:河崎 環氏)の「新生セサミストリート裏事情」をご参照頂きたい。

要点は同ワークショップの日本側のパートナーとして設立されたセサミストリート パートナーズ ジャパンの以下の言葉に表現されている。「新しく始まる日本の『セサミストリート』は、日本の子供たちを取り巻く環境を掘り下げて、日本の子供たちのために日本のスタッフの手によって制作されました。 単なる英語教育番組ではなく、子供たち一人ひとりが、自分とは違う何かや、初めてのことをおもしろいと感じることができる『多様性』を持てるように」ということだ。

しかし、新しい『セサミストリート』のどこに「多様性」を見出せるだろう。完全に日本語、副音声なし。最後の方に短い英語のフレーズを紹介するコーナーがあるだけ。しかも今日の放送分で紹介されたフレーズは「Tastes bad」だ。登場するのは日本人と白人のアメリカ人だけ。その他の人種は一切登場しない。しかも健常者ばかり。日本語にしても、一つのマペットが関西弁をしゃべっていた他は、全員、標準語。セットは米国版のようなダウンタウン風でもなく、どこにも実在しない清潔で無表情な書き割り。さて、いったいどこに「多様性」を見出せるのか。

僕らの世代は米国版のオリジナルを見ることで、日本と米国の差異をはっきりと感じとれた。登場人物の顔立ちや街並み、言葉がまったく日常生活でふれるものとは違う。英語が分からなくても、愛らしいしぐさから伝わるメッセージがあるから、マペットたちの存在意義があった。

日本語を話すマペットを登場させるくらいなら、『セサミストリート』という道具にたよらず、はじめから自力で日本人向けの子供番組を作ればいいではないか。NHK教育テレビがやっているように、日本人キャスト、日本人のデザインした着ぐるみで、日本の文化的背景にもとづいた、日本語による番組を作ればいいのだ。

『セサミストリート』が日本で教育番組として何か価値をもっていたとすれば、それは良くも悪くも、アメリカという国をのぞく窓だったからではないのか。アメリカに対する最初の違和感とあこがれを感じる媒体だったからではないのか。僕らはアメリカという異国を通じて、はじめて世界の「多様性」を学んだのではなかったのか。

そのあこがれや違和感をキレイにそぎ落とされてしまった『セサミストリート』に、いったいどんな存在理由があるのか。米国の「セサミワークショップ」は残念ながら『セサミストリート』という番組が日本国内で持っていた存在理由を、完全に誤解したようだ。その誤解にもとづいてNHKから放送権を剥奪し、間違ったパートナーに与えてしまった。これもやはり米国人一般の、国際感覚の欠如の一端だろう。

This morning I watched the new Japanese version of Sesame Street for the first time. Some months ago Sesame Workshop(SW), original provider of Sesame Street, took away the broadcasting right from NHK (only governmental broadcasting corporation in Japan like BBC in England) and gave it to a newly instituted group called Sesame Street Partners Japan(SSPJ) as an official partner of SW. The mission of SSPJ is to teach Japanese children 'diversity'. But the new Japanese version can never teach it. Everybody in the new Japanese version speaks standard Japanese, except for only one muppet speaking Western Japanese dialect. Only Japanese and white American appear. No black people, no Chinese, no Koreans, no people with different nationality appear. No differently-abled person appear. No English language, no German-accented English, no other languages are spoken. No American downtown street. There is just a nowhere set design with no characteristics. From this program, how can Japanese children learn 'diversity' of the world? When NHK still broadcasted American original Sesame Street, we as a child could learn at least the fact that America is quite different from Japan. The original Sesame Street was a kind of window through which we could watch how different the United States is from ourselves. The new Sesame Street in Japanese version has lost every good aspects the original one once had. Everything is Sesame Workshop's fault because it is SW itself that obliged NHK to produce Japanese version. NHK rightly refused it because NHK knows Sesame Street has raison-d'etre in Japan as long as its American original version is being broadcasted. SW, as an ordinary American who knows little about outside of the United States, couldn't understand NHK was right and gave the broadcasting right to a wrong Japanese partner, SSPJ. That's too bad. C'est domage...

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2004/10/10

ジャック・デリダの死

■フランスの現代思想家ジャック・デリダが死んだ。

と言ってもこのWebサイトの読者のうち何人が彼を知っているだろうか。いや、彼を知っているとはどういうことだろうか。確かに僕は彼の名前を知っているが、当然のことながら彼と面識があったわけではない。おまけにフランス現代思想を研究する人々の間では、僕が彼を「知っている」と言えるほど彼の署名のある書物を読んでいるわけではない。むしろほとんど読んでいないと言っていい。彼の署名のある書物よりも、彼についての書物をたくさん読んでいるほどだ。

それにもかかわらずジャック・デリダという名前は僕の学生時代を、そのようであったものたらしめた。僕が大学でフランス語を専門に学ぶ学科を志したのも、日本で一級のジャック・デリダ研究者である高橋哲哉氏が教えていたからだった。

そして入学後は、高橋氏によるジャック・デリダの『暴力と形而上学』のゼミにも参加していた。しかしその頃ようやくジャック・デリダが参照していたエドムント・フッサールの『イデーン』を読み始めたばかりという始末だった。僕がジャック・デリダを「知っている」というときは、それほど不十分な知り方だった。

それでもなお、ジャック・デリダの死は、僕の大学時代が、かつて僕にとって現前していたにもかかわらず、今となっては不在であることの隠喩であるかのように、ジャック・デリダがかつて僕にとって主題化されていたにもかかわらず、今となっては「赤の他人」であることを示している。

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2004/03/30

Japanese love small things

■Japanese love small things. Japanese love details. The quality of Japanese products and business procedures is realized by this love for details. If the top management stresses the big picture or the high-level direction too much, Japanese field workers or staff level employees will lose the motivation for loving details. This leads to the declining quality of products and business procedures. Probably this happens in many Japanese companies these days. Japanese management wrongly takes the way of big-picture-centrism instead of love for details.

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2004/03/23

A Japanese Company

■The news which are written in Japanese and can be obtained through Japanese news sources are not recognized by foreigners who can't read Japanese. But the global news sources are not interested at all in the uselessly bad news of trivial companies, for example, a company which repeatedly tries to conceal the defects of its products. How much the employees are demotivated by the harsh criticism of Japanese national newspapers. The foreigners never know it as long as they can't read Japanese language. This is one example of serious discrepancy between the recognition of reality of foreigners living in Japan and that of Japanese people.

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2004/03/01

ダイムラーが粉飾決算?

■独語の勉強をしていると面白い情報が入ってくる。某独経済誌のサイトに数年前米国の自動車会社と合併した高級車で有名な某自動車会社が其の米国会社の業績を良く見せるために粉飾決算をしているのではないかというとんでもない記事が昨日付けで掲載されており、当然同社はこの疑惑を完全否定しているとのことで、情報の元は日本語に訳すと鏡という名前の権威ある独左翼誌の報告だ。

同誌によれば今年度その米国会社の損失は実際には公表値より五割弱多い七百五千万欧州通貨だったとの事で粉飾の内容は二点、米国市場の自動車信用販売会社の回収見込の低い債権が関連会社へ転記されていた事と販促のための顧客に対する補助金が原価に算入されていなかった事らしい。

この二点で営業利益が二億四千四百万ユーロ改善しており、損失繰延は合法だが同米国会社は公表値より深い危機に有ることを示している。この経済誌は可なり信頼できる情報源なのだがこの記事に関しては眉唾だ。近日中に情報の元となっている鏡という名前の雑誌で詳報があると思われる故後日此処に引用したい。

と言いつつ独の検索サイトの最新ニュースで既に現地時間先週土曜日付けでその記事が掲載されているのを見つけたので紹介する。

同社が粉飾決算で米国会社の損失増加を阻止したのは明らかだという書き出しだ。それ以外上記と殆ど同じ内容で付け加える事は無いが、翌日の記事として同社社長の反論が掲載されている。全く通常の決算報告書であり粉飾は一切無いとのことだ。これだけしか今のところ情報が無い。

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2004/01/29

McDonald USA's Ignorance

■Since McDonald's in Japan was owned by the American parent company, they have ignored how McDonald's has been loved by Japanese consumers since its first appearance in Ginza in 70's. For Japanese people, McDonald's was the symbol of Westernized dietary culture. McDonald's was not just a place to eat effectively and efficiently but a place to enjoy an "American style" family life. This "American style" is not a real American life but pseudo-American style invented by Japanese management. We don't need the real American life. We just wanted to enjoy the virtual American life. Now the American management completely destroys this cultural aspect and wrongly focuses on the efficiency. For example, now they open the shops in the suburbs earlier in the morning. This means they don't know who are their customers. Their main customers in the suburbs are the families with the children younger than elementary school pupils because Japanese high school students tend to choose other burger shops. Another example, now I sometimes observe the stock-out. This means they don't know the difference of logistics between the US and Japan. In addition, they stop their own broadcasting services. Before the buyout, their shops had a large LDC screen in which the original television programs are broadcasted endlessly. Of course, no customer watched carefully this "Mac Vision". But it surely produced a comfortable atmosphere as if we watch TV at home. Now they stop "Mac Vision" and only the cheap background music is flowing out from the loudspeakers. I can understand the American management can save money by doing this. But we can't feel at home any more in McDonald's shops. Just looking at a few changes that happened recently, we can clearly understand the new American management of McDonald's never knows their Japanese customers while they focus on their stakeholders. I can predict they are losing their Japanese customers year by year. Other burger shops, such as Lotteria, Mos Burger, First Kitchen, will take their place. The American management in Japanese companies tends to be too self-confident, too impatient and not able to adapt themselves to Japanese context.

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2004/01/20

理性による介入は常に問題を解決するか?

■会社の組織の中で起こっていることのすべてを人間の意思の力でなんとかしようという欧米人の発想は、傍で見ていて涙ぐましく感じられる。

独立した意思を持った人間がたった数十人が集まっただけでも、人と人との間の相互作用が、表にあらわれるものも無言のかけひきも含めてどれだけ複雑になるかは、ゲーム理論などを援用するまでもなく想像もつかないほどなのだ。そのように組織の中で時々刻々と変化する人間どうしの相互作用を、一人の人間が介入して秩序だったものにしようとして成功するのは、ごく限られた場合だけであることはいうまでもない。

まして日本人と欧米人という、大きく異なった文化的背景をもつ社員が混在しているのだから、人間の介入によって組織内ではたらく力関係や考え方を変化させるのはきわめて難しい。ところが欧米人は、社員一人ひとりに定義されている役割と責任にしたがって、一人の担当者が、たとえばある規則を決めれば、他のすべての社員がいつかは必ずそれにしたがうようになると考えているのだ。

そして思ったように事が進まなければ、根気よくその規則の有効性を説得するというふうにして介入すれば、組織は最後には秩序立ったものになると考えている。人間の主体的な意思によって組織に影響を与えることができるという彼ら欧米人の信念は、日本人から見ると、あまりに素朴すぎる考え方だ。エゴサントリスムというのか、啓蒙主義というのか、主知主義というのか、呼び方はどうでもいいが、とにかく個人というものをあまりに信頼しすぎているのだ。

おそらくほとんどの日本人は、場合によっては組織の相互作用をそのままにしておいて自然のなりゆきにまかせた方がうまくいう場合もあるということを知っている。欧米人は、なりゆきにまかせることを無責任だと考えるようだ。

その証拠のひとつとして、先日とあるセミナーで欧米人の講師がコミュニケーションという主題について次のようなことを話していた。「コミュニケーションをしないということは不可能である。なぜなら、何も言わないことも何かを伝えることになってしまうから。だから言うことがなくても、何かを言うようにしよう」。

日本人だとぜったいこういう結論にはならず、「何も言わない方がいいときもある」となるだろう。自然にまかせるというのは別に無責任なことではなくて、少し前に流行った「複雑系」ではないけれども、一人の人間が意識的にコントロールできる範囲というのは限られていて、個人の能力の限界を知っているということなのだ。

ところが一般の欧米人はいまだにカント以前の時代を生きていて、一人の人間の理性の能力が無限だとでも考えているらしく、どこまでいっても理性的な判断にもとづく介入によってものごとを良くできると信じている。この素朴さは微笑ましくもあるし、涙が出そうでもある。この人たちはまだ合理主義の時代に生きているのだな、という具合に。

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2003/10/29

high context/low context論の決定的な間違い

■国民性と企業文化の差異が議論されるとき、日本人の組織は多くを語らず「あ・うん」の呼吸に代表されるように暗黙の意思疎通が基盤となっているのに対して、欧米の組織はできるだけすべてを言語化し書き下すという意思疎通が基盤となっている、ということが通説になっている。

コミュニケーションを研究する人々の間では、前者をhigh context、後者をlow contextと呼ぶようだが、確かに現象面だけ見れば日本人はhigh contextに違いないが、だからと言ってhigh contextが今後もずっと日本人には最適な意思疎通の方法だということにはならない。

実際、組織が処理すべき環境変動の数が増えて、通俗的に言えば「世の中が複雑になる」につれて日本的high context意思疎通はその弱点を露呈してくる。これまでhigh contextな意思疎通が機能してきたのは、日本企業の経営環境が安定的に成長しており、処理すべき環境の変動が市場シェアや経常利益など、一定数に限定されていたため、そもそも複雑な対象を伝える必要がなかったからではないか。つまり日本的な「あ・うん」の呼吸型の意思疎通は、安定した経営環境によって機能しているように見えるだけだったのだ。

例えばそれまで生え抜き社員がほとんどだった企業に中途採用者が増える、日本人社員ばかりだった企業に外国人社員が増えるなど、環境を大幅に複雑化する要因がつけ加わると、たちまち「あ・うん」の呼吸は機能しなくなる。

ところがこのとき問題が生じる。それまで「あ・うん」の呼吸で意思疎通できていた人々、少なくともそれが機能していたと信じている人々は、相変わらずhigh contextな意思疎通の有効性を信じて疑わない。上述のような国民性による意思疎通の差異についての通説が、このような人々の確信を補強する方向に働いてしまう。もはやhigh contextな意思疎通が機能していないことに気づくのは、残念ながら環境の複雑化要因になっている中途採用者や外国人だけになってしまうのだ。

だから「日本人はhigh context、欧米人はlow context」といった意思疎通の類型について語るのは、もうやめた方がいいと考える。いまだにhigh contextの意思疎通しかできない日本人たちに変化を怠る口実を与えるだけだからだ。

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2003/10/21

落胆した同僚の扱い方を知らない欧米人

■東電OL殺人事件の被告の無期懲役が確定してしまった。母国語の通じない日本で一人法廷闘争を闘ってきた被告は、果たして日本人と同等の弁護を受け、自分の意思を正確に伝えるための機会を与えられたのだろうか。佐野眞一のルポルタージュを読む限りでは、決定的な状況証拠などどこにも存在しないと僕は理解したのだが、おそらく司法は一介のノンフィクション作家のペンの力によってその権威が揺らぐのを恐れ、意地でも無期懲役を確定しようという意図を持ったのではないかと考える。もしも被告が白人だとしたら同じ結果になっただろうか。

■Western people don't seem to know how to deal with depressed colleagues. Let's think about the following example. One top management of a certain company declears to stop a project for some reasons. Among the project members, there was only one Japanese member who got angry with the top management decision and started persuading the top management to change his opinion. The other members, all Japanese, seemed to be depressed and demotivated since they felt as if they were told that all the efforts they made were in vain. One Western manager, who was project member and has just heard the news, came into the project room when the project members were discussing how to handle the top management's opinion. This Western manager immediately declared war against the top management by saying why we must stop this project while we had already come very close to the end, we should continue it, we can persuade the top management to change his opinion, I will discusss with him, etc... He continued talking very positively and aggresively. If you are a Japanese, you might be able to easily imagine what happened in that room. The Japanese member mentioned above immediately agreed with the Western manager and got motivated strongly for continuing the project. But all the other members got demotivated further by too positive and active attitude shown by the two persons. It was not the motivated Japanese project member but all the other depressed members that had to be motivated for continuing the project. However, the Western manager not only failed to motivate the depressed project members but also made things worse by demotivating the depressed members moreover. This Western manager proved that he can't motivate depressed colleagues in a meeting before. In that meeting, one female colleague clearly got nurvous because of a coming big conference where she has to prepare presentation materials. She even showed her depressed emotion by intentionally talking little. At that time the Western manager couldn't find any words to say for motivating her. Again, if you are a Japanese, you know how you should behave in order to motivate the depressed colleagues. The depressed people don't need soldiers. They need a priest to share their feeling (not thought) with. Firstly you must start saying, "I've heard you were told to stop this project. I felt very sad when I heard it. I'm very sorry that the top management said such a thing as if he neglected all the efforts we made so far. And I can understand how you felt now. I feel sorry just as you. But I think there might be room for negotiating with the top management to change his opinion." The first thing you must do is to express your sympathy for the depressed colleagues. It is very easy thing to do, isn't it? Sharing feelings, sympathizing with the depressed persons, that is one of the most basic social skills of human beings. There is no need to motivate the persons already in positive mood. It's easy to say you don't like people in negative mood. But in many cases it is not the motivated persons but those in negative mood that you have to motivate. When we talk about how to motivate people, we must not forget we are not talking about motivating motivated people but motivating demotivated people. When we motivate demotivated and depressed people, the first thing we have to do is not to share thoughts with them but to share feelings and emotions with them. If we don't start from sharing feelings and emotions, we will be able to motivate only a mere handful of persons in our organization. It would be an ethical issue if you couldn't deal with depressed people. If you were a human being, you would never be able to neglect the fact that your colleagues sometimes get depressed. We can say that those who look only on the bright side of life are ethically deficient.

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2003/10/15

異文化コミュニケーションは英語以前の問題

■先日の社内研修で昼食時に別の部署のベテラン社員が通訳の女性をつかまえて「うちの会社に対してどんなイメージを持ってますか」「友達との会話にうちの会社の話題が出てくることはありますか」など質問攻めにしていたが、僕も転職して間もない頃まったく同じことを同僚から尋ねられ、その通訳の女性とまったく同じように答えに窮した。

「うちの会社」に特定のイメージなど持っている日本人はおそらくほとんど存在しないのだ。社員が思うほど世間の人々は良い意味でも悪い意味でも「うちの会社」に注目などしていない。「うちの会社」の社員は、世間から体よく無視されているという現実を受け入れることから始めるべきだろう。潜在顧客に対する片思いでは利益を産み出せないのだ。

■高橋和巳の『わが解体』を読んでいる。「内ゲバ」「民青」、15年前のキャンパスでさえそこだけ時代に取り残された立て看板の角ばった文字が脳裏に浮かぶ。現代小説という風には読めない。

■人事関係のデリケートな話題を正確にドイツ人上司に伝えたいので、日本語のできるドイツ人に通訳を依頼している日本人管理職、機関銃のようにしゃべる米国人上司との会議で、理解が危うそうになったときだけ通訳をお願いしたいとその米国人上司の秘書にかけあっている別の日本人管理職。

前者は自分の言いたいことを、自分で理解しやすい日本語に置き換えるという作業をサボって、そのドイツ人に押し付けようとしている。自分の言いたいことというのは究極的には本人にしか分かるわけがないのだから、それを理解しやすい形に置き換えるのは本人の責任である。

本当はわかりやすい日本語に置き換えるという「日本語力」が欠如しているのに、それを英語力の欠如と勘違いして、言い換えの責任を日本語のできるドイツ人に転嫁してしまっている。何でも英語力のせいにする態度は、異文化環境でもっとも無責任な態度だろう。

後者の管理職は、理解が危うそうかどうかは自分自身にしか分からず、赤の他人である秘書になど分かるはずがないということを理解できていない。これも問題は英語力の欠如ではなく、自分の理解できない点をはっきり「理解できない」と相手の米国人に発言できないコミュニケーション能力の欠如であり、英語・日本語以前の問題だ。他にもドイツ人を交えた会議が首尾よくいかないことについても、それが英語の問題だと思い込んでいる。

いずれの例も日本人管理職は英語力の欠如という躓きに拘泥するあまり、本当の問題を見失ってしまっている。これまで日本人の上司と部下どうし、部下が本当に自分の意図を正確に理解しているかどうかを確認もせず言いっぱなしで仕事をしてきたツケが、異文化環境ではじめて回ってきたのだと言える。「あ・うん」の呼吸が成り立っていると思っているのは、実は上司の方だけだったのだ。

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2003/04/13

山本七平『空気の研究』と日本企業の国際化

■なぜか今ごろ(というようなことを言い出すと本を読むのに適当な時期があるのかという話になってしまうが)山本七平『空気の研究』(山本七平ライブラリー・文芸春秋社)を読み始めた。意思決定を「空気」や雰囲気のせいにしてしまう日本人の無責任さは、物神化を手段とする価値の絶対化にあるという明快な分析を読んで、真っ先に僕の頭に浮かんだのは日本企業の現場絶対主義である。「そんなきれいごとでは現場が動かない」「現場の声を知らないからそんなことが言えるのだ」などなど。

僕は会議でこれらの意見を聞くたびに、現場とは誰のことなのだと反論したくなるが、会議の「空気」がそうさせない。日本企業は「現場」を物神化し、絶対化してしまったのではないか。変革を言い出せないのは「現場」のせいだというが、「現場」は特定の人物のことではない。

福沢諭吉の啓蒙主義は日本における物神化・絶対化の問題(「神社のお札をふむと罰が当たる」など)そのものを批判によって解決しようとせず、単に否定しただけに終わったので、教育勅語や天皇の肖像など新たな物神化をもたらし、「空気」の支配を強化する結果になったという指摘は興味深い。結局、現代にいたるまで日本に相対化の思想は根付いていない。最近は「グローバリゼーション」が新たな「空気」になっているのではないか。

ただし僕個人は日本人が相対主義や批判をわがものとし、日本から「空気」を一掃できると考えるほど楽観的ではない。したがって「空気」を意図的に利用することも場合によっては必要だと考える。

というのは、日本企業の組織改革がときに個々の企業内の組織改革ではなく、まるで日本人そのものの改造を目指しているかのように見えることがあるからだ。より合理的で透明な経営判断が、より迅速に行われるように組織を改革すること自体は結構な話なのだが、その組織改革の議論が日本人論のような大げさなものになるのは馬鹿げている。

一私企業の組織改革に日本社会全体の改革が必要だなどと言い出した途端、組織改革は永久に到達できない目標になってしまう。むしろ既存の組織や経営体制を根本的に批判することはあきらめて(そんなこと十年やそこらで出来っこないのだから)、「グローバリゼーション」を物神化することでそれらをただただ否定するしかないのではないか。

日本人会社員がみな山本七平のようにユダヤ文化に造詣が深く、「空気」を相対化できるのであれば、「グローバリゼーション」の物神化はただ害悪をもたらすだけだが、所詮日本人は時代ごとに何かを強制的な「空気」として物神化・絶対化することでしか生きていけないのではないかと僕は考える。これは日常的に日本企業で西洋人と業務改善の仕事をしていることから帰納的に導き出される結論である。

西洋人は根本的で合理的な批判によって、日本人の「現場」や「実情」という言い訳を捨てさせることができると信じているのだが、それは「空気」といった物神化の文化を持たないが故の楽観主義だと考えざるを得ないのだ。

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2003/03/12

『ベルツの日記』

■それにしても職場にどんどん外国人が増えていく。なにしろ日本中の外国人が集まってきそうな勢いなのだ。そういうわけでもないが、この日記では毎度おなじみの明治文学全集で明治初期に来日したベルツ氏の日記を読んでいる。日本人の非生産的な仕事はまったく変わっていないことが分かる。ちなみに僕の職場の外国人が最近気に入っている日本語のフレーズは「Muda kaigi dou herasuka de mata kaigi」である。日本語教師も無駄な日本語を教えるものだ。ひとつテーブルに何十人も額を寄せて何も決まらないのが日本人の会議とは、明治の頃から決まっているらしい。

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2003/01/27

職場の西欧人との意思疎通の難しさ

■外国人スタッフと一緒に出張に行った帰り、早めに駅に着いたので、新幹線の指定席を早い時間の列車に換えてもらおうと、当人の代わりにみどりの窓口にならんだ。もし禁煙席がなかったらどうしようかと疑問に思ったので当人に尋ねたら、(1)禁煙席があれば禁煙席を予約する、(2)禁煙席がなければ喫煙席を予約した上で、(3)乗車してから禁煙の自由席の空席をさがす、こんなことは聞かなくても自分で考えればわかるはずだという意味のことを英語でまくし立てられた。

しかし僕がわざわざ当人に確認した理由は(4)列車を一本遅らせてでも禁煙の指定席に乗る、という第4の選択肢があるからだと当人に反論したところ、こんなド田舎の駅でどうやって時間をつぶすんだとさらに反論された。そんなこと尋ねるまで分からないではないか。

日本人の馬鹿さ加減がそんなにイライラするなら、自分でみどりの窓口に並んだらどうだ、と言いたくなったが、これが異文化コミュニケーションというものだと思って言葉をのんだ。きっと毎日オフィスに来ては、日本人は能率の悪いことばかりして物事が一向にはかどらない、まったく頭の悪い連中とは一緒にやってられないと思いながら仕事をしているんだろうなぁということが容易に読みとれた瞬間だった。いかなる場合であっても仕事上の関係しかない異国人とのコミュニケーションで本音を表現するのは危険である。Frankly speaking,... と話すのは飽くまでレトリックに留めておくのがよいだろう。

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「新モーレツ主義」のバカさ加減

■ところで今週の『日経ビジネス』は「もっと働け日本人~新モーレツ主義のススメ」だと。笑わせる。タイトルだけで馬鹿らしくて読む気がしない。同誌編集者諸子は一度西洋人と仕事をしてみるべきだ。西洋人の合理的思考の前に日本人はただ恥じ入るしかないのだ。

以前読者の方にご指摘頂いたとおり、西洋人はいかに仕事をしないかを徹底して合理的に考える。その合理性の徹底ぶりと比較すれば、日本人の仕事は半分が単なる時間つぶしである。日本電産の社長が何を言っているか知らないが、日本人に対して「もっと働け」というのは「もっと無駄な仕事をしろ」と言っているに等しい。いやしくも多少の権威のある経済誌を標榜するなら『日経ビジネス』は次のように正しく呼びかけるべきである。「もっと頭をつかって考えろ日本人~新合理主義のススメ」。

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2002/11/24

日本語の「出来る」の語源

■朝方NHK教育ラジオを聴いていたら民俗学入門のようなことを話していた。日本語に現れた日本人の思想というテーマで、「こんど結婚することになりました」「できる」の2例がひかれていた。結婚するのは当人たちの意思に違いないのに、まるで状況がそうさせでもしたかのような「~することになった」という言い方。そして本人の能力をあらわす言葉であるのに、「どこからか出て来る」という語源をもつ「出来る」。

いずれの日本語にも、非人称の存在のあらがい難い力という思想が根底にあるという。その非人称の存在は「世間」と言っても「空気」と言ってもいいだろう。職場で西洋人といっしょに仕事をすると、このように日本語そのものに織り込まれた、決して悪い意味ではない「無責任の思想」と戦わねばならないというわけだ。

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2002/11/08

誤解しつつも笑いあう外国人と日本人

■目の前で一人の壮年の外国人と同年代の一人の日本人が会話のふとしたことからどっと笑い出した。しかし僕はあいまいな頬笑みを顔に貼りつけて二人の様子を眺めているだけだ。なぜ笑いの輪に入れないのか。それは目の前の二人がまったく異なることをきっかけに笑い出しているのに、主に日本人側の英語力の不足が理由で、二人ともその事実に気づいていないためだ。

彼らは楽しみの感情を共有できているが、僕は真相を知っているがためにそこからはじき出されている。お互いに誤解していながら感情は共有している二人と、二人の誤解を完全に理解しているために感情を共有できない僕。このような場合、コミュニケーションを成立させているといえるのは、この二人なのだろうか、僕とこの二人のおのおのなのだろうか。

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2002/06/24

「韓日交流祭」展示の日本語誤植の多さ

■ちなみにK-POPのアーティストに関する日本語の情報としては、掲載アーティスト数と週間チャートやニュースなど最新情報の充実の点でこちらの『韓国情報発信基地!Innolife.net』が充実している。

■昨日分の日記で書き忘れたが「韓日交流祭」についてどうしても書いておかなければならないのは、展示に添えられた日本語のひどさである。漢字がすべて旧字体であるというのは、そもそも日本の現在の漢字は日本が勝手に作った省略体であるから仕方ないとしても、パンフレット類などわけのわからない誤植や落丁が多すぎる。

韓国で展示資料類を作成するときに日本語のネイティブチェックを行う日本人がいないのだろうか。普通日本企業が海外向け展示会に出展するときなどネイティブチェックは必須だと思うのだが。多少間違っていても通じるからという費用対効果を見越した手抜きなのだろうか。日本人の見学者としてあまり愉快でないことは確かだ。

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2002/06/23

「韓日交流祭 KOREA SUPER EXPO 2002」

BoAの日本語アルバムを通勤電車で毎日聴き、S.E.Sの韓国語アルバムを購入したばかりだからというわけではないが、幕張メッセで2002/06/19~23まで開催されていた「韓日交流祭 KOREA SUPER EXPO 2002」に行って来た。日本側の主催はNHKと朝日新聞社。

伝統文化の紹介ということで韓国の伝統的な婚礼の儀式を日本人の若い夫婦が新郎・新婦役で参加しておこなっていた。韓国人のおじさんが日本語で「新郎を表す色は『陽』の赤、新婦を表す色は『陰』の青」などの解説を差し挟みながら、来場客の取り巻きの中、なごやかな雰囲気で儀式は進んだ。

フィナーレとして韓国の音楽専門チャンネル「M.NET」(第一製糖という企業が出資する放送局)主催のコンサートが開かれた。ジャニーズの「嵐」を思わせる男性5人組アイドルグループ「BLACK BEAT」の歌唱力はかなりのものだったが、衣裳がマイケル・ジャクソンの『スリラー』そのままでいかにも時代錯誤だったのはご愛敬。しっとりバラードを聴かせる「隣愛」は五輪真弓『恋人よ』のカバーを歌った。現代風のスマートなアレンジに嫌みは無かったが、背後の大画面に流れていたプロモーションビデオは韓国風こってりメロドラマでこれもご愛敬。

コンサートの司会をつとめたのは日本でデビューして韓国で活躍している女性3人組の「TOYA」(トゥ・ヤ)。S.E.Sの二匹目のドジョウっぽいが歌唱力はそこそこ。日本デビュー曲を日本語で歌っていたが残念ながら僕は聴いたこともなかった。それから日本全国をライブで回っているということでTBSの何かの番組で取り上げられたという男性3人のラッパー「DRUNKEN TIGER」は他の出演者と違って気取りのないお兄ちゃんたちで聴衆を乗せるのがいちばんうまかった。

そして今回のFIFAワールドカップの開会式に出演したという実力派R&B女性シンガーPark JungHyun(ニックネームは「LENA PARK」)。確かに2曲目の『Desperado』で聴かせたフェイクの歌唱力は抜群だが、声質が幼く、背も小さく、容貌も中学生のように愛らしいのに無理やりブロンドに染めたソバージュとしっかりメイクで大人っぽく見せようとしているのがやや痛々しかった。あと、失礼ながら名前は忘れたが最初に登場した「セクシーお姉さん」歌手はベタベタのユーロビート。

一人だけ日本人アーティストとして元X-JapanのYoshikiプロデュースの「shiro」が登場したが、ステージ衣裳があまりに普通のカジュアル・ファッションで、ルックスも非常に地味。「スター」を絵に描いたような韓国陣との落差が激しかった。

内省的かつ自閉症的な日本人アーティストに比べて、K-POPのアーティストたちは、それぞれの曲は典型的なR&Bであったり、典型的なユーロビートであったり、典型的なラップであったりするが、聴衆に対するサービス精神旺盛でまさにエンターテインメントの王道を行っている。単純に楽しめた「KOREA SUPER EXPO 2002」」だったが3回目の今年で最終回とのこと。この文章に含まれる韓国人アーティストへのリンクをさがすのにどれだけ骨を折ったかを考えると、韓国大衆文化と日本の交流はまだまだなのだが、「KOREA SUPER EXPO」は一定の役割を果たしたと言うことだろうか。

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2002/06/01

翻訳なしに米国合理主義を持ち込む怠慢

■『アメリカの影』という題名にひかれたのには単に東浩紀が『郵便的不安たち』の中で加藤典洋と高橋哲哉の論争に言及していて、たまたま文庫本コーナーで見かけたからというだけではない理由がある。僕が勤務している会社で社内的に評価の高い30代の若手社員がどうして例外なくアングロサクソン的経営論を無批判に称揚してしまうのか、単なる疑問をこえて日々いらだちさえ感じているためだ。

とにかくその感染され具合は無邪気と言えるレベルである。英語ができないのに何とかマネージメントのカタカナ用語を振りかざし、それでベテラン社員に対して反論できているつもりでいる。アングロサクソンの経営論を超保守的な日本企業の職場で実践に応用するのは結構だが、最低限の努力として日本の文脈に翻訳しなおすくらいのことはすべきだ。翻訳なしに米国の合理主義的な経営論を保守的な日本企業に持ち込むのは怠慢である。

同じことは情報技術関係の各種イベント、展示会で日系のシステム構築会社の講演を聴いていても感じる。例によって自社の商品やサービスの前に「インターネット社会の到来」だの「ニューエコノミー」だのいろいろと能書きを垂れるわけだが、その能書きは米国の情報技術系サイトで読んだような内容の受け売り。日本の文脈に翻訳しなおす作業がここでもサボられている。どちらの例も自分の思考停止を露呈してしまっていることに羞恥心のかけらもないのだ。彼らはおそらく彼ら自身が称揚する合理主義によって自らが「リストラ」にでも遭わない限り、自分の無邪気さを改めて考え直すことはないだろう。

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2001/04/01

ロンドン旅行エッセーへの反響

■ロンドン旅行関連のエッセーについてさっそくたくさんの反響を頂いた。

ひとつは英国在住の読者の方から。英国の公共サービスの悪さについて左翼の政治家は民営化を批判したが、問題は民営化そのものではなく、業務を細切れに分社化してしまった民営化の手法にあるとのご指摘。その原因は労働組合の複雑な利害調整だろうとのこと。

いま先進諸国で労働組合は世界的に不人気なのだろうか。英『エコノミスト』誌はやはり「強すぎる労働組合」の問題を指摘しており、2001/03/17-03/23号でフランスと比較してドイツ経済成長の伸びが鈍っているのはあまりに労組寄りの政策で構造改革が進まないためだと明言している。この記事を読んだ後、ドイツで全産業を統一する巨大な労組が誕生したと日経で読んだ。

日本をふり返ってみても民主党が野党として国民の支持を集められないのは連合に縛られているためだとの論調が支配的。いちど会社の労組の関係で民主党候補の選挙事務所に駆り出されて「うぐいす嬢」ならぬ「うぐいす男」をやらされたことのある僕としては、やはり既成政党と癒着した労組という構図には良いイメージを抱けない。

おとなり韓国でもリストラに対する労組の過激な反対運動に断固たる姿勢を示す金大統領が欧米から一定の評価を得ている。この読者からのメールによれば英国は労働者の国。昨年末のFinancial Timesの統計によれば平均世帯収入は年収にして約400万円弱(日本は700万円前後)。それで物価水準は日本とほぼ同じなのだから「ゆりかごから墓場まで」の社会福祉サービスが充実している一方で、英国人がいかに慎ましやかな生活をしているか。

「New Labour」のブレア政権はそんな労働者たちを内側から改革しようとしているのだが...、とのこと。なるほど現地在住の方からのメールで説得力がある。2日間の滞在で僕が感じとったことは的はずれではなかったようだ。

それにしても夕方5時になったら残業もせずにスパッと帰宅する英国に対して日本経済がこれほど落ち込んでいるのはいかに日本のホワイトカラーが効率の悪い仕事をしているかということの証左ではないか。あるいは余計なことに時間と神経を使いすぎて、肝心の問題を迂回し続けていると言うべきか。一般的な日本人の関心の方向は完全に間違っている。

もう一人ロンドン在住の方から。イギリスでエスプレッソカフェが広まったのは本当にここ数年のことらしい。それまではマクドナルドとパブだけだったようだ。

僕がエッセーに書いたPRET-A-MANGER(プレタマンジェ。フランス語で「食べる用意ができた」の意味でpret-a-porter(高級既製服)をもじった店名)というカフェは日本進出するという話があるらしい。ドラッグストアのBootsはすでに進出を果たし、スーパーマーケット大手のTESCOも進出するらしい。

この読者は英国は日本でのイメージの良さで得しているだけだろうと英国流の皮肉たっぷり。確かにロンドンを旅行すると日本人はいったい何をあこがれているのだろうかと不思議に思う。やはりThe Beatlesとダイアナ妃が英国のすべてだと勘違いしているに違いない。

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2001/03/12

『L'EXPRESS』『Le Monde』のWebサイト

■近日中にパリに行くのでちょっとはフランス語を思い出そうとインターネットで『L'EXPRESS』と『Le Monde』のWebサイトを読んでいた。フランスはMiniTelのせいでインターネットの普及に取り残されているのではという先入観があったが、ちゃんとformat imprimable(プリントアウト用)のページがあったり英米系のサイトと遜色ない。

さてフランス語の方は辞書を引きながらやっと6割理解できるといったレベルで、維持しようと努力しない語学力は落ちるものだ。しかし日本の政局や経済政策についてきっちりした分析つきで掲載されているのには驚かされる。たとえば日本のメディアはフランス統一地方選挙のことをどれだけ取り上げているか。結局日本は米国のフィルタを通してしか世界を見ていないということだ。

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2001/02/20

高尾慶子『イギリス人はおかしい』

■近々生まれて初めてロンドンに行く予定なので文春文庫『イギリス人はおかしい』高尾慶子・著を読んだ。異国の地を踏む前にロンドンを讃えた本を読むのではなく、ロンドンをけなした本を読むというのは正しい選択だと思う。ロンドンに到着したときに幻滅するよりは「意外にいいじゃん」と思いたい。おそらくロンドンは効率の悪いイライラさせられる都市に違いないのだが、それを補ってあまりある美しさがあるはずなのだ。英国についてビートルズとダイアナ妃のイメージしかない方は必読の書だ。