サラリーマン

2009/10/16

見当違いの新型インフルエンザ対策

ついに僕の会社でも新型インフルエンザの患者が出た。

その後の感染拡大を予防する最優先対策として、全員にマスクをさせるというのは、どうなのだろうか?

その感染者をAさんとすると、Aさんは新型インフルエンザの潜伏期間中、マスクをせずに、ふつうに同僚と仕事をしていたわけだ。Aさんの周囲には、濃厚接触者がたくさんいることになる。

で、Aさんの感染がわかったのは、Aさんに発熱やせきなどの症状が出たからだ。

当然、Aさんの潜伏期間中、Aさんと濃厚接触した人の中には、すでに感染していて、潜伏期間に入っている人がいる。

潜伏期間は、せきの症状がないので、当然、飛沫感染よりも、接触感染を予防することの方が重要だ。

つまり、同じオフィスの中で、初めて感染者が出た場合は、その周囲に、すでに潜伏期間の感染者がいると仮定すべきである。

しかし、潜伏期間なので、外見上、誰が感染しているかわからない。

本当は、濃厚接触者に新型インフルエンザ検査を会社の費用で受けさせ、結果が出るまで自宅待機させるのがベストだが、業務がストップしてしまうので、そうも言ってられない。

誰が感染しているかわからない状態では、飛沫感染より、接触感染による感染を、まず防がなければいけない。

だとすれば、全員にマスクさせるよりも先に、オフィス・会議室の出入口やトイレへのアルコール消毒液の設置、オフィスや会議室などのドアノブの定期的な消毒など、接触感染の対策をやるべきだろう。

日本人のマスク好きは有名な話だが、これって結局、みんながマスクをしていれば、いかにも予防対策をしているように見えるという、アリバイ作りにしかならない。

同じオフィスの中で、全員がマスクをすることに意味があるのは、すでにせきを発症している感染者が、会社に黙って無理をして出社している場合、その感染者が出す飛沫を防ぐ場合だけだ。

でも、すでに発症している感染者が、会社に黙って無理して出社している時点で、接触感染のリスクが十分すぎるほど高まるので、全員がマスクをすることに感染拡大の予防効果はないと思うのだが。

こういう風に、論理的に考えれば簡単に正しい答えが出るようなことであっても、見当違いな方向へ行ってしまうのが、同調圧力が強く、「空気」が支配している日本の組織の特徴である。

今年(2009年)の春、一生懸命、空港での無意味な水際対策を指示していた厚労省も厚労省だが、接触感染のことを忘れて、みんなでマスクをして予防した「つもり」になっている民間企業も民間企業だという気がする。

もちろん、こんなことを会社の中で発言すると、不興を買うことが分かっている、賢明なサラリーマンである僕は、会社の指示どおりにマスクをしつつ、こまめに手洗いをしたり、できるだけドアノブに手を触れないようにしたり、接触感染の予防に秘かに取り組んでいる。

だって、インフルエンザにかかったら、のどがやられて、2か月はまともに歌を歌えなくなるんだもん。

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2009/06/03

人事評価面談のたびに、心の中で思うこと

人事評価の上司面談があるたびに思うことがある。

会社の人事評価制度が、いまだに「すべての社員が出世して管理職になりたがっている」ことを前提に組み立てられていることだ。

ときどき、面接相手の上司に、率直にたずねてみたくなる。

「毎日夜遅くまで仕事をさせられて、残業代もつかない、そんなあなたの様子を見て、部下たちがあなたのような管理職になりたいと思っているなどと思いますか?」

バブル崩壊以降、どの会社も社員数を抑えることで人件費の抑制につとめてきた。

その結果、「名ばかり管理職」による残業代の支払いを求める相次ぐ訴訟でもわかるように、いちばん損をしているのが管理職たちだ。

そんな管理職に、本気でなりたいと思いながら働いているサラリーマンは、もはや少数派ではないだろうか。

とくに僕ら1970年代生まれよりも若い世代は、ほとんどが、会社組織での出世よりも、自分の私生活が精神的に充実していることを望んでいるはずだ。

私生活を犠牲にしてまで、会社に「滅私奉公」したいと考えている若い世代は、どんどん少なくなっているはずだ。

会社を辞めさせられない程度に、適度に一生懸命仕事をしつつ、仕事と私生活のバランス、いわゆるワーク・ライフ・バランスを最も重視する若い社員は、これからも増えるだろう。

「将来、管理職として活躍できるだけのマネジメント能力やコミュニケーション能力を」などという人事評価コメントを読むにつけ、一般企業の人事部の感覚が、いかに時代錯誤であるかを痛感する。

高学歴だからって管理職になりたがっているとは限らないのだ。その紋切り型の古臭い考え方は、どうにかならないかな、と思ったりする。

まあでも仕方ないか。そもそもサラリーマンというのは、極めて保守的な人種だから。

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2008/12/01

社員持ち株会ほどバカらしいものはない

ぺ・ヨンジュンさんが所属プロダクションの親会社の株式を保有していて、金融危機で年初来10億円の損失になっているそうだ。

このニュースで思い出したが、「社員持ち株会」ほどバカらしいものはない。

資金運用の基本は「リスク分散」だ。同じカゴにすべての玉子を入れれば、そのカゴがひっくりかえると、すべての玉子が割れる。玉子はいくつかのカゴに分散すべきである。

「社員持ち株会」で勤務先の会社の株など買えば、自分の会社の業績が下がれば、賞与も下がるし、株価も下がる。

もちろん業績が上がれば、賞与も株価も上がるが、そんな風にリスクをとりたいなら、インサイダー取引規制で売買しづらい勤務先の株より、もっと他に買うべき株があるはずではないか。逆にリスクを分散したいなら、勤務先の株と逆の値動きをする銘柄を買うべきだ。

こんなこと少し考えれば分かる。既に上場している会社の場合、「社員持ち株会」など完全なナンセンスで、会社への安っぽい忠誠心以外の何物でもない。

年収の何十倍ものレバレッジを効かせて(銀行から数千万単位で借金して)、買った瞬間に価値が下がり続ける資産、つまり「持ち家」に投資するのと同じくらいナンセンスだ。

日本の一般的な会社員の生活は、高度経済成長以降の数十年間はこうした「常識」の上に成り立ってきた。

それは日本の株価が長期的には上昇し続け、不動産の資産価値も長期的には上昇し続けるという、2008年にはまったく当てはまらない前提条件があって、辛うじて成り立っていた「常識」にすぎない。

前提条件がすっかり変わってしまったのに、いまだに自分の親の世代と同じように「社員持ち株会」で自分の会社の株を買い、「持ち家」で家計の貸借対照表をふくらませることを「常識」だと勘違いし続けているようなレベルの会社員たちが、都市票を支えているのだから、こんな自民党総裁が生まれるのは当然といえば当然だ。

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2008/10/31

素朴な啓蒙主義者の喜劇的生き方

素朴な啓蒙主義者はかなり始末が悪い。自分だけは分かっている。周りは分かっていない。だから周りを教育してやらなければいけない。そう思い込んでいる。

結果、同調圧力の強い日本のサラリーマン社会では反発を招く。すると、正論を言うと受け入れられないと悲劇のヒーローを気どり、ますます素朴な啓蒙主義者としての立場にのめりこむ。

そのくせ、足元にあるやるべき小さな仕事はバカにしてやらない。ますます周囲の反発を招く。そして、そういった状況の全体を理解していない。自分は分かっている。悪いのは分かっていない他人だと思い続ける。

今、僕の身近にはこういう素朴な啓蒙主義者が一人いる。正直言ってはたから見ていると喜劇にしか見えない。

僕は幸い東京大学で、自分よりはるかに優秀な人間にたくさん出会って、「こいつらにはどうあがいてもかなわない」と思い知らされたので、自分だけが分かっていると思い込むほどバカではない。

その代わり、何も分からない、分かりっこないという相対主義に絶望するハメになる。

素朴な啓蒙主義で悲劇のヒーローぶるインテリ北米人的な生き方ができれば、確かに今よりは幸福かもしれない。

しかし、いったん素朴な啓蒙主義の向こう側へ、一線を踏み越えてしまった僕が、素朴な啓蒙主義にもどることは、脳が物理的なダメージでも受けない限り不可能なのだ。

一線を踏み越えたのは、望ましいことだったのか、望ましくないことだったのか。

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2008/10/12

実に下らない記事たち

この「愛と苦悩の日記」が昔と比べると批判性が薄れ、懐古趣味的になり、下らなくなって来ているのは分かっている。

十年前の僕のサラリーマン社会批判は、どちらかと言えばかなりナイーブな新自由主義の立場で、確かに成果主義批判などではそれを部分的に修正し、クルーグマンに心酔したあたりでは、リベラルに方向転換した。

しかし、日本社会が既に失ったもの全てが、まるでどれも取りもどす価値のないような考え方をとっており、現状を否定し、ただ前進あるのみ、という素朴さがあったことは確かだ。

ひとことで言えば、今の僕は、それに換わる思想の軸を見出しかねている。どこへ向かって歩けばいいのか分からない状態なのだ。

何とか宮台真司の思想に追随しようと考えているものの、本来は一定の距離を保って、宮台真司の思想を批判的に眺める立場を持っておく必要がある。

だが、その立場を仕入れる時間もお金もない。自分の収入を自分で自由に処分できない会社員というのは、あらゆる面でやる気を殺がれる実に下らない境遇だ。この下らなさに、自虐的にならずにいられるだろうか。

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2008/09/21

日本の組織は内部告発だのみ?


今回の事故米問題も、内部告発、厚生年金の標準報酬改ざんへの組織的関与も、内部告発で明らかになったようだ。

要するに日本は民間の組織も公的な組織も、通常の報告・意思決定の経路では不正をやめることができず、内部告発という「異常な」経路に頼らざるを得ないということだ。


考えてみればこれは絶望的な日本社会全体の機能不全と言える。おそらく日本中の民間・公的な組織に、同じように「やめられない不正」が隠れており、内部告発を待っているのだろう。

インターネット放送局「ビデオニュースドットコム」によれば、そもそも今回のニュースを伝えているメディア各社も、記者クラブ制度という一種の公然たる「自主言論統制」をしいていて、十年に一度くらい散発的に告発本が出版されるが、改善される気配がないとのことだ。

当然あなたの勤めている会社にも、内部告発がなければ正されない不正行為は小さなものから、大きなものまで、何か必ず起こっているはず。

そう考えると、日本社会って何なんだろうと思わずにいられない。

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2008/09/03

意思疎通の失敗を常に相手のせいにする困った人

残念ながら会社の中での人と人とのコミュニケーションというのは、伝える側が何の意図にかかわらず、受けた側がどう受け取ったかで成功か失敗かが決まってしまう。

皆さんも会社で、「いくら話しても上司が(部下が)分かってくれない」と愚痴をこぼしてばかりの人をよく見かけるだろうが、そういう人たちは、コミュニケーションの失敗を他人のせいにするのは、論理矛盾であることに気づいていない。

コミュニケーションの失敗の理由が常に相手の側にあるなら、コミュニケーションの成功の理由も常に相手の側にあるはずだ。

コミュニケーションの成功の理由が「常に」相手の側にあるということは、コミュニケーションがたまたま成功した相手については、コミュニケーションが始まる前から、相手が伝える側の意図を「必ず」正しく理解できると言っているのと同じことになる。

ところで、このように、コミュニケーションが始まる以前に、既に自分の意図を正しく理解してくれる相手が、仮にこの世に存在するとすれば、そういう相手とは、そもそもコミュニケーションの必要がなくなる。

このように、コミュニケーションの失敗を常に相手のせいにする人は、「コミュニケーションが成功する相手とはコミュニケーションが不要になる」という矛盾した考えを持っていることに自分で気づいていないのだ。

共通の理解があればコミュニケーションは不要である。誤解の可能性があるからこそ、コミュニケーションは必要とされ、コミュニケーションという事態が発生するのである。

コミュニケーションが一定の失敗の蓋然性を持つのは当然であり、失敗の理由は常に自分にあるわけでも、常に相手にあるわけでもない。失敗をコミュニケーションの両端に存在するどちらかの人に帰属させること自体に矛盾がある。

また、「共通の価値観を共有していなければ、コミュニケーションが成り立たない」という考え方も、矛盾した考え方である。

共通の価値観を共有できるという期待は、相手が自分の伝えたいことを「常に」理解してくれるという期待を言い換えたに過ぎない。

しかしこういう期待が、本当に客観的に妥当なものであれば、そもそもコミュニケーションするまでもなく、相手は自分の意図を理解していることになり、やはりコミュニケーション自体が不要になる。

コミュニケーションの失敗を常に他人のせいにする人は、以心伝心というありえない状況の実在を信じている神秘主義者か、実はコミュニケーションの必要性を否定している人間嫌いか、そのどちらかと考えて間違いない。

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2008/08/07

宮崎駿曰く「映画の奴隷になる」


一昨日の晩、NHKの宮崎駿の特別番組を見ていた。彼のアニメーション映画に対する決意として「映画の奴隷になる」という言葉が紹介されていた。

前天晚上我看了关于宫崎骏的特别电视节目。他表白了他对动漫电影的决心:我选择了当“电影的奴隶”。

個人的に宮崎氏のアニメーターとしての技術は天才的だと思うが、宮崎氏が作り出す物語にはさほど興味がない。それにしても奴隷になりたいと思えるだけの仕事を見つけた宮崎氏は幸福だ。

我个人觉得他是个天才动画家,不过对他做的故事没什么兴趣。可是我还是觉得他是个非常幸福的人,因为他找到了一个工作他希望它的“奴隶”。

サラリーマンの仕事など、奴隷になる価値がないばかりか、奴隷にする価値もない。単にお金を稼ぐための手段でしかない。すると、稼いだお金で何をするかが、サラリーマンが真剣に考えるべき唯一の問題ということになるが、時間をかけて考える価値があるほど、自由に使えるお金はない。

我这样工薪族的工作不仅不值得当它的奴隶,而且不值得让它我的奴隶。工作只是为了挣钱的手段而已,所以“用工资做什么?”是唯一工薪族应该考虑的问题。但我没有那么多钱我能随便动用。那么少钱不值得考虑怎么用。

結局、ただ毎日生きるだけ、ということになる。
说到底,我就不能发现特别的目的,只是生活下去而已。

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2008/07/24

飽くまで単純なサラリーマンの仕事

サラリーマンの仕事は、どこまで行っても僕の論理的思考能力の好奇心を満たすほど、論理的に複雑なものにならない。当たり前のことで、サラリーマンの仕事は飽くまで「わかりやすさ」重視。

学生時代、塾講師のアルバイトにやりがいを見出していたこともあるので、小難しいことを「わかりやすく」伝える仕事については、一定のやりがいを見出せる。

しかし、社内の制度設計や企画立案そのものは、論理的な難易度が低く、論理的思考力よりもむしろ、対人的な調整能力の方が重要、というより、調整能力が全てと言ってもいい。

利害関係の調整ほど、徒労感のある仕事もない。一つの会社の中での利害関係の調整は、ほとんどが、業務負荷の押し付け合いであり、どう「落としどころ」を見つけるかであるからだ。職務分掌が不明確な日本企業ならではの不毛な作業である。

ただ、そもそもサラリーマンの仕事にやりがいを見出せない人間にとって、一般的にぬる~い日本企業の社風は泳ぎやすい。欧米企業の社風は厳しすぎる。

ぬるさを選択するなら、不毛な利害調整も同時に選択するしかない。不毛な利害調整がイヤなら、実もふたもない欧米風の社風に適応するしかない。

やれやれ、という言葉しか出てこない。(珍しく非論理的な文体で申し訳ない)

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2008/06/06

耐え難く無意味な思い込み

サラリーマン生活では、なぜこんな単純な理屈も分からないのかというバカげた企画に延々と付き合わされることが多々ある。僕にとってサラリーマン生活で最も耐え難いことの一つだ。

例えば、あなたが、友だちの自宅の電話番号と、携帯電話の番号を知っていたとしよう。友だちは家族と一緒に暮らしているとする。

その友だちに確実に連絡を取りたければ、あなたは、まずどちらの番号にかけるか。当然、携帯電話の番号だろう。

次に、あなたが、取引先の担当者のダイヤルイン番号と、携帯電話の番号を知っていたとしよう。

その取引先の担当者に確実に連絡を取りたければ、あなたは、まずどちらの番号にかけるか。当然、携帯電話の番号だろう。

さらに、その取引先の電話が、ダイヤルインに掛かってきた電話を、担当者の携帯電話番号に自動転送する機能をもっていたとする。

ただし、この自動転送機能は、その担当者自身が、外出するとき忘れずに、ボタンを押してONにし、帰社したら、ボタンを押してOFFにする必要があるとする。

この条件で、その担当者に確実に連絡を取りたければ、あなたは、まずどちらの番号にかけるか。当然、ダイヤルインではなく、携帯電話番号だろう。

理由は説明するまでもない。携帯電話番号にかければ、100%その担当者の手元にある携帯電話が鳴る。しかし、ダイヤルイン番号にかけると、一定の確率で、その担当者が自動転送機能をONにし忘れていて、携帯電話に転送されない可能性があるからだ。

したがって、普通の知能のある人間なら、当然、まず携帯電話番号にかけるはずだ。

ところが、「こういう自動転送機能があれば、ほとんどの人間が、その担当者のダイヤルイン番号の方に、まずかけて来るようになる」と言い張る人物が、僕の身近にいるのだ。

唯一考えられる理由は、固定電話から発信している場合、電話料金が安くなることだ。例えば、3分20円が、50円になる。

しかし、仮に30分間話し続けても300円の差しかない。わずか300円のために、わざわざ、まずつながりにくいダイヤルイン番号にかけることを習慣にする愚か者がどこにいるか。

かくも無意味な思い込みに延々と付き合わされる身にもなって欲しい。どうすればこの無意味さから逃れられるだろうか。

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2008/05/31

船場吉兆の廃業は他人事か?

船場吉兆が意外にも廃業した。船場吉兆の主な客層である、金のためならコンプライアンスなど糞食らえの成金たちは、料理の使い回しなど意に介さないと思っていたが、どうやら自分たちの成金としての顔をつぶされたことに、いよいよ我慢ならなくなったらしい。

ただ、今日の日経朝刊「春秋」にもあったが、料理の使い回しが日本中の飲食店で、船場吉兆だけで行われていたと考えるのは不自然だ。

今回の問題で船場吉兆をからかうサラリーマンの皆さんだって、自分の会社がコンプライアンス上、100%問題ないと言い切る自信があるか?

サラリーマン社会だって、所詮、真面目にルールを守る者がバカを見る世界。出し抜いた者勝ち。最近はコンプライアンスがうるさく言われるが、それでも新日鉄の子会社が製品試験データねつ造でJIS表示認定を取り消されたり。

まぁ現実の世の中なんて、その程度のものだ。あまり多くを期待すべきでない。

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2008/05/24

労災自殺増は「モンスターカスタマー」のせい

厚労省によれば2007年度過労自殺は過去最多81人で、精神疾患の労災認定者の労働時間を調べたところ、月平均残業40時間未満も15%くらいいるらしい。先日の内閣府の「自殺対策に関する意識調査」では、30代の27.8%、20代の24.6%が、自殺を考えたことがあるという。(僕もその一人なわけだが)

過労自殺は最多81人=「労働時間短くても危険」

「自殺願望」、若い世代や不安定雇用層に顕著

サラリーマンに限って言えば、原因の一つは「モンスターカスタマー」ではないか。「顧客第一主義」と、そこから来る「品質第一主義」の行き過ぎで、企業担当者どうしで一種の「顧客による供給者いじめ」「ユーザによるベンダーいじめ」が常態化しているのではないか。

僕は日ごろ社内SEとして働いているが、同僚の働きぶりを見ていて、「何もそこまで業者に辛く当たらなくても」と思うことがよくある。もちろんその裏には、買う側として「良いものをできるだけ安く買う」必要性があるのは分かる。

しかし買い手と売り手の関係も基本は相互信頼だ。買う側が売る側をいじめ抜いたところで、それが長期的な高品質の提供に結びつくはずがない。よく言う「WIN-WIN」の関係を長期的に維持するには、買う側は高圧的に出るだけではなく、共同で良い物を作り上げていく姿勢が必要なはず。

購買部門の担当者には、仕入れ業者を「ゴミ」のように扱う社員が少なくないが、それが長期的な高品質の安定供給に結びつくとはとうてい考えられない。

そういう「モンスターカスタマー」の存在は、企業社会を構成する一人ひとりのサラリーマンを疲弊させるだけで、日本の経済に長期的に何一つ良いものを生み出さない。責任ある地位につきたくない社員を増やすだけだ。

それはちょうど、「モンスターペアレント」が日本の教育制度改善に、何も役立たないのと同じだ。

もちろん、言いたい放題の買い手である「モンスターカスタマー」を、あえて許容するような社会システムの設計もありうる。ただしそれには前提条件がある。それは、買い手と売り手の両方で、労働市場の流動性が高いことだ。つまり、転職が比較的容易なことが前提条件となる。

日本のように仕事のノウハウが属人的で、明文化されておらず、結果として一つの会社に長く勤めなければ一定の成果を上げられない企業文化が一般的だと、結果として労働力の流動性は低下する。そう簡単に転職を繰り返せない。

そんな日本の企業文化に、米国流のリバタリアニズム的な発想で、「買う側は言いたい放題」というやり方だけが輸入されれば、日本のサラリーマン全体が疲弊するのは当然だ。

企業社会を昔のような相互扶助的コミュニティーの方向に戻すのか、実もふたもない競争社会にする代わりに、仕事の属人性をなくして労働力の流動性を高めるのか、どちらかをはっきり選択すべきだ。

日本企業の経営者は今のところ、この2つの道のそれぞれから、悪い部分だけを取り出して実践している。日本の経営者の長期的な「テツガク」のなさがよくわかる。

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2008/04/02

映画の上映「自粛」に見る日本人サラリーマンの愚

日本もずいぶんひどい国になってしまったものだ。『靖国』という映画の上映を東京の映画館が次々「自粛」して中止しているそうだ。この映画の内容を議論することに、僕はまったく興味はない。

ただ「自粛」という形で、民主主義の基盤である言論の自由を軽々しく捨ててしまうほど、民度の低い日本人が増えてしまっていることに危機感を抱く。

プリンスホテルが裁判所の命令に従わなかった件でも、意外なほど多くの人々がホテル側に同情的だった。これでは迷惑行為で反対意見を封じ込めようとする政治団体の思う壺だ。

そうやって言論の自由の基礎を自らむしばむことで、自分で自分の首を絞めていることにさえ気づけない。そこまで愚かな大衆が増えているということだ。

衆愚は民主主義の副産物でもあり、だからこそ民主主義ドイツからナチス独裁が誕生したわけだが、歴史はくり返すということなのだろうか。

ただナチスが誕生した時代と背景が違っているのは、安易な「自粛」の背後に、誤解されたCSRがある点だ。

最近の民間企業はことあるごとに社会的責任(CSR)を安易に持ち出して、自分たちの行為を正当化する口実につかう。

今回の上映の「自粛」も、「上映すると特定の政治団体が映画館の周辺に押し寄せて近所に迷惑をかける。地域に対する社会的責任を果たすためには自粛せざるをえない」というわけだ。

プリンスホテルもCSRを口実に自分の行為を正当化できる。やはり個人情報保護法に対する病院などの過剰反応と同じく、いかにも日本人的な「事なかれ主義」が、CSRというグローバルスタンダードから、かっこうの口実を得ている構造になっている。

要するに、日本人は民度が低いので、CSRや個人情報保護法の本来の意味をまったく理解できていないのだ。

そもそもCSRや個人情報保護法は、憲法に定められた個人の基本的な権利を守るためのものである。

それなのに、日本の企業はそのCSRや個人情報保護法を、憲法に定められた個人の基本的な権利を侵害するための口実として利用してしまっている。

ひどいと言うのもバカらしいほど、ひどい状況だ。日本人サラリーマンは一人ひとりは腰抜けのクセに、企業という束になると、平気で個人の基本的人権を無視するようなことをしでかす。

会社帰りのサラリーマンが電車の中でふんぞりかえっているのも、組織の中で自分が持っている権限を、まるで一市民としての自分に与えられているかのように錯覚しているからだ。

仕事はあくまで市民として生活するための手段にすぎないのに、組織人としての自分こそ自分自身であるという、愚かしい思い込みをしているサラリーマンが多すぎるということだ。

今回、上映を「自粛」した映画館の関係者も、自分が所属する組織の理論でしか判断できず、自分が一市民であることを完全に忘れてしまっているようだ。

ひどい。あまりにひどすぎる。

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2008/03/17

サラリーマンに役所の「裏金」を批判する権利はあるか?

先日、日本テレビのニュース番組が、地方自治体の「裏金」問題を取り上げていた。同社のかんたんな電話調査だけで、31都道府県で計450億円以上の裏金の存在がわかった。しかもこれは都道府県庁だけ。市区町村は含まれていない。

記者が大阪市内のさまざまな区役所の「裏金担当」にインタビューすると、淡々と裏金の実物の札束や、使用記録の書類を見せる。職員の態度があまりに淡々として、まったく罪悪感が見られない点を、番組の中は驚くべきこととして取り上げていた。

もちろん裏金問題そのものは許されないことだが、果たして役所の中で代々裏金を引き継いできたメンタリティーは、民間企業にとって他人事といえるだろうか?

民間企業でも先輩から代々引き継がれている業務というものがあって、その中にはバレれば明らかに違法なものから、グレーゾーンのもの、まったく法的に問題ないものまでいろいろある。

明らかに違法な業務を、日常的に闇に葬る作業をしていない民間企業が、いったいどれくらいあるだろうか。

そういうことを指摘する人間を、水くさいヤツ、和を乱すヤツ、付き合いの悪いヤツとして排除するのが、役所や民間企業にかかわらず、日本の組織に広く見られるメンタリティーではないのか。

僕は過去7回転職し、8社経験しているが、少なくともそのうち4社で、違法と思われる業務が代々引き継がれていることを目撃している。明るみに出て、大々的に社会的制裁を受けたのは、このうち1社だけだ。

僕はこれまで、民間企業のダーティーな現場から比較的遠いところで働いてきたが、その僕でさえそうなのだから、大多数のサラリーマンは自分の会社で違法行為が隠ぺいされていることを知っている可能性がある。

街頭インタビューで「裏金は許せない」と義憤にかられているサラリーマンたちに言いたい。じゃああなたたちは罪を犯していないのかと。地方自治体の裏金問題を、他人事のように非難する権利があるのかと。偽善もはなはだしい。

以前から言っているように、僕は日本がそれほどきちんとした法治国家だとは考えていない。法的に正しいことが尊重される社会だとは思っていない。日本人の一般的な「民度」は低く、近代法のさまざまな原則をまだ理解できていないからだ。

捕まりさえしなければ、見つかりさえしなければ、法に触れることをやっても構わないというのは、日本人としてごく普通のメンタリティーではないかと思う。

市民の税金を「裏金」として使い込む公務員を、バッサリ切り捨てられるほど法的に正しい日本人がいったいどれくらいいるだろうか?

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2008/03/15

内部統制に関する11の誤解

最近、仕事でJ-SOX法にもとづいた内部統制の体制整備にかかわっているのだが、どうやら監査をする監査法人と、監査を受ける企業の間に、一般的に大きな認識のズレがあるようだ。

そこで、2008/03/11に金融庁から興味深い資料が発表された。「内部統制報告制度に関する11の誤解」という資料だ。

内部統制報告制度は2008/04/01から適用されるが、まだ社内の体制整備が終わっておらず、あせりにあせっている企業がたくさんあるようだ。しかしこの「11の誤解」によれば、3月決算の企業の場合、来年、2009/03/31時点の状況を2009/06/30までに報告すればいいとなっている。つまり、まだ1年間の余裕がある。

また、内部統制の整備状況に「重要な欠陥」があっても、それだけでは上場廃止や金融証券取引法違反の対象にはならない。(ただし内部統制報告書の重要な事項について虚偽の記載をした場合は罰則の対象となる)

それに、「重要な欠陥」があったとしても、3月決算の企業なら2009/03/31までに是正されていればいいし、是正されていなくても、来年2009/04/01以降の是正措置や、是正に向けての方針等が報告書に記載されていればいい。

つまり、内部統制もISOなどと同じPDCAの改善プロセスで、問題点はそのつど是正していくことが重要なのであって、「いついつまでに改善されていなければ上場廃止になる!!」などということは全くない。

さらに、この「11の誤解」には、監査法人やコンサルティング会社の開発したマニュアルやシステムを使う必要はないし、内部統制の整備・評価は、監査法人の言うとおりに行う必要はなく、経営者が主体的に判断するものだと書かれている。

また、どんなに小さくてもあらゆる業務でも内部統制の評価対象になるわけではなく、勘定科目を売上、売掛金、棚卸資産に限定するなど、評価範囲の絞込みができるとある。

そうすると、世の中に出回っている内部統制対応をうたったソフトウェア製品が、いかに「便乗商法」であるかがよくわかる。

まず社員一人ひとりのパソコンの操作や、ファイルサーバのファイルへのアクセス状況を記録するような仕組み、メールの送受信をすべて記録する仕組み、会計システムの全ての業務処理の流れをフロー図にするソフトウェアなどなど、こういったソフトウェア製品はすべて、内部統制の整備にまったく不必要な代物であることがわかる。

この「11の誤解」には、フローチャートの作成など、内部統制のために新たに特別な文書化等を行う必要はなく、企業の作成・使用している記録等を適宜利用できるとも書いてある。J-SOX法対応といえば、業務フロー図、業務記述書の作成は必須のように言われているが、金融庁の「11の誤解」という文書はそれをはっきり否定しているのだ。

以上、この「11の誤解」という資料を読んでいると、なんとなく金融庁の意図が透けて見えてくる。おそらく金融庁は遅ればせながら、内部統制の「過熱」ぶりに危機感を抱いたのではないかと思われる。

多くの企業が監査法人に言われるままに大量の文書を整備している状況を見て、「官製不況だ!」と非難されるのを恐れ、J-SOX法の施行直前の今ごろになってこの「11の誤解」を出してきたのではないか。

耐震偽装マンションが問題になった後、建築基準法が厳しい内容に改正されたために、住宅着工件数が減って、景気回復の足を引っ張る一つの原因になったのは記憶に新しい。そのため国土交通省は日本中から非難を浴びた。

個人情報保護法にしてもそうだ。こちらは施行からかなり時間がたっているが、入院病棟の表札を廃止したために人違い殺人が起こるなど、さまざまな弊害が出ている。

それらと同じように、金融庁はJ-SOX法は金融証券取引法の「改悪」だと、経済界の非難を浴びるのを恐れたのではないか。内部統制対応のために、多くの上場企業が社員に追加業務を強いて、その結果、間接的に企業業績に影響を与えることを恐れたのではないか。

しかし、もしそうだとすれば、金融庁はもっと早くこの文書を公表すべきだった。この文書を読んで、多くの上場企業の内部統制整備担当者は「こんなこと今ごろ言わないでよ」とグチっているに違いない。

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2008/03/01

最近サラリーマン社会批判を書かない理由

昔からの読者の方は、最近サラリーマン社会を客観的に批判する文章を全く書いていないことに不満をお感じかもしれない。しかしそれには理由がある。
也许我网站的老朋友们感到不满意。因为我最近一点都不写对公司职员世界的批判文章。可是有个理由。

過去にその種の記事を書いていることが同僚に見つかり、現実のサラリーマン生活に良くも悪くも影響を与えることがあった。僕はそのことを楽しんでもいたわけだが、そのようなやり方はあまりに稚拙だと考えるようになったのだ。
以前有时候我的同事们看到我的文章,结果在公司的现实生活受些我自己文章的影响。有的影响不错,有的不太好。其实我享受这种情况。不过我开始认为这个办法是太幼稚的。

最近のこのブログの記事を読めば、僕が単なる音楽好き、中国好きで、多少IT関係のことを気にかけているサラリーマンに見えるはずだ。しかし実際にはそうではない。
我最近的博客让你们觉得我只是个爱好音乐的人,一个喜欢中国的人或者一个关心IT方面的事情的职员。但我实在不是的。

じゃあそうではなくてどうなのか。最近は、そのネタばらしをしない方が遥かに面白いということに気づいてきているのだ。だからそのことについては一切書かない。一切書かないということによって、書かれていない何かを指し示すことは少なくともできるので、それで昔からの読者には納得して頂きたい。
那我是什么?最近我觉得不管写好答案有意思得太多。所以我绝对不写我实在是什么,绝对不写我实在考虑什么。我写了我觉得我绝对不写,结果我能指示实在有些没写的东西。请老读者们明白我的意思。

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2008/01/20

いまさら「バカの壁」の「バカ」について考える


2003年に養老孟司の『バカの壁』という本がベストセラーになった。伊東乾というユニークな経歴を持つ東京大学准教授が、日経ビジネスオンラインの連載コラム「常識の源流探訪」で「バカの壁」の意味をあらためて解説している。

要約すると、同じことを言われたとき、人それぞれ受けとり方が違いすぎて、その言われたことについてお互いの意思疎通さえ成立しない状況が、「バカの壁」がある状況ということだ。

この僕の解釈が正しいとして、養老孟司の「バカの壁」という言葉が正しく理解されづらく、おそらくベストセラーになった当時もほとんど正しく理解されずに終わったのは、「バカ」という言葉の含みが世代によって大きく違いからではないか。

養老孟司に近い世代では「野球バカ」や「法学バカ」のように、特定分野のことは熟知しているが、それ以外のことに疎い人間のことを「バカ」と呼ぶことがある。「バカ」というのは頭が悪いということではないのだ。特定分野で人なみはずれた素晴らしい才能をもっていることが前提になっている。

しかし若い世代は「バカ」という言葉を、ほとんどこの意味で使わない。単に頭が悪いという意味でしか使わないのだ。

以上のようなこと自体が「バカ」という言葉をめぐる「バカの壁」的状況になっているが、結局、養老孟司の日本社会に対する批判は、日本社会を変えることにまったく成功していない。

日本社会はかえって同調圧力が強まり、空気を読む力を重視する方向へ進んでいる。「バカの壁」を自覚するには、「バカの壁」を俯瞰する力、自分とはまったく違う考え方があることを理解する「批判」の力がまず必要だ。

しかし空気を読む力が優先されると、人々は「バカの壁」の内部の均質な空間をいかに維持するか、いかに場を保つかに腐心する。製紙業界の業界ぐるみの古紙配合率偽装もその一つの現れだろう。

なぜ日本は「個性重視」と一時期あれだけうるさく言っておきながら、かえって「みんな仲良く」の方向へ、「空気を読め」の方向へ突き進んでしまったのか。

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2008/01/13

松下電器・中村邦夫会長いわく「私は残業をした覚えがあまりないんですよ」

僕はすでに7回転職して8社目に勤めている。仕事の内容は一貫して社内情報システムの企画・運用で変わりない。おかげで普通の会社員よりは様々な社風の企業を内側から観察できている。

ただどの会社でも、残業や休日出勤を厭わないモーレツ型の社員の方はいまだにたくさんいらっしゃる。人員削減でやむを得ず多忙を極めている方もいらっしゃるが、自ら仕事を増やすこと自体にやりがいを感じているように見える方もいらっしゃる。

人それぞれの価値観なので、何が良い悪いという問題ではないが、そういう方々と同じ職場で仕事をしていると、あまり残業をせずに帰ること自体、悪いことをしているような気分になってきて、正直、僕のような「業務効率第一」という考え方のサラリーマンにとっては働きづらい。

意味もなく心の中で「僕は仕事のために生活をしているのではなく、生活のために仕事をしているんだ。仕事は生活の手段にすぎず、仕事のために生活を犠牲にするのは本末転倒だ」と言い聞かせるしかない。

今朝の日本経済新聞11面に松下電器産業の中村邦夫会長の興味深い言葉が載っていた。

中村会長は「自慢するような話ではありませんが、私は残業をした覚えがあまりないんですよ」「自分の時間まで切り売りすることはないでしょう」と語っているらしい。僕のような人間にとっては心強い限りだ。

自分がいったい何のために仕事をしているのか、そして、自分の仕事に対する考え方が原因で、周囲で働く人たちの生活にまで影響を与えるようなことをしていないか。

人間的に仕事をするとはどういうことか。古くて新しい問題だ。

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2008/01/12

日本企業の陥っている「相対主義の罠」

会社員生活を続けていると、日本の会社組織全体が相対主義の罠のようなものにはまっていることが分かる。

日本の高度経済成長の原動力が、決して技術革新ではなく、単なる長時間労働による労働集約だったというのは定説になっているようだが、今の日本企業がもはや労働集約で成長できないのも明白だ。

高度経済成長期はカリスマ経営者の方針を、全従業員が絶対的に正しいと「信仰」しさえすれば成長を実現できた。もちろん今でもベンチャー企業の創業期などはこの原則があてはまる。

しかし一定の規模になった現代の企業が、経営者への無批判な「信仰」によって正しい経営判断をし続けることができるという考え方は、端的に誤りだ。

逆に、経営者の判断をいかに複数の観点から批判的に検討し、相対化できるか。会社組織として正しい経営判断を下し続けるには、このような複数の観点からのチェックが必要になる。

ところが日本の組織人には、複数の観点があることを認め合って、お互い論理的に批判しあう伝統もなければ、能力もない。日本人は幼稚園のときからずっと「みんな仲良く」的な教育しか受けたことがないので、相互批判によって、できるだけ正しい判断に近づけていくということをする能力がそもそも欠けている。

その結果、現代の日本企業は「相対主義の罠」にはまってしまう。

僕の言う「相対主義の罠」とは、現代の企業が、トップの判断さえ相対化しなければならない環境になったために、かえって会社組織が公式的にはトップの判断を妄信してしまうという皮肉のことだ。

従業員全員が、トップの判断さえ絶対ではないことを既にわかっている。ところが日本人にはお互いを批判をしあうことで、少しでも正しい方針を練り上げていく能力がない。

するとそこに発生するのは不毛な「空気の読み合い」だ。もっともありがちな結末は、「偉い人」の機嫌を損ねないように、「偉い人」がたとえトンチンカンなことを言っていても、うわべはそれに従うという態度が組織に蔓延するという結果である。

しかし一人の人間として、自分が間違っていると思う意見に従い続けるのは精神的に限界がある。すると組織の外部での「内部告発合戦」が始まる。

仮にそうした組織の外部でのタレコミ合戦のような場所で垂れ流される意見を、会社組織が適切にすくい上げる機能をもっていれば(かつては労働組合がその役割を果たしていたはずなのだが)、日本企業は自分たちのおかれている相対主義(=何が絶対に正しいのか誰もわからない)という環境を、もっとうまく泳いでいけるはずである。

ところが現代の日本企業のトップは、高度経済成長下の「カリスマ妄信」が有効だった時代に社会人になった人たちが多く、こうした「相対主義の罠」をまったく理解できていない。

それどころか日本企業のトップの中には、某居酒屋チェーンの社長や、球団を持っている某信販会社グループのCEOのように、若い頃の「カリスマ妄信」の発想を引きずったまま、妄信する相手をリバタリアニズムに置き換えるという愚行に陥って、その自覚がないという、最も始末の悪いことになっている。

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2007/11/12

経営者のみなさん、全部、現場のせいにしましょう

赤福餅に続いて、大阪の船場吉兆の賞味・消費期限偽装と産地偽装。社長は「農水省の調査で初めて知った」と強調し、すべて現場や課長以下が独断でやったことだと言い張っているらしい。

そんな言い逃れが通用するわけがないのだが、ある意味、正しいのかもしれない。経営者はこの手の不祥事があったら、どんどん「現場が勝手にやったことだ」と言い逃れしてみてはどうだろうか。

というのは、まだ不祥事がバレていない現場の社員たちはカチンと来て、「どうせうちの会社の経営陣も言い逃れするんだろう。完璧、裏切られた感じ。そんな会社ならいっそのこと内部告発しちゃえ!」となって、どんどん内部告発が出てくるはずだからだ。

経営者のみなさんは、下手に現場をかばうことなく、全部、現場のせいにしましょう。

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2007/11/05

内部告発さえ横並びのサラリーマン

東洋ゴムも耐熱版の認定試験に偽造のサンプルを使っていたらしい。へーベルハウスの健在メーカ、ニチアスが内部告発で偽装を隠し切れなくなった事件に続いてだ。

時事通信によれば、昨年3月に社内調査で不正が発覚したが、担当幹部レベルで隠ぺい、ニチアスの偽装報道がきっかけで社長も不正を知るところとなり、国交省に報告したらしい。

東洋ゴムの社長がこのタイミングで、初めて不正を知ったのが本当だとすれば、おそらく担当幹部より下層レベルの現場社員からの内部告発ではないかと思われる。

ニチアスの偽装が発覚しなければ、東洋ゴムの偽装も発覚しなかったことになる。逆に言えば、東洋ゴムの社員は、ニチアスの偽装に勇気づけられなければ、内部告発のひとつさえできなかったということだ。

サラリーマンなんて、こんなもんである。

菓子メーカーの一連の事件を見てもわかるように、内発的な正義感からなされるべき内部告発でさえ、「みんなで渡れば恐くない」という横並び意識からしかできないのだ。

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2007/10/22

無数の不正の上に成り立っている日本の企業社会

赤福の組織的な賞味期限改ざんや売れ残り製品の再利用は、3年前、すでに内部告発があったようだ。おそらく今回、大きな事件になったのも内部告発によるものだろう。

今日も新たな事実が明らかになり、賞味期限の末尾に「暗号」をつけて、その商品が売れ残りを再包装したものであるなどの状態を手順書にして管理していたそうだ。それでも愚かな社長は、不正は会社ぐるみではなく、経営陣の関与を否定している。

誰がどう考えたって、不正を認識しながら放置している時点で、経営陣の責任は十分問える。にもかかわらず記者会見で、営業の再開こそわれわれの使命だと言い切っていしまう社長の盲目さ加減。

客観的に自分がどう評価されているのかについて、ここまで鈍感な社長だからこそ、平気で組織的な不正を放置できたのだろう。

しかしいわゆる老舗や、オーナー色の強い会社組織が、外部の視点から自分の組織を相対化することはかなり難しいのだろう。そのような組織では、経営陣の権力が業績の維持以外の理由で正当化され、絶対的なものになりがちだ。

そうすると、従業員は経営陣に対して合理的に反論する機会を失い、違法な手段をつかってでも経営陣の指示を実現するしか道がなくなる。何としても利益を出せと言われれば、売れ残りの商品を再利用してしまうのだ。

ただ、不二家、「白い恋人」、赤福は氷山の一角であることを忘れてはいけない。

僕のような凡庸なサラリーマンでさえ、過去に在籍した企業で、組織的な不正の片棒を担いでいたくらいだから(こんなことを書くと「交通事故」を偽装して殺されそうだが)、内部告発のネタを持っていない会社員は、そう多くないはずだ。

日本社会はそういう隠された無数の不正の上に、まあなんとか成り立っているということを忘れてはいけない。

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2007/08/16

石屋製菓社員はなぜ内部告発を決意したか

今日のニュースによれば、北海道の石屋製菓の賞味期限改ざんは過去10年間にわたって行われ、社長も把握していたらしい。僕の興味を引くのは、10年にもわたって首尾よく隠蔽されてきたことが、なぜ今になってバレてしまったのか、ということだ。

2007/08/14付け毎日新聞の記事によれば、2007/06下旬に社員と思われる関係者から、「白い恋人」の賞味期限改ざんについて、石屋製菓のホームページに内部告発があったというが、「白い恋人」件については社長も10年間認識していたのだから、この内部告発がきっかけになったとは言い難い。

北海道新聞の2007/08/15付け記事によれば、「一連の問題は八月九日以降、数回にわたって同保健所に電話で同社の従業員を名乗る人から内部告発があり、発覚した」とあり、これが発覚のきっかけになったようだ。

しかしさらに考えると、10年来、全社的に行われてきた賞味期限の改ざんが、なぜ2007/08/09以降、突如として内部告発されるに至ったのか、その理由がよくわからない。

一つ考えられるのは、賞味期限改ざんはまだ許せたが、商品から大腸菌やブドウ球菌が検出されたことを隠蔽することには耐えられない社員がいた、ということだ。大腸菌やブドウ球菌は、消費者の生命に直接かかわるおそれがある。賞味期限の改ざんとは重大性が一段異なる。そう考えた社員がいてもおかしくない。

ただ、商品から大腸菌群が検出されたにもかかわらず、同社が保健所に届けず、こっそり廃棄処分にし始めたのは2007/07上旬からで、そこから1か月もたっている。内部告発した社員は、1か月間、告発すべきか否か葛藤していたということだろうか。

1か月の葛藤の期間は、会社に対する忠誠心の高い社員ならあり得るかもしれない。その社員は、賞味期限改ざんについては既に知りながら内部告発を避けてきたくらいだから、かなり忠誠心が高かったに違いない。

内部告発で不正が明るみに出た石屋製菓のような事例は、まだ救われていると言える。僕には同社のような不正は氷山の一角で、日本国内の民間企業には、内部告発されないまま眠っている無数の不正行為が、ひそかに横たわっている気がしてならない。

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2007/07/10

「大企業人」と中堅企業の情報システム部

ここ数年、僕は社員数百名の中堅企業で、社内情報システム部門の責任者として働いていた。入社当初からの最大の使命は、まともに機能する情報システム部をつくることだった。というのは、それまで情報システム部自体が存在しなかったからだ。

情報システム部が10人に満たないような会社の場合、部内をはっきり役割分担しても、部全体としての生産性は向上しない。むしろ個々の部員が高度な技術力をもち、自律した技術者として、いかに現場の要求に迅速かつ的確にこたえられるかが重要だ。

ただ、僕もそうだが、大企業の情報システム部門で長く働いた経験があると、どうしても大企業の整然とした組織や業務を、そのまま中堅企業に持ちこんでしまう。

そういう中途採用者のことを、最近公開された松本人志の映画にひっかけて(別にひっかける必要は全くないのだが)「大企業人」と呼ぶことにする。僕もかつては「大企業人」だった。

ところで、大企業の情報システム部門で整然とした組織や業務が成り立つのは、全社の組織や業務があるていど整理されているからだ。中堅企業で情報システム部をはじめとする管理部門だけが、組織や業務の整理を目指しても、現業部門の組織や業務が追随しなければ効果はない。

また、組織や業務を整理すること自体にコストがかかることを忘れてはいけない。どこまで部内の組織や業務を整理するかは、あくまで費用対効果を考えた上でのことだ。

たとえば、業務システムの仕様書が整備されていないとする。追加の費用をかけて文書を整備するよりも、未整備の仕様書からシステムの機能を読みとって業務の要求を満たす方が優先順位は高い。仕様書が未整備のままでは業務システムの保守・運用などできない、というのは「大企業人」の発想だ。

また、他部署からくる情報が未整備な場合に、他部署を非難するのも「大企業人」の発想だ。中堅企業では、まず、なぜ情報が未整備なのか原因を調査し、情報システム部としてIT活用策が提案できないかを検討する方が優先順位は高い。

個人的な例では、人事部からとどく社員の入社日が、1日、16日などに統一されず、月中にばらつくため、情報システム部としてユーザ登録などが煩雑になるという問題があった。

人事業務もたった2~3人でまわしているような中堅企業では、「大企業人」的に人事部を非難しても意味がない。まず原因を調査してみたところ、ある事業部の派遣・契約社員比率が8割以上だとわかった。

人手不足の折、派遣会社に「着任を16日まで待ってほしい」などと言えば他の企業に人材をとられるし、1日でも早く入社したい契約社員の入社日を会社の都合で遅らせるなど、労働者に不利益なことを企業が強要するのは難しい。

このように、入社日がばらつくのには妥当な理由があった。その事業部で正社員を雇用しないのが経営方針である以上、IT活用策も打てない。

もちろん中期的には、費用をかけてでも全社で組織や業務の整備を進める必要がある。しかし、情報システム部門の責任者は、短期的には既存の経営資源の制約のなかで、優先順位の高い対応をとるべきだ。

中堅企業が大企業のようではないことに文句をつけるのは、部員の士気低下にもつながり、非生産的だ。

日本版SOX法対応など、組織や業務の整理に全社で取り組む場合でも、部門の責任者は、既存の経営資源の制約を前提とした短期的な意思決定と、その制約自体の変更をふくむ中期的な意思決定を使いわける必要がある。

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2007/07/05

ワタミ社長の教育委員会についての自己満足的暴論

先週につづいてワタミ社長・渡邉美樹氏が日経ビジネス・オンラインに連載している『もう、国には頼らない』にツッコミを入れてみたい。ひとことで言えば、「社会のことが見えていないのは、渡邉さん、あなたの方ですよ」というツッコミだ。

渡邉美樹氏は、神奈川県の教育委員会が、一般市民による公教育のチェックという本来の機能を失い、教師側の利害をまもる機関になってしまっていると非難している。そして、自分が神奈川県の教育委員会で「ひと暴れ」する様子を誇らしく書いている。

まず、渡邉美樹氏の議論の明らかな問題点の一つは、神奈川県の教育委員会の「堕落」を、すべての教育委員会の問題として一般化してしまっていることだ。このような一般化は、他の都道府県の教育委員会の状況を調査してから書くべきだろう。メディアでたびたび公的な発言をする人物としてはあまりに不用意だ。

しかし、ここで指摘したいのは渡邉美樹氏の議論の、より根本的な問題点だ。

たしかに渡邉美樹氏の言うように、神奈川県の教育委員会は本来の機能をはたしていないかもしれない。ただ、それに対して、「本来の機能を果たしていないだろ!」と「ひと暴れ」することは、人並みの正義感と論理的思考力と時間があれば誰にでもできる。

渡邉美樹氏は自己満足的な「ひと暴れ」をする前に、もう一歩ふみこんで考えるべきなのだ。なぜ教育委員会は本来の機能をはたさなくなったのか、と。

渡邉美樹氏のいうように、教育委員会という制度ができた当初は、一般市民による公教育のチェックという機能をはたしていたと仮定しよう。ならば、どうしてその機能が失われてしまったのか。その理由は何なのか。

そこが説明できないかぎり、渡邉美樹氏がいくら暴れても、氏が委員を退任すれば教育委員会はもとにもどってしまう。

自分が辞めても、残された組織が適切に機能しつづけるようにするという観点が、渡邉美樹氏には欠けているようだ。まあこれは、創業者社長によくある典型的な限界なのでしかたないが、いやしくもじっさいに委員として公的な発言をするなら、もっと自分自身の思考の限界を自覚すべきだろう。

ちょっと議論が脱線した。では教育委員会はなぜ本来の機能をはたさなくなったのだろう。その理由について、渡邉美樹氏はこう書いている。

「では、なぜその教育委員会がうまく動かなくなったのか。委員会のメンバーを見ると原因が見えてきます。とにかく教育関係者に偏りすぎなのです。大学の先生、地域の校長先生やその候補者、教師OB、それ以外だと地元の名士、有力者というのが、一般的なメンバー構成です。議論の前提が、既存の学校や教師の権益をいかに守るか、となってしまうのも当然です。」

そして渡邉美樹氏はその対策として、つぎのように書いている。

「教育界以外の民間人の方、当たり前の社会通念や常識を備えた、さまざまな立場の人が集まって、わが市町村、都道府県でそれぞれの独自性を持った教育カリキュラムを組みましょう。地域、地域の特色性を持ちましょう。子どもたちに良い教育をしましょう。」

とても単純な二項対立の図式だ。教育関係者=悪、民間人=善。言うまでもなく渡邉美樹氏のこのような二項対立の図式は完全にまちがっている。

なぜ、教育委員会が教育関係者(ところで教育関係者は「民間人」ではないのだろか?)にかたよる結果になったのか。それは、民間人が教育委員会のような制度に関心がないか、自分自身のことに忙しくて、関心があっても参加する時間がないからだろう。

ではなぜ「民間人」は公的な制度にこれほど無関心になってしまったのか。それは経済成長のために家族もろとも長時間労働にかり出されているからだ。

渡邉美樹氏も、開業資金をかせぐために宅配便業者で昼夜問わず働いていたころは、教育委員会に物申す余裕はなかっただろう。ところで渡邉美樹氏は、教育委員会などの市民としての活動に参加できる時間的余裕を、ワタミの社員に制度的にあたえているのだろうか。

「民間人」が多忙な結果、公的教育に関するあらゆることが特定の集団に「丸投げ」されてしまう。これは、どちらが原因でどちらが結果かというよりも、今の日本の社会をかたち作っているしくみ、構造である。

いってみれば、日々の生活に忙しい「民間人」と、教育問題を丸投げされてしまっている「教育関係者」は、おたがいに補完しあう関係にあるのだ。

「教育関係者」は「民間人」が教育を他人まかせにするので、結果として教育にかかわる組織や制度を独占してしまっている。「民間人」は「教育関係者」が教育にかかわる組織や制度を独占してしまっているので、ますます教育を他人まかせにする。

この相互補完的な構図のうち、片方の「教育関係者」だけを悪者にして非難し、自分は正義だと言いたげな渡邉美樹氏の議論が、ほぼ完全にまちがっていることはもうおわかりだろう。

改めていうが、ワタミの社員には「民間人」として活動するのに十分な時間が与えられているのだろうか。渡邉美樹氏は教育委員会で「ひと暴れ」し、それをメディアで自慢するよりも、まず自分の管理下にある「民間人」を「民間人」として機能させるのが先ではないだろうか。

もし渡邉美樹氏が、「民間人」として活動する時間は、自分の休日を削ってでもつくるものだと反論するなら、こう答えよう。それではうまくいかなかったから、いまの神奈川県教育委員会があるのではないか。

実現可能性のない理想論をぶち上げるのは、一企業のリーダーとしては許されるかもしれないが、社会に対する批判としては単なる自己満足に終わり、生産的でない。

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2007/07/01

会社を変える最適な方法論

かつての雪印や三菱自動車工業、カネボウ、ミートホープなど、明らかに違法行為をはたらいた企業は別として、合法的に営業活動をしている会社で働いていて、この会社をより良くしたいと考える人がいるとき、問題なのはその人が何を理想形としているかだろう。

個人としてのサラリーマンの経験には限界がある。僕は幸か不幸か転職回数が多いので、社員数何万人という大企業から、数百人の中堅企業までの経験がある。

それぞれの企業組織が、どうなれば最適なのかということは、社員数や売上規模といった客観的な会社の大きさだけで決まるわけではない。組織風土や社風、企業文化といった目に見えないものによっても大きく左右される。とくにオーナー色の強い企業の場合は、オーナーの考え方によってその企業の文化が大きな影響をうける。

ほとんどの大企業の組織は、良い意味で合理的・官僚制的に整然と組織されているが、こうした組織がすべての企業につねに最適だとは限らない。とくにオーナー色の強い企業では、オーナー自身が合理性を追求する性格でない限り、合理的・官僚制的な組織を作り上げるのは難しい。

中でもベンチャー企業から成長した企業では、企業全体が創業者の理想を実現するのに最適なように組織される傾向が強い。それを悪く言えばワンマン体制ということになるが、それがなくなってしまうと、もはやその企業はその企業でなくなってしまう。重要な個性と、同業他社に対する差別化要因を失ってしまう。

自分の働いている会社をより良くしたいと考えるなら、まず適切なモデルを選択しなければならない。オーナー色の強さが個性になっているような会社を、大企業のような合理的組織に変えようとするのは、モデルの選択を誤っている。

一企業といっても、それは一つの社会である。そして一つの社会の性質は、それほど簡単に変わるものではない。外資系企業に買収されたり、違法行為で社会的な処罰をうけるなど、大きな外的要因がない限り、一つの企業の文化はとても根強く安定している。

逆にそうした安定性こそが、社員の安心感を生み出し、組織の内部におこる変動や複雑さを縮減することに役立っているのだ。

したがって、無理なモデルをもってきて、会社がそのモデルと違うということを論拠に会社を変えようとするのは、方法論として完全に誤っている。組織変革の最適な方法とは、その組織が動いている原理をわざと推し進めることで、その限界を露呈させることだ。

その組織の中にある制度があって、その制度が不合理だと思うなら、その制度に忠実にしたがえばどれほど不合理なことが起こるかを示して見せることだ。

会社組織に被雇用者として属していて、革命的な方法で変革を起こすのは本質的に不可能である。したがって組織を変えようと思えば、体制内改革の方法論をとるしかない。そして体制内改革の方法論とは、まず徹底的にその組織の作動原理を忠実に推し進めてみることである。

よそから理想のモデルをもってきて、自分の組織がいつかその理想どおりになると考えるのは、単純素朴なロマン主義以外の何物でもない。

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2007/06/02

単純すぎる業務効率化の分析モデル

結局今週は『新世紀エヴァンゲリオン』週間となり、第弐拾四話まで見終わった。残りは2話のみ。

二クラス・ルーマンの入門書を読み終えたところで、Amazon.co.jpから社会学的啓蒙の邦訳を2冊取り寄せたら、1冊が表紙は『社会システムのメタ理論』で中身が『社会システムと時間論』と、妙なことになっていた。

それはいいとして『法と社会システム―社会学的啓蒙』を読み始めたが、予想どおり、原書の社会学的啓蒙第一巻の論文のうち一部分しか翻訳されていない。それでも、いきなり1984年の『社会システム理論』を読むよりは、こちらの方から読み始めるべきだったことは明らかだ。

邦訳と対比しながら読もうかと思い、会社帰りに丸の内オアゾの丸善で、「Soziologische Auflaerung(社会学的啓蒙)」の原書がないか探してみたが、ルーマンは濃紺の表紙でおなじみのSuhrkamp Verlag KGから出版されているものしかなかった。

サラリーマン社会の理論は、せいぜい直線的な因果律の世界で、フィードバック・ループが考慮されていればまだ良い方だ。先日も社内の業務分析のワークショップに参加したが、分析結果のモデルがあまりに単純化された因果律だったので退屈だった。

業務の生産性向上は、それほど単純な問題ではないはずだ。分解された個々の業務は、入力と、処理と、出力があり、単位入力あたりの出力を最大化することが生産性向上と呼ばれる。しかし、まず第一に、出力単位には量的な要素だけでなく時間的要素、つまり速度も含まれる。

速度を考慮に入れると、分解された業務を統合したときの、ボトルネックの問題を解消しない限り、業務の全体としての効率化に結びつかない。これはゴルドラットの『ザ・ゴール』でおなじみの考え方だ。

第二に、分解された業務の連鎖として業務の全体性を見る考え方は、直線的な因果律で、フィードバック・ループがまったく考慮されていない。ある業務のアウトプットは、次の業務のインプットになるだけでなく、それより以前に存在した業務のインプットへともどっていく場合もある。

さらに言えば、ある業務のアウトプットが、次の業務のインプットへ、どのようにつながれているのか、そのコミュニケーションを成り立たせている環境の問題が考慮されない。たとえば、社員数が2倍になれば、コミュニケーションの複雑さは約4倍になる。したがって業務の生産性向上の効果は、社員数の増加とともにだんだんと減っていくのだが、そのことが考慮されていない。

などなど、あらを探せばいくらでも出てくるのだが、そもそもサラリーマン社会における業務効率化は、初めから半分くらいは「ためにする効率化」にすぎない。モデルを精緻化する方がバカげているとなるのがオチだ。

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2007/05/01

ビジネス文書にもう志賀直哉はいらない

ビジネス文書を書くにあたって、僕がお手本として念頭においていたのは志賀直哉だった。同じ情報量を伝えるのに、いかに簡潔な日本語で伝えられるかがビジネス文書の真髄だと考えていたからだ。

ところが一般のサラリーマンの日本語力は、簡潔な文体を正しく読み込めるほど高くないらしいことが最近わかってきた。

最近、テレビのバラエティー番組で字幕が多用されているせいなのか、まともな日本語で書いてある良質な本を読まずに、いかがわしい自己啓発本や金儲けの本ばかり読むせいなのか、原因は明らかでないが、簡潔を旨とするメールが誤解をうける場合が多くなってきた。

仕方ないので最近は、一通のメールには極力4つ以上の用件を含めない、大事なことは冒頭と末尾にくり返すことにしている。

日本企業の人事評価が成果主義に傾くにつれて、日本企業のサラリーマンの思考はますます物事を単純化するようになり、「わかりやすさ症候群」に磨きがかかっている。この流れはいったいどこまで進むだろうか。

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2007/04/27

「根回しのワナ」

サラリーマン社会には「根回しのワナ」というものがあるが、あまり知られていない。いったん根回しや調整をしなければ仕事ができないという仕事のスタイルを身につけてしまったが最後、どんどん根回しの深みにはまっていく、という現象のことだ。

日本のサラリーマン社会では、「周到な根回し」という非生産的な労働に時間を割けば割くほど、能力がなくても出世できるという経験的な法則性がある。しかし、根回しによって出世したサラリーマンは、出世すればするほど、課される仕事が大きくなるため、さらに高度な根回しが要求される。

そこで、さらに高度な根回しに奔走すると、さらに出世して、退職するか生活習慣病で死ぬか、燃え尽き症候群で自殺するまで、根回しから逃れられないサラリーマン生活を送ることになるのだ。

この「根回しのワナ」、またの名を「根回し地獄」から逃れる方法は比較的かんたんである。まず際限ない出世をあきらめ、そこそこの生活ができる程度の地位で足るを知り、社畜としての人生とは決別し、人間らしい生活を送る決断をすることである。

そして、周囲から「あいつはぶしつけなヤツだ」「気を遣うということを知らないやつだ」と思われようが、そんなことにこだわる方がせせこましい生き方であると無言で開き直って、自分の仕事に真面目に取り組めばよい。

そうすれば会社に対して少なくとも損害を与えることはないので、解雇されることはまずない。同時に人間らしい生活が送れる。

最もバカげているのは、根回しや調整、周囲への気遣いといった非生産的な労働に疑問さえ抱かず、それらをサラリーマンとして当然の仕事、もっと言えば、それらこそがサラリーマンの仕事の真髄だと思い込むことである。

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2007/03/21

情報システム部門原論(1)

企業の管理部門には経理、人事、総務などさまざまな部門があり、それぞれに役割がある。管理部門は利益を産み出さないので、それぞれの部門が決められた役割を果たさなければ、営利組織としては存在意義を失うことになる。

管理部門の各部門は、各部門で働く人々の専門知識や専門技術がなければ、決められた役割を果たすことができない。経理部員には企業会計、企業税務についての専門知識と実務上の技術が必要だし、人事部員には企業の人事管理、労務管理、労働関連の法制度についての知識と実務をおこなうための技術が必要だ。

同じように情報システム部員は、企業の情報システムについての専門知識と実務をおこなうための技術が必要になる。個人が趣味でパソコンをつかうのに必要な情報技術にかんする知識と、企業が情報システムを企画、構築、運用するのに必要な知識とは大きく異なる。

また、企業組織としては一部の実作業を外部の業者に委託することに費用対効果はあるが、すべての実作業を外部に委託することは事実上不可能である。その理由は、どの企業にもその組織特有の実務上の規則や慣習があり、そのうち明文化さていない部分や、その企業の中核的な競争力にかかわる部分は、外部に委託するわけにはいかないためだ。

情報システムについても同じことが言えて、外部の業者に委託できない実作業は社員がおこなうしかない。したがってすべての企業の情報システム部員は、一定の実務上の技術がなくてはならない。

たとえばパソコンをその企業の社内ネットワークに適した設定に変更する技術であるとか、その企業の社内ネットワークの運用を自動化するのに必要なちょっとしたプログラムを書く技術などである。

管理部門の社員には、すべての実作業を外部委託できないという以外にも、実務上の技術が要求される理由がある。それは外部の委託先業者を適切に管理するためである。

労務管理の知識がまったくない人事部員は、社労士との打ち合わせをすることはできない。企業税務の知識がまったくない経理部員は、監査対策のための税理士との打ち合わせをすることはできない。

同じように情報システム部員も、一定の技術知識と実務上の技術がなければ、委託先業者の仕事の品質を検査することができない。いわゆる「丸投げ」になってしまう。

以上のように企業の管理部門の構成員は、所属する部門に決められた役割に対応する専門知識と実務上の技術(=じっさいに自分で手を動かして一定の結果を産み出す能力)を持たなければならない。管理部門は単なる調整役ではないのである。

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2007/02/17

ビジネスパーソンの低レベルな「情報戦」

いま僕が勤めている業界は、社長クラスになると知らない人がいないというくらい世間が狭いらしい。それだけに業界内で何か目新しいことが起こったとき、すぐ業界中に伝わるようで、その世間の狭さは客観的に見ると何とも滑稽だ。

巧妙な情報戦を仕掛けているつもりでも、頭の良い人間から見れば、誰が何を仕掛けようとしているのかはすぐに分かってしまう。いちばん滑稽なのは、巧妙な情報戦を仕掛けているつもりの当人が、それがバレていることに気づいていない点、仕掛けられた情報戦に踊らされたり、見事に洗脳されたりしている人たちに、その自覚がない点だろう。

「ビジネスパーソン」という凡庸な人種が、自社の利害のために仕掛ける情報戦とはこの程度のものなのかと、客観的に見ていると滑稽でもあるし、うら悲しい気分にもなる。もう少し屈折した、巧妙な仕掛けを見せてほしいものだ。

まぁ、うまい投資話にだまされる詐欺の被害者が後を絶たないことからしても、一般人の「信じやすさ」は、悲しいかな、この程度のものなのだ。

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2007/01/30

不二家の不祥事に便乗する食品メーカ

不二家の賞味期限切れ原料使用の不祥事が明らかになった直後、さまざまな食品メーカが続々と同じような品質管理上の問題を発表した。これらの食品メーカにとって、不二家という大事件のかげに隠れて目立たない今は、自らの膿を出してしまう絶好の機会だったわけだ。もし不二家の一件がなければ、これらの食品メーカが問題を発表することはなかっただろう。

民間企業の経営者の倫理観というのは、この程度のものだ。そしてそういう非倫理的な組織に労働力という商品を売らなければ生きていけないのが、サラリーマンという職業である。

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2007/01/14

『ビデオニュース・ドットコム』でホワイトカラー・エグゼンプション

ホワイトカラー・エグゼンプションがビデオニュース・ドットコムの2007/01/15放送分でテーマとして取り上げられていた。僕の解釈も含めながら放送内容の最初の3分の1くらいをご紹介する。

ちなみにビデオニュース・ドットコムとは元共同通信のビデオジャーナリスト・神保哲生と、社会学者・宮台真司が司会をつとめるインターネット放送。視聴料として月額525円かかるが、さまざまな社会問題について、毎回、専門家をゲストに、放送コードやスポンサーの縛りがあるテレビ放送では絶対に聞けない過激な議論が聞ける。NHKの視聴料を払うくらいならビデオニュース・ドットコムを見るべきだろう。

まず米国と日本では労働法上の前提がそもそも異なる。日本にはヨーロッパと同じく労働時間の上限について罰則付きの法律があるが、米国には存在しない。

また企業文化の面では、欧米ではホワイトカラーが仕事の優先順位や量について、上司と交渉するのが普通であるのに対して、日本のホワイトカラーはふつうそのような交渉の余地をもたない。

日本では現状の法律下でホワイトカラーが働く上で大きな問題を感じていないばかりか、すでに「裁量労働制」というホワイトカラー・エグゼンプションにあたる制度が存在する。しかも管理・監督者に限るとされている「裁量労働制」が、すでに課長・係長クラスにまで拡大解釈され、適用されている。

それでもなお新しい制度を導入しようというのは、経営者側の一方的な意思としか考えられない。ではその目的は何か。

おそらくコンプライアンス(法令順守)が厳しく問われるようになったため、残業代の不払いを「合法化」したい経営者が、残業代を払わなくてもよい層を現在の「裁量労働制」に定められている「管理・監督者」より広げたいからではないか。

その他にもビデオニュース・ドットコムでは、信頼ベースの労使関係、日本企業の競争力の源泉、大店法などのネオリベラリズム的規制緩和法制との関係、「誰が主人公」の制度改革なのかなど、さまざまな興味深い論点が出されていた。それについてはぜひ放送本編を観ていただきたい。

放送の最後に宮台真司は不気味な予言をしていた。このホワイトカラー・エグゼンプションは法案としてあまりに未熟なため、今回は見送りになるだろうが、数年後に「休暇確保法」など聞こえのよい名前で再登場して可決されるだろう、とのことだ。

この予言が当たる前に、政権交代が起こっていることを祈りたい。今年は参院選の年だ。

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2007/01/11

ホワイトカラー・エグゼンプション導入延期

どうやらホワイトカラー・エグゼンプションの制度導入は、とりあえず参院選挙後に延期になったようだ。以前にも書いたように、同調圧力の強い日本企業でこの制度を導入すれば「際限のない付き合い残業」という結果になるのは目に見えている。

この年末、僕の勤務する企業でも、とくにやることもないのに上司が部下のために「付き合い休日出勤」をしている様子が見られた。いままで僕が勤務した企業でもふつうに見られることだ。

また、日本企業の社員はホワイトカラー・エグゼンプションが当初想定していたような、年収800~900万円層の中間管理職であっても、同僚や部下と「群れ」で行動する。

結果的に僕のように仕事で必要な他は一人で行動し、昼食も誰かといっしょにとることはないし、雑談にも付き合うことなく、仕事に没頭するといった人種は、部下にも同僚にも疎んじられることになる。

もっとひどい場合は、自分たちで「群れ」を作るために、わざわざ「仮想敵」を作り上げることさえある。例えば、他の部署や経営陣を「仮想敵」として批判してみたり、上司を「仮想敵」にして「仲間はずれ」にしてみたりする。

試しにその「仮想敵」ゲームに参加したふりをして、いっしょになって彼らの「仮想敵」を批判してみると、期待どおりにこちらを「仲間」と見なして同胞意識を示してくれたりする。

僕はこのような日本的会社員の「仮想敵」ゲームや「仲間はずし」ゲームを、客観的にゲームとして見ることができるのだが、大多数の社員が無自覚に「仮想敵」ゲームにいそしんでいるのが日本企業の実態なのだ。

このように「群れ」の行動を基本とする社員がほとんどをしめる、同調圧力の強い日本企業に、ホワイトカラー・エグゼンプションを導入しても、制度がその理念どおりに機能するわけがない。この制度は、一人ひとりの自律した行動を基本とする欧米企業で生まれたものだからだ。

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2007/01/06

システム・エンジニアの職業倫理

この年末年始、中規模のシステム移行作業をやっていた。全社員のパソコンを1台ずつ設定変更する作業を業者に委託したが、その仕事の品質は期待の7割にも満たなかった。

事前にこちらが考えた手順書にしたがえばよいだけなので、当日あらわれたのが学生アルバイトらしき人たちでも特に不安は抱かなかった。しかし実際には見事に期待を裏切られた。

別の業者のSEと新しいシステム構築の仕事をしていて、何か不具合が起こったときに、僕の方が先に原因をつきとめてしまうということもしばしばある。

たしかに僕の場合、高度な英語力でインターネット検索ができるという優位性があるが、こちらが初めて経験するパッケージソフトウェアの導入で、その製品の導入経験のあるSEよりも、こちらの方が先に不具合の対処方法を見つけてしまうのは一体どういうことだろうか。

また、同僚SEや「元SE」のほとんどが、初級程度のプログラミング技術しか持っていないか、まったくプログラムが書けないことに違和感を抱かざるをえない。

プログラミング言語は人間とコンピュータの意思疎通に欠かせない。「プログラムのできないSE」というのは「英語のできない英語通訳」みたいなもので、言葉の矛盾だ。

英語ができないで英語を話す人々と正しい意思疎通ができるないのと同じように、プログラミングができずに情報システムやIT関連機器を思いどおりに動かすことはできない。「SEの第一歩はプログラミングから」というのは、SE不足の昨今ではもう常識ではなくなっているらしい。13歳からプログラミングをやっている僕の考えの方が古いのだろう。

そして、組織の一員として大規模なシステムの開発・運用を担当していた元SEが、あたかも自分がそのシステムを動かしていたかのような大言壮語を吐いているのを聞くと、端的に悲しくなる。

組織の成果を、自分の成果のように勘違いする。サラリーマンに典型的な肥大した自意識だ。そんな自意識がいかに恥ずかしいか、まったく気づいていないところがいかにもサラリーマン的な凡庸さだ。

オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』ではないが、自らの凡庸さを誇りながら、その凡庸さに無自覚な点こそ、現代の大衆の大衆たる所以であり、サラリーマンのサラリーマンたる所以である。

「コミュニケーション能力が高く」、他人の技術力に寄生して仕事をするSEにはよく出会うが、自ら新しい技術を習得しつづけるストイックな職人的SEにはめったに出会えない。

サラリーマンとしてテキトーに世の中を渡っていくだけなら、確かにそれで十分なのだろう。どんな職業倫理にもとづいて働くかはそれぞれの勝手だが、周囲までその「テキトー」な生き方に巻きこむことはやめてほしいものだ。僕自身はサラリーマン的凡庸さや「テキトー」な生き方におもねるつもりはない。

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2006/12/27

モチベーションは自分自身で調達せよ

サラリーマンが仕事をするための動機づけをどこから手に入れるかについて、数年前の僕は間違った考え方をもっていたかもしれない。サラリーマンが仕事をするための動機づけは、最終的には会社組織の外部から手に入れるしかないのだ。

いまサラリーマン社会では「コーチング」の流行ひとつとってみても、部下を動機づけするのも上司の仕事の一つだという考え方が「正しい」こととしてまかり通っている。

部下を動機づけるのが上司の仕事だとすれば、その上司を動機づけるのは上司の上司の仕事ということになり、最終的には会社組織のトップがすべての社員の動機づけの責任を負うことになる。

しかしこれはよく考えると、単なる組織への依存にすぎない。仕事をするのは会社組織に参加するための最低要件なのであって、会社組織に参加しておいて、つまり給料をもらっておいて、「やる気にさせてくれないのは会社のせいだ」などとほざくのは、単なる甘えであり、感情的な依存にすぎない。

したがって「コーチング」などといったことに会社が組織的に取り組むのは、少なくとも日本企業では、社員の会社に対する感情的な依存をさらに強化するといった悪循環を生み出すだけに終わる可能性が高い。

言い換えれば、会社組織がコーチングなどといったことを下手にやればやるほど、社員に「オレが(わたしが)やる気にならないのは会社のせいだ」という言いわけを垂れ流す余地をあたえることになる。

そういう言い訳が強くなれば、会社組織はますますコーチングのような動機づけへの取り組みを強化せざるを得なくなる。このような悪循環が起こる。

サラリーマンは特定の会社組織に自分の意志で参加し、報酬をうけているのだから、会社組織に参加するための最低要件、つまり「仕事をすること」についての動機づけは、組織の外部から自分で手に入れるのが当然だろう。

それは「家族のため」でもいいし「仕事自体が趣味的に好きだ」でもいい。動機づけの調達の方法は何でもいいのだが、とにかく自分自身で調達するのが、自立した市民としての会社組織への参加の仕方だ。

僕が今まで在籍した会社にも「自分がやる気になれないのは上司が悪い、会社が悪い」とほざく同僚が何人かいたし、もしかすると僕自身もその一人だったかもしれない。問題なのはどれだけ早くそのことに気づくかだ。

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2006/12/24

一介のサラリーマンにできる「公的貢献」とは

昨夜はビデオニュース・ドットコムで、京都立命館大学収録の第292回マル激トーク・オン・ディマンド「ちょっとみんな元気ないんじゃない」を延々と観ていた。

立命館大学はビデオニュース・ドットコム主催者の神保哲生氏が、学生向けのゼミを持っているとのことで学生との討論形式なのかと思ったが、じっさいには、前半は宮台真司と神保哲生が時事ネタについて中身の濃いかけ合い漫才をやるという、ゲストなしのマル激トーク・オン・ディマンドと同じ展開で非常に参考になった。

とくに「日本が近代を脱するためにはまず近代化しなければいけない。そのためのリソースとして利用できる数少ない既存の資源が、象徴天皇制である」という「転向後」の宮台氏の主張がわかりやすく展開されていた。

そして、マル激トーク・オン・ディマンドがインターネット・ニュースメディアとして唯一黒字の会社であることを知って驚いた。それと同時にマスメディアに対するオールタナティブとしてのインターネットの可能性に希望を感じた。(その意味でも梅田望夫の『ウェブ進化論』は皮相な議論だ)

ただ、一介のサラリーマンとしてまとまった自由時間がない僕にとって「公的な貢献」をする方法が、じっさいには選挙で投票するくらいしかないことに絶望的な気分にもなる。

宮台氏の議論に最近よく出てくる顕教(大乗仏教)・密教(小乗仏教)論、つまり、真の民主主義を確立するには、一般大衆が民主主義を信奉する(=大乗仏教)だけではドイツのワイマール共和国のように、国家全体主義を呼びよせる衆愚におちいるだけなので、裏で少数のエリートが民主主義を制度として維持する(=小乗仏教)必要がある、という議論のことだ。

宮台氏の学術用語をまじえた議論を完全に理解できるという意味で、僕は密教を担う最低限の資格はある。大学をレジャーランドとして過ごした大多数のサラリーマンとは、はっきりと違う人生を歩んできている。

ところがそんな僕でも一介のサラリーマンになってしまえば、「有能な人間ほど仕事が増える」というサラリーマン社会の法則にしたがって、マイペースで仕事をする同僚の手に余る仕事をすべて拾い上げなければならない状況に置かれる。

宮台真司氏の議論を完全に理解できるのに、日本の真の近代化のために公的貢献をする時間もなく、そのためのコネづくりができるような環境も既になく、絶望的な気分で日常生活を送らなければならない。

現時点でできることといえばこうしてブログを書くぐらいなのだが、自分のITスキルを活かしつつ、子供向けに「密教」的な教育を提供するような私塾を起業することが、ほぼ唯一の可能性として残されているかもしれない、と考えたりもする。

最後にこの第292回マル激トーク・オン・ディマンドでもふれられていた、小室直樹『日本人のための憲法原論』をあらためておすすめしておく。

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2006/12/21

完全に無意味なホワイトカラー・エグゼンプション導入論

ホワイトカラー・エグゼンプション(ホワイトカラー労働時間規制適用免除制度)の導入検討が話題になっているが、この制度の大前提は、ホワイトカラーが本当の意味で自分の裁量で労働時間を決められる環境になっていることだ。

しかしそんな日本企業がいったいどこにあるのか。

管理職でさえ、部下や他部署の顔色をうかがいながら「付き合い残業」しなければいけなかったり、訳のわからない社内行事に参加させられたりといった、理不尽な同調圧力があちこちで働くような日本企業に、この制度を導入できる環境などあるわけがない。

日本の経営者団体も、自分たちの企業の実態はいちばんよく知っているはずだから、彼らがこの制度に賛成するのは明らかに賃金抑制の意図だ。

「時代が変わったからそろそろ新しい制度を入れなければ」という、まったく根拠のない空論をテレビで平気で吐いている経営者には、恥を知れと言いたい。

また、「ホワイトカラー・エグゼンプション反対論は、残業代で稼ぎたい負け犬の遠吠えにすぎない」という賛成論は一見もっともらしいが、日本企業の実態を無視した暴論で聞くに値しない。

ホワイトカラー・エグゼンプション導入に賛成する人たちは、理念だけで突っ走って噴き上がっているお祭り野郎としか評しようがない。

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2006/11/28

自分の会社を批判することの無意味さ

サラリーマンの社会では何が「正しいか」という問いは本質的に無意味だ。僕個人は幸か不幸か、従業員数万人規模の大企業から、数百人のベンチャーまで計7社を、社内SEの立場から眺めることができている。

社内SEというのは企業内の情報システム部門に所属するシステムエンジニア、ということだが、れっきとした社員でありながらも、いわゆる「現場」と一定の距離を保てるという意味で、内側から企業組織のフィールドワークをするのにうってつけの立場だ。

企業組織を分類する方法はいくらでもあるが、最近、個人的に興味深い分類法は「オーナー企業vs非オーナー企業」という分類である。

従業員数百人の企業は、大企業のグループ会社を除いて、社長が創業者であり、最大の株主である場合が多い。そうでなくても社長の個人としての組織に対する影響力が大きいのが特徴だ。

従業員数万人の企業では、従業員の誰もが社長は数年たてばかわるものだと当たり前のように考えているので、社長の性格や人間性が組織に与える影響は無視できる。それに対して経営者が会社の所有者(少なくとも過半の株主)でもある中堅・中小企業では、社長の人間的側面が組織全体に無視できない影響を与える。

しかも従業員から見ると、会社の所有者でもある社長は、年齢や健康問題、業績の深刻な悪化など、よほどのことがない限り交代しないことは当たり前のこととして受けとられている。その会社に在籍する限りは、良くも悪くも社長個人のキャラクターの影響から逃れることはできない。

また別の企業組織の分類法として、「官僚制的」vs「イケイケ」というのがある。ここで官僚制と言っているのは、良い意味での官僚制だ。つまり各人の責任と権限が明確で、部署間の統制がきっちりと働いている、いまはやりの「内部統制」がちゃんとできている企業組織という意味だ。

対して「イケイケ」というのは、極端に言えば、社内規則などおかまいなしに「現場」が突っ走り、社長がその先頭を切る、たとえて言えばちょうど第二次大戦中の日本のように「文民統制の利かない軍部の独走状態」、そういったタイプの企業組織だ。

「現場」がどの部署にあたるかというのは、業種によって違う。製造業なら生産現場か、製品開発の部隊が「現場」になることが多い。不動産デベロッパーなら用地買収部門が「現場」になる。接客商売なら各店舗が「現場」になるし、人材サービス業なら営業部隊が「現場」になる。

僕はここでどちらが「正しい」かという議論をするつもりはまったくない。急成長中のベンチャー企業が、社長の個性を色濃く反映した「オーナー」型で「イケイケ」の組織になるのは当然である。

逆に言えばそういった企業が内部統制を欠いており、従業員の責任と権限が不明確で(だいたい社長がすべての権限を握って、まったく権限委譲しないということが多い)、社長とともに「現場」が先走ってしまうのは不可避だ。

現実としてサラリーマン社会には「イケイケ」的側面と、良い意味での「官僚制」的な考え方のバランスをうまくとれるほど優秀な経営者は、ごくまれにしか存在しない。多くのベンチャー企業が、数十人から始まって、1000人を超える組織になっても「イケイケ」から抜け出せないのも仕方がない。

数百人規模のベンチャー企業に、内部統制と現場主義の絶妙のバランスを求めるような考え方こそ理想主義的で、単なる「ないものねだり」にすぎない。

理想的な組織で働きたいなら、自ら経営者に働きかけるか、理想的な組織を他に見つけるか、どちらかの行動をとるべきなのだ。自分は何のリスクもとらず、安全な場所でグチを垂れ流すことにはまったく意味がない。そもそもサラリーマン社会のような下らない社会が、「理想」を語るにふさわしい場か?ということだ。

自分の所属する企業が一つ倒産したからといって、日本社会全体を見れば大した影響はない。自分が働いているからこそ、この会社を理想的な会社にしたいというのは、自己愛が強すぎるというか、身のまわりのことしか見えていない視野の狭い考え方だ。

むしろ経営者が「イケイケ」を反省しない性格なら、むしろその上をいってとことん「イケイケ」式の仕事をすればよい。営利企業の中にいて、自分に権限も責任もないことについてあれこれ論評することほど無意味なことはない。そのヒマがあるなら、市民としての自分にとって重要なこと、さまざまな社会問題について頭をつかうべきなのだ。

自分の会社を批判することで、何となく自分が見識ある人物であるかのように自己満足する。これこそ日本人サラリーマンの視野の狭さで、結局、昔のムラ社会と同じで、自分が所属する共同体の範囲内でしかモノを考えられないという典型的な「症状」だ。

あなたが思うほど、あなたの所属する会社の経営者がどうだとか、社風がどうだとかいうことは重要な問題ではない。もっと重要なことは、会社という「ムラ社会」の外に山ほどあるのだ。

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2006/10/15

僕ら世代の致命的弱点としての素朴な平和主義

先日書いた「このあまりに下らない、会社員生活」というエントリについてだが、もしかすると、こういうことが起こるのは僕ら30代会社員の決定的な弱点のせいではないか、という気がしてきた。

これまで僕が「愛と苦悩の日記」と親サイト「think or die」でおじさん世代(=団塊の世代)の批判を展開してきたのは、会社組織の中に世代間の政治的対立があるということを、大前提とした上でのことだ。

もう少し広げて言えば、会社組織の中にはさまざまな政治的対立があって、その一つに世代間の対立があるということだ。こういう認識があるからこそ、僕はおじさん世代批判を展開してきたわけである。

ところが「会社組織の内部に政治的対立が存在する」ということを認識できる僕は、30代会社員では例外なのではないかということに、今日、思い当たった。

僕個人は高校時代からフェミニズムを中心とした新左翼系の思想にかなりコミットしていた。そして東京大学入学後も、駒場寮で新左翼の残党たちの議論を横で聞くという、時代遅れの政治的な状況に慣らされてきた。

しかし僕の同世代は、このような特殊な状況におかれない限り、「政治的なるもの」とまったく無縁の学生生活だったはずだ。東京大学でさえ僕のような政治的体験をもつ同年代の学生は少数派だった。

ましてふつうの私立・公立大学に進学して、体育会系の活動や、合コンなど、当時よく言われた「遊園地」的な学生生活をエンジョイしていた人たちは、「政治的なるもの」とまったく無縁なまま社会人になったはずだ。

そんなフツーの社会人にとって、組織を運営するときの原理は学生生活の体験に根ざしている。学生のサークル活動などの組織運営の原理は、ひとことで言えば「一つの目標に向かってみんな仲良く一丸となって」である。そこでは、組織内部の対立などありえないものと考えられている。(対立するものは排除される)

しかし実際には、サークル活動にしても、小学校のクラスにしても、あの人は好き、あの人は嫌い、という単純な基準でいくつかの「仲良しグループ」に分裂する。しかしそうやって「仲良しグループ」を作っている本人たちには、「仲良しグループ」どうしの間にある利害対立は見えていない。

グループどうしの対立は、一段上のレベルにある「担任の教師」や「大学のキャンパス」という場によって、存在しないものとされる。したがって、気の合う仲間と付き合って、楽しい学生生活が過ごせればそれでいいし、「政治」みたいなことを言うウヨクだかサヨクだか知らないがいかがわしい人たちとは、できるだけ付き合わないのがいい。それがいま30代で社会人になっている僕ら世代の、ふつうの学生生活だった。

しかし会社組織には、60年安保、70年安保を直接・間接に経験した世代が存在する。徹底して政治に無関心で学生時代を過ごしてきた人も、同世代の仲間たちが政治闘争に巻き込まれていたというリアリティは、すくなくとも僕らの世代よりは濃厚に持っている。

創業30年を超えるような会社なら、どんな会社でもそういう「政治の季節」をリアルタイムで経験した世代が、経営層に存在している。そういった世代が組織を運営するとき、意識するとしないとにかかわらず、組織内部の政治的な力学を打算的に利用するのは、ある意味当たり前のことである。

ところが僕ら世代の会社員のほとんどが、そういう政治性に免疫がない。ではどう反応するかといえば、大きく二つにわけられる。一つは「完全な追従」、もう一つは、素朴な「仲良しグループ」主義を貫くことだ。

「完全な追従」というのは、政治性を打ち出す年長世代に対して、「長いものには巻かれろ」式に、大した考えもなく従ってしまう、あっさり洗脳されてしまうという反応のことだ。

もう一つの素朴な「仲良しグループ」主義は、考えようによっては「完全な追従」より始末が悪い。というのは、「仲良しグループ」主義的反応をする30代の会社員たちは、「人類皆兄弟」のような素朴な平和主義を本気で現実的で正しいものだと思い込んでしまっているためだ。

僕ら30代の中に、こういう素朴な平和主義者がかなりの数存在するのは、小学生のころ受けてきた道徳教育のおかげだ(もちろん皮肉)。とにかくみんな仲良くすることが無条件に正しいし、そういう状態は実現可能だという、とても素朴な考え方だ。

しかし、このような素朴な平和主義が、現実には政治的力学がシビアにはたらいている会社組織にもちこまれると、「仲良しグループ」どうしが組織の大義の奪いあいをするという、非常に醜い事態になる。

もう少し分かりやすく言えば、「私たちのやっていることこそが、経営ビジョンに合致している!」という風に言い出す「仲良しグループ」が林立する状態になってしまうのである。

僕らより年長の世代も、こうした政治的党派を作る点では変わりないのだが、彼らと僕らの最大の違いは、そうした党派間の利害調整のテクニックにはっきりとあらわれる。

年長世代は利害が対立する複数のグループに対して、打算的で政治的な利害調整の努力をする。つまり、グループAにはある面で妥協を強いる代わりに、別の面では譲歩し、グループBにはちょうどその逆のかたちで譲歩と妥協を求める、といった利害調整だ。

ところが僕ら30代には利害調整のテクニックが欠けている。その理由はかんたんで、僕ら世代の大部分は「最後にはみんな仲良くなれるはず!みんな分かりあえるはず!」ということを素朴に信じてしまっているからだ。(小学生時代の洗脳が効いている)

そういった素朴な「仲良しグループ」主義から抜け出すことができない僕らの世代の大部分の人たちは、僕のように政治的にふるまうことを知っている人間を目の前にすると、「どうして仲良くできないのか?どうしてわざわざ火に油を注ぐようなことをするのか」といった拒絶反応を示す。僕ら世代の「政治的なもの」への強いアレルギーが、会社組織の中では、年長世代の打算的な政治主義との間であつれきを生むというわけだ。

そして僕ら世代は、上述のように二つのまったく異なる態度をとる結果になる。一つは、年長世代の政治主義に対する無条件の追従、もう一つは、政治主義に対する過剰防衛の結果としての閉鎖的な「仲良しグループ」作りだ。

僕自身は年長世代の政治主義と戦えるだけの政治性を、これまでの人生で身につけているので、意図的な不作為(!)も含めて、組織内部の政治的対立に打算的な対応をとることができる。(もちろん体力がついていかずに傍観者を決めこんでしまうこともあるが)

しかし僕と同世代の人たちは、僕の政治的な振る舞いを理解できず、「立てる必要もない波風を立てようとしている」と、完全に誤解してしまう。

もっと大きな観点で僕が心配するのは、年長世代が退職して、僕ら世代が会社の経営を担うようになる20年後、利害調整のテクニックをまったく持たず、年長世代への追従だけで業績を上げてきたような人たちが経営を握ったとき、だれも組織内の利害調整できなくなってしまうのではないか、ということだ。

「みんな仲良く」ということを最優先に考える素朴な平和主義は、現実に存在する組織内の利害対立を前にしたとき、完全に無力だからだ。

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2006/10/13

このあまりに下らない、会社員生活

あまり非論理的で否定的なことはこの「愛と苦悩の日記」には書きたくないのだが、最近つくづく会社員生活というもののあまりの下らなさに疲れてしまう。古くからの付き合いという身内の理論にもとづいて、異質な考え方をする人間を排除する、前近代的なムラ意識。

会社の経営層は、とくにオーナー経営者の場合、その会社組織の個性を規定する存在なので、それに関して僕はまったく異議をとなえるつもりはない。その会社に入社することを選択した僕の側の選択責任であって、どうしても経営方針に賛同できないなら、会社を去るのが唯一の正しい選択だからだ。

しかし社内の各部門、担当者レベルで、基本的な考え方の違い、仕事のスタイルの違い、日ごろの立ち居振る舞いの違いにもとづいて、小学生レベルの「仲良しグループ」を作り、異質な存在に対して誤解に満ちた批判的な言動をくりかえすというのは、経営層の期待を見事に裏切る「民度」の低さを示している。

会社組織では、ときに、ある意見を通すために、戦術として意図的に敵対関係を作り出すことがある。それは純粋な手段としての政治である。別に本気で相手のことを嫌っているわけではない。にもかかわらず、それを単なる手段だと理解できず、本当に相手を嫌っているのだと誤解してしまう、素直さ、素朴さ。

かといって、すべてを正しく理解する人々だけが集まっている理想的な会社組織なんて、どこにもないのだから、会社員をやっている限り、あるいは、もしかすると生きている限り、このような「あまりに下らない」組織から逃れることはできない。そのことも、僕にはすでにわかっている。ただ、この下らなさから永久に逃れることができないという認識には、やはり疲れてしまう。

以上、ネガティブな記事で申し訳ない。

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2006/10/09

東大の先輩から「サラリーマン社会の生きづらさ」に助言

先日の記事「不興を買うのを覚悟で書くサラリーマン社会の生きづらさ」について東大の先輩から東大生のSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)経由で助言をいただいた。サラリーマン生活では、同僚でさえも「お客様」と見なせばよい、という助言だ。

僕の場合、会社の人間関係については別の割り切り方をしていて、酒が飲めないこともあり、勤務時間外の付き合いは一切しないし、相手の私生活に踏み込むようなことも一切聞かない。

仕事を進めるための必要最小限のコミュニケーションがあればよいのであって、それ以上、コミュニケーションに時間を費やすことは、非効率的である。というのが僕の会社の人間関係についての割り切り方だ。

僕は社内システム部門という、社員に対してサービスを提供する部門にいるので、その意味ではもちろん、システムを利用する部門の社員に対しては「お客様」と見なして接するように心がけている。

したがって、同じシステム部門の部下に対しては「お客様」として接するわけには行かない。サービスを提供する側の組織の内部では、上司も部下も、他部門に対して「お客様」として接するという目的と、サービスを提供する側であるという意識を共有しなければならないからだ。

したがって、同僚一般に対しては仕事に必要最低限のコミュニケーションしかとらないことで、組織全体として見たときの業務効率を最大化するよう努力し、同じ部門の同僚に対しては、ビジョンや目的を共有する同志として、お互いを「お客様」のように扱うようなこれまた冗長で非効率的なコミュニケーションはしない。

会社組織の内部で、すべての社員がお互いを「お客様」として扱うなどということをやっていたら、社内のコミュニケーションだけで社員が疲弊してしまい、会社組織の外部の、本当の意味での「お客様」やその他の利害関係者(株主、監査人)のために割くエネルギーが残るはずがない。

僕はそういう考え方なので、残念ながら上述の東大の先輩の助言に全面的に賛成することができない。

短期的なテクニックとして、同僚を「お客様」と見なすのが良いというのは、全くそのとおりだと思う。しかし、ある会社組織が、つねづね社員どうしで「お客様」と見なさざるを得なくなっているとすれば、その組織は、すでに対外的な視点を軽視し始めている証拠だ。「内向きの」組織になってしまっている証拠である。

これは社員一人ひとりの動機づけの問題にも関連している。社内で社員どうしがおたがいを「お客様」として尊重しなければ、個々の社員の動機づけが維持できないような会社組織は、きわめて非効率である。

本来なら、本当の意味での社外の「お客様」のために、一人ひとりの社員は、社内で「お客様」として尊重されるされないに関わらず、自分の内部からわきあがってくる仕事への使命感や動機づけによって仕事をすべきではないだろうか。

そして、社員一人ひとりが、そういう内部からの動機づけを持っていれば、社内で社員どうしがお互いに「お客様」あつかいする必要はなくなり、社外に視線を向けて本音の議論をたたかわせることができるはずだ。

ところが、えてして日本の会社組織では、社員の視線は内向きになりがちである。内輪であつれきを産まずに、仲良くやっていくこと、組織内部に波風を立てないことが最優先されてしまう。本来、優先されるべきなのは、所属部署の外部や、会社組織の外部にいる、本当の意味での「お客様」に対する視線であるにもかかわらず。

会社組織の外部から見れば、会社組織の内部で社員どうしが「動機づけを維持するため」と称して、お互いをお客様あつかいしている様子は、まったくもって滑稽にしか映らない。最近の「動機づけ型社員育成」のブーム(コーチングがその代表例)の滑稽さはここにある。

が、ほとんどの日本の組織というものが、民間企業だけでなく、公的セクターの組織もふくめて、こういった「内輪での無意味な持ち上げ合い」で運営されているのはやはり厳然たる事実なのだ。

だからこそ、書いても仕方ないと思いながらも、サラリーマン社会の生きづらさを書かせていただいた、というわけである。僕はこの状況が一朝一夕には変わらないし、何十年たってもおそらく変わらないだろうと既に分かっているからだ。

このように僕の視点は、自分の意志にかかわらず、つねにメタレベルへと一段上がって、高みから自分のおかれている状況を他人事のように見下ろしてしまう。宮台真司の用語を借りれば「超越系」の人間だから仕方ない。

あらためて宮台真司の「内在系」と「超越系」のわかりやすい定義を引用しておく。

「『内在系』とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせれば、幸せになれる者のこと。『超越系』とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかに煩悶する者のこと。〈社会内〉のポジショニングには自足できない存在です」(『限界の思考』p.103)

僕自身が「超越系」であり、大部分のサラリーマンが「内在系」である限り、僕にとってのサラリーマン社会での生きづらさは解消されないのだ。そしてそのこと自体も僕は知っている。

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2006/10/08

不興を買うのを覚悟で書くサラリーマン社会の生きづらさ

こういうことを書くと不興を買うので、書かないほうがいいとは分かっているのだが、やはり書かずにはいられない。サラリーマン社会というのは僕にとって本当に生きづらい社会だ。

といっても、生活のためにはこの社会で生きていかざるを得ず、この社会の外部など実在しないのだから、こんなことを書いても仕方ないのだが、本当にたまにイヤになってくる。

前にも同じようなことを書いたとは思うが、何がイヤかと言って、周囲の人々が馬鹿にしか見えないことがたまにあるからだ。例えば、どうしてこんなことをいちいち説明しなければ分からないのか、とか、最初にあれほどしつこく言ってあるのに同じ話をどうして何度も持ち出すのか、とか、そんなことすでに提示されている材料から自分で考えればかんたんに導き出せるだろう、とか。

もちろんこれらのことは、僕が周囲に過剰な期待をしているのであって、ふつうの人には望むべくもないことだということは十分にわかっている。もうサラリーマンになって十年以上たっているので、僕にとっては信じがたいほど頭の回らない人が存在するということも十分わかっている。

分かっているけれども、いつまでたってもそれに慣れることができないのだ。

上述のようなことがあるたびに、いらいらするというよりは、がっくりきてしまう。そういうときは子供に諭すように、一からていねいに説明するしかないのだが、大の大人を子供扱いしつつも、子供扱いしているということを相手に悟らせないようにしなければならない点が、いちばん「へこむ」。

相手を対等な仕事相手として扱うために、僕の方では相手を子供扱いしなければならない。こういうダブルバインドをつねに抱えながら仕事をしなければいけない。それがサラリーマン社会の生きづらさだ。

以前勤めていた会社の、あのドイツ人上司であれば、自分よりも教養もあり、頭もよいので、遠慮なく対等に議論できた。ところが、同じことを日本人の同僚相手にたまにやってしまうことがあるのだが、そうすると相手は必ずヘソを曲げるか、すねてしまう。最終的には、いかにも日本人らしい「しかと」、つまり口を聞かないという拒絶反応をする。(まさに小学生レベルである)

したがって、結果的に僕は相手を子供扱いせざるをえなくなる。完璧に反論できる場合であっても反論せず、「おっしゃるとおり」と褒めて見せるか、「私が悪かった」と謝るかのどちらかしかなくなる。対等に議論するという選択肢は、日本のサラリーマン社会の中の僕にとっては採用できないのである。

これがまだあと20年以上も続くかと思うと、正直、うんざりする。こちらが年をとればそれだけ頭は鈍ってくるが、周囲も同じように年をとっていく。自分より若い人たちは、これも「ゆとり教育」の成果なのだろうか、正直言って、自分が同じ年齢だったころより頭が悪い。

結局、どちらを向いても、「相手の人格を尊重するためには、相手を馬鹿にしなければならない」、「相手を大人扱いして見せるためには、相手を子供扱いしなければならない」というダブルバインドから逃れられないのだ。

以上、ふつうのサラリーマンには、絶対に理解してもらえないだろうなぁ。この孤独感は。

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2006/09/24

人間は「内在系」と「超越系」に分けられる

ここ数週間、社会学者·宮台真司をまとめ読みしているが、僕の実存的な煩悶に明快な図式を与えてくれる。

内在系と超越系という区別もその一つだ。今読んでいる『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』から引用する。

「『内在系』とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせれば、幸せになれる者のこと。『超越系』とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかに煩悶する者のこと。〈社会内〉のポジショニングには自足できない存在です」(p.103)

言うまでもなく僕はこの図式を使えば「超越系」なわけで、「内在系」ばかりの会社員に囲まれたサラリーマン生活がストレスフルなのはある意味当然なのだ。

こんなことを再認識することにどの程度意味があるかは別にして。

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2006/09/18

自衛隊不祥事の原因は風俗に行けなくなったこと?

先日来、自衛隊の誤射や銃火器の紛失と、不祥事が連続した。それに関連してYahoo!JAPANのニュースに自衛官の発言として引用されていた言葉に、強い違和感をもった。

スポーツ報知『消える自衛隊員に何が?…外出制限、集団生活、いじめ原因か』

この記事で「軍事ジャーナリスト」が次のように言っている。

「海自は1回、航海に出ると1か月間帰ってこない。航海中は娯楽もなく彼女とも会えない。かつて月に1回上陸した際には、みなでソープランドに行くなど、どんちゃん騒ぎをしてストレスを発散してきた。それが今は、行儀良くお利口になってきて、ストレス発散をしづらくなってきているんです」

つまり、ソープランドにも行けないほど世間の目を気にする必要が出てきたので、「発散」する場所がなくなり、自衛官にストレスがたまり、さまざまな問題の原因になるのだ、という論旨だ。

何より違和感をもったのは、このスポーツ報知の記事が、この自衛官の言葉を批判することなく、傾聴すべき一つの見解として紹介している点だ。ただ、こんな言い訳にもならない言い訳が正々堂々と報道されるスポーツ紙の世界こそ、僕が毎日を過ごしているサラリーマン社会そのものなのである。

例えば、夜、おしゃれな和風レストランでの飲み会に出席すると、席にすわるなり日本各地のソープランド街や、非合法な売春地区についてのうんちく話が始まったりする。

ふつうのサラリーマンが、リラックスした席でこういう話をすること自体の是非は、ここではあえて問題にしない。一介のサラリーマンである僕には、民間企業の営業職の職場はこんなもんなんだと、現実を受け入れるしか選択肢がないわけだ。

被雇用者として生活する人々は、年齢を重ねるごとに「他の選択肢」を確実に失っていく。そして、人によって異なるが、一定の年齢になれば、生きていくためには、明らかに法に触れることを除いて、大抵のことに妥協せざるを得なくなる。僕もその一人だ。

そういう風にして追い詰められていくのが、一般的な被雇用者(サラリーマン)の、いたって普通の生活である。ソープランド街のうんちく話にいちいち神経を尖らせる方が「どうかしている」のだ。

僕自身、こうしてインターネット上で、いわゆる「きれいごと」を書いている間は、そのような被雇用者としての生活から自由であるかのような幻想を抱くことができるが、現実には、会社員生活のいろいろな場面で、以上のような冷厳な事実を、イヤでも再確認させられるのである。

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2006/09/15

「時代錯誤の上司観」にトラックバック頂いた

ブログ「りんたい」から「時代錯誤の上司観」についてトラックバックを頂いた。

「TB: 時代錯誤の上司観」

「多くの部下は、上司にカリスマ性や器の大きさなどを期待していないんじゃないか、というのが私の感触です」というご意見だ。ほんとうにそうなら、僕はどんなにうれしいか。

ブログ「りんたい」の筆者さんの期待に反して、僕の周囲には、じっさいに言葉に出してそう話す人たちが存在する。僕の単なる思い込みではなく、そう言われた実体験にもとづく記事なのである。

たぶん「りんたい」の筆者さんには、「いまどきそんな人がいるの?」と、きっと驚いて頂けると思う。その意味では僕は「りんたい」の筆者さんとまったく同意見である。

僕が「りんたい」の筆者さんの言うように、「期待されている」からこそ、器の大きさを求められているのかと言えば...自信はない。単に価値観が食い違っているだけと、僕は考えている。

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2006/09/13

日常生活を相対化する視点の重要性

会社員を長く続ければ続けるほど、会社での仕事以外のために割ける時間が少なくなってくる。年齢が高くなって組織の中での責任が重くなり、退社後も仕事のために時間を割かざるを得ないということもあるし、体力・気力の面で他のことに手を出そうという意欲が低下してくるということもある。

数年前に比べると仕事に無関係な本、つまりITに関係のない純文学や現代思想書、経済学書などを読む量は確実に減っているし、世俗的で効率性重視の思考を超えた視点でものを考えることも、だんだんと難しくなってきている。

要するに自分の思考がだんだんと陳腐で、いかにもサラリーマン的なもの、実業的・功利主義的なものに馴致されつつあるということだ。

それでも自分がそうして実業的・功利主義的な思考にならされつつあるという自覚があるだけ、まだましだと思っているのだが、こういったある種「超越論的な観点」を維持するために、サラリーマン社会や日常生活というものを完全に相対化できる視点へのリファレンスを、できるだけ失わないようにしなければならない。最近、あらためてそう考える。

僕の場合は現代思想書や、高橋源一郎のような前衛的な現代文学が、日常を完全に相対化する視点になっている。単なる気晴らしに終わらない、一定の強度のある読書体験が、僕にとっての「二本目の足」(三本目?)で、たとえ仕事上の問題をかかえても、それを客観的に眺めることを許してくれる観点なのだ。...のはずなのだが。

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2006/09/12

時代錯誤の「上司」観

どうやら多くの日本人会社員は、上司というものは、人間的な器が大きいから上司たりうるのだ、と考えているようだ。カリスマ性と言い換えてもいいだろう。

しかし、これでは、日本企業は近代的組織ではないということになる。上司という地位が、「器」やカリスマ性といった属人的なもので決まるのでは、その組織を長期にわたって安定的に運営することはできない。部長のAさんが抜けたら、その部はおしまい、課長のBさんが抜けたら、その課はおしまい、というとんでもないことになってしまう。

近代的組織において部長が部長であるのは、人事評価によって一定の業務経験やスキルを身につけていると判断され、組織を運営する規則によって指名されたからである。それ以上でも、それ以下でもない。

部長の権威の源泉は、本質的には社内の規則であって、その人物のカリスマ性ではない。もちろんカリスマ性のある部長、課長といった人は存在するが、カリスマ性があるから上司になっているのではない。

こんなこと基本的な近代的組織の考え方だと思うのだが、いまだに上司に「器の大きさ」のような、客観的な根拠のない素質を求める時代錯誤の人間が、日本の会社組織には実にたくさんいる。

僕もいちおう管理職ということになっているが、たまたまそのポストが空いていて、会社に指名され、所定の責任と権限を組織の規則にもとづいて行使しているだけであって、別に器が大きかったり、カリスマ性があったりするからではない。

いったい日本人は、いつになったら「近代」というものを、日常生活できちんと実践できるようになるのだろうか。

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2006/09/10

今さら「男おやつ」などと

江崎グリコが2006/09/08、首都圏で働く男性1,000人を対象に勤務中のおやつに関するアンケートをおこなったらしい。男性会社員が勤務中に間食する「男おやつ」は、いまや常識になっているということだ。

「男おやつ」が常識に(ITmedia News 2006/09/08)

っていうか、今さら「男おやつ」みたいな造語で、男性社員が勤務時間中に間食することが、新奇な社会現象みたいなことを書かれても困るのだが。

デスクワーク、しかもパソコン作業中心の、いまどきのホワイトカラーが、頭を回転させるために糖分補給するのは当然だし、僕だって新入社員のころから間食をしている。某自動車メーカで上司だったドイツ人は、グループ内の会議になると「We need sugar.」と言いながら、あめやチョコレートを部下に配っていたものだ。

メンタルバランスチョコレート「GABA」を売らんがための、江崎グリコのつまらないマーケティング戦術なのだろう。

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2006/08/25

「人と違う」ことが苦手な日本人会社員

今日は、日本人会社員は、考え方の多様性を認められないというお話。

僕が某自動車メーカで、外国人部長の下で働いていたころ、同じ部の日本人がつぎつぎと他の部へ希望して異動したり、退職したりということがあった。

外国人部長は高度な教育をうけたとても快活な人で、部下が企画書を持ってくると、良かれと思って、こと細かにアドバイスをする。

ところが、それまで日本人上司の下で働いていた彼らは、そんな風にはっきりと改善点を指摘されたことがなかったので、自分の人格まで否定されたような気分になり、ヘソをまげて上司に対してだんまりを決めこんだり、やる気をなくしてしまったりした。

しかし僕は、その外国人上司ととても馬が合った。僕とふつうの日本人社員は、かなり考え方が違ったようなのだ。

日本人会社員は、上司と自分の関係を「親子関係」ととらえている。したがって上司に対して、「こまやかな心づかい」や「器の大きさ」といった、子どもが親に求めるものを求める。

しかし僕は、上司は対等に議論すべき相手だととらえている。僕が外国人の上司と馬が合ったのは、彼らの考え方に近かったためだ。上司が上司であるのは、単に制度の上で部署を代表する責任を負っているからにすぎない。

別に上司は、部下よりも度量があるからとか、人間的にすぐれているからとかいった理由で、上司になのではない。

日本人の中には、僕のように西欧的な「上司観」をもつ人もいるし、いかにも日本的で儒教的な「上司観」をもつ人もいる。

大事なのは、その多様性を認めることではないだろうか。

日本の会社員は、多様性を認めるのが実にヘタクソだ。「上司はこまやかな心づかいや器の大きさがなければならい」という儒教的な考え方に固執して、違った考え方をなかなか受け入れない。

ひどい場合は、自分の考えが正しいのだと信じきって、僕のように西欧的な考え方をもつ人間の方が間違っているのだと決めてかかる。

そういう日本人が、上述のような外国人上司の部下になると、ちょっと自分の意見を無視されたり批判されたりしただけで、ヘソをまげて、やる気を失い、チームとして成立しなくなるという悲劇がうまれる。

儒教的な考え方の社員ばかりのなかで仕事をしてきた日本人会社員は、ほんとうに「多様性」に弱い。自分と違う考えの人間に対して、とても単純にアレルギー反応を示してしまう。そしてそういう人間の足を引っ張るようなことを、無意識のうちにやってしまう。

そこから、いかにも日本的な仲間意識と、考えの違う人間を排除する「村八分」的意識が生まれる。仲良しグループはとても仲良しで、仲良しグループ以外の人間の行動を、偏った見方しかできず、すべて悪意に解釈する。

いつになったら日本人会社員は、「多様性」を受け入れられるようになるのだろうか。

日本人会社員は、多様な働き方、多様な「上司・部下像」をなかなか認められない。そんな「人と違う」ことを極端に嫌う一般日本人の性格こそが、日本組織の硬直性や、女性にとって勤続しにくい職場、ひいては少子化など、日本社会のあらゆる閉塞感の原因ではないのか。

いろんな考え方の人がいる、ということを受け入れられない日本人会社員は、どこを切っても同じ「金太郎飴」で、ただただ非生産的である。本来は、新しいものは、多様性からしか産まれないのに。

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2006/07/30

現実的なITシェアードサービスの作り方

今日はシェアードサービスについてのお話。ひとくちにシェアードサービスといっても、人事・総務・経理業務なども関係するが、ここでは情報システムの保守・運用についてのシェアードサービスに話を限定する。シェアードサービスというのはご承知のとおり、複数の子会社をもつ大企業が、グループ企業各社の間接部門を1つにまとめ、場合によっては別会社にすることで、グループ全体としての経営効率を高めることをいう。

情報システム部門の場合、グループ各社のそれぞれが各社の情報システムを管理するために個別に人員をかかえていたのを、企業グループ全体で一つの組織に統合し、業務を集中化する。それによってグループ全体としてみたときに、重複していたIT費用を削減することができる。

同時に、情報システムに関する企業グループ内の資源(ハードウェア、ソフトウェア)やノウハウを集約することで、情報システムの標準化を実現でき、情報セキュリティのレベルを同じレベルに高めることも期待できる。

また、情報システム部門を集約することで、これまで社内の管理部門だった人員が、グループ各社にサービスを提供する立場に変わる。それによって、より良いサービスを提供しようという「サービス・マインド」(何だかこういう話について書くとヘンな英語ばかりになってしまう)が産まれることが期待される。

以上が、情報システムのシェアードサービスに関する理想論だが、実際のシェアードサービスはこんなに美しいものではない。

僕はふつうの会社員より転職回数が多い分、某大手コンピュータメーカに情報システム部門のシェアードサービス化を委託している企業を、2社も経験することができた。1社は大手自動車メーカ、もう1社は大手不動産デベロッパーだ。

自動車メーカではグループ会社をとりまとめる親会社の情報システム部門の社内SEとして、そして、不動産デベロッパーではとりまとめられる側の100%子会社の情報システム部門の責任者として働いていた。シェアードサービスを提供する側と受ける側の両方を経験させてもらっているというわけだ。

企業規模を社員数でいうと、自動車メーカはグループ全体で3万人以上、不動産デベロッパーはシェアードサービスの範囲内のグループ各社合計で2000人前後と思われる。これだけ企業規模が違うと、当然のことながら某大手コンピュータメーカが構築しているシェアードサービスの仕組み(かっこよく言うと「スキーム」となる)も異なっていた。

そもそも自動車メーカの方は、シェアードサービス化する以前に、情報システムの保守・運用を担当する100%IT子会社が存在した。そのIT子会社にネットワークから業務システムまで、保守・運用のノウハウが蓄積されていたので、某大手コンピュータメーカはこの子会社に出資することで、シェアードサービス提供会社として生まれ変わらせるという方法をとっていた。最終的にこの会社は自動車メーカは完全に某コンピュータメーカの100%子会社になった。

一方、大手不動産デベロッパーの方は親会社の情報システム部門のうち数人が某大手コンピュータメーカからの出向者といっしょになって、シェアードサービスを提供するための別会社を立ち上げていた。別会社の主要メンバーは某大手コンピュータメーカからの出向者で、親会社からの出向者はどちらかといえば脇役だ。

不動産デベロッパーのシェアードサービス提供会社には、自動車メーカの元100%IT子会社と違って、そもそもグループ各社の情報システムに関する知識がまったくないので、分社化された後もネットワークと情報共有基盤の運用にサービスを特化していた。対して自動車メーカのシェアードサービス提供会社はネットワークなどの情報基盤だけでなく、業務アプリケーションの保守運用も継続してサービスメニューとして提供していた。

グループとして社員数が2~3千人以下の場合、シェアードサービス提供会社の人員がグループ各社の業務システムの内容まで把握するというのは、超人的に有能な業務SEでもいない限り不可能である。したがって情報基盤に関するサービスに特化するというのは、一定のサービス水準を維持するには妥当な方針だ。その意味でこの大手不動産デベロッパーのシェアードサービスの仕組みは合理的だと言える。

他方の自動車メーカのシェアードサービス提供会社についても、もともと各社の業務システムの保守・運用ノウハウを有していた100%IT子会社が母体になっているので、このIT子会社そのものが数百名規模をほこっていたことからして、グループ各社の業務システムの保守・運用までをサービス内容に含めるというのは妥当である。

しかし、グループとして社員数が2~3千人以下であり、もともとグループ各社の業務システムノウハウが集約されているようなIT子会社もなく、シェアードサービス提供会社の人員数も数十人という規模といった状態なのに、各社の業務システムの保守・運用までサービスに含めるというシェアードサービスのスキームには無理がある。現実的なマネジメント感覚をもっている管理職なら、このようなスキームに明らかに無理があることは容易に判断できる。

しかし、そういった明らかに非合理的なことがたびたび起こってしまうのが、現実のサラリーマン社会というものなのである。現実のサラリーマン社会で人の合理的な判断を歪める要素になるのは、過剰な期待、過剰な自信、過剰な自尊心などだろうか。

完璧な人間は一人もいない、それが単なる一介のサラリーマンならなおさらである、と言ってしまえばそれまでなのだが、そのような誤りに対するチェック機構が働くかどうかが、失敗を避けられるかどうかの分かれ目であるような気がする。

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2006/07/23

転職したくないから転職する

来春に向けての新卒学生の就職活動は売り手市場という話だ。優秀な学生は内定をいくつももらっているので、各企業の採用担当者は内定を出した学生の引きとめに躍起になっているらしい。

日本の労働市場は10年前に比べれば流動性が高く、転職する人が多くなっているとは言え、まだ転職回数の多さは転職するときの障害になるという現実がある。また、昔より大企業指向が弱まっているという通説もどうやら間違いのようで、むしろ少子化・年金問題など、日本社会の将来に対する不安から、大企業指向は健在のようだ。

こうしたことから、20代から30代前半の日本のホワイトカラーは「転職を避けるために転職をくり返す」という矛盾した行動をとるようになってきているのではないか、というのが僕の個人的な見解である。

よく言われるように、新入社員の3割は3年以内に転職するという。これは、ホワイトカラーの転職に対する抵抗感が弱まってきたからではなく、一生働ける企業をより厳しい目で選別するようになってきたからではないだろうか。

一生働ける企業をより厳しい目で見つけ出そうとすると、今の職場の欠点が将来に対する不安要因として余計に目立ってしまう。この会社では一生働けないと判断すれば、より良い職場を求めて転職する。そして次の職場でも同じことがくり返される。このようにして「転職はすべきでないという」考え方から、「転職をくり返す」という矛盾した行動が導き出される。

企業側は従業員の教育コストを最小化するため、優秀で転職しない社員を採用しようとするが、そうしようとすれば、新卒で入社した社員が転職しないような大きなインセンティブを与えるか、すでに転職経験のあるキャリア採用にたよるかのどちらかになる。

しかし、新卒の新入社員の転職を避けるために、どれだけのコストをかければいいのかは簡単に計算することができない。ふつうに考えると、小さな会社ほど、新卒をひきとめるためにより大きなコストをかける必要がある。

経営者が十分に合理的だとすると、小さな会社は、新卒をひきとめたり、一から教育したりするよりも、転職経験のあるホワイトカラーを採用したほうが低コストなので、後者を選択する。ところが転職経験のあるホワイトカラーは、一生働ける会社を厳選する傾向が強いからこそ転職したと考えられるので、再び転職する可能性が高い。

ところで、転職をくり返すホワイトカラーが最終的にとどまる会社というのは、一生働けると判断した会社であるか、転職したくてもできなくなった時点でたまたま在籍した会社であるかのどちらかになる。中途採用したホワイトカラーが、このどちらの理由で自分の会社にとどまっているのか、企業側は正確に判別することができるだろうか。

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2006/05/16

あいた口がふさがらない『日経ビジネス』の女性活用特集

『日経ビジネス』2006/05/15の特集は「できなければ会社は潰れる 女性の活用待ったなし 均等法20年の懺悔と覚悟」だが、男性読者中心の経済紙が、たま~に思い出したように打つこの手の女性活用特集を読むと、暗澹たる気分になる。

すべてが建前なのだ。この特集の最後の最後を読めば分かる。

「左のグラフが示すのは、『仕事と家庭の両立支援』を講じれば働く女性は着実に増やせること。後はやるかどうか。問われているのは、男の度量だろうか」(p.41)

結局すべての問題が「男の度量」のひとことに集約されてしまうのだ。つまり、女性の働く機会の平等は、女性自身がはじめからもっている権利ではなく、男性がその寛大な心、つまり「男の度量」で女たちに恵んでやるものなのだ。

こんな考え方をしている限り、『日経ビジネス』はいくらこんな特集を組んだって、何の説得力もないのだ。

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2006/05/15

個人情報「過保護」の原因は審査制度か?

2005/04から個人情報保護法が施行されてから、個人情報の「過保護」が問題になっているが、その責任の一端はプライバシーマークや情報セキュリティ管理システムの審査機関にあるのではないか。

数年前、社内の情報システム部門として、プライバシーマークの審査を受けたことがあるが、審査員は業務内容についてほとんどおかまいなしに、情報セキュリティの一般論で対策の甘さを指摘する。そんなことまでやめろと言われたのでは、そもそも業務が成り立たなくなる、というようなことでも平気で指摘するのだ。

仮にこれが病院だとして、個人情報の「第三者開示」について厳しい指摘を受けていたとしたら、JR西日本の脱線事故で問題になったように、警察から収容患者の氏名の開示を求められても、断りたくなるのは当たり前だろう。

プライバシーマークや情報セキュリティ管理システム(ISMS)の審査員は、経済産業省のガイドラインにある「公益上必要な活動や正当な事業活動までも制限するものではない」という記述を軽く見て、個々の企業の事業活動をちゃんと理解しないまま審査にあたっているのではないかと考えざるを得ない。

このような審査体質が変わらない限りは、日本企業や各種団体の個人情報の「過保護」はなくならないだろう。

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2006/01/07

中途採用者を見くだす社風

■これまでいくつかの会社に正社員として転職しているが、中途採用者にどういう態度で接するかは千差万別だ。ひとつ言えるのは、社内のさまざまな業務がどれだけ標準化されているかと、中途採用者に対する寛容さには、相関関係があるということだ。

部署ごとの特殊な業務手順を許さず、できるだけ全社統一の規則にしたがって仕事を進めようという考え方が、会社のすみずみにまで徹底されている会社は、中途採用者をうけいれる準備ができた会社だと言える。

逆に、それぞれの部署が自分たちの業務手順に誇りを持ち、現時点ではそれが最適だと考えている度合いの強い会社は、中途採用者をあからさまに新参者としてあつかう傾向がある。

そもそも会社ができたばかりで、業務手順が固まっていないような会社が、中途採用者をうけいれやすいのは言うまでもないが、創設以来の歴史が長いからといって、かならずしも中途採用者に冷たいとも言えない。業務の標準化に絶えずとりくんでいる会社は、たとえ古い会社でも中途採用者をうけいれやすい。

僕のこれまでの転職経験では、某化学繊維メーカの100%情報システム子会社が、もっとも中途採用者に冷たかった。たとえて言えば、移民に対して徹底した同化政策をとっている国家のような感じだ。

彼らは決して中途採用者を悪意ではじき出そうとしているわけではない。ただ「この会社に入ったからには、この会社固有の文化に染まるのは当然だ」と信じて疑わない社員ばかり、というだけのことだ。

その結果として、三十歳を過ぎた中途採用者の僕は、同じ年令の経理部員から「~君」とクンづけで呼ばれ、会議資料を一人ひとりに配ってまわったとき、高圧的に「どうもありがとう」と感謝されるという経験をした。中途採用者を見下すのは当然、という考え方が、これまた当然のこととして存在していた、そんな会社だった。

もう一つ、中途採用者を無意識のうちに排除してしまう会社として、オーナー経営者の影響力が強すぎて、社風がほとんど新興宗教的な強烈さをもっている会社がある。こういうドぎつい社風の会社も、中途採用者にとってはいくら好条件を提示されても、あまり入りたくない会社である。

今後、団塊の世代がいっせいに定年をむかえ、三十代、四十代の中堅層労働力はますます流動化し、3、4回の転職は当たり前という世界になるだろう。そうなったとき、中途採用者を一段下に見るのが当たり前という社風の会社や、オーナー経営者の強烈な社風をもつ会社が、優秀な中堅層を外部から獲得できないだろうことは間違いない。

労働力の流動化に合わせて、それぞれの企業も入社の敷居を下げるための努力を強いられるのではないかと考える。

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2005/11/10

いよいよ「日勤教育」裁判沙汰に

■共同通信の2005/11/10付けニュースによれば、JR西日本社員が「日勤教育」で精神的苦痛を受けたことに対する損害賠償を求めて、JR西日本と上司らを大阪地裁に提訴したらしい。いよいよ「日勤教育」が司法の場で裁かれることになる。

これを機会に、いろんな企業の「社内のジョーシキ、世間の非ジョーシキ」によって苦痛を受けている社員が、「精神的苦痛」を司法の場で争うようになると面白くなる。

共同通信によれば、上司に怒鳴られた後、会社への思いなどをテーマにした報告書の作成を強制された、とあるが、これに類したことはおそらくどの会社でも、愛社精神を社員に強制的に植え付けるための洗脳施策として行われているのではないだろうか。

さすがにJR西日本のように、これを「71日間」やるところまで行かないと、損害賠償請求まではもちこめないかもしれないが、そうした行為の妥当性の評価についてだけでも、司法判断を得られれば、賠償金をもらえなくても提訴する意義はあるかもしれない。

組合のある企業にお勤めの方は、労組を味方につけて、会社からさらなる陰湿ないやがらせをうける覚悟で提訴してみましょう。

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2005/08/07

運航ミスの荒唐無稽な精神論

■今日の日経朝刊は「日航機墜落事故から20年」というタイトルで、最近の運航トラブルに見られる安全意識の薄れによるミス頻発をとりあげている。日経に限らず、公共交通機関の事故原因となると、過半の新聞報道は「安全に対する意識が薄れてきている」ことを第一に取り上げる。しかし「安全に対する意識」といったようなつかみどころのないものを、第一の事故原因にするのは、それこそ責任の所在をあいまいにする議論の進め方ではないか。

それに20年前の社員と現在の社員で、「安全に対する意識」が明らかに低下しているということを新聞社は一体どうやって検証したのか。ミスが多く発生しているという事実から、勝手に「安全意識の低下」という原因を推測しているのではないのか。ミスや事故の原因を、個々の社員の「意識」といった抽象的なものと短絡させてしまう日経新聞の記者こそ、記者としての「意識が低下」しているのではないか。

20年前の航空会社社員の置かれている環境と現在とで、客観的に変化している事実がある。それはこの記事でも触れられているように、国内線の輸送人員が20年前の二倍になっているのに、社員数は二倍になっていないということだ。合理化努力で社員一人当たりの業務負荷が増えている。これこそ客観的に検証可能な事実であり、まず第一にミス多発の原因として疑うべき事実ではないのか。

「安全意識」や「社員の緊張感」といった抽象的なものが、あたかも空の安全の鍵をにぎっているかのような論調は、大手新聞社の記事としては明らかにずさんであり、論理的に破綻している。この記事を書いた記者は、このような指摘を受けたとしたらおそらく、「記者としての意識が低下していました」と論点のずれた反省をするに違いない。自分で自分のことを客観的に分析することができない記者が、どうして他人のミスを客観的に分析できるだろうか。そしてこういう記事が、「ミスの原因は意識低下である」という荒唐無稽な世論をますます根強くし、各社が事故に対して真に有効な対策をとる可能性をつみとってしまう。

日本の新聞記者はいったいいつになったら日本的精神論から卒業し、この種の問題を実証的に議論できるようになるのだろうか。そうならない限り、業務負荷増がそのままミス多発につながる日本の企業組織も変わらないだろう。


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2005/05/06

エスカレートするJR西日本たたき

■予想どおりJR西日本天王寺車掌区の休暇中の社員が、JR福知山線脱線事故当日にボウリング大会をおこなっていたことに対する下品なバッシングが、昼間のワイドショーを中心として、『報道ステーション』のようなプライムタイムのニュースでまで高揚してきた。

こうなると単なる「日本人ぐるみのJR西日本いじめ」になってくる。一般大衆が勘違いの正義感をふりかざして、JR西日本をたたくことはすべて正当化されてしまう。いかにも日本的な陰湿な社会的いじめである。

休暇中の天王寺車掌区の社員がボウリングに興じていたことで、非人間のような非難をあびなければいけないのなら、事故現場に駆けつけなかったJR西日本社員全員が同罪だという暴論になる。

ボウリング大会がダメなら、自宅でテレビゲームをやっていた休暇中の社員はどうなのか、愛知万博に出かけていた社員はどうか、スーパーで買い物していたくらいなら許されるのか。それとも今回の事故で遺族全員との和解が成立するまで、JR西日本社員は勤務時間外まで全員首をうなだれて生活しろということか。

たまたま連休で昼間のテレビのワイドショーを目にしたのだが、JR西日本という格好の獲物が登場したのをいいことに、ここぞとばかりに日本人が、各種報道機関の記者たちも含めて、飢えた正義感を癒そうと義憤を噴出させている。

この集団心理こそ、安全性を軽視するとともに、運転士の人間的側面(人間かならず失敗する)を無視したJR西日本の企業体質と同じ根っこである。日本人はどうやら、今回の大事故の失敗から何ひとつ学べそうにない。


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2005/05/05

休暇中の社員まで非難する愚かさ

■JR福知山線の脱線事故について、事故当日休暇をとっていたJR西日本社員がボウリング大会に行っていたということに対するバッシングが始まったが、同社に対する批判もいよいよ非本質的で下品でワイドショー的になってきた。

同社社長が記者会見で「勤務時間外だったので」と弁明したことについて、「勤務時間外でも社員は社員なのだから現場の救助支援に向かうべきだった」と憤慨する意見はまったくのナンセンスだ。私生活にまで踏み込んで社員としての責任を問う、そういう風に社員を100%組織人としてとらえ、一私人としての側面を完全に無視する日本的な考え方こそ、JR西日本の「日勤教育」に見られるような個人に対して抑圧的な組織の体質の原因になっているのだ。

休暇中の社員が現場に駆けつけるかどうかは個人としての良心の問題であって、社長が謝るような問題ではない。にもかかわらず社長に謝らせることで、企業の管理強化を社員の私生活にまで及ばせ、同じような事故が再び起こるように仕向けている。これこそ日本社会の醜い愚かさだ。こんなときだからこそ、科学的な事故原因の究明を最優先に同社を追及すべきであって、こんなワイドショー的なネタで安全性に関する議論を非本質的な方向へそらすべきではない。

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2005/04/30

「集団圧力」と「同調行動」

■「うちの会社の常識は、世間の非常識」と自嘲的に語るサラリーマンは多い。今朝の日経新聞三面の「働くということ2005」というコラムは、「集団心理の落とし穴」と題して、次々と発覚する企業不祥事の背景に、米国の心理学者ソロモン・アッシュが実証した「集団圧力」と「同調行動」を見ている。

このコラムによれば同教授は「一人でも違う意見を述べれば同調の圧力は一気に弱まる」と言っているらしく、だからこそ「新鮮な視点を持つ外部からの人材導入はその有力な手段となりうる」とこのコラムは書いている。2004年は全産業で中途採用を実施した企業が50%を超え、10年前に比べて「16~18ポイント高まって」いるらしい。しかし、である。その「新鮮な視点」を活かすも殺すも受け入れ側の組織しだい。歴史の長い組織ほど「新鮮な視点」を、何の悪意もなく無意識のうちに圧殺する性格を抜きがたく有している。

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ベテラン社員の文書化・標準化軽視

■科学的プロジェクト管理が日本企業の情報システム開発になかなか根付かないのは、ベテラン社員が標準的なプロジェクト管理業務に慣れすぎてしまい、そこからはみ出した事態に対処することにしか仕事としてのやりがいがを見出せなくなっているからではないか。

日本企業の中間管理職は仕事を複雑化し、自分にしかできない仕事に変えていくことで自己保身している。そのためプロジェクト管理においても、日程遅れや要件定義の甘さなどといった問題が、まるでこれから必ず起こるかのように想定し、当たり前の管理手順をちゃんと踏むことを後回しにして、起こるかもしれない問題に対処することを優先してしまう誤りを犯している。

ベテラン社員たちは標準的な手順をきちっと踏むことをバカにし、必ずしも起こるとは限らない問題に先回りして対処することこそが、まるで中間管理職としての存在意義であり、経験の活かしどころだと勘違いしているのだ。社内の規程類を整備する当事者である中間管理職の彼らが、規程類を軽視することに自らの存在意義を見出しているような状況では、科学的プロジェクト管理手法のような体系的な方法論が根付かないのはむしろ当然である。

ベテラン社員は若手社員のマニュアル至上主義を批判する前に、まずマニュアルこそ最低限の業務品質と業務効率を保つ唯一の手段であることを思い出すべきだ。業務を文書化・標準化すること自体が悪なのではない。業務を文書化・標準化することで初めて、業務のうち文書化・標準化できない部分が明らかになる。逆に言えば、業務のうち標準的な部分が、文書化されてきっちり伝承されないような職場で、それよりもさらに高度な業務、つまり、文書化・標準化することが難しい業務がきっちり伝承されるわけがない。

ベテラン社員は即興演奏的な仕事のスタイルこそが、ベテランたるゆえんであるという勘違いをしているために、若手社員への正確な業務ノウハウの伝承に失敗している。

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2005/04/28

「日勤教育」という名の組織保身

■失敗原因には階層性があり、会社組織の失敗は往々にして現場担当者一人の責任にされがちだが、その背後には組織運営上の原因が潜んでいることが多い。企業が事故や不祥事を起こしたとき、当該企業や管轄する役所が原因究明のための特別チームを作ることはよくあるが、世間に与える影響を考慮して、当たり障りのない結論を出してお茶を濁すこともある。

以上はちょうど昨日から読み始めた東京大学名誉教授・畑村洋太郎著『失敗学のすすめ』(講談社文庫)から自由に引用したものだ。

先日の大阪での脱線事故について、その後の報道でこの鉄道会社では、駅からの発車時間が数十秒遅れたり、ホームをオーバーランした場合、その運転手に「日勤教育」という、業務に直接関係のないレポートを何十枚も書かされたり、複数名の上司から集団で詰問されるなどの、精神的懲罰を与える制度があったという。この鉄道会社の時代錯誤ぶりにはあいた口がふさがらない。

「日勤教育」では再度ミスを犯した場合、運転手を辞める誓約書を書かされることもあったというから、運転手に与える精神的圧力は強力で、昨日の『報道ステーション』は「日勤教育」が直接の原因となった自殺者のケースも紹介されていた。

今回の事故の運転手も一度オーバーランを起こして二週間弱の「日勤教育」を受けており、事故直前に二度目のオーバーランを起こして1分半の遅れまで生じてしまっている。まだ二十代前半という若さで、遅れを取り戻そうという精神的重圧と、二度とハンドルを握れないかもしれないという将来に対する悲観が入り混じって、パニック状態になっていたことは容易に想像できる。

さきほどの引用にもあるように、事故を現場担当者個人の責任に帰したのでは、まったく問題解決にはならない。また、国土交通省の鉄道事故調査委員会は「原因特定には時間がかかる」と、早くもお茶を濁しにかかっている。事故直後に鉄道会社幹部が「置き石」説を強調したのも、運転手をかばうというよりは、自分たちも含めた経営層の保身のためである。

このままいけば個人に責任をなすりつけ、まったく実質的な効果のない「日勤教育」という時代錯誤の懲罰制度は見直されないまま、事故原因はこの鉄道会社と国土交通省の最強タッグでうやむやにされてしまうことだろう。
ところで僕が通勤に使っている私鉄は、『失敗学のすすめ』でも取り上げられている数年前の脱線事故を起こした地下鉄と相互乗り入れしているが、ほぼ3日に1日は夜のラッシュ時間帯に3~5分の運行遅れを起こす。乗客の安全を最優先にして、定時運行の効率性を犠牲にするこの私鉄の運行方針はきわめて正しい(それでも最近、人手による無理な踏切の運用が原因で死亡事故を起こしてしまっているが)。

今回脱線事故を起こした鉄道会社は逆に、乗客の安全と現場運転手を犠牲にして、企業としての効率性と経営層の自己正当化を最優先にしている。おそらく同社の体質はそうかんたんには変わらないだろう。

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2005/04/27

組織の統治における力の拮抗

■今朝の日本経済新聞「春秋」には先日のJR脱線事故について、JR西日本にはいまだに「国鉄一家」としての閉鎖性が残っているのではないかと書かれていた。事故原因として当初置石の可能性を強調し、身内である運転手をかばおうとしたためだ。

ただし日本で身内をかばう発想が弱い企業がどれだけあるか。中途採用者を次々受け入れて組織が拡大途上の企業でもない限り、社員の大部分が新卒採用の生え抜きといった日本企業なら、身内をかばう発想はむしろ避けられない。身内をかばう内向きの考え方があること自体が問題なのではなく、それに対抗して組織としてバランスをとる反対向きの力、客観的に自分の組織をチェックする力が存在しないことが問題なのだ。

客観的に自分たちの組織をチェックする「他者の視点」は、言うまでもなく意識して導入しようとしなければ導入できない。会社全体のガバナンスのレベルでいえばそれは今東京証券取引所が上場企業に対して義務付けようとしている社外取締役制度だったりするのだろう。

ITを仕事としている僕がITガバナンスのレベルで考えれば、「他者の視点」というのは利害関係のない第三者によるアセスメントやシステム監査であったり、特定のベンダーとべったりの関係になることを防ぐための、公正な調達プロセスであったりする。社内ITが「他者の視点」を欠くと、技術的なロックイン状態が起こって、技術の盛衰のリスクに対して脆弱な情報システムができたり、社員のモチベーションの維持に失敗したり、情報システムの品質を維持できずに「安物買いの銭失い」状態になったりといった弊害が生じる。大切なのは反対向きの二つの力が拮抗していることであって、身内の理論の存在そのものが悪なのではない。

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2005/03/30

企業文化を融合する努力の悲劇

■某輸送機器メーカーの外国人社長が昨日また公の場で謝罪をしていた。社長就任以来、謝罪しどおしで気の毒な限りだ。今回、車両の欠陥についての報告が半年も遅れたのは、いかにも歴史ある財閥系日本企業らしい完璧主義と、歴史ある欧州企業らしい形式的合理主義の相乗効果だ。

財閥系日本企業の組織は、内部的な報告でも拙速は許されない。上への報告はスピードより中身の完成度、どれだけ上に配慮した中身になっているが重視される。その一方で、資料の形式的な美しさは重視されない。しかしダイムラーのような欧州企業では、ビジュアル面の訴求力も重視される。

その結果、このメーカーの社員は、上への配慮に満ちた中身の完成度と、外見的な完成度の両方を求められ、なおかつ現場の社員は極めて生真面目な人たちばかりなので、上からの要求に精一杯答えようとする。そうして、対外的な報告に気が回らないまま、半年間も遅れたのは当然といえば当然である。この報告プロセスには一点の悪意もない。おそらくこのメーカーは日本的完璧主義と欧州的完璧主義を融合させようと必死になっているに違いないが、そんなことをやっている限り、今回のように対外的な視点がおろそかになることは避けられない。

日本人社員は日本的完璧主義を捨てて、欧州的に「手を抜く」ことをおぼえ、「仕事をしないことが仕事である」という考え方を実行に移さなければならない。そうやって仕事のスタイルを大株主である欧州企業側に寄せていかなければ、同じような問題はこれからも繰り返されるだろう。

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2005/02/02

誇り高き三菱自工社員

■三菱自工がついに母体である三菱重工中心の支援で「最後の再建」に臨むことになったようだが、ブランドイメージの低下による販売台数の減少で、とても現在の生産設備を維持したまま黒字を維持できるとは思えない。一体三菱重工はどう始末をつけるのか、あと数年間はかなり興味深い見ものだ。よく言われるように日本の製造業は現場は一流、経営は三流だ。せっかくダイムラークライスラーが資本参加して、経営と管理機能の部分を根本的に変革しようとしたのに、三菱自工のプロパー社員たちは高すぎるプライドのために従来のやり方に固執し、再建の機会をみすみす失った。

昨年度の再建計画発表以降も再び三菱グループの支援に甘え、ローカルルールを排除して管理部門のオペレーションを標準化することを怠った。おそらく三菱自工のプロパー社員たちはいまだに、再建が失敗したのはダイムラークライスラーから派遣された人々の現状を無視した強引なやり口のせいだと考えているのだろう。そうでなければここまでの状況に陥ることはなかったはずだ。

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2004/12/11

日本に蔓延する「プロジェクトX」症候群

■いまの日本企業にはもしかすると「プロジェクトX」症候群のようなものが蔓延していないだろうか。プロジェクトの目標や範囲、経営資源の制約を厳密に考えないまま、リーダーの思い入れと情熱だけで突っ走れば何とかなったのは、日本全体の経済が右肩上がりに成長していた時代までの話。

ところがNHKの『プロジェクトX』にほだされて、このゼロ成長時代にもかかわらず、まるで経営資源の問題などどうにでもなると言わんばかりに、考えるよりも先に実行あるのみというプロジェクトが増えてきているのではないか。日本では数年来プロジェクト管理手法としてPMBOKなどが流行になっているが、それも結局はリーダーの熱意にメンバーが盲従するという、まさに『プロジェクトX』的、無謀で非合理的で体育会系のプロジェクトのブームに堕してしまっているのではないだろうか。

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2004/10/19

小さな会社の中間管理職の不幸

■小さな会社の中間管理職は不幸だ。若くして部課長クラスになってしまうと、部下に対しては、たとえうわべだけであっても、自信をもってリードしなければならない。中には勘違いして、自分の仕事のやり方そのものに自信を持ち、自己否定の能力をなくしてしまう。自分や会社のおかれている環境に合わせて、新しい仕事のやり方を学んで、取り入れることができなくなってしまうのだ。

そうするとその会社の部課長クラスの人たちは、みんなピタリと成長がとまってしまうことになり、それはそのまま会社全体の成長の足かせになる。こういう事態を避けるためには、部課長クラスのローテーションをするより他ない。同じグループのリーダとして仕事をし続ければ、どんどん部課長クラスの仕事のやり方は硬直化し、タコツボ化する。そのせいで部門間のコミュニケーションが悪くなり、組織として一つの方向に進むときのスピードはますます遅くなる。

部課長クラスが、どれだけ謙虚に自分の限界を認めることができるか、小さな会社が規模を拡大できるかどうかは、そこにかかっていると言っていいのではないか。

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2004/10/17

強権発動型リーダが必要な場合

■数日前の「愛と苦悩の日記」に、これから規模の拡大を目指す会社の場合、経営のあり方はどうあるべきかについて書いた。もちろん僕のような単なる中堅会社員が、経営のあり方をうんぬんするのは「まだ早い」と言われるのは承知だが、自分でやれるかどうかは別として、それぞれの会社に適した経営のあり方を傍目から論じるだけなら、それなりの洞察力があればかんたんにできる。

そのときは、これから規模の拡大を目指す会社は、カリスマ経営者による社内統治か、ルールによる社内統治かのどちらかだと書いた。しかしもう少しよく考えてみると、小さな会社で社内にルールを徹底するというのは難しいことがわかる。

小さな会社は仕事が標準化・明文化されず、どうしてもそれぞれの担当者の暗黙知にたよらざるを得ないが、これをいきなり標準化・明文化するのは、その担当者の立場をなくすことになる。したがってそれぞれの担当者は必死でわが身を守ろうとして、仕事の中身を無意味にきめ細かくし、自分の部署でしか通用しないルールを増やしていく。他部門とのヨコの連携は二の次になり、小さい会社のわりに、セクショナリズムが横行することになる。

こういう担当者には、外からの圧力が必要なのだ。規模の拡大を目指さず、みんなで仲良く仕事をつづけていくだけなら、セクショナリズムなど大した障害にならないが、規模を拡大することを目標とする限り、セクショナリズムは致命的だ。組織の規模が小さい間からセクショナリズムがはびこっているようでは、規模の拡大とともにそれが強まりこそすれ、弱まることはない。規模の拡大によって、それぞれの部署の中での部門長の権限が大きくなるためだ。

だとすれば、組織の規模が小さいうちに、セクショナリズムの芽は断固としてつんでおく必要がある。そのために必要なのは、結局のところ強力なリーダーシップなのだ。つまり、これから規模の拡大を目指す会社の経営のあり方は、強力なリーダーシップしかありえないということになる。誰も気を悪くしないように、全員をもりたてることが得意な「調整型」のリーダはいらないのだ。

むしろ成長を目指す企業が「調整型」のリーダをトップにしてしまうと、社内のセクショナリズムは、ますます深く根を下ろすことになり、会社全体が一つの方向に集中して進むことを妨げる。これはまだ小さな会社にとっては致命的な欠陥だ。成長を目指している企業に調整型のリーダはいらない。強権発動型のリーダが「必要悪」として統治すべきなのだ。ニコニコ笑って社員一人ひとりの話を聞き、社内に敵を作らないといった感じの「調整型」リーダは、企業規模の拡大に失敗する。少なくとも論理的にはそうなる。

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2004/10/13

小さな会社が規模拡大を目指す方法

■小さな会社が、規模の拡大を目指そうとすれば、経営のあり方は次のうちのどちらかしかない。一つは、カリスマ経営者が会社全体をグイグイと拡大へ引っ張っていく方法。財閥系を除いて、いま存在する大企業の創業期は、カリスマ経営者が全社員の考え方をひとつの方向にまとめることで規模を拡大できたのではないだろうか。

もう一つは、カリスマ経営者がいない小さな会社の場合になるが、属人的な仕事のやり方から、組織やルールが支配する仕事のやり方へ変えていく方法。小さな会社はほぼ例外なく、社内の一つひとつの仕事が、その仕事を昔から担当している人にしかできないようなやり方になってしまっており、その担当者は自分のやり方がいちばんいいと思い込んでいる。いちばんいいと思っていなくても、それ以外のやり方を考え出す能力がないため、同じやり方を続けることしかできない。

しかし、こういう状態である限りは規模の拡大は不可能だ。理屈はかんたんで、規模が拡大すると、いままで一人の担当者でできていた仕事の量が増えるために、二人以上でこなさなければならなくなる。するといままでの担当者は、二人目の担当者に仕事を教える必要がでてくる。仕事のやり方が、その人にしかできないようなやり方になっていると、二人目に教えるという作業の効率が非常に悪くなり、担当者が二人に増えているのに、全体としての能率は二倍にならない。すると規模の拡大しようとしても、業務処理が追いつかず、必然的に拡大に限界がでてくる。

そうならないためには、仕事のやり方が「だれでもできるような」やり方になっている必要がある。「だれでもできる」というのは、バカでもできるようなかんたんなやり方になっている、ということではない。だれにでも理解できるように体系化されているということだ。そのためには、担当者自身が、自分の仕事を客観的に、つきはなして、ある意味「批判的に」見ていなければならない。そうでないと自分の仕事を他人に理解させることはできない。小さな会社に所属している人で、自分の仕事のやり方が正しいと思っている人は、会社の規模の拡大を妨げている人なのだ。

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2004/06/22

学歴こそが新卒学生評価の最適な指標

■とある読者の方から一風変わったメールが届いた。以前このページのエッセーで、こと就職・転職活動に関する限り日本では依然として高学歴が有利に働いており、とくに新卒学生の能力を判断するにあたって学歴こそが最適な指標であると書いた。

たとえ経営学部や経済学部の出身であっても、そもそも新卒の学生が実業界で役立つ知識や経験を持っているとは考えにくい。大多数の学生については基本的な勤勉さや理解能力・論理的思考力でその能力を判断するしかない。それらの能力を判断するために、学歴、つまり学校での勉強の成績以上に客観的な指標があるだろうか。学校で学ぶ内容に価値はなくとも、勤勉に学んだという形式的な事実そのものは、社会人になった後でも具体的な実績につながると考えてよい。そういうわけで僕は就職・転職活動で客観的な指標として学歴と成績は重視されてしかるべきだと書いたのだ(なお、たとえ有名大学を卒業していても在学中の成績が悪いのは論外である)。

それはさておき、その読者はメールの中で具体的に出身大学として有名な私立大学の名前を書いておられ、この大学は社会人になってから、少なくとも学歴差別の対象にならないかどうか、4度も転職している僕に確認したいとの主旨である。この読者は理系出身であるため、文系出身の僕は確からしい助言は残念ながらできない。申し訳ないがこれが回答になってしまう。

しかしあえて付言すれば、この読者の出身大学が学歴差別の対象になることは考えにくいのではないか。もし大学院卒業後に就職を目指しておられるのであれば、大学名については心配することなく、むしろ進学先の大学院で説得力のある研究成果を残すことに専念されるのがよいと考える。

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2004/06/06

転職などで新たに人間関係を作るとき

■転職などで新たに人間関係を作るとき、誰しも必ずおちいってしまう出会いのパターンというのがあるに違いない。僕の場合にもいくつかそんなパターンがある。

僕はふだんテンションが低くつねに冷静で、抑揚なく話すひとことが時に論理的に鋭すぎるので、人によっては僕に対して率直に話しづらくなってしまう。そんな相手との間には妙な距離感ができてしまい、この距離感を縮めるのは時間をかけてもかなり難しい。なぜか相手が男性の場合、このパターンになりやすい。

逆に、誰に対しても臆せず率直に物を言ってしまえる相手との間には、さっぱりと気持ちの良い人間関係を持つことができるが、そういう相手は多くの場合、同じような学歴だったり、帰国子女だったり、僕と似たタイプの人間がごく身近にいたりする人たちで、しばらくたってからそれが分かると、なるほどと一人合点する。

この2つのパターンは僕としてはそれほど困ることはないのだが、いちばん当惑させられるのは「内気な子供を叱る母親」タイプの女性である。あまり社交的ではなく、しかも寡黙な僕のような人間のことを、まるで依存心の強い子供のように扱ってしまう女性がかならずどの職場にも一人はいるのだ。

たいていその誤解はすぐ解けるのだが、保護的に扱われると、そんな扱いに反抗すること自体が子供っぽく、依存心の強い子供という誤解を補強する方向に働いてしまうので、こちらとしてはされるがままになるより他ない。人との出会いがパターン化するのを避けたいのはやまやまだが、この年齢になると自分の行動パターンを変えることが難しい。

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2004/06/02

無駄なことは一つとしてない転職経験

■それにしても今まで在籍したそれぞれの会社で経験したことは、ひとつとして無駄になっていない。日々働きながらそう実感する。もちろん同じ会社で働き続けていても過去の経験は無駄になっていなかっただろうが、おそらく同じ会社で働き続けていたら、これほど多様な経験を積むことはできなかっただろう。

同じ問題でも情報システムを売る立場と買う立場の両方から考えることができるし、第二次産業と第三次産業の異なる観点から見ることもできる。その意味で、一つの会社に長く勤めた後に転職するというのは、僕が想像する以上に困難なことかもしれない。

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順法精神の欠如をまだ自覚できない某メーカ

■勘のいい読者はすでにお気づきのように、このホームページの筆者は最近4度目の転職をして数週間前から5社目の企業に勤め始めている。今回の転職は仕事内容に関する理由からではなく、コンプライアンス上あまりに問題が大きすぎる企業で働き続けることに困難を感じたからだ。

もちろんそのために業績が悪化し、ドイツ資本の企業との提携で生き残りを図ったが失敗したという業績面もあるが、最近分社された事業部門で3年前に続いて再び法令違反が明るみに出、さらに今日、本体の方でまたもや大規模な違法行為と長年にわたる隠蔽が明らかになった。

今日の報道を聞いたときは文字どおり空いた口がふさがらなくなると同時に、退職を決意した自分の判断は正しかったと確信した。そして同じ過ちを繰り返すことでブランドを汚す彼らに怒りを感じた。やはりこの会社には根強い法令軽視の社風があったのだ。

退職する直前、たまたま個人情報保護法の対応策を話し合う本部内の会議に参加したのだが、その席で配布された資料にこの法律に関する明らかな誤りが数か所見つかったので、即座に指摘した。するとその資料を作成した担当者の上司が、あろうことか僕に対して大声で怒鳴ったのだ。「細かい字面にこだわるな!」と机を叩いて、である。

彼としては3年前の違法行為が念頭にあり、この法律に対応しようとやる気になっている部下の努力を無にしたくなかったのだろうが、そもそも法律に関する資料を事前に法務部にチェックもさせないようではコンプライアンス以前の問題だ。部下をかばうという身内の理論を無意識のうちに優先させていることに、この上司はまったく気づく様子がなかった。このような社風が疑問視されない限り、この会社は違法行為を起こし続けるに違いない。

ちなみに怒鳴られた一件をコンプライアンス室に相談したところ、部内のコンプライアンス責任者にまず報告して欲しいとのことで、つまりはささいな問題だという認識だった。コンプライアンス室としては、じっさいの違法行為に関する内部告発でない限り対応はとれないというのだ。違法行為を未然に防ぐのがコンプライアンス室の責務ではないのか。すでに起こっている違法行為を明るみに出すという当たり前のことさえ、わざわざコンプライアンスと呼ばなければ実行できないところまで、この会社の遵法精神は失われていたのだ。

この会社で働き続ける人々は、残念ながら組織の一員として遵法精神を疑われても仕方がない。個人の信条として組織ぐるみの違法行為に加担する意思がなければ、できるだけ早く辞表を提出するのが人間として正しい生き方だろう。

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2004/05/30

業界への強すぎる思い入れは部分最適経営の元凶

■If you have too much fondness with the industry which your company belongs to, that might do harm when you participate in managerial decision making. In many cases, too much stress upon the personal motivation in an organization leads to suboptimization. It is true that it is always important to motivate staff level people. But it is true as long as the people share the same vision of the company. Personal and special fondness of the industry sometimes hinders the dissemination of the vision of the top management.

自分の所属している会社の業種に思い入れを持ちすぎると、経営の観点から意思決定に参加するときに弊害がある。多くの場合、組織の中で個人的な動機付けに力点を置き過ぎると、部分最適に陥る。確かにスタッフレベルの動機付けは重要だが、あくまで会社のビジョンを共有している限りの話である。業界に対する個人的で特別な思い入れは、経営トップのビジョンの浸透をさまたげることもある。

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2004/05/05

相反する順法精神と士気

■It might be very difficult to establish both enforcing compliance on the employees and motivating them because the compliance is a factor which tries to cool them down while the motivation is a factor which tries to inflame them. Especially once the performance of a company goes down because of its illegal acts, the company must make a difficult balance the apathetic aspect of comliance with the emotional aspect of boosting morale. Strict compliance can sometimes demotivate the positive actions of motivated employees.

The mangers often tend to prioritize motivating subordinates over following rules, including the company's internal rules. It might be almost impossible for such managers to establish compliance in spite of the subordinates' demotivation. This is one of the reasons from the viewpoint of motivation theory why it is difficult for the companyes once involved in illegal activities to stop illegal activites completely.

遵法を社員に徹底することと社員をやる気にさせることを両立するのは難しいかもしれない。遵法は社員を冷静にさせる要素である一方、動機付けは社員を熱くさせる要素だからだ。特に会社の業績がいったん違法行為のために悪化すると、そのような会社は遵法のしらけさせるような側面と、士気高揚の感情的な側面の非常に難しいバランスをとる必要が出てくる。厳密に法律に従うことは、ときに社員の積極的な行動のやる気をなくさせることがある。

管理職は会社の社内規則を含め、規則を守るよりも部下をやる気にさせることを優先しがちだ。そんな管理職にとって部下がやる気をなくしても遵法を確立するというのは殆ど不可能かもしれない。これが、一度違法行為を犯した企業が完全に違法行為をやめるのが困難な理由を、動機付け理論から説明したものである。

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2004/04/10

日本企業の違法行為は「情」が原因

■企業活動におけるコンプライアンスということが最近よく問題になっているが、それと知って法律に違反する企業はおそらく少数ではないか。全社の利益のためにそれと知って法律に違反する場合もおそらく少数だろう。

企業における違法行為の大多数は、人間としての情から出ているものだろうと予想される。たとえば自分の部下が苦労して出した仕事の成果が、法律に違反していることが分かったとき、部下をかばうために目をつぶり、逆に社内でその違法性を指摘した社員を叱責する可能性がある。

ほとんどの企業における違法行為は、法律よりも部下を大事にしたい感情から起こるのではないか。法律に違反しているところまで行かなくても、法律を正しく理解する必要性を力説する社員を、部下をかばうために叱責するような空気から、日本企業の違法行為は生まれるのではないか。確信はないが、なんとなくその可能性が高そうな気がする。

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2004/03/09

Complaints of Employees

■In every Japanese companies there are usually some employees who have some complaints about the organizational aspects of the company. As I have never been working in foreign countries, I would like to focus on Japanese companies here. In many cases we can divide the complaints of such employees into three categories: overload, insufficient skill and miscommunication. Overload means that there are not enough employees to fulfill the assigned tasks. Insufficient skill means that employees don't have enough skill or knowledge to fulfill them. Miscommunication can be still divided into two categories: horizontal miscommunication and vertical miscommunication. Horizontal miscommunication is the miscommunication between different sections or departments, i.e. so called sectionalism. Vertical miscommunication is the miscommunication between boss and staff. When we would like to cope with these three sorts of complaints, the most important thing is that we must not try to cope with them directly. We must not immediately start thinking about countermeasures to each category of complaints. If we consider these complaints themselves as problems, it is simply wrong. The real problem is neither overload nor insufficient skill nor miscommunication. Every Japanese company has been struggling with these sorts of complaints for a long time. However, the companies didn't have enough money to eliminate overload or educate every employee and increasing information prevented them from avoiding all miscommunication. They failed to eliminate such complaints. But they could survive in spite of employees' complaints because they did not need to deal with such complaints. Why didn't they have to cope with complaints? That's because such complaints never grew into serious problem. Why didn't such complaints about organizational aspects grow into serious issue? That's because high motivation of employees prevent them from becoming serious problem. If the employees are highly motivated, the performance of employees still remains good even with some complaints. On the contrary, if they are demotivated, they can't put up with small uneasiness and keep complaining about it until it is dealt with as a serious issue. So it is simply wrong to cope with the employees' complaints by immediately planning countermeasures as long as they are demotivated. Such direct countermeasures can even do harm to their motivation because the employees feel controlled like a puppet. As long as Japanese employees feel controlled and are prohibited exercising their own creativity, their performance remains low in accordance with their complaints.

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2004/03/02

日本での転職には無職の期間を作るな

■中途採用面接の話の続きだが、以前勤務していた会社で僕と同じく中途採用された人の話によれば、職務経歴に無職の期間がある場合、必ずその期間に何をしていたのかを面接官に質問される。僕は無職の期間を作らないように仕事をつなげて来たが、無職の期間は面接官にとって異常な関心の的になる。

人事担当の面接官は多くの場合その企業の生え抜き社員で、人生の一定期間を無職で過ごした経験などない。そもそも生活に追われる社会人として余程の理由がなければ無職の生活など送れない。そのような彼らを説得できる理由がない限り、無職の期間は作ってはいけない。それが日本の転職市場の現実だと考えている(もちろん別の意見を持つ人もいると思うが)。

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日本での転職には(ニセの)「愛社精神」が必須

■話はまったく変わるがこれまで三度転職して二十社以上日本企業の中途採用面接を受けた結果分かったのは、殆どの日本企業が中途採用者にその企業で定年まで勤続するだけの愛社精神を求めているということだ。面接で必ず質問されることの一つは「なぜウチの会社を選んだのですか」ということだ。この質問に対して決してこの会社にこだわっていないという主旨の事を答えればその時点で面接官の判断は不採用になる。

確かに企業が中途採用者に求めるのは即戦力になる能力だが、同時にもし本当に能力があればそれを同業他社に譲り渡したくないという希望も持っている。中途採用活動には費用がかかり、その企業特有の社内事情を学習するのにも費用がかかる。新卒で採用して育て上げた生え抜き社員同様、中途採用者についても企業は可能な限りの勤続を規模するのは費用対効果を考えれば当然だ。

特定の会社へのこだわりを持たないために転職活動で失敗を繰り返した僕は、愛着を持てなさそうな企業には最初から応募しないと決めた。面接官にその企業に対する執着心を感じてもらえなければ、いくら高学歴で英語が堪能で仏語が読めてSAP R/3の経験があっても、その企業にとっては魅力的な人材ではないのだ。

普遍的な能力が雇用に結びつくという考えは日本の労働市場では通用しない。MBAなど企業外の教育機関で習得できる普遍的な能力をいくら持っていても、日本で就職先を探す限り、個々の会社に対する愛着がなければ永久に職は見つからないと考えてよい。

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2004/02/25

日欧の業務改善手法の根本的な違い

■業務プロセスの標準化とはプロセスの途中でいつ、どのような成果物を作成しなければならないかを定義することだが、これはふつう「どのように」業務を行うかを意味するプロセス(=過程)を、「なにを」産み出すかという成果で置き換えていくことに他ならない。

それまでそれぞれの人が自分なりのやりかたでバラバラに進めていた仕事の過程について、その途中で「なにを」作成しなければならないかを定義し、その作成を強制することによって過程が標準化される。

別の言いかたをすれば、仕事の過程をいくつかの段階に区切り、それぞれの段階の最後に産み出されるべき結果を定義する。そうすることで誰がその仕事をやっても、同じ過程をたどるようにする。それが業務プロセスの標準化ということだ。

日本人会社員の多くは、業務を改善するために業務プロセスの標準化ではなく、業務プロセスに習熟する方法を選択しがちである。日本人会社員が単に「業務改善」と言われたときには、その業務に習熟する努力によって、そのプロセス(過程)を迅速に処理することを目標にしがちだ。

ところが欧米から輸入された業務改善は業務プロセスの標準化によって、つまりプロセス(過程)をいくつかの結果に置き換えることで、人による方法の多様性をなくして業務改善を実現しようとする。「日本風」の業務改善は過程を過程のまま、それに習熟することで改善しようとすることで、つまり、「どのように」を洗練させることで業務改善を実現しようとするのに対して、「欧米風」の業務改善は過程を複数の結果に変換することで、つまり「どのように」を「なにを」に置き換えることで改善しようとする。

そのため、新しい「どのように」を求めている日本人が、そのかわりにいくつかの「なにを」すべきかを与えられると、期待が裏切られることになる。そしてこんどはその成果物を「どのように」作るのかという問いに対する答えを求め始める。

しかし一つの仕事の過程をいくつかの段階に区切って「なにを」に置き換えるということは、その区切られた一つひとつの段階がそれ自体がまた一つの仕事の過程になるということだ。その「なにを」を作るためにはまた「どのように」を問わなければならないことになり、欧米人はそれに対してさらにそれをふくすうの「なにを」に分割することで改善しようとする。このようにして業務プロセスの成果物による微分が際限なくつづくことで、業務プロセスは徐々に精緻に標準化されていく。

日本風の業務改善は逆に、過程を過程のままで習熟によって改善しようとする。業務改善になじみのない読者は僕が何を言っているのかお解かりいただけないかもしれないが、これは業務改善における文化的差異に関するごく短い試論だ。僕がいちばん問題にしたいのは、このような文化的差異の存在に気づきさえしないまま、「欧米風」の業務改善手法を日本人の組織に適用している日本企業が山ほどあるということだ。

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2004/02/22

日本のプロジェクト失敗の真の原因

■新しいプロジェクト管理手法の導入によってプロジェクトの成功率をあげようという発想は、間違いかもしれない。

ここ数年、日本のIT業界にプロジェクト管理の必要性が叫ばれているが、日本企業のITプロジェクトが失敗するのは本当にプロジェクト管理手法のまずさが主因なのだろうか。僕はむしろ、処理できないほどのプロジェクトを一度に走らせようとするマネジメントのまずさが主因ではないかと考える。

つまりたくさんあるプロジェクトのうち、どれが本当に最優先のプロジェクトなのか、その優先順位づけを経営陣ができないので、重要なプロジェクトも重要でないプロジェクトも実現しようとする。その結果、人員が不足して、プロジェクト管理の必要性はわかっているのに、十分な管理ができない。プロジェクト管理のスキルが完全に不足しているわけではなく、プロジェクト管理をしている余裕さえまったくない状況なのだ。

It might be a wrong idea to increase the number of successful projects by introducing a new project management methodology. Since several years, it is said that Japanese companies need to introduce appropriate project management methodologies in order to make IT projects more successful. But I think that the main reason of IT project failure is not a bad project management methodology but bad management of managers. Since the managers can't prioritize IT projects, both critical projects and trivial projects are started at the same time. As a result, the capacity necessary for realizing the IT projects always exceeds the total capacity of IT department. IT people recognize the necessity of introducing appropriate project management methodology but simply they have no time to think about it. It's not because they are reluctant to introduce a new project management methodology but simply because they don't have enough time to be motivated to introduce the new methodology. This is the mismanagement of managers.

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2004/02/01

「変化しないこと=悪」という短絡

■昨日のエッセーにまとめたように、成果主義システムはあまりに多くの欠陥があるため、いかなる組織においてもその導入は正当化できない。多くの日本企業の人事担当者がこのシステムに違和感を抱いているにもかかわらず、日本企業が次々と、トヨタ自動車までもが、この欠陥だらけのシステムを導入しているのは一体どうしてなのだろうか。

おそらく日本人は同じところにとどまっていることが、無条件に悪だという風に洗脳されてしまっているのだ。とにかく変化しさえすればいいのであって、その変化の内容はどうでもいいかのように。まるで変化せずにとどまっていることが禁止されているかのように。まるで変化することが絶対命令であるかのように。

いったいその命令はどこから来たのだろうか。誰が変化せよと命じているのだろうか。なぜ変化する必要があることの理由を詳細に分析しないまま、変化しなければならないのだろうか。変化しなければいけないと言うとき、どれくらい長く、深く、過去の状況について考えただろうか。

もし十分に考えていなければ、間違った選択をするのはある意味あたりまえではないのか。変化を決断する以前に、変化する必要が本当にあるのかどうかを自分自身に問い直す必要がある。変化が常に正しい方法でないことは自明だ。深く考えずに変化に飛びつくのは、僕らが怠惰な証拠だ

As I summarized in yesterday's essay, the performance-based salary system has too many defects to justify its introduction into any organization. I wonder why more and more Japanese companies, even Toyota, introduce this defective system even though many Japanese emloyees in charge of human resource management feel uncomfortable for it. Maybe Japanese are brainwashed to believe that remaining the same is indisputably a bad thing. That is as if we have only to change, whatever change it might be. As if it were prohibited to stay unchanged. As if it were an absolut order to change. Where does the order come from? Who orders us to change? Why do we have to change without a detailed analysis of the reasons why we have to change? When you say that we have to change, how long and how far did you analyze your status in the past? If you don't have a basis strong enough, it will be inevitable for you to take a wrong alternative, such as performance-based salary system. We have to ask ourselves whether or not we really have to change at all before deciding to change. It is self-evident that change is not always a right way. It is our laziness to jump at change without thinking deeply.

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2004/01/27

部下の自発性はオーナーシップから生まれる

■上司による進捗管理なしで、部下が自発的に仕事を進めるのは、部下がその仕事にオーナーシップ(自分のものだという感覚)を感じている場合だけだ。

では、オーナーシップはどこから発生するのか。それは、その仕事に対して自分が変化を加えることができた場合だけだ。その仕事に対して自分がまったく変化を加えることができないにもかかわらず、その仕事を自発的に進めよと命令する上司は、部下を感情のない機械だと見なしている。その機械の燃料は、給料である。高橋伸夫の『虚妄の成果主義』を読みながら、そんなことを考えた。

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2004/01/19

楽観的な人々はリスクマネジメントに不向き

■楽観的な人々は、会社員の心の健康と、リスク・マネジメントの問題には手を出さない方がいいのではないか。先日読んだ斎藤環の本に、米国と日本では病気と正常の境界が異なるということが書いてあった。米国ではふつうの人でも日本では躁病と診断されるおそれがあるし、日本ではふつうの人でも米国ではうつ病と診断されるおそれがある。

これは欧米人と日本人が混在する職場では深刻な問題になりうる。陽気な欧米人上司が日本人部下に対してふつうに接しているつもりでも、すこし内気な日本人部下は明るすぎる欧米人上司のために、精神的に疲れ果てることがじゅうぶん考えられるし、欧米人上司がたんなる議論のつもりで意見していても、言われた日本人部下の側はいじめやパワーハラスメントと解釈するおそれがある。

また、リスク・マネジメントについて、楽天的で陽気な欧米人が日本の経営環境でバランスのとれたリスク感覚を持つことはとても難しいと思われる。彼らは東海地震や、東京都心でイスラム過激派のテロが起こる可能性に過敏であるわりには、高速道路を猛スピードで飛ばして平気である。まるで高速道路で死ぬ確率よりも、地震で死ぬ確率の方が高いとでもいうように行動しているが、日本人からするとリスク感覚が完全にズレている。

他の例をあげれば、業績の悪い企業は、外部からネットワーク経由で侵入されて情報を盗まれることよりも、内部の人間が少ない給与を補うために意図的に機密情報を売りわたすことを心配すべきである。外部の犯罪者にとって業績の悪い企業はそれほど魅力がなく、自ら危険を冒す価値もないから、内部の人間がすすんで情報を売りわたしてくれるまで待てばよい。

欧米人はマスメディアによって日常的に脅されているせいか、外部からの脅威にばかり敏感なようだ。テロにしても地震にしても外部からの不意打ちだが、そうしたリスクには敏感なわりに、自分が毎日運転している自動車という「内部」のリスクにはおそろしく鈍感だ。同じように情報セキュリティに関するリスクについても、外部からの攻撃や侵入、そして内部の人間によるあからさまな違法行為などに対してはおそろしく敏感なくせに、内部の人間が隠れて働く背信的な行為については鈍感だ。

心の問題に対する鈍感さと、リスクについての不均衡な感覚は、どちらも楽天的でポジティブな精神性が原因と思われる。楽天的でポジティブな人間は、人格としてバランスを欠いているのだ。

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2004/01/18

サラリーマン社会では常に既に異邦人の僕

■たびたび読者の方々から頂く感想のメールに、かえって自分自身がぎょっとさせられるということがあるのだが、最近頂いたものに「サラリーマン社会」の中にあって自分の考えを貫いて生きる僕にある種の痛々しさを感じるということが書いてあった。

僕としてあえて訂正させて頂くと、僕はサラリーマン社会の大勢をしめる考えに対抗して自分の考えを貫いているのではない。はじめからすでに僕の考え方がサラリーマン社会になじまないものだっただけであり、ともに働く人たちを客観的な目で見つめているのも、サラリーマン社会に馴染むまいとする強い意志からきているのではなく、はじめからすでにともに働く人たちを客観的な目で見るより他の見方ができなかっただけなのだ。

異邦人になるべく努力しているわけではなく、はじめからすでに異邦人だったのであり、異邦人になるまいとすればするほど、自分の異質さを意識せざるをえないという一種の循環に陥ってしまっているだけなのだ。いちど疑ってしまったものは、二度と疑う前の素朴な信念の状態にさかのぼることなどできない。

残されている唯一の方法は、疑っている自分を疑い、そこから疑っていた対象の妥当性をいくらか救うことだけなのだが、自分を疑うことでかえって疑うという操作の適切さがいっそう強く根拠づけられてしまうのだ。疑うことが唯一の方法である、という具合に。

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2004/01/06

自明なボトルネックに気付かない職場

■二日前の日記で制約性理論のことを書いたが、どうやら僕の職場で恒常的にボトルネックになっているのは、日本語から英語、英語から日本語への翻訳工程のようだ。日本語のまったくできない少数の外国人と、英語がそれほど得意でない多数の日本人が同居している職場では、どこでも状況は同じだろう。

日本語だけで作成していればその日のうちに完成する資料でも、専門の担当者に翻訳を依頼するだけで半日以上は確実に遅れるし、いい加減な翻訳をしようものなら、相手の誤解をとくために会議が中断したりする。誤解に気づけばまだいいほうで、気づかないまま話が進んで、後になって「どうもヘンだぞ」となり、ようやく翻訳の不備に気づくことさえある。

しかもこの翻訳の工程は、ほとんどすべての社員がからみ、パソコンやコピー機のように、慣れればなんとかなるというものでは決してない。職場で言いたいことを正確に伝えるための英語力を身につけるのは、それほどかんたんなことではないのだ。

そう考えると、このボトルネックを解消することで、この種の職場は劇的に、ほんとうに文字どおり劇的に効率化されるはずなのだが、だれも真剣にそのボトルネックをなくそうとしないのはまったく不思議だ。たとえば、僕は海外生活の経験がなく、話す・聞くはいまひとつだが、読む・書くについては仕事に必要な正確な表現ができるだけの英語力はある。

しかし仕事の波によっては、一日の半分以上をいままでの仕事の整理に使うだけの日もけっこうある。そんな日にあたりを見まわすと、仕事が山積みの翻訳担当者がいたり、英語の資料を読むのに苦心している日本人がたくさんいたりする。

僕のようにあまり目立たない社員が、翻訳工程のボトルネック解消などを提案しても、こんな現場レベルの問題をお偉方がまともに取り合ってくれないことは分かっているし、いつになったらみんなが気づくのか観察していたいので黙っている。僕が「サラリーマン社会」でフィールドワークをするようになって10年近くになるが、こういった実に不思議な現象がときどき観察される。

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2004/01/05

老後の海外生活で身の程知らずのサラリーマン

■以前、無茶なマンション購入のことを書くきっかけになったテレビ東京『大丈夫!?わが家の財産』というとんでも番組で、今日は年金生活を海外で送る夫婦が紹介されていた。

フィリピンのコンドミニアムで、住み込みメイド付き・運転手付きながら月20万円で生活している夫婦だが、実は毎月5万円以上の貯金を取り崩して生活している。例によって夫婦はファイナンシャル・プランナーに指摘されて始めて、あと3年で貯金がなくなることに気づく。すました顔でとりつくろう奥さんの笑顔がはた目に痛々しい。

そもそも組織の寄生虫であるサラリーマンは、生活設計能力など税金を源泉徴収されるようになった瞬間から奪われている。それにサラリーマンなんて、日本の生活でいかに自分が会社や国に助けてもらっているかということに無関心だ。退職後の海外生活でそれに初めて気づいただけでも、海外生活をした価値はあるだろうが、テレビに登場した夫婦はたぶんまだ気づいていないだろう。

そしてその夫婦の家計を改善しようと、ファイナンシャル・プランナーは、簡素な賃貸住宅に住む別の日本人老夫婦を紹介する。この夫婦は食材を地元の市場で買いだめし、メイドも運転手も雇わないという質素だが普通の生活。質素に生活しさえすれば、海外での年金生活も夢ではありませんというのが番組のメッセージだが、とんでもない。

番組の中で紹介されていたように、そもそも日本に比べて物価の安い国は、だいたいインフレ率が高く、政情も不安定だ。日本から送金される年金はインフレのせいで勝手に目減りしていく。しかも、番組に登場した夫婦はどれもまだ60代だからいいようなものの、これから70代、80代になって本当に医者にかかりきりになったとき、健康保険が使えず、医療費は全額本人負担になる。貯金を取り崩しているかどうかなんて、これからのフィリピンのインフレ進行や医療費の全額負担、政情不安や治安悪化のリスクにくらべれは、とるにたりない問題ではないか。

経営者として財産形成してきたのならまだしも、サラリーマンなんていちばんリスクに鈍感な人種なのだから、若くもないのに海外で生活できると思うこと自体がどうかしている。サラリーマンはよく言われるように、会社の中の地位が高くなると、まるで自分がひとかどの人物であるかのような勘違いをしがちで、自分にない能力まであると思い込んでしまう生き物だが、海外で年金生活を送る人々はその典型と言えるだろう。

僕もサラリーマンとしての自戒をこめて、「サラリーマンは身の程を知ろう!」ということだ。ついでに言えばこの番組中では「厚生年金が毎年上がっていく」と解説されていたが、正しくは「厚生年金保険料」だろう。いかにいい加減な番組かがよくわかる。というより、司会がみのもんたという時点で、こんな番組見ちゃいけないのだが、テレビをたれ流しながらドイツ語の勉強をしているもので、ついついネタにしてしまった。

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2004/01/04

制約性理論をホワイトカラーの職場に応用

■お風呂の中でまだ風邪気味のぼんやりした頭で制約性理論のことを思い浮かべていた。皆さんご存知のように制約性理論というのは数年前日本でもベストセラーになった『ザ・ゴール』という小説仕立てのビジネス書で紹介された製造工程の全体最適化についての考え方で、ボトルネックになっている工程の能力を100%活用することだけに集中し、それ以外の工程はフル回転させてはいけないという、ごく当たり前のことを言っている。

これをホワイトカラーの日常業務に当てはめることもできる。あなたが働いている組織の中で、いつもきまってボトルネックになる部署というのがきっとあるはずだ。その部署の仕事が進まないから業務全体がとどこおるという部署である。制約性理論によれば、その部署以外の部署で働いている人は、絶対に人を100%使い切ってはいけないことになる。

もしそんなことをすれば、ボトルネックになっている部署の前に「仕掛品」の山を築いてしまうことになる。ボトルネック部署以外の部署は、絶対に全力投球してはいけないのである。そのボトルネック部署は、いつもきまってボトルネックになる必要さえない。特定の業務、たとえば年度計画の作成業務とか、経理システムの開発業務などの業務ごとに考えたときに、特定の業務についてはかならずボトルネックになるというだけでよい。

そしてあなたの部署がそのボトルネック部署に対してなんらかのアウトプットを提供しているということ。あなたの部署が逆にアウトプットの提供をうけていようがいまいが関係ない。

このような条件がととのっている場合、あなたの部署は絶対に全力投球してはいけない。生産ラインとちがって、ホワイトカラーは残業でいくらでも過負荷に対応できるので、あなたの部署が全力投球しつづけると、ボトルネック部署は本来やる必要のない残業をつねにやらなきゃいけないことになる。

結果として全社員が一生懸命がんばっているようなことになり、とってもよさそうな感じだが、じっさいには組織全体で非効率なことをやっている。もしあなたの部の部長が年頭のあいさつで「今年も全力でかんばりましょう」みたいなことをしゃべったら、制約性理論をつかって反論してみよう。

「部長も『ザ・ゴール』の制約性理論をご存じだと思いますが、ボトルネックでない部署が全力投球すると、かえって全体の効率を悪くしますよね」という具合に。そんなことを風呂につかりながら考えていたのだが、すでに僕の頭の中は正月休みモードから仕事モードに切り替わっているかもしれない。

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2003/12/25

裸の王様を産みやすい日本企業の残酷さ

■会社というのはつくづく残酷なところだ。会議である人が明らかに矛盾したこと、会社や部門の方針にそぐわないことを発言し、多くの人がそれに気づいているのに、その人の気分を害したくない、その場の雰囲気を悪くしたくない、人間関係を悪くしたくないというさまざまな配慮からその事実を指摘せずに済ませてしまう。

発言をした本人は自分の考え方がおかしいということに気づかないどころか、反対に、その場にいた全員が自分の考え方に賛成してくれてたという勘違いをしたまま会社で仕事をつづけ、ますます自分の考えに自信をもったような言動をエスカレートさせていく。

こうなってしまうと、賞与が減ったり、他の部へ異動させられたりなどといった決定的なかたちで現れるまで、本人はその誤解に気づかない。多くの日本人は組織としての和を乱したくないためにこのような行動をとりがちなので、その中で自分の誤りを、正しいと信じてしまわないためには、つねに自分で自分の言動を疑うように習慣づけるしかないのだ。つまり日本人の組織の中で、勝手な思い込みによるリスクを避けるためにもっとも有効な方法は、自信を持たないこと、つねに自分を疑うことになる。

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2003/12/22

俗悪な夕刊紙読者のサラリーマンたちへ

■帰宅する電車の中で内容の俗悪な夕刊紙や漫画雑誌をだらしなく広げているサラリーマンを数え切れないほど目にするわけだが、一時間以上かけて通勤している彼らのほとんどが、おそらくは郊外に「わが家」を構えて住宅ローンや教育費などのために働くのと引き換えに、自身の精神的な生活を犠牲にしており、その結果が劣悪な夕刊紙や漫画雑誌にしか向き合えない貧困な精神生活なのだろうが、いったい彼らは何のために生きているのだろか。

こう問えばおそらくすぐに答えは返ってきて「家族のため」ということになるだろうが、もしそういう答えなら、「家族のため」に仕事をしてくれる人なら別にあなたでなくても、他の誰かでもいいのではないかと問い返したい。あなたでなければならない理由がいったいどこにあるのか、と。

僕は非常に不安なのだ。将来この同じ質問を自分自身に問いかけたとき、答えるべき言葉があるかどうか。もしないのだとしたら、今から前もって問いかける必要がある。

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2003/12/15

Bad Long-term Effests of Process Standardization

■The concept of process standardization itself is good and right. But in the long term, it surely erodes the basic capability and motivation of Japanese salary-men. Most of Japanese employees have no special skill at all when they start working and spend long time in learning the knowledge which depends on the company's context through on-the-job training. The only area they can exercise their creativity is to optimize daily operation processes. It is not expertise or standardized knowledge but context-dependent experience that is necessary for optimizing these processes which have been formed according to the company's restrictions in aspects of human resources and financial resources. If someone succeeded in optimizing and standardizing those processes, the employees are robbed of the only opportunity to exercise their own creativity. This seriously demotivates the employees to follow the standardized processes. If the daily operation processes are standardized by someone, all that the employees can do every day is just to follow the defined processes and fulfill daily obligations. There is no room for process improvement by themselves. Now they are prohibited from improving their own daily processes by themselves. They feel they are denied creativity completely because process optimization is the only element where their own creativity can survive. As a result, they feel they are denied independence. They start depending on someone else's creativity of optimizing processes and stop thinking. This dependency and automatism deprive Japanese employees of the last moment of voluntary Kaizen activities. It is natural that this situation leads to long-term degradation of operational quality. And the declining quality of daily operations inevitably results in the degradation of product quality. Please watch carefully what will happen regarding the quality of products and services of Japanese companies in the long-term. I can forecast with assurance that the products of some Japanese comapnies in which the operations are radically optimized by external factors will be worsening little by little in their quality. In effect we can already see some examples. The product name "QUALIA" explicitly means it puts stress upon "quality". We can easily imagine that after a radical optimization of production processes, this company tries to return to the former manufacturing process, i.e. each assembly-person is encouraged to optimize the manufacturing processes by themselves. But now it is very difficult for the company to go back to the autonomous continuous improvement because the workers are already demotivated by the preceding activities for process standardization. We should think again whether we should graft a Western tree's branch to a Japanese trunk.

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2003/12/14

成果給の広まりは経営者の見識の無さ

■会社員の賃金の年功色が薄れ、管理職層については年齢給部分がまったくない完全成果給の導入が広まりつつある。しかしそもそも会社員というのは、自営業や企業家ではなく被雇用者として働くことを選択した人たちで、報酬が毎年大きく変動するようなことを期待していなかったわけだ。

報酬がある程度の幅で一定しているということが会社員と呼ばれる人たちが働き続けるための、もっとも基本的な動機付けになっているのだから、成果主義の強化はとくに管理職を、いわばそれぞれの責任範囲で自営業者や企業家として扱うことに他ならない。ひとことで言うと、管理職の擬似経営者化である。

もともと自ら経営者になりたくないから、サラリーマンになっているのに、そういう人たちに擬似経営者になることを強要すれば、どういうことになるかは明らかだ。つまり管理職層から年齢給部分を完全になくすことは、管理職になるなというメッセージになる。

僕は個人的には逆ではないかと思うのだが。管理職はその責任の重さや、会社に対する個人的な犠牲の大きさと引き換えに、一般社員よりも厚遇になっている。管理職になっても一定の年齢給が保障されているからこそ、これまで一般社員は個人の時間を犠牲にしてでも管理職になろうとしたのだ。

しかし管理職の年齢給がゼロになるということは、「そこまでして管理職になりたくないよ」という一般社員を増大させることになる。すでに管理職になっている人は、報酬の多寡よりも、報酬が一定しているということに動機付けを見出してきたのに、それがなくなるとなれば確実に「手を抜く」ようになるだろう。

ところで日本の企業組織で中間管理職が果たす役割の大きさは、野中郁次郎の著作を読むまでもなく明らかである。ところが成果主義が広がるにつれて、これからの日本企業は、自発的に管理職になってやろうという人がどんどん少なくなり、間違いなく必要な人数の中間管理職を確保できなくなる。

すると、少数の経営層が、不釣合いなほど大人数の一般社員をトップダウンで指導するという寡頭体制に移行せざるをえなくなる。日本企業は、一般市民の比較的高い教育水準を前提に、中間層の厚い企業組織を作り上げてきて、それを支えるために年齢給を維持してきたのだが、管理職層の年齢給をゼロにすることは、全般的な教育水準の高さという、日本社会のもつ特性とまったく合わない寡頭体制的な企業組織を作り出すことになってしまうのだ。

成果給の広がりの結果うまれる寡頭体制的な組織は、中間層がもっている知識創造力を確実に埋もれさせてしまう。そうすれば日本企業がもっていた生産性の高さは確実に失われる。おそらく今の日本企業を経営している経営者たちは、そう簡単には変えられない日本社会そのものの特性まで、簡単に変わるもののように勘違いして、じゃんじゃん自分の会社内部の組織構造を変えてしまっている。

彼らはサラリーマン経営者である自分たちの認識の狭さ、つまり、個別の企業経営という観点だけでなく、日本人の中の依然として膨大な中間層の生産性をどうやって維持するかまでを考える広い観点を持てていないことに、まったく気づいていない。だから、サラリーマン経営者もふくめて、仕事のことしか知らない日本のサラリーマンはダメなのだ。

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2003/12/08

武富士会長の盗聴関与と日本企業の「連帯責任」制

■武富士の武井元会長が遂に盗聴への関与を認め、引責辞任したという報道があったが、武井氏が送検された直後、経営陣が記者会見での質問に答えて、会長の無実を信じているという主旨の発言をしたという。テレビのあるコメンテータがこれを評して、まったく自浄作用のない組織であると話していた。

それと関連して、たとえば情報セキュリティのようなことに関して、自分の部下が機密情報を漏洩したとしたら、上司である自分は社内の各種規定によって処罰されるべきかそうでないか、ということを考えてみる価値がある。日本人的な価値観には、どうしても連帯責任という考え方が染み付いているので、当然、上司も責任の一端を担って、ある程度の処分を受けることはやむをえないだろうという結論になる。

じっさい先日の日本テレビの視聴率調査でも、武富士の事例とは異なり、会社ぐるみではなかったものの、経営陣にまで処分が及んだ。しかし社内で起こったあらゆる違法行為や、社内規定に抵触する行為について、つねにその上司や、さらにその上司、またそのさらに上司...といった具合に、経営陣までが連鎖的に処分を受けるというのが、本当に社内の不正行為を抑止するという考え方と一貫性があるかといえば、はなはだ疑問だ。

このような連帯責任は、つねに社内での倫理的な均質性を前提としている。部下が不正なことをしたのは、上司がその不正を見逃すに十分な程度に「不正」だったという理屈が背後に隠れている。

しかしこのような考え方は、社員一人ひとりの個人としての責任よりも、組織全体の責任を重視する。というよりも、社員一人ひとりの責任はほとんど無視して、あたかも経営陣の会社経営のしかたそのものに責任があるかのように主張することになる。

しかしこのように個人としての責任がいつのまにか組織としての責任に変換されてしまう瞬間にこそ、組織の中で起こりうるあらゆる不正の「発生」があるのではないだろうか。

そもそも武富士に社内の不正を許さないただしい考え方が存在すれば、社長が送検された後に、ただちに独自の社内調査を行って警察の捜査に協力するという行動を起こせたはずである。個人が組織の中で不正行為を行ったとき、その個人としての責任を、節操もなく上司や経営陣をふくめた連帯責任と混同しないようにする必要があるのではないだろうか。連帯責任を外から見て決して「美しい」などと思ってはいけないのだ。

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2003/12/04

昔のサラリーマンの愛社精神は単なる年功序列の産物

■サラリーマンとして生活しているなかで、昔にくらべると最近やけに「モチベーション」という言葉をよく耳にするようになった。おそらくサラリーマン全般のモチベーションが下がってきているからだろう。特にこのような外来語を抵抗なく使える若年層が、サラリーマンとしての仕事に動機づけを見出しづらくなっていることの何よりの証拠だと僕は考えている。

サラリーマンとしての将来を悲観させる材料には事欠かないのだから、当然といえば当然である。それを「モチベーション」としか表現できないのがサラリーマンの世界の欺瞞だ。

別に一人ひとりの動機づけが問題なのではない。無理やり一人ひとりの背中を押したところで、仕事の方へ若者を突き動かすことには結びつかない。問題は一人ひとりの仕事への動機づけではなく、将来を悲観せざるを得ないサラリーマン社会の構造の方なのだから。

一方で年金制度の見直しや年功型賃金の廃止で、人にまつわる固定費や債務を削減しながら、他方で「モチベーション」を問題化するというのは明らかに矛盾しているのだ。給与や年金など、人に金をかけられないのなら、動機づけの低下によって生産性が落ちることは当然の帰結として受け入れなければならない。

高度成長期のサラリーマンが高い「モチベーション」を維持できたのは、何も会社に対する忠誠心が高かったからではない。損得勘定ぬきで会社に貢献しようという「職業倫理」があったからではない。長く勤めればそれだけ給与が上がることが保証されていたからにすぎない。

金で時間を売るサラリーマンは、30年前も今も同じように打算的なのであり、30年前のサラリーマンが高い「職業倫理」を持っていたように見えるのは、単にその当時は未来が経済的にバラ色だったからだけのことだ。30年前の若手サラリーマンが今の若手サラリーマンとくらべて、立派だったわけでも何でもない。

いま企業を経営する立場に立っている30年前の若手サラリーマンは、そのことがわかっていないので、平気で「最近の若者は働く意欲をなくしてしまって嘆かわしい」などということを口にする。自分たちだって未来がバラ色でなかったとしたら、仕事などしなかったに違いないのに。

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サラリーマンの擬似「倫理観」

■先日の日記に書いたように、一般的にサラリーマンは会社に雇われることによって、何が本当の意味で良いことなのか、悪いことなのかという判断を停止している。多くの場合、そのように倫理的判断を停止したことそのものについて自覚がない。

その理由は、本当の意味での倫理的判断を放棄するかわりに、サラリーマンが「倫理観のようなもの」を手に入れるからだ。それは、会社のために自分を犠牲にするという行動で表現される。

一般的なサラリーマンが、長時間の残業や休日出勤、自宅に仕事を持ち帰るなど、会社に対して献身的であったり、自己犠牲的であったりすることにそれほど苦痛をおぼえないどころか、逆に充実や満足さえ感じるのは、それによって自分がある種の職業倫理とでもいったものを実行していると信じているからだ。

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2003/12/01

サラリーマンの仕事が本質的に退屈な理由

■なぜサラリーマンの仕事が僕にとって退屈かと言って、その一つの理由は自分にとって新しいものが何もないからだ。語学を習得すればそれだけ原典で読めるものが多くなり、可能性として世界が広がって豊かになる。哲学書を読めばいままで自分の中に見出すことのできなかった新しい考え方を発見できる。

しかしサラリーマンとして仕事をしていても、新しいものとの出会いがない。新しい人との出会いがあるではないかという意見も聞こえてきそうだが、残念ながらサラリーマンとの出会いから「新しい人」を発見することはほぼ不可能である。

たいていのサラリーマンはサラリーマンという先入観を裏切るほど新しい行動様式も考え方も持ち合わせていない。どこまで行ってもすでに体験したようなことにしか出会わない。それがサラリーマン社会にとって本質的な特徴である。

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2003/11/25

サラリーマンに「倫理」は不要、「順法」で十分

■企業の不祥事が問題化されるようになって以来、「企業倫理」ということがはやり言葉になっている。しかし僕は「倫理」のような重い言葉ではなく、「遵法」という現実的な言葉でじゅうぶんだと考える。

仮に企業が「倫理」を真面目に考え始めたらいったいどんなことが起こるか。自動車メーカの社員は、製品が一台売れるたびに大気汚染がひどくなることを「倫理的に」反省せざるを得なくなり、仕事を続けられなくなる。電機メーカの社員は、原子力発電所に部品を提供して、行き場のない放射性物資を増やすことを「倫理的に」正しいと主張できず、仕事をやめざるを得なくなる。

サラリーマンは自分を雇ってくれている会社の事業について、倫理的な判断を中止することではじめて仕事をつづけられるのだ。すべての社員がつねに「倫理的かどうか」を規準に行動するようにしむけたら、大多数が事業内容そのものに疑問を抱いて、仕事どころではなくなるだろう。

じっさいに「企業倫理」という言葉が指しているのは、とりあえず法律に違反しないようにしましょう、というだけのことで、別に「倫理的に」行動しろ、と言っているわけではない。「企業倫理」という言葉は明らかに大きすぎるのだ。単に「遵法」(コンプライアンス)といえば違法行為を防止するのにじゅうぶんであり、その努力に「倫理」という名をあたえるのはまちがいなく偽善である。

牛肉を偽装するのも、腐敗した牛乳で食中毒を起こすのも、リコールを隠すのも、既存の法律を守りさえすれば防止できる不祥事であって、わざわざ「倫理」を持ち出すことなどまったくない。こんな下らない不祥事の防止に「倫理」という言葉を持ち出すのは、「倫理」に対する冒涜だ。日本の実業界は「倫理」の重さを見くびっているのである。

もっとも日本のサラリーマンや元サラリーマンが「倫理」という言葉を軽く見るのも無理はない。上述のようにサラリーマンは「倫理的」判断を中止することで初めてサラリーマンとして存在できるからである。つまり「倫理的なサラリーマン」というのは、静的にとらえれば自己矛盾の表現なのだ(ただし動的にとらえれば、一人のサラリーマンが、昼間は何の疑問もなく仕事に没頭し、夜になると「倫理的な」問題についての苦悩を日記に書くなどして、二つの極の間をたえず往復することはありうる)。

こんなことを書こうと思ったのは、新幹線の運転手が勤務中に携帯電話で撮影した写真を女友達に送っていたという「不祥事」について、どこかの新聞が「職業倫理」という言葉を使っていたからだ。最近は高い「職業倫理」をもったサラリーマンがいなくなっているとか何とか書いてあったのだが、サラリーマンに職業「倫理」を教育することがそもそも可能だろうかと考えたからだ。

もちろん深く考えずに職業「倫理」を教育してしまうことはできる。しかしそんな研修に効果があるだろうか。効果がなければ企業の場合は、費用がかかるだけやらない方がいいということになる。サラリーマンについて僕らはどのように「倫理」という言葉を使うべきなのだろうか。

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2003/11/18

『現代詩手帖』保坂和志のサラリーマン批判

■『現代詩手帖特集版 高橋源一郎』は予想に違わず通勤電車のすぐれた暇つぶしになているのだが、高橋源一郎と保坂和志の対談に予想に反してサラリーマン批判が登場したのでうれしくなって、ここに引用しておく。高橋源一郎が「意味のない文学的修辞を小説は使うべきではない。

なぜなら、それは一見、文学の味方に見えて、実は敵だからです」と語る直前で、保坂和志が次のように言っている。「ノンフィクションは、フィクションよりもくさいフィクションの手法を使いますよね」。ここで僕がたちまち佐野眞一のうんざりするほど劇的な文体のことを思い出したのは言うまでもない。

「最近ぼくは、ひとりキャンペーンを張ろうと思っているんですけど、日本のビジネスマンって、文学のことを読まなくても平気みたいに思ってて、バカにするじゃない。でも、日常語は小説語とべつだけど、もっとさかのぼってみると日常語を作り出したのは文学なんですよ。ビジネスマンが考えている美意識とか因果関係の作り方とか論理構造っていうのは、さかのぼっていくと全部文学が与えてくれたもので、それがいまのくさいノンフィクションみたいなやり方してるとぜんぜん駄目なのね。一部の『小説性』のある小説があるから、さかのぼって昔の文学も保証される。それをビジネスマンは気がついていない。日本のビジネスマンがいちばん気がついてなくてさ、ほんとに知の最下層階級じゃないかと思うんだけど」。

よくぞ言ってくれました保坂和志。これはまさに僕が以前このページに書いたサラリーマンにおける物語批判だと僕は意を強くしたぞ。プレゼンやるにしても、管理会計の資料を説明するにしても、サラリーマンは何かといえば「ストーリーがない」「よし、そのストーリーで行こう」などとやたら物語にこだわるくせに文学を軽蔑している。それはサラリーマンが文学なんてたかが物語りだとたかをくくっており、司馬遼太郎や佐野眞一や高杉良を読むことで「やっぱりそうじゃないか」と思ってしまうからだ。

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2003/10/31

見当違いの「大企業病」批判

■米Amazon.comに注文していたジャック・デリダ『フッサール哲学における生成の問題』がようやく届いた。フランス語ではなく弱気になって英訳を注文してしまった。今から50年前、最初に本のかたちでまとめられたデリダの著作なので、後期の著作のようにまったくわけが分からないということはないだろうと期待しつつ、じっくり読むことにしたい。

■同じように決まり文句や世の中でよく言われていること、通説をそのまま信じこんで、意見を聞かれるとそれらの通説をオウム返しにすることしかできない人というのが、案外たくさんいる。たとえば業績の悪い大企業を見ると必ず「大企業病だ」と批判し、「その証拠に意思決定の速度が遅い、官僚主義的になっている、部門間の意思疎通が悪すぎる」といった紋切型をくりかえす人たちがいる。

たとえば第一点、意思決定の速度が遅いと言っている彼らは、どうやってその速度を測定しているのだろうか。意思決定の速度を絶対的に測定する方法などない。そうではなく単に相対的に遅いと言っているだけなら、大企業の意思決定が中小企業より遅いのは当たり前である。その理由は利害関係者の人数が多いからだ。とてもかんたんな議論である。

第二点、官僚主義的という批判は基本的に間違っている。以前このページでも取り上げた沼上幹が主張するように、企業組織は何よりもまず官僚組織として適正に機能していなければならないのだ。官僚組織とは一人ひとりの責任範囲が明確に定義されている組織であって、むしろ日本企業の問題はこの定義があいまいな点だ。つまり日本の大企業は官僚主義的すぎて問題なのではなく、官僚主義が不十分で問題なのである。

第三点、部門間の意思疎通が悪いという批判に対しては、何を夢みたようなことを言っているのかと答えたい。数千人が働いている企業で、部門間の意思疎通が良いと言えるためには、労働時間のうちどれだけの割合を意思疎通に割く必要があるだろうか。定時後に毎日「飲みニケーション」しても何の足しにもならないだろう。

社内の意思疎通が悪いと批判している人は、意思疎通の良い状態についてあまりに高い理想を描きすぎている場合がほとんどだろう。そういう人たちは、いちばん意思疎通がうまくいっている社内の人間関係を規準にして、それ以外の人との関係を見ている。

数人が集まっても性格の合う人、合わない人がいる。比較的うまく言っている意思疎通でさえ、社内の他の関係者との間にそれを再現するのは難しい。人間関係についてあまりに楽観的すぎる人が「社内の意思疎通が悪い」という実効性のない批判を展開する。

以上のように、大企業に対して大企業病を批判することに意味はない。言うだけ日本語の浪費だ。大企業を大企業病だと批判すれば、たいていの人はなんとなく納得してしまうし、いかにも経済に関して一家言ありそうに聞こえる。深く考えないまま批判をするのはやめたほうがよい。これは僕自身にも言い聞かせなければならないことだが。

■今日の日経新聞朝刊5面のコラム『けいざい心理学』は「仲間づくり~怪しい 日本人の和」という題名だが、このコラムそのものがはからずも日本人の和の健在性を証拠だてている。このコラム、実験経済学からは協調的でない日本人の国民性が導かれるとして、つぎのような実験を引用している。

日本人と米国人を対象にした実験で、たとえば自分が「五十」の利益を得ているときに他人が「七十」を得ているとすると、相手の足を引っ張る「いじわる」行動の傾向がより強く現れるのは日本人で、米国人は自己の利益を最大化することに集中するという。大阪大学のある教授は「互いにいじわるを経験し、最後には仕方なく協力するというのが日本人の行動パターン。最初から仲良く協力というイメージとは違う」と話しているようだ。

しかし上記の実験結果は、日本人が和を尊ぶという通説をくつがえすものではない。たんに日本人の和を尊ぶ範囲が、限られた小さな集団だというだけのことだ。大阪大学の教授の言う「互いにいじわるを経験」するのも、日本人が和を尊ぶあまり、その構成員に対して集団への同化を強くもとめるからにすぎない。

今も昔も日本人が和を尊ぶことができるのは、せいぜい小さな集団の中でしかない。その意味で日本人の和が、いまになって突然「怪しく」なったわけではないし、日本人が和を尊ぶという通説がまちがっていたわけでもない。

このコラムの前半、みずほ銀行の実例として、富士銀行出身の上司のもとで働く旧日本興業銀行出身の部下が、言葉づかいの違いで肩身のせまい思いをしているという例、それから、三井住友建設では旧三井建設の話題がタブーであるという例が引かれているが、これらもやはり、日本人が小さな集団内での和をひじょうに尊ぶことを証明している。

このコラムを書いた記者は最後に結論として、「合併後の融和にてこずるのは世界共通だろうが、ビジネスライクにまとまっていく手際では、欧米勢の方が『協調的』と見えなくもない。現場のココロがつながるまで、合従連衡は完成しない」と、一見逆説的な命題を提示している。

しかしこの結論は明らかに間違っている。日本人は協調的だからこそ、異なる企業や集団どうしが出会ったときに、たとえば「富士銀行的」協調性と「旧興銀的」協調性の差異が鋭く現れてしまうのだ。欧米の方が「強調的」だと書いてしまうこの記者は、日本的「和」の精神にかなり汚染されている。欧米人はとても打算的に、異なる組織どうしが相乗効果を生み出すための最短経路を考えているだけのことで、別に組織どうしの「和」を目指しているわけではない。

その証拠にこの記者は、「現場のココロがつながるまで、合従連衡は完成しない」というオカルト的な文章を書いている。「現場のココロがつながる」という表現は、ほとんど意味不明だ。「ココロがつながる」などという非科学的な言い回しを経済記事に平気でつかってしまうことが、まさにこの記者が「和」を尊ぶ日本人であることの何よりの証拠だ。この記者は「怪しい日本人の和」を書きながら、自分自身が「和」の概念から自由でないことを露呈している。それくらい日本人の和を尊ぶ精神は、依然として健在なのである。

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2003/10/22

僕の存在理由は「会社員」にはない

■う~ん、違うな。JR東日本の高架化工事トラブルは不適切な人員配置が原因ではなく、「プロフェッショナル意識」や「職業上の使命感」とでもいうものが会社員から失われつつあることが原因ではないか。ここで僕が職業上の使命感と言っているのは、自らの従事する職業について経済的な報酬や公の場での栄誉など、定量的で目に見える評価があろうがなかろうが、その職業における能力や技術の向上そのものに自分の存在理由を見出すという考え方のことだ。

ところが僕らよりも若い世代が、職業その他どんな手段であれ「自分の存在理由を見出す」という行為が一定の成果を生む、つまり最終的に何らかの存在理由を見出せると信じることなどできなくなっている。

特に会社員という職業は、職業一般のなかでも自分の存在理由を見出す手段としてはもっとも価値のないものになっているし、職業一般という手段もそうした目的のためにはもっともあてにならないものになってしまっている。だとすると個人で自由に使うことのできる時間を職業のためにより多く割くという発想自体が生まれようがない。

一方で「自分とは何か」という問いが人々にとってますます重要になってきている。会社員は原理的に交換可能でなければならない。仮に会社員の行う業務が特定の人物にしか実現できないとすると、企業は同じ仕事を引き継ぐ人材を育成するために無限の資源を必要とすることになってしまう。

交換可能な会社員という職業は「自分探し」の手段になり得ない。したがって「自分とは何か」という問いが重要になればそれだけ、会社員という職業に特別な使命感を持つ人間は確実に少なくなる。その結果これまでは当たり前だった身の回りのものの品質が当たり前でなくなりつつある。結果として世界が単純さに回帰していくかもしれない。僕自身も会社員としての仕事に自分の存在理由が見つかるなどとはまったく考えていない。

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2003/03/04

会社の意思決定に正誤はない

■会社で仕事をしているときに、こちらをとるかあちらをとるか、選択を迫られる場面がたびたびある。そのとき「こちらの方が『正しい』から」という理由で意思決定をするサラリーマンがいるなんて、僕には信じられない。仕事とは、会社ができる限り多くの利益をあげるためにやっていることである。それ自体が「正しい」か「間違っている」かなんて、考えてもまったく意味がないことだ。

サラリーマンの仕事に「正しい」とか「間違っている」とかいった価値判断の入り込む余地などない。せいぜい利潤を最大化するのに「適切」か「不適切」か、論理的に「妥当」かそうでないかの区別があるだけだ。まして会社の仕事で自分が下した決定について「正しい」と言い張ってしまうなんて、よほどナイーブな人間でなければできないことだ。

そんな人はきっと、生まれてこのかた、「この宇宙はだれが作ったのだろう」とか「人は何のために生きているのだろう」とか、まっとうな人間なら一度は考えることを、とうとう考えずに来てしまったのだろうと思う。これはこれでまことに不幸なことだ。一度でもその種のことを考えたことがあれば、職場は「正しい」か「間違っている」かを考える場所ではないことがよく分かるはずだ。

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2003/02/19

日本人ホワイトカラー生産性の低さ

■今日、職場に新しいカラーコピー機が納品された。某有名コピー機メーカの関係者がスーツ姿で3人来て(うち1人は女性)、FAXが正常に送信できないというので、朝から昼過ぎまで全員立ちっぱなしであれこれと作業していた。どうやら3人では埒があかなかったらしく、ついに4人目の技術者が登場。

その様子を見ていた外国人の同僚はかなりイラついて、僕に向かって「あなたはとても辛抱強いですね」とまで言いだす始末。日本人ホワイトカラーの労働生産性の低さが明白に示されたというわけだ。あの3人はいったいどういう役割分担だったのだろうか。外見的には課長レベルの中年男性、若手男子社員と女子社員といった様子。どう考えても1人の技術者で十分対応できる。あまりに複写機が売れなくてヒマつぶしに出かけてきたのか。

いずれにせよ彼らの人件費はまわりまわって確実に製品の価格にはねかえって来ているはずだ。まったくバカらしい。「われわれ日本人は頭が悪いので、非効率的な仕事しかできません」ということを外国人の前でわざわざデモンストレーションしてもらわなくても良かったのだが。

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2003/01/29

『日経ビジネス』掲載「新モーレツ主義」批判

■「新モーレツ主義」の続きである。日本人はこんな主義に手を出す前に解決しなければならない問題を山ほどかかえている。

その問題の一つに、新しい仕事を始めるとき、何も考えずにいきなり始めてしまうということがある。新しい仕事を始める前には、その仕事が自分の命じられている仕事全体のどこに位置付けられるかということ(目標との整合性の確認)、その仕事をどのような手順で進めるかと、どうなったら完了したと見なせるかということ(プロセスの定義)などなどを最低限、考えておく必要がある。

もしこれらについてさえ考えずに始めてしまったらどうなるか。実はまったくやる必要のない仕事だった、とか、人によって仕事の結果がバラバラになってしまった、とか、何度もやり直しているうちに一体いつまでその仕事を続ければよいのか分からなくなってしまった、などなど、非効率な結果がたくさん生まれる。

日本人が「効率」を語るときは、すでにやっている仕事をいかに効率化するかを言っている場合が多い。しかし、すでにやっている仕事を効率化するだけが効率化ではない。これから始める仕事に安定した地盤を与えること、つまり、仕事を進める手順の定義や、仕事に使う様式のひな形化などの方が、実はより大きな効率化を実現できるのである。

多くの日本人はこのことをあまり理解していないようだ。理解していないから、いつも思いつきで新しい仕事を始める。その人がマネージャであれば部下がみな試行錯誤の巻き添えを食う。こういう仕事のスタイルを改めないかぎり、無意味な試行錯誤のために日本のホワイトカラーの勤務時間が浪費されつづける。

逆にこの問題を解決するだけで、「新モーレツ主義」など持ち出す必要もなく余剰時間を作り出せる。どうすれば仕事が早く終わるかだけでなく、どうすればムダな仕事をしなくてすむか、まずそこから考えなければ、モーレツと慢性的残業のいたちごっこは永遠に解決しない。『日経ビジネス』の編集者たちにこの種の合理性を要求するのは無理なことかも知れないが。

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2002/08/09

『日経ビジネス アソシエ』時代錯誤の理想の社員像

■日経BP社のWebサイトBizTechに『日経ビジネス アソシエ』9月号の記事が抜粋されていた。題して「自分自身を“V字回復”させる!夏休み活用術」。某化粧品メーカ子会社の弱冠39歳の社長はわずか4日間の夏休みに1時間刻みのスケジュールをたてて自己啓発に取り組むのだという。家族も気をつかって彼が1人きりになれるように帰省するのだそうだ。

昔はこういう人物こそまさに社員の鏡だったが、仕事とオフで気持ちの切り替えができない人物、家族との時間を犠牲にするワーカホリックを、今さら「理想的な社員像」として取り上げる日経BP社の時代錯誤ぶりには、まったくあきれるより他ない。たしかに僕だって彼のように往復の通勤時間を無駄にしないために語学やIT関連の専門技術の勉強時間にあてているし、休みの日でもふと気がつくと仕事上の課題について考えていたりすることもある。しかしもっと大きな観点から生きることの意味を考える時間も人間には必要だ。だから音楽も聴くし、小説も読む。本当の意味での「哲学」を欠いた人物が、生身の人間である従業員や消費者を相手に、果たして成功できるのか。きわめて疑わしい。

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2001/10/04

オーナー企業社員の「丁稚根性」

■ダイエーのようなオーナー企業は右肩上がりに成長しているときはよいが、いったん転換期を迎えるや組織内部から崩壊を起こす。その最大の理由のひとつがオーナー企業は自立した管理職を育てることができないということだ。

僕自身、まさにダイエー同様のオーナー企業ならではの強みと欠陥を同時にもつ企業に勤務している。幸いなことにこれまで右肩上がりで順調に業績を拡大することができているが、間接金融から直接金融へという日本経済全体の転換期の影響を今後まともに受けるなかで、各種社内制度・社内業務手続の改革には自立的に社内の改革をリードできる中間管理職というものがどうしても必要になってくる。

ところがオーナー企業のご多分に漏れず、オーナー以外は全員徹底的に「丁稚根性」が叩き込まれており、自分から改革のリーダシップを取ろうとするプロパー社員は一人もいない。こういう企業が拡大主義をとりながらも売上が思うように上がらなくなり、銀行からの資金調