2008/04/02

映画の上映「自粛」に見る日本人サラリーマンの愚

日本もずいぶんひどい国になってしまったものだ。『靖国』という映画の上映を東京の映画館が次々「自粛」して中止しているそうだ。この映画の内容を議論することに、僕はまったく興味はない。

ただ「自粛」という形で、民主主義の基盤である言論の自由を軽々しく捨ててしまうほど、民度の低い日本人が増えてしまっていることに危機感を抱く。

プリンスホテルが裁判所の命令に従わなかった件でも、意外なほど多くの人々がホテル側に同情的だった。これでは迷惑行為で反対意見を封じ込めようとする政治団体の思う壺だ。

そうやって言論の自由の基礎を自らむしばむことで、自分で自分の首を絞めていることにさえ気づけない。そこまで愚かな大衆が増えているということだ。

衆愚は民主主義の副産物でもあり、だからこそ民主主義ドイツからナチス独裁が誕生したわけだが、歴史はくり返すということなのだろうか。

ただナチスが誕生した時代と背景が違っているのは、安易な「自粛」の背後に、誤解されたCSRがある点だ。

最近の民間企業はことあるごとに社会的責任(CSR)を安易に持ち出して、自分たちの行為を正当化する口実につかう。

今回の上映の「自粛」も、「上映すると特定の政治団体が映画館の周辺に押し寄せて近所に迷惑をかける。地域に対する社会的責任を果たすためには自粛せざるをえない」というわけだ。

プリンスホテルもCSRを口実に自分の行為を正当化できる。やはり個人情報保護法に対する病院などの過剰反応と同じく、いかにも日本人的な「事なかれ主義」が、CSRというグローバルスタンダードから、かっこうの口実を得ている構造になっている。

要するに、日本人は民度が低いので、CSRや個人情報保護法の本来の意味をまったく理解できていないのだ。

そもそもCSRや個人情報保護法は、憲法に定められた個人の基本的な権利を守るためのものである。

それなのに、日本の企業はそのCSRや個人情報保護法を、憲法に定められた個人の基本的な権利を侵害するための口実として利用してしまっている。

ひどいと言うのもバカらしいほど、ひどい状況だ。日本人サラリーマンは一人ひとりは腰抜けのクセに、企業という束になると、平気で個人の基本的人権を無視するようなことをしでかす。

会社帰りのサラリーマンが電車の中でふんぞりかえっているのも、組織の中で自分が持っている権限を、まるで一市民としての自分に与えられているかのように錯覚しているからだ。

仕事はあくまで市民として生活するための手段にすぎないのに、組織人としての自分こそ自分自身であるという、愚かしい思い込みをしているサラリーマンが多すぎるということだ。

今回、上映を「自粛」した映画館の関係者も、自分が所属する組織の理論でしか判断できず、自分が一市民であることを完全に忘れてしまっているようだ。

ひどい。あまりにひどすぎる。

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2008/03/17

サラリーマンに役所の「裏金」を批判する権利はあるか?

先日、日本テレビのニュース番組が、地方自治体の「裏金」問題を取り上げていた。同社のかんたんな電話調査だけで、31都道府県で計450億円以上の裏金の存在がわかった。しかもこれは都道府県庁だけ。市区町村は含まれていない。

記者が大阪市内のさまざまな区役所の「裏金担当」にインタビューすると、淡々と裏金の実物の札束や、使用記録の書類を見せる。職員の態度があまりに淡々として、まったく罪悪感が見られない点を、番組の中は驚くべきこととして取り上げていた。

もちろん裏金問題そのものは許されないことだが、果たして役所の中で代々裏金を引き継いできたメンタリティーは、民間企業にとって他人事といえるだろうか?

民間企業でも先輩から代々引き継がれている業務というものがあって、その中にはバレれば明らかに違法なものから、グレーゾーンのもの、まったく法的に問題ないものまでいろいろある。

明らかに違法な業務を、日常的に闇に葬る作業をしていない民間企業が、いったいどれくらいあるだろうか。

そういうことを指摘する人間を、水くさいヤツ、和を乱すヤツ、付き合いの悪いヤツとして排除するのが、役所や民間企業にかかわらず、日本の組織に広く見られるメンタリティーではないのか。

僕は過去7回転職し、8社経験しているが、少なくともそのうち4社で、違法と思われる業務が代々引き継がれていることを目撃している。明るみに出て、大々的に社会的制裁を受けたのは、このうち1社だけだ。

僕はこれまで、民間企業のダーティーな現場から比較的遠いところで働いてきたが、その僕でさえそうなのだから、大多数のサラリーマンは自分の会社で違法行為が隠ぺいされていることを知っている可能性がある。

街頭インタビューで「裏金は許せない」と義憤にかられているサラリーマンたちに言いたい。じゃああなたたちは罪を犯していないのかと。地方自治体の裏金問題を、他人事のように非難する権利があるのかと。偽善もはなはだしい。

以前から言っているように、僕は日本がそれほどきちんとした法治国家だとは考えていない。法的に正しいことが尊重される社会だとは思っていない。日本人の一般的な「民度」は低く、近代法のさまざまな原則をまだ理解できていないからだ。

捕まりさえしなければ、見つかりさえしなければ、法に触れることをやっても構わないというのは、日本人としてごく普通のメンタリティーではないかと思う。

市民の税金を「裏金」として使い込む公務員を、バッサリ切り捨てられるほど法的に正しい日本人がいったいどれくらいいるだろうか?

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2008/03/15

内部統制に関する11の誤解

最近、仕事でJ-SOX法にもとづいた内部統制の体制整備にかかわっているのだが、どうやら監査をする監査法人と、監査を受ける企業の間に、一般的に大きな認識のズレがあるようだ。

そこで、2008/03/11に金融庁から興味深い資料が発表された。「内部統制報告制度に関する11の誤解」という資料だ。

内部統制報告制度は2008/04/01から適用されるが、まだ社内の体制整備が終わっておらず、あせりにあせっている企業がたくさんあるようだ。しかしこの「11の誤解」によれば、3月決算の企業の場合、来年、2009/03/31時点の状況を2009/06/30までに報告すればいいとなっている。つまり、まだ1年間の余裕がある。

また、内部統制の整備状況に「重要な欠陥」があっても、それだけでは上場廃止や金融証券取引法違反の対象にはならない。(ただし内部統制報告書の重要な事項について虚偽の記載をした場合は罰則の対象となる)

それに、「重要な欠陥」があったとしても、3月決算の企業なら2009/03/31までに是正されていればいいし、是正されていなくても、来年2009/04/01以降の是正措置や、是正に向けての方針等が報告書に記載されていればいい。

つまり、内部統制もISOなどと同じPDCAの改善プロセスで、問題点はそのつど是正していくことが重要なのであって、「いついつまでに改善されていなければ上場廃止になる!!」などということは全くない。

さらに、この「11の誤解」には、監査法人やコンサルティング会社の開発したマニュアルやシステムを使う必要はないし、内部統制の整備・評価は、監査法人の言うとおりに行う必要はなく、経営者が主体的に判断するものだと書かれている。

また、どんなに小さくてもあらゆる業務でも内部統制の評価対象になるわけではなく、勘定科目を売上、売掛金、棚卸資産に限定するなど、評価範囲の絞込みができるとある。

そうすると、世の中に出回っている内部統制対応をうたったソフトウェア製品が、いかに「便乗商法」であるかがよくわかる。

まず社員一人ひとりのパソコンの操作や、ファイルサーバのファイルへのアクセス状況を記録するような仕組み、メールの送受信をすべて記録する仕組み、会計システムの全ての業務処理の流れをフロー図にするソフトウェアなどなど、こういったソフトウェア製品はすべて、内部統制の整備にまったく不必要な代物であることがわかる。

この「11の誤解」には、フローチャートの作成など、内部統制のために新たに特別な文書化等を行う必要はなく、企業の作成・使用している記録等を適宜利用できるとも書いてある。J-SOX法対応といえば、業務フロー図、業務記述書の作成は必須のように言われているが、金融庁の「11の誤解」という文書はそれをはっきり否定しているのだ。

以上、この「11の誤解」という資料を読んでいると、なんとなく金融庁の意図が透けて見えてくる。おそらく金融庁は遅ればせながら、内部統制の「過熱」ぶりに危機感を抱いたのではないかと思われる。

多くの企業が監査法人に言われるままに大量の文書を整備している状況を見て、「官製不況だ!」と非難されるのを恐れ、J-SOX法の施行直前の今ごろになってこの「11の誤解」を出してきたのではないか。

耐震偽装マンションが問題になった後、建築基準法が厳しい内容に改正されたために、住宅着工件数が減って、景気回復の足を引っ張る一つの原因になったのは記憶に新しい。そのため国土交通省は日本中から非難を浴びた。

個人情報保護法にしてもそうだ。こちらは施行からかなり時間がたっているが、入院病棟の表札を廃止したために人違い殺人が起こるなど、さまざまな弊害が出ている。

それらと同じように、金融庁はJ-SOX法は金融証券取引法の「改悪」だと、経済界の非難を浴びるのを恐れたのではないか。内部統制対応のために、多くの上場企業が社員に追加業務を強いて、その結果、間接的に企業業績に影響を与えることを恐れたのではないか。

しかし、もしそうだとすれば、金融庁はもっと早くこの文書を公表すべきだった。この文書を読んで、多くの上場企業の内部統制整備担当者は「こんなこと今ごろ言わないでよ」とグチっているに違いない。

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2008/03/01

最近サラリーマン社会批判を書かない理由

昔からの読者の方は、最近サラリーマン社会を客観的に批判する文章を全く書いていないことに不満をお感じかもしれない。しかしそれには理由がある。
也许我网站的老朋友们感到不满意。因为我最近一点都不写对公司职员世界的批判文章。可是有个理由。

過去にその種の記事を書いていることが同僚に見つかり、現実のサラリーマン生活に良くも悪くも影響を与えることがあった。僕はそのことを楽しんでもいたわけだが、そのようなやり方はあまりに稚拙だと考えるようになったのだ。
以前有时候我的同事们看到我的文章,结果在公司的现实生活受些我自己文章的影响。有的影响不错,有的不太好。其实我享受这种情况。不过我开始认为这个办法是太幼稚的。

最近のこのブログの記事を読めば、僕が単なる音楽好き、中国好きで、多少IT関係のことを気にかけているサラリーマンに見えるはずだ。しかし実際にはそうではない。
我最近的博客让你们觉得我只是个爱好音乐的人,一个喜欢中国的人或者一个关心IT方面的事情的职员。但我实在不是的。

じゃあそうではなくてどうなのか。最近は、そのネタばらしをしない方が遥かに面白いということに気づいてきているのだ。だからそのことについては一切書かない。一切書かないということによって、書かれていない何かを指し示すことは少なくともできるので、それで昔からの読者には納得して頂きたい。
那我是什么?最近我觉得不管写好答案有意思得太多。所以我绝对不写我实在是什么,绝对不写我实在考虑什么。我写了我觉得我绝对不写,结果我能指示实在有些没写的东西。请老读者们明白我的意思。

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2008/01/20

いまさら「バカの壁」の「バカ」について考える


2003年に養老孟司の『バカの壁』という本がベストセラーになった。伊東乾というユニークな経歴を持つ東京大学准教授が、日経ビジネスオンラインの連載コラム「常識の源流探訪」で「バカの壁」の意味をあらためて解説している。

要約すると、同じことを言われたとき、人それぞれ受けとり方が違いすぎて、その言われたことについてお互いの意思疎通さえ成立しない状況が、「バカの壁」がある状況ということだ。

この僕の解釈が正しいとして、養老孟司の「バカの壁」という言葉が正しく理解されづらく、おそらくベストセラーになった当時もほとんど正しく理解されずに終わったのは、「バカ」という言葉の含みが世代によって大きく違いからではないか。

養老孟司に近い世代では「野球バカ」や「法学バカ」のように、特定分野のことは熟知しているが、それ以外のことに疎い人間のことを「バカ」と呼ぶことがある。「バカ」というのは頭が悪いということではないのだ。特定分野で人なみはずれた素晴らしい才能をもっていることが前提になっている。

しかし若い世代は「バカ」という言葉を、ほとんどこの意味で使わない。単に頭が悪いという意味でしか使わないのだ。

以上のようなこと自体が「バカ」という言葉をめぐる「バカの壁」的状況になっているが、結局、養老孟司の日本社会に対する批判は、日本社会を変えることにまったく成功していない。

日本社会はかえって同調圧力が強まり、空気を読む力を重視する方向へ進んでいる。「バカの壁」を自覚するには、「バカの壁」を俯瞰する力、自分とはまったく違う考え方があることを理解する「批判」の力がまず必要だ。

しかし空気を読む力が優先されると、人々は「バカの壁」の内部の均質な空間をいかに維持するか、いかに場を保つかに腐心する。製紙業界の業界ぐるみの古紙配合率偽装もその一つの現れだろう。

なぜ日本は「個性重視」と一時期あれだけうるさく言っておきながら、かえって「みんな仲良く」の方向へ、「空気を読め」の方向へ突き進んでしまったのか。

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2008/01/13

松下電器・中村邦夫会長いわく「私は残業をした覚えがあまりないんですよ」

僕はすでに7回転職して8社目に勤めている。仕事の内容は一貫して社内情報システムの企画・運用で変わりない。おかげで普通の会社員よりは様々な社風の企業を内側から観察できている。

ただどの会社でも、残業や休日出勤を厭わないモーレツ型の社員の方はいまだにたくさんいらっしゃる。人員削減でやむを得ず多忙を極めている方もいらっしゃるが、自ら仕事を増やすこと自体にやりがいを感じているように見える方もいらっしゃる。

人それぞれの価値観なので、何が良い悪いという問題ではないが、そういう方々と同じ職場で仕事をしていると、あまり残業をせずに帰ること自体、悪いことをしているような気分になってきて、正直、僕のような「業務効率第一」という考え方のサラリーマンにとっては働きづらい。

意味もなく心の中で「僕は仕事のために生活をしているのではなく、生活のために仕事をしているんだ。仕事は生活の手段にすぎず、仕事のために生活を犠牲にするのは本末転倒だ」と言い聞かせるしかない。

今朝の日本経済新聞11面に松下電器産業の中村邦夫会長の興味深い言葉が載っていた。

中村会長は「自慢するような話ではありませんが、私は残業をした覚えがあまりないんですよ」「自分の時間まで切り売りすることはないでしょう」と語っているらしい。僕のような人間にとっては心強い限りだ。

自分がいったい何のために仕事をしているのか、そして、自分の仕事に対する考え方が原因で、周囲で働く人たちの生活にまで影響を与えるようなことをしていないか。

人間的に仕事をするとはどういうことか。古くて新しい問題だ。

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2008/01/12

日本企業の陥っている「相対主義の罠」

会社員生活を続けていると、日本の会社組織全体が相対主義の罠のようなものにはまっていることが分かる。

日本の高度経済成長の原動力が、決して技術革新ではなく、単なる長時間労働による労働集約だったというのは定説になっているようだが、今の日本企業がもはや労働集約で成長できないのも明白だ。

高度経済成長期はカリスマ経営者の方針を、全従業員が絶対的に正しいと「信仰」しさえすれば成長を実現できた。もちろん今でもベンチャー企業の創業期などはこの原則があてはまる。

しかし一定の規模になった現代の企業が、経営者への無批判な「信仰」によって正しい経営判断をし続けることができるという考え方は、端的に誤りだ。

逆に、経営者の判断をいかに複数の観点から批判的に検討し、相対化できるか。会社組織として正しい経営判断を下し続けるには、このような複数の観点からのチェックが必要になる。

ところが日本の組織人には、複数の観点があることを認め合って、お互い論理的に批判しあう伝統もなければ、能力もない。日本人は幼稚園のときからずっと「みんな仲良く」的な教育しか受けたことがないので、相互批判によって、できるだけ正しい判断に近づけていくということをする能力がそもそも欠けている。

その結果、現代の日本企業は「相対主義の罠」にはまってしまう。

僕の言う「相対主義の罠」とは、現代の企業が、トップの判断さえ相対化しなければならない環境になったために、かえって会社組織が公式的にはトップの判断を妄信してしまうという皮肉のことだ。

従業員全員が、トップの判断さえ絶対ではないことを既にわかっている。ところが日本人にはお互いを批判をしあうことで、少しでも正しい方針を練り上げていく能力がない。

するとそこに発生するのは不毛な「空気の読み合い」だ。もっともありがちな結末は、「偉い人」の機嫌を損ねないように、「偉い人」がたとえトンチンカンなことを言っていても、うわべはそれに従うという態度が組織に蔓延するという結果である。

しかし一人の人間として、自分が間違っていると思う意見に従い続けるのは精神的に限界がある。すると組織の外部での「内部告発合戦」が始まる。

仮にそうした組織の外部でのタレコミ合戦のような場所で垂れ流される意見を、会社組織が適切にすくい上げる機能をもっていれば(かつては労働組合がその役割を果たしていたはずなのだが)、日本企業は自分たちのおかれている相対主義(=何が絶対に正しいのか誰もわからない)という環境を、もっとうまく泳いでいけるはずである。

ところが現代の日本企業のトップは、高度経済成長下の「カリスマ妄信」が有効だった時代に社会人になった人たちが多く、こうした「相対主義の罠」をまったく理解できていない。

それどころか日本企業のトップの中には、某居酒屋チェーンの社長や、球団を持っている某信販会社グループのCEOのように、若い頃の「カリスマ妄信」の発想を引きずったまま、妄信する相手をリバタリアニズムに置き換えるという愚行に陥って、その自覚がないという、最も始末の悪いことになっている。

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2007/11/12

経営者のみなさん、全部、現場のせいにしましょう

赤福餅に続いて、大阪の船場吉兆の賞味・消費期限偽装と産地偽装。社長は「農水省の調査で初めて知った」と強調し、すべて現場や課長以下が独断でやったことだと言い張っているらしい。

そんな言い逃れが通用するわけがないのだが、ある意味、正しいのかもしれない。経営者はこの手の不祥事があったら、どんどん「現場が勝手にやったことだ」と言い逃れしてみてはどうだろうか。

というのは、まだ不祥事がバレていない現場の社員たちはカチンと来て、「どうせうちの会社の経営陣も言い逃れするんだろう。完璧、裏切られた感じ。そんな会社ならいっそのこと内部告発しちゃえ!」となって、どんどん内部告発が出てくるはずだからだ。

経営者のみなさんは、下手に現場をかばうことなく、全部、現場のせいにしましょう。

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2007/11/05

内部告発さえ横並びのサラリーマン

東洋ゴムも耐熱版の認定試験に偽造のサンプルを使っていたらしい。へーベルハウスの健在メーカ、ニチアスが内部告発で偽装を隠し切れなくなった事件に続いてだ。

時事通信によれば、昨年3月に社内調査で不正が発覚したが、担当幹部レベルで隠ぺい、ニチアスの偽装報道がきっかけで社長も不正を知るところとなり、国交省に報告したらしい。

東洋ゴムの社長がこのタイミングで、初めて不正を知ったのが本当だとすれば、おそらく担当幹部より下層レベルの現場社員からの内部告発ではないかと思われる。

ニチアスの偽装が発覚しなければ、東洋ゴムの偽装も発覚しなかったことになる。逆に言えば、東洋ゴムの社員は、ニチアスの偽装に勇気づけられなければ、内部告発のひとつさえできなかったということだ。

サラリーマンなんて、こんなもんである。

菓子メーカーの一連の事件を見てもわかるように、内発的な正義感からなされるべき内部告発でさえ、「みんなで渡れば恐くない」という横並び意識からしかできないのだ。

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2007/10/22

無数の不正の上に成り立っている日本の企業社会

赤福の組織的な賞味期限改ざんや売れ残り製品の再利用は、3年前、すでに内部告発があったようだ。おそらく今回、大きな事件になったのも内部告発によるものだろう。

今日も新たな事実が明らかになり、賞味期限の末尾に「暗号」をつけて、その商品が売れ残りを再包装したものであるなどの状態を手順書にして管理していたそうだ。それでも愚かな社長は、不正は会社ぐるみではなく、経営陣の関与を否定している。

誰がどう考えたって、不正を認識しながら放置している時点で、経営陣の責任は十分問える。にもかかわらず記者会見で、営業の再開こそわれわれの使命だと言い切っていしまう社長の盲目さ加減。

客観的に自分がどう評価されているのかについて、ここまで鈍感な社長だからこそ、平気で組織的な不正を放置できたのだろう。

しかしいわゆる老舗や、オーナー色の強い会社組織が、外部の視点から自分の組織を相対化することはかなり難しいのだろう。そのような組織では、経営陣の権力が業績の維持以外の理由で正当化され、絶対的なものになりがちだ。

そうすると、従業員は経営陣に対して合理的に反論する機会を失い、違法な手段をつかってでも経営陣の指示を実現するしか道がなくなる。何としても利益を出せと言われれば、売れ残りの商品を再利用してしまうのだ。

ただ、不二家、「白い恋人」、赤福は氷山の一角であることを忘れてはいけない。

僕のような凡庸なサラリーマンでさえ、過去に在籍した企業で、組織的な不正の片棒を担いでいたくらいだから(こんなことを書くと「交通事故」を偽装して殺されそうだが)、内部告発のネタを持っていない会社員は、そう多くないはずだ。

日本社会はそういう隠された無数の不正の上に、まあなんとか成り立っているということを忘れてはいけない。

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2007/08/16

石屋製菓社員はなぜ内部告発を決意したか

今日のニュースによれば、北海道の石屋製菓の賞味期限改ざんは過去10年間にわたって行われ、社長も把握していたらしい。僕の興味を引くのは、10年にもわたって首尾よく隠蔽されてきたことが、なぜ今になってバレてしまったのか、ということだ。

2007/08/14付け毎日新聞の記事によれば、2007/06下旬に社員と思われる関係者から、「白い恋人」の賞味期限改ざんについて、石屋製菓のホームページに内部告発があったというが、「白い恋人」件については社長も10年間認識していたのだから、この内部告発がきっかけになったとは言い難い。

北海道新聞の2007/08/15付け記事によれば、「一連の問題は八月九日以降、数回にわたって同保健所に電話で同社の従業員を名乗る人から内部告発があり、発覚した」とあり、これが発覚のきっかけになったようだ。

しかしさらに考えると、10年来、全社的に行われてきた賞味期限の改ざんが、なぜ2007/08/09以降、突如として内部告発されるに至ったのか、その理由がよくわからない。

一つ考えられるのは、賞味期限改ざんはまだ許せたが、商品から大腸菌やブドウ球菌が検出されたことを隠蔽することには耐えられない社員がいた、ということだ。大腸菌やブドウ球菌は、消費者の生命に直接かかわるおそれがある。賞味期限の改ざんとは重大性が一段異なる。そう考えた社員がいてもおかしくない。

ただ、商品から大腸菌群が検出されたにもかかわらず、同社が保健所に届けず、こっそり廃棄処分にし始めたのは2007/07上旬からで、そこから1か月もたっている。内部告発した社員は、1か月間、告発すべきか否か葛藤していたということだろうか。

1か月の葛藤の期間は、会社に対する忠誠心の高い社員ならあり得るかもしれない。その社員は、賞味期限改ざんについては既に知りながら内部告発を避けてきたくらいだから、かなり忠誠心が高かったに違いない。

内部告発で不正が明るみに出た石屋製菓のような事例は、まだ救われていると言える。僕には同社のような不正は氷山の一角で、日本国内の民間企業には、内部告発されないまま眠っている無数の不正行為が、ひそかに横たわっている気がしてならない。

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2007/07/10

「大企業人」と中堅企業の情報システム部

ここ数年、僕は社員数百名の中堅企業で、社内情報システム部門の責任者として働いていた。入社当初からの最大の使命は、まともに機能する情報システム部をつくることだった。というのは、それまで情報システム部自体が存在しなかったからだ。

情報システム部が10人に満たないような会社の場合、部内をはっきり役割分担しても、部全体としての生産性は向上しない。むしろ個々の部員が高度な技術力をもち、自律した技術者として、いかに現場の要求に迅速かつ的確にこたえられるかが重要だ。

ただ、僕もそうだが、大企業の情報システム部門で長く働いた経験があると、どうしても大企業の整然とした組織や業務を、そのまま中堅企業に持ちこんでしまう。

そういう中途採用者のことを、最近公開された松本人志の映画にひっかけて(別にひっかける必要は全くないのだが)「大企業人」と呼ぶことにする。僕もかつては「大企業人」だった。

ところで、大企業の情報システム部門で整然とした組織や業務が成り立つのは、全社の組織や業務があるていど整理されているからだ。中堅企業で情報システム部をはじめとする管理部門だけが、組織や業務の整理を目指しても、現業部門の組織や業務が追随しなければ効果はない。

また、組織や業務を整理すること自体にコストがかかることを忘れてはいけない。どこまで部内の組織や業務を整理するかは、あくまで費用対効果を考えた上でのことだ。

たとえば、業務システムの仕様書が整備されていないとする。追加の費用をかけて文書を整備するよりも、未整備の仕様書からシステムの機能を読みとって業務の要求を満たす方が優先順位は高い。仕様書が未整備のままでは業務システムの保守・運用などできない、というのは「大企業人」の発想だ。

また、他部署からくる情報が未整備な場合に、他部署を非難するのも「大企業人」の発想だ。中堅企業では、まず、なぜ情報が未整備なのか原因を調査し、情報システム部としてIT活用策が提案できないかを検討する方が優先順位は高い。

個人的な例では、人事部からとどく社員の入社日が、1日、16日などに統一されず、月中にばらつくため、情報システム部としてユーザ登録などが煩雑になるという問題があった。

人事業務もたった2~3人でまわしているような中堅企業では、「大企業人」的に人事部を非難しても意味がない。まず原因を調査してみたところ、ある事業部の派遣・契約社員比率が8割以上だとわかった。

人手不足の折、派遣会社に「着任を16日まで待ってほしい」などと言えば他の企業に人材をとられるし、1日でも早く入社したい契約社員の入社日を会社の都合で遅らせるなど、労働者に不利益なことを企業が強要するのは難しい。

このように、入社日がばらつくのには妥当な理由があった。その事業部で正社員を雇用しないのが経営方針である以上、IT活用策も打てない。

もちろん中期的には、費用をかけてでも全社で組織や業務の整備を進める必要がある。しかし、情報システム部門の責任者は、短期的には既存の経営資源の制約のなかで、優先順位の高い対応をとるべきだ。

中堅企業が大企業のようではないことに文句をつけるのは、部員の士気低下にもつながり、非生産的だ。

日本版SOX法対応など、組織や業務の整理に全社で取り組む場合でも、部門の責任者は、既存の経営資源の制約を前提とした短期的な意思決定と、その制約自体の変更をふくむ中期的な意思決定を使いわける必要がある。

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2007/07/05

ワタミ社長の教育委員会についての自己満足的暴論

先週につづいてワタミ社長・渡邉美樹氏が日経ビジネス・オンラインに連載している『もう、国には頼らない』にツッコミを入れてみたい。ひとことで言えば、「社会のことが見えていないのは、渡邉さん、あなたの方ですよ」というツッコミだ。

渡邉美樹氏は、神奈川県の教育委員会が、一般市民による公教育のチェックという本来の機能を失い、教師側の利害をまもる機関になってしまっていると非難している。そして、自分が神奈川県の教育委員会で「ひと暴れ」する様子を誇らしく書いている。

まず、渡邉美樹氏の議論の明らかな問題点の一つは、神奈川県の教育委員会の「堕落」を、すべての教育委員会の問題として一般化してしまっていることだ。このような一般化は、他の都道府県の教育委員会の状況を調査してから書くべきだろう。メディアでたびたび公的な発言をする人物としてはあまりに不用意だ。

しかし、ここで指摘したいのは渡邉美樹氏の議論の、より根本的な問題点だ。

たしかに渡邉美樹氏の言うように、神奈川県の教育委員会は本来の機能をはたしていないかもしれない。ただ、それに対して、「本来の機能を果たしていないだろ!」と「ひと暴れ」することは、人並みの正義感と論理的思考力と時間があれば誰にでもできる。

渡邉美樹氏は自己満足的な「ひと暴れ」をする前に、もう一歩ふみこんで考えるべきなのだ。なぜ教育委員会は本来の機能をはたさなくなったのか、と。

渡邉美樹氏のいうように、教育委員会という制度ができた当初は、一般市民による公教育のチェックという機能をはたしていたと仮定しよう。ならば、どうしてその機能が失われてしまったのか。その理由は何なのか。

そこが説明できないかぎり、渡邉美樹氏がいくら暴れても、氏が委員を退任すれば教育委員会はもとにもどってしまう。

自分が辞めても、残された組織が適切に機能しつづけるようにするという観点が、渡邉美樹氏には欠けているようだ。まあこれは、創業者社長によくある典型的な限界なのでしかたないが、いやしくもじっさいに委員として公的な発言をするなら、もっと自分自身の思考の限界を自覚すべきだろう。

ちょっと議論が脱線した。では教育委員会はなぜ本来の機能をはたさなくなったのだろう。その理由について、渡邉美樹氏はこう書いている。

「では、なぜその教育委員会がうまく動かなくなったのか。委員会のメンバーを見ると原因が見えてきます。とにかく教育関係者に偏りすぎなのです。大学の先生、地域の校長先生やその候補者、教師OB、それ以外だと地元の名士、有力者というのが、一般的なメンバー構成です。議論の前提が、既存の学校や教師の権益をいかに守るか、となってしまうのも当然です。」

そして渡邉美樹氏はその対策として、つぎのように書いている。

「教育界以外の民間人の方、当たり前の社会通念や常識を備えた、さまざまな立場の人が集まって、わが市町村、都道府県でそれぞれの独自性を持った教育カリキュラムを組みましょう。地域、地域の特色性を持ちましょう。子どもたちに良い教育をしましょう。」

とても単純な二項対立の図式だ。教育関係者=悪、民間人=善。言うまでもなく渡邉美樹氏のこのような二項対立の図式は完全にまちがっている。

なぜ、教育委員会が教育関係者(ところで教育関係者は「民間人」ではないのだろか?)にかたよる結果になったのか。それは、民間人が教育委員会のような制度に関心がないか、自分自身のことに忙しくて、関心があっても参加する時間がないからだろう。

ではなぜ「民間人」は公的な制度にこれほど無関心になってしまったのか。それは経済成長のために家族もろとも長時間労働にかり出されているからだ。

渡邉美樹氏も、開業資金をかせぐために宅配便業者で昼夜問わず働いていたころは、教育委員会に物申す余裕はなかっただろう。ところで渡邉美樹氏は、教育委員会などの市民としての活動に参加できる時間的余裕を、ワタミの社員に制度的にあたえているのだろうか。

「民間人」が多忙な結果、公的教育に関するあらゆることが特定の集団に「丸投げ」されてしまう。これは、どちらが原因でどちらが結果かというよりも、今の日本の社会をかたち作っているしくみ、構造である。

いってみれば、日々の生活に忙しい「民間人」と、教育問題を丸投げされてしまっている「教育関係者」は、おたがいに補完しあう関係にあるのだ。

「教育関係者」は「民間人」が教育を他人まかせにするので、結果として教育にかかわる組織や制度を独占してしまっている。「民間人」は「教育関係者」が教育にかかわる組織や制度を独占してしまっているので、ますます教育を他人まかせにする。

この相互補完的な構図のうち、片方の「教育関係者」だけを悪者にして非難し、自分は正義だと言いたげな渡邉美樹氏の議論が、ほぼ完全にまちがっていることはもうおわかりだろう。

改めていうが、ワタミの社員には「民間人」として活動するのに十分な時間が与えられているのだろうか。渡邉美樹氏は教育委員会で「ひと暴れ」し、それをメディアで自慢するよりも、まず自分の管理下にある「民間人」を「民間人」として機能させるのが先ではないだろうか。

もし渡邉美樹氏が、「民間人」として活動する時間は、自分の休日を削ってでもつくるものだと反論するなら、こう答えよう。それではうまくいかなかったから、いまの神奈川県教育委員会があるのではないか。

実現可能性のない理想論をぶち上げるのは、一企業のリーダーとしては許されるかもしれないが、社会に対する批判としては単なる自己満足に終わり、生産的でない。

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2007/07/01

会社を変える最適な方法論

かつての雪印や三菱自動車工業、カネボウ、ミートホープなど、明らかに違法行為をはたらいた企業は別として、合法的に営業活動をしている会社で働いていて、この会社をより良くしたいと考える人がいるとき、問題なのはその人が何を理想形としているかだろう。

個人としてのサラリーマンの経験には限界がある。僕は幸か不幸か転職回数が多いので、社員数何万人という大企業から、数百人の中堅企業までの経験がある。

それぞれの企業組織が、どうなれば最適なのかということは、社員数や売上規模といった客観的な会社の大きさだけで決まるわけではない。組織風土や社風、企業文化といった目に見えないものによっても大きく左右される。とくにオーナー色の強い企業の場合は、オーナーの考え方によってその企業の文化が大きな影響をうける。

ほとんどの大企業の組織は、良い意味で合理的・官僚制的に整然と組織されているが、こうした組織がすべての企業につねに最適だとは限らない。とくにオーナー色の強い企業では、オーナー自身が合理性を追求する性格でない限り、合理的・官僚制的な組織を作り上げるのは難しい。

中でもベンチャー企業から成長した企業では、企業全体が創業者の理想を実現するのに最適なように組織される傾向が強い。それを悪く言えばワンマン体制ということになるが、それがなくなってしまうと、もはやその企業はその企業でなくなってしまう。重要な個性と、同業他社に対する差別化要因を失ってしまう。

自分の働いている会社をより良くしたいと考えるなら、まず適切なモデルを選択しなければならない。オーナー色の強さが個性になっているような会社を、大企業のような合理的組織に変えようとするのは、モデルの選択を誤っている。

一企業といっても、それは一つの社会である。そして一つの社会の性質は、それほど簡単に変わるものではない。外資系企業に買収されたり、違法行為で社会的な処罰をうけるなど、大きな外的要因がない限り、一つの企業の文化はとても根強く安定している。

逆にそうした安定性こそが、社員の安心感を生み出し、組織の内部におこる変動や複雑さを縮減することに役立っているのだ。

したがって、無理なモデルをもってきて、会社がそのモデルと違うということを論拠に会社を変えようとするのは、方法論として完全に誤っている。組織変革の最適な方法とは、その組織が動いている原理をわざと推し進めることで、その限界を露呈させることだ。

その組織の中にある制度があって、その制度が不合理だと思うなら、その制度に忠実にしたがえばどれほど不合理なことが起こるかを示して見せることだ。

会社組織に被雇用者として属していて、革命的な方法で変革を起こすのは本質的に不可能である。したがって組織を変えようと思えば、体制内改革の方法論をとるしかない。そして体制内改革の方法論とは、まず徹底的にその組織の作動原理を忠実に推し進めてみることである。

よそから理想のモデルをもってきて、自分の組織がいつかその理想どおりになると考えるのは、単純素朴なロマン主義以外の何物でもない。

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2007/06/02

単純すぎる業務効率化の分析モデル

結局今週は『新世紀エヴァンゲリオン』週間となり、第弐拾四話まで見終わった。残りは2話のみ。

二クラス・ルーマンの入門書を読み終えたところで、Amazon.co.jpから社会学的啓蒙の邦訳を2冊取り寄せたら、1冊が表紙は『社会システムのメタ理論』で中身が『社会システムと時間論』と、妙なことになっていた。

それはいいとして『法と社会システム―社会学的啓蒙』を読み始めたが、予想どおり、原書の社会学的啓蒙第一巻の論文のうち一部分しか翻訳されていない。それでも、いきなり1984年の『社会システム理論』を読むよりは、こちらの方から読み始めるべきだったことは明らかだ。

邦訳と対比しながら読もうかと思い、会社帰りに丸の内オアゾの丸善で、「Soziologische Auflaerung(社会学的啓蒙)」の原書がないか探してみたが、ルーマンは濃紺の表紙でおなじみのSuhrkamp Verlag KGから出版されているものしかなかった。

サラリーマン社会の理論は、せいぜい直線的な因果律の世界で、フィードバック・ループが考慮されていればまだ良い方だ。先日も社内の業務分析のワークショップに参加したが、分析結果のモデルがあまりに単純化された因果律だったので退屈だった。

業務の生産性向上は、それほど単純な問題ではないはずだ。分解された個々の業務は、入力と、処理と、出力があり、単位入力あたりの出力を最大化することが生産性向上と呼ばれる。しかし、まず第一に、出力単位には量的な要素だけでなく時間的要素、つまり速度も含まれる。

速度を考慮に入れると、分解された業務を統合したときの、ボトルネックの問題を解消しない限り、業務の全体としての効率化に結びつかない。これはゴルドラットの『ザ・ゴール』でおなじみの考え方だ。

第二に、分解された業務の連鎖として業務の全体性を見る考え方は、直線的な因果律で、フィードバック・ループがまったく考慮されていない。ある業務のアウトプットは、次の業務のインプットになるだけでなく、それより以前に存在した業務のインプットへともどっていく場合もある。

さらに言えば、ある業務のアウトプットが、次の業務のインプットへ、どのようにつながれているのか、そのコミュニケーションを成り立たせている環境の問題が考慮されない。たとえば、社員数が2倍になれば、コミュニケーションの複雑さは約4倍になる。したがって業務の生産性向上の効果は、社員数の増加とともにだんだんと減っていくのだが、そのことが考慮されていない。

などなど、あらを探せばいくらでも出てくるのだが、そもそもサラリーマン社会における業務効率化は、初めから半分くらいは「ためにする効率化」にすぎない。モデルを精緻化する方がバカげているとなるのがオチだ。

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2007/05/01

ビジネス文書にもう志賀直哉はいらない

ビジネス文書を書くにあたって、僕がお手本として念頭においていたのは志賀直哉だった。同じ情報量を伝えるのに、いかに簡潔な日本語で伝えられるかがビジネス文書の真髄だと考えていたからだ。

ところが一般のサラリーマンの日本語力は、簡潔な文体を正しく読み込めるほど高くないらしいことが最近わかってきた。

最近、テレビのバラエティー番組で字幕が多用されているせいなのか、まともな日本語で書いてある良質な本を読まずに、いかがわしい自己啓発本や金儲けの本ばかり読むせいなのか、原因は明らかでないが、簡潔を旨とするメールが誤解をうける場合が多くなってきた。

仕方ないので最近は、一通のメールには極力4つ以上の用件を含めない、大事なことは冒頭と末尾にくり返すことにしている。

日本企業の人事評価が成果主義に傾くにつれて、日本企業のサラリーマンの思考はますます物事を単純化するようになり、「わかりやすさ症候群」に磨きがかかっている。この流れはいったいどこまで進むだろうか。

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2007/04/27

「根回しのワナ」

サラリーマン社会には「根回しのワナ」というものがあるが、あまり知られていない。いったん根回しや調整をしなければ仕事ができないという仕事のスタイルを身につけてしまったが最後、どんどん根回しの深みにはまっていく、という現象のことだ。

日本のサラリーマン社会では、「周到な根回し」という非生産的な労働に時間を割けば割くほど、能力がなくても出世できるという経験的な法則性がある。しかし、根回しによって出世したサラリーマンは、出世すればするほど、課される仕事が大きくなるため、さらに高度な根回しが要求される。

そこで、さらに高度な根回しに奔走すると、さらに出世して、退職するか生活習慣病で死ぬか、燃え尽き症候群で自殺するまで、根回しから逃れられないサラリーマン生活を送ることになるのだ。

この「根回しのワナ」、またの名を「根回し地獄」から逃れる方法は比較的かんたんである。まず際限ない出世をあきらめ、そこそこの生活ができる程度の地位で足るを知り、社畜としての人生とは決別し、人間らしい生活を送る決断をすることである。

そして、周囲から「あいつはぶしつけなヤツだ」「気を遣うということを知らないやつだ」と思われようが、そんなことにこだわる方がせせこましい生き方であると無言で開き直って、自分の仕事に真面目に取り組めばよい。

そうすれば会社に対して少なくとも損害を与えることはないので、解雇されることはまずない。同時に人間らしい生活が送れる。

最もバカげているのは、根回しや調整、周囲への気遣いといった非生産的な労働に疑問さえ抱かず、それらをサラリーマンとして当然の仕事、もっと言えば、それらこそがサラリーマンの仕事の真髄だと思い込むことである。

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2007/03/21

情報システム部門原論(1)

企業の管理部門には経理、人事、総務などさまざまな部門があり、それぞれに役割がある。管理部門は利益を産み出さないので、それぞれの部門が決められた役割を果たさなければ、営利組織としては存在意義を失うことになる。

管理部門の各部門は、各部門で働く人々の専門知識や専門技術がなければ、決められた役割を果たすことができない。経理部員には企業会計、企業税務についての専門知識と実務上の技術が必要だし、人事部員には企業の人事管理、労務管理、労働関連の法制度についての知識と実務をおこなうための技術が必要だ。

同じように情報システム部員は、企業の情報システムについての専門知識と実務をおこなうための技術が必要になる。個人が趣味でパソコンをつかうのに必要な情報技術にかんする知識と、企業が情報システムを企画、構築、運用するのに必要な知識とは大きく異なる。

また、企業組織としては一部の実作業を外部の業者に委託することに費用対効果はあるが、すべての実作業を外部に委託することは事実上不可能である。その理由は、どの企業にもその組織特有の実務上の規則や慣習があり、そのうち明文化さていない部分や、その企業の中核的な競争力にかかわる部分は、外部に委託するわけにはいかないためだ。

情報システムについても同じことが言えて、外部の業者に委託できない実作業は社員がおこなうしかない。したがってすべての企業の情報システム部員は、一定の実務上の技術がなくてはならない。

たとえばパソコンをその企業の社内ネットワークに適した設定に変更する技術であるとか、その企業の社内ネットワークの運用を自動化するのに必要なちょっとしたプログラムを書く技術などである。

管理部門の社員には、すべての実作業を外部委託できないという以外にも、実務上の技術が要求される理由がある。それは外部の委託先業者を適切に管理するためである。

労務管理の知識がまったくない人事部員は、社労士との打ち合わせをすることはできない。企業税務の知識がまったくない経理部員は、監査対策のための税理士との打ち合わせをすることはできない。

同じように情報システム部員も、一定の技術知識と実務上の技術がなければ、委託先業者の仕事の品質を検査することができない。いわゆる「丸投げ」になってしまう。

以上のように企業の管理部門の構成員は、所属する部門に決められた役割に対応する専門知識と実務上の技術(=じっさいに自分で手を動かして一定の結果を産み出す能力)を持たなければならない。管理部門は単なる調整役ではないのである。

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2007/02/17

ビジネスパーソンの低レベルな「情報戦」

いま僕が勤めている業界は、社長クラスになると知らない人がいないというくらい世間が狭いらしい。それだけに業界内で何か目新しいことが起こったとき、すぐ業界中に伝わるようで、その世間の狭さは客観的に見ると何とも滑稽だ。

巧妙な情報戦を仕掛けているつもりでも、頭の良い人間から見れば、誰が何を仕掛けようとしているのかはすぐに分かってしまう。いちばん滑稽なのは、巧妙な情報戦を仕掛けているつもりの当人が、それがバレていることに気づいていない点、仕掛けられた情報戦に踊らされたり、見事に洗脳されたりしている人たちに、その自覚がない点だろう。

「ビジネスパーソン」という凡庸な人種が、自社の利害のために仕掛ける情報戦とはこの程度のものなのかと、客観的に見ていると滑稽でもあるし、うら悲しい気分にもなる。もう少し屈折した、巧妙な仕掛けを見せてほしいものだ。

まぁ、うまい投資話にだまされる詐欺の被害者が後を絶たないことからしても、一般人の「信じやすさ」は、悲しいかな、この程度のものなのだ。

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2007/01/30

不二家の不祥事に便乗する食品メーカ

不二家の賞味期限切れ原料使用の不祥事が明らかになった直後、さまざまな食品メーカが続々と同じような品質管理上の問題を発表した。これらの食品メーカにとって、不二家という大事件のかげに隠れて目立たない今は、自らの膿を出してしまう絶好の機会だったわけだ。もし不二家の一件がなければ、これらの食品メーカが問題を発表することはなかっただろう。

民間企業の経営者の倫理観というのは、この程度のものだ。そしてそういう非倫理的な組織に労働力という商品を売らなければ生きていけないのが、サラリーマンという職業である。

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2007/01/14

『ビデオニュース・ドットコム』でホワイトカラー・エグゼンプション

ホワイトカラー・エグゼンプションがビデオニュース・ドットコムの2007/01/15放送分でテーマとして取り上げられていた。僕の解釈も含めながら放送内容の最初の3分の1くらいをご紹介する。

ちなみにビデオニュース・ドットコムとは元共同通信のビデオジャーナリスト・神保哲生と、社会学者・宮台真司が司会をつとめるインターネット放送。視聴料として月額525円かかるが、さまざまな社会問題について、毎回、専門家をゲストに、放送コードやスポンサーの縛りがあるテレビ放送では絶対に聞けない過激な議論が聞ける。NHKの視聴料を払うくらいならビデオニュース・ドットコムを見るべきだろう。

まず米国と日本では労働法上の前提がそもそも異なる。日本にはヨーロッパと同じく労働時間の上限について罰則付きの法律があるが、米国には存在しない。

また企業文化の面では、欧米ではホワイトカラーが仕事の優先順位や量について、上司と交渉するのが普通であるのに対して、日本のホワイトカラーはふつうそのような交渉の余地をもたない。

日本では現状の法律下でホワイトカラーが働く上で大きな問題を感じていないばかりか、すでに「裁量労働制」というホワイトカラー・エグゼンプションにあたる制度が存在する。しかも管理・監督者に限るとされている「裁量労働制」が、すでに課長・係長クラスにまで拡大解釈され、適用されている。

それでもなお新しい制度を導入しようというのは、経営者側の一方的な意思としか考えられない。ではその目的は何か。

おそらくコンプライアンス(法令順守)が厳しく問われるようになったため、残業代の不払いを「合法化」したい経営者が、残業代を払わなくてもよい層を現在の「裁量労働制」に定められている「管理・監督者」より広げたいからではないか。

その他にもビデオニュース・ドットコムでは、信頼ベースの労使関係、日本企業の競争力の源泉、大店法などのネオリベラリズム的規制緩和法制との関係、「誰が主人公」の制度改革なのかなど、さまざまな興味深い論点が出されていた。それについてはぜひ放送本編を観ていただきたい。

放送の最後に宮台真司は不気味な予言をしていた。このホワイトカラー・エグゼンプションは法案としてあまりに未熟なため、今回は見送りになるだろうが、数年後に「休暇確保法」など聞こえのよい名前で再登場して可決されるだろう、とのことだ。

この予言が当たる前に、政権交代が起こっていることを祈りたい。今年は参院選の年だ。

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2007/01/11

ホワイトカラー・エグゼンプション導入延期

どうやらホワイトカラー・エグゼンプションの制度導入は、とりあえず参院選挙後に延期になったようだ。以前にも書いたように、同調圧力の強い日本企業でこの制度を導入すれば「際限のない付き合い残業」という結果になるのは目に見えている。

この年末、僕の勤務する企業でも、とくにやることもないのに上司が部下のために「付き合い休日出勤」をしている様子が見られた。いままで僕が勤務した企業でもふつうに見られることだ。

また、日本企業の社員はホワイトカラー・エグゼンプションが当初想定していたような、年収800~900万円層の中間管理職であっても、同僚や部下と「群れ」で行動する。

結果的に僕のように仕事で必要な他は一人で行動し、昼食も誰かといっしょにとることはないし、雑談にも付き合うことなく、仕事に没頭するといった人種は、部下にも同僚にも疎んじられることになる。

もっとひどい場合は、自分たちで「群れ」を作るために、わざわざ「仮想敵」を作り上げることさえある。例えば、他の部署や経営陣を「仮想敵」として批判してみたり、上司を「仮想敵」にして「仲間はずれ」にしてみたりする。

試しにその「仮想敵」ゲームに参加したふりをして、いっしょになって彼らの「仮想敵」を批判してみると、期待どおりにこちらを「仲間」と見なして同胞意識を示してくれたりする。

僕はこのような日本的会社員の「仮想敵」ゲームや「仲間はずし」ゲームを、客観的にゲームとして見ることができるのだが、大多数の社員が無自覚に「仮想敵」ゲームにいそしんでいるのが日本企業の実態なのだ。

このように「群れ」の行動を基本とする社員がほとんどをしめる、同調圧力の強い日本企業に、ホワイトカラー・エグゼンプションを導入しても、制度がその理念どおりに機能するわけがない。この制度は、一人ひとりの自律した行動を基本とする欧米企業で生まれたものだからだ。

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2007/01/06

システム・エンジニアの職業倫理

この年末年始、中規模のシステム移行作業をやっていた。全社員のパソコンを1台ずつ設定変更する作業を業者に委託したが、その仕事の品質は期待の7割にも満たなかった。

事前にこちらが考えた手順書にしたがえばよいだけなので、当日あらわれたのが学生アルバイトらしき人たちでも特に不安は抱かなかった。しかし実際には見事に期待を裏切られた。

別の業者のSEと新しいシステム構築の仕事をしていて、何か不具合が起こったときに、僕の方が先に原因をつきとめてしまうということもしばしばある。

たしかに僕の場合、高度な英語力でインターネット検索ができるという優位性があるが、こちらが初めて経験するパッケージソフトウェアの導入で、その製品の導入経験のあるSEよりも、こちらの方が先に不具合の対処方法を見つけてしまうのは一体どういうことだろうか。

また、同僚SEや「元SE」のほとんどが、初級程度のプログラミング技術しか持っていないか、まったくプログラムが書けないことに違和感を抱かざるをえない。

プログラミング言語は人間とコンピュータの意思疎通に欠かせない。「プログラムのできないSE」というのは「英語のできない英語通訳」みたいなもので、言葉の矛盾だ。

英語ができないで英語を話す人々と正しい意思疎通ができるないのと同じように、プログラミングができずに情報システムやIT関連機器を思いどおりに動かすことはできない。「SEの第一歩はプログラミングから」というのは、SE不足の昨今ではもう常識ではなくなっているらしい。13歳からプログラミングをやっている僕の考えの方が古いのだろう。

そして、組織の一員として大規模なシステムの開発・運用を担当していた元SEが、あたかも自分がそのシステムを動かしていたかのような大言壮語を吐いているのを聞くと、端的に悲しくなる。

組織の成果を、自分の成果のように勘違いする。サラリーマンに典型的な肥大した自意識だ。そんな自意識がいかに恥ずかしいか、まったく気づいていないところがいかにもサラリーマン的な凡庸さだ。

オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』ではないが、自らの凡庸さを誇りながら、その凡庸さに無自覚な点こそ、現代の大衆の大衆たる所以であり、サラリーマンのサラリーマンたる所以である。

「コミュニケーション能力が高く」、他人の技術力に寄生して仕事をするSEにはよく出会うが、自ら新しい技術を習得しつづけるストイックな職人的SEにはめったに出会えない。

サラリーマンとしてテキトーに世の中を渡っていくだけなら、確かにそれで十分なのだろう。どんな職業倫理にもとづいて働くかはそれぞれの勝手だが、周囲までその「テキトー」な生き方に巻きこむことはやめてほしいものだ。僕自身はサラリーマン的凡庸さや「テキトー」な生き方におもねるつもりはない。

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2006/12/27

モチベーションは自分自身で調達せよ

サラリーマンが仕事をするための動機づけをどこから手に入れるかについて、数年前の僕は間違った考え方をもっていたかもしれない。サラリーマンが仕事をするための動機づけは、最終的には会社組織の外部から手に入れるしかないのだ。

いまサラリーマン社会では「コーチング」の流行ひとつとってみても、部下を動機づけするのも上司の仕事の一つだという考え方が「正しい」こととしてまかり通っている。

部下を動機づけるのが上司の仕事だとすれば、その上司を動機づけるのは上司の上司の仕事ということになり、最終的には会社組織のトップがすべての社員の動機づけの責任を負うことになる。

しかしこれはよく考えると、単なる組織への依存にすぎない。仕事をするのは会社組織に参加するための最低要件なのであって、会社組織に参加しておいて、つまり給料をもらっておいて、「やる気にさせてくれないのは会社のせいだ」などとほざくのは、単なる甘えであり、感情的な依存にすぎない。

したがって「コーチング」などといったことに会社が組織的に取り組むのは、少なくとも日本企業では、社員の会社に対する感情的な依存をさらに強化するといった悪循環を生み出すだけに終わる可能性が高い。

言い換えれば、会社組織がコーチングなどといったことを下手にやればやるほど、社員に「オレが(わたしが)やる気にならないのは会社のせいだ」という言いわけを垂れ流す余地をあたえることになる。

そういう言い訳が強くなれば、会社組織はますますコーチングのような動機づけへの取り組みを強化せざるを得なくなる。このような悪循環が起こる。

サラリーマンは特定の会社組織に自分の意志で参加し、報酬をうけているのだから、会社組織に参加するための最低要件、つまり「仕事をすること」についての動機づけは、組織の外部から自分で手に入れるのが当然だろう。

それは「家族のため」でもいいし「仕事自体が趣味的に好きだ」でもいい。動機づけの調達の方法は何でもいいのだが、とにかく自分自身で調達するのが、自立した市民としての会社組織への参加の仕方だ。

僕が今まで在籍した会社にも「自分がやる気になれないのは上司が悪い、会社が悪い」とほざく同僚が何人かいたし、もしかすると僕自身もその一人だったかもしれない。問題なのはどれだけ早くそのことに気づくかだ。

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2006/12/24

一介のサラリーマンにできる「公的貢献」とは

昨夜はビデオニュース・ドットコムで、京都立命館大学収録の第292回マル激トーク・オン・ディマンド「ちょっとみんな元気ないんじゃない」を延々と観ていた。

立命館大学はビデオニュース・ドットコム主催者の神保哲生氏が、学生向けのゼミを持っているとのことで学生との討論形式なのかと思ったが、じっさいには、前半は宮台真司と神保哲生が時事ネタについて中身の濃いかけ合い漫才をやるという、ゲストなしのマル激トーク・オン・ディマンドと同じ展開で非常に参考になった。

とくに「日本が近代を脱するためにはまず近代化しなければいけない。そのためのリソースとして利用できる数少ない既存の資源が、象徴天皇制である」という「転向後」の宮台氏の主張がわかりやすく展開されていた。

そして、マル激トーク・オン・ディマンドがインターネット・ニュースメディアとして唯一黒字の会社であることを知って驚いた。それと同時にマスメディアに対するオールタナティブとしてのインターネットの可能性に希望を感じた。(その意味でも梅田望夫の『ウェブ進化論』は皮相な議論だ)

ただ、一介のサラリーマンとしてまとまった自由時間がない僕にとって「公的な貢献」をする方法が、じっさいには選挙で投票するくらいしかないことに絶望的な気分にもなる。

宮台氏の議論に最近よく出てくる顕教(大乗仏教)・密教(小乗仏教)論、つまり、真の民主主義を確立するには、一般大衆が民主主義を信奉する(=大乗仏教)だけではドイツのワイマール共和国のように、国家全体主義を呼びよせる衆愚におちいるだけなので、裏で少数のエリートが民主主義を制度として維持する(=小乗仏教)必要がある、という議論のことだ。

宮台氏の学術用語をまじえた議論を完全に理解できるという意味で、僕は密教を担う最低限の資格はある。大学をレジャーランドとして過ごした大多数のサラリーマンとは、はっきりと違う人生を歩んできている。

ところがそんな僕でも一介のサラリーマンになってしまえば、「有能な人間ほど仕事が増える」というサラリーマン社会の法則にしたがって、マイペースで仕事をする同僚の手に余る仕事をすべて拾い上げなければならない状況に置かれる。

宮台真司氏の議論を完全に理解できるのに、日本の真の近代化のために公的貢献をする時間もなく、そのためのコネづくりができるような環境も既になく、絶望的な気分で日常生活を送らなければならない。

現時点でできることといえばこうしてブログを書くぐらいなのだが、自分のITスキルを活かしつつ、子供向けに「密教」的な教育を提供するような私塾を起業することが、ほぼ唯一の可能性として残されているかもしれない、と考えたりもする。

最後にこの第292回マル激トーク・オン・ディマンドでもふれられていた、小室直樹『日本人のための憲法原論』をあらためておすすめしておく。

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2006/12/21