アニメーション

2009/01/26

今年のGWに『交響詩篇エウレカセブン』の劇場版!?

「エウレカセブン」というキーワードで、この「愛と苦悩の日記」への流入が増えているなぁ、なぜだろう、と思ってGoogleで検索してみたら、今年のゴールデンウィークに『交響詩篇エウレカセブン』の劇場版が上映されるというではないか。

少し前、テレビを見ていたら、いきなり懐かしいテーマソングが流れ、三瓶由布子と名塚佳織の声が聞こてきたと思ったら、パチンコになってしまってるじゃないか。

『エウレカセブン』みたいなマイナーなロボットアニメまでパチンコのネタになるのか。世も末だ。と思った。

僕は賭け事は一切やらないので、パチンコをやる人間はひそかに軽蔑しているのだが、それは脇に置くとして、エウレカセブンのパチンコ台を目当てにパチンコ屋に行くヤツって、どんなヤツなんだろう。

では、懐かしの『交響詩篇エウレカセブン』オープニングを超高画質版で。

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2008/12/15

テレビ大阪で初代『ガンダム』放送中

また下らない記事で申し訳ないが、大阪出張するとホテルを8:40に出ても間に合うので、今まで特に理由もなくNHK朝の連続ドラマを見ていた。

ただ『瞳』から『だんだん』になって以降、脚本のあまりのセンスのなさに見るに耐えなくなった。

『瞳』は脚本は別として、西田敏行や安田顕が上手いのでまだ見られたが、『だんだん』は例えば「しじみ汁」というネーミングや、思い出の歌だか知らないが『赤いスイトピー』という選曲など、視聴者をバカにしてるのかと腹立たしくさえなってくるのだ。

そこでチャンネルを適当に変えていたら、何とテレビ大阪で初代『機動戦士ガンダム』が再放送されているのを見つけてしまった。しかも帯で放送している。(残念ながら同系列のテレビ東京では放送していない)

『機動戦士ガンダム』放送当時、僕はガンプラに熱中する友人を何となく軽蔑して全く関心がなかったが、以前ここに書いたように、最近になって同じ富野由悠季監督の『ザンボット3』や、『ガンダム』の初代劇場版を観て、後世のロボットアニメに与えた影響の強さを始めて知った。

ただ初代のテレビシリーズは一度も観たことがなかったので、大阪のビジネスホテルで出勤前の40歳前後のサラリーマンが、朝食をとりながら『ガンダム』に見入っているという図になるわけだ。

先週放送回に登場した『ガンダム』のランバ・ラル、クラウレ・ハモン夫妻の設定は、明らかに『交響詩篇エウレカセブン』のチャールズ夫妻に影響を与えている。

これからも大阪出張のちょっとした楽しみになりそうだ。

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2008/10/07

ついにリューズが「やさしくしないで」を歌う場面発見

中国の動画サイト优酷にアップされている銀河鉄道999は日本から閲覧できない制限がかかっているが、YouTubeに劇場版『銀河鉄道999』を見つけた。そしてついに、惑星ヘビーメルダーの酒場でリューズが「やさしくしないで」を歌う場面を発見。下記動画の6分あたりから。おそらくすぐ削除されるので、早いうちに。


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2008/10/01

錆び付いていくリューズと『やさしくしないで』

劇場版『銀河鉄道999』、『やさしくしないで』のインスト版をBGMに、時間城の中で錆び付いていくリューズの動画を見つけた。


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2007/09/12

中国の大学で日本アニメは既に単なる日常?

日経ビジネス・オンラインで、非常に面白い連載が始まった。「中国"動漫"新人類」というタイトルで、中国の大学生の生活に、いかに日本の漫画やアニメがふつうのものとして浸透しているか、67歳の中国人の筑波大学名誉教授が取材するというものだ。第一回もとにかくおもしろいので、何も言わずに読んで頂きたい。

日経ビジネス・オンラインを開く

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2007/09/01

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を映画の日で入場料が1,000円の公開初日、JR京葉線海浜幕張駅前のシネコンプレックス10:20分の回、意外にもそれほど混雑のない劇場でゆったり観ることができた。

新劇場版は全四部作で、今回公開された『:序』はその最初の部分、1995年テレビ東京系で放送されたテレビシリーズでいう「ヤシマ作戦」の成功をクライマックスとし、10年前の劇場版では「最後の使徒」として登場した渚カヲルが、末尾に思わせぶりにちらりと登場して終わる。

エンドロールの後、テレビシリーズでおなじみのあの三石琴乃のナレーションによる次回予告が流れ、第二部の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』では「ヱヴァ6号機」までが登場するらしいことがわかる。次回の『:破』では渚カヲルが物語の鍵を握っているらしい。

繰り返しになるが、今回の『:序』は物語としてはテレビシリーズの「ヤシマ作戦」までを反復しているだけなので、見どころは再構築された映像となる。

随所に活用されたコンピュータグラフィックス技術は、ディズニーアニメのように濫用されることなく、伝統的なセル画による動画表現ときわめてバランスよく使いわけられている。

CGが活用されているのは、大別して二つの目的に抑制されている。幾何学的な構築物の移動シーンと、微妙な透過色を含む繊細で連続的な色彩表現の二つだ。

幾何学的な構築物の移動シーンは、セル画で表現されるとどうしてもカクカクとぎこちない動きになるが、今回の劇場版ではほとんどコンピュータ処理されたなめらかな表現で、とくに「ビルが生えてくる」シーンや、流れ去る背景に利用されているシーンでは異様なリアルさになっている。

「ヤシマ作戦」で殲滅される使徒は、そもそも形状が幾何学的だが、コンピュータの計算によって、おそらく庵野総監督が本当は表現したかったであろう、自由自在かつ瞬時に形状を変える外形がCGの助けを借りて完璧に表現されている。

もう一つの色彩表現だが、セル画では最終的にフイルムに撮影するときの画質を考慮すると、重ねることができる色数が制限されると思われる。しかしCG処理では、ほぼ無限の中間色を透過色として、変質させずにいくらでも重ねることができるようなので、画面に奥行きが出ている。

この色彩表現は暗闇の戦闘描写において、セル画では決して観ることのできない空気感を伝えることに成功している。

しかし、人物描写やエヴァと使徒の接近戦闘シーンは、CGに頼ることなく、ディズニーの不自然になめらかな動画には決して期待できない、日本アニメーションの独壇場であるメリハリの効いた「運動」を完全に表現している。

テレビシリーズとは異なる演出意図で描き変えられているシーンもたくさんあり、ここにはおそらく前回の劇場版から10年を経て、映像作家として成熟した庵野総監督の変化が確実に投影されてる。

そして何より不思議だったのは、映像から伝わるものが明るくポジティブだったということ。

テレビシリーズでは主人公の少年、碇シンジのエヴァに搭乗して闘うことに対する逃避的な態度や、ネルフからの遁走、内向的で鬱屈した精神性が延々と描かれたので、シリーズ前半でさえもかなり閉塞感がただよっていた。

しかし今回の『:序』では、その部分が大幅にカットされており、リズミカルな編集で物語が高速に展開するせいか、人類全体の救済を担う碇シンジと綾波レイ、それを支える上官の葛城ミサトの、やや恥ずかしいくらいのポジティブなエネルギーが伝わってくる。

映画のクライマックス、「ヤシマ作戦」でエヴァ初号機を盾になって守った零号機から、碇シンジが綾波レイを救出する場面の、あの有名な台詞、「笑えばいいと思うよ」のところでは、思わず涙を流してしまった。

10年という時間が庵野総監督を変えたのだろうか。今回の新劇場版『:序』について、僕は観終えた後、多少うつ状態に退行するのはやむをえない覚悟だったのだが、まったく意外にも、劇場を出た後は胸がいっぱいで、エヴァンゲリオンとはこれほど希望に満ちた作品だっただろうか?と自問してしまった。

現実の生活に閉塞感を抱いている人、つまり、かつてのエヴァンゲリオンの典型的な視聴者は、今回の新劇場版から「現実ってそんなに悪くない」という予想外のメッセージをうけとるのではないかと思う。

ただ、このまま第二部の『:破』が同じトーンで進むはずがない。第二部がどれほど破滅的な展開になるか、今から楽しみだ。


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2007/06/09

なつかしい言葉「アダルトチルドレン」

『新世紀エヴァンゲリオン』テレビシリーズを最終話まで見終えた。YouTubeに日本語音声のままアップされているのが奇数話だけなので、残りの偶数話はどうしても有料ストリーミングサイトで観ることになってしまう。

GAINAXが意図的に奇数話だけ残しているのだとすれば、そこそこうまいYouTube活用法だが、本当にGAINAXがやっているのなら、3の倍数話だけ残すくらいのことはするだろう。

ご承知のように、すべての敵を倒した後の最後の2話は、「人類補完計画」と呼ばれる登場人物の内面描写に終始している。これを見ながら、当時「アダルトチルドレン」という言葉が流行したことを思い出した。前米国大統領のビル・クリントンも、自分のことをアダルトチルドレンの一人だと告白したことが、当時話題になったと記憶している。

しかし今となってみれば、アダルトチルドレンも見事につかの間の流行語で、誰も使う人はいなくなった。というより、実は誰しも幼児性をのこしたまま大人になっているのではないか、子供から大人への成長過程に、不連続性を見る発達心理学の考え方そのものが間違っていたのではないか。

子供のころ思っていた三十代後半は、じっさいにそうなってみると驚くほど子供っぽい、というのは、誰しもが思うことだろう。むしろ一つの人格の中に、子供の頃からずっとつながっている無数の線と、大人になってから生まれた無数の線が、並行して走っていて、その束がその人の人格だと考えるのが自然なのかもしれない。

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2007/05/24

エヴァンゲリオン第壱話・第弐話

いかん。気づいたらYouTubeでエヴァンゲリオンTVシリーズの第壱話、第弐話を続けて観てしまっていた。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ...。僕の場合は、何から?

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2007/05/01

NHKFM『今日は一日“アニソン”三昧』

今ごろ気づいたのだが、夜中0時をまたいで昨晩からNHKFMでアニメーション主題歌の特別番組を放送していたようだ。しかもその司会が水木一郎と緒方恵美ときている。

リクエスト曲がかかりっぱなしで二人はほとんど話さないのだが、ジングルでは二人とも異様なテンションの高さだ。

それにしても『ゲゲゲの鬼太郎』や『ルパンIII世』から『ローゼンメイデン』(僕も題名と登場人物の衣裳を知っているだけで物語は全く知らないのだが)まで、リスナーが完全に島宇宙化していることがわかる。

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2007/04/10

ヱヴァンゲリヲン新劇場版

都内に引っ越してきていちばん困っているのは、AMラジオがまともに受信できなくなったことだ。それでもこの間の日曜日、ひどい雑音をかいくぐって、久しぶりに『林原めぐみのTokyo Boogie Night』を聴いた。

先日、Yahoo!JAPANのトップページからのリンク先で、今年10年ぶりに劇場公開されるエヴァンゲリオンの新作について、ほとんど何の付加情報もない予告編を見たばかりだったのだが、久しぶりに聞いた『Tokyo Boogie Night』では、偶然にも林原めぐみが2007/09/01公開の『ヱヴェンゲリヲン新劇場版』の第一部のプレスコが終わったという報告をしていた。

プレスコというのはアフレコの反対語で、声優が録音した声にそって、あとから動画をつけることを言う。ただし、林原めぐみの報告によれば、厳密には2007/09/01公開の『ヱヴェンゲリヲン新劇場版』の第一部は、10年前のテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』のダイジェスト版らしく、テレビ版のフィルムを編集した動画に、林原めぐみを含むオリジナルの声優たちがアフレコをして、その声にあてて動画を新たに制作する(プレスコ)という、凝った手順になっているようだ。

すでにテレビ版の物語を知っている人たちも、新しい動画が作られるというだけで十分観る価値がありそうだ。そして10年ぶりのアフレコ、というかプレスコがどんな風になっているのか。

林原めぐみはラジオを聴く限り10年前と驚くほど声は変わっていないが、『トリビアの泉』に声で出演してた緒方恵美の碇シンジの演技はどんなものになっているだろうか。『ウチくる』の派手なナレーションしか聴けなかった三石琴乃の、葛城ミサトはどんな風だろうか。

しかし、もう10年前になるのか。

サラリーマン生活に絶望していた僕にとって、格好の現実逃避の引き金になった『新世紀エヴァンゲリオン』からもう10年。10年たっても僕はいまだにサラリーマン生活というものに希望を抱くことができないでいる。残る人生は、ただ惰性と漸進的忘却のみ、ということなのだろうか。

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2006/12/19

劇場版『幻魔大戦』(1983年)

昔の話ばかりで申し訳ない。「大川ゼミ」のある天王寺駅まで通う阪和線の中、小学生の頃の僕が毎日読みふけっていたのは、星新一や筒井康隆のショートショートと、平井和正の『幻魔大戦』(当時は角川文庫)だった。

最近、近所の図書館で『幻魔大戦』を探したところ、角川文庫版の蔵書はなく、角川文庫2冊分が1冊ずつにまとまった集英社文庫版の全10巻しかないのが残念だった。角川文庫版のあの官能的な挿絵が好きだったのだが。

今日、偶然、新聞のテレビ欄で見つけてNHKBS2の劇場版アニメ『幻魔大戦』(1983年角川映画)を観た。主人公の東丈の声を古谷徹がやっていたとは知らなかったが、今観るとさすがに荒唐無稽な超能力の物語で退屈する。

キース・エマーソンの音楽は、なにしろ今でもMP3プレイヤーの定番に入れているほど、主題歌の『光の天使』こそ素晴らしいが、戦闘シーンには全く不釣合いに間延びしている。

それでも当時、劇場で観てそれなりに感動したのは、おそらく僕のシスターコンプレックス(現実には僕に姉はいない)のど真ん中を射抜いたからだろう。主人公の東丈を母親代わりに育てた姉が、強姦を連想させる方法で東丈の目の前で幻魔の手先に殺されるという場面に、小学生の頃の僕がのめり込まないわけがない。『銀河鉄道999』のメーテルに夢中になっていたのも、同じシスターコンプレックスのせいだ。

アニメに詳しい人なら大友克洋のキャラクターデザインや、金田伊功の電光の演出などだけでも十分に楽しめるのだろうが、残念ながら今の僕にとっては完全に失われてしまった何ものかの痕跡でしかない。そもそも痕跡とは不在を指し示すものなのだから、それ自身が充実している必要はまったくない。痕跡はそもそも虚しいものなのだ。

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2006/10/25

YouTubeで『DAICON IV』発見

米国では既に視聴者が減りつつある動画アップロードサイト「YouTube」で、庵野秀明作画の『DAICON IV』がアップされているのを見つけた。庵野秀明公式サイトでは音なしで一部分しか公開されていないので、完全版を観たのは初めてなのだが、恥ずかしながら『DAICON IV』のBGMがELOの「Twilight」で、フジテレビ『電車男』のオープニングテーマ自体が『DAICON IV』の引用だったというのを初めて知った。

「板野サーカス」の引用はもちろんだが、ヒロインのバニーガール姿の少女が、サーフボードのように剣の上に乗って空を飛び回り、宙返りを見せているのが、そのまま『交響詩篇エウレカセブン』で引用されているというのも初めて気付いた。

東大生SNSで現役経済学部生の方から、『エウレカセブン』についての周囲の意見として、引用がみえみえでつまらないというメールを頂いたのだが、この『DAICON IV』の引用もそうなのだろう。やはりアニメーションは1970年代から継続してフォローしないと、パロディーの無限連鎖についていけないものなのだと、よくわかった。

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2006/09/14

エヴェンゲリオン<新劇場版>製作発表

最近すっかり更新を怠っているこの「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」読者なら既にご存知のように、エヴァンゲリオンの新劇場版の製作発表があった。来年夏、再来年春・夏にロードショーされるとのこと。

10年前の劇場版では描かれなかった真実が明かされるという触れ込みだが、明かされるべき真実が存在するということにしてしまうと、エヴァンゲリオンの決定不可能性という魅力が半減してしまいそうな感じもする。

先日、フジテレビ系『トリビアの泉』を観ていたら、副音声の「影のナレータ」に、なんと『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジ役の声優・緒方恵美が登場。久しぶりに緒方恵美の声を聞いたが、こんなに高い声だっけ、という印象。公式サイトによれば、緒方恵美は現在、個人事務所を設立して活躍中とのこと。

当然、新劇場版の声優陣はオリジナル・キャストのままであることを期待する。まさか登場人物が全員、10歳年を食ってるなんてことはないだろうな。『林原めぐみの東京ブギーナイト』を聴いていれば、そのうち新劇場版の製作経過の話が出てくるかもしれないと期待。

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2006/08/15

最後のエウレカセブンラリー・スタート!

USENのインターネット放送、Gyaoで、おそらく最後であろうと思われるエウレカセブンラリーが始まっている。2006/08/21(月)正午まで、第1話からなんと最終話である第40話までが無料で視聴できるのだ。

http://www.gyao.jp/anime/eurekaseven/

大丈夫、まだあと6日ある。学生の皆さんは夏休みだ。21日までの毎日、たった3時間ずつを『エウレカセブン』のために割くだけで、無料で全話を視聴できる。DVDを一枚ずつ借りても3,000円以上かかることを考えれば、このチャンスを逃す手はない。


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2006/07/25

宮崎アニメと『ザンボット3』の接点

そういえば動画配信サイトShowtimeで『ザンボット3』を観ていたころに、この「愛と苦悩の日記」の読者の方からメールで「金田パース」というものについて教えて頂いた。日本語版のWikipediaの金田 伊功(かなだ よしのり)氏の項をあたって頂ければわかるが、金田氏は宮崎駿監督作品の原画としても有名な人物らしい。

金田パースというのは、遠近法(パースペクティブ)という言葉が入っていることから分かるように、極端に強調された遠近法のことで、ロボットものなどで架空のカメラの手前にあるものをより大きく、奥にあるものをより小さく描くことで、ロボットや戦闘機の動きのダイナミズムをより強調する手法のことを言うようだ。

金田氏は別に「金田ビーム」という戦闘ロボットものに欠かせない表現技法も編み出しているらしく、セルの透過光を利用した、ビーム光線の独特な表現も氏オリジナルのものらしい。こういうところから出発して、金田氏は『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』、『もののけ姫』などで原画を担当する、今や日本アニメ界の重鎮になっているとのことだ。

『ザンボット3』のような、見方によっては「下らないお子様向け合体ロボットアニメ」が、実は今の日本のアニメーションの品質や芸術性を支える確かな職人たちのインキュベーターになっていたということなのだから、「ジャパニメーション」が世界で評価されているからといって、お金をかけて創造性や芸術性ばかりを追求した作品ばかりを製作していたのでは、将来の日本アニメを担うクリエーターが育たなくなってしまう、ということなのかもしれない。

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『ガンダムSEED』富野氏は単なる原作者

『ターンAガンダム』と『ガンダムSEED』シリーズの落差について読者の方からメールを頂いた。『ガンダムSEED』については富野氏は単なる原作者としての位置づけでクレジットされているだけで、内容について決定権はまったくないとのことだ。確かに『ガンダムSEED』のクレジットをよく読むと、『ターンAガンダム』などと違って、富野氏は総監督となっておらず、単に原作者でしかない。

また、ガンダムの商品化権はサンライズにたった30万円で買い取られてしまっており、富野氏自身にはガンダムのプラモデルがいくら売れてもお金は入ってこないらしく、『ターンAの癒し』にあった富野氏自身の非常に自虐的なコメント、つまり自分はアニメ製作現場にあっては最底辺の存在だという言葉もうなずける。たしか松本零士氏も同じようなことを言っていた記憶があるが、日本のアニメ業界は創作者が儲からず、サンライズやバンダイ、東映のような企業が潤う仕組みになっているようだ。

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2006/07/23

『ターンAガンダム』完走、『ニーベルンゲンの歌』読了

『ニーベルンゲンの歌(上)(下)』(岩波文庫)を読み終えた。そして『ターンAガンダム』全50話をようやく観終えた。なんとか視聴期限の2006/07/27前の週末に間に合った。ドイツ中世騎士物語と富野由悠季に何の関係があるのかと思われるかもしれないが、『ニーベルンゲンの歌』の最後はまさに「女子供」以外は一人残らず戦闘で死んでしまうという、血で血を洗う富野的「皆殺し」状態だ。

もちろん韻文としての格調の高さこそが『ニーベルンゲンの歌』を、ゲーテの『ファウスト』とならぶドイツ文学の金字塔たらしめているのだけれど、物語の中身は、クリエムヒルト姫が家臣に夫のジーフリートを暗殺された仇討ちのため、あえて他国の王子と再婚し、その国の勇士と軍勢を利用するが、最後には殺められるという、アニメのようなお話である。

古典文学のこういう意外な楽しみを、この年齢になるまで味わわずにきたのはもったいないということで、『とりかえばや物語』の中村真一郎現代語訳版も読んで見ることにした。

じゃあ『ターンAガンダム』は最後まで観ていったいどうだったのかと言えば、感想としては先日書いたとおり、主人公の少年ロラン・セアックとターンAガンダムの仇敵として、ギム・ギンガナムといういかにも漫画的な登場人物と「ターンXガンダム」が登場して以降は、ほぼ観るに値しない。

たしかに最終話の最後の最後に、月と地球が二度と「黒歴史」と呼ばれる悲惨な戦争の歴史をくり返さないための、究極の秘策がタネ明かしされるというどんでん返しがあるのだが、明らかに尺が足りなかったようで、最終話に近づくにつれて物語の進展がどんどんあわただしくなり、じっくり楽しむどころでなくなってしまう。

ターンAガンダムとターンXガンダムが相討ちして「繭」になった(本作をご覧でない方には何のことかさっぱり分からない表現で申しわけない)、その後日談の部分は、2話分くらいの時間をかけて、たっぷりと物語ってもらいたかった。

それにしても、こういうガンダムを作っておいて、富野由悠季がなぜその後に『ガンダムSEED』のようなシリーズの製作を許したのかが理解できない。ターンAガンダムのパイロットである少年ロラン・セアックは、最終話まで人を殺すことをためらっている。そんな風に『ターンAガンダム』の反戦色は強烈なのだが、『SEED』は初代ガンダムの、普通の人間と特殊能力をもつ人間という図式に逆戻りで、戦争のための戦争、皆殺しの富野の復活でしかないように思うのだが。

もちろん、アニメ作家に過剰な期待をしても仕方ないといえば仕方ない。

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2006/07/21

つまらなくなってきた『ターンAガンダム』

その後、『ターンAガンダム』全50話の鑑賞は着々と進めているのだが、物語の舞台が地球から宇宙と月に移ったあたりから、いわゆるヲタクうけする単なる戦闘ロボットものに堕している。残念なことだ。

ターンAガンダムの宿敵として、月の地中から発掘されたという、ターンXガンダムが登場するにいたって、ますます単なる戦闘ロボットアニメである。ロボットアニメらしくない「世界名作劇場」的な味わいを期待する方は、第34話あたりで思い切って観るのをやめてもいいかもしれない。

なぜか主題歌も、作曲・小林亜星作曲、歌・西城秀樹の味わい深い(?)曲から、聞いたこともない名前のバンドの安っぽいロックに変わってしまうし、あまりに視聴率が低迷しているのを見て、フジテレビが途中から製作意図を変えたのかもしれない。僕は視聴料金がもったいないので、とりあえず最後まで観ることにするが。

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2006/07/17

大塚康生『作画汗まみれ』

日本の代表的なアニメーターである大塚康生氏が書いた『作画汗まみれ 増補改訂版』(徳間書店)を読んだ。もともと叶精二著『日本のアニメーションを築いた人々』(若草書房)で、この「愛と苦悩の日記」でもとりあげた『白蛇伝』など、東映アニメーションの創成期を支えた個性的なアニメータの一人として大塚康生氏について書かれており、大塚氏自身の著作があるということで当たってみたのだ。

大塚康生氏は作画監督として『太陽の王子 ホルスの冒険』(1968年)、『未来少年コナン』(1978年)、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)など、宮崎駿、高畑勲両氏との協働作品が多い。

『作画汗まみれ』の中で、今の日本のアニメーションに対する氏の意見は一貫している。それは、アニメーションというものはとにかく登場人物を動かすことが全てだ、という意見だ。

ただし、大塚氏はディズニー作品のようなフルアニメーションを無条件に賞賛しているわけではない。1秒8枚のセル画からなるリミテッドアニメには独自の個性があると考えているし、単発ものの長編劇場作品と違って、20分強の作品を毎週一本作り続けなければならない日本のアニメ制作の現場を考えれば、時間的な成約から「動かす」ことに徹底的にこだわることはできないことも認識している。

しかし同じセルの使いまわしや、「止めの美学」など動かさないことに安易に頼ってしまったのでは、登場人物に適切な演技をつけることができるアニメータが育たないという。その点に大塚氏は日本のアニメーションの未来に危機感を抱いているようだ。

そう言われて、あらためて毎日のようにテレビで放送されている30分もののアニメ番組を観ていると、アニメという言葉と矛盾するように、絵がほとんど動いていないことに気付く。動いているように見えても、それはセル画が水平に移動しているだけだったり、同じ動きをループのようにくりかえしているだけだったりする。

職人としてのアニメータは、演出家の意図どおりに登場人物に演技をさせなければならない。ちょっとした瞳の動き、指一本の動きが登場人物の演技を構成する、小さな要素の一つひとつになる。演出意図に対して適切な動きをつけられないのであれば、アニメータの存在価値はないというのが、大塚氏の主張のようだ。

そういった大塚氏の動画にかける誠実な情熱が、控えめながらも強く訴えかけてくる、そんなエッセーである。

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2006/07/16

『ターンAガンダム』ようやく29話

ブログの更新がにぶっているのは仕事が忙しいこともあるが、その後、大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』(徳間書店)、多田洋介『行動経済学入門』(日本経済新聞社)、『ニーベルンゲンの歌』(岩波文庫)などと、無節操に濫読しているにもかかわらず、まとまった書評を書けていない。

それにはもう一つ理由があって、USEN&楽天グループのブロードバンド放送「ShowTime」で『ターンAガンダム』(1999年)の全50話、30日間の視聴権を購入し、期限の2006/07/27までに50話完走しなければならないのだ。

「しなければならない」と書くと単なる義務感から観ているだけのように読めるかもしれないが、このターンAガンダムの物語は実によくできている。富野由悠季氏自身が『ターンエーの癒し』に書いているように、この物語は「竹取物語」と「とりかえばや物語」に着想を得ている。

物語の軸は、月の世界を支配する女王と地球の鉱山王の娘が入れ替わるという、たった一つしかないのだが、この軸を中心におどろくほど複雑な人間関係が展開されていく。もとは地球に住んでいた月の住人が地球に帰還しようとしたことから地球人との対立が始まり、それぞれに仲間割れを産み出し、単純な敵味方の二項対立に収集されない錯綜した利害関係が、たった一つの軸から広がっていく。

「とりかえばや物語」は性別が入れ替わるお話なので、富野氏が言っているのはターンAガンダムの操縦者であるロラン少年が、月と地球の交渉のために女装し、ローラという女性名で月の女王に紹介される点なのだろう。月の女王と地球の一市民の娘が入れ替わるという設定は、じっさいには『王子と乞食』の方から得られているのかもしれない。

物語の舞台は産業革命直後の西欧を模した設定になっており、まるで19世紀の英国大河小説のアニメ版を観ているように、ゆったりと落ち着いたペースで時間が流れていく。この点には、主人公のロラン少年と、キエル・ハイムの妹であるソシエ・ハイムという少女の「世界名作劇場」的な純粋さが大いに寄与している。

そのためにこのガンダムは、不思議と殺伐とした感じや、鬱屈したところが全くない。底抜けに楽天的なのだ。しかも、入れ替わった月の女王と地球の娘が、互いの立場を深く理解するにつれ、観ている方もどちらがどちらなのか分からなくなってくるという、物語だけで強く引き込む力をもっている。

もともと僕がこのターンAガンダムを観はじめたのは、「愛と苦悩の日記」の読者の方の勧めからなのだが、たしかにこのガンダムシリーズに限って言えば、ガンダムをまったく知らない人も、というより、僕のように大人になってからアニメを観なくなった人にも、一種の大河ドラマとしてゆったり鑑賞するに耐える作品としてお勧めできる。

ガンダムなんてヲタクか男の子か腐女子の観るものだと思っている方も、大河ドラマを観るつもりでご覧になれば、この『ターンAガンダム』に限ってはまったく期待を裏切らない。


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2006/06/27

『ゲッターロボ』と『ザンボット3』比較論

『無敵超人ザンボット3』だけを観たのでは、同時代の合体ロボットものアニメの中での位置づけが理解しにくいので『ゲッターロボ』も観てみた。こちらも僕が子供のころリアルタイムで熱中していたテレビアニメで、ご承知のとおり永井豪原作である。

どちらも3つの機体が1台のロボットに合体する点で共通だが、『ゲッターロボ』はどの機体が頭になるかで3種類の合体パターンがある点がユニークだ。

両者の明らかな違いは、やはり一般人の描かれ方だろう。敵方のロボットが船を沈没させたり街を破壊するとき、『ゲッターロボ』ではいかにも漫画的に船やビルが視覚的にきれいに破壊され、その内部に生きた人間が存在することはまったく示唆されない。『ウルトラマン』が市街地でいくら怪獣と戦っても、倒壊したビルの下敷きになって死ぬ人が描かれないのと同じお約束にのっとっている。

対して『ザンボット3』は多くの一般市民が戦争に巻き込まれて死んでいく事実を表立って描写している点で、やはり画期的な合体ロボットもので、この点だけでもお子様向けロボットアニメの枠から大きく踏み出している。

さらに登場人物の造形も両者では大きく異なっている。ゲッターロボを操縦する3人の性格は一人ずつステレオタイプ化されており、本来一人の人間が持つさまざまな性格を、3つの人格に分割して描いている。

他方、ザンボット3を操縦する3人は、それぞれが矛盾する側面を内包した人格として描かれている。たしかに描写は神勝平に偏っており、残りの2人、宇宙太や恵子の描写は不十分だが、勝平は自分の信じる正義と一般市民の信じる平和の不一致に葛藤し、恵子は両親のもとで平穏な生活を送りたいという気持ちと、地球を守るために戦わなければならないという気持ちに悩んでいる。

『ゲッターロボ』では、より強力になっていく敵を倒し、3人がロボットの操縦により習熟し、力強くなっていく過程が物語になっているのに対し、『ザンボット3』ではそれだけでなく、一人ひとりの内面的な葛藤が解決していく過程も物語をひっぱる強い力になっている。

『ゲッターロボ』がお約束にのっとった徹底して表層的で様式的な「合体ロボットもの」であるのに対し、『ザンボット3』にとっての「合体ロボットもの」という形式は、主人公の内面的葛藤とその解決を通じた少年の成長を描くために借りた、単なる手段ではないかと思えるほどだ。

どちらが優れているということはなく、現代に至るまで日本のアニメの多数派は『ゲッターロボ』型で、『ザンボット3』は少数派と言えるのではないか。

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2006/06/25

富野由悠季『ターンエーの癒し』

で、古くは『鉄腕アトム』のテレビアニメ版の制作にもかかわり、『無敵超人ザンボット3』や『機動戦士ガンダム』の監督でもある富野由悠季(旧名:富野喜幸)という人が、いったいどういう人物なのか。まとまったエッセー集はないかと探したところ、『ターンエーの癒し』(角川春樹事務所)という本が近所の図書館で見つかったので読んでみた。

このエッセー集は富野氏が『ターンAガンダム』の制作期間中に、どういう形でかよく分からないが書きためた文章をまとめたものらしいだが、富野由悠季という人の人となりが本人によって正直に吐露されている。

SM好きで、大学時代に女性の縛り絵を描いていたという、自らのセクシャリティの告白とからめた、日本人の性に対する考え方の変化を論じた部分まで登場する。また、富野という人が、自虐的で自分の才能に常に懐疑的であるくせに、周囲に対してひどく批判的であることがよく分かる。

そのために親友が一人もおらず、私生活では伴侶の亜々子女史を除けば、つねに孤独であることも書かれている。もちろん、富野氏はそのことを公に出版する書物に書けるほど、自覚的であり、『ターンAガンダム』の制作を通じて、そんな自分のスタンスが変化しつつあることも記している。

僕がこの本を読んだのは、アニメーションの制作において「監督」は何をやる人物なのかを知りたかったからなのだが、このひどく自虐的で内攻的なエッセー集に、『ザンボット3』や『ガンダム』の底を流れる暗さの理由をはっきり読み取ることができた。

ところで「監督」としての富野氏の仕事は、「物語世界の概要をうみだして、そのストーリーをかく。どうじにキャラクター・デザイナーとメカニック・デザイナーをえらびだして、ストーリーにそったデザインをつくってもらう。それに並行して、ぼくが構成案をかいて、その検討の段階でシナリオ・ライターに参加してもらい、シナリオを執筆してもらう。(中略)そして、シナリオのオーケーをだしたら、それをコンテ・マンにわたして、コンテにしてもらう。そのコンテを修正するのが、ぼくのメインの仕事になるのだが、僕の場合は、このコンテの加筆修正をすることで、創作上のワーキングの大半がおわる。なぜなら、コンテでフイルムにあらわれる表現の70パーセントを支配してしまうのだから、おわったとするのだ。」(同書p.155)

富野氏にとって、自分の演出意図が最終的に作品にきめ細かく反映されるかどうかは、コンテにかかっているようだ。「このコンテをきるという仕事は、一頁に五こまの桝目があって、そこに絵を描き、その右に、絵の内容説明とセリフをかきいれるスペースのある用紙をつかう」(p.156)。

コンテとは「演出指示の設計図といった性格の書類」(p.80)で、コンテを書くという仕事は、「視覚印象の力学をつかってドラマのストラクチャーを創作していくという仕事なのだから、画面構成によっては、台詞を変更することもでてくる。場合によっては、シーンそのものの変更、差し替えもありえると判定できる」(p.83)。

「アニメの場合のコンテは(映画と違って)、アニメーターのえがくべき画面のレイアウトの指示とどうじに、演技を指示するという性格をもっている」(p.83)。「たとえば、こうだ。TOP、ロラン(『ターンAガンダム』の主人公の名前)立ち止まり、右目線。左にむく。そのときのポーズはこれこれ……。左よりディアナ(同じく登場人物の名前)、Fr.I(フレームイン)。台詞の項目には、ロランの右目線のとき『なんです?』。ディアナにむいて、『どこにいらっしゃったんです?』」(p.157)

お読みになってお分かりのように、富野氏のコンテは画面に登場するキャラクターの一挙手一投足に、外形的な演技を厳密につけていくようにして書かれる。僕はなるほどと思った。ここまで厳密に登場人物の演技を指定するのだから、最終的な作品の画面は、ほとんど富野氏の意図どおりになる。

ただ、さきに引用したように、富野氏はすべてのコンテを自分で書くわけではなく、コンテ・マンの書いたコンテをチェックする役割にまわる。本書では、修正しなくてもいいようなコンテを書いて来い、といった、スタッフに対する批判も正直に書かれている。

本書を読むことで、富野氏がアニメーション制作の現場でどのような仕事をしているのかがよく理解できた。

ところで、本書に一箇所だけ『無敵超人ザンボット3』についての意外な言及がある。『ターンAガンダム』最終回の打ち上げパーティーについての記述の中だ(p.273)。興味のある方は、直接、本書をお読みいただきたい。富野アニメのファンなら、この『ターンエーの癒し』は必読書だろう。

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2006/06/24

『無敵超人ザンボット3』完走だが

『無敵超人ザンボット3』を最終話まで観終えた。

物語の面では、人間爆弾についての一連のエピソードがクライマックスだったと言える。一般市民が戦災の被災者としてだけでなく、自らの肉体を兵器に改造されることで、戦闘員として、意に反して戦争に加担してしまうという、戦争の不条理さを鋭く描いているからだ。

中でも、第18話「アキと勝平」がもっとも優れている。主人公の少年、神勝平は、子供らしいほのかな恋心をよせるアキという少女が、人間爆弾に改造され、ザンボット3の母艦キング・ビアルの勝平の部屋で爆死してしまう。この脚本はかなり痛ましいので、第18話は単独でも見る価値はある。

最後の3話は、物語の面では「皆殺しの富野」の本領発揮で、勝平の祖父や父親が次々と「特攻」で死んでいく、やや退屈な展開だ。ザンボット3の他の二人の操縦者、宇宙太と恵子も敵の母艦の内部で自爆する。

「女、子供」だけは事前に睡眠薬を飲まされて、母艦から小さなカプセルで地球へと帰され、敵との最終戦は大気圏外での死闘というわけだが、ご想像のとおり神勝平だけがボロボロの戦闘ロボットとともに大気圏をつきぬけて地球に生還する。大気圏をつきぬけながらの死闘というのもファースト・ガンダムや『ガンダムSEED』で見慣れた場面だ。

そういうわけで、物語の面で素晴らしいのは中盤までだ。恵子のエピソードについても、最後の自爆の部分よりも、第12話「誕生日の死闘」の方が脚本、演出とも、はるかに素晴らしい。

ただ、演出手法の面では、最後の3話はそれまでの回と別物になっている。真っ白の画面に勝平の姿が黒線の輪郭だけで徐々に浮かびあがるなど、それまでの回の作画が基本的に「見えたまま」を描いているだけなのに対して、最後の3話には、心理描写や抽象的な描写がたびたび現れる。

おそらく監督の富野氏が最後の3話では全く手を抜かなかったのだろう。その証拠に最後から4話目の第20話「決戦前夜」は、過去に登場した敵方のロボットのうち3体が、再び攻めて来るという設定で、ほとんどのシーケンスが過去のフイルムの使いまわしで観るに耐えない。これは明らかに最終回へ向けての「時間稼ぎ」だ。

『ガンダム』の原点であるこの『無敵超人ザンボット3』を、お勉強のために観たい方は、以上のようなことから、最初の3、4話と、第12話~第18話、あとは最終話を観れば十分だというのが僕の見解だ。

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2006/06/18

『無敵超人ザンボット3』第17話「星が輝く時」より

『無敵超人ザンボット3』第17話は「星が輝く時」というタイトルで、第16話「人間爆弾の恐怖」に登場した人間爆弾は、一話完結のお約束に従って既に解決済みのものと思って見たのだが、予想に反して第16話よりも人間爆弾の悲劇の描写が異常にリアルだった。ちょっと気が滅入ってしまうほどだ。

人間爆弾というのは、異星人ガイゾックが効率よく低コストで地球人を殲滅するために、人間の体内に時限爆弾を埋め込んで元の生活に戻し、周囲の人間を爆破の巻き添えにして殺害するという、子供向けロボットアニメとしては、少し残酷すぎやしないかと思われる設定だ。

第17話ではさらに、異星人ガイゾックが難民キャンプと見せかけて避難民を収容し、本人に気づかれないようにつぎつぎと時限爆弾を埋め込んでいくという展開になっている。人間を自爆兵器に改造する工場を、難民キャンプに偽装しているわけだ。

そして静岡から逃げ延びて来た神勝平の友人たちも、その罠にはまって偽装キャンプに収容されてしまう。そして友人たちのうちの2人が、ある日警備兵に部屋から連れ出され、気づかぬうちに体内に時限爆弾を埋め込まれてしまう。背中にある星型の傷がそのしるしだったのだ。

神勝平たちはなんとかその偽装難民キャンプを破壊することに成功するが、埋め込まれた時限爆弾を取り出す方法がない。自分の体に爆弾が埋め込まれていると知った他の難民たちも、人々を自分の爆破の巻き添えにしないために、家族のもとを離れて海岸に向かって歩き出す。

以下、第17話の最後の場面の脚本を映像から書き起こしてみる。かなり悲惨な場面なので、何かで気がふさいでいるときには、お読みにならないように。僕個人は、有名なテレビドラマ『私は貝になりたい』で十三階段を上るフランキー堺の芝居を見たとき以来の陰惨な印象をうけた。

勝平の友人・浜本 「だから、俺だって、いつ爆破しちまうかわからねぇんだ」
勝平 「キングビアルにも、爆弾を体から抜き出す方法の記録なんてないんだよ。ごめんな」(浜本の肩を抱いて泣く)
浜本 「いいって、もう。こうしているうちに爆発しちまうといけねぇ。あばよ」
(中略)
浜本 「人のいないところに行くよ。最後ぐらい、カッコよくさせてくれよ。えへっ。えへへへっ」(後ろ姿で勝平たちをふり返ることなく立ち去っていく。そして他の人間爆弾にされてしまった避難民と合流し、海岸の方へ歩いていく。勝平たちはその後ろ姿をただ見送るしかない)
(中略)
浜本 「どうせ、父ちゃんも母ちゃんも、いなくなっちまったんだ。俺だってすぐに母ちゃんとこへ...。うっ...俺っ...いやだ...。母ちゃんも父ちゃんもいないとこで死ぬなんて...独りで死ぬなんて...いやだ!いやだぁ!いやだぁ!」
人間爆弾となった難民A 「誰か止めんか。爆弾になったものを人様のとこへやるでない!」
浜本 「いやだぁ!!こわい!!こわいんだ!父ちゃん!父ちゃん...母ちゃん...。こわいよぉ!!母ちゃん、助けて!!助けてよぉ!何でも言うこと聞くからよぉ!!母ちゃん!父ちゃ~ん!」(浜本の体が星型に光った後、大破する)

そう、この第17話の「星が輝く時」という題名は、勝平の友だち浜本が人間爆弾にされ、爆破される瞬間のことを言っているのだ。

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ますます絶望的になる『ザンボット3』の展開

富野喜幸監督のロボットアニメ『無敵超人ザンボット3』(1977年)はようやく全話の3分の2ほどまでたどり着いた。異星人は北海道を除く日本列島をおおかた壊滅状態に追いやり、生き残った日本人は難民となって北海道へ移住を強いられている。

主人公であり、ザンボット3をあやつる3人のリーダ、神勝平(じん・かっぺい)の友人たちも、戦災で肉親を次々と失いながらも何とか都市郊外の難民キャンプで生き延びているといった物語の展開になっている。

地球人類の殲滅を狙う異星人は、人間を捕獲してその体内に爆弾を仕込み、都心の地下鉄や飛行機に乗り込ませて自爆させる。現代のテロリズムを連想させて、子供向けの合体ロボットアニメにふさわしくない恐ろしい現実感がある。

ただ、一方で異星人の謎の支配者ガイゾックの手下として、日本の壊滅を狙うキラー・ザ・ブッチャーは、残忍な悪役に似つかわしくないコミカルなキャラクターとして描かれていたり、何より主人公の神勝平の子供らしい負けん気や、底抜けの楽天主義が、このどんどん陰惨になっていく物語を、辛うじて子供向けのロボットアニメとして成立させている。

家族と離れたため、神勝平に憎悪の視線を向けていた例の親友も、東北まで避難する途中で拾った、戦災で両親を失って失語症になった少女をザンボット3に救ってもらうエピソードで、ようやく神勝平と和解することになる。この回では、『ザンボット3』を観はじめてから初めて泣いてしまった。

小さな和解に涙してしまうくらい、この『無敵超人ザンボット3』が描写する地球の状況というのは、坂を転げ落ちるように絶望的になっていくのだ。異星人が次々送り出す怪獣ロボット(メカ・ブースト)との戦いは終わりがないように思えてくる。もう日本人にとって逃げ場は北海道しか残っていないのであれば、日本が全滅するのも時間の問題ではないか。

キャラクターのコミカルさにもかかわらず、『ザンボット3』の物語が全体として暗い陰を落とすのは、やはり戦禍に巻き込まれる一般人の死や苦悩、戦争に対する憎しみを、毎回必ずといっていいほど執拗に挿話として描いているためだろう。

残り3分の1は一体どのような物語の展開になるのだろうか。

ちなみに、コメントが物語に集中しているのは、作画やメカデザイン、動画上の演出について特筆すべき点がほとんどないためだ。ロボットの合体シーンや、怪獣ロボットとの戦闘シーンは倍速で飛ばしながら観ている。

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2006/06/14

本当にテレビでよく耳にする『エウレカ』の劇伴奏

最近、テレビのニュース番組やバラエティー番組で、本当によく『交響詩篇エウレカセブン』のオリジナルサウンドトラックから、佐藤直紀作曲の劇伴奏が使われているのを耳にする。今日も『報道ステーション』のクロアチアの戦場を紹介する部分で使われていた。

たしかに佐藤直紀氏の曲はBGMとしては、旋律は簡素だが適度に劇的で、自己主張が強すぎない素晴らしい作品だ。最近、毎朝、通勤電車でつり革につかまって立ったまま熟睡できるのも、佐藤直紀氏の『エウレカセブン』のためのトラックのお蔭である。

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『無敵超人ザンボット3』を観はじめた

『無敵超人ザンボット3』というロボットアニメ(1977年)が、日本のアニメ史上それほど重要な作品だとは知らなかった。僕は小学生の頃このアニメをオンタイムで見ているので、合体ロボット・ザンボット3の外観もおおよそ記憶に残っている。もしかすると超合金のおもちゃを持っていたかもしれない。

ところが今、ブロードバンド放送「ShowTime」のバンダイチャンネルで改めて観てみると、脚本が異常だ。小学生の頃の僕は、おそらくこの脚本の異常さを全く理解せずに、ただ合体ロボットのかっこよさだけにひかれて観ていたのだろう。

脚本の何が異常かと言えば、異星人を倒すために闘う「正義」のヒーローであるザンボット3の搭乗員や、その母艦であるキング・ビアルの乗組員の全員が、一般市民から憎悪されているのだ。今のところ第5話までしか観ていないのだが、それも回を追うごとにその憎悪が増すのである。

その理由は、ザンボット3と異星人の送り出す怪獣ロボット(メカ・ブースト)の戦闘のため、海岸の市街地が壊滅的な被害を受け、ザンボット3の3人の乗組員のリーダー、神勝平(声:大山のぶ代)の親友が、ついには戦災孤児になってしまう。ザンボット3が怪獣もろとも海に落ちてきたときに起こった大波に、両親と妹が呑み込まれてしまったためだ。

第5話では、普通の合体ロボット・アニメと同じような「カッコいい戦闘シーン」のシーケンスと並行して、その戦闘によって引きこされる火災や大波の中を逃げ惑う一般市民が死んでいく様子が克明に描かれる。孤児になったその親友は、廃墟と化した町から、海に浮かぶ母艦キング・ビアルを憎しみに満ちた表情で凝視しつつ、神勝平に対する恨みの言葉を吐き捨てる。そんなカットで第5話は終わる。

これが子供向け合体ロボット・アニメの演出と言えるだろうか。ところが、僕がオンタイムで観て熱中していたくらいで、この名古屋テレビ製作のアニメは、おもちゃメーカーとの相乗効果もあって商業的にかなり成功したらしいのだ。

ここまで書けば既にお分かりかと思うが、この『無敵超人ザンボット3』の監督は、この2年後に『機動戦士ガンダム』を監督する富野喜幸(現:富野由悠季)である。

戦禍に巻き込まれる一般市民の悲劇の深刻さと、ザンボット3や母艦キング・ビアルの乗組員(血のつながった3組の家族)の、時にコミカルでほのぼのした描写の対比もまた異常だ。

同じセルの使いまわしの合体シーンや、カッコいい、言い換えれば安っぽい戦闘シーンをすっ飛ばして、この脚本の異常さを堪能するだけでも、『無敵超人ザンボット3』は十分観る価値のある作品と言える。とくに『機動戦士ガンダム』のファースト時代からのファンの方にとってはそうだろう。


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2006/06/11

「腐女子」が彼女だった僕の青春時代

今日、テレビ東京系『アド街ック天国』で東京・池袋の「乙女ロード」がとりあげられていた。男性オタクの聖地が秋葉原なら、女性のオタク(腐女子と呼ばれる)の聖地は池袋アニメイト本店周辺の「乙女ロード」というわけだ。

この「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」で7年前に書いたのだが、何を隠そう、僕が小学生から高校までつきあっていた彼女が、女子高に通っていた時期、まさしく腐女子だったのである。

当時は『キャプテン翼』と『聖闘士星矢(せいんと・せいや)』が腐女子の皆さんにとってのもっぱらの元ネタで、少年キャラクター同士の濃厚な同性愛描写があるようなパロディー漫画や小説の同人誌を、僕の彼女は一生懸命製作していた。

彼女は大阪では有名な私立の女子進学校に通う文学少女で、絵を描くよりも文章の方が得意だったので、もっぱら今で言うところの「ボーイズラブ」小説を書いていた。

僕自身、彼女の話についていくために、毎週テレビでアニメーション版の『聖闘士星矢』を観ていたのだが、今日の『アド街ック天国』には『聖闘士星矢』のフィギアが登場していた。いまだに『聖闘士星矢』に熱狂している三十代の腐女子の皆さんがいるのだと知って驚いてしまった。

スポーツものの『キャプテン翼』に代わる現代版は、言うまでもなく『テニスの王子様』だが、バトルファンタジーものの『聖闘士星矢』に代わるのは、現代では何になるのだろうか。『D-Gray man』とかいう漫画なのだろうか。さすがに僕もこの年齢ではもう最新の腐女子トレンドについていくことができない。

以上、青春時代を腐女子の彼女と過ごしておきながら、自分は今でもオタクになりきれない筆者であった。(いくら『交響詩篇エウレカセブン』が良くても、エウレカに「萌え」ろと言われても「萌え」られない)

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2006/06/06

『魔犬ライナー0011変身せよ』(1972年)

笹川ひろし原案の東映まんがまつり第一作のカラーアニメーション『魔犬ライナー0011変身せよ』(1972年)を半分まで観たのだが、さすがに脚本も演出も動画もひどくて最後まで観るに耐えなかった。

音楽もテンポのいい戦闘シーンとちぐはぐの、いかにも70年代ラウンジミュージック風のjazzyな感覚でまったくのれない。どうやらこのアニメに登場するサイボーグ犬という設定は、後に笹川ひろしが監督をする『新造人間キャシャーン』のフレンダーの原型になったらしい。

4年前の『太陽の王子 ホルスの冒険』と本作を比べると、演出と動画の品質の差は歴然としている。いかに『太陽の王子 ホルスの冒険』が1968年当時としては奇跡的な作品だったかということがよくわかる。

ところで4匹登場するサイボーグ犬のうち一匹の声を、野沢雅子が演じている。彼女の声優としてのキャリアの中では、最初期の作品になるのではないか。

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2006/06/03

いまも変わらない『太陽の王子 ホルスの冒険』

高畑勲監督、宮崎駿・大塚康雄製作の『太陽の王子 ホルスの冒険』(1968年)を最後まで観たが、想像以上の完成度で驚いてしまった。

主人公の少年ホルスが同じ孤独を分かち合う少女ヒルダ(実は悪魔グルンワルドの魔法によってその妹にされてしまっている)の声優が、40年前とはいえ市原悦子であるこが頂けないので、声優さえ一新すれば、いま、デジタルリマスタリングして、音声もドルビー化することで、十分子供向け新作長編アニメとして通用する躍動感と疾走感のある演出である。

脚本も単純な勧善懲悪ではなく、悪魔の妹であるヒルダが、悪魔としての人格と、人間としての善良な人格をあわせ持つことで葛藤し、少年ホルスが村人たちと協力してその善良な側面をヒルダの命とともに救い出すという物語で、ホルスがヒルダと剣を交える場面もある。

秀逸なのはヒルダとの戦いによって、少年ホルスが「迷いの森」という、一種の精神世界のようなところへ突き落されたあとの抽象度の高い一連の描写である。「迷いの森」の中でホルスは、悪魔としての孤独なヒルダをどうすれば人間たちの世界に連れもどすことができるのか、その苦悩が心象風景として描かれる。

先日、『新造人間キャシャーン』の富野喜幸監督による演出で、「見えないもの」を見せる点を特徴としてあげたが、『太陽の王子 ホルスの冒険』の終盤にある「迷いの森」の心象風景は、十分な制作費と時間のおかげですでに一定の完成度に達したシーケンスになっている。

戦闘シーンは『少年猿飛佐助』の終盤、猿飛佐助と妖女との空中戦のたどたどしさ、躍動感のなさ、スピード感のなさと比べると、『太陽の王子 ホルスの冒険』は冒頭の少年ホルスと狼の群れの戦いからいきなり強烈なリズム感に満ちている。

しかし、逆に言えば高畑勲、宮崎駿の二人は、『太陽の王子 ホルスの冒険』から一歩も踏み出していないように見える。心の中に深い孤独と葛藤を抱き、ホルスに向かって剣をふりおろす残酷さをもちながら、表情に乏しい少女ヒルダは、容易にナウシカやサンを思い出させる。とくに異性に対する恋愛感情をまったく表情にあらわさない演出は一貫している。

また、村人たちが協力してふいごを動かし「太陽の剣」を鍛える場面は、容易に『もののけ姫』のたたら製鉄の場面を想起させる。このような、群集が一致団結した力強さを描く場面の、地の底から空へと湧き上がるような演出法も、今に至るまでほとんど変わっていないのではないか。

いずれにせよ、やはりこうして日本アニメーションの名作を時系列で観ていくことには、かなり意味がありそうだということが分かってきた。

『太陽の王子 ホルスの冒険』についての英語のWebサイトをいくつかあげておく。

The Great Adventure of Horus, Prince of the Sun (55枚のスクリーンショットの引用付き評論)

Horus: Prince of the Sub (脚本の「哲学的な深さ」や戦闘シーンの動きのなめらかさが評価されている)

Hols: Prince of the Sub (英語版ウィキペディア。東映アニメがディズニー作品の単なる鋳直しから真の意味で脱した最初の作品だと評している。村が狼の群れに襲われるスチルショットのシーンは、演出意図ではなく、予算・時間超過のためにやむを得ずそうなったらしい。また、もともと高畑勲が想定した登場人物たちは東北地方の先住民・蝦夷の設定だったが、東映からの圧力で北欧に変更させられたようだ。)

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2006/06/01

『白蛇伝』『少年猿飛佐助』と『太陽の王子 ホルスの大冒険』

薮下泰司監督・脚本の日本初の長編カラー・アニメーション『白蛇伝』(1958年)について、読者の方から白蛇が美女に化けるという物語類型についての新書『蛇女の伝説』(平凡社新書)をご紹介頂いた。書店で少し立ち読みしただけだが、やはり中国の古い物語だけでなく、ギリシア神話にも起源があるらしい。時間があれば図書館で借りて読んでみたい。

このアニメの翌年に製作された『少年猿飛佐助』(1959年)も少し観てみた。こちらは日本初のシネスコ版長編カラー・アニメーションということだ。監督は同じ薮下泰司氏なので、作画や演出法について『白蛇伝』と大きな違いはない。やはりディズニーのフルアニメーションをお手本にした、なめらかな動画で、キャラクターに「影がない」のがきわだった特徴だ。

「影がない」というのは、例えばキャラクターに左から光が差せば、当然、右側が影になるので、キャラクターの右側の輪郭に沿って、輪郭から少し入った部分が、帯状に少し暗めの色彩で塗られてしかるべきである。70年代以降のアニメを見慣れている僕らにとっては、この「影がない」キャラクターというのは、観ていてかなり奇異に感じる。

薮下演出の「カメラ」(これも繰り返しになるが、アニメなので実際にカメラが存在するわけではない)は、基本的に上下左右のドーリーか、ティルト、パン程度の動きをするだけで、カット割りによるクローズアップはあっても、キャラクターに徐々に「カメラ」が寄っていくズームアップはないし、クレーンにあたる動きもない。

また、俯瞰ショットや「あおり」のショットも極端に少ないし、主観ショットは一つもなかったのではないか。

このように型にはまった薮下演出は、やはり十年後の『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)と比較すると際立つ。『太陽の王子 ホルスの大冒険』は高畑勲が監督し、宮崎駿と大塚康雄が製作を担当している。

良く知られているように、『白蛇伝』や『少年猿飛佐助』のようななめらかなキャラクターの動きは、時間を均等に割って運動を描いているためであって、大塚康雄などのアニメーターはキャラクターの運動をデフォルメするために、意図的に時間を均等割りにしていない。

また、「カメラ」も実によく動く。現実のカメラには不可能な速度でドーリーするし、クレーンも多用される。ズームもあれば、スチルをつなぎあわせるという斬新なシーケンスもある。当然動くキャラクターにも影がついているし、シネスコサイズを存分に生かす大胆な構図も随所に現れる。

俯瞰ショットもあおりもある(そもそも岩男は足元からあおらないことには大きさが表現できない)。また、「カメラ」がわざとキャラクターの動きについていけないかのように、キャラクターがフレームから一瞬外れるカットまである。

個人的にジブリ作品はあまり好きではないが、こうして『太陽の王子 ホルスの大冒険』を観ると、高畑勲、宮崎駿、そして大塚康雄が一つの時代を切り拓いた人たちだということがよくわかる。


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2006/05/28

日本初の長編カラーアニメ『白蛇伝』(1958年)

日本のアニメーションを勉強するなら原点からということで、日本初の長編カラーアニメーション作品『白蛇伝』(東映・1958年)をUSEN+楽天市場のShowtimeで観た。光回線とパソコンがあれば観たいたいていのアニメ作品をいつでもレンタルビデオとほぼ同じ料金で観られる。グーグルどころではない生活の変化である。

明らかにディズニーのアニメーションをお手本に製作された、キャラクターの動きが滑らかで美しい作品だ。『戦闘美少女の精神分析』に取り上げられていた場面も堪能できた。このアニメーション作品は、人間の少年と、白蛇の妖精である少女が困難を乗り越えて恋を成就させるという物語になっている。途中、白蛇の妖精に惑わされていると思い込んだ妖術遣い(太った中年男)が、水晶玉を片手に白蛇の妖精である少女と闘う場面が登場するのだ。

妖術遣いがエイヤッという気合とともに手を突き出すと、水晶玉がぴかりと光る。この光はどうやらセル画の背景から光を透過させているらしい。この作品、冒頭の雷雨のシーンからして既に、この透過光(どなたか正式名称を教えてほしい)の手法が使われている。絵の具の色ではなく、本物の光でフイルムを露光させているのだ。

僕はこの手法は新しいものとばかり思っていたのだが、日本初の長編カラーアニメの冒頭のシーンで登場したので驚いてしまった。そして妖術遣いと少女の戦闘シーンでも、水晶球がぴかりと透過光で光る。それに対して少女は、恋を成就させるためならと全力で戦う。ここでも日本初の長編カラーアニメにして既に、「健気な」戦闘美少女の登場である。

しかも白蛇の妖精であった少女は、妖術をつかう能力を捨て、妖精から人間になることと引き換えに、瀕死の少年の命を救い、ついに人間の少年との恋を実らせる。少年と少女は二人して船に乗って旅立つその空に、七色の虹がかかる、というのがハッピーエンドのラストシーンだ。

待てよ。これってどこかで観たことはないか。人間でない妖精の少女が、妖精であることを捨てることで少年との恋を実らせ、空には七色の虹がかかる。『交響詩篇エウレカセブン』の物語構造とよく似ている。

『交響詩篇エウレカセブン』の最終回では、コーラリアンという生命体である少女エウレカが、「クダンの限界」と呼ばれる破滅から地球を救うために、少年レントンの元を離れて、コーラリアンの中枢神経のような存在(「指令クラスター」と呼ばれる)になる絶対的な孤独を選択する。

ところが少年レントンは、人間とコーラリアンの心の橋渡しをする「船」である巨大人型ロボット「ニルヴァーシュ」に乗って、指令クラスターの内部に突入し、少女エウレカを救い出す。その瞬間、地球は七色の虹に覆われ、地球上のすべてのコーラリアンは地球を去って、もとどおり地球を人間に返し、宇宙の別の世界で行き続けることを選択する。しかし「ニルヴァーシュ」は、少女エウレカだけは人間の少年レントンと地球に残るように言い残す。

もちろん、人間と異生物の恋愛物語は『キングコング』や『美女と野獣』の例を出すまでもなく、幾度となく繰り返されてきたパターンなのだから、『白蛇伝』がどこか『交響詩篇エウレカセブン』と似ていても何の不思議もない。

ただ、こうして書いていて気づいたのだが、今あげた『キングコング』も『美女と野獣』も男性側が異生物だ。日本の民話である『鶴の恩返し』は女性側が異生物。ギリシア・ローマ神話の変身譚には詳しくないので分からないが、
(1)男性側が人間で、女性側が異生物の異性愛。
(2)女性には人間にない特殊な能力がある。
(3)女性が恋愛を成就させるために闘う。
(4)女性が異生物から人間になることで、初めて恋愛が成就する。
この4項目すべてに当てはまる恋愛物語は、実はそう多くないのかもしれない。

話はそれたが、表現手法のレベルで『白蛇伝』が想像をはるかに超えた完成度に達していることにとにかく驚いた。ディズニーの『ファンタジア』と同じくらい驚いた。『鉄腕アトム』をはじめとするテレビシリーズのリミテッドアニメーションは、『白蛇伝』のようなフルアニメーションからの退化では決してなく、限られた予算と時間の中でフルアニメーションにはない独特の表現技法を洗練させていく、まったく別の系列のアニメーションと考えるのが正しいということなのだろう。

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2006/05/22

『新造人間キャシャーン』第21話の秀逸な演出

『交響詩篇エウレカセブン』では地球の重力圏内での空中戦がほとんどのため、登場人物がスカイダイビングをして、戦闘ロボットの操縦席に飛び込む場面がいくつかある。第2話で、主人公の少年レントンが、少女エウレカのいる戦闘ロボット「ニルヴァーシュ」の操縦席にダイビングして飛び込み、エウレカを抱きしめる場面が、その後の二人の物語のすべての端緒になっている。

そして今日、USENのブロードバンド放送Gyaoで『新造人間キャシャーン』を観ていたら、30年前のこのテレビアニメ作品にも、同じような素晴らしい場面を見つけた。

『新造人間キャシャーン』第21話「ロボット・ハイジャック」。アンドロイドの悪の軍団の攻撃で廃墟となった街から、キャシャーンと上月ルナ(女性キャラクター)は生き残った人々を飛行機で安全な土地へ逃げさせる。その中に瀕死の牧師がいたため、ルナはその牧師に付き添って飛行機に同乗することにし、キャシャーンはエネルギーを回復するために廃墟の街にロボット犬フレンダーと残る。

ところがルナの乗った飛行機はアンドロイド軍団にハイジャックされ、途中の空港に強制着陸させられる。軍団はルナが乗っていることを知ると、キャシャーンの居場所を教えなければ、乗客全員を爆弾で殺害すると脅迫する。

乗客たちは命惜しさに、キャシャーンの居場所を教えるようルナに迫る。しかしエネルギーのないところを襲われれば、キャシャーンの命も危ない。あなた方が助かったのはキャシャーンのおかげではないのかと、ルナは乗客たちに訴えるが、その訴えも虚しい。

多くの乗客の命と、キャシャーンの命のどちらを選ぶのか。その葛藤が、ルナと乗客たちの緊迫した表情の切りかえしで、無音のまま描かれる。無音のまま人物の表情のクローズアップが何度も切りかえしになるシーケンスは、おそらく他の話にはない心理描写ではないか。そこに赤ん坊の泣き声が響き、ルナはついにキャシャーンを裏切って、アンドロイド軍団にその居場所を教えるのだった。

廃墟となった街の、無人の遊園地で体を休めていたキャシャーン。キャシャーンが寝そべっているジェットコースターがゆっくりと動き出す。その動き出す瞬間が、コースターを牽引する滑車のクローズアップで描かれる点も秀逸だ。

アンドロイドの奇襲を何とか切り抜けたキャシャーンは、生き残りのアンドロイドから、ルナが自分を裏切ったことを聞かされる。その言葉を信じられないキャシャーンは、飛行機に変身したロボット犬フレンダーに乗ってルナのいる空港に飛ぶ。

そのころルナは自分の裏切りを悔やみ、自分の命を引き換えにしてもキャシャーンを救って下さいと、静かに神に祈っていた。ところがルナは、空港に降り立ったキャシャーンを銃で殺すよう、アンドロイド軍団に脅迫される。さもなくば飛行機の乗客を全員殺すというのだ。

一歩また一歩と近づいてくるキャシャーンに、ルナは銃口を向ける。キャシャーンの足音だけが響く切りかえしショットで、否応なしに観る者の緊迫感を高める。ルナの心の中の声、「キャシャーン、お願いだから来ないで」。

その叫びが実際の声となってルナの口から発せられたとき、ルナは引き金を引く。しかしその瞬間キャシャーンは身をひるがえし、飛行機の下に仕掛けられた爆弾型ロボットを破壊する。そして次々とアンドロイドたちを倒し、部隊を全滅させる。

再びキャシャーンによって救われた乗客たちは、元の目的地へ飛び立とうと、別の旅客機に乗り込んでいる。キャシャーンはルナの肩に手をかけるが、ルナは意外にも背を向けて、ひとこと「さようなら」とつぶやく。

突然の決別にキャシャーンは驚くが、ルナは涙ながらに言う。

「私の心の中にはキャシャーンだけしかいない。そのあなたを裏切ったあたしを、あたしは許せないのよ。あたしがいればきっとまた、足手まといになるわ」

とても美しい台詞である。

「そんなことはない。ルナ、おれだって君を一瞬うたがった。おれだってそんな自分がゆるせない。でも君といっしょにいたい。おれは君といっしょに戦いたいんだ。ルナ!」

これが愛の告白でなくて何だろうか。しかし、ルナは自責の念を抱えたまま旅客機に乗り込み、キャシャーンの前から飛び立ってしまう。

旅客機の中、体調を回復した牧師は、窓の外に飛行機型のフレンダーに乗るキャシャーンの姿を認め、となりに座っていたルナに語りかける。

「ルナ、私はもう大丈夫だ。さあ行きなさい。キャシャーンのところへ。今行かなければ、一生会えないかもしれないんだ」

ルナはキャシャーンの姿に驚いてつぶやく。「一生...」

「さあ、ルナ!」牧師の言葉に促されて、ルナは駆け出し、客室を出ると、非常用ハッチを開く。眼下に飛行機型のフレンダーに乗るキャシャーンの姿が小さく見える。その瞬間。ルナはハッチから大空に向かってジャンプする。

無音。

ルナの体はスローモーションで回転しながら、キャシャーンのもとへと落ちていく。そこにナレーションがかぶさり、飛び去る旅客機を背景に、キャシャーンがルナを抱きとめる直前のストップモーションで、第21話は終わる。非常に印象的なラストカットである。

今Gyaoで公開されている第20話、第26話などと比較すると、演出の水準が明らかに違う。この第21話の演出は鳥肌が立つほど秀逸なのだ。それもそのはず。この第21話の演出は、富野喜幸、そう、『機動戦士ガンダム』の総監督・富野由悠季の旧名である。


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2006/05/19

『交響詩篇エウレカセブン』からあえて4話を選べば

「板野サーカス」について教えていただいた読者の方から、『交響詩篇エウレカセブン』から4話だけ選んでほしいと要望があった。アニメを見慣れている人たちにとっては、山場を見れば「溜め」はおおむね想像がついてしまうらしい。

全話の内容を正確に思い出せる自信はないが、何とか4話選んでみよう。

まず第2話。主人公の少年レントンと、少女エウレカが、協力して巨大人型ロボット「ニルヴァーシュ」を動かすと、とんでもない超常現象が起こるという重要なパターンが初めて登場する。

第11話。レントンとエウレカの関係の悪化が描かれると同時に、ニルヴァーシュ type ZEROの好敵手ニルヴァーシュ type The Endとその操縦者である少女アネモネが登場する。また、初めて巨大な知的生命体コーラリアンが出現する。

第19話。エウレカが自殺未遂する回なので省略できない。

本当はここから第29話までは全話観てほしい。この「愛と苦悩の日記」でも何度か触れているビームス夫妻とレントンの挿話があるためだ。また、第20話の戦闘シーンは『新世紀エヴァンゲリオン』のエヴァ初号機の暴走を想起させる。

逆に、第19話から第29話までを全回観ないのなら、むしろまったく観ない方がいい。

第35話。たしか「板野サーカス」を堪能できる回だったと記憶している。それ以上に、ヴォダラク教徒の高僧ノルブ、知的生命体コーラリアンの殲滅をたくらむデューイという、2名の重要人物と、月光号のメンバーが一同に会するので、重要な回。

第42話。知的生命体コーラリアンと人類の共存を実現する鍵となる、地下にある「異世界」が、実は一万年前の地球であるということが判明する回。

第50話。最終回。

結局6話になった。ここから2話を削るとすれば、第11話、第35話だろうか。ただ、『交響詩篇エウレカセブン』の物語世界の細かな設定は、用語も含めて『新世紀エヴァンゲリオン』よりも複雑なので、全50話から4話だけを抜き出すこと自体に無理がありそうだ。本格的なアニメファンは僕とは違うのかもしれないが。

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2006/05/18

『マクロス』のミサイル弾道描写は「板野サーカス」

さすが「think or die」の読者は違う。昨日『超時空要塞マクロス』のミサイル描写について問いかけたところ、何と2人の方から早速同じ答えが返ってきた。これは「板野サーカス」と呼ばれる描写らしい。

Wikipediaの板野一郎のページに、アニメーターの板野氏が『超時空要塞マクロス』で初めて使った手法だと書いてある。『交響詩篇エウレカセブン』で頻出するこの痛快な表現手法が初めて使われたアニメーション作品を、期せずして観ることができたということになる。

ちなみに『交響詩篇エウレカセブン』での「板野サーカス」をご覧になりたい方は、5/26(金)までShowtimeで無料放送中の『交響詩篇エウレカセブン』第1話~第10話の中では、残念ながら第2話の19分00秒からの部分くらいしかない。全50話の後半ではかなり頻繁に見られるので、関西地区の方はMBS毎週木曜26:30ごろから、関東地区の方はTBS毎週金曜25:55ごろからの再放送を録画されたい。

これだけ打てば響く読者がいれば、僕にソーシャル・ネットワーキングサービスなどいらない。

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2006/05/17

『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』

『戦闘美少女の精神分析』の中で触れられていたが、一度も観たことがなかったので劇場版『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(1984年8月公開)をDVDで観た。テレビ版とは物語がすこし違うらしいが、テレビ版を全話観ている暇などない。

1984年というのは『風の谷のナウシカ』が劇場公開されたのと同じ年らしい。最後のクレジットで原画担当が庵野秀明であることを初めて知った。言われてみれば、『トップをねらえ!』のタカヤノリコの面影が、女性キャラクターにないでもない。

ところで『交響詩篇エウレカセブン』では、空中戦の複数のミサイルの弾道を後ろから高速で追いかける目線のカメラが印象的だが、本作『マクロス』にも同じ描写が頻出する。『マクロス』や庵野秀明の『DAIKON IV』以前にもこの印象的な描写は存在したのだろうか。ここまで来ると、起源をきっちり調べたくなってしまうが、ご存知の読者の方がいらっしゃれば是非お教え頂きたい。

主人公の少年・一条輝と、アイドル歌手・リン・ミンメイ、早瀬美沙のきわめて個人的な三角関係に、要塞マクロスで地球から脱出した人類の命運が左右されるという、よく考えなくても荒唐無稽な設定が、廃墟となった地球を通した「美しい過去」への郷愁とともに、大真面目に物語られるので、僕としてはどう受け取ればいいのかとまどってしまう。

男女の性別役割についても笑ってしまうくらい素朴なステレオタイプが描かれているし、この点では端的に他愛のないアニメーション作品だと評価せざるを得ない。

『戦闘美少女の精神分析』の中では、リン・ミンメイの歌声が人類の命運を左右するほどの力を持つということで、強大な力を秘めた無邪気な戦闘少女の原型の一例として、リン・ミンメイが紹介されている。

リン・ミンメイ役の声優・飯島真理は、名前だけは聞いたことがあったのだが、歌う声優アイドルの先駆なのだろうか。声優としては『マクロス』のリン・ミンメイがほぼ唯一の経歴のようで、米国人と結婚して現在は米国在住らしい。

しかし公式Webサイトを読むと、2006/07/09~10の2日間、渋谷クラブクアトロでライブを行うらしい。おそらく劇場公開から20年以上たった今も、リン・ミンメイの歌声を聴きたいという『マクロス』ファンが根強く存在するということなのだろう。

小学生の頃、松本零士に熱中した後、ぷっつりアニメーションとの交渉が絶えてしまった間に、『ガンダム』があり、『マクロス』があり、『トップをねらえ!』があり、つまり僕は今の日本のアニメーションを成り立たせている背景となっているものの手がかりを、完全に失ってしまっているということに改めて気づかされれる。

その状態で『交響詩篇エウレカセブン』がどうのこうのということを書くのは、やはりおこがましいことなのかもしれない。


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2006/05/14

『鉄腕DASH』で『交響詩篇エウレカセブン』の劇伴奏曲「戦闘空域」「月光号」

日本テレビ系『鉄腕DASH』を見ていたら、『交響詩篇エウレカセブン ORIGINAL SOUNDTRACK 1』から佐藤直紀作曲「戦闘空域」(だと思う)が、「DASH村」コーナーで、いざDASH村の桜の木の土壌改善!という場面に、そして先週の『あるある大事典』と同じ「月光号」が「ソーラーカー日本一周」コーナーで使われていた。

それにすぐに気づいてしまうほど毎日のように聴いているということだ。『交響詩篇エウレカセブン ORIGINAL SOUNDTRACK 2』もWebサイトの検索結果では、最寄のTSUTAYAにレンタル在庫があるはずなのだが、この週末に確認しに行ったら、なかった。

そう言えば、Gyaoで第29話までの無料放送を観た後、やはりUSENと楽天が運営するインターネット放送サイト「Showtime」で第30話以降を観はじめてしまった。おそらくもう一度最終話まで行き着いてしまうだろう。

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2006/05/07

『あるある大事典』で『交響詩篇エウレカセブン』の劇伴奏曲「月光号」

昼間、あまりの暇をもてあまして、名塚佳織のインターネットラジオ番組『かもさん學園』でも聴くかと思い(人を小バカにしたような番組タイトルはどうにかしてほしいものだが)、インターネット・ラジオサイト「音泉」で最新の第72回放送を聞き流していた。

へぇ、名塚佳織のあこがれの声優は戸田恵子なのかと思いつつ聴いていると、先週放送分に三瓶由布子がゲスト出演したという話が出てきたので、あわててBEWEという謎のコミュニティーサイトに会員登録して第71回放送を聴いてしまった。4月に『RADIO ray=out』の最終回を聴いて以来、久しぶりの三瓶由布子・名塚佳織コンビのまったりしたトークを堪能しできた。

繰り返しになるが、名塚佳織は『交響詩篇エウレカセブン』で主人公の少女エウレカ役を演じ、三瓶由布子は主人公の少年レントン・サーストンを演じている声優だ。

まずい。この記事を入力しながら横目で見ていた『あるある大事典』で、21:38ごろ「玄米のアミラーゼがヨーグルトを入れて炊くことで活性化する」という説明のBGMが、何と『交響詩篇エウレカセブン ORIGINAL SOUNDTRACK 1』の劇伴奏曲「月光号」ではないか。

この曲を聴くと、第2話だったか、ベルフォレストという街の飛行場で、煙幕の中から登場する月光号の場面が脳裏によみがえって鳥肌が立ってしまうのだ。主人公の少年レントンが人型ロボット「ニルヴァーシュ type ZERO」に少女エウレカといっしょに乗りながら、初めて憧れの月光号を目の前にする場面だ。

しかも今日は同じフジテレビで『平成教育委員会』スペシャルが終わった直後、いきなり耳にタコができるほど聴きなれた曲「DAYS」が流れたので何が起こったのかと思ったら、こんな時間帯に『交響詩篇エウレカセブン COMPLETE BEST』のスポットCM。

この調子では『劇場版・交響詩篇エウレカセブン』などが出来てしまったら、たとえ単なるダイジェスト版でも観に行ってしまいそうな予感がする。

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2006/05/06

『交響詩篇エウレカセブン』第29話まで完走

危惧されたとおり、この黄金週間は『交響詩篇エウレカセブン』でつぶれてしまった。ShowtimeとGyaoをハシゴして第1話~第29話までを完走。これで2回目。2回目で気づいたのだが、第29話にもすっかり忘れていた感涙の場面があった。

本来、主人公の少年レントン・サーストンと敵対するはずのドミニクが、レントンの故郷ベルフォレストを訪れ、レントンの祖父であるアクセル・サーストンと接触してレントンの身辺調査をするつもりが、偶然の事故から故障したバイクを、一流のエンジニアであるアクセルに修理してもらうはめになるという挿話。

別れのときアクセルは、レントンの親友だと名乗ったドミニクに対して、素晴らしい友人をもってレントンも幸せ者だ、いつまでも友だちでいてやって下さいと言い、レントンの親友のバイクを修理するくらい、いつでもこころよく引きうけさせてもらうと、深々と頭を下げて送り出す。

その瞬間、ドミニクは不覚にも涙を流すのだ。この第29話が、物語の終盤でドミニクがデューイから離反して、ゲッコーステイトに合流し、レントンの父親であるアドロック・サーストンの意志を継いで、人類にとっての「他者」である知的生命体コーラリアンとの和解の道を選択する伏線になっているということに、今晩、気づいた。

...えっと、『交響詩篇エウレカセブン』をご覧でない皆さんには、何のことかさっぱり分からないと思われるが、お許し頂きたい。

ビームス夫妻とレントンの悲劇的な死別の挿話も再び堪能できたし、絶望病の恋人と暮らすウィルとレントンが偶然出会って、別れる直前、絶望病せいで微笑むことすらできないはずのウィルの恋人が、レントンの方を振り返って一瞬、微笑んだように見えた顔が、エウレカの微笑みとクロスフェーズするカット、このカットが『交響詩篇エウレカセブン』の全50話の中でも最も美しいカットだと思うのだが、このカットを再び観ることができた。

それだけでも、この5連休にはそれなりの価値があったということだ。

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2006/05/03

『エウレカセブン』第1話~第29話Gyaoで無料放送中

困ったことになった。USENのブロードバンド放送「Gyao」で「エウレカセブンラリー Trace2 ray=out29」という特集が始まっていることに気づいてしまった。現在Showtimeでは2006/05/28(金)18:00まで第1話~第10話が無料放送(注1)されているが、「エウレカセブンラリー Trace2」は第1話~第29話が2006/05/14(日)12:00まで無料放送とのこと。これでは黄金週間が『エウレカセブン』でつぶれてしまう。

(注1)Showtimeの月会費294円は必要。

第19話~第28話は『交響詩篇エウレカセブン』の全50話の中では最も悲劇的な部分だが、脚本の物語が濃密で、観始めるとやめられない。主人公のヒト形異生物の少女エウレカが自殺(?)を図ろうとするところを、少年レントンが救い出す瞬間の劇的な展開、以前にもご紹介したビームス夫妻とレントンの出逢いから死別までの挿話。

そして「絶望病」の恋人とともに暮らすウィリアムという青年とレントンの挿話(第25話)などなど、これぞ典型的なBildungsroman(Wikipediaの「教養小説」の項参照)といったさまざまな挿話が、『エウレカセブン』全体の物語の本流と並行して語られる。

あまり五月晴れの空を窓の向こうに置き去りにして観るには、あまり健康的とは言えない「ダウナー」な物語だが、それでも観てみたいという奇特な方はどうぞ。

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2006/04/27

『交響詩篇エウレカセブン』第1話~第10話無料配信

最初はここで痛烈に批判しておきながら、結局はかなりハマってしまったアニメーション作品『交響詩篇エウレカセブン』だが、2006/04/28 19:00~2006/05/26 18:00の期間限定でブロードバンド放送サイトShowTimeで第1話~第10話が無料配信されることになったようだ。

僕としてはいまだに、この作品の保守的な男女役割分業観や、あまりに下らない大団円は受け入れがたいのだが、中盤の脚本やきめ細かい映像上の演出は、大人向けのアニメーションとしてよく出来ていると考えている。その中盤を楽しむための予備知識として、第1話~第10話を無料で観ておくのは悪くないと思うので、ぜひだまされたと思って、何しろ無料なので、ご覧になることをおすすめしておく。

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2006/04/23

無料インターネット放送で『エヴァ劇場版』を再体験

アニメーションの話ついでに、いまYahoo!BBで『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2』が何と無料で配信されている。9年前、この「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」のエヴァンゲリオン評論で触れた、例の綾波レイと惣流アスカ・ラングレーと二人だけのエレベーターのシーンも9年ぶりに堪能した。

しかしエヴァと使徒の血みどろの戦闘シーンの多くは、飛ばしながら観ざるを得なかった。僕も年をとってしまったということだろうか。それとも9年前の僕が単に鈍感だっただけなのだろうか。

林原めぐみの『東京ブギーナイト』は今でもほぼ毎週、半分眠りながら聴いているが、先月『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌を歌っていた高橋洋子がゲスト出演していた。二人してよくしゃべることと思いながら聴いていたが、林原めぐみが綾波レイの声を演じてから9年、その間、彼女は結婚して子供も出来ている。

『エヴァンゲリオン』では葛城ミサト役だった三石琴乃、現在は日曜お昼のフジテレビの番組『ウチくる』のナレータや『ドラえもん』ののび太のママ役をやっている彼女も、その間に結婚して子供をもうけている。

10年ひと昔。いずれにせよ『エヴァンゲリオン』をきっかけに「think or die」の読者になった方々も、そうでない方も、何しろ無料なのでどうぞ。


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日曜日夜の旅番組に『エウレカセブン』のコテコテBGM登場

土曜日の夜7時、いつも見ている『鉄腕DASH』が憎き野球中継でつぶれていたので、テレビ朝日『旅の香り』という野際陽子司会の番組を流しながらネットをやっていた。すると、お笑い芸人のヒロシが京本正樹と京都を旅するコーナーで、二人が一般の花見客に混じって楽しむ場面のBGMに『交響詩篇エウレカセブン』の劇伴奏曲が流れたではないか。

第17話「スカイ・ロック・ゲート」で、主人公の少年レントンたちが乗る月光号という戦艦の、リフレクション・フィルムと呼ばれる装甲の材料となるスカイ・フィッシュという生き物を捕獲する場面がある。

月光号という戦艦は普通に燃料をつかって飛ぶ以外に、アニメーションの舞台設定である1万年後の地球上の大気に漂っているトランサパランサ・ライトパーティクル(トラパー)という微粒子の浮力を利用して飛行することもできる。

一種のゲリラ部隊である月光号は正規軍と違って戦闘資金が潤沢なわけではないので、燃料を節約するためにできるだけトラパーの浮力を利用して飛ぶために、戦闘で破損したリフレクション・フィルムを修繕する必要があったのだ。

このリフレクション・フィルムの原料がなぜスカイ・フィッシュという生物なのかと言えば、スカイ・フィッシュはトラパー濃度の高い空域に棲息する生物で、体がトラパーの浮力を最大限に利用する組織で出来ているためだ。

そしてこのスカイ・フィッシュという生物は、理由はさだかでないが、人間たちが楽しい気持ちになっているところへ好んで集まってくる。そのためにフィルム職人は月光号の乗組員を誘って、お酒も入れてドンチャン騒ぎをするのだが、そのBGMとしてフィルム職人が流す曲が、『旅の香り』のBGMとして使われていたのだ。

月光号の乗組員はテクノ好きばかりなので、ブラスバンドが演奏するこのコテコテのずっこけ風BGMに「ダっせ~」という感想を漏らすのだが、このBGMは僕の旋律の記憶に間違いがなければ『交響詩篇エウレカセブン ORIGINAL SOUNDTRACK1』に収録されている「永い旅路」「望郷」と同じ旋律の編曲違いである。

しかし『ORIGINAL SOUNDTRACK1』にこの編曲違いのずっこけ風BGMは収録されていない。では『ORIGINAL SOUNDTRACK2』に収録されているかと言えば、それらしき題名の曲が見つからないのでレンタルして聴いてみないことには分からない。

たった一曲のBGMについてこんなに長々と説明することもないのだが、ただ、テレビ番組の音響効果担当は、他局(毎日放送)アニメーションのBGMまでちゃんとチェックしているんだなぁと感心したので、少し突っ込んで書いてみた。

ちなみにこのずっこけ風BGMは『交響詩篇エウレカセブン』放送中に日曜日夜23:30から放送されていた『RADIO Ray=out』では毎週お知らせのコーナーで使われていたので、『エウレカセブン』ファンにはお馴染みのほのぼの曲である。

...いつの間にか僕が『交響詩篇エウレカセブン』のファンになっているように読めるかもしれないが、決してそんなことはない。

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2006/04/16

『エウレカセブン』全50話完走

ようやく『交響詩篇エウレカセブン』の全50話をインターネット放送で観終えた。13日かけたので1日あたり4話。出勤前、朝食をとりながら1話、帰宅後に3話のペースだ。この「愛と苦悩の日記」はフランス現代思想に関する記事を除いて、分かる人にしか分からないヲタク的サイトにしたくないので、『交響詩篇エウレカセブン』について専門用語を最小限にとどめた個人的な解説を書いておく。専門用語に関する詳細な解説は「はてな」の「エウレカセブン」グループを参照のこと。

『交響詩篇エウレカセブン』は、スカブコーラル(「サンゴ礁状のかさぶた」の意味)と呼ばれる知的生命体と、同じく知的生命体である人間が、地球上で共生することは可能かという問いを主題としている。おそらく人間と自然の共生という永遠の主題の反復である。

舞台設定は今から1万年後の地球。1万年前(つまり現代)、何らかのきっかけで地球に飛来したスカブコーラルの原型は、融合するという方法でしか他者と意思疎通できないため、地球上のあらゆる生命をのみ込んでいく。人類はそれを恐れて地球を脱出、スカブコーラルは地球を覆いつくしたところで、自らが完全な孤独に陥ったことに気づき、他者の存在がいかに大切かを初めて知る。

1万年後、人類が再び地球にもどって来たとき、スカブコーラルは人類こそ自らが対話し得る唯一の知的生命体であることを理解していたので、1万年前のようにただ融合しようとして人類を恐れさせるのではなく、それ以外の方法で人類と対話し、地球上で人類と共生する可能性を模索しようとした。そのためにスカブコーラルは、人間と同じ形をした人型コーラリアンを人類のもとに送り出した。

その人型コーラリアンの一つが、このアニメのタイトルにもなっている主人公の少女エウレカである。エウレカは自らの出自についての記憶がなく、いわば「白紙の書物」として人類に提示される。

しかし人類の一部は人類だけが地球上で生き延びるべき存在だと主張、スカブコーラルを殲滅するための地球規模の軍事作戦を発動する。これを阻止し、人類とスカブコーラルの共存をめざす集団は、エウレカを人間の少年レントンと引き合わせ、この二人に人類とスカブコーラルの共存する未来を託す。

これだけコンパクトにまとめてしまうと、何ということもないエコロジーなお話だが、エウレカとレントンの極めて個人的な恋愛の成就が、地球の救済と直結しているという飛躍がアニメーションらしいおとぎ話になっている。ラブストーリーとして観た場合、スカブコーラル(女性)と人間(男性)と人型ロボット(女性)の三角関係、スカブコーラル(女性)と人間(男性)と人間(男性)の三角関係など、種を超えた関係の心理描写にまで踏み込んでいる点が興味深い。

また、仏教に似た宗教を信仰する急進派のテロリズムが描かれたり、「ワルサワ」という都市で民族浄化のための大量虐殺が起こるなど、現実のテロや戦争を想起させる挿話もある。仏教的含意が盛りだくさんでありながら、クラブミュージックやサーフィンに似たスポーツなどのサブカルチャーも登場する。

それでいて男は男らしく、女は女らしくという保守的な性別役割分業が徹底している物語で、少女エウレカが冷徹な軍人からしおらしい少女に変化していくと同時に、少年レントンは情けない子供から、頼りがいのある男に成長していく。

しかし日曜朝7時という幼稚園児や小学校低学年向けの放送時間と、狙いとしている視聴者層がまったく合っていないことや、主人公の少女エウレカに「セブン」をつけて、明らかにウルトラセブンを連想させる「エウレカセブン」というダサダサの題名をつけてしまったことから、視聴率はかなり低迷したままテレビ放送を終えたようだ。ちなみに「セブン」は放送時間の朝7時ということと、劇中、スカブコーラルと人間が心を通わせたときに七色の虹が空を覆う超常現象を意味している。らしい。

長いフィクションに付き合うと、そのフィクションの出来、不出来にかかわらず、完結したところで多少の虚脱感に襲われるのはやむを得ないだろう。

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2006/04/11

『エウレカセブン』に不覚にも「思い出し泣き」

■お笑い番組が好きな僕は、たまに強烈なギャグに思い出し笑いすることがあるが、「思い出し泣き」をしたのは、たぶん今回が初めてだと思う。

USENのブロードバンド放送「Gyao」で2006/04/10まで『交響詩篇エウレカセブン』第1話~25話が「エウレカセブンラリー・Trace ray=out25」と称して無料放送されていた。第14話あたりからの重苦しい展開に夢でうなされながらも、第20話まで何とか無料で観ることができた。第20話まで観ると残りを観ないわけには行かなくなり、まさに制作側の思う壷、続きをUSENの「ShowTime」で観ているところだ。

こうして一話ずつじっくり観ても、今まで書いたことを訂正する必要はないと感じた。『少女革命ウテナ』のような作品がアニメでしか表現できない極限を追求しているのに対し、『交響詩篇エウレカセブン』はやはり教養小説的でオーソドックスなドラマである。

ただ、今まで書いたことに付け加えるとすれば、オーソドックスなドラマとしては非常によく出来ている。出来すぎなくらいだ。例えばビームス夫妻と主人公の少年レントンの出会いから別れまで(第22話から第28話)はこの部分だけでも一編のドラマとして見る価値がある。残念ながら背景を理解するには第1話から観る必要があるので、この部分だけ切り出してご覧になっても殆ど意味が分からないかもしれない。

戦艦「月光号」の仲間たちに見放されたと思い込んだ少年レントンは、絶望して黙って戦艦を立ち去り、行き着いた街を放浪する。寝ている間に荷物を盗まれ、無一文になったレントンは偶然ビームス夫妻に助けられる。

夫妻はレントンを実の息子のように温かく迎え、それまでの戦闘で傷ついた心を癒されたレントンは、養子として平穏に暮らすことを考え始める。レントンは幼い頃に父母を亡くし、母代わりの姉に育てられた子供だった。ビームス夫妻はレントンにとって、初めて父さん、母さんと呼べる存在だったのだ。

ビームス夫妻もレントンを息子として育てていこうと決める。夫チャールズの妻レイは、過去のある出来事のために子供ができない体になってしまった。チャールズはそれを知った上でレイと結婚したのだった。

しかしレントンが月光号の乗組員であること、そして少女エウレカとともに人型ロボット「ニルヴァーシュ Type ZERO」を操縦していることを告白すると、夫妻の顔色が変わる。チャールズ夫妻は月光号と敵対する軍の傭兵であり、エウレカとニルヴァーシュの奪取を任務としていたからだ。そしてチャールズは月光号のリーダ・ホランドと、かつては同じ軍隊の盟友だった。

真実を知ったレントンはエウレカを守るために月光号に戻ることを決意し、チャールズは自分たちの戦艦から去るレントンを送り出す。妻のレイはせっかく手に入れた「息子」との三人の幸福な生活が、もろくも崩れ去ったことに慟哭する。しかしチャールズと果たすべき任務に変わりはなかった。チャールズはレントンと対決することになると知った上で送り出したのだ。そしてレイが子供を産めない体になったのは、実は人間ではない特殊な生命体であるエウレカが引き起こした、大規模な超常現象の影響だった。

月光号にもどったレントンはビームス夫妻の作戦を明かすが、それは対決を何としても避けたい思いからだった。しかしビームス夫妻は月光号に生身で侵入するという強襲をかけ、月光号のリーダ・ホランドは至近距離での銃撃戦の末、かつての盟友チャールズを射殺する。妻レイはチャールズがあらかじめ飲み込んであった時限爆弾が爆発し、チャールズの体が大破するすきに逃亡する。

数日後、レイは再び月光号に一人で奇襲をしかけてくる。ひとときでも父親と呼べた人を目の前で殺されたレントンは、交戦を避けようとレイに呼びかけるが、エウレカへの復讐を心に誓ったレイは聞く耳を持たない。

月光号は激しい交戦の末、ついにレイの戦艦を大破させ、レイは墜落する戦艦の中、ちぎれて吹き飛んだ自分の左腕のところまで這っていく途中で力尽きる。その左腕の薬指には、あのとき病院のベッドで、自分が子供ができない体になったことを知りながら、明るくプロポーズしたチャールズがはめてくれた指輪が、まだしっかりとはまっていた...。

ちなみに僕が「思い出し泣き」をしたのはビームス夫妻とレントンの逸話とは直接関係のない、第24話のとある場面なのだが、分かった方はトラックバックを頂きたい。(と言ってもこのブログの読者にそんな暇な方はいないだろうが)

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2006/04/03

三瓶由布子・名塚佳織

■ここ2か月くらい『交響詩篇エウレカセブン』の無料インターネット放送を毎週観ていたこともあり、久しぶりに毎週アニラジ(=アニメーション関係のラジオ番組)『エウレカセブン RADIO ray=out』を聴いていた。

昨日アニメーション放送と同日にラジオ番組も最終回ということを知っていたので、23:30には布団の中で準備万端だった。ところが野球中継の延長で30分遅れての開始。これだから野球シーズンは嫌いなのだ。半年間テレビやラジオが何もかも野球中継優先になってしまう。

『新世紀エヴァンゲリオン』にハマっていたときは、緒方恵美(主人公の少年・碇シンジ役)の『銀河に吠えろ』と林原めぐみ(ヒロイン?の綾波レイ役)の『東京ブギーナイト』を両方聴く必要があった。今回は主人公の少年レントン役・三瓶由布子(さんぺい・ゆうこ)とヒロインのエウレカ役・名塚佳織(なづか・かおり)が二人とも『RADIO ray=out』に出演している。

『完成目前!緊急ナビ!!』というインターネット番組で(なぜか司会はお笑いコンビ次長課長)初めて三瓶由布子と名塚佳織の顔を見たが、三瓶由布子は僕が少年役ということで勝手に緒方恵美とダブらせていたイメージとまったく違って、普通の20歳の女性だった。

たまたま「アニメイトTV Web」というサイトで三瓶由布子の劇団若草の宣材写真を見つけたのだが、色あせ具合がまるで1980年代のアイドルのようだ。現在の彼女の写真は『RADIO ray=out』の公式ブログで確認できる。トップページ左上の2人のうち、茶髪で肩幅が広い方が少女エウレカ役の名塚佳織、黒髪の方が少年レントン役の三瓶由布子である。三瓶由布子は劇団若草のインタビュー記事にも登場している

次にエウレカ役の方の名塚佳織の肩幅が、なぜあんなに広いのか気になるところだが、その前にアニラジというのがどんなものか体験したい方は、「音泉」というWebサイトでストリーミング放送『名塚佳織 かもさん学園』などをお聴きになられたい。ここでの名塚佳織はエウレカ役とは無関係な声色でゆる~いトークを展開している。(ちなみに第70回放送の中では「やっぱり肩幅ガッチリしてますねって言われるより、腕が細いって言われる方がうれしいですね」と自ら語っている)

Wikipediaによれば名塚佳織は小学生の頃からミュージカルに出演しているようで、ダンスもできるらしい。三瓶由布子とは同年齢。あるWebサイトによれば「癒し系へたれろりろりボイスの代表格」とのこと。ちなみに同じWebサイトによると三瓶由布子は「ショタ系の声質が、ヲタ層を敬遠させている」らしい。何と的確な評なのだろうか。

以上、僕に藤原正彦批判をする資格のないことが明々白々な下らない記事だった。

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2006/04/02

『交響詩篇エウレカセブン』最終回

今日、『交響詩篇エウレカセブン』最終回1時間スペシャルが放送された。ShowTimeでの無料インターネット放送は今日の深夜24時からなので、待ちきれず、初めてハードディスク録画して午前中観ていた。

ところで僕がこの「愛と苦悩の日記」で『交響詩篇エウレカセブン』をこきおろしていることに関連して、10代の『エウレカセブン』ファンの少年からメールを頂いた。『エウレカセブン』はいろんな賞を受賞しているのだから、けなさないで欲しいという、別の権威にすがって僕に反論するという、少年らしい内容のメールだ。

ただ、この「愛と苦悩の日記」の親サイトである「think or die」のエッセーも含めて、筆者である僕が相当ひねくれた性格であることを考えると、ここ最近書いている『エウレカセブン』批判も文字どおりに読んでいいだろうか。

結局のところ僕は1月から毎週インターネット放送で『エウレカセブン』を観続けているし、今日の最終回もしっかり観てしまっている。確かにその作品世界は『新世紀エヴァンゲリオン』に比べれば、男女の異性愛をはじめとする分かりやすい二元論が支配しているし、何よりも明るい。底抜けに明るい。

今日の最終回でも、まさかハートマークの中に「レントン」「エウレカ」の文字といった、相合傘レベルの落書きが地球を救った英雄の「墓碑銘」になるとは思わなかったし、主人公の少年レントンが、純白の機体に変貌をとげたニルヴァーシュtype ZEROという人型ロボット(このネーミングも容易に『エヴァンゲリオン』のエヴァ零号機を思い出させる)に乗って、エウレカのいる巨大な球体に侵入していくのは、恥ずかしいくらい明らかに「受精」のメタファーになっている。球体の中でレントンがエウレカに再会したとき、「君と一体になりたいんだ」と語るのも、僕と同じ世代の『エウレカセブン』の脚本家がそこに性交の含意をもたせていることは明白だ。

要するにこれ以上ないというくらい屈託のないハッピーエンドだったのである。敵軍だった少年ドミニクと少女アネモネも、面映くなるくらい日常的な恋人どうしにもどっているし、人型ロボットのニルヴァーシュは、その名前から予想されたとおり、悟りの境地である涅槃(ニルヴァーナ)の具現化だったことが最終回で明らかになった。

...という具合に、ここまで細部に注目しながら毎週放送を観てきた僕にとって、『交響詩篇エウレカセブン』というアニメーションが、その出来の悪さゆえに愛すべき作品でないわけがない。メールを頂いた10代の少年は、ちょうどホランドやタルホのように、ストレートな愛情表現ができない大人の事情というのを分かってほしい。

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2006/03/27

高齢者のためのアニメの可能性

■昨日、本体サイト「think or die」に日本経済新聞の社説「日本のアニメに経営戦略を」についての反論『メタ言語としてのアニメと経済合理性』を掲載したが、ビジネスとしてのアニメを考える以上、世代とアニメの関係も無視できないことにも気づいた。

ガンダム世代ははたして50代、60代になってもガンプラ(ガンダムに登場する「モビルスーツ」と呼ばれるロボットのプラモデル)を愛し続けるのだろうか。『テニスの王子様』のやおい小説を楽しむ「腐女子」の皆さんは自分の子供が20代になっても少年同性愛小説を楽しみ続けるのだろうか。それともヲタクには、ヲタクを卒業適齢期みたいなものがあるのだろうか。

僕が某大手コンピュータメーカでERPパッケージのプリセールスをやっていた頃の上司には、自宅に漫画の単行本の書庫があるほどの漫画好きで、いまだにかなりマニアックに漫画を楽しむことができている人がいた。

アニメーションに一定の卒業適齢期があるのなら、いつの時代にもアニメの受容層は限定されることになり、さらに国内の少子化の進行は避けられないので、ますますアニメ市場は縮小に向かう。その代わり日本で創作されたアニメが新興国に輸出されることで一定の市場拡大は見込めるだろうが、それでもアニメが本質的に「お子様向け」のものであることに変わりはない。

ヲタクが社会的に軽蔑の対象となるのは、やはりアニメや漫画が所詮は「お子様向け」のものであり、ヲタクの人たちとはいつまでたっても子供っぽさの抜けきらない「不完全な大人」であるという暗黙の社会通念があるからだ。このことは否定できない。(酒、タバコ、ギャンブルなしでは生きていけない大人たちも、立派な「お子様」ではあるが)

ただ、僕はガンダム世代が50代、60代になるころには、熟年向けのアニメーションが登場しているだろうと期待する。現時点で人気のアニメは10代の少年・少女が主人公になっているので、不可避的に10~20代の受容層しか産みださない構造になっている。

しかしこれからは50代、60代でも感情移入できる10代の主人公が登場したり、むしろアニメの強い虚構性を利用して、たとえば「コナン」が少年の姿をした大人であるように、少年少女の姿をした老人や、そもそも年齢という概念を超えた存在が主人公であるようなアニメ作品がもっと増えてくるのではないだろうか。

この表現の自由さや可能性こそが、ビジネス上の経済合理性を軽々と超えたところでアニメーションという分野を成立させているのであり、日本経済新聞の社説はアニメのこういった側面、というよりも本質を看過している。

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2006/03/21

『交響詩篇エウレカセブン』第47話

■毎週日曜あさ7時からMBS・TBS系で放送中、もうすぐ最終回のアニメーション『交響詩篇エウレカセブン』の話である。なんとか『新世紀エヴァンゲリオン』の二匹めのどじょうを狙おうと1年にもわたって放送を続けているロボットものだが、以前この日記にも書いたようにストリーミング放送で最新話を無料で視聴できるので毎回観ている。

壮大で哲学的な世界観を何とか劇的に描こうという努力の空回りぐあいがとても痛々しい作品である。第47話『アクペリエンス・4』という題名からして何のことだか分からない最新話では、ついに謎の生命体「スカブコーラル」の正体が明らかにされた。主人公の少年レントンの姉がなぜかすべてを知る者として登場し、スカブコーラルの一万年前にさかのぼる歴史を語るという構成だ。なぜレントンの姉が語り手として選ばれているのかもよく分からない。

スカブコーラルは一万年前に地球に落下し、海中深く生息し始めたが、その唯一の自己表現の方法が他の生命体を同化することらしい。そういうわけでスカブコーラルは周囲の生命体を同一化しながら少しずつ成長し、ついには地球全体を同一化し尽くしてしまう。人類はそこから逃れるために地球を脱出してしまっていた。

地球全体を覆いつくしたとき、スカブコーラルは初めて自分が孤独であること、もはや同一化すべき他者が存在しないことに気付いたのだという。そして一万年ぶりに地球にもどってきた人類を深い思慕の情で迎え入れるのだが、やはりその表現方法は同一化しかないことには変わりない。で、主人公の愛する少女、エウレカはそのスカブコーラルの一部分であるコーラリアンと呼ばれる種類の生命体ということらしい。

ところが以前も書いたようにこの『エウレカセブン』の脚本は、ほとんど少年レントンが少女エウレカに出会ったときから一貫して彼女を愛しているという設定で、視聴者は毎回この二人ののろけ具合を見せられるという、緊張感のかけらもない展開なのだ。

スカブコーラルにとって人類が本当の意味で「他者」であるなら、人間であるレントンとコーラリアンであるエウレカの間には、乗り越えることができない断絶が延々と描かれてしかるべきである。ところが物語の冒頭からすでにレントンはエウレカを守るために戦うと宣言し、物語の最後でスカブコーラルを守るために戦うという結末が見えてしまっている。

非常にまずい脚本である。これでは1年間放送しても泣かず飛ばずなのは当たり前。14歳のレントンは同年代の少年が感情移入するには大人びすぎているし、エウレカの母性表現は保守的すぎて、十代の少女には感情移入できないだろうし、大人が見るには上述のように脚本のできが悪すぎる。

また、敵軍の少年ドミニクとレントンのからみがほとんどないので、「やおい」系の「腐女子」の皆さん(=少年の同性愛描写が好きな皆さん)をひきつける要素がないし、エウレカや、敵軍の少女アネモネは綾波レイと違って胸が全くないので(下品な話で申し訳ない)、ヲタクの皆さんをひきつける「萌え」要素もない。

LFOと呼ばれるロボットどうしの戦闘シーンも少ないので、メカニックおたくや軍事おたくの皆さんをひきつける要素もない。これでは1年間引っ張っても周辺ビジネスも含めてヒットする要因がどこにもない。

最近のロボットモノでは、そういう意味で「やおい」系ファンに意識的に的を絞った『ガンダムSEED Destiny』の方がビジネスとして成功するのは当然といえば当然だ。

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2006/03/12

富野喜幸『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』

■富野喜幸『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』(1982年)を観た。これでファースト・ガンダム劇場版三部作を観終え、ようやく一連のガンダムシリーズを語るための出発点に立てた。本作の劇場公開は公式Webサイトによれば1982/03/13。ちょうど24年前の時間にようやく追いついた。

『機動戦士ガンダムSEED』総集編DVDの3枚目がどれだけ多くをファーストの『機動戦士ガンダム』に負っているかも『めぐりあい宇宙(そら)編』を観て初めて分かった。「宇宙」と書いて「そら」と読ませるという引用の下らなさには苦笑するしかないが、ソーラ・レイと呼ばれる巨大砲や、ララァの搭乗するエルメスから発射される無数のビットがガンダムを四方八方から狙撃するシーケンス、両腕、片脚を失ったガンダムなど。

戦闘モノのアニメーションはどれも分かりやすい二元論を共通する構造として持っているが、ファーストと『SEED』の共通点は普通の人間/特殊能力をもつ人間という二元論だ。特殊能力をもつ人間はファーストでは「ニュータイプ」、『SEED』では「コーディネイター」と呼ばれるが、前者は人間が環境に適応した結果であるという一種の「自然的」な進化論なのに対して、後者は遺伝子操作によるものであるという明確な「人為的」原因が与えられている。

ファーストと『SEED』で決定的に異なるのは善悪の二元論のもつ構造だろう。『SEED』では普通の人間/特殊能力をもつ人間という二元論が善悪の二元論に重なっていてより分かりやすい。ファーストでは物語のものもがジオンと地球軍の停戦で終わり、「敗北」するのがジオン軍の一部分である。しかもララァという「ニュータイプ」は両軍を架橋する役割さえ果たす。

『SEED』で一見ララァと同じ位置にある、やはり特殊能力をもつ「コーディネイター」ラクス・クラインは、『SEED』におけるジオン軍であるザフト軍に明確に反旗をひるがえすことで、普通の人間/特殊能力をもつ人間の二元論が善悪の二元論にぴったり重なる構造を象徴する。その結果『SEED』は「戦争を終わらせるためには悪を滅ぼすしかない」という非常に単純な勧善懲悪の物語になってしまっている。物語が両軍殲滅の状態で虚無感とともに終わるのもそのためだ。

対してファーストは「ニュータイプ」がむしろ人類の未来を象徴し、地球連邦軍もジオン軍も人類の未来のために戦争をしているのではないかという可能性を残している。その結果として物語は休戦協定で終わり、未来への希望が残されている。

どちらにしても単なるロボット戦闘モノなのだが、より複雑な二元論の構造をもつファーストが単純に「優れている」と言えないのは、戦争が結局は善悪二元論の上にしか存立しないことを僕らがよく知っているからだろう。自由のための戦争が純粋な善であると信じている国が、僕らがよく知っている同盟国だからだ。あの国の世界観はどちらかと言えば『SEED』の単純な勧善懲悪の世界に近く、僕らにとってはリアリティーがある。

ララァの声を聴いた瞬間に、藩恵子だ、と分かった僕はさすが『1000年女王』ファン。ところがセイラ・マス役の声優・井上遥さんは3年前に癌で亡くなっているらしい。


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2006/03/11

富野喜幸『機動戦士ガンダムⅡ・哀戦士編』

■アニメーションのネタばかりで申し訳ないが『機動戦士ガンダムⅡ・哀戦士編』(1981年)をようやく観終わった。先日も書いたように僕はリアルタイムではガンダムを観ていない。同級生はモビルスーツのプラモデルに夢中だったが、男の子向けのロボット戦闘モノというだけで全く興味が持てなかったからだ。

これで劇場版の2本を観たわけだが、守るべきもののために戦うという戦争正当化のイデオロギーは、少年と戦闘ロボットの組み合わせの元祖とでもいうべきこの初代『機動戦士ガンダム』ですでに決定的に根づいていたということだ。

ただ『新世紀エヴァンゲリオン』や、やや質は落ちるが『交響詩篇エウレカセブン』も含め、初代『機動戦士ガンダム』を観ずにその後の少年+ロボット戦闘モノを語るわけにもいかないので、純粋な勉強のために『機動戦士ガンダムIII・めぐりあい宇宙編』も続けて観ることにしたい。もう一つ、以前読者の方に勧めて頂いた『∀(ターンエー)ガンダム』を観るための予備知識としても、である。

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2006/03/09

『機動戦士ガンダムSEED』とパダのサードアルバムの関係

■一昨日、元S.E.Sのパダが今年に入ってからリリースした3枚目のソロアルバムと、その中の1曲『Find The Way』のプロモーションビデオについて書いた。そしてこの『Find The Way』という曲について昨日ちょっと驚かされる偶然の出来事があった。

実は先週末にTSUTAYAで『機動戦士ガンダムSEED』の総集編DVDの3枚目『機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディション完結編 鳴動の宇宙』を借りていた。先々週くらいに同作の1枚目を借りて観て、戦闘シーン中心でややお子様向けの内容だったので2枚目は観るまでもないだろうと、2枚目をとばして3枚目を借りてきていたのだ。

この『完結編 鳴動の宇宙』もやはり予想にたがわず、いまどきのお子様向けで深みのない、ただ戦闘シーンの強度だけで強引に観る者をひきこむ種類の作品だったのだが、核兵器の乱用で廃墟と化した終戦後の宇宙空間のラストシーンに静かに流れてきたのが、何と中島美嘉が歌うオリジナルの『Find The Way』だったのだ。つまりパダのサード・ソロアルバムに収録され、プロモーションビデオにもなっている『Find The Way』は韓国でも人気の中島美嘉のカバーだったのである。

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2006/03/06

『王立宇宙軍 オネアミスの翼』

■さて今回は『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)についてである。ガイナックスの公式Webサイトによれば『新世紀エヴァンゲリオン』を制作したガイナックスが初めて制作し、バンダイが映像事業に進出した最初の作品とのことだ。Wikiぺディアの『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の項によれば、そもそもこの『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を作るためにガイナックスが結成されたということのようである。

アニメーションに興味のない方に前もって書いておくと、この作品は題名だけを読むとよくありがちな「宇宙戦争もの」で、ガンダムよろしく近未来の戦闘兵器がたくさん登場してドンパチ戦争をやるのだろうと勘違いされるかもしれない。

しかしその先入観はまったくの間違いで、実際には非常に地味で淡々とした映画である。かえってハリウッドの『マトリックス』を代表とするSFXものの派手なアクションが連続するような映画が好きな人にとっては、かなり退屈な映画かもしれない。どちらかと言えば日本の映画監督で言えば市川準や相米慎二に近く、とても洗練されたフレーミングとカット割りになっている。決して井筒監督のような情熱的な演出にはなっていない、かなり精神的に「大人」な人たち向けのアニメーションである。

ただ、たしかにガンダムなどの「戦闘もの」好きが思わずうなってしまうような、スピード感あふれる空中戦闘シーンはラスト近くに用意されている。この作品が作られた当時、作画監督の庵野秀明(『新世紀エヴァンゲリオン』や『トップをねらえ!』の監督)はまだ20代だったわけだが、そのアニメーターとしての天才的な才能が存分に生かされている。

映画でいう「引きの絵」、つまり広大な風景の静止画を見せるカットは、一つひとつがまるで写真のように写実的に丁寧に描かれている。また、アニメーションにおける特殊効果的な表現も随所に見ることができて、絵の美しさに見惚れるだけでもこの『王立宇宙軍 オネアミスの翼』はじゅうぶん観る価値がある。しかも、さほど劇中では目立たないが、音楽監督が坂本龍一というところもぜいたくなアニメーションである。

この作品はそういうわけで、アニメーションというよりは一本の「映画」と呼びたくなる。宮崎駿作品に匹敵する、というよりむしろ、アニメーションとしての作画品質の高さは宮崎作品を軽々と超えている。

ただし本作品が商業的に大失敗に終わった理由もよくわかる。その最大の理由は脚本にある。もちろん僕は本作品の脚本はこのままの状態が最良だと考える。商業的な成功をねらうならいくらでも別の書き方ができたはずだが、この作品を作った人々はあえてあざとく商業的な成功をねらうような内容を避けたに違いない。

商業的に成功させようと思えば、たとえば主人公の宇宙飛行士と、熱心な信者である少女との出会いと別れをロマンティックに書き直し、恋愛映画として盛り上げることはいくらでもできる。主人公を狙う暗殺者が、あれほど間抜けな暗殺者一人しかいないというのも、書き直せばいくらでもハラハラドキドキのアクション映画にできる。

Wikipediaによれば、宮崎駿はこの作品について「主人公ら以外の人物の苦労や成功を描いていないことを批判している」らしいが、本当であれば実に宮崎氏らしいコメントだ。しかしこれは小津安二郎の映画に「人物の苦労を描け」と言っているのと同じくらいナンセンスなコメントである。『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は、宮崎駿が言っているような脚本にもできたところを、あえて抑制の効いた、野田高梧脚本のような洗練を狙っている。本当に宮崎駿は何も分かっていない。というより思い込みが激しい。

脚本以外にも、たとえば主人公の声優を森本レオではなく、もっと声にメリハリと表情のある声優を使うこともできる。個々のカットのフレーミングにしても、もっと「カメラを動かす」ことができる。できることは何でもやるという浅ましさは『王立宇宙軍 オネアミスの翼』にない。

極限までストイックでありながら、表現技法は画面からあふれ出るほどリッチである。そのふれ幅こそが、『トップをねらえ!』のような極限までにあざといパロディーも可能にしているのだし、『新世紀エヴァンゲリオン』のようなほとんど破綻しかかった作品をぎりぎりのところで作品として成立させることも可能にしている。宮崎駿から見たときのGAINAXの「恐るべき子供」としての資質は、全共闘世代的な目的論から自由なこの振幅ではないだろうか。


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2006/03/05

『ぼくの地球を守って』OVA総集編

■さて、例によって「アニメーション、漫画嫌いの僕が、日本が世界に誇るサブカルチャーであるアニメを見よう!」キャンペーンの続きである。今回ご報告すべきは2作。『王立宇宙軍 オネアミスの翼』、つまり『新世紀エヴァンゲリオン』のGAINAXが初めて制作した作品。そしてなぜか「ぼくたま」、『ぼくの地球を守って』である。ただしOVAの総集編『総集編完全版~亜莉子から輪くんへ』でダイジェストを観たにすぎないが。

『王立宇宙軍 オネアミスの翼』については後日ゆっくり書くとして、今回はなぜ「ぼく球」なのかの説明をしなければならない。アニメを見ようキャンペーンのために、いままで寄りつくことのなかったTSUTAYAのアニメコーナーを何度もおとずれるようになったわけだが、『ぼくの地球を守って』のOVAが目に止まってしまったのだ。目に止まるからにはすでに僕はこのアニメ、というより白泉社から発売されている日渡早紀原作のこの漫画の題名を知っていなければならない。

ではいつ知ったのかというと、TSUTAYAでそのVHSビデオカセットを見た瞬間に「覚醒」したのだ。僕は自分が『ぼくの地球を守って』という固有名を知っていることを思い出した。しかしこの固有名を知ったのは僕がこうして地球に「転生」する前、月にいた前世のころの話ではない。残念ながら僕は一度も「転生」せず、三十数年前に地球に生まれて平々凡々たる会社員をやっている始末だ。

TSUTAYAでの「覚醒」によって僕が送り返されたのは、ほんの十数年前、杉並区の永福町というところに大学生としてひとり暮らしをしていたころである。いまとなっては信じられないことだが、僕はどうやらそのころ日本でいちばん偏差値の高い大学の学生だったらしいのだ。そしていまではまともに聞き取れないフランス語の講義さえ受けていたという。それらもすべて、まるで夢の中のように遠くかすんでしまっている。

僕の所属する学科の研究室にはちょっと美少年タイプの助手さんがいて(以前にもこの日記に登場していただいたが)、その助手さんが『ぼくの地球を守って』に完全にハマっていたのだ。研究室の壁に勝手に個人的な趣味で『ぼくの地球を守って』のポスターを貼っていたくらいだ。

どおりで『総集編完全版~亜莉子から輪くんへ』の発売は1995年、総集編のもととなるOVAの発売は1993年である。十数年前にふっと動き始めた僕の右手が、いまごろになってようやくTSUTAYAの棚にあったVHSビデオに届いたというわけだ。

でも、あの夢の中のようなころのことに、いつまでもこだわっていても仕方ない。「ラズロ」と「キャー」が待っていると思って駆け込んでも、そこには虚しい部屋があるだけ。ただ、壁には天井までとどく「木蓮」の肖像がある。僕は「木蓮」の歌声によって「地球」へ帰って来なければならない。あそこにあるのは僕のむくろだけで、僕は平々凡々たる会社員にすぎないのだから。「九年」どころか、あれからもう十年以上も経っているのだ。しかしそれでも僕はいまだに『エクリチュールと差異(上)』を読んでいる。読み直している。「木蓮」の最期の言葉を思い出そう。

「私たちは みんな 未来へ・・・
未来へ 還るの

みんな 未来へ 還っていくんだわ

あなたが 懐かしいのも
こんなに 懐かしいのも
きっと また 未来で 出会えるからなのね

約束よ
決して自ら 命を 絶たないで
お願い・・・」

(「木蓮」最期の台詞より)

そうすれば、きっと僕は未来へと還っていくことができる。ところで、僕を呼び戻し、再び呼ぶ歌声は、僕の場合いったい誰の歌声なのだろうか...。

ちなみにビデオのクレジットで初めて知ったのだが、アニメ版の音楽は溝口肇担当。主題歌の作曲は彼を夫とする菅野よう子。ということは『天空のエスカフローネ』もそのうち観る必要があるということか。

【参考Webサイト】「竹の歌が聞こえる」


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2006/02/25

エヴァの萌芽としての『トップをねらえ!』

■先日『トップをねらえ!』の第1話、第2話について、GAINAXの歴史を知るためのお勉強としてのみ鑑賞に値すると書いたところ、以前『少女革命ウテナ』劇場版を推薦して頂いた読者の方から即座にメールが届いた。『トップをねらえ!』は第5話、第6話で「化ける」のでぜひ観てほしいという内容だ。この庵野監督作品がカルト的人気を誇るのも、ラストの2話によるものであるとのこと。それでは、ということで残りの第3話から最終話の第6話までをDVDで観てみた。

まいった。

まいった、としか言いようがない完成度だ。『新世紀エヴァンゲリオン』のような作品は、庵野監督から生まれるべくして生まれたのだということが理解できた。

まず脚本については、光速に近い速度で宇宙旅行することによって地球上と時間の経過に差が生じるという、アインシュタインの相対性理論の「浦島効果」をモチーフに、非常にドラマティックな展開を生み出している。最終話、主人公のノリコが地球の表面に見出した光のサインを目にしたとき、思わずこちらも涙を落としそうになってしまう。このラストシーンを見るだけでも、『トップをねらえ!』のDVD3枚を観る価値はある。

そして演出だが、9年間前『新世紀エヴァンゲリオン』を観たとき、僕はエレベータの中でのシンジとアスカの長い沈黙のシーンについて書いた。『トップをねらえ!』の最終話についても同じように演出技術の巧妙さについて書くことができる。

最終話がいきなりモノクロで始まり、ラスト近くまで一貫してモノクロで描かれる。形式こそが脚本に書かれた物語のカタルシスを保証するものであることを、『新世紀エヴァンゲリオン』の10年近く前にすでに庵野監督は表現してしまっていたのだ。と言うより、『新世紀エヴァンゲリオン』の技法や着想のすべてが、すでに『トップをねらえ!』に存在していたと言っても言い過ぎではない。

数十億体におよぶグロテスクな宇宙生物の銀河系への襲来という、通常の想像力を超えた物理的なスケールは、『アルマゲドン』などのB級ハリウッド映画の着想を軽く凌駕している。『新世紀エヴァンゲリオン』では空間的な拡大が行き着くところまで行き着き、ちょうどクラインの壷のように裏返って、少年、少女たちの心理的な内面に還ってきたというべきではないか。

『新世紀エヴァンゲリオン』における使徒や、巨大な綾波レイの上半身や、地球の最後は、『トップをねらえ!』におけるように地球の「外部」から襲ってくる存在ではもはやなく、登場人物たちのいわば心象風景のようなものと化している。『トップをねらえ!』では依然として明確な、地球とそれ以外という二項対立、人類を守るものたちと、人類を脅かすものたちという二項対立は、その最終話で「裏返し」になる極限まですでに行き着いてしまっていたのだ。

『少女革命ウテナ』同様、『トップをねらえ!』も最初の3分の1の部分はアニメ嫌いにとって少々つらいものがあるが、そこを過ぎるととんでもない表現が展開される。やはり日本が世界に誇るサブカルチャーをあなどってはいけない。


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2006/02/22

庵野秀明『トップをねらえ!』

■まだアニメーション鑑賞強化月間が続いているのだが、昨日、今日と1988年のGAINAX作品『トップをねらえ!』のDVD第一巻を観た。収録されているのは第1話、第2話と科学講座の第1回、第2回である。ご存知のようにこの作品は『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が監督をしている。

詳しくはWikipediaの『トップをねらえ!』の項を参照して頂きたい。とにかくパロディのかたまりのような作品で、GAINAXの歴史を知るためのお勉強としての鑑賞にのみ値する。

主役のタカヤ・ノリコの声優がかの有名な日高のり子だったり、オープニングテーマとエンディングテーマをかのノリピーこと酒井法子が歌っていたり、かなりメジャーを意識した作品であるにもかかわらず、やっぱりマイナーに終わってしまった、ということがよくわかる。

Wikipediaの『トップをねらえ!』の項によれば日高のり子は当時まだ声優としては駆け出しで、本作をきっかけにブレイクしたとあるが、「日高のり子」の項によれば1985~87年にかけてすでに『タッチ』のヒロイン・浅倉南役を演じているので、1988年当時はすでに声優としてはかなり知名度があったと考えるべきだろう。

『トップをねらえ!』の前にGAINAXによって作られた『王立宇宙軍~オネアミスの翼』のDVDも借りてあるので、今週は言ってみれば『新世紀エヴァンゲリオン』のルーツをさぐれ!GAINAX週間、である。いったい僕は何がしたいのだろうか。


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2006/02/19

「第七夜 永遠の世界エルハザード」

■ちょっと魔が差して『神秘の世界エルハザード』OVA(オリジナル・ヴィデオ・アニメーション)版を最後の「第七夜 永遠の世界エルハザード」まで観てしまった。第七「話」ではなく第七「夜」になっているのは、主な舞台であるエルハザードという名前の異界がアラブ風の味付けで『千夜一夜物語』に引っかけてあるのだろう。

こうして最後まで観てみると、イフリータという登場人物に対して、小学生時代の僕が松本零士原作『1000年女王』の雪野弥生に対して抱いたのと似た、懐かしい感情を抱いてしまうのは、やはり僕がアニおた(アニメーションおたく)になる素質を持っているからなのだろうか。

感情を持たない兵器であるイフリータに水原誠が「思い出」を与え、それによってイフリータが一万年の時を越えて水原誠をエルハザードに送り返すという、タイムマシン・パラドックスを完全に無視した設定も、最後にイフリータの視点から見た高校の夜明けの風景を描かれた日にはどうでもよくなってくる。

『交響詩篇エウレカセブン』への不満から始まったアニメーションの試視聴が、実際には抜けられない迷路に入りつつあるのかもしれないが、まあそれもいい。大学生時代のある時期から、諸事情あってAMラジオを聴きながらでなければ眠れなくなった。そのため声優ラジオはイヤでも耳に入ってくることになり、観たことがなくても『エルハザード』や『天地無用』『サクラ大戦』といった固有名詞にはなじみがある。

どこへ戻っていっているのか知らないが、たぶんどこにもない土地に、こうして戻っていっているのだろう。


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劇場版『機動戦士ガンダム』(1981年)

■『ターンAガンダム』を見る以前の問題として、やはり初代の『ガンダム』を見ておく必要があるだろうと思い、音声部分をデジタルリマスタリングしてある1981年劇場版『機動戦士ガンダム』を観た。139分もの長尺だったが、TV版の再編集ということもあるせいか、中だるみのない、最後まで一気に見せる展開だった。

僕の年齢からするとリアルタイムで熱狂していてもおかしくないのだが、初代のガンダムをまともに見るのは実はこれが初体験だ。神戸市にある某6年制の進学校で、ともにパソコン部を創設した当時の同級生たちは、当然のごとくモビルスーツに熱中していたのだが、僕はアニメーションは小学生時代の松本零士作品で「卒業」という感じで、もっぱらビルボードのヒットチャートにはまっていた。

ドラマを見せるシーケンスのワンカット、ワンカットに、いくつも印象的なものがあった。たとえば地球でようやく再会を果たせたにもかかわらず、戦士としてホワイトベースにもどっていくアムロを見送り、その場にくずおれるアムロの母親を俯瞰するカットなどは美しい。大気圏突入のシーケンスは『ガンダムSEED』に至るまで反復されているということが分かったし、とにかく原点・起源を知るという意味で勉強になった。

『哀・戦士編』や『めぐりあい宇宙編』では違ってくるのかもしれないが、設定として地球群=「正義」、独裁を目論むジオン軍=「悪」という単純な二項対立は、結局「正義のための戦争」を正当化することになっているわけで、その点では戦闘シーンのかっこよさを楽しむロボット戦闘ものの域を出ていない。

アムロ・レイが古谷徹、マチルダ・アジャンが戸田恵子(そういえばテレビドラマ版の『電車男』でマチルダのフィギアを握りしめる伊藤君が母親役の戸田恵子に突然声をかけられて「本物そっくり」とつぶやく台詞があった)、アムロの母親役に池田昌子(メーテル役の声優)、ミライ・ヤシマにいたっては白石冬美という、往年の名声優たちの夢の競演が時代を感じさせる。

それにしても、円広志作曲のエンディング・テーマをやしきたかじんが歌っているというのは、ちょっとイケてないのではないか。『銀河鉄道999』はゴダイゴみたいなバタくさいミュージシャンを使っているんだから。


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2006/02/17

オリコン調査「ハリウッド映画化して欲しいマンガ」

■今日、Yahoo!JAPANのニュースを見ていたら、オリコンが中学生から40代までの男女1000人に、ハリウッドで映画化して欲しいマンガは何?というアンケートをとった結果が紹介されていた。とっても意外だったのは、女性ランクの第5位に『銀河鉄道999』がランクインしていたことだ。

『銀河鉄道999』みたいな典型的なマザコン系マンガがどうして女性の第5位なんていう高ランクに入っているのかよく分からない。メーテルに憧れる女性なんていないと思うので、あと、考えられるとすれば、ショタコン女性が星野鉄郎に「萌え」たりするくらいか。不思議だ。


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2006/02/14

モダンな『十二国記』とポストモダンな『エルハザード』

■前回につづいて清濁併せ呑む覚悟でのアニメーション鑑賞記である。今回はなぜか『神秘の世界エルハザード』(OVA版)とアニメ版『十二国記』の2本。意図的に類似した作品を借りてきたわけではなく、結果的に似たような設定の作品を2本つづけて見ることになった。

この2作に共通した設定とは、ごくふつうの高校生がある日突然、同級生とともに何の脈絡もなくどこか知らない世界に連れ去られてしまい、主人公がその世界で非常に高貴な身分の人物であることになってしまう、という内容である。

結論から言えば、僕としては物語構造の面白さの点で、断然『神秘の世界エルハザード』の方に軍配をあげたい。

アニメ版『十二国記』は言うまでもなく小野不由美の長編ファンタジー小説が原作のNHK制作のアニメーションだ。主人公はいわゆる優等生タイプで、実は周囲の同級生からあまり快く思われていないという女子高生の中嶋優子。彼女がある日突然、異界からの使者である景麒に連れ去られるという物語。

小野不由美の原作は、いたって真面目にこの十二の国からなる中国風の道具立ての異界を描くのだが、今さらここまで真面目にオリエンタル趣味のファンタジーをやられたのでは、受容者としてはほとんど笑うしかないという感じになってしまう。

十二国とは、四大国の慶東国、範西国、奏南国、柳北国と、四州国の雁州国、才州国、巧州国、恭州国、四極国の戴極国、漣極国、舜極国、芳極国からなり、蝕が起こって海客がやってくると災難が続くとか、この手の独特の作品世界を大真面目で「構築」されてしまうと、どうもご苦労様としか言いようがなくなってしまうのだ。

まさにいま「構築」という言葉を使ったように、僕らが生きている世界と同じような社会的複雑さや制度的な緻密さをもった世界を、一生懸命、真面目にもう一つ作り上げたところで、それが文学として、フィクションとして、文学でなければ描けないもの、フィクションでなければ表現できないものを表現したことになるだろうか。そこにできあがるのは単に、僕らが生きているこの世界の、質の悪いコピーでしかない。そんなことに想像力を使って創作家として意味があるとは、残念ながら僕には思えない。

それに対して『神秘の世界エルハザード』の方では、関西弁で美男子の高校生、水原誠がエルハザードという名前の異界に飛ばされてしまう(こちらは中国風ではなくアラブ風の舞台装置)。そして、エルハザードのロシュタリアという王国の王女ヴェーナスの妹ファトラにそっくりであるという理由から、ファトラになりすますよう強要されるという展開になる。

ここですでに男子高校生が無理やり王女の妹の身代わりにされてしまうという、トランスジェンダーの「ひねり」が加えられている。この点だけでも『十二国記』より物語として出来がいい。しかもこの妹ファトラには愛人の少女アレーレがいるという、少女同性愛の話にもなっているという破綻ぶりである。

そして十二国での中嶋優子や、その同級生で、異界では優子と対立することになる杉本優香が、クソ真面目に戦い、苦悩するのに対し、エルハザードでの水原誠や、その同級生で、エルハザードでは誠と対立することになる陣内克彦、そして教師である藤沢真理(まさみち)は、いたってお気楽で能天気に、あるいはとんでもない自己陶酔の醜態をさらしつつ、ドタバタの対決劇を演じる。

十二国記の登場人物はそれぞれ真面目に悩み、真面目に生活し、真面目に戦って、徹底して自己同一性(自分であること)を追求し、目的論的・終末論的で、きわめて「近代的」な生き方をするのに対して、『エルハザード』の登場人物は真面目すぎて滑稽で、自己同一性を追求しすぎてつねに自分自身からズレていて、現代を生きる僕らに近い、きわめて「ポストモダン」な振舞いかたをする。

十二国記のようなガチガチでモダンな(語の正しい意味での)教養小説風ファンタジーか、『神秘の世界エルハザード』のような差異と戯れのポストモダンなスラップスティック・ファンタジーか、どちらをとるかは好きずきだけれど、どちらがより創造的かといえば、やはり『神秘の世界エルハザード』であることに間違いはない。


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2006/02/12

『最終兵器彼女』『機動戦艦ナデシコ』『ガンダムSEED』『ああっ女神さまっ』

■先日も書いたように僕の今年の抱負の一つは、アニメーション嫌いを克服して、サブカルチャーとしての最近の日本アニメーションをしっかりフォローすることでだ。と言いながら、小学生の頃は松本零士作品と『幻魔大戦』にどっぷり耽溺していたのだから、アニメーションに溺れる素質は十分に持ち合わせている。

もちろん『少女革命ウテナ』や『フリクリ』など、まともな批評に耐えうる作品はもちろんのこと、客観的な評価とは無関係に、清濁併せ呑む覚悟で様々な作品を見なければということで、ブロードバンドテレビ、レンタルDVDを含め、節操なく見始めている。

USEN&楽天グループが運営しているShowTimeというブロードバンド・テレビのWebサイトでは、第一回だけ無料で視聴できるアニメーション作品がいくつか公開されている。そこで見てみたのが『最終兵器彼女』の第一回、『舞-乙HiME』の第一回、『D.C.~ダ・カーポ~』の第一回。

『D.C.~ダ・カーポ~』は「萌え系ハーレムもの」とでも表現すればいいのか、ちょっとついていけないので第一回で十分。『舞-乙HiME』は、これもよくありがちな、特殊能力を持った少女たちの戦闘ものだが、戦闘描写が痛快でメカデザインも良いので、無料ならもう少し見てみたい。

『最終兵器彼女』は平凡すぎる日常が突然血塗られた戦場と化す、考え方によっては日本人にとってもリアルな設定が、「戦闘機械化する彼女」という隠喩と並行関係になっているアイデアが興味深かった。時間があれば第二回以降も見てみたいが、このまま単なる「大きな陰謀が明かされ、地球平和のために立ち向かう」式の物語に終わるなら見る価値はなさそう。

また、有料であっても1回あたり105円なら一度見ておこうと思って見たのが、タイトルからして『宇宙戦艦ヤマト』のパロディであることがとっても分かりやすい『機動戦艦ナデシコ』だが、第一回を見る限りではもう十分という気がした。しかし僕でも題名を知っていたほどヒットした作品なので、最後まで見ればそれなりに楽しめるメタフィクション的な要素があるのかもしれない。

そしてレンタルDVDで見たのが『ターンAガンダム』と見比べるための『ガンダムSEED』と、こちらも題名だけ知っていた『ああっ女神さまっ』。

『ガンダムSEED』は1話ずつ見るのも時間の無駄なので、『機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディション 虚空の戦場』の中ほどまで見た。まだ2話めまでしか見ていない『ターンAガンダム』と比べると、作品世界の格調が数段落ちるが、『交響詩篇エウレカセブン』と同様、お子様向けにちょっと大人の事情の複雑さを垣間見せる味つけと(「コーディネイター」のキラ・ヤマトがザフト軍所属の親友アスラン・ザラと戦うことに苦悩したり、フレイ・アルスターが地球連合軍に志願するあたり)、単純にカッコいいロボットものとしては楽しめるのだろう。

ところで、きっと女性の同人誌作家はキラ・ヤマトとアスラン・ザラの同性愛モノを描いているに違いない。インターネットで検索して確認しなくたってわかる。賭けてもいい。

そして『ああっ女神さまっ』の方は、題名だけから想像して宇宙ファンタジー系の作品なのかと思ったら、ただの『奥様は魔女』の焼き直しだった。きわめて従順な性格ながら特殊能力を持ってベルダンディーが森里螢一のピンチを救うというのは、非常に典型的な男に都合のよいヒロイン像の反復だ。

このまま本当に単なる『奥様は魔女』の焼き直しで終わるなら見る価値無しだが、こちらも僕でさえ題名を知っているほどヒットしているのだから、何かメタフィクション的な展開があるのかもしれない。でも第3回で十分。もう見る気はしない。

ただ、こうしてこきおろしているからといって、この種のアニメーション作品に僕が愛情のかけらもないわけではない。映画と同じようにB級作品にはB級作品なりの楽しみ方がある。今日もTSUTAYAに行って今まで立ち入ることがほとんどなかったアニメーションのコーナーを歩き回ると、この種のB級と思われる作品のDVDが無数に存在する。

今なお再生産され続けるこれらの「もう一つの現実たち」がこれほどの数だけ存在するのなら、もしかすると、「現実が夢で、夢が現実だ」と意図的に思い違いをし続けたまま、死ぬまで生き続けることさえできるのではないかとさえ思えてくる。酒もギャンブルも嫌いな人間にとって、低コストで健康被害ない現実逃避の手段として、B級アニメーションは悪くないかもしれない。


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2006/01/22

サンライズ製作のアニメーション『プラネテス』

■先日『新世紀エヴァンゲリオン』に比肩するアニメーション作品を教えてほしいと呼びかけたところ、とある読者の方から推薦のあった作品『プラネテス』のDVDを近所のTSUTAYAから借りてきてパソコンのDVDドライブで観てみた。どうやらNHKで放送されていたサンライズ制作の作品らしい。

推薦して頂いた読者の方にはたいへん申し訳ないのだが、『少女革命ウテナ』やガイナックス作品の『フリクリ』など榎戸洋司脚本作品と比較すると、その凡庸さは際立ってしまう。おそらくこの読者の方は、僕のようなアニメーションになじみのない会社員にとっては『プラネテス』のような作品がいちばん「オタ臭」もなく、入門作品として最適だろうという考えから紹介して頂いたのだと思う。本当はもっとマニアックな作品をたくさん観ていらっしゃるのだろうが、その中から僕にとっていちばん入りやすいものをお勧め頂いたのだと想像する。

たしかに僕自身が勤務先のアニメーションにまったく関心のない同僚から、「最近のアニメでオタクっぽくないやつで何か面白いのない?」とたずねられたら、迷わずこの『プラネテス』を勧めるだろう。『プラネテス』をひとことで言うと、SFアニメに姿を借りた典型的なサラリーマン悲哀劇である。

主人公たちはとある会社組織の中で最も泥臭い、宇宙空間の廃棄物回収という肉体労働を行う部署で働いている窓際族だ。そこへ理想に燃えた元気のいい女性新入社員が入社してきて、日々の仕事に流されているだけの先輩社員たちと対立しながらも成長していくという、絵に描いたような「サラリーマンもの」なのだ(TVドラマの『ショムニ』を見たことがないが、たぶん同じような感じだと想像する)。

もし僕が典型的なサラリーマンであれば『プラネテス』に熱中したかもしれないが、残念ながら僕が見たかったのは『少女革命ウテナ』や『フリクリ』のように、アニメーションでなければできない表現を追及したアニメーションらしいアニメーション作品なのである。

『プラネテス』はその物語を抽出してコミックにもできるし、お金をかければ実写ドラマにもできる。70年後という舞台設定を変えれば若手社員が喜んで読みそうな高杉良風の小説にもなる。つまりアニメーションである必然性はまったくなく、アニメーションという表現形態は物語を語るための単なる手段に堕してしまっている。

他方、『少女革命ウテナ』や『フリクリ』は明らかにアニメーションでなければ表現できない表現になっている。これらの作品は文字どおり僕らが見たこともないような「現実」を描いている。『少女革命ウテナ』に登場する巨大壮麗な構造物としての「学園」や、「外の世界」のニセモノである失踪する巨大な宮殿といったものは、そのまま僕らの悪夢に出てきそうなほどの存在感をもって描かれる。そして『フリクリ』はおそらく何重ものメタ・アニメーション、メタ・コミックとしての重層構造をもっている。

小説には小説でしか表現できない「現実」や「実在」といったものがあり、アニメーションにもアニメーションでしか表現できないそれらがある。『新世紀エヴァンゲリオン』が素晴らしい作品だったのは、どこまでいっても終わらない謎解きを許すようなサインがあちこちに散りばめられていたからではなく、アニメーションでしか表現できない「地球大の綾波レイ」や「使徒」などといった、やはり悪夢に出てきそうな「現実」を僕らの目の前に現前させることに成功していたからなのだ。

『プラネテス』の宇宙生活の描写にも確かにリアリティーはあるが、それは単なる「70年後の僕らの退屈な日常生活」でしかない。たまたま近未来を舞台に置いているだけであって、そこに描かれているのは僕らが生きている日常である。その日常では、僕らはかんたんに「理想と現実」といった二項対立を前提し、その相克の中で悩みながら生きているというステレオタイプを当前のこととして受け取って生活している。

しかしその「理想と現実」の二項対立というステレオタイプは、僕らが退屈な日常生活を生き抜くための一つのフィクションに過ぎない。現に僕らは理想を云々する以前に、すでに会社員生活を始めてしまっている。会社員はあたかも追及すべき理想が会社員生活の中に存在するかのようにして、会社員生活に意義があるかのような幻想を、自分自身に対して作り出しているのだ。

そんな会社員である僕にとって、本当にリアルなもの、現実的なものとは、「そのものとしてしか存在することができず、それ以外のものとしては存在できないようなもの」のことである。例えば巨大壮麗な「学園」というわけのわからない存在が『少女革命ウテナ』以外にそのようなものとして存在しうるだろうか。少年の頭から生えてくるロボットといったものが『フリクリ』以外にそのようなものとして存在しうるだろうか。

『少女革命ウテナ』でなければ現前させられないような現実、『フリクリ』でなければ現前させられないような現実があるからこそ、これらのアニメーション作品は本当の意味で「リアル」たりえているのだ。


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2006/01/19

劇場版『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』

■次に幾原邦彦監督『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録【劇場版】』(1999年)の方だが、こちらにはもうお手上げといった感じだ。観た後の感じは、舞王城太郎の『阿修羅ガール』や、高橋源一郎が美内すずえの『ガラスの仮面』をパロディーにした小説の読後感と極めて似ている。

メールでこの作品を推薦して頂いた方の言葉どおり、題名だけを見ると『ベルサイユのばら』のような宝塚的世界観のコテコテの少女マンガだという先入観を抱いてしまうが、観終わった後にはこれが完全な誤解であることがわかる。

正直この劇場版の冒頭20分くらいは、「やっぱりこれって女性同性愛の宝塚的世界の貧弱なパロディーじゃないの」という不安を抱かせたのだが、そのまま観つづけていると、「革命」や「王子さま」「薔薇の刻印」「外の世界」といった意味ありげな言葉や役割、小道具、環境が、ほぼ完全に奥行きや深さといったものを持たず、どのような読み込みや解釈も許さない純粋な現前、ソシュールの言語学の概念を借りれば、シニフィエを欠いたシニフィァンであることが分かってくるのだ。

まったく意味づけや奥行きを欠いたまま、すべての舞台装置が、それ自体何だかわからない出口のようなものに向かって、後に残るものを瓦解させながら疾走していく様子、そしてその疾走が女性同性愛描写と、「絶対」「運命」「黙示録」という、またしてもシニフィエを欠いたシニフィアンの連呼とともに廃墟へ突き進んでいく描写は、『少女革命ウテナ』という題名からくるあらゆる事前の想定を裏切った、純粋表層とでも言ったものを見せてくれる。

このような表現はアニメーションでしか表現できないという意味で、たしかにこの作品はアニメーション表現の一つの極北を示している。この作品を観て「何のことだかさっぱりわからん」という感想しか漏らせない人は、すべての芸術作品は何かを表現するために作られているという根本的な誤解をしている人に違いない。

確かにある時代までの芸術は何かを表現するための手段でしかなかったが、いまや映画も、小説も、音楽も、絵画も、それ自体として立ち上がってくる表現になり得ている。それと同じようにこの『少女革命ウテナ』も、何かを表現するための手段に成り下っていない、それ自体で僕らの目の前に立ち上がってくる現前そのものたりえていることは、ただ驚きである。

ネットで調べて分かったのだが、監督の幾原邦彦氏は1964年生まれで『美少女戦士セーラームーン』シリーズのディレクターだ。なるほど。そういえば僕が学生時代、同じ研究室の助手さんはバリバリのシュールレアリズム研究者でありながら(というより、そうであるからこそ)『美少女戦士セーラームーン』にハマっていたことを思い出す。


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『ターンAガンダム』第一話

■先日『新世紀エヴァンゲリオン』を超えるアニメーション作品を教えてほしいと呼びかけたところ、さすが「think or die」の読者は素晴らしい。速攻でさまざまなアドバイスを頂いた。これぞWebサイト筆者冥利に尽きる瞬間である。メールでアドバイス頂いた方々には改めて感謝したい。その中から早速、『ターンAガンダム』第一話をストリーミング放送で、『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999年)をDVDで観た。

『ターンAガンダム』第一話は、推薦していただいた読者の方によれば、ガンダムの生みの親である富野監督が初代ガンダムの後、いくつかの駄作を世に出してしまったことからくる長い鬱状態を脱した後に完成させたシリーズ最高作とのこと。

第一話「月に吠える」だけを見ると「えっ?これってモビルスーツが出てくるガンダムなの」という感じになる。確かに冒頭、月から地球に舞い降りるシーンはいかにもロボットアニメなのだが、その後の主人公3人をめぐる一連のエピソードは、19世紀のヨーロッパを舞台にした「世界名作劇場」のように堅実な描写である。SF的世界と欧州大河小説的世界のそれぞれが、ある意味ステレオタイプの物語世界にはまりながら、これからどう交錯していくのか。見ごたえのありそうな作品である。


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2006/01/15

『交響詩篇エウレカセブン』の単純な二元論的世界観

■以前から気になっていた『交響詩篇エウレカセブン』というアニメーションをインターネットのストリーミング放送で見た。見たといっても、前半のダイジェスト編と最新回だけだ。気になっていた理由は、どこかでちらっと目にした番組宣伝で、ロボット(という表現が適切なのかどうかわからないが)のデザイン、それに乗り込む戦闘員が少年・少女であること、宣伝に曰く「独特の世界観」を「壮大なスケールで描く」ということなどが『新世紀エヴァンゲリオン』を想起させたからだ。

(もう一つ、「エウレカ」という言葉が、言うまでもなく古代ギリシアの数学者アルキメデスが叫んだという「我、発見せり!」、別の日本語表記では「ユリイカ」であることから、きっと少しインテリぶった設定のアニメーションなのだろうと想像したこともある)

実際に見てみての感想は、単純に失望である。この『交響詩篇エウレカセブン』は確かに多くを『新世紀エヴァンゲリオン』に負っている。ロボット(という表現が適切なのかどうかわからないが)は半分機械、半分生物のような存在であること。主人公の少年が過去にトラウマを抱えていること。その少年が思いを寄せる少女が人間ではないこと。話の途中でその少女の身体が融解して形を失いそうになること。少年が怒りに我を忘れて血みどろの戦闘シーンを演じてしまうこと。などなど、類似点をあげればきりがない。

しかし『新世紀エヴァンゲリオン』との決定的な違いは、『交響詩篇エウレカセブン』が話のはじめから非常にシンプルな二元論に立脚している点だ。『エウレカセブン』では男は女を守るために戦うという、極めて保守的な男性原理/女性原理の二元論が貫いている。また、地球が対立する二つの陣営にわかれて戦っている点もシンプルな二項対立の図式だ。

この2つの二元論的症状だけで、せっかく『新世紀エヴァンゲリオン』が開拓した日本アニメーションのサブカルチャー的極北を、『エウレカセブン』があっさり捨て去ってしまっていることがわかる(同じ角川書店『少年エース』連載なのに)。『エウレカセブン』には、すでに一般大衆のために消費しやすく俗化されてしまったニセの「サブカルチャー」しか存在しない。

この「愛と苦悩の日記」の読者でアニメーションやコミックに詳しい方。どうか『新世紀エヴァンゲリオン』から僕が受けた衝撃を、もう一度体験させてくれるような作品を紹介していただけないだろうか。


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2005/07/18

70年代のRCサクセションと松本零士『INTERSTELLA 5555』

■どうしてそんなものを選んだのか、自分でもよく分からないのだが、三連休のひまつぶしに近所のTSUTAYAでRCサクセションの1970年代のライブ集DVDと、daft punkのミュージックビデオ『INTERSTELLA 5555』を借りて観た。

少し前、FMラジオで初めてRCサクセションの1970年代の名曲「甲州街道はもう秋なのさ」を聴いて以来、ロックバンドになる前の彼らの曲をまとめて聴きたいと思っていた。そこへ『ライブ帝国 RCサクセション 70's』を見つけたわけだが、アコースティックギター二本とウッドベースという特異な編成の、超前衛的ハードフォークのコード進行は、僕らの世代にとって聴いたこともない音であることに違いない。ただ美しいだけの最近のフォークデュオの体験しかない人たちはすべて、本DVD収録の『三番目に大事なもの』『キミかわいいね』を聴くべきである。

そしてdaft punkの『INTERSTELLA 5555』はご承知のとおり、松本零士とフランスのハウスミュージシャンdaft punkのコラボレーションによる約1時間のアニメーション作品だ。久しぶりに松本零士のアニメ作品を画面で観て、涙が止まらなくなってしまった。僕の心に最も訴えかける松本作品のエッセンスは、その女性像だ。

あのつねに憂いを帯びた不自然に長いまつげの切れ長の瞳と、十二頭身の超人的なスタイルの良さ、あまりに非現実的な美しさが、首から提げたお手製のロケットに切り抜いたメーテルの絵をつねに忍ばせていた9~10歳の頃の僕自身を甘い胸苦しさとともに思い出させる。

『INTERSTELLA 5555』ではThe Crescendollsのベーシストが、メーテルであり、クレアであり、千年女王である。松本零士の「最新作」を観たいという望みがかなえられずにいた人たちは、このミュージックDVDに心酔できる。もちろん四畳半シリーズ以来の、星野鉄郎的キャラクターも、ドラマーとして登場し、キャプテンハーロックや『宇宙戦艦ヤマト』の古代進的な正統派ヒーローは、地球に拉致されたThe Crescendollsを救い出す英雄役で登場する。『銀河鉄道999』のあの機関室のイメージや『宇宙戦艦ヤマト』の「ワープ」のイメージなど、松本零士世代にとって涙なくして観れない懐かしいイメージがちりばめられた小品で、前編daft punkの音楽が流れるが、できればアフレコつきでも観たかった佳作である。


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2005/04/02

綾波もアスカもミサトも一児の母

■庵野秀明が日産のテレビCMに出演しているのは『新世紀エヴァンゲリオン』にハマッた世代がもうTIIDAを買うような年齢になっているからということなのかどうかは分からないが、たまたま先週末、例によって寝入りばな耳にイアフォンを入れたまままどろんでいたら、久しぶりに林原めぐみの『Tokyo Boogie Night』を耳にした。

「耳にした」という受身の書き方になるのは、眠れるまでAMラジオのチャンネルをNHK第一から文化放送まで行ったり来たりするのが習慣になっていて、日曜日の深夜は翌朝の出勤に備えて11時半には寝入るようにしているので、昔は11時台だったのに今は0時始まりになった『Tokyo Boogie Night』は本当にたまたま耳にしたのだ。その中で彼女が、エヴァの綾波(彼女自身)もアスカ(宮村優子)もミサト(三石琴乃)もいまやもう一児の母だという意味のことをしゃべっていた。林原めぐみが出産したことは知っていたが、ウィキペディアで調べてみると確かに林原めぐみは2004年6月に女児を出産、宮村優子は2004年9月に女児、『うちくる』のナレーションでも有名な三石琴乃は2000年に結婚して「一女あり」とのことだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』の第壱話が1995年10月放送だというから、もう10年が経っているわけで、オンタイムでは劇場版しか観ていない僕でも1997年からなので8年。それは3人のヒロインの声優がそろって一児の母になっていて何の不思議もないし、庵野秀明が日産のCMに出演して元『エヴァ』ファンの視線をTIIDAに誘導しても不思議はない。社会人になってから『エヴァ』を観た僕にとっても、すでに『エヴァ』は青春の思い出といったこっぱずかしい表現が相応なくらい輪郭のかすんだ遠い過去になりつつあるということなのだろうか。

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1998/09/14

『銀河に吠えろ』以来の緒方恵美の声

■ラジオ番組『銀河に吠えろ』が打ち切りになって以来、緒方恵美の声を聞かないなぁ~と思っていたら、トヨタの新車「ガイア」のCM「家族神話」シリーズでアポロ役をやってる。即座に彼女の声とわかるところはさすがだ。

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