中国の大学で日本アニメは既に単なる日常?
日経ビジネス・オンラインで、非常に面白い連載が始まった。「中国"動漫"新人類」というタイトルで、中国の大学生の生活に、いかに日本の漫画やアニメがふつうのものとして浸透しているか、67歳の中国人の筑波大学名誉教授が取材するというものだ。第一回もとにかくおもしろいので、何も言わずに読んで頂きたい。
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日経ビジネス・オンラインで、非常に面白い連載が始まった。「中国"動漫"新人類」というタイトルで、中国の大学生の生活に、いかに日本の漫画やアニメがふつうのものとして浸透しているか、67歳の中国人の筑波大学名誉教授が取材するというものだ。第一回もとにかくおもしろいので、何も言わずに読んで頂きたい。
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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を映画の日で入場料が1,000円の公開初日、JR京葉線海浜幕張駅前のシネコンプレックス10:20分の回、意外にもそれほど混雑のない劇場でゆったり観ることができた。
新劇場版は全四部作で、今回公開された『:序』はその最初の部分、1995年テレビ東京系で放送されたテレビシリーズでいう「ヤシマ作戦」の成功をクライマックスとし、10年前の劇場版では「最後の使徒」として登場した渚カヲルが、末尾に思わせぶりにちらりと登場して終わる。
エンドロールの後、テレビシリーズでおなじみのあの三石琴乃のナレーションによる次回予告が流れ、第二部の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』では「ヱヴァ6号機」までが登場するらしいことがわかる。次回の『:破』では渚カヲルが物語の鍵を握っているらしい。
繰り返しになるが、今回の『:序』は物語としてはテレビシリーズの「ヤシマ作戦」までを反復しているだけなので、見どころは再構築された映像となる。
随所に活用されたコンピュータグラフィックス技術は、ディズニーアニメのように濫用されることなく、伝統的なセル画による動画表現ときわめてバランスよく使いわけられている。
CGが活用されているのは、大別して二つの目的に抑制されている。幾何学的な構築物の移動シーンと、微妙な透過色を含む繊細で連続的な色彩表現の二つだ。
幾何学的な構築物の移動シーンは、セル画で表現されるとどうしてもカクカクとぎこちない動きになるが、今回の劇場版ではほとんどコンピュータ処理されたなめらかな表現で、とくに「ビルが生えてくる」シーンや、流れ去る背景に利用されているシーンでは異様なリアルさになっている。
「ヤシマ作戦」で殲滅される使徒は、そもそも形状が幾何学的だが、コンピュータの計算によって、おそらく庵野総監督が本当は表現したかったであろう、自由自在かつ瞬時に形状を変える外形がCGの助けを借りて完璧に表現されている。
もう一つの色彩表現だが、セル画では最終的にフイルムに撮影するときの画質を考慮すると、重ねることができる色数が制限されると思われる。しかしCG処理では、ほぼ無限の中間色を透過色として、変質させずにいくらでも重ねることができるようなので、画面に奥行きが出ている。
この色彩表現は暗闇の戦闘描写において、セル画では決して観ることのできない空気感を伝えることに成功している。
しかし、人物描写やエヴァと使徒の接近戦闘シーンは、CGに頼ることなく、ディズニーの不自然になめらかな動画には決して期待できない、日本アニメーションの独壇場であるメリハリの効いた「運動」を完全に表現している。
テレビシリーズとは異なる演出意図で描き変えられているシーンもたくさんあり、ここにはおそらく前回の劇場版から10年を経て、映像作家として成熟した庵野総監督の変化が確実に投影されてる。
そして何より不思議だったのは、映像から伝わるものが明るくポジティブだったということ。
テレビシリーズでは主人公の少年、碇シンジのエヴァに搭乗して闘うことに対する逃避的な態度や、ネルフからの遁走、内向的で鬱屈した精神性が延々と描かれたので、シリーズ前半でさえもかなり閉塞感がただよっていた。
しかし今回の『:序』では、その部分が大幅にカットされており、リズミカルな編集で物語が高速に展開するせいか、人類全体の救済を担う碇シンジと綾波レイ、それを支える上官の葛城ミサトの、やや恥ずかしいくらいのポジティブなエネルギーが伝わってくる。
映画のクライマックス、「ヤシマ作戦」でエヴァ初号機を盾になって守った零号機から、碇シンジが綾波レイを救出する場面の、あの有名な台詞、「笑えばいいと思うよ」のところでは、思わず涙を流してしまった。
10年という時間が庵野総監督を変えたのだろうか。今回の新劇場版『:序』について、僕は観終えた後、多少うつ状態に退行するのはやむをえない覚悟だったのだが、まったく意外にも、劇場を出た後は胸がいっぱいで、エヴァンゲリオンとはこれほど希望に満ちた作品だっただろうか?と自問してしまった。
現実の生活に閉塞感を抱いている人、つまり、かつてのエヴァンゲリオンの典型的な視聴者は、今回の新劇場版から「現実ってそんなに悪くない」という予想外のメッセージをうけとるのではないかと思う。
ただ、このまま第二部の『:破』が同じトーンで進むはずがない。第二部がどれほど破滅的な展開になるか、今から楽しみだ。
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『新世紀エヴァンゲリオン』テレビシリーズを最終話まで見終えた。YouTubeに日本語音声のままアップされているのが奇数話だけなので、残りの偶数話はどうしても有料ストリーミングサイトで観ることになってしまう。
GAINAXが意図的に奇数話だけ残しているのだとすれば、そこそこうまいYouTube活用法だが、本当にGAINAXがやっているのなら、3の倍数話だけ残すくらいのことはするだろう。
ご承知のように、すべての敵を倒した後の最後の2話は、「人類補完計画」と呼ばれる登場人物の内面描写に終始している。これを見ながら、当時「アダルトチルドレン」という言葉が流行したことを思い出した。前米国大統領のビル・クリントンも、自分のことをアダルトチルドレンの一人だと告白したことが、当時話題になったと記憶している。
しかし今となってみれば、アダルトチルドレンも見事につかの間の流行語で、誰も使う人はいなくなった。というより、実は誰しも幼児性をのこしたまま大人になっているのではないか、子供から大人への成長過程に、不連続性を見る発達心理学の考え方そのものが間違っていたのではないか。
子供のころ思っていた三十代後半は、じっさいにそうなってみると驚くほど子供っぽい、というのは、誰しもが思うことだろう。むしろ一つの人格の中に、子供の頃からずっとつながっている無数の線と、大人になってから生まれた無数の線が、並行して走っていて、その束がその人の人格だと考えるのが自然なのかもしれない。
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いかん。気づいたらYouTubeでエヴァンゲリオンTVシリーズの第壱話、第弐話を続けて観てしまっていた。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ...。僕の場合は、何から?
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今ごろ気づいたのだが、夜中0時をまたいで昨晩からNHKFMでアニメーション主題歌の特別番組を放送していたようだ。しかもその司会が水木一郎と緒方恵美ときている。
リクエスト曲がかかりっぱなしで二人はほとんど話さないのだが、ジングルでは二人とも異様なテンションの高さだ。
それにしても『ゲゲゲの鬼太郎』や『ルパンIII世』から『ローゼンメイデン』(僕も題名と登場人物の衣裳を知っているだけで物語は全く知らないのだが)まで、リスナーが完全に島宇宙化していることがわかる。
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都内に引っ越してきていちばん困っているのは、AMラジオがまともに受信できなくなったことだ。それでもこの間の日曜日、ひどい雑音をかいくぐって、久しぶりに『林原めぐみのTokyo Boogie Night』を聴いた。
先日、Yahoo!JAPANのトップページからのリンク先で、今年10年ぶりに劇場公開されるエヴァンゲリオンの新作について、ほとんど何の付加情報もない予告編を見たばかりだったのだが、久しぶりに聞いた『Tokyo Boogie Night』では、偶然にも林原めぐみが2007/09/01公開の『ヱヴェンゲリヲン新劇場版』の第一部のプレスコが終わったという報告をしていた。
プレスコというのはアフレコの反対語で、声優が録音した声にそって、あとから動画をつけることを言う。ただし、林原めぐみの報告によれば、厳密には2007/09/01公開の『ヱヴェンゲリヲン新劇場版』の第一部は、10年前のテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』のダイジェスト版らしく、テレビ版のフィルムを編集した動画に、林原めぐみを含むオリジナルの声優たちがアフレコをして、その声にあてて動画を新たに制作する(プレスコ)という、凝った手順になっているようだ。
すでにテレビ版の物語を知っている人たちも、新しい動画が作られるというだけで十分観る価値がありそうだ。そして10年ぶりのアフレコ、というかプレスコがどんな風になっているのか。
林原めぐみはラジオを聴く限り10年前と驚くほど声は変わっていないが、『トリビアの泉』に声で出演してた緒方恵美の碇シンジの演技はどんなものになっているだろうか。『ウチくる』の派手なナレーションしか聴けなかった三石琴乃の、葛城ミサトはどんな風だろうか。
しかし、もう10年前になるのか。
サラリーマン生活に絶望していた僕にとって、格好の現実逃避の引き金になった『新世紀エヴァンゲリオン』からもう10年。10年たっても僕はいまだにサラリーマン生活というものに希望を抱くことができないでいる。残る人生は、ただ惰性と漸進的忘却のみ、ということなのだろうか。
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昔の話ばかりで申し訳ない。「大川ゼミ」のある天王寺駅まで通う阪和線の中、小学生の頃の僕が毎日読みふけっていたのは、星新一や筒井康隆のショートショートと、平井和正の『幻魔大戦』(当時は角川文庫)だった。
最近、近所の図書館で『幻魔大戦』を探したところ、角川文庫版の蔵書はなく、角川文庫2冊分が1冊ずつにまとまった集英社文庫版の全10巻しかないのが残念だった。角川文庫版のあの官能的な挿絵が好きだったのだが。
今日、偶然、新聞のテレビ欄で見つけてNHKBS2の劇場版アニメ『幻魔大戦』(1983年角川映画)を観た。主人公の東丈の声を古谷徹がやっていたとは知らなかったが、今観るとさすがに荒唐無稽な超能力の物語で退屈する。
キース・エマーソンの音楽は、なにしろ今でもMP3プレイヤーの定番に入れているほど、主題歌の『光の天使』こそ素晴らしいが、戦闘シーンには全く不釣合いに間延びしている。
それでも当時、劇場で観てそれなりに感動したのは、おそらく僕のシスターコンプレックス(現実には僕に姉はいない)のど真ん中を射抜いたからだろう。主人公の東丈を母親代わりに育てた姉が、強姦を連想させる方法で東丈の目の前で幻魔の手先に殺されるという場面に、小学生の頃の僕がのめり込まないわけがない。『銀河鉄道999』のメーテルに夢中になっていたのも、同じシスターコンプレックスのせいだ。
アニメに詳しい人なら大友克洋のキャラクターデザインや、金田伊功の電光の演出などだけでも十分に楽しめるのだろうが、残念ながら今の僕にとっては完全に失われてしまった何ものかの痕跡でしかない。そもそも痕跡とは不在を指し示すものなのだから、それ自身が充実している必要はまったくない。痕跡はそもそも虚しいものなのだ。
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米国では既に視聴者が減りつつある動画アップロードサイト「YouTube」で、庵野秀明作画の『DAICON IV』がアップされているのを見つけた。庵野秀明公式サイトでは音なしで一部分しか公開されていないので、完全版を観たのは初めてなのだが、恥ずかしながら『DAICON IV』のBGMがELOの「Twilight」で、フジテレビ『電車男』のオープニングテーマ自体が『DAICON IV』の引用だったというのを初めて知った。
「板野サーカス」の引用はもちろんだが、ヒロインのバニーガール姿の少女が、サーフボードのように剣の上に乗って空を飛び回り、宙返りを見せているのが、そのまま『交響詩篇エウレカセブン』で引用されているというのも初めて気付いた。
東大生SNSで現役経済学部生の方から、『エウレカセブン』についての周囲の意見として、引用がみえみえでつまらないというメールを頂いたのだが、この『DAICON IV』の引用もそうなのだろう。やはりアニメーションは1970年代から継続してフォローしないと、パロディーの無限連鎖についていけないものなのだと、よくわかった。
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最近すっかり更新を怠っているこの「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」読者なら既にご存知のように、エヴァンゲリオンの新劇場版の製作発表があった。来年夏、再来年春・夏にロードショーされるとのこと。
10年前の劇場版では描かれなかった真実が明かされるという触れ込みだが、明かされるべき真実が存在するということにしてしまうと、エヴァンゲリオンの決定不可能性という魅力が半減してしまいそうな感じもする。
先日、フジテレビ系『トリビアの泉』を観ていたら、副音声の「影のナレータ」に、なんと『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジ役の声優・緒方恵美が登場。久しぶりに緒方恵美の声を聞いたが、こんなに高い声だっけ、という印象。公式サイトによれば、緒方恵美は現在、個人事務所を設立して活躍中とのこと。
当然、新劇場版の声優陣はオリジナル・キャストのままであることを期待する。まさか登場人物が全員、10歳年を食ってるなんてことはないだろうな。『林原めぐみの東京ブギーナイト』を聴いていれば、そのうち新劇場版の製作経過の話が出てくるかもしれないと期待。
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USENのインターネット放送、Gyaoで、おそらく最後であろうと思われるエウレカセブンラリーが始まっている。2006/08/21(月)正午まで、第1話からなんと最終話である第40話までが無料で視聴できるのだ。
http://www.gyao.jp/anime/eurekaseven/
大丈夫、まだあと6日ある。学生の皆さんは夏休みだ。21日までの毎日、たった3時間ずつを『エウレカセブン』のために割くだけで、無料で全話を視聴できる。DVDを一枚ずつ借りても3,000円以上かかることを考えれば、このチャンスを逃す手はない。
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そういえば動画配信サイトShowtimeで『ザンボット3』を観ていたころに、この「愛と苦悩の日記」の読者の方からメールで「金田パース」というものについて教えて頂いた。日本語版のWikipediaの金田 伊功(かなだ よしのり)氏の項をあたって頂ければわかるが、金田氏は宮崎駿監督作品の原画としても有名な人物らしい。
金田パースというのは、遠近法(パースペクティブ)という言葉が入っていることから分かるように、極端に強調された遠近法のことで、ロボットものなどで架空のカメラの手前にあるものをより大きく、奥にあるものをより小さく描くことで、ロボットや戦闘機の動きのダイナミズムをより強調する手法のことを言うようだ。
金田氏は別に「金田ビーム」という戦闘ロボットものに欠かせない表現技法も編み出しているらしく、セルの透過光を利用した、ビーム光線の独特な表現も氏オリジナルのものらしい。こういうところから出発して、金田氏は『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』、『もののけ姫』などで原画を担当する、今や日本アニメ界の重鎮になっているとのことだ。
『ザンボット3』のような、見方によっては「下らないお子様向け合体ロボットアニメ」が、実は今の日本のアニメーションの品質や芸術性を支える確かな職人たちのインキュベーターになっていたということなのだから、「ジャパニメーション」が世界で評価されているからといって、お金をかけて創造性や芸術性ばかりを追求した作品ばかりを製作していたのでは、将来の日本アニメを担うクリエーターが育たなくなってしまう、ということなのかもしれない。
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『ターンAガンダム』と『ガンダムSEED』シリーズの落差について読者の方からメールを頂いた。『ガンダムSEED』については富野氏は単なる原作者としての位置づけでクレジットされているだけで、内容について決定権はまったくないとのことだ。確かに『ガンダムSEED』のクレジットをよく読むと、『ターンAガンダム』などと違って、富野氏は総監督となっておらず、単に原作者でしかない。
また、ガンダムの商品化権はサンライズにたった30万円で買い取られてしまっており、富野氏自身にはガンダムのプラモデルがいくら売れてもお金は入ってこないらしく、『ターンAの癒し』にあった富野氏自身の非常に自虐的なコメント、つまり自分はアニメ製作現場にあっては最底辺の存在だという言葉もうなずける。たしか松本零士氏も同じようなことを言っていた記憶があるが、日本のアニメ業界は創作者が儲からず、サンライズやバンダイ、東映のような企業が潤う仕組みになっているようだ。
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『ニーベルンゲンの歌(上)(下)』(岩波文庫)を読み終えた。そして『ターンAガンダム』全50話をようやく観終えた。なんとか視聴期限の2006/07/27前の週末に間に合った。ドイツ中世騎士物語と富野由悠季に何の関係があるのかと思われるかもしれないが、『ニーベルンゲンの歌』の最後はまさに「女子供」以外は一人残らず戦闘で死んでしまうという、血で血を洗う富野的「皆殺し」状態だ。
もちろん韻文としての格調の高さこそが『ニーベルンゲンの歌』を、ゲーテの『ファウスト』とならぶドイツ文学の金字塔たらしめているのだけれど、物語の中身は、クリエムヒルト姫が家臣に夫のジーフリートを暗殺された仇討ちのため、あえて他国の王子と再婚し、その国の勇士と軍勢を利用するが、最後には殺められるという、アニメのようなお話である。
古典文学のこういう意外な楽しみを、この年齢になるまで味わわずにきたのはもったいないということで、『とりかえばや物語』の中村真一郎現代語訳版も読んで見ることにした。
じゃあ『ターンAガンダム』は最後まで観ていったいどうだったのかと言えば、感想としては先日書いたとおり、主人公の少年ロラン・セアックとターンAガンダムの仇敵として、ギム・ギンガナムといういかにも漫画的な登場人物と「ターンXガンダム」が登場して以降は、ほぼ観るに値しない。
たしかに最終話の最後の最後に、月と地球が二度と「黒歴史」と呼ばれる悲惨な戦争の歴史をくり返さないための、究極の秘策がタネ明かしされるというどんでん返しがあるのだが、明らかに尺が足りなかったようで、最終話に近づくにつれて物語の進展がどんどんあわただしくなり、じっくり楽しむどころでなくなってしまう。
ターンAガンダムとターンXガンダムが相討ちして「繭」になった(本作をご覧でない方には何のことかさっぱり分からない表現で申しわけない)、その後日談の部分は、2話分くらいの時間をかけて、たっぷりと物語ってもらいたかった。
それにしても、こういうガンダムを作っておいて、富野由悠季がなぜその後に『ガンダムSEED』のようなシリーズの製作を許したのかが理解できない。ターンAガンダムのパイロットである少年ロラン・セアックは、最終話まで人を殺すことをためらっている。そんな風に『ターンAガンダム』の反戦色は強烈なのだが、『SEED』は初代ガンダムの、普通の人間と特殊能力をもつ人間という図式に逆戻りで、戦争のための戦争、皆殺しの富野の復活でしかないように思うのだが。
もちろん、アニメ作家に過剰な期待をしても仕方ないといえば仕方ない。
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その後、『ターンAガンダム』全50話の鑑賞は着々と進めているのだが、物語の舞台が地球から宇宙と月に移ったあたりから、いわゆるヲタクうけする単なる戦闘ロボットものに堕している。残念なことだ。
ターンAガンダムの宿敵として、月の地中から発掘されたという、ターンXガンダムが登場するにいたって、ますます単なる戦闘ロボットアニメである。ロボットアニメらしくない「世界名作劇場」的な味わいを期待する方は、第34話あたりで思い切って観るのをやめてもいいかもしれない。
なぜか主題歌も、作曲・小林亜星作曲、歌・西城秀樹の味わい深い(?)曲から、聞いたこともない名前のバンドの安っぽいロックに変わってしまうし、あまりに視聴率が低迷しているのを見て、フジテレビが途中から製作意図を変えたのかもしれない。僕は視聴料金がもったいないので、とりあえず最後まで観ることにするが。
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日本の代表的なアニメーターである大塚康生氏が書いた『作画汗まみれ 増補改訂版』(徳間書店)を読んだ。もともと叶精二著『日本のアニメーションを築いた人々』(若草書房)で、この「愛と苦悩の日記」でもとりあげた『白蛇伝』など、東映アニメーションの創成期を支えた個性的なアニメータの一人として大塚康生氏について書かれており、大塚氏自身の著作があるということで当たってみたのだ。
大塚康生氏は作画監督として『太陽の王子 ホルスの冒険』(1968年)、『未来少年コナン』(1978年)、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)など、宮崎駿、高畑勲両氏との協働作品が多い。
『作画汗まみれ』の中で、今の日本のアニメーションに対する氏の意見は一貫している。それは、アニメーションというものはとにかく登場人物を動かすことが全てだ、という意見だ。
ただし、大塚氏はディズニー作品のようなフルアニメーションを無条件に賞賛しているわけではない。1秒8枚のセル画からなるリミテッドアニメには独自の個性があると考えているし、単発ものの長編劇場作品と違って、20分強の作品を毎週一本作り続けなければならない日本のアニメ制作の現場を考えれば、時間的な成約から「動かす」ことに徹底的にこだわることはできないことも認識している。
しかし同じセルの使いまわしや、「止めの美学」など動かさないことに安易に頼ってしまったのでは、登場人物に適切な演技をつけることができるアニメータが育たないという。その点に大塚氏は日本のアニメーションの未来に危機感を抱いているようだ。
そう言われて、あらためて毎日のようにテレビで放送されている30分もののアニメ番組を観ていると、アニメという言葉と矛盾するように、絵がほとんど動いていないことに気付く。動いているように見えても、それはセル画が水平に移動しているだけだったり、同じ動きをループのようにくりかえしているだけだったりする。
職人としてのアニメータは、演出家の意図どおりに登場人物に演技をさせなければならない。ちょっとした瞳の動き、指一本の動きが登場人物の演技を構成する、小さな要素の一つひとつになる。演出意図に対して適切な動きをつけられないのであれば、アニメータの存在価値はないというのが、大塚氏の主張のようだ。
そういった大塚氏の動画にかける誠実な情熱が、控えめながらも強く訴えかけてくる、そんなエッセーである。
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ブログの更新がにぶっているのは仕事が忙しいこともあるが、その後、大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』(徳間書店)、多田洋介『行動経済学入門』(日本経済新聞社)、『ニーベルンゲンの歌』(岩波文庫)などと、無節操に濫読しているにもかかわらず、まとまった書評を書けていない。
それにはもう一つ理由があって、USEN&楽天グループのブロードバンド放送「ShowTime」で『ターンAガンダム』(1999年)の全50話、30日間の視聴権を購入し、期限の2006/07/27までに50話完走しなければならないのだ。
「しなければならない」と書くと単なる義務感から観ているだけのように読めるかもしれないが、このターンAガンダムの物語は実によくできている。富野由悠季氏自身が『ターンエーの癒し』に書いているように、この物語は「竹取物語」と「とりかえばや物語」に着想を得ている。
物語の軸は、月の世界を支配する女王と地球の鉱山王の娘が入れ替わるという、たった一つしかないのだが、この軸を中心におどろくほど複雑な人間関係が展開されていく。もとは地球に住んでいた月の住人が地球に帰還しようとしたことから地球人との対立が始まり、それぞれに仲間割れを産み出し、単純な敵味方の二項対立に収集されない錯綜した利害関係が、たった一つの軸から広がっていく。
「とりかえばや物語」は性別が入れ替わるお話なので、富野氏が言っているのはターンAガンダムの操縦者であるロラン少年が、月と地球の交渉のために女装し、ローラという女性名で月の女王に紹介される点なのだろう。月の女王と地球の一市民の娘が入れ替わるという設定は、じっさいには『王子と乞食』の方から得られているのかもしれない。
物語の舞台は産業革命直後の西欧を模した設定になっており、まるで19世紀の英国大河小説のアニメ版を観ているように、ゆったりと落ち着いたペースで時間が流れていく。この点には、主人公のロラン少年と、キエル・ハイムの妹であるソシエ・ハイムという少女の「世界名作劇場」的な純粋さが大いに寄与している。
そのためにこのガンダムは、不思議と殺伐とした感じや、鬱屈したところが全くない。底抜けに楽天的なのだ。しかも、入れ替わった月の女王と地球の娘が、互いの立場を深く理解するにつれ、観ている方もどちらがどちらなのか分からなくなってくるという、物語だけで強く引き込む力をもっている。
もともと僕がこのターンAガンダムを観はじめたのは、「愛と苦悩の日記」の読者の方の勧めからなのだが、たしかにこのガンダムシリーズに限って言えば、ガンダムをまったく知らない人も、というより、僕のように大人になってからアニメを観なくなった人にも、一種の大河ドラマとしてゆったり鑑賞するに耐える作品としてお勧めできる。
ガンダムなんてヲタクか男の子か腐女子の観るものだと思っている方も、大河ドラマを観るつもりでご覧になれば、この『ターンAガンダム』に限ってはまったく期待を裏切らない。
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『無敵超人ザンボット3』だけを観たのでは、同時代の合体ロボットものアニメの中での位置づけが理解しにくいので『ゲッターロボ』も観てみた。こちらも僕が子供のころリアルタイムで熱中していたテレビアニメで、ご承知のとおり永井豪原作である。
どちらも3つの機体が1台のロボットに合体する点で共通だが、『ゲッターロボ』はどの機体が頭になるかで3種類の合体パターンがある点がユニークだ。
両者の明らかな違いは、やはり一般人の描かれ方だろう。敵方のロボットが船を沈没させたり街を破壊するとき、『ゲッターロボ』ではいかにも漫画的に船やビルが視覚的にきれいに破壊され、その内部に生きた人間が存在することはまったく示唆されない。『ウルトラマン』が市街地でいくら怪獣と戦っても、倒壊したビルの下敷きになって死ぬ人が描かれないのと同じお約束にのっとっている。
対して『ザンボット3』は多くの一般市民が戦争に巻き込まれて死んでいく事実を表立って描写している点で、やはり画期的な合体ロボットもので、この点だけでもお子様向けロボットアニメの枠から大きく踏み出している。
さらに登場人物の造形も両者では大きく異なっている。ゲッターロボを操縦する3人の性格は一人ずつステレオタイプ化されており、本来一人の人間が持つさまざまな性格を、3つの人格に分割して描いている。
他方、ザンボット3を操縦する3人は、それぞれが矛盾する側面を内包した人格として描かれている。たしかに描写は神勝平に偏っており、残りの2人、宇宙太や恵子の描写は不十分だが、勝平は自分の信じる正義と一般市民の信じる平和の不一致に葛藤し、恵子は両親のもとで平穏な生活を送りたいという気持ちと、地球を守るために戦わなければならないという気持ちに悩んでいる。
『ゲッターロボ』では、より強力になっていく敵を倒し、3人がロボットの操縦により習熟し、力強くなっていく過程が物語になっているのに対し、『ザンボット3』ではそれだけでなく、一人ひとりの内面的な葛藤が解決していく過程も物語をひっぱる強い力になっている。
『ゲッターロボ』がお約束にのっとった徹底して表層的で様式的な「合体ロボットもの」であるのに対し、『ザンボット3』にとっての「合体ロボットもの」という形式は、主人公の内面的葛藤とその解決を通じた少年の成長を描くために借りた、単なる手段ではないかと思えるほどだ。
どちらが優れているということはなく、現代に至るまで日本のアニメの多数派は『ゲッターロボ』型で、『ザンボット3』は少数派と言えるのではないか。
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で、古くは『鉄腕アトム』のテレビアニメ版の制作にもかかわり、『無敵超人ザンボット3』や『機動戦士ガンダム』の監督でもある富野由悠季(旧名:富野喜幸)という人が、いったいどういう人物なのか。まとまったエッセー集はないかと探したところ、『ターンエーの癒し』(角川春樹事務所)という本が近所の図書館で見つかったので読んでみた。
このエッセー集は富野氏が『ターンAガンダム』の制作期間中に、どういう形でかよく分からないが書きためた文章をまとめたものらしいだが、富野由悠季という人の人となりが本人によって正直に吐露されている。
SM好きで、大学時代に女性の縛り絵を描いていたという、自らのセクシャリティの告白とからめた、日本人の性に対する考え方の変化を論じた部分まで登場する。また、富野という人が、自虐的で自分の才能に常に懐疑的であるくせに、周囲に対してひどく批判的であることがよく分かる。
そのために親友が一人もおらず、私生活では伴侶の亜々子女史を除けば、つねに孤独であることも書かれている。もちろん、富野氏はそのことを公に出版する書物に書けるほど、自覚的であり、『ターンAガンダム』の制作を通じて、そんな自分のスタンスが変化しつつあることも記している。
僕がこの本を読んだのは、アニメーションの制作において「監督」は何をやる人物なのかを知りたかったからなのだが、このひどく自虐的で内攻的なエッセー集に、『ザンボット3』や『ガンダム』の底を流れる暗さの理由をはっきり読み取ることができた。
ところで「監督」としての富野氏の仕事は、「物語世界の概要をうみだして、そのストーリーをかく。どうじにキャラクター・デザイナーとメカニック・デザイナーをえらびだして、ストーリーにそったデザインをつくってもらう。それに並行して、ぼくが構成案をかいて、その検討の段階でシナリオ・ライターに参加してもらい、シナリオを執筆してもらう。(中略)そして、シナリオのオーケーをだしたら、それをコンテ・マンにわたして、コンテにしてもらう。そのコンテを修正するのが、ぼくのメインの仕事になるのだが、僕の場合は、このコンテの加筆修正をすることで、創作上のワーキングの大半がおわる。なぜなら、コンテでフイルムにあらわれる表現の70パーセントを支配してしまうのだから、おわったとするのだ。」(同書p.155)
富野氏にとって、自分の演出意図が最終的に作品にきめ細かく反映されるかどうかは、コンテにかかっているようだ。「このコンテをきるという仕事は、一頁に五こまの桝目があって、そこに絵を描き、その右に、絵の内容説明とセリフをかきいれるスペースのある用紙をつかう」(p.156)。
コンテとは「演出指示の設計図といった性格の書類」(p.80)で、コンテを書くという仕事は、「視覚印象の力学をつかってドラマのストラクチャーを創作していくという仕事なのだから、画面構成によっては、台詞を変更することもでてくる。場合によっては、シーンそのものの変更、差し替えもありえると判定できる」(p.83)。
「アニメの場合のコンテは(映画と違って)、アニメーターのえがくべき画面のレイアウトの指示とどうじに、演技を指示するという性格をもっている」(p.83)。「たとえば、こうだ。TOP、ロラン(『ターンAガンダム』の主人公の名前)立ち止まり、右目線。左にむく。そのときのポーズはこれこれ……。左よりディアナ(同じく登場人物の名前)、Fr.I(フレームイン)。台詞の項目には、ロランの右目線のとき『なんです?』。ディアナにむいて、『どこにいらっしゃったんです?』」(p.157)
お読みになってお分かりのように、富野氏のコンテは画面に登場するキャラクターの一挙手一投足に、外形的な演技を厳密につけていくようにして書かれる。僕はなるほどと思った。ここまで厳密に登場人物の演技を指定するのだから、最終的な作品の画面は、ほとんど富野氏の意図どおりになる。
ただ、さきに引用したように、富野氏はすべてのコンテを自分で書くわけではなく、コンテ・マンの書いたコンテをチェックする役割にまわる。本書では、修正しなくてもいいようなコンテを書いて来い、といった、スタッフに対する批判も正直に書かれている。
本書を読むことで、富野氏がアニメーション制作の現場でどのような仕事をしているのかがよく理解できた。
ところで、本書に一箇所だけ『無敵超人ザンボット3』についての意外な言及がある。『ターンAガンダム』最終回の打ち上げパーティーについての記述の中だ(p.273)。興味のある方は、直接、本書をお読みいただきたい。富野アニメのファンなら、この『ターンエーの癒し』は必読書だろう。
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『無敵超人ザンボット3』を最終話まで観終えた。
物語の面では、人間爆弾についての一連のエピソードがクライマックスだったと言える。一般市民が戦災の被災者としてだけでなく、自らの肉体を兵器に改造されることで、戦闘員として、意に反して戦争に加担してしまうという、戦争の不条理さを鋭く描いているからだ。
中でも、第18話「アキと勝平」がもっとも優れている。主人公の少年、神勝平は、子供らしいほのかな恋心をよせるアキという少女が、人間爆弾に改造され、ザンボット3の母艦キング・ビアルの勝平の部屋で爆死してしまう。この脚本はかなり痛ましいので、第18話は単独でも見る価値はある。
最後の3話は、物語の面では「皆殺しの富野」の本領発揮で、勝平の祖父や父親が次々と「特攻」で死んでいく、やや退屈な展開だ。ザンボット3の他の二人の操縦者、宇宙太と恵子も敵の母艦の内部で自爆する。
「女、子供」だけは事前に睡眠薬を飲まされて、母艦から小さなカプセルで地球へと帰され、敵との最終戦は大気圏外での死闘というわけだが、ご想像のとおり神勝平だけがボロボロの戦闘ロボットとともに大気圏をつきぬけて地球に生還する。大気圏をつきぬけながらの死闘というのもファースト・ガンダムや『ガンダムSEED』で見慣れた場面だ。
そういうわけで、物語の面で素晴らしいのは中盤までだ。恵子のエピソードについても、最後の自爆の部分よりも、第12話「誕生日の死闘」の方が脚本、演出とも、はるかに素晴らしい。
ただ、演出手法の面では、最後の3話はそれまでの回と別物になっている。真っ白の画面に勝平の姿が黒線の輪郭だけで徐々に浮かびあがるなど、それまでの回の作画が基本的に「見えたまま」を描いているだけなのに対して、最後の3話には、心理描写や抽象的な描写がたびたび現れる。
おそらく監督の富野氏が最後の3話では全く手を抜かなかったのだろう。その証拠に最後から4話目の第20話「決戦前夜」は、過去に登場した敵方のロボットのうち3体が、再び攻めて来るという設定で、ほとんどのシーケンスが過去のフイルムの使いまわしで観るに耐えない。これは明らかに最終回へ向けての「時間稼ぎ」だ。
『ガンダム』の原点であるこの『無敵超人ザンボット3』を、お勉強のために観たい方は、以上のようなことから、最初の3、4話と、第12話~第18話、あとは最終話を観れば十分だというのが僕の見解だ。
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『無敵超人ザンボット3』第17話は「星が輝く時」というタイトルで、第16話「人間爆弾の恐怖」に登場した人間爆弾は、一話完結のお約束に従って既に解決済みのものと思って見たのだが、予想に反して第16話よりも人間爆弾の悲劇の描写が異常にリアルだった。ちょっと気が滅入ってしまうほどだ。
人間爆弾というのは、異星人ガイゾックが効率よく低コストで地球人を殲滅するために、人間の体内に時限爆弾を埋め込んで元の生活に戻し、周囲の人間を爆破の巻き添えにして殺害するという、子供向けロボットアニメとしては、少し残酷すぎやしないかと思われる設定だ。
第17話ではさらに、異星人ガイゾックが難民キャンプと見せかけて避難民を収容し、本人に気づかれないようにつぎつぎと時限爆弾を埋め込んでいくという展開になっている。人間を自爆兵器に改造する工場を、難民キャンプに偽装しているわけだ。
そして静岡から逃げ延びて来た神勝平の友人たちも、その罠にはまって偽装キャンプに収容されてしまう。そして友人たちのうちの2人が、ある日警備兵に部屋から連れ出され、気づかぬうちに体内に時限爆弾を埋め込まれてしまう。背中にある星型の傷がそのしるしだったのだ。
神勝平たちはなんとかその偽装難民キャンプを破壊することに成功するが、埋め込まれた時限爆弾を取り出す方法がない。自分の体に爆弾が埋め込まれていると知った他の難民たちも、人々を自分の爆破の巻き添えにしないために、家族のもとを離れて海岸に向かって歩き出す。
以下、第17話の最後の場面の脚本を映像から書き起こしてみる。かなり悲惨な場面なので、何かで気がふさいでいるときには、お読みにならないように。僕個人は、有名なテレビドラマ『私は貝になりたい』で十三階段を上るフランキー堺の芝居を見たとき以来の陰惨な印象をうけた。
勝平の友人・浜本 「だから、俺だって、いつ爆破しちまうかわからねぇんだ」
勝平 「キングビアルにも、爆弾を体から抜き出す方法の記録なんてないんだよ。ごめんな」(浜本の肩を抱いて泣く)
浜本 「いいって、もう。こうしているうちに爆発しちまうといけねぇ。あばよ」
(中略)
浜本 「人のいないところに行くよ。最後ぐらい、カッコよくさせてくれよ。えへっ。えへへへっ」(後ろ姿で勝平たちをふり返ることなく立ち去っていく。そして他の人間爆弾にされてしまった避難民と合流し、海岸の方へ歩いていく。勝平たちはその後ろ姿をただ見送るしかない)
(中略)
浜本 「どうせ、父ちゃんも母ちゃんも、いなくなっちまったんだ。俺だってすぐに母ちゃんとこへ...。うっ...俺っ...いやだ...。母ちゃんも父ちゃんもいないとこで死ぬなんて...独りで死ぬなんて...いやだ!いやだぁ!いやだぁ!」
人間爆弾となった難民A 「誰か止めんか。爆弾になったものを人様のとこへやるでない!」
浜本 「いやだぁ!!こわい!!こわいんだ!父ちゃん!父ちゃん...母ちゃん...。こわいよぉ!!母ちゃん、助けて!!助けてよぉ!何でも言うこと聞くからよぉ!!母ちゃん!父ちゃ~ん!」(浜本の体が星型に光った後、大破する)
そう、この第17話の「星が輝く時」という題名は、勝平の友だち浜本が人間爆弾にされ、爆破される瞬間のことを言っているのだ。
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富野喜幸監督のロボットアニメ『無敵超人ザンボット3』(1977年)はようやく全話の3分の2ほどまでたどり着いた。異星人は北海道を除く日本列島をおおかた壊滅状態に追いやり、生き残った日本人は難民となって北海道へ移住を強いられている。
主人公であり、ザンボット3をあやつる3人のリーダ、神勝平(じん・かっぺい)の友人たちも、戦災で肉親を次々と失いながらも何とか都市郊外の難民キャンプで生き延びているといった物語の展開になっている。
地球人類の殲滅を狙う異星人は、人間を捕獲してその体内に爆弾を仕込み、都心の地下鉄や飛行機に乗り込ませて自爆させる。現代のテロリズムを連想させて、子供向けの合体ロボットアニメにふさわしくない恐ろしい現実感がある。
ただ、一方で異星人の謎の支配者ガイゾックの手下として、日本の壊滅を狙うキラー・ザ・ブッチャーは、残忍な悪役に似つかわしくないコミカルなキャラクターとして描かれていたり、何より主人公の神勝平の子供らしい負けん気や、底抜けの楽天主義が、このどんどん陰惨になっていく物語を、辛うじて子供向けのロボットアニメとして成立させている。
家族と離れたため、神勝平に憎悪の視線を向けていた例の親友も、東北まで避難する途中で拾った、戦災で両親を失って失語症になった少女をザンボット3に救ってもらうエピソードで、ようやく神勝平と和解することになる。この回では、『ザンボット3』を観はじめてから初めて泣いてしまった。
小さな和解に涙してしまうくらい、この『無敵超人ザンボット3』が描写する地球の状況というのは、坂を転げ落ちるように絶望的になっていくのだ。異星人が次々送り出す怪獣ロボット(メカ・ブースト)との戦いは終わりがないように思えてくる。もう日本人にとって逃げ場は北海道しか残っていないのであれば、日本が全滅するのも時間の問題ではないか。
キャラクターのコミカルさにもかかわらず、『ザンボット3』の物語が全体として暗い陰を落とすのは、やはり戦禍に巻き込まれる一般人の死や苦悩、戦争に対する憎しみを、毎回必ずといっていいほど執拗に挿話として描いているためだろう。
残り3分の1は一体どのような物語の展開になるのだろうか。
ちなみに、コメントが物語に集中しているのは、作画やメカデザイン、動画上の演出について特筆すべき点がほとんどないためだ。ロボットの合体シーンや、怪獣ロボットとの戦闘シーンは倍速で飛ばしながら観ている。
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最近、テレビのニュース番組やバラエティー番組で、本当によく『交響詩篇エウレカセブン』のオリジナルサウンドトラックから、佐藤直紀作曲の劇伴奏が使われているのを耳にする。今日も『報道ステーション』のクロアチアの戦場を紹介する部分で使われていた。
たしかに佐藤直紀氏の曲はBGMとしては、旋律は簡素だが適度に劇的で、自己主張が強すぎない素晴らしい作品だ。最近、毎朝、通勤電車でつり革につかまって立ったまま熟睡できるのも、佐藤直紀氏の『エウレカセブン』のためのトラックのお蔭である。
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『無敵超人ザンボット3』というロボットアニメ(1977年)が、日本のアニメ史上それほど重要な作品だとは知らなかった。僕は小学生の頃このアニメをオンタイムで見ているので、合体ロボット・ザンボット3の外観もおおよそ記憶に残っている。もしかすると超合金のおもちゃを持っていたかもしれない。
ところが今、ブロードバンド放送「ShowTime」のバンダイチャンネルで改めて観てみると、脚本が異常だ。小学生の頃の僕は、おそらくこの脚本の異常さを全く理解せずに、ただ合体ロボットのかっこよさだけにひかれて観ていたのだろう。
脚本の何が異常かと言えば、異星人を倒すために闘う「正義」のヒーローであるザンボット3の搭乗員や、その母艦であるキング・ビアルの乗組員の全員が、一般市民から憎悪されているのだ。今のところ第5話までしか観ていないのだが、それも回を追うごとにその憎悪が増すのである。
その理由は、ザンボット3と異星人の送り出す怪獣ロボット(メカ・ブースト)の戦闘のため、海岸の市街地が壊滅的な被害を受け、ザンボット3の3人の乗組員のリーダー、神勝平(声:大山のぶ代)の親友が、ついには戦災孤児になってしまう。ザンボット3が怪獣もろとも海に落ちてきたときに起こった大波に、両親と妹が呑み込まれてしまったためだ。
第5話では、普通の合体ロボット・アニメと同じような「カッコいい戦闘シーン」のシーケンスと並行して、その戦闘によって引きこされる火災や大波の中を逃げ惑う一般市民が死んでいく様子が克明に描かれる。孤児になったその親友は、廃墟と化した町から、海に浮かぶ母艦キング・ビアルを憎しみに満ちた表情で凝視しつつ、神勝平に対する恨みの言葉を吐き捨てる。そんなカットで第5話は終わる。
これが子供向け合体ロボット・アニメの演出と言えるだろうか。ところが、僕がオンタイムで観て熱中していたくらいで、この名古屋テレビ製作のアニメは、おもちゃメーカーとの相乗効果もあって商業的にかなり成功したらしいのだ。
ここまで書けば既にお分かりかと思うが、この『無敵超人ザンボット3』の監督は、この2年後に『機動戦士ガンダム』を監督する富野喜幸(現:富野由悠季)である。
戦禍に巻き込まれる一般市民の悲劇の深刻さと、ザンボット3や母艦キング・ビアルの乗組員(血のつながった3組の家族)の、時にコミカルでほのぼのした描写の対比もまた異常だ。
同じセルの使いまわしの合体シーンや、カッコいい、言い換えれば安っぽい戦闘シーンをすっ飛ばして、この脚本の異常さを堪能するだけでも、『無敵超人ザンボット3』は十分観る価値のある作品と言える。とくに『機動戦士ガンダム』のファースト時代からのファンの方にとってはそうだろう。
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今日、テレビ東京系『アド街ック天国』で東京・池袋の「乙女ロード」がとりあげられていた。男性オタクの聖地が秋葉原なら、女性のオタク(腐女子と呼ばれる)の聖地は池袋アニメイト本店周辺の「乙女ロード」というわけだ。
この「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」で7年前に書いたのだが、何を隠そう、僕が小学生から高校までつきあっていた彼女が、女子高に通っていた時期、まさしく腐女子だったのである。
当時は『キャプテン翼』と『聖闘士星矢(せいんと・せいや)』が腐女子の皆さんにとってのもっぱらの元ネタで、少年キャラクター同士の濃厚な同性愛描写があるようなパロディー漫画や小説の同人誌を、僕の彼女は一生懸命製作していた。
彼女は大阪では有名な私立の女子進学校に通う文学少女で、絵を描くよりも文章の方が得意だったので、もっぱら今で言うところの「ボーイズラブ」小説を書いていた。
僕自身、彼女の話についていくために、毎週テレビでアニメーション版の『聖闘士星矢』を観ていたのだが、今日の『アド街ック天国』には『聖闘士星矢』のフィギアが登場していた。いまだに『聖闘士星矢』に熱狂している三十代の腐女子の皆さんがいるのだと知って驚いてしまった。
スポーツものの『キャプテン翼』に代わる現代版は、言うまでもなく『テニスの王子様』だが、バトルファンタジーものの『聖闘士星矢』に代わるのは、現代では何になるのだろうか。『D-Gray man』とかいう漫画なのだろうか。さすがに僕もこの年齢ではもう最新の腐女子トレンドについていくことができない。
以上、青春時代を腐女子の彼女と過ごしておきながら、自分は今でもオタクになりきれない筆者であった。(いくら『交響詩篇エウレカセブン』が良くても、エウレカに「萌え」ろと言われても「萌え」られない)
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笹川ひろし原案の東映まんがまつり第一作のカラーアニメーション『魔犬ライナー0011変身せよ』(1972年)を半分まで観たのだが、さすがに脚本も演出も動画もひどくて最後まで観るに耐えなかった。
音楽もテンポのいい戦闘シーンとちぐはぐの、いかにも70年代ラウンジミュージック風のjazzyな感覚でまったくのれない。どうやらこのアニメに登場するサイボーグ犬という設定は、後に笹川ひろしが監督をする『新造人間キャシャーン』のフレンダーの原型になったらしい。
4年前の『太陽の王子 ホルスの冒険』と本作を比べると、演出と動画の品質の差は歴然としている。いかに『太陽の王子 ホルスの冒険』が1968年当時としては奇跡的な作品だったかということがよくわかる。
ところで4匹登場するサイボーグ犬のうち一匹の声を、野沢雅子が演じている。彼女の声優としてのキャリアの中では、最初期の作品になるのではないか。
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高畑勲監督、宮崎駿・大塚康雄製作の『太陽の王子 ホルスの冒険』(1968年)を最後まで観たが、想像以上の完成度で驚いてしまった。
主人公の少年ホルスが同じ孤独を分かち合う少女ヒルダ(実は悪魔グルンワルドの魔法によってその妹にされてしまっている)の声優が、40年前とはいえ市原悦子であるこが頂けないので、声優さえ一新すれば、いま、デジタルリマスタリングして、音声もドルビー化することで、十分子供向け新作長編アニメとして通用する躍動感と疾走感のある演出である。
脚本も単純な勧善懲悪ではなく、悪魔の妹であるヒルダが、悪魔としての人格と、人間としての善良な人格をあわせ持つことで葛藤し、少年ホルスが村人たちと協力してその善良な側面をヒルダの命とともに救い出すという物語で、ホルスがヒルダと剣を交える場面もある。
秀逸なのはヒルダとの戦いによって、少年ホルスが「迷いの森」という、一種の精神世界のようなところへ突き落されたあとの抽象度の高い一連の描写である。「迷いの森」の中でホルスは、悪魔としての孤独なヒルダをどうすれば人間たちの世界に連れもどすことができるのか、その苦悩が心象風景として描かれる。
先日、『新造人間キャシャーン』の富野喜幸監督による演出で、「見えないもの」を見せる点を特徴としてあげたが、『太陽の王子 ホルスの冒険』の終盤にある「迷いの森」の心象風景は、十分な制作費と時間のおかげですでに一定の完成度に達したシーケンスになっている。
戦闘シーンは『少年猿飛佐助』の終盤、猿飛佐助と妖女との空中戦のたどたどしさ、躍動感のなさ、スピード感のなさと比べると、『太陽の王子 ホルスの冒険』は冒頭の少年ホルスと狼の群れの戦いからいきなり強烈なリズム感に満ちている。
しかし、逆に言えば高畑勲、宮崎駿の二人は、『太陽の王子 ホルスの冒険』から一歩も踏み出していないように見える。心の中に深い孤独と葛藤を抱き、ホルスに向かって剣をふりおろす残酷さをもちながら、表情に乏しい少女ヒルダは、容易にナウシカやサンを思い出させる。とくに異性に対する恋愛感情をまったく表情にあらわさない演出は一貫している。
また、村人たちが協力してふいごを動かし「太陽の剣」を鍛える場面は、容易に『もののけ姫』のたたら製鉄の場面を想起させる。このような、群集が一致団結した力強さを描く場面の、地の底から空へと湧き上がるような演出法も、今に至るまでほとんど変わっていないのではないか。
いずれにせよ、やはりこうして日本アニメーションの名作を時系列で観ていくことには、かなり意味がありそうだということが分かってきた。
『太陽の王子 ホルスの冒険』についての英語のWebサイトをいくつかあげておく。
The Great Adventure of Horus, Prince of the Sun (55枚のスクリーンショットの引用付き評論)
Horus: Prince of the Sub (脚本の「哲学的な深さ」や戦闘シーンの動きのなめらかさが評価されている)
Hols: Prince of the Sub (英語版ウィキペディア。東映アニメがディズニー作品の単なる鋳直しから真の意味で脱した最初の作品だと評している。村が狼の群れに襲われるスチルショットのシーンは、演出意図ではなく、予算・時間超過のためにやむを得ずそうなったらしい。また、もともと高畑勲が想定した登場人物たちは東北地方の先住民・蝦夷の設定だったが、東映からの圧力で北欧に変更させられたようだ。)
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薮下泰司監督・脚本の日本初の長編カラー・アニメーション『白蛇伝』(1958年)について、読者の方から白蛇が美女に化けるという物語類型についての新書『蛇女の伝説』(平凡社新書)をご紹介頂いた。書店で少し立ち読みしただけだが、やはり中国の古い物語だけでなく、ギリシア神話にも起源があるらしい。時間があれば図書館で借りて読んでみたい。
このアニメの翌年に製作された『少年猿飛佐助』(1959年)も少し観てみた。こちらは日本初のシネスコ版長編カラー・アニメーションということだ。監督は同じ薮下泰司氏なので、作画や演出法について『白蛇伝』と大きな違いはない。やはりディズニーのフルアニメーションをお手本にした、なめらかな動画で、キャラクターに「影がない」のがきわだった特徴だ。
「影がない」というのは、例えばキャラクターに左から光が差せば、当然、右側が影になるので、キャラクターの右側の輪郭に沿って、輪郭から少し入った部分が、帯状に少し暗めの色彩で塗られてしかるべきである。70年代以降のアニメを見慣れている僕らにとっては、この「影がない」キャラクターというのは、