2007/10/26

この日経記者に教育問題を論じる資格なし

今朝の日経新聞の一面「ニッポンの教育」の冒頭に、とんでもない記述があった。要約すると、十六年間にわたって、わいせつ写真を雑誌に投稿し続けた元教頭は、勤務態度に問題がなくても、教員免許を更新させないような制度にすべきだ、という主張である。

この発想は公私混同もはなはだしい。法に触れてない限り、公務員であれ民間企業の会社員であれ、プライベートで何をしようが自由である。

なぜ教員だけ、私生活でいかがわしいことをしているからといって、教員免許を即取り上げるべし!という議論になるのか。

だとすれば、毎週キャバクラ通いをしている民間企業の社員がいたとしたら、その社員も即、解雇すべし!という話になってしまう。明らかにナンセンスな議論だ。

この特集記事を書いた日経新聞の記者は、教師に対して自分が不当に厳しい評価をしていることに気づいていないのだろうか?なぜ教師だけが、私生活まで監視され、解雇の理由にされなければいけないのか?

そもそもこのように、教師という職業を「聖職」視する古くさい考え方こそが、日本の教育改革をはばんでいるのではないのか?

この記事を書いた日経新聞の記者は、知ってか知らずが、学校や教育を聖域視する旧来の発想の片棒を担いでいるのだ。学校や教育を聖域視する発想は、教育改革に抵抗する側の発想と、まったく同じではないか。

こんなことさえ分かっていないような記者に、日本の教育を論じる資格はない。

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2007/10/22

自衛隊給油問題を支持し続ける愚かな日経新聞社説

日経新聞の社説は、ここ最近非常にしつこく「自衛隊の給油活動を継続すべきだ」「それこそ今の日本ができる国際貢献だ」と寝ぼけたことを書き続けているが、さて、米国政府が日本の給油がイラクに使われていないとは言い切れないことを認め、守屋前防衛次官の山田洋行との癒着が明らかになり、さらに、防衛省が給油量の誤りを隠蔽していたことが分かった。

それでも日本経済新聞は会社の意見として、給油活動が国際貢献だと書き続けるのだろうか。それでも日本経済新聞は、読者に対して防衛省を信用しろと言い続けるのだろうか。いい加減にしてもらいたい。

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2007/01/07

日経の新連載の「イエコノミー」という題名

日本経済新聞の朝刊1面の新連載は「イエコノミー」だが、そもそもエコノミー(economy)という言葉はご承知のように、古代ギリシア語の「オイコス(oikos)」と「ノモス(nomos)」の合成語である。

古代ギリシア語で「oikos」とは「家」、「nomos」とは「法」という意味で、つまりエコノミー(economy)という言葉の語源そのものが「家の中の法」なので、「イエコノミー」という題名は「馬から落ちて落馬して」式の冗語法なのだ。

おそらく日本経済新聞の記者はこのことを知っていて、かつ、日経の読者の大半がeconomyの語源を知らないだろうと踏んで、新連載にこんな題名をつけたのだろうが、だとすると日本経済新聞の読者もなめられたものである。

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2005/12/23

少子化に戦争の比喩

■今日の日本経済新聞朝刊の「人口減と生きる」はまるで大本営発表の戦意高揚プロパガンダだ。

「出生減の連鎖をくい止め、反転上昇につなげることを国家目標に位置づけねばならない」「手綱を緩めれば私たちの世代は次世代、次々世代から恨みを買う」「国や自治体、企業経営者、家庭や地域社会が総力戦で立ち向かうときだ」

何なんだろうか、この事大主義は。読者数が減る新聞社にとっては死活問題なのかもしれないが、明らかに煽り過ぎの文体に強い違和感を抱くのは僕だけでないはず。

そもそも少子化と国力を直結させるこの発想こそが、個人に犠牲を強いることで結果として少子化を進行させているのだが、経済成長至上主義の編集部に洗脳されてしまっているのか、大林尚という記者は、そのことに気付いているふしはない。

何が問題かといって少子化が絶対悪であるかのような、バランスを欠いた議論だろう。いやがおうでも出生率を反転させなければならないという強迫神経症のような論調のことだ。

社会のレベルでの危機感をあおればあおるほど、個人は考えにゆとりを失って生活防衛に走り、少子化はさらに進む。マスメディアとしてとるべき効果的なスタンスは、むしろ少子化の利点を取り上げることではないか。

少子化対策をよびかけなければならいのは、主に都市部の二十代、三十代だが、少子化によって都市部の過密が緩和されるとか、地方の過疎化が進むことでムダな道路やハコモノに税金が浪費されずにすむとか、少子化のメリットを訴求すればいい。そうやって世の中に対する悲観的な考え方をとりのぞき、子供を産もうと思える希望を抱かせることこそ正しい少子化対策なのである。

ところが最近の日本のマスコミは、米国型の危機感ばかりをあおる報道姿勢にすっかり感化されてしまって、少子化問題についても、まるでこのままいくと日本中が不幸のどん底におちいるかのように書き立てる。そんな不幸な将来へ誰が子供を送り出そうと思うだろうか。

日本経済新聞の記事は少子化を解決しようとして、まったく逆の効果を生み出している。この皮肉な結果から、今のマスコミの根っこにある問題、事大主義と煽動というスタイルが浮き彫りになる。

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2005/05/31

戦闘的少子化対策論の誤り

■どうやら今日で日本経済新聞朝刊一面の『少子化に挑む』という連載コラムが終わったようだが、少子化問題に対して「挑む」とか「闘う」などという勇ましい筆致であることに僕は強い違和感を抱く。

少子化問題については別に誰かが何かの規制や障害に対して挑んだり闘ったりしているわけではなく、不妊治療の保険適用を求めている人たちなど少数の例外を除けば、単に消極的な理由で子供をなんとなくもたない、なんとなく結婚しないほうが楽だという人たちの行動が、原因の大部分を占めているのだ。

問題の取り上げ方からしてすでに日本経済新聞は間違っているのであって、政府や官僚も同じ間違いをしているから少子化問題は一向に解決しないのだ。自らのアプローチの間違いに気づかない限り、日本経済新聞のコラムがいくら吼えたって本質的な問題提起にさえならない。そのことに気づけないのは、やはり日本経済新聞という会社や記者の皆さん自身が、少子化問題を他人事としてしか論じられていない何よりの証拠だ。

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2004/12/02

武田國男氏「私の履歴書」完結

■そういえば武田薬品工業会長・武田國男氏の「私の履歴書」がようやく終わった。予想どおり後半はありきたりの苦労話プラス自慢話だった。やはり親の七光りだけで社長にのし上がったような人物が社長になって無茶なリストラをやっても、会社が利益を急激に伸ばせたのは、武田薬品工業という会社がそれまでの優秀な経営者のおかげで、しっかりした背骨を持っていたからなのだ。

医薬品への集中で成長軌道に乗れたのは、それまでの経営者たちが優秀な技術者を時間をかけて育てる社風を保って来たからであり、バブル期に浮かれて財テクに走らなくてすんだのは、前会長の小西氏が武田國男氏を止めたからだ。

そのように武田國男氏以外の、会社の中のあらゆるパーツがそれまでの伝統のおかげで保守的に出来ていたからこそ、氏が社長として成立していたわけで、タケダほど保守的でない会社が仮に氏のような経営者を頂いたら、おそらくガタガタになっていただろう。

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2004/11/15

武田國男氏批判の反響

■武田國男氏の「私の履歴書」を批判したことに対して、2人の読者からほぼ同じ反論メールがとどいた。どうして彼のような生き方に共感できるのか理解に苦しむ。

連載の第一回目に、氏の兄が死んだとき、氏が父親から自分の存在を否定されるようなことを言われたという下りは僕もちゃんと読んでいる。しかし、だからといって親のスネをかじりながら、親の期待にそむくという矛盾した生き方を、社会人になってまで続けていいということにはならないだろう。

せいぜい大学生までなら、若者らしい反抗期とでも言えるが、会社から給料をもらってなお遊びほうけるなど、単なる無責任な大人としか言いようがないではないか。そんなに商家の厳格な家庭が嫌だったなら、親からの独立を決意して家を出るなりすればいい。そうでなければ、いつか父親を見返してやるぞと決意して、黙々と努力すればいい。

そのどちらにも踏み切れずに、親の経済力に頼りながら親に反発しつづけるという矛盾した生き方のどこがまっとうな生き方なのか。こんな生き方にどうして共感できるのか僕にはまったく理解できない。

以前ここにも書いたかもしれないが、僕も「自分はこの世に存在してもいいのだろうか」という疑問を抱きながら生きてきた種類の人間だ。しかしそういう疑問を抱いているからこそ、自分の存在理由を何とか見出そうと、さまざまな努力を積み重ねるのではないか。それが倫理的に生きようとするということではないのか。

もう一度書くけれども、世の中には経済的な理由で大学に行けない、留学ができないという人がたくさんいる。そのような人たちの境遇を考えれば、武田國男氏の生き方は徹底して自己中心的、自己陶酔的である。

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2004/11/14

武田國男氏の「私の履歴書」を連載中止に

■今年の正月はインフルエンザで死ぬ思いをしたので、この冬は二度とゴメンだということで、昨日、予防接種をしてきた。インフルエンザの予防接種なんて小学生のとき以来じゃないかと思うのだが、皮下注射した後のにぶい痛みの感覚がなつかしい。注射する直前に病院で検温したらなぜか36.9度もあったので、「くれぐれも発熱したら風呂に入らないでくださいね」と医者に念を押され、インフルエンザの症状が出たらどうしようとドキドキしていたが、結局、小学生のときと同じでなんともなかった。これでこの冬は、たとえインフルエンザにかかっても今年の正月みたいな重症になることはないだろう。

■ちょっとおもしろいことを思いついた。武田國男氏の「私の履歴書」をthink or dieの読者でこぞって連載中止にしてみましょう、という企画だ。もちろん数十人がメールを送ったからといって、連載中止になることはないんだけれど、おもしろいと思った方は日経新聞のWebサイト管理者あてに意見を送ってみよう。

とある読者の方からは、武田國男氏に同情的なメールを頂いたのだが、どの経営者も僕らのようなフツーの会社員にくらべて、並大抵でない努力をしているのは当たり前のこと。今後の「履歴書」でいろんな苦労話が出てくるのは当然で、そんなものは読まなくったってわかっている。

問題はそれまでの過程にある。世の中には経済的な理由のために、大学進学や留学をあきらめなければいけない人がたくさんいるのに、親の金で甲南大学に進学しては遊びほうけ、入社してからも会社の金でフランス留学させてもらったクセに勉強もしない(留学先の学校にちょっと表彰してもらったくらいが何だというのだ)。そんな人物が「私の履歴書」で、まるでサラリーマンのお手本であるかのような扱いをうける資格はまったくない。連載中止の要望を送った結果、何か返答がかえってきた人は筆者あてにご一報を下さい。

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2004/11/13

武田國男氏「親の七光り」

■日本経済新聞朝刊の「私の履歴書」、今月は武田薬品工業会長の武田國男氏なのだが、とにかくヒドい。ヒドすぎる。親の七光りさえあれば、バカでもなんでも経営者になれちゃうんだということがよくわかる。

大学時代までまったく勉強せずに遊びたおして、社会人になってからもろくに仕事をせずにフラフラしていても、それでも親が社長でさえあれば経営者になれるという理不尽さ。このエッセーを進学塾に通っている子供たちが読んだら、「このおじさんは何の努力をしなくても社長になれているのに、いっしょうけんめい勉強してるぼくら(わたしたち)はいったい何なの」と思うに違いない。

こんな下らない人物に「私の履歴書」など書かせないで欲しい。「私の履歴書」を書くというだけでも、まるで武田國男氏がひとかどの人物であるかのような錯覚を、世間の人々にあたえてしまうではないか。ほんとうにヒドい。ヒドすぎる。

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2004/09/26

日経新聞の意図的な忘却

■小学生時代は『月刊タイガース』を定期購読するくらい熱心な阪神ファンだったけれど、今は野球にまったく興味がない。ただ、最近の球界再編劇は、イヤでも毎日の報道で耳にする。日本経済新聞の記事を追っていると、オーナーたちと選手会の交渉が進むにつれて、大切な論点がいつの間にか見過ごされるようになったことに気づく。

それは、ライブドアが近鉄の買収を申し出たとき、オーナー会議がその提案を完全に無視したという事実だ。たぶん日本経済新聞はこの事実を、時がたつにつれて意図的に無視するようになっている。それどころか選手会がストを行ったことについて、批判的な社説まで書く始末だ。オーナーたちがあの買収提案を真剣に検討していれば、ストにつながってしまうほどの騒動にはならなかったはずだ。

そう考えればやはり日本経済新聞はプロ野球の閉鎖性を完全には批判できていない。むしろオーナーの立場をとっているために、世間がライブドアの近鉄買収提案を少しずつ忘れていくのに乗じて、まるでそんな事実がなかったかのように、今進行しつつある再編劇を伝えている。意図的な隠蔽があまりに見え透いているだけに、球界再編についての日経の報道にはイヤな気分にさせられる。

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2004/08/15

日経の奇妙な少子化対策論

■昨日(2004/08/14)の日本経済新聞朝刊の社説は実に奇妙な論理にもとづいて少子化対策を論じていた。「出生率が上がっている町がある」という題名で、静岡県長泉町の合計特殊出生率が1990年の1.62から2000年には1.72へ跳ね上がった背景を紹介している。乳幼児医療費を無条件で無料化し、保育園の待機児童を出さないというのが長泉町のとった少子化対策だ。保育園に併設された「子育て支援センター」という施設も紹介されている。

しかしよく読むと当地の母親たちの声として、「県外から長泉周辺の企業に転勤する子育て中の知人には、負担の軽いこの地での居住を積極的に勧めている」という意見が引用されている。つまり、長泉町が周辺地域から子育て中の家族を吸い寄せているだけであり、この町の出生率が増加したのは、単に隣りと比べたらまだましだという理由でしかないのだ。

たとえば、全国の自治体が長泉町と同じく小学校入学までのすべての乳幼児の医療費を無料化するなどという施策が可能だろうか。長泉町よりはるかに人口密度の高い首都圏で、保育所の待機児童をゼロにすることが財政的に可能だろうか。長泉町の出生率の増加は、周囲と比べて相対的に条件が良かったというだけの理由であり、その施策が絶対的な効果を持っていたわけではないのだ。その証拠に静岡県全体の合計特殊出生率は、1990年の1.60から2000年の1.47へと低下している。自分の町だけ出生率を上げたいのであれば、子育て中の家族に有利に働く施策なら、子育てに直接関係なくても何でも打ち出し、町外に働きかけて転入者を増やせば出生率は上がる。

本当に日本全国の出生率を増加させたいのであれば、子供を持つ家族の数そのものを増やす必要があるのであって、もともと子供を持つつもりの家族や、子供がすでにある家族を他所から連れてくるだけではまったく意味がないのだ。そして、子供を持つつもりの家族を増やすために、乳幼児の医療費を無条件で無料化したり、保育所の待機児童をなくすことがどれほどの効果があるかは極めて疑わしい。なぜなら育児の経済的負担は小学校に入学してからが「本番」なのであり、乳幼児の段階での支援では、子供を「持ちたくない」夫婦を持つ気にさせることはまずできない。

最近の少子化対策の議論はそうした根本的なところで、真に効果のある施策を見誤っている。自分の老後にさえ希望の持てない二十代の夫婦が、どうして育児の経済的負担までかぶろうという気になるだろうか。まだ子供を持ったことのない夫婦に育児の喜びなど分からない。したがって「経済的負担に勝る喜びが育児にはあるのだ」という言葉は、子供を持つ前の夫婦に何の説得力もない。まだ子供を持ったことのな夫婦に説得力があるのは、ただ育児の経済的合理性を訴えることだけと考えるべきである。

それくらいラディカルな議論を展開しなければ、出生率を増加させることなど不可能なのだ。が、日本経済新聞も含めて、そのことを理解している人がどれだけいるだろうか。

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2004/03/09

カネボウを攻撃し足りない日本経済新聞

■日本経済新聞はまだカネボウを攻撃し足りないらしい。今朝の社説「再生機構のカネボウ支援は疑問だらけ」には次のような感情的なフレーズがならぶ。「カネボウ側の希望的観測とみられる再生機構を活用する再建案は、虫が良すぎて世間のひんしゅくを買った」「この間の迷走でブランドイメージが傷付き、企業価値が損なわれたため、経営陣が辞意を表明し」。勝手に「世間のひんしゅくを買った」ことにしたり、「ブランドイメージが傷付」いたことにしないで欲しいものだ。日本経済新聞は日本人一人ひとりの心の中まで掌握しているという妄想にとりつかれているらしい。

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2004/03/07

日本経済新聞の不当に激しいカネボウ批判

■花王によるカネボウの化粧品事業買収が破談になって以降、日本経済新聞はカネボウの対応をさんざんにこきおろしているが、何を正義漢ぶっているのか理解に苦しむ。

花王の提示した4500億円という金額は経済合理主義の観点から見ればカネボウというブランドにかなりのプレミアをつけていることになるらしいが、経済合理性をはみ出す部分こそブランドの持つ価値ではないのか。はたして非経済的価値のまったくないブランドなんて存在するだろうか。

ルイヴィトンやベンツはただ値段が高いというだけでブランドとしての価値を維持しているのではない。ブランドの持つ歴史や文化的な文脈が舞台装置となって初めて主役としてのブランドが独自性や存在価値を持つのだ。花王が経営するカネボウなどもはやカネボウと言えない安っぽさがただよう。花王に買収されるくらいなら自らの手で歴史の遺物としてカネボウを葬るのも一つの選択肢だ。

日経の記者が経済という領分を守る限りはカネボウの対応を経済的観点から批判するのも許されるが、カネボウは国民の税金を無駄にしているなど、その論調はまるでカネボウが犯罪者であるかのようだ。日経が経済という領分をはみ出してカネボウを倫理的に非難するのであれば、カネボウというブランドにも非経済的な価値を認めるべきである。ブランドに非経済的な価値を認めれば、醜態をさらしてまでブランドを死守するカネボウの行動はただ非難してすまされるものでないことは明らかだ。

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2004/02/08

日経の興膳宏氏コラム批判への反論への反論

■予想以上に苛烈だったインフルエンザとの闘病生活をようやく終えて一週間ぶりの「愛と苦悩の日記」だが、前回の興膳宏氏批判について、「傍若無人」という言葉の説明のためのコラムの中で単なる例示でしかない部分の欠陥ともいえないような欠陥に乗じた批判は不適切であるとのご指摘を、ある読者の方から頂いた。

言うまでもなく僕はコラムの中の非本質的な部分だからこそ批判したのである。仮に「人は見かけによらぬもの」という言葉の説明のためのコラムがあったとして、その例示に、らい病患者が例として挙げられていたら、日経新聞読者の誰もが偏った例示だと考えるだろう。

このように容易に意識化される偏見については、熊本県の某ホテルの支配人など少数の事例をのぞいて、取り立てて批判する必要もない。批判するまでもなく、誰もがその偏見を指摘できるからだ。しかし「傍若無人」という語の説明の例示に、若者、アベック、高校生が登場して会社員や中年女性が登場しないその偏見は、あえてことあげしないかぎり誰も気づかないおそれがある。

だからこそわざわざその部分だけを取り上げて批判する意味があるのだ。「僕のように思う新聞の読者が多くない」からこそ、僕が批判する意味があるのだ。興膳氏ほどの社会的地位のある人物が、自分の注意の行き届いた部分でうっかり自分の偏見を露呈させるほど無防備だとは考えにくい。それだけに、例示というあまり重要でない部分にこそ偏見が現れやすくなる。それだけの社会的地位があるなら、自分の言葉が印刷物として定着され、何百万人という日本経済新聞の読者に読まれることを自覚すべきなのだ。

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2004/02/01

日経新聞興膳宏氏コラムの偏見

■今日の日本経済新聞朝刊文化面に京都国立博物館長・興膳宏(こうぜんひろし)という人物が次のような文章を書いている。

「電車の中は、さながら不作法のデパートだ。シルバーシートにふんぞり返る若者、大きな荷物をそばに置いて二人分の座席を占拠している人、これらはいわば古典的な不作法である。最近では、それに加えてアベックのいちゃつき、ドアの前に立ったまま(時には座りこんだまま)動こうとしない高校生、携帯電話であたりかまわず話す人」。

ここから人を示す言葉だけを抜き出してみると、興膳宏氏の見方がかなり偏っていることが分かる。「若者」「人」「アベック」「高校生」「人」、年齢層が特定できる表現はすべて若者を意味しており、「人」と表現されている部分では年齢が分からなくなっている。

しかし電車の中で「不作法」な行動に及ぶ人間で、数の上で圧倒的に多いのは中高年層の会社員である。携帯電話の利用(僕は個人的に電車の中で携帯電話を使うのが不作法だとはまったく思わないが、この興膳宏という人物の定義を採用すればの話である)も、周囲に迷惑のかかる音声通話は圧倒的に中高年の会社員だし、座席に大股を広げてふんぞりかえっているのもほとんどが中高年の会社員、夜遅い電車で大声を上げて騒ぐ酔っ払いもほとんどが中高年の会社員、混雑した車内で通路のど真ん中に立ちふさがっているのもほとんどが中高年の会社員、満員電車の中で人の移動を意地になって妨害するのも体格のでかい中年の会社員、猥雑なスポーツ新聞を全開にして読みふけるのも中高年の会社員、朝の通勤電車で大いびきをかいているのも中高年の会社員、朝っぱらからニンニクやポマードの異様な臭気を醸し出しているのも中高年の会社員、そして、興膳宏氏も含め、そうした自分の醜く不作法な姿にまったく自覚がないのも中高年の皆さんなのである。

昭和57年から京都大学文学部教授をつとめ、平成10年には文学部長、平成12年には名誉教授、平成13年には独立行政法人国立博物館理事に就任した人物が、自分の年代の大人たちの「不作法」を棚にあげて、「若者」や「高校生」や若い「アベック」にこれほどまでに不寛容であるのだから、日本の若者が将来を悲観するのも当たり前である。興膳宏氏は全国紙にこのような若者に対する偏見にあふれた記事を書くことを恥じるがよい。

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2002/10/07

日経新聞掲載の京大名誉教授の悪文

■昨日アップした「京大名誉教授の悪文」について、あれは日経新聞の記者が代筆しているから、同氏の責任は加筆修正における怠慢のみだ、とのご指摘をメールで頂いた。

しかし僕は毎回「私の履歴書」を読んでいるが、あれが記者の代筆という説は信じがたい。その証拠といっては何だが、映画『森の学校』のパンフレットから、同氏の文章を引用してみる。題名は例のひとりよがりな紋切り型、「こどもは群れる」である。

「夏の川原には人影がみえず、がらんとして淋しい。秋のたんぼの土手には柿がたわわに実ったまま、誰も手をつけないまま熟し落ちるにまかされたままだ。川で群れ、水遊びに興じていたこどもたち、柿の木に登り、秋の陽光にほっぺを輝かせて山猿のように柿をほおばっていたこどもたちは、どこへ行ってしまったのだろう。/こどもの自然ばなれがはげしい。蝉とりや魚とりに夢中になり、野を駆け、木に登り群れて遊びほうける『こどもの自然』をとり戻したい。こどもの生き生きとした命を育み、命の大切さをしみこませる自然の中での楽しい遊びの世界を、この映画を通して知っていただけるとうれしい。」

どうだろうか。「がらん」と「淋しい」というのは「馬から落ちて落馬した」に等しい。2つめの文にはなんと3回も「まま」が登場して、大人の書く日本語とは思われない。「ほっぺ」という唐突な口語も「私の履歴書」の文章に共通する特徴だ。

「こどもの自然ばなれがはげしい」ではなく、「こどもの自然ばなれが顕著だ/深刻だ/進んでいる」が正しい。日本語の慣用語法を頭から無視しているのも「私の履歴書」と同じである。「命の大切さをしみこませる」というのも日本語として、言葉のつらなりがややおかしい。

このパンフレットの文章さえも誰かに代筆させているのだとすれば、同氏は文章を書くという行為を冒涜していると言わざるを得ない。僕は飽くまで「私の履歴書」は同氏が自ら筆を執ったものであり、拙文の恥をあえてさらしているのだと信じたい。

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2002/08/25

日経朝刊に蓮實重彦の現代日本批判

■今朝の日本経済新聞朝刊、文化面に前東大学長・蓮實重彦の文章が掲載されている。停滞する現代の日本社会を評して「そんな愚かなことはすべきでないという一言を回避しながら、無駄なエネルギーの浪費を労働の実践と勘違いすることで安定してしまう社会」、「そんな社会に欠けているのは『知性』にほかならず、その欠如は、『変化』の導入をいたるところで抑圧してまわる」と書いている。

本文を読んでいただければ分かるように、氏の省察は主に外貨をめぐってのものだ。知性の軽視が背景にあることは確かだが、一例として外務省の悪名高い体質はその源流に日本の近代化を支えた知性があることを忘れるわけにはいかない。知性を重視することが誤ったエリート意識をはぐくまないようにするためには、知性を担う側の倫理観こそ問われているわけだが、もしかすると『知性』に対する畏敬の念をもっとも欠いているのは、外交官を多数輩出している東京大学法学部ではないのか。

そして一方では誰もがたいした努力もなしにその『知性』を担いうるという誤った平等主義があることも事実だろう。平準化された、もはやそれを『知性』と呼び得ないような知性の普及に役立っているのが『サンデーモーニング』に代表されるようなマスコミであることは間違いない。

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2002/06/20

銀行システム障害で日経の的外れな批判

■金融庁によるM銀行に対する業務改善命令が出たが、これに関する日本経済新聞の社説がやや的を外している。「システム障害を起こした原因で最も深刻なのは、システム管理担当者が真の情報を経営陣に伝えていなかったことである。都合の悪い情報がトップに入らなければ、経営のかじ取りは不可能だ」とあるが、真の情報が経営陣に伝わらなかったのは果たしてシステム管理担当者の責任だろうか。今回の処分でもCIOが辞任したが、これは単なるトカゲのしっぽ切りではないだろうか。

形式的にはシステムに障害が出たのだからシステムの最高責任者が責任を取るのは一見まっとうだが、今回のシステム障害はそもそもそうしたM銀行内の既存の職制による責任分担に限界があったからこそ起こった障害だ。つまりシステムの責任はCIOが取るものであり、経営陣は我関せず、といった既存の職制が今回のシステム障害の原因であり、その原因を除去しない限り問題の根本的な解決にはならない。

にもかかわらずM銀行の処分も日経新聞の社説も、その観点は既存の職制の枠内にとどまっている。上記の社説は正しくはこう書かれるべきであった。「システム障害を起こした原因で最も深刻なのは、経営陣がシステム管理担当者の報告の信憑性をチェックできる監査体制を事前に作っていなかったことである。監査体制がなければ都合の悪い情報がトップに入らないのは当然だ」。

企業統治では社外取締役などのチェック機能が大きな問題になるくせに、システムについてはCIOに対する監査は不要だというのだろうか。M銀行の処分や日経の社説の背後にある、こうした情報システム軽視の考え方こそ問われているのだが、どうやらM銀行も日経新聞もそのことには気づいていないようだ。

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2002/01/31

NGO参加拒否問題で日経の驚くべき不見識

■今朝の日本経済新聞『春秋』を読んで愕然とした。今回のNGO参加拒否問題で「大損したのは鈴木氏」「同情を集める真紀子氏の損は小さい」と書いてある。この『春秋』の記者、今回いちばん損をしたのがNGOであることにまったく触れていないのだ。これで日経の記者がつとまるなら日経はきっと御用新聞なのだろう。信じがたい不見識である。

ピースウィンズ・ジャパンの大西氏が鈴木氏とのやりとりのメモを2002/01/30に発表した。メモの真偽はどうでもいいが、メモについて鈴木氏は読売新聞に対し「自分が言ったのは『君たちは国民の税金を使うので、国民に感謝しなくてはだめだ』という趣旨だ」と述べたという。

この鈴木氏の発言がいかに的を外しているか。命の危険を冒して難民救援活動をおこなうNGOに感謝しているのは、むしろ国民の方なのだ。NGOが国民に感謝するのではなく、国民がNGOに感謝しているのだ。いったい国民の誰が「税金を使わせてやっているのだから、NGOもちょっとは感謝しろ!」などと不遜なことを思うだろうか。

そんな不遜なことを思うのは鈴木氏のような政治家だけだろう。彼はまるで自分が国民の意見を代表しているかのような口ぶりだが、国民の支援を受けているのはNGOの方ではないか。鈴木氏を擁護する『春秋』の記者も同罪、今回の問題で国民の善意をもっとも反映しているのがNGOであり、その次が田中外相であるということをこの記者はまったく理解していない。

たしかに田中外相の人気はポピュリズムの部分もあるだろう。だがワイドショーが鈴木氏を悪役にしたのは厳然たる過半数の「民意」だ。いったい日経はいつから御用新聞になったのだろうか。外務省が鈴木氏の影響力に左右されているように、日本経済新聞も隠然たる権力の奴隷になってしまっているのかもしれない。

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2001/06/27

生保予定利率引下げで日経のデタラメな主張

■昨夜のテレビ朝日『ニュースステーション』での議論と比較してみると、日経新聞の生保予定利率引下げに関する主張がいかにデタラメかが分かる。

日経の主張は「生保がもっと予定利率を引き下げやすくすることが契約者の利益につながる」というものだが、これは大ウソだ。予定利率を引き下げやすくすれば、生保が横並びで利率を引き下げ、契約者がみんな損するのは目に見えている。

今朝の日経の社説は「生保会社が予定利率引下げの手続きを開始すること自体が解約を招き経営不安の引き金になりかねない。それは結局、契約者にも不利益をもたらす」と書いているが、このくだりはデタラメである。利率引下げの手続きを開始して解約を招き、経営不安の引き金を引いてしまった生保は、経営破たんすればよいのである。

そうすれば解約した契約者はより優れた生保会社に乗り換えられるし、経営者は「破たん」というかたちで責任を問われることになる。さらに破たんした生保は生き残った生保や外資の傘下で再生する可能性もある。そうして経営者の責任が明確になった上で生保会社の淘汰がすすんでいくことが、契約者の利益になるのであって、利率引下げをかんたんにすることは、逆に経営者の責任をあいまいにしたままで本来破たんすべき生保会社を生き残らせ、すべての不利益を契約者に押しつける結果になる。

どうして日経はこんなとんでもない主張を社説に堂々と掲載できるのだろうか?もしかすると生保という業態そのものをブッつぶしたいのかもしれないが...。

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1999/09/21

日経「春秋」のとんでもない国立大民営化の主張

■もう日経朝刊一面「春秋」の執筆陣は総とっかえした方がいい。今朝は国立大学民営化の主張だ。「競争にさらして大学を活性化するとともに、官尊民卑をぬぐい去り『民尊』の思想に転換する機会でもある」。

こういう主張こそ「民卑」以外の何ものでもない。国立大学が民営化すれば授業料は確実に数倍に跳ね上がる。日本には教育機関に気前よく大金を寄付してくれる企業家もいないんだし、そうなれば競争社会の大前提である「機会の平等」が損なわれる。

もし東大の授業料が私立大学なみだったら僕は大学に行けなかった。もちろん国立大学をむやみに「仰ぎ見る」必要なんて全くない。しかし日本の全ての大学を民営化しろというのは暴論だ。国立大学の果たすべき使命は「教育機会の平等」である。大学に行くのは金持ちだけでいいという暴論を吐く記者なんて、さっさとリストラしちゃいましょう!日経新聞社さん。

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1999/05/15

Nikkei XとこのWebサイトがシンクロ?

■日経土曜日の紙面「Nikkei X」と僕のホームページで取り上げるネタがラップしてるのは気のせいか?このページがX世代向けだからラップするのは当然かもしれないが、今週は今週でアジア版『TIME』誌の「Young Japan」特集がNikkei Xで取り上げられている。まさか一昨年7月、僕がNikkei Xに抗議の(?)メールを出してから編集部の方々がこのページをチェックして下さっているとか....そんなわけないな。やっぱり気のせいだ。

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1998/12/06

内部告発は組織の健全性の証拠

■昨日の日経『春秋』もちょっとおかしかった。防衛庁背任事件、中島議員の汚職事件についての文章だ。米国の「密告奨励制度」では密告者に対して政府から不正請求額の15%が報奨金として支払われるが、「日本では賛否両論だろう。共同体意識の強いきずなのなか告発自体が勇気がいるし、金が絡むと動機まで疑われる」と書いている。防衛庁事件、中島議員事件のいずれもが内部告発で表面化したことについて、「日本の共同体が崩壊し、病んでいるのだろうか」と結んでいる。

はぁ?不正隠しの道具になっている共同体なら病気でさっさと死んでもらった方がいいでしょ。こんな下らない共同体の崩壊を惜しんでどうするの?前も書いたけど『春秋』はたまにすごくヘンなことが書いてあるので毎日読んでいて飽きません。たぶん一人、ヘンな記事を書くベテラン記者さんがいるんだと思うよ。

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1998/11/26

『日刊京都経済』にコラム掲載

■先週11月19日、京都の地方経済紙『日刊京都経済』に僕の書いたコラムが掲載されました。最近『サプライチェーンマネージメントがわかる本』を出版された中村実氏に紹介して頂いたもので、「経営情報研究会」というメーリングリストのメンバーが持ち回りで執筆しています。京都にお住まいの方はぜひ『日刊京都経済』のご購読を。電話番号は0120-385-036(ミヤコノ・ミリョク)(お前は日刊京都経済の回し者かぁ~!)

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1998/10/24

なぜかポストに読売新聞の見本紙

■昨日の朝、なぜかポストに読売新聞の見本紙が入っていた。「見本紙です。読みくらべてみて下さい」。香山リカが時評を書いていたりまあまあ面白かったのだが、一面の「編集手帳」はアフリカ諸国の教科書展の話題。各国が日本の近代化に寄せる関心の高さを示す例として日露戦争の勝利があげられ、「世界中の非ヨーロッパ民族主義者を勇気づけた」と記されているジンバブエの教科書を引用している。南京大虐殺の記述は?日韓併合の記述はどうなってるの?

というわけで、相変わらず「自由主義主観」寄りの読売新聞でした(そういや高橋源一郎大センセイが最新刊のコラム集で新しい教科書を作る会の本をブンガク的に批判してるよん。ぜひ立ち読みしてみてね)。

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1998/01/02

読売新聞の保守性・日経新聞のリベラルさ

■帰省して久しぶりに読売新聞を読むと、日経新聞とのギャップに驚かされる。日経新聞のリベラリズムがいかに健全かが痛感できる。「名護市長の英断」なんてことが社説に平気で書いてあるのにはあきれる。市民の60%に背を向けるのが英断なら、読売新聞の常務会が社長を決めるときは、12人が反対しても8人が賛成ならOKなの?じゃあ何のための投票なの?小学生が学級委員選挙して、24票の山田君と16票の佐藤君なら、佐藤君を当選させるのが「英断」なの?読売新聞の記者の良識のなさがこれでわかる。

それに対して日経新聞の元日1面は日本女性の声なき反乱がテーマ。結婚した女性が社会進出の機会を奪われる日本の現実に、晩婚化、出生率の低下など、女性は静かな反乱を始めているというもの。日本は集団主義から個を重視する社会へ変革をとげる必要がある。ごもっとも!これが健全なリベラリズムでしょ?

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