2007/12/05

『誤用から学ぶ中国語』のすすめ

以前ご紹介した『中国語文法教室』というすぐれた教材を読み終えたのだが、これより先に読むべき本があったことに今日気づいた。


こちらの『誤用から学ぶ中国語』という本だ。『中国語文法教室』は内容が非常に深い分、カバーしているポイントがやや少ないのに対して、『誤用から学ぶ中国語』は広く浅く、入門文法を学んだばかりの人が犯しがちな誤りをあつかって参考になる。例文にすべてピンインが付いている点でも、『中国語文法教室』より親切だ。


中国語を文法からきっちり勉強したい人は、まず千円台の中国語入門をどれでもいいので一冊通して読み、その後に『誤用から学ぶ中国語』を読み、それから『中国語文法教室』を読み、それから『一歩すすんだ中国語文法』を読めば、完璧ではないかと思う。

しかし、この手の中国語文法書、Amazon.co.jpに古書が一冊もないのは、よほど読む人が少ないのだろうか。

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2007/11/12

カート・ヴォネガット『国のない男』


2007/04に逝去したカート・ヴォネガットの遺作『国のない男』を読んだ。ブッシュ大統領を初めとする新保守主義者たちを「サイコパス」と呼び、ナチスドイツと並列に論じているカート・ヴォネガットにとって、よりによってブッシュ政権下の米国で最晩年を生きなければいけないのは、自分でも笑ってしまうくらいのアイロニーだったのかもしれない。

この『国のない男』という書物全体からは、自虐的なユーモアを通り越した、救いようのない絶望感だけが伝わってくるのが、カート・ヴォネガットの一ファンとしてはとても悲しい。

そして、ヴォネガットのような優れた小説家を絶望に追いやる米国は、やっぱりどうかしている。

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2007/10/15

仲正昌樹著『デリダの遺言』を読まなかった

別の本を買うつもりで最寄の大型書店に立ち寄ったら、たまたま仲正昌樹氏の著作を見つけてしまい、半時間近く立ち読みしてしまった。『デリダの遺言』と『思想の死相』の2冊だ。

『デリダの遺言』では、僕が某国立大学でフランス現代思想を研究しようと思い立つきっかけになった、高橋哲哉氏の最近の政治的発言が批判的にとりあげられているので、思わず読み込んでしまった。

思想書としては久々に面白く感じたので、購入して読もうと思ったが、ふと冷静になって考えた。

仲正氏はこの2冊の書物で、思想は「生き生き」していなければならないという強迫観念を徹底的に批判しているが、仲正氏自身、生き生きした思想とそうでない思想という二項対立の図式に、意図的にコミットしている。

仲正氏の言説のスタイルは、仲正氏の意に反して、とてもわかりやすい。なので思わず立ち読みしてしまう。しかし、仲正氏が批判の意図を明解にするには、二元論図式にどっぷり足を踏み入れる必要がある。

もちろん宮台用語でいえば、これは仲正氏の「ネタ」なのだが、西洋哲学の専門家でない僕のような単なる会社員が、仲正氏の本を楽しむこと自体、「ネタ」を「ベタ」へと転じる過程になってしまう。言い換えれば、仲正氏の受け売りで、高橋哲哉氏のサヨク的言説を批判するようなことになってしまう。

仲正氏の思想的批判書は、僕のような大衆に読まれることを、自ら否定するような自己言及的な構造になっているのだ。

そのことに気づいて、僕は自分には『デリダの遺言』や『思想の死相』を、少なくとも「真剣に」読む権利はないし、同じ理由で、高橋哲哉氏のサヨク的言行を批判する権利もないと思い直し、買わずに置いてきた。

それでも読んでやろうという方は、下記のAmazon.co.jpの任意のリンクからどうぞ。

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2007/08/12

ルーマン「機能と因果性」精読(8)

今回も引き続き Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 - Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.AuflageのIII、ページ数で言うと22ページから読み進めたい。

機能主義的分析についての、ルーマンによるやや冗長な説明の部分である。しかし、冗長なだけに、ルーマンの方法論の基礎がよく理解できる貴重な論文であることに違いはない。

「機能的な関係づけの観点が使われるとき、原因であれ結果であれ、因果過程の諸段階は存在論的な事実性ではなく、問題として考えられている。機能主義的分析の基礎概念は、経験的な仮定の形式になっていない。そのことは機能主義的分析をあらゆる目的論的説明、あるいは、機械的説明から区別する。一定の原因が事実として先行し、それによって一定の結果の発生が説明されるか反転されるかすることが、前提されたり承認されたりしているわけではない。また、ある有機体が事実として存続していたり、あるシステムが均衡を保っていたり等々ということが、前提されたり承認されたりしているわけでもない。関係の統一性は問題と見なされているのだ。それは次のようなことだけを意味する。つまり、機能主義的分析の有効性は、個別の場合で問題が解決されるかどうか、結果が生じるかどうか、システムが存続するかどうかといったことに依存しない。したがって、次のようなことをも意味しなければならない。つまり、機能主義的な言表は、原因と結果の特定の関係に関わっているのではなく、さまざまな原因、あるいは、さまざまな結果どうしの関係、つまり、機能的等価物の確立に関わっているのだ」

この部分の説明もかなり冗長な感じがする。機能主義的分析は、事象の繋辞的な側面ではなく、パラダイムの側面に関わるものである、という意味のことが書いてある。

「機能主義的分析の関係づけの観点は、安定化の問題であって、定数の仮定ではないという洞察が、前面に出てくることになる。ここから、因果論的科学の実証主義にとって、関係づけの観点は何ら適切な説明根拠にならないということが生じる。したがって、これまで機能主義的分析が、システムの(ありうる)安定性を複雑な機能的作用によって純粋に因果論的メカニズムで説明することへと還元されていたのも、もっともなことだった。逆に、機能主義的分析の独自性を主張する人たちは、ある問題が説明根拠や分析の支えとなる根拠としても機能しうるということを―たとえここで言う根拠が存在論的形而上学の意味での根拠ではないとしても―受け入れざるをえないのである」

以上で「III.」の部分は終わりになる。ひきつづき「IV.」を読み進めることにしたい。

「IV.機能主義的分析の主要な問題の一つは、関係の統一性の定義だ。関係の統一性にとって機能的作用は等価である。この問いについて近年、機能主義的方法について賛否両論が集中している。関係の統一性の定義のあいまいさを取り除けないことは、多くの人にとって機能主義的方法に固有な困難さだと見なされている。しかしここでも、関心を因果的確定から等価的確定へと移せば、新しい側面がうかびあがる」

説明もなくいきなり「関係の統一性」という問題が持ち出されているので、この問題を理解するためには読み進めてみるしかない。

「支配的な因果的科学の機能主義は、機能を、存続をもたらすもの、あるいは、ある行為システムの存続の個別の前提となるものとして定義している。そこから機能的作用はしばしば行為システムの存続にはっきりと関係づけられる。しかしこうした定式化をより詳細に調べることで、かなりの困難さが明らかにされた。
 このような定式化は生物学に由来しており、有機体の機能的作用を生きている有機体、あるいは、ある種の有機体に関係づける。しかし生きている有機体という概念に、生物学は一義的な経験的関係づけのシステムをもっているが、社会科学はそれを欠いている。ある社会システムは有機体のように固定された型をもたない。たとえ生存のためにそのような発展が必要であっても、一頭のロバがヘビになることはない。それに対して社会秩序には、その同一性と連続的な存続を犠牲にすることなく、深い構造的変化が起こりうる。社会秩序は農業社会から工業化社会に変わりうるし、大家族が家族を超える政治的秩序をもつ部族にもなりうる。そして、いつ新しいシステムが生じるかは決定不可能だ。そうしたことは、社会科学には死という明らかに切断された経験的問題が欠けていることと密接に関係している。生物学において死の問題は存続の基準となっている。したがって社会科学にとって、あるシステムの存続の問題は不確定なものへと輪郭がぼやけてしまう。次のような意見に対しては、適切に反論できる。つまり、ある社会システムの存続は事実としてめったに問題にされないとか、本当に存続にとって決定的な機能的作用はごくわずかしかないとか、そのような理論による説明の価値はほとんどないなどといった意見だ」

ここでは生物学におけるシステム理論と、社会学におけるシステム理論の違いが問題にされている。一つの決定的な違いは、個々の有機体は死を迎えるが、社会システムには死という終わりがないという点だ。

そのために、そもそも社会システムについては、型(タイプ)の変化を論じることに意味はあっても、存続を論じることに意味はないのではないか、という疑念が出てくるのも当然だ。社会システムは言ってみれば「死なない」のだから、存続のための条件を問題にする機能主義的分析の有効性は限定されるのではないか。そういう疑念が出てきても仕方ない。

もちろんルーマンはそうした疑念に対して反論していくことになるが、つづきは次回ということにしたい。

(つづく)

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2007/07/31

ルーマン「機能と因果性」精読(7)

今回は引き続き Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 - Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.AuflageのIII、ページ数で言うと20ページから読み進めたい。

「III. 因果論的科学の機能主義に対する批判は、認識カテゴリーとしての因果性に対する批判と同一視することはできない。また、前者は後者の排除を目的としているわけではない。そして、機能主義的研究と因果論的研究の対比を指摘するのが問題なのでもない。目的論的因果性と機械論的因果性の古くからの区別を、少し更新しようとするのである。因果論的科学の機能主義に対する批判は、むしろ、因果論的関係と機能的関係が、お互いをどう基礎づけるかという関係性を反転させることを狙っている。つまり、機能とは特殊な因果関係なのではなく、因果関係こそが機能的秩序の一つの適用例なのだ」

この冒頭のパラグラフで、機能と因果性の相互関係についてのルーマンの論旨は明白だろう。これまで機能的関係を基礎づけるものとして考えられてきた因果的関係を逆転させ、機能的関係が因果関係を包摂する概念だと言っている。

「われわれは因果的秩序の概念とは独立に定義できる機能概念を見出したあと、この反転のための観点を作り出すことにしたい。そしてそこからさらに、因果関係をその機能的概念の助けをかりて説明することで、因果的判断に固有な意味が、より有効なものになることを示す」

ここではこの第三章全体の意図が示されている。

「古代ギリシアと中世の因果性が、ほとんど把握できないような意味で、存在根拠への有限の関係として理解されていた一方で、近代の始まり以来、因果性における無限の問題は無限性の問題は、避けられないものとなった。各々の因果論的命題(Feststellung)は無限なものに対する様々な方向での指示を含意する。つまり、各々の結果は無限に多くの原因をもち、各々の原因は無限に多くの結果をもつ。さらに、各々の原因は無限の仕方で他の原因と結びつき、あるいは、他の原因と交換できたりする。そこから結果の領域の中に、それに対応する多様な区別が生じる。最後に、各々の因果的過程は自らを無限に分割するとともに、無限に遠くまで追っていくこともできる」

まずルーマンは、近代以降の因果性概念がさまざまなかたちで無限という問題とからめて論じられてきたことを指摘する。

「こうした問題を見すえれば、因果性の存在論的解釈はその意味をうしなう。したがって、原因と結果を一定の存在状態と解釈することも、因果性を一つの原因と一つの結果の間の不変の関係として確立することも、もはや不可能となる。他の原因、他の結果をすべて排除することは正当化できなくなる。たしかに"ceteris paribus"を前提とすることで、社会科学の"exculping phrase"を公式な具体的言表にすることはできる。しかし、他のすべての因果的要素を事実として完全に排除できないなら、そのような言表は何ら経験的価値をもたない。そして社会科学こそは、そのような排除に成功しない典型例だ」

文中のラテン語と英語は原文のままとした。日本語訳は後日つけることにしたい。なおこの部分の論旨にあいまいさはないので、コメントは控える。

「逆に、もはや一つの原因と一つの結果を法則の形で同時に不変なものとしてとらえようと努めるのではなく、一つの原因、または、一つの結果を不変とすることで十分だとすれば、課題は軽減される。等価機能主義は、こうしたより控えめな端緒を推奨する。原因と結果は、生活実践的な根拠、または、理論的な根拠から、関心の焦点を作るが、等価機能主義は原因と結果のどちらかを機能的な関係づけの観点として利用する。つまり、等価的因果関係についての問いの、不変な出発点として利用する。一つの結果を関係の問題として評価すれば、それに関連して一定の諸原因の領域が秩序づけられる。より多くの原因の結びつきが、その結果を引き起こすのに十分なものとして明らかにされる。このように、問題となっている結果はさまざまな原因どうしを関係づけるための秩序づけの観点と見なされる。同じように原因もまた機能的な関係づけの観点と見なされうる。したがって、これらの原因の正当化は問題としてあつかわれる。その原因に対する結果の外周から、さまざまな目的が可能な正当化として選び出される。そうしてさまざまなイデオロギーが機能的に等価であることが証明される」

ここでは、等価的機能主義が原因からでも結果からでも分析を始められること、そして、特定の原因、または、特定の結果から出発することで、一定の問題領域を開き、その領域の内部においては、すべての要素が交換可能で等価なものと見なされうることが説明されている。

「その際に原因のもとでの比較可能性が開かれるが、それは結果の領域の中から唯一の結果が関係づけのための点として選び出され、抽象されることに基づいている。この抽象化は固有のスタイルをもっていて、種概念と類概念による分類的な抽象化とははっきり区別される。つまり、原因と結果のどちらかの個別的な特徴を捨てるのではなく、付随的な結果を捨てるのだ。付随的な結果をすべて考慮に入れようとすると、もはや諸原因のもとでいかなる選択もできなくなってしまう。諸原因は完全に個別で、しかも比較不可能なしかたで観察されることになってしまう。というのは、たしかに個々の原因は一つの結果をもつが、決してすべての結果を共有しているわけではないからだ。言いかえれば、一つの結果は、その原因から生じる付随的な結果を捨てれば、機能的な関係づけの観点にとって本質的な多義性を得る。それによって、より多くの原因の可能性が(それは付随的な結果によってしか区別されないのだが)、機能的に等価なものとして現れる」

この部分は、等価的機能主義が、無数の原因からたった一つの原因を、あるいは、無数の結果からたった一つの結果を選択することで、諸結果の領域、あるいは、諸原因の領域が等価物の領域として現れるという、方法論上の操作が説明されていると理解する。

このあたりの等価的機能主義の方法論的操作についての説明は、やや冗長な気がするのだが、僕が読み落としている重要な意味があるのかもしれない。

「したがって因果論的要素の機能的分析は、原因と結果の関係だけを問題にするわけではない。たしかにそのような関係は分析の端緒として前提されている。そのような関係は補助的方法としては使えるが、命題(Feststellung)の対象としては使えない。分析そのものは、結果の作用の観点のもとで可能な原因を探求するか、あるいは、原因の作用の観点のもとで可能な結果を探求するかのどちらかに集中する。あらゆる機能主義的分析は、ある選ばれた観点を前提とするので、この両方の探求を同時におこなうことはできない。観点を変えると、探求の成果も変わるからだ。そういう意味で、原因と結果の間には『不確定性の関係』がある。因果性の意味は原理的に原因と結果を同時に一義的に確立することを排除している。因果性についての存在論的解釈が獲得しようとしているものは、獲得できないのである。この洞察が機能主義的因果論の出発点を生み出す。機能主義的因果論にとって、排他的な因果法則はせいぜい分析の極端な場合であり、原因の領域にも、結果の領域にも、他の可能性が存在しないということは、絶対的に制限された等価物の極端な場合と考えることができる。しかし、因果的関係の意味は、このような極端な場合の達成にも、他の可能性の排除にもなく、さまざまな可能性を把握し、秩序づけることにある」

要するに機能主義的因果論は、さまざまな可能性の把握という、「権利の問題」の水準にあるということだ。

(つづき)

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2007/07/24

ルーマン「機能と因果性」精読(6)

前回に引き続き、Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 - Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.Auflageの19ページから精読を進める。

「このような意味での機能概念を、機能的変数の枠内で等価物を確立するための規制原理として理解し、因果論的科学の機能主義のかわりに等価物の機能主義を利用すれば、上述の方法論的困難は解消される。したがって『欲求』はもはや、機能主義的な関係づけの観点以外の何物でもなく、さまざまな欲求充足の可能性が互いに等価であることを明らかにするものであることがはっきりする。それらの等価物は、ある欲求が現に充足行為を動機づけるかどうか、またどれくらいの確率で動機づけるかにかかわらず、確立することができる。したがってそれはまた別の問題形式、つまり、社会システム、または、社会文脈の存続にも当てはめられる」

先に欲求と結び付けられた機能的説明が批判されていたが、ここではあらためて、特定の欲求とその充足行為の個別の結びつきから独立した、純粋な交換可能性の体系としての機能概念が提示されている。

「機能主義はしばしばトートロジー的な定式化だという非難をうけるが、以上のような説明でそのような非難は無効になる。機能的な議論は、見出された作用から、それに対応する欲求を推測し、それによって作用の存在を正当化するといった点にはない。ある論理式は、関係づけの観点の定式化と、すべての等価な実現可能性との間だけに成立する。この論理式は分析的=発見的な原則である。どのような変数値(Einsatzwerte)がそのような機能的クラス、つまり、変数に属しているのかは、逆に経験的認識に関することであり、決して関係づけの観点の定式化からは生じない」

機能主義が、すでに発見されている結果から原因を推測することで、その結果はその原因から生じたのだ、という因果論的な機能主義にとどまる限り、たしかにトートロジーに陥ってしまう。

ルーマンがここで救い出そうとしている機能主義は、交換可能な等価物=変数値と、それらを関係づける点からなり、前者はいつでも他の可能性、他の等価なものと交換できるということから、特定の原因と特定の結果に縛られることなく、他の可能な等価物を探索するための発見的方法としても使える。

「さらにそれによって、機能主義的方法がその前提となるシステムの説明に、本質的に静的かつ保守的に関係づけられるのかどうか、あるいは、歴史的発展を考慮に入れることができるような社会的変化の問題はどうなのか、といった問いをめぐる論争が解決される。機能的方法は等価な他の可能性だけでなく、システムにおける変化の可能性、交換と代用の可能性、および、それらのフィードバックの可能性をも考慮に入れつつ、システムの諸性質を分析する。しかし、機能主義的方法は特定の変化の原因を確立したり、それらを前提することへは向かわない」

機能主義的方法は、システムについて決して静的でも保守的でもない、というのがルーマンの主旨であることは言うまでもない。

「したがって、当然のことながら、関係づけの問題は特定の機能的作用から生じる事実としての結果を『説明』することはない。関係づけの問題はその逆の意味を持ち、他の可能性を指し示す。それらの様々な可能性は、関係づけの問題を比較関係および交換関係へと秩序づける。認識が獲得するのはこれだけだが、過小評価すべきではない。しかしながらこの獲得物は、伝統的な存在論的・因果論的科学では評価が困難だった。したがって、ここまで素描された研究の端緒を、さらに説明することが必要となる」

以上のように「II.」の部分は、マリノフスキーの事例から始めて、機能主義的分析の方法をルーマンが素描したものだと言える。次の「III.」でルーマンは、この最後の部分で予告されているように、機能主義的方法を伝統的な因果論的科学(学問)との比較で、さらに深く論じていくことになる。

(つづき)

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2007/07/22

ルーマン「機能と因果性」精読(5)

前回に引き続き、Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 - Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.Auflageの18ページから精読を進める。

「このような端緒から抽象化の技法と比較に技法が発見される。それらの技法は同一性、観念、類概念といった古い存在論的概念よりも柔軟で、同時に複合的である。たしかに存在論的に構想された観念論は、不確実性を通じて一般概念を獲得しなければならなかった。しかしそうした観念論は、他の可能性の排除の下に観念を絶対的存在の中に確保するために、観念の本質からあらゆる不確定性を排除しようとした。観念論は具体的な世界を―変化の規則の方へではなく―不変の性質の方へと抽象化した。そして観念に可変なものも組み込むことをせず、ただ不変なものだけを組み込んだ。したがって、たしかに一般化はあっても、それは分類の意義しかもたず、世界の変化のための戦略的概念としては役立たない。つまり、他の可能性の発見や、代替物による解決と補完的作用の文脈についての解明のための戦略的概念としては役立たないのだ。機能主義的分析にとって問題となるのは、本質において不変なものという形式で存在を確立することではなく、複合的なシステムの枠内での、可変なものの変化である。不変なものは単に変化の条件として機能するにすぎず、そのようなものとして、特定の機能に対する適応性という観点の下では、不変なものは変数なのである」

ここでは伝統的な存在論的観念論と機能主義的分析が対比されている。ヘーゲルの弁証法的観念論の評価は言及されていないが、古典的な存在論的観念論が静的であり、変化や運動を排除しているというのは、ベルクソンを引き合いにだすまでもなく、よくある論の展開だ。

「存在論的に普遍なものをこのようにすべて解消することによって、徹底的な熟慮の末、機能主義的方法は無限後退という反論にさらされる。つまり、いかなる関係の観点も、それ自身、機能的に分析できるのだとすれば、その研究はいったいどこに限界や、最終的な準拠点を見出すのか、という反論だ」

ルーマンは伝統的存在論の立場から予想される、機能主義的分析への反論を先取りしている。機能主義的分析が、いってみればつねに他の可能性へと送り返すことで成り立っているのだとすれば、機能主義的分析そのものも、機能主義的分析ならざるものへと送り返されるのではないか、という反論である。

これも絶対主義的立場から、相対主義的立場への、よくある反論のパターンだと言える。

「しかしながら、このような反論は、依然として存在論的な思考前提の枠組みの中で動いている思考の文脈においてしか当てはまらない。無限後退というのは、何物かは存在し、かつ、存在しないことはないのだ、ということの根拠に同意することへの反論だ。無限は何物も排除しないのだから、そのような根拠は無限へと解消されてはならない。機能主義的方法の枠内では、そのような根拠づけはいかなる関係づけの観点からも期待されない。逆に、機能主義的方法は、何物かは存在し、かつ、存在しないこともありうるという主張(Feststellung)、何物かは代替されうるという主張を根拠づけるべきなのだ。機能的等価物を確保するには、関係づけの観点が相対的に不変でありさえすれば十分であり、その関係づけの観点は、他の関係づけの観点によって解消される可能性があるものなのだ」

機能主義的方法は、相対的な不変性だけを確保できていればよいのであって、存在論的な絶対的不変性を求めるや否や、無限後退という反論がうまれるのは当然である。

(つづく)

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2007/07/21

ルーマン「機能と因果性」精読(4)

邦訳が出版されていない二クラス・ルーマンの「機能と因果性」のドイツ語原典を引き続き精読してみたい。

なお使っているテキストは、VS Verlag fuer Sozialwissenschaften刊「Soziologische Aufklaerung 1-Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme」の2007/02出版の第7版である。今回はその16ページからということになる。

「II. マリノフスキーの儀式と呪術についての分析は、機能主義研究の古典的パターンだ。儀式や魔術は感情的に困難な事態への適応という問題を参照することで説明されている。儀礼と呪術は緊張の高まる状況を経験せよ、という社会的命令を含意している。凶作と飢饉の脅威や死が迫っている場所では、儀礼と呪術が問題に対する一定の形式の表現を可能にする。儀礼と呪術は仲間の立会いの下、社会的に正しい行動の可能性と必要性を定義し、それによって緊張の経験に形式をあたえることを可能にする。その形式は同時に社会的団結を強める」

ルーマンは機能主義的研究の範例としてマリノフスキーの人類学を持ち出している。

「ここには一見して魅力的で、事実にも基づいた洞察がある。しかしここで興味深いのは洞察そのものではなく、その洞察のもつ魅力と明証性の根拠である。なぜこの種の機能主義的な主張(Feststellungen)が興味深く、明白なのか。このような認識作用はその方法論的正当性の証明をどこに見出すのか」

「こうした明証性の根拠は、機能主義的分析がそこで扱われている事実を比較可能なものにする点にある。機能主義的分析は個々の作用を抽象化された観点に関係づけ、その抽象化された観点はまた別の作用の可能性をも明らかにする。したがって、機能主義的分析の意義は(限定された)比較領域を開くことにある。マリノフスキーが儀式の機能を感情的に困難な自体への適応を容易にすることだと主張するとき、それによってその問題に対する別の解決可能性としてどのようなものがあるか、という問いを、暗に投げかけている。さらに儀式を機能的等価物のその他の可能性に関係づけている。その他の可能性とは、例えばイデオロギー的な説明のシステムや、悲嘆、怒り、ユーモア、爪かみ、想像上の逃避世界に引きこもることなどの個人的反応だ。この点がマリノフスキーの洞察の興味深いところだ。重要なのは、特定の原因と特定の結果の間の規則的な、あるいは、多少なりとも本当らしい関係なのではなく、ある不確かな(problematisch)結果の観点から、より確からしい原因の機能的等価物を確立することなのだ」

ここでは、マリノフスキーを典型とする機能的分析の意義が、比較可能な「他の可能性」、つまり等価物への入れ替え可能性を開く点にあることが主張されている。さらに読み進めてみよう。

「機能的等価物の概念はよく知られており、広く利用されている。しかしその概念は物事を定義するためのメルクマールや、方法の原理とは見なされていない。機能的等価物という概念の可能性は有効に活用されないままだ。この概念の中にこそ機能主義を因果論的方法から引き剥がす鍵がある。機能とは結果を生み出すものではなく、ものごとを規定する意味図式(Sinnschema)なのだ。その意味図式は等価な作用どうしを比較する領域を組織化する。機能とは、さまざまな可能性からある統一的な側面を把握するための特殊な観点を指し示す。この観点においては、個々の作用が具体的な出来事として比較不可能なものとして区別されるにもかかわらず、他方では、等価で、相互に交換可能で、代替可能であるように見えるのだ。したがってある機能はまったくカントが定義したような意味で『様々な表象を一つの共通の表象の下に秩序づけるための行為の統一』なのだ」

ルーマンによれば、いってみれば因果論的分析が、ものごとの統辞論的側面に着目するのに対して、機能的分析がパラダイム的側面に着目しているとされているように思える。

「このような機能概念は最終的に論理的数学的機能理論にも基づいている。これまで、論理的・数学的機能主義と社会科学的機能主義の間の断絶は安易に甘受されてきたが、機能概念の助けを借りれば、その溝をうめることができる。論理学が『~は青い』といった不完全な文を文の機能として扱うとき、特定の可能性から成り立つ限られた比較領域を開くことしか意味せず、それによって欠けているものを補完し、文を真の命題へと完成させる。『空』『私の車』『スミレ』などは、この機能にとって欠けているものを満たす等価物だ。したがって純粋な機能とは一つの抽象化である。抽象化は文の完全な意味を与えない。抽象化は一つの規則を告げるだけであり、その規則にしたがって、文の真偽値を変えることなく、どのような変数値 Einsatze(「独立変数 Argumente」)によって文を完成できるのかが決定される」

この最後の文は訳出しづらいのだが、情報科学の比喩をつかうと理解しやすいだろう。抽象化された文は一つの関数のようなもので、その関数にどのような引数(arguments)を与えるかによって、完成された文の意味が変わってくるが、真偽値が変わるわけではない、ということになるだろうか。

「Einsatz」という名詞はeinsetzenという動詞から来ているが、einsetzenは「はめこむ」というのが最初の意味になっている。したがってEinsatzwerteは、一定の値をもつあてはめ可能なもの、つまり「変数値」と訳してみた。

つづきを読み進めてみる。

「同じような根本思想は数学的機能(=関数)理論でも前提条件となっている。ただし、数学的機能(=関数)理論では、それに加えてより多くの機能的変数値の相互関係に、厳密で明白な秩序が求められている。そのような等価的変数値の秩序が計算操作を可能にしており、計算操作の中では機能(=関数)が変数値を代表している」

Funktionenが「機能」であると同時に「関数」であり、その抽象化の可能性、つまり計算可能性が、代替可能な変数を前提としていることは見やすい。

「すべての機能的等価物の可能性というクラスは、一般に変数として表される。変数とは概念であり、概念は計画的に無規定なままにとどまる。変数とは空位のことだが、変数は任意ではなく一定の方法によってのみ、個々の可能性で満たすことができる。変数は機能的な関係づけの観点によって定義され、その観点を手がかりとして、空位を埋めるどのような可能性が考慮されるかが決まる。また、その観点は別の可能性を発見するための手引きとなる。ある機能の等価物の領域は、機能的な関係づけの観点をどう定義するかに依存している。関係づけの観点の定義は、逆に機能を等価物の領域の構成に向かわせる。そして関係づけの観点を定義することは、このような秩序づけの作用によってのみ正当化される」

因果論に対する機能主義的分析の本質が少しずつ明らかにされているところで、つづきはまた次回ということにしたい。

(つづく)

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2007/07/18

ルーマン「機能と因果性」精読(3)

引き続きルーマンは機能主義的説明を根拠付けようとする努力の3つめの事例を取り上げる。

「3.この問いをさらに究明する前に、説明問題についての3つめの回答が関心をよせるに値する。グールドナーは機能的相互性の概念の助けをかりて解決策を探している。彼は機能自体は決して機能の作用を説明できないという認識から出発する。したがって彼は問題を一つ高い水準に移す。より多くのシステム間の関係という水準だ。機能的作用はふつう一方向的なものではなく、2つ、あるいはそれ以上の多方向の交換の枠組みの中で提供され、そうした交換の枠組みが、関係する諸システム(人格、集団、組織)に存続に必要な作用を供給する」

この3つめの事例では、一つのシステム内部で機能主義的説明を完遂しようとすると、どうしても特定の結果の特権化による因果論的説明を免れない点をふまえた上で、複数のシステム間の機能の相互作用という観点を導入している。

「しかしこの考え方もわれわれの問題の解決にはならない。単に問題の位置をずらすだけだ。まず、このような考え方は、欲求による動機づけがあること、あるいは、個々のシステム内に均衡維持メカニズムがあることを前提として、それらが交換の働きを制御すると考える。したがって、すでに述べたようなさまざまな困難につき当たる。加えて、システムの存続と相互作用の確保を、作用の交換を規則づける一つの『市場』としての上位システムに依存したものにしてしまう。この交換システム自体はその存続が保証されているわけではなく、引き続き必要な個々の作用が提供される想定を十分に根拠づけるものではない。したがってグールドナーは、次のような問題に答えないままになっている。つまり、下位システムはどの程度交換によって存続しているのか。どの程度「補完的メカニズム」(つまり機能的等価物)がその代理となるのか。どの程度交換が役立たないのか。そして最後に、交換システム全体と個別システム全般が存続するのかどうか。ここでも事象の因果論的複雑化だけでは十分な説明根拠にならない」

ルーマンはシステム間の相互作用という説明にも満足していないようだ。

「こうした熟考に共通した根拠となる考え方は、ここで問題となっている因果的科学の機能理論において、特定の原因と特定の結果の間に不変の関係を確立しようとしても成功しないということだ。というのは、それ以外の可能性を排除することに失敗するからである。機能的作用があるシステムの存続をもたあすのは、存在論的に存続が確保されるということではない。つまり『存在、および、存在しないものではないもの』の確立を確保するわけではないのだ。しかし存在しないものと他の可能性を排除することは、存在論的思考前提の枠内にとどまる因果的説明すべてに共通した原理となっている」

ここにいたってルーマンが因果的説明を批判する理由がはっきりする。因果的説明にもとづく機能主義は、いったん特定の原因と特定の結果の間に不変の結びつきを確立すると、それ以外の可能性を原理的に排除してしまう。

そこには存在論の欺瞞的な側面があり、それは現に存在しないものの存在を排除するということだ。ここではまだ明確に書かれていないが、むしろルーマンは、存在しないもの、つまり潜在的なものが、いつでも存在するようになる可能性自体に、システムの存続の根拠を見出そうとしている。

「以上の論述は、マリノフスキーやパーソンズ、グールドナーの機能主義理論を批判するものではない。ただ彼らの機能主義的理論と、一般的な意味での因果論的科学の標準的方法の間の違いに注意を促したいだけだ。伝統的な因果論的実証主義に立脚するとき、ナーゲルやヘンペルとともに、機能主義的理論の欠点に対する反論を解決し、機能主義的理論が厳密な学問性の要求を満たしていないことを確立しようとする傾向がある。しかしその違いを別の方向へ解消することも、同じように正当だといえる。つまり、伝統的因果論的科学の説明方法の有用性に異論を唱えることもできるのだ。しかしそれには機能主義的分析に固有の意味が、原因と結果の間の不変の関係を確立する因果論的科学の規則から独立して、うまく定式化できることが前提となる」

ここから先、ルーマンは機能主義の因果論に対する相対的な有効性についての議論を離れ、機能主義の内在的な正当化へと議論をすすめる。

(つづく)

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2007/07/16

ルーマン「機能と因果性」精読(2)

「機能と因果性」でルーマンはパーソンズの機能主義的方法を要約した上で、その批判的拡張を試みる。

「われわれはこうした批判を独自の本質的なやり方で跡づけ、拡張してみたい。
 その出発点として次のような洞察が使える。つまり、結果によって原因を説明することはもはや不可能であり、それゆえある行為の機能は、その結果を見たとき、その行為の事実としての結果を説明したり、予言を許したりするほど十分な根拠にならない。したがって、機能主義的理論は行為の結果をその機能と関係づけるが、行為の結果を因果論的な補助構造を通じてより詳細にその資格を判定する必要がある。われわれはすでに今しがた、限られた種類の結果しか機能的関係づけの観点として考慮できないことを見た。いまやその結果のもつ特別な資格がどのような方法的意義をもつかが重要になる。その特別な資格によって、結果は十分な説明根拠へと拡張されるだろう。このように試論を進めれば、以下のような3つの例が示される」

ルーマンは機能主義的方法を拡張し、結果を十分な説明根拠にする方法を提示しようとしている。

「1.より古い機能主義的理論では機能的説明が主に欲求と関係づけられ、そこから、動機としての欲求、したがって欲求を満たす行為の原因としての欲求が因果論的に有効とされた。欲求と動機がこのように真剣に同一視されると、生じた結果とそれを生じさせた原因の同一視にまで到り、それによってトートロジー的循環に迷いこんでしまう。それに対して、欲求とそれを除去する動機が分離されると、そのそれぞれを別個に経験的に確立するという困難な問題が生じる。また、欲求と動機の間の論理的(法則的?)関係という問題や、その関係を経験的検証という問題も生じる。そしてさらに、欲求概念がそれによって因果論的な説明能力を失ってしまう」

たとえば、食事という結果的行為を食欲という動機で因果論的に説明しても、じつは何も説明したことになっていない。ルーマンはここで、欲求概念に訴える因果論的説明は、原因と結果の関係性について、なんらプラスアルファの情報をもたらさないことを批判している。

「全く同様に『緊張』または『対立(Konflikt)』といった概念も、欲求の除去という動機を想定するように誘導する。それによってこれらの概念は機能的分析の中心点となり、機能的分析は同時に因果論的説明となる。それによってある科学的世界像が生み出され、その中に緊張の緩和や順応、対立の解消に向かう一見自然な諸傾向が-純粋に方法的制約のある理由から-組み込まれる。結局その根底にあるのは、問題は自らその原因を解消へともたらすものだという楽観的な見解なのだ」

ルーマンはさらに、緊張の緩和、対立の解消といった説明原理もまた、なぜ緊張が緩和されなければいけないのか、対立が解消されなければいけないのか、といった本質的な疑問に答えない点で不十分だとしている。

「2.この因果論的科学による説明の問題に対するもう一つの回答は、均衡理論だ。均衡理論もまた結果をより詳細に性格づけることで機能概念を定義するので、結果を機能的説明の根拠として利用する。均衡理論は機能的説明をもっぱら諸システムだけに関係づけ、諸システムはその環境に対して自分自身を均衡状態に保つとする」

次にルーマンが検討の俎上に載せるのは均衡理論だが、ここでも均衡状態というシステムの結果的な状態が、機能の説明根拠として利用される倒錯を指摘することになる。

「均衡概念による説明は無数に存在する。それらの説明において決定的な考え方は、潜在的な因果性というものだ。システムの中には、かく乱が起こった場合にシステムを安定した状態にもどすように作用する諸原因が存在する。したがって、たとえばお互いを妨害するように定められた機械的な諸力のシステムがあり、それらの諸力はかく乱によって解放されると、均衡を回復する方向に作用するとされる。あるいは、生きている有機体の内部の諸傾向は、特定の環境変化によって共同である原因の組み合わせを生み出し、その原因の組み合わせによって体温が一定に保たれ、流血した傷口をふさぎ、要するに有機体の特定の性質を維持する方向に働く(ホメオスタシスのこと)。あるいは、構成されたフィードバックシステムがあり、環境のある種のデータに関する情報によって、システムの出力を制御する」

ここで例示されているのは、システムの均衡状態が、システムが作動し始める以前に前提されてしまっているシステム論である。ルーマンは当然のことながら、このような決定論的なシステム観も批判の対象としている。

「これらのシステムはすべて、変化する環境の作用に対して特定の特徴を維持する点で共通している。その点でこれらのシステムは、そのような作用をシステム内部の原因によって補完する。したがってシステムは単にシステムの存続に必要な特定の原因が規則的に発生することだけに依拠しているわけではなく、それに加えて諸原因の横のつながりにも依拠しており、それによってある原因の変化という帰結をもたらし、原因どうしが互いに他を補完するように干渉し合う」

ただしルーマンは均衡状態を維持するシステムという考え方に、一つの利点を見出している。それはシステムとその外部である環境の関係から、システム内部で原因の布置そのものが組みかえらる可能性を論じることができるからだ。

「したがって、そのようなシステムの存続安定性は単純な因果関係の複合的な組み合わせによって確保されている。システムの存続安定性は特定の諸原因と特定の諸結果の関係に還元できる。しかしこの関係は、システムを規定しようとすると、法則としてしか定式化されない。つまり、システムごとに一つの変化の可能性しか持たない。熱力学と経済学はこのような意味で、均衡モデルを不変の法則を定式化するための方法的補助手段として使う。このような前提条件があって初めて、システムのある状態から別の状態を推論することができる。そのようにしてのみ、以下のような予知が可能になる。つまり、システムの存続に必要な諸原因の領域内で、環境の制約をうけた変化が起こることで、補完的メカニズムが介入し、システムの重要な特徴を一定に保つ。それに反して、社会生活の領域にはそのように規定されるシステムは存在しない。したがって社会システムに均衡概念を転用すると、概してあいまいな類比や比喩にとどまる。そして、方法的により注意深く考えると、理念形モデルとしての均衡観念が、経験的に記述できる意味なしに導入されるとき、まさにそのことによって均衡観念による説明の実効性が問題となる。パーソンズの研究は均衡観念について一つの注目すべき変種をもたらし、反応メカニズムの考え方を普遍化の概念に結びつけた。パーソンズはそこから出発して、そのような反応メカニズムによって、より確実な方法でシステムを環境の変化に左右されないものとして確立し、その限りで普遍的なものとして確立した。『メカニズム』という概念は特定の原因と特定の結果の関係を示唆し、またそれに対応するパーソンズの機能概念を示唆する。しかし普遍化という概念は、機能概念に対立するものとして構築されている。普遍的なものは独自の方法で特殊性を免れ、まさにそのことによって安定している。普遍的なものはより多くの経験的で多様な可能性に開かれている。その安定性は、イポリット・テーヌが初めて定式化したように、特定の結果に起因せず、代替可能性に起因している。象徴、貨幣、権力、快楽体験などといったパーソンズの普遍化のメカニズムは、おそらく伝統的な因果論的科学の外側に解釈を要求し、その秩序化作用を明らかにするだろう」

均衡概念に関するこの最後のパラグラフでは、パーソンズの普遍化への要求が、機能がシステムの均衡に奉仕するといった目的論的な観点から脱して、代替可能性をもとにした新たなシステム観への道を開くことが予告されている。この点についてルーマン独自の考え方は、本論の後半で展開される。

(つづく)

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2007/07/15

ルーマン「機能と因果性」精読(1)

二クラス・ルーマンの主著『社会学的啓蒙』第一巻(1970年初版)の巻頭論文「機能と因果性」は邦訳がない。

『社会学的啓蒙』の邦訳版によれば、ルーマン自身から強く訳出の要望があったが、各所ですでに引用されているので翻訳しなかったらしい。しかし、機能主義的分析を因果的分析の序列を逆転させるこの論文が、ルーマンの社会システム論を理解する基礎になることには違いない。

「機能と因果性」は次のように始まる。

「機能主義的方法は社会科学において他のさまざまな研究方法の一つと見なされ、概念構築と関連付けの特殊な手法とされる。多くの研究者が機能主義的方法に没頭し、優れた業績に達しているが、機能主義的方法を拒否し、その基礎概念のあいまいさを指摘し、機能主義的方法が一定の価値判断を含み、社会変化の問題に鈍感な点を非難する研究者もいる。あるいは、機能主義的方法を、ふつうの因果律による説明技術と区別するのを認めない研究者もいる。因果論的科学の有効性を検証する厳密な基準に比べ、機能主義的確定(Feststellung)の経験的な有効性や検証可能性の問題もまた未解決だ」

 このようにルーマンは社会科学おける機能主義的方法の評価の低さを指摘している。

「機能的方法をこのようにして限られた意義、限られた成果しか生まない特殊な社会科学的方法として扱うことは、最近キングスレー・デービスが疑問に付している。しかし彼の論文は機能主義的方法の独自性に矛先を向け、いま機能主義が陥っている方法論的困難は、ある部分は不要なものとして、ある部分は社会学と社会人類学に共通の問題として描かれている。機能主義は一面的な因果論的説明や実証的経験主義、進化論的歴史主義に戦いを挑んではいるが、現代のより成熟した社会科学の競技場において余計なもの、鋳つぶしてしまえるものにされかねないと書かれている」

ここは機能主義低方法の評価の低さの具体例である。

「統一的な機能主義的社会科学についてのこのような考え方は魅力的かもしれないが、社会科学の統一の方向ではなく、機能主義的方法の批判の形へ発展する。社会科学の方法論的統一への展望はこのように一気に疑問に付され、破壊される。われわれはこんなことを受け入れなければならないだろうか。
 機能主義的方法の特殊な地位とデービスによる批判は、一定の前提条件をつければ、機能主義と因果論的研究の関係について主要な論点となる。しかしそれらの前提条件は、めったに研究されず、特に方法論的考察のテーマにもならない。仮に研究されれば、目的論的因果性と機械論的因果性の古くからの対立に一貫して流れる観点を確立できるだろう。機能は因果論的概念によって定義されるだろうし、行為、役割、あるいは制度といったものの機能が、事実として引き起こした結果を因果論的に説明できるかどうかが問題になるだろうが、その答えはもちろん否である。したがって因果論的関係が一意的で時間的な方向付けを得て以降(因果論的関係は古代ギリシアの思想家にとっても、中世の思想化にとってもそのような方向付けを持っていなかったのだが)、もはやどんな種類の結果も原因から説明することはできない」

ここでは、因果論との対比で機能主義が真剣に論じられてこなかった点が指摘されている。

「われわれはあの有名な目的因(causae finales)に対する反論を蒸し返す必要はない。問題はそれらの反論が科学的方法としての機能主義にふさわしいかどうかだ。結論を先取りしておこう。機能主義的方法の自己理解が伝統的な存在論的因果論解釈にとどまり、結果による目的論的説明や、原因による機械論的説明とは別の選択肢に関心をもつ限り、それらの反論は機能主義にふさわしい。機能主義的方法が自分で自分を規定し、もはや特殊な因果論的関係としてではなく、逆に機能的カテゴリーの特殊な応用例として因果性が考察されるとき、それらの反論はふさわしくないものになるだろう」

ルーマンは機能主義的方法論を、因果論的方法論から独立に定義することを目指しているのだ。

「I.社会科学は、論理的数学的な機能概念にはっきりと反論するとき、機能的関係を例外なく一種の結果として定義し、因果論的科学に従属させる。目的論的概念を直接使用するとき、しばしばそういうことが起こる。そこでは特殊な結果が目的と見なされ、機能はその目的にかなった行為と見なされる。しかしこのような解釈は、その目的概念をより詳細に説明しようとすると困難に陥る。たしかに予期され、意図された目的だけを考えるわけにはいかず、社会科学の重要な問題はまさに行為の結果の中でも熟慮されなかった結果の領域にあるからだ。そうでなければ目的とは一体何だろうか。目的は行為のその他の結果からどうやって区別されるのだろうか」

ここでは、一つの行為から生まれる多数の結果のうち、特定の結果をその行為の目的として特権化することの欺瞞があばかれている。痛快である。

「これらの問いに対する説得力のある答えはまだ一つも見つかっていない。したがって社会科学、特に社会学と人類学は生物学の研究方法を手本にして、目的論から自由な機能的概念を発見した。複合的に構築された統一体、つまり一つのシステムを存続させる限りにおいて、ある行為を機能と見なしたのだ。この考え方はタルコット・パーソンズによって最も根本的な原理に完成された。パーソンズにとってシステムとは行為のシステムであり、それらの行為は相互に依存し、そのような相互依存によって環境に対して相対的に不変である。つまり環境変化から独立している。いかなる行為もそのようなものとしてのシステムの存続に貢献しており、それによって一つの機能をもつ。一つの機能はまた一つの特殊な結果として特徴づけられる」

ここはタルコット・パーソンズのシステム理論のルーマンなりのまとめだ。

「『システムの存続に対する貢献』や『システム問題の解決』、『システムの統合や順応への要求』などの定式化が単なる因果関係しか意味せず、『AはBの原因である』といったタイプの主張を根拠づける必要があることが明らになると、多くの疑問が浮かんでくる。これらの前提は、ひとたび明らかにされると、因果論的科学の通常の方法論的規則を参照することになる。つまり、一定の原因と一定の結果の間に不変の関係を固定化することで、経験的データを予言し説明する目的を参照したり、そのために必要な理論的かつ実践的な技術をも参照する。このような因果論的科学の厳密な方法論は因果論的判断の真理探究能力を決定している。その方法論がなければ、因果論的言述は原因と結果の関係について学問的有効性をまったく持たなくなってしまう。ここから、ナーゲルとヘンペルは社会科学における機能主義を、これら因果論的科学の方法的諸要求と対立させる権利を得た。その結果は概して否定的だった」

ルーマンの論の展開は速く、ここでは早くもパーソンズの機能主義が一般的な因果論の方法論を要求してしまっていることを暴いている。

(つづく)

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2007/05/27

最適なルーマン入門書『ルーマン 社会システム理論』

ルーマンの『社会システム理論』を英訳のペーパーバック『Social Systems』で少しずつ読みすすめていたのだが、部分的な理解はできるものの、ルーマンの企図の全体をどうしても把握できない。

これまでとっつきやすい入門書には頼るまいと、あえて読まずにいたのだが、ついに誘惑に負けてゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著、舘野受男、野崎和義、池田貞夫訳『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)を買って読みはじめた。

おかげで、なぜ『Social Systems』が理解できないのかが理解できた。1984年に出版された『社会システム理論』は、1960~70年代の社会システム理論の構想を発展させたものであり、それを理解していることを前提として書かれているからだった。

クニール、ナセヒ著の入門書の前半は、ほとんどルーマンの『社会学的啓蒙』という論文集からの引用で占められているので、おそらく1960~70年代の「社会システム理論」を理解するには、まず日本語訳の存在する『社会学的啓蒙』を読むべきであるらしいことがわかった。

いずれにせよ、この入門書のおかげで、ルーマンの社会システム理論の理解にかなり見通しが出てきた。逆に言えば、原書にいきなりあたったときの僕の理解力が、その程度のものでしかないということなのだが。





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2007/05/15

『知恵の樹』と『行為の代数学』

ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ著『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)と、大澤真幸『行為の代数学―スペンサー・ブラウンから社会システム論へ』(青土社)を読んだ。

ルーマンの社会システム理論を理解する前提として、オートポイエーシス理論とスペンサー・ブラウンの理解が必要なのでは、と考えたためだ。

ただ、『知恵の樹』は平易な入門書なので、一般的なサラリーマンにとっては良い頭の体操になるだろうが、オートポイエーシス理論について突っ込んだ記述がなく、実在論と観念論の中庸を行くというスローガンと、生体システムと環境はどちらが先ということではなくお互いがお互いを生み出すのだということが理解できた程度に終わった。

また『行為の代数学』は、どこまでがスペンサー・ブラウンの所論で、どこからが大澤真幸氏の敷衍なのかが分かりづらい。

スペンサー・ブラウン独特の原始算術と原始代数の簡潔な解説は、初めてその方法論にふれる僕にとっては興味深いものだったし、「これって否定と論理和で書き換えられるのでは」と思ったら、案の定、巻末に大澤氏によるブール代数への書き換えが行われていた。

もっともスペンサー・ブラウンそのものについて、評価は分かれるようで、たとえばこちらの「スペンサー・ブラウンなんていらない」というページがある。原始代数は単なるブール代数であり、re-entryは単なるフィードバックだと断じれば、確かにスペンサー・ブラウンなんでなしで済まされるのかもしれない。

さらに『行為の代数学』では、スペンサー・ブラウンもベルクソンもジャック・デリダもヴィトゲンシュタインも究極的には同じことを言っているのだと書かれているような印象が残り、また文体の面では「要するに」が頻出するため、単純化が過ぎるのではないかと考えた。

マトゥラーナ、バレーラについては他の著書も読む必要がありそうだし、スペンサー・ブラウンはやはり原著『形式の法則』(大澤真幸、宮台真司訳)に当たってみる必要がありそうだ。もちろんスペンサー・ブラウンがまともに相手をする価値のある思想家であるとすればだが。

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2007/04/29

ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』

先日、米国の小説家カート・ヴォネガット氏が亡くなったのにちなんで、勝手にヴォネガット追悼週間ということで、近所の図書館にあった唯一の文庫本『チャンピオンたちの朝食』を読んだ。訳は当然のことながら浅倉久志氏。

浅倉氏による日本語訳が出ているのは1984年だが、原書は1973年の出版、訳者あとがきによればヴォネガット氏が『スローターハウス5』の次に完成させた作品ということらしい。

題名から主人公がボクシング選手だと想像する方もいらっしゃるかもしれないが、題名と小説の内容はほとんど無関係。スタイルとしては短い断片と百以上の筆者自身によるイラストからなるメタフィクションで、著者自身が「わたし」として登場する。

1970年代米国の拝金主義、環境破壊、根強く残る人種差別などを軽妙な文体で執拗に批判しつつ、主役、脇役にかかわらず、さまざまな登場人物が平等なディテールで描かれ、物語らしい物語もないまま、はちゃめちゃなクライマックスに向かっていくといった感じの小説。

あえて人道主義的な人間観を相対化して、機能主義的な人間観を通低させている点は、同時代のフランスのポストモダン哲学と共鳴するところがあるように思える。

その意味で、米国で完全に異端あつかいされてしかるべき、ヨーロッパ的な世界観のはずなのだが、米国では出版当時、絶賛と激しい批判が同時に巻き起こったらしい。この作品が絶賛されるという点に、息苦しい日本社会とは違う、米国的自由の本質を垣間見るような気がする。

ヴォネガット特有の悲観主義と皮肉っぽさを楽しめる人にとっては、麻薬的な魅力をもつけれども、何のことだかさっぱりわからない人にはわからないといった性質の小説。高橋源一郎の小説の愛好家なら文句なしに楽しめる作品。

土曜日の朝、NHKFMラジオでピーター・バラカンの番組を愛聴している日本人と、ヴォネガットの愛読者である日本人は、かなり重複しているのではないかと勝手に想像する。

ただ、初めてヴォネガット作品を読む人にとって、おすすめできる作品ではないかもしれない。やはり『スローターハウス5』か『母なる夜』(昔は白水社の新書でも読めたが、今でも読めるのだろうか)をおすすめしたい。

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2007/04/20

川本隆史著『ロールズ―正義の原理』

現代思想の冒険者たちシリーズ、川本隆史著『ロールズ―正義の原理』を読んだ。宮台真司と宮崎哲弥の対談書でおすすめ文献になっていたし、これまでどちらかと言えば理論的な哲学書ばかり読んできた僕にとって、実践的な理性、倫理学の領域はまったく未知だったからだ。

アリストテレスについては『形而上学』は通読したが、『ニコマコス倫理学』はまったく読んでいないし、カントにしても『純粋理性批判』は通読したが、『実践理性批判』は1ページたりとも読んでいない。

それでいきなり現代思想家のジョン・ロールズは飛躍がすぎるかもしれないが、この入門書はそれなりに面白かったし、予想どおり少しだけ退屈だった。退屈だった理由は、本書がジョン・ロールズのダイジェストでしかないからであって、入門書が本質的にもっている限界だから仕方ない。

ただ、本書は時間があればぜひ『正義論』をじっくりと読みたいと思わせるだけの説得力を持っている。

僕らは何が正しくて、何が間違っているのかを論じるときに、共有できるものが少なすぎる。そのため、ジョン・ロールズが批判している「直観主義」で場当たり的な判断を下してしまう。また、個人間に多少格差があっても、全体の総和としてより良くなればOKと思ってしまう。これもロールズが批判する「功利主義」だ。

ここで以前ご紹介したことのあるリバタリアニズム、つまり、国家の介入は最小でよく、あとは個々人が自分自身の幸福をとことん追求しさえすれば、最終的にすべてうまくいくという考え方も、ロールズが厳しく批判する考え方だ。

何が正しいかを根気強く考えることをやめたとき、僕らは直観主義や、功利主義、リバタリアニズムなど、「わかりやすい」考え方に流されてしまう。それに対してロールズは、善の前提としての正義、公正としての正義を非常に慎重な足取りで解明している、らしい。「らしい」というのはロールズの著書を1ページも読んでいないからだが。

しかし、そういうロールズの『正義論』と、宮台真司が理論的な基礎としている社会システム論の明快さが、どうして両立するのかが理解できない。それを理解するためにも、ルーマンの『社会システム理論』とロールズの『正義論』はぜひ通読したいのだが、残念ながら集中して読めるような時間はない。いつになったらそのための時間をとれるのだろうか。

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2007/04/14

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

予想されたことではあるが、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』は半分も読まないうちに図書館へ返却となった。体形だった論文ではなく、いくつかの主題がくり返し断片で論じられる形式なので、非常に読みづらかった。

要するに言語というもののルールは恣意的であり、可能性としてはつねに他のルールでもありうるような一種のゲームであるにもかかわらず、われわれはいかにしてその言語をつかって真理を語ることができるのか。言語をつかって真理を語る権利や資格を、人間はいったいどこから得ているのか。そういうことが書いてあるのだと理解した。

このような理解がある程度正しければ、学生時代に僕が理解しようと努力していたフランスの哲学者ジャック・デリダと、方向性としてはそれほどズレていない。

ヴィトゲンシュタインが言語の「限界」について、ひたすら愚直に探究しているのに対して、ジャック・デリダが一見不真面目に見えるほどまでに、言語の恣意性と戯れている、そういったスタイルの違いがあるだけのような気がする。

...と、分かったようなことを書いても何の意味もない。『哲学探究』から現在の僕が何か得るものがあったか。残念ながらなかった。本書から何かを得るためには、同じ問題をヴィトゲンシュタインとともに考えながら読まなければならないのだが、じっくり考える時間が僕にはないからだ。

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2007/04/13

カート・ヴォネガット死去

今朝、郵便受けに勝手に投函されていた『産経新聞』の試読紙の社会面で、カート・ヴォネガットが84歳で死んだことを知った。一時期、かなりハマった米国の作家だが、ここ数年はまったく読まずにいた。

この「愛と苦悩の日記」でも、彼の小説にたびたび登場する「自殺パーラー」については何度かふれたことがある。個人的にもっとも印象的だった作品は『母なる夜』だ。映画化された作品も観た。この機会に、まだ読んでいない彼の作品を読んでみようか。

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2007/03/08

イリイチ『シャドウ・ワーク』

今さらながら、イリイチ『シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う』(岩波現代文庫)を読んだ。正確には最寄の大型図書館で借りていたので、引越し前に返却する必要があり、途中までしか読めなかった。

以前この「愛と苦悩の日記」にも書いたように、僕は高校生から東京大学の前期課程にかけて、かなりフェミニズムに傾倒し、日本女性学会の記念大会や、女性解放論者の国際会議にも出席していた。

また、ファッションも意図的にフェミニンなものを身に着けていた。僕のことを知らない人は、おそらく同性愛者だと勘違いしただろう。

そういう学生時代の僕にとって、主婦の家事労働を資本主義社会の必然的帰結としての不払い労働、「影の仕事(シャドーワーク)」と呼んで批判の俎上にのせる本書は、フェミニストの間で賛否両論あったこともあり、必読書だったはずだ。

にもかかわらず、今ごろ初めて手にとっていることからも、学生時代の僕がいかに実存的な問題の泥沼にはまりこんでいて、現代哲学を冷静に研究する余裕などなかったかがわかる。

ただ、今回イリイチの『シャドーワーク』を読む前に、広松渉の一連のマルクス思想の解説書を読んでいたいことが偶然にも大変役立った。マルクスは資本家が労働者の労働が生み出す価値のうち、余剰価値の部分を「正当に」簒奪することが、資本主義を成り立たせている余剰価値の源泉であることを暴露した。

そしてイリイチは、マルクスが通りすがりにしかふれなかった、再生産のための「家事」という家庭内の不払い労働と、「主婦」という存在に、マルクスの資本主義批判の枠組みを発展させるかたちで切り込んだ。

しかし残念ながら『シャドーワーク』の率直な読後感は、あまりに理想主義的だ、というものだった。イリイチは「バナキュラーな」という形容詞をキーワードに、社会の資本主義化によって失われた、各地域固有の(=バナキュラーな)生活様式を回復させようとしているようだ。

男性労働力が資本家にとっての商品になったことで、家庭に残された女性は資本主義以前にはなかった「主婦」という位置づけになり、無償の家事労働を強いられるようになった。イリイチは男性労働力を再び共同体内の生産活動にとりもどし、女性も共同体内で男性と同等に労働する社会を夢見ているように思える。

また、子供の教育を国家による管理から共同体にとりもどし、さらに標準国語も大航海時代の発明品だとして相対化し、各共同体が、共同体内で通じる言語を、自ら子供たちに教育していく社会を夢見ているように思える。

現代文明をここまで根本的に相対化するイリイチの視点は、たしかに興味深いと言えるけれども、今さら個々の共同体特有の文化や生活様式の復興を主張するのは、行き過ぎた理想主義ではないか。

今僕らが生きている社会は、それを高度資本主義と呼ぼうが、グローバリゼーション呼ぼうが、不可逆な変化の過程であり、実現可能な改革の処方箋は、今の社会の中でできること、つまり体制内改革、構造をその内部から変えていくような方法論でしかありえないはずだ。

こう考える僕にとって、『シャドーワーク』という現代文明批判の書は、あまりに理想主義的すぎた。でも広松渉のマルクス解説を読んだ後に、偶然にも本書を手に取ったのは幸運だった。順番が逆であれば、イリイチが何を前提にして家事労働を論じているのかが理解できなかったに違いないからだ。

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2007/02/12

廣松渉『物象化論の構図』

廣松渉『物象化論の構図』を読んだ。物象化というマルクス哲学の基本的な着想を手がかりに、マルクスの思想を教条的な誤解から救い出そうとする論文集だ。やはり学生時代、マルクスを無視して西欧現代思想の研究をしようとしていたのは完全に間違いだった。

廣松渉は肺ガンを宣告された後、主著『存在と意味』の執筆を中断してまでも、余命をマルクス思想の復権のために尽くしたと言われる。ソ連崩壊によってマルクスの思想は教条的な解釈とともに葬り去られてしまったが、その状況に抗して廣松渉は最期までマルクスの思想の現代性を顕揚しようとした。

僕自身、マルクスと言えば、無産階級による世界革命によって資本主義を拝し、国家統制経済へと移行する道に理論的背景を与えた思想家で、社会の下部構造(経済)が上部構造(文化)を決定する下部構造決定論者だという具合に、完全に誤解していた。

現象学からハイデッガーの存在論、構造主義、脱構築という流れの中で、マルクスの思想は完全に乗り越えられてしまっているので、今さら勉強するにも値しない。『資本論』など概説書をかじって読んだつもりになっていれば十分、くらいに思っていた。

ところが最近になって宮台真司をきっかけに、廣松渉のマルクス論を続けて読むにつけ、僕のマルクス理解が救いようのないほど通俗的で教条的なものであることに気づかされた。今ごろ気づいても完全に手遅れなのだが。

廣松渉のマルクス論を読んでみて、いちばん「目からウロコ」だったのは、マルクスの思想が唯物論ではないということだ。世界とは人間がそう考えている観念なのか、それとも人間とは独立に存在するものなのかという、古代ギリシア時代からの西洋哲学の論争について、僕はマルクスは世界の客観的な実在を前提とし、世界の物質的条件が資本主義を自壊させて共産主義をもたらすといった歴史観を主張しているのだとばかり思っていた。

しかし廣松渉は、人間の抱く観念こそ真実だと主張する立場も、世界の客観的実在こそ真実だと主張する立場も、どちらもマルクスはしりぞけていると論じている。マルクスはそこにあるのは、人間と自然(この自然も無垢ではなく、人間によって長い歴史の中で変容をこうむってきた自然なのだが)、人間と人間どうしの「関係」だというのだ。

人間と自然の関係を、人間の方にひきつけて自然を人間が頭の中で考えたことに還元してしまえば、それは観念論になり、自然の側にひきつけて自然の客観的実在に還元してしまえば唯物論になる。このように、本来は人間と自然、人間と人間どうしの相互作用であるものを、どちらか一方の極にひきつけてしまう見方を、マルクスは「物象化」として批判している。これが廣松渉がマルクス思想から救い出した物象化論だ。

この物象化論を手がかりにして、廣松渉はハイデッガーの存在論でさえ、部分的にはマルクスの思想から後退してしまっていると批判する。マルクスの物象化論は、マルクスの思想が西洋哲学にとってそう簡単には乗り超