書籍

2012/02/20

安冨歩『原発危機と「東大話法」』を読んだ

安冨歩著『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』(明石書店)を読んだ。

本書は東京大学教授である著者が、これまで原子力発電を推進してきたり、福島第一原発事故後も原子力の安全性を主張したりしている、主に東京大学出身の学者たちの「傍観者」性や「欺瞞」性を論じている。もちろんその矛先が著者自身にも向けられていることを、著者は自覚している。

本書の白眉は、香山リカの小出裕章助教批判や、池田信夫の原発に関するブログ記事が、いかに「東大話法」的かをこと細かに論証している部分にある。

後半の第4章、第5章については、人によって見解は分かれるだろうが、前半の香山リカや池田信夫の「東大話法」の検証部分は、ご自身で読まれるのがいちばん面白いと思うので、ぜひ手にとってお読みいただきたい。

また、あとがきによれば、どうやら本書に収まりきらない部分(原発推進の国策と田中角栄的なるものの関連性など)があったらしく、それは後日、別の書物として出版されるそうだ。そちらも楽しみである。

さて、僕のこのブログでは「東大話法」の規則として筆者の安冨歩氏が挙げている項目が20個と、やや多すぎる感があるので、あえてもっとコンパクトにしてみたい。「東大話法」として著者があげているのは以下の20の規則である。

なお、この規則だけを読んで『原発危機と「東大話法」』を読んだ気にならないで頂きたい。くり返しになるが本書の最も面白い部分は香山リカと池田信夫の具体例の分析である。

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。

規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。

規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。

規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。

規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。

規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。

規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。

規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。

規則14 羊頭狗肉。

規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。

規則16 わけのわからない理屈を使って、相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。

規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。

規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。

規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。

規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

では、これら20個の規則を、以下、コンパクトにまとめる努力をしてみる。

規則1、2、19は、著者の非難する日本人の「立場主義」に関するものだ。

「立場主義」の詳細については、安冨歩氏が本書の第4章で「立場」という言葉の語源から始めて、近代以降、夏目漱石の小説にあらわれる「立場」という言葉の意味の変遷を事例に、どのように現代の意味になっていくかを跡づけている。直接お読みいただきたい。

「立場」とは自分の所属する組織における「立場」のことで、それに反する言動をとると、組織における「立場」を失うことになる。日本人は個人的信念を横において、あくまで組織内の「立場」に沿った言動をとることを優先しがちだ。

規則19は、個人の良心や主張より、組織内部で自分の「立場」を守るために必須の行動規範といえる。八方美人的な態度をとれば個人の主張に一貫性はなくなるが、組織内での自分の「立場」は安泰だ。

したがって規則1、2、19は「個人としての良心より組織の目的を優先させる」とまとめられる。

単に「意見」ではなく「良心」という言葉を使うのは、その人なりの倫理観という意味合いを含めたいからだ。組織上の「立場」を守るために、その人が本来もっていたはずの倫理観まで捨ててしまっているように見える事例を、僕らはたくさん見て来ている。

次に、規則3、4、13は、いずれも議論の枠組みや範囲を死守し、他人に変更させることを許さない態度を示している。つまり「議論の枠組みの変更を拒絶する」とまとめられる。

社会に存在するさまざまな問題は、それ単独で存在しているわけではなく、他の問題との関連性の中でしか位置づけられない。その問題だけ取り出せば純粋に原子物理学の問題であっても、その問題は人々にどのように受け取られるかによって、社会学の問題にもなる。

そのように、ある問題についての議論は、枠組みを特定の学問分野や、特定の空間・時間に限定することなく、枠組みを移動したり広げたりすることで、初めてより普遍的で妥当な議論になる。

議論の枠組みの変更を拒否するというのは、その議論に対する新たな立場からの批判や検証を拒絶するのと同じことだ。

次に、規則5、6、7、10、11、12、16、17はすべて、その場その場での(アドホックな)自分自身の印象操作、自己演出のことを言っている。場面によって自分をどう見せれば、自分の議論を通すことができるか、についての規則だ。

こうした印象操作や自己演出は、議論の中身が妥当かどうかと全く無関係におこなうことができる。極端な話、自分の議論の内容が完全なデタラメであっても、自分が他人にあたえる印象をうまく操作し、自分で自分を演出することで、議論があたかもまともであるかのように見せることができる、という規則になっている。

これらは「単なる偽装」「単なる恫喝」「情報の非対称性の悪用」の3種類に分類できる。「情報の非対称性」という言葉については後で説明する。

規則5、7、12は「単なる偽装」にあたる。ただし、偽装が偽装として成り立つためには、偽装であることがバレてはいけない。「東大話法」においてそれをバレなくさせているのは、「東大教授」など、話者の肩書きである。

こうした肩書きをつかってムチャクチャな議論を、あたかも妥当な議論であるかのように偽装する方法は、テレビなどのマスメディアが情報バラエティー番組で日常的に行なっている。健康食品の効果を説明するのに、大学教授を出演させるなどである。

なのでこの「単なる偽装」については、どちらかと言えば、「大学教授」といった肩書きだけで安易に納得してしまわないように、情報の受け手側がだまされない努力をする必要がある。

いわゆる「情報リテラシー」を身につけ、たとえ権威ある学者や、大手新聞社、全国ネットのテレビ局、大企業の経営者が言っていることであっても、鵜呑みにしないことだ。

そして規則6、10が「単なる恫喝」にあたる。これは理性的な議論以前の問題で、議論の相手や聴衆に恐怖の感情を引き起こし、こちらの議論の中身について真剣に考え続けるよりも、素直に従ったほうが楽な状況を作り出す方法だ。

ただし、これが有効であるためには、ある程度、頭数が必要になる。多勢に無勢では恫喝そのものが成り立たないので、自分の支持者が一定数存在し、自分の意見に反対する人間を恫喝してくれる状況が整わないと、この「単なる恫喝」は実行できない。

「東大話法」における恫喝のポイントは、相手に効果的に精神的ダメージを与えることができる「手先」を、いかに多く自分の支持者にできるかにかかっている。罵詈雑言が得意な「チンピラ」をたくさん仲間にしておけば、自分は安全な場所にいたまま、「チンピラ」たちが勝手に反対派への恫喝をやってくれる。

ツイッターである人と真剣に議論しているのに、横から突然、議論と全く関係のない個人攻撃をしてくるような人間が「チンピラ」にあたる。

残りの規則11、16、17が「情報の非対称性の悪用」にあたる。これは学者の職業倫理としては最も卑劣な方法だろう。

「情報の非対称性」とは、ある事柄について一方が他方よりも圧倒的に多くの情報や知識を持っている状況のことだ。

ある学問分野について専門的に研究してきた学者が、一般市民より圧倒的に多くの情報や知識を持っているのは当然だ。その当然の結果を、自分の意見をより堅固なものにすべく、批判をうけ入れるために使うのではなく、自説への反論を封じるために使うのは、学者として最も卑劣な態度と言える。

ここまでをまとめると、次のようになる。

(1)個人の良心より組織の目的 (規則1、2、19)
(2)議論の枠組みの固定化 (規則3、4、13)
(3)自己の権威を利用した偽装 (規則5、7、12)
(4)支持者の頭数を利用した恫喝 (規則6、10)
(5)情報の非対称性の悪用 (規則11、16、17)

残りは規則8、9、14、15、18、20だ。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

規則14 羊頭狗肉。

規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。

規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。

規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

このうち、規則8、9、15、20は、すべて「相対主義の悪用」にあたる。

相対主義とは、世の中にはさまざまな意見があって、そのうちどれが絶対に正しいということは誰も断言できない、という考え方のことだ。

自分の議論により説得力を持たせるには、世の中にはさまざまな意見があり、自分はそれらの意見を公平に検討しましたよ、というフリをするのが効果的だ。

さまざまな意見を検討した上で、自分はこの意見にたどり着いたという具合に、いったん相対主義をくぐり抜けましたよ、という演出をすれば、自分の議論により説得力が出る。

その「多様な意見を検討した」というアリバイづくりが規則8である。規則8における発言者のレッテル貼りは、それほど敵意むき出しでやらなくても、冷静に行うだけで、自分がさまざまな意見の検討を経ているかのような演出は十分に成り立つ。

規則9は、自分の意見が誤解をうける可能性があることをあえて言うことで、自分の意見が聞き手にどのように受け取られるか、それによってどのような反論が出てくるかまで、あらかじめ検討済みですよ、というフリをしている。

規則15は、自分を批判する演技を見せることで「この人は自分自身の意見をも相対化しているのだ」という印象を与えることができる。

規則20は、「もし○○であるとしたら」とあえて発言することで、自分が「○○である」場合も想定したことを主張している。自分がさまざまな反論の可能性をすでに検討していますよ、と主張することで、自分の議論の妥当性を印象づけることができる。

このように、自分の意見を自分で相対化するフリをするのは、自分の意見に説得力を持たせる効果的な方法だ。謙虚さを重んじる日本人にとっては、自分の意見を相対化する、つまり、「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」と認めて見せることによって説得されやすい。

さて、残るは規則14、18だ。

まず規則14は、安冨歩氏の著書では、文章にわざと論旨と無関係な題名を付けることを指している。論旨に沿った題名をつけると、読み手は文章を読む前に身構えてしまう。するとまっとうな反論をされるおそれがあるので、わざと論旨と無関係な題名を付ける。それが規則14だ。

これと規則18も同じ効果をねらっている。自分の主張を一つひとつ着実に根拠づけていくような議論の展開をすると、それだけ読み手に反論の機会を与えることになる。逆に、自分の主張と直接関係のない議論を延々とやった後に、突然、自分の結論を書く方が、相手の反論を避けやすい。

この2つの規則は手品師がよく使う手だ。観客の注意を別のところにそらしておき、そのスキに手品のタネを取り出すという具合だ。かなり稚拙な手段とも言えるが、ここでは単に「相手の注意をそらす」とまとめてみる。

これで「東大話法」の規則を、かなりコンパクトにまとめられたと思う。

(1)個人の良心より組織の目的 (規則1、2、19)
(2)議論の枠組みの固定化 (規則3、4、13)
(3)自己の権威を利用した偽装 (規則5、7、12)
(4)支持者の頭数を利用した恫喝 (規則6、10)
(5)情報の非対称性の悪用 (規則11、16、17)
(6)相対主義の悪用 (規則8、9、15、20)
(7)相手の注意をそらす (規則14、18)

こうすることで「東大話法」にだまされない方法も考えやすくなる。つまり、例えば次のようなものだ。

(1)その人個人の倫理観が見えづらくされていないか。
(2)議論の枠組みを広げられることに抵抗していないか。
(3)自分の肩書きを利用したり、別の権威を援用していないか。
(4)自分の支持者であっても、恫喝的な人物がいれば非難しているか。
(5)一般人に向けた文章で専門用語や複雑な数式を濫用していないか。
(6)相手の批判や誤解をすでに分かっているかのようなことを、無根拠に言っていないか。
(7)突然話が変わる箇所が多すぎないか。

7つくらいなら何とか覚えられるのではないかと思い、大きなお世話ではあるがコンパクトにまとめてみた。

ただし僕自身、東京大学出身なので、このブログ自体にも「東大話法」に当たる部分があるかもしれない。実際、自分で過去の記事を読むと、かなりの記事に「東大話法」が含まれていることに気付かされる。「東大話法」あなおそろし。

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2012/01/07

中川恵一『被ばくと発がんの真実』の無自覚な政治的かたより

今日(2012/01/07)から書店に並んでいる、中川恵一著『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)を読んだ。

著者の中川恵一医師は「東大病院放射線治療チーム」としてツイッターでも@team_nakagawaというユーザ名で情報提供しているので、ご興味のある方はフォローしてはいかがだろう。

本書の主張については、僕が要約するよりも、中川医師のツイートを引用した方がいいだろう。以下にいくつか引用する。

「事故からもうすぐ10ヵ月ですが、いまだに、主に東京を発信源とする『リスク情報』ばかりが乱れ飛んでいます。年末のNHKの報道番組ですら、全く間違った内容で、正直驚きました。http://d.hatena.ne.jp/buvery/20120105/ こんな中、被ばくと発がんリスクについてまとめた1冊を上梓しました。」 (2012/01/06 17:04
「『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)です。福島での現地調査、チェルノブイリ原発事故の総括、広島・長崎の被害分析を踏まえ、できるだけわかりやすく現状を読み解きました。副題は、ズバリ『フクシマではがんは増えない』です。http://www.amazon.co.jp/dp/4584123586/」(2012/01/06 17:06
「『御用学者』、『安全デマ』などの批判は覚悟の上です。久しぶりのツイートで本の宣伝をしたいのではありません。多くの方々の不安や疑問に少しでも応え、これから先へと歩み続けるためのささやかな指針となればと願い、福島の皆さんに献げるつもりで書きました。飯舘村にも寄附したいと思います。」(2012/01/06 17:06

お分かりのように、本書は風評被害や「リスク情報」を非難し、「『正確な情報の欠如』という現状」(p.5)を改善するために書かれている。

その論拠として本書で何度も引用されているのが、2011年にロシア政府が発表した『チェルノブイリ事故25年・ロシアにおけるその影響と後遺症の克服についての総括および展望1986~2011』という報告書と、ICRP(国際放射線防護委員会)の公表している基準である。

その報告書の「結論」の章から、著者の中川医師は以下の部分をくり返し引用している。

「『(事故後25年の状況を分析した結果)、放射能という要因と比較した場合、精神的ストレス、慣れ親しんだ生活様式の破壊、経済活動の制限、事故に関連した物質的損失といった、チェルノブイリ事故による他の影響のほうが、はるかに大きな損害を人々にもたらしたことが明らかになった』」(p.5~6)

さて、僕としてはここから、中川恵一氏の主張を批判的に検討してみる。


■ロシア政府報告書の政治的中立性に対する過信

中川恵一氏はロシア政府の報告書を、福島事故による健康被害を過小評価する方向に読み込みすぎていると思われる。

まず中川恵一氏は本書の第三章「広島・長崎の真実」で、広島市の男性の平均寿命が日本の政令指定都市中第4位、女性の平均寿命も同じく政令指定都市中第1位(いずれも2005年のデータ)であることを強調し、次のように書いている。

「非常に驚くべきことに、入市被爆者の平均寿命を調べると、日本の平均より長いのです。また、広島市の女性の平均寿命をみると、日本一長いことがわかります(政令指定都市の中で最も長寿)」(p.84 下線は原文ではゴシック太字。以下も同じ)

この原因として中川恵一氏は、原爆投下から2週間以内に爆心地から2km圏内に立ち入った人(=入市被爆者)にも、被爆者健康手帳が交付され、原則として無料で医者にかかれるようになったことをあげている。いわく、「無料で医療を受けられる効果は絶大です。」(p.86)

これを、医療関係者である中川恵一氏の我田引水と感じるのは僕だけだろうか。

Tod20120107a

さて、本書p.107にはOECDの資料をもとに中川恵一氏が作成した、旧ソ連諸国の男性の平均寿命の推移グラフが掲載されている(上図)。チェルノブイリ原発事故の1986年以降、著しく下がっているが、中川恵一氏はこの原因を「過剰避難」にあるとして、次のように書いている。

「原爆の後、広島市民は長寿となりましたが、原発事故の後、チェルノブイリでは平均寿命が大きく下がりました。広島では、被爆者手帳などによる手厚い医療の力が、大きな効果を発揮しましたが、チェルノブイリでは、広島では行われなかった”避難”が、残念なことにマイナスにはたらいてしまいました」(p.108)

そして再びロシア政府の報告書を引用している。原文でもゴシック太字で引用されている。

「『チェルノブイリ原発事故が及ぼした社会的、経済的、精神的な影響を何倍も大きくさせてしまったのは、”汚染区域”を必要以上に厳格に規定した法律によるところが大きい』」(p.108)

そして中川恵一氏は次のように書く。

「避難によって放射線被ばくは減ったとしても、避難そのものが寿命を短縮させます」(p.109)

もう一度グラフをご覧いただくと、平均寿命が著しく下がっているのは、むしろ1989年のベルリンの壁の崩壊から1991年のソ連崩壊、そしてその後の数年間である。

旧ソ連諸国、とくに、旧ソ連全体の人口の51.4%(ウィキペディア)を占める、広大な旧ロシアのように、チェルノブイリ事故の影響を主因とするのが明らかに不合理な区域についても、まるでチェルノブイリ事故の避難が寿命を短縮させたかのように書くのは、どうだろうか。

むしろ、チェルノブイリ事故の避難より、社会主義体制の崩壊による社会的混乱や失業の増加、よく言われることだが、それにともなうアルコール依存の増加などが、旧ロシアだけでなく、旧ウクライナ、旧ベラルーシ(=旧ソ連全体の人口のたった3.54%)の平均寿命の低下を引き起こしたと考えるのが自然だろう。

さらに言えば、この2011年の報告書にロシア政府の政治的意図を読むのは深読みしすぎだろうか。

例えば次の資料を読んでみよう。

「【ロシア】原子力安全政策の現状」(2011.5 国立国会図書館調査及び立法考査局 海外立法情報課)

この報告によれば、ロシアは原子力発電プラント、核燃料、ウラン濃縮サービスを、石油・天然ガス依存からの脱出のためだけでなく、海外への輸出事業として積極的に推進している。以下、この報告から重要な部分を引用してみる。

「2006年にロスアトム(ロシア原子力公社)が公表したところによれば、2020年までに総発電量に占める原子力発電の割合を23%に、2030年には25%にまで増加させることが目標とされている」
「福島第1原発事故を受けて3月21日に開かれたIAEA(国際原子力機関)緊急理事会において、ロシアのベルデンニコフ代表は、『原子力エネルギーは人類の最も偉大な成果の一つであり、今後もエネルギー協力の主要な手段であると見なしている』とのメドヴェージェフ大統領からのメッセージを読み上げた上で、原子力エネルギーを削減すべきだとの意見には同調しないと述べている」

このように福島第一原発事故の後も、ロシア政府は公式に原子力発電の推進を表明している。そのロシア政府が、チェルノブイリ事故後25年の報告書で、旧ソ連時代の「過剰避難」を反省するのはむしろ当然だろう。

これほど明らかな政治的意図があるにもかかわらず、中川恵一氏はロシア政府のチェルノブイリ事故後25年の報告書の「過剰避難」の自己反省を、日本の「危険デマ」を批判するための有力な論拠の一つとしているのだ。


■国際機関の政治的中立性に対する過信

上記の国会図書館の報告に登場するIAEAもそうだが、中川恵一氏は国際機関について、政治的に中立なので信頼できるとしている。例えば以下の部分がそうだ。

「実際に、原資放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)、国際原子力機関(IAEA)、国際放射線防護委員会(ICRP)といった信頼できる国際的組織の報告には(以下略)」(p.93~94)

中川恵一氏自身は否定するだろうが、氏の政治的な偏りは第5章「放射線の『国際基準』とは」に現れている。UNSCEAR、ICRP、ECRRについての説明文から引用してみる。ECRRの説明文に特にご注意頂きたい。

まずUNSCEARの説明文から引用する。

「国連に原子力放射線の影響に関する科学委員会(UNSCEAR)という公的な機関があります。独立性と客観性が保たれていて、特定の国の力やイデオロギーには左右されません」(p.125)

つぎにICRPの取組みの説明には複数ページが割かれており、その中の「国際的な合意に基づく最も信頼できる枠組み」(p.128)から引用する。

「さてこのICRPが放射線防護に関する勧告を行うために最も重視しているのが、先述のUNSCEAR(国連科学委員会)による科学的な報告です。国際原子力機関(IAEA)は、このICRPによる勧告の内容を基にして、国際保健機構(WHO)などの国際機関と協力し、加盟各国に対して国際的な放射線防護基準などを提示しています」(p.128)
科学的な根拠にきちんと基づくという断固たる姿勢が、これらの機関による国際的な合意の信頼性を高めており、各国がその勧告に従うゆえんです」(p.128)

さて、最後はECRR(欧州放射線リスク委員会)の説明文から引用する。

「国連や各国政府とは関係を持たない非営利団体(NPO)で、反原発の主張を持つ科学者や専門家が多く参加し、ICRPに対抗するような活動を行なっています」(p.128~129)
「活動の中心人物クリストファー・バズビー氏は、内部被ばくの脅威を熱心に語りながら、一方で、放射線被ばくに聞くという高額な『サプリメント』の販売に関与していると報じられていることも、付け加えておきます」(p.129)

中川恵一氏はバズビー氏が「サプリメント」の販売に関与していることについて、何の出典も示していない。情報源を示さずに中心人物の風評を材料にしてECRRを批判するのは、他の国際機関と比べると明らかに偏っている。

他の場所にも、中川恵一氏のUNSCEAR、IAEA、ICRPに対する絶大な信頼はしつこく書かれている。

「実際に、国連科学委員会(UNSCEAR)、国際原子力機関(IAEA)、国際放射線防護委員会(ICRP)といった信頼できる国際的組織の報告には(以下略)」(p.177)
「1ミリシーベルトの被ばくといったら、内部被ばくであろうが、外部被ばくであろうが人体への影響は一緒です。欧州放射線リスク委員会(ECRR)の一部の学者による、そのような主張を聞きますが、単に恐怖心を煽るだけのものに思えます。」(p.186)

ECRRの見解については真剣に検討する価値はなく、「思えます」といった個人的感想で十分だと言わんばかりである。この部分にはまだECRR批判の続きがある。

「また、センセーショナルな発言の裏には、さまざまな動機が見え隠れします。被ばくに効果があるサプリメントの販売にかかわるなど、利害がからむこともあるようです」(p.187)

またクリストファー・バズビー氏に対する個人攻撃である。ここでもバズビー氏が「サプリメント」の販売にかかわっていることが事実だと証明する論拠や参考資料は示されていない。

百歩譲ってECRRがあてにならないことに同意するとしても、UNSCEAR、IAEA、ICRPが全面的に信頼できることを、僕らはどうやって納得したらいいのだろうか。


■中川恵一氏がふれていないこと

最後に簡単に中川恵一氏があえて書かなかったことについて書いておく。それはアメリカ軍が使用した劣化ウラン弾による、低線量被ばく健康被害のことだ。

これについては僕は専門家ではないので、参考図書をあげるにとどめておく。肥田舜太郎『内部被曝の脅威』(ちくま新書)だ。肥田舜太郎氏も医師であるが、自身が広島の原爆の影響で被曝している。

そして中川恵一氏が絶大な信頼をおいているICRPについて、その基準値が米国の核開発の政治的意図と連動している可能性があることなどは、同じく肥田舜太郎氏の翻訳によるラルフ・グロイブ、アーネスト・スターングラス著著『人間と環境への低レベル放射能の脅威―福島原発放射能汚染を考えるために』(あけび書房)を参照いただきたい。

こちらの本は以前ここでも言及したが、「ペトカウ効果」を擁護する内容である。おそらく中川恵一氏は「ペトカウ効果」を科学的根拠のないデマだと切り捨てるに違いない。


以上、どうやら中川恵一氏はネット上で「御用学者」だの「安全デマ」だのと非難されているようだが、本当にそうなのか。

まずは中川恵一氏が自らツイッターで読むことをすすめている本書を読んで、みなさんも自分なりに検証してみてはいかがだろうか。

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2011/12/31

中野剛志『TPP亡国論』を今ごろ読んだ

中野剛志『TPP亡国論』(集英社新書)を今ごろ読んだ。本書のあとがきは2011/02に書かれているので東日本大震災前だ。

本書はAmazonの星1つの書評をあわせて読むとおもしろい。星1つの書評が、ほとんどまともな反論になっていないからだ。

なぜまともな反論になっていないか、その理由を一言でまとめると、そういった反論が、終戦後の日本の経済成長がすべて意図的な対米追従外交の上に作り上げられたものであることに無自覚だからだ。

東大卒で経産省のお役人である中野剛志は、戦後の官僚たちが「敢えてする対米追従」の下に国民たちを「平和ボケ」のままにしておくことでしか、日本の復興と経済成長がありえないことを見越していたことを知った上で、本書を書いている。

例えば、ソニーやホンダは、旧通産省による官僚的生産統制をはねのけたからこそ日本の高度経済成長が実現したのだ、というレビューがあるが、これこそ官僚の手のひらの上で見事に踊らされている「愚民」の典型と言っていい。

発展途上国の経済成長は、新規市場の開拓や技術革新ではなく、単なる人口の増加による労働集約の結果だ。日本の高度経済成長もしかり。

確かにソニーやホンダは画期的な商品を送り出し、海外市場を開拓したかもしれないが、それが日本の高度経済成長の主な動力になったわけでは決してない。日本の高度経済成長の主な動力は、戦後の急激な人口の増加である。

それに加えて、官僚に後押しされた田中角栄が徹底した公共投資を行なって内需をなかば強引に拡大したことで、地方にも雇用が産み出され、地方の労働者が農業などの一次産業から「引きはがされ」、ソニーやホンダのような二次産業の労働力へ人工的に転換された。

そういう官僚的内需拡大政策と産業構造の転換政策があったからこそ、ソニーやホンダのような企業が日本国内で大量の工場労働者を獲得し、資本を蓄積し、たっぷりと研究開発投資ができるようになり、技術革新や海外進出の足場を築くことができたのだ。

まるで民間企業が、官僚のそうした意図的な内需拡大・産業構造転換政策の恩恵とは無関係に、独力で技術革新と海外市場の開拓を成し遂げたかのような「大いなる勘違い」をしている国民の存在こそが、むしろ旧通産省による官僚的生産統制がいかに成功したかの証拠になっている。

と同時に、自称「官僚制に批判的な良識ある市民」が、いかに官僚の手のひらの上で踊らされてることに無自覚であるかの証拠にもなっている。

経産省出身である中野剛志はそういった、自分は賢いと思い込んでいる「愚民」の勘違いなど、とうの昔にお見通しなわけで、その上でこの『TPP亡国論』という「あえて」扇動的なタイトルの本を書いているわけだ。

「あえて」扇動的というのは、今度は本書の主張を受けいれる側に立ってみれば分かる。

本書の表面上の主張に乗っかって、TPP反対!と言い出すやいなや、中野剛志の論理展開によれば、それは「自主防衛」ということになる。つまり米国の軍事力の傘からの離脱ということだ。

本書をそういうふうに理解して、「そうだそうだ、日本は米国の軍事力に守ってもらうのではなく、自主防衛のために再軍備しなければいけない。そうして初めてTPPのような対米追従的な外交から逃れることができるのだ!」と読者が考えるとすれば、これもまた中野剛志の「あえてする」扇動に間違ってハマっていることになる。

中野剛志の言う「自主防衛」は、ある種の皮肉と解釈すべきだろう。つまり「自主防衛なんて、やれるもんならやってみろよ」というのが中野剛志の本当の主張と解釈すべきだ。

つまり、TPP賛成の立場なら、日本の内需を縮小させ、デフレを悪化させるのを覚悟で、対米追従外交、あるいは、少なくとも米国と明示的に対立しない外交的立場を維持することになる。

TPP反対の立場なら、自主防衛への外交政策転換で米国と対立することによる、アジア地域での日本の外交的地位の低下を覚悟しなければならない。

TPPに賛成しようが反対しようが、日本の経済的・外交的状況がそれほど良くなるわけではない。それが中野剛志の論旨だ。

じゃあ本書はいったい何が言いたいんだ!と言えば、簡単なことで、TPPに関する賛否を「あえて」明示的に論じない外交がもっとも賢明である、というだけのことだ。

本書を読んで、TPP反対派が「我が意を得たり!」と思うのも誤読だし、TPP賛成派が「官僚による統制経済を復活させるのか!」と怒るのも誤読である。

白黒はっきり付ける決然主義でなければ外交じゃない、という発想こそが「愚民」の低レベルな発想でしょ、というのが、本書における中野剛志の「あえてする」TPP亡国論のメタメッセージなわけだ。

そこまで読み込んでこそ、一人の国民としてようやく経産省の官僚である中野剛志と、何とか互角に議論できるわけで、Amazonの特に星1つのレビューのように、いちいち噴き上がっていたのでは、やはり「愚民」は「愚民」に過ぎないというオチになってしまう。

中野剛志がニコニコ生放送で語っていたことだが、そんな中野剛志から見て、古賀茂明のような元経産省官僚が滑稽に映るのは当然だろう。

本書『TPP亡国論』の「あとがき」で中野剛志は、経産省が風通しの良い組織であることを強調している。これはおそらく本当だ。ただし、「あえてする」TPP亡国論のように、特定の議論にわざと没入するという皮肉を自覚的に効かせることができる人間にとってだけ、風通しの良い組織なのだろう。

そんな中野剛志からすると、古賀茂明は「愚民」の噴き上がりにベタに共感して官僚たたきをしてしまっている「単なるバカ」にしか見えないに違いない。

ただ、中野剛志のような経産省の内部者の立場としては、わざわざ経産省を離れて「愚民」と共闘し、官僚たたきをしてくれる古賀茂明のような人物は、戦略的に考えると「ガス抜き」装置として極めて有用である。

古賀茂明程度の元官僚の官僚たたきなど、おそらく官僚たちにとって痛くも痒くもない。その程度の官僚たたきで「愚民」が溜飲を下げてくれるなら、官僚たちにとってはかえって仕事がしやすくなるというものだ。

本書『TPP亡国論』の中で、中野剛志がやたらと「戦略的」という言葉の真の意味にこだわっているのは偶然ではない。古賀茂明を「愚民」のガス抜き装置として活用するぐらいの「戦略」がなければ、対米追従外交からの離脱など望むべくもない、ということである。

本書は実はそれくらい身も蓋もない書き方がされている本だということを、所詮「愚民」である一般の読者が読み取ることまでは、中野剛志はちっとも期待していないだろうが、一応僕の方が駒場後期課程のたぶん一年先輩(駒場の国際関係論卒だと初めて知ったよ全く)なので、勝手ながら書かせてもらった。

当然、外交カードがゼロどころか、マイナスの状態で、TPP参加交渉表明してしまった野田首相など、中野剛志のような官僚から見れば「愚民」の一人に過ぎないことは言うまでもない。

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2011/12/28

宮台真司・大塚英志『愚民社会』を読んだ

宮台真司・大塚英志『愚民社会』(太田出版)を読んだ。

普段から宮台真司の議論をフォローしている人にとっては、最近の宮台真司の議論のおさらいになるので、いつもながらとても明快な内容で、何の違和感もない。

ただ、本書が宮台真司の他の著書と違う点は、大塚英志氏がかなりしつこく宮台真司のコミュニケーション戦略を相対化し、ツッコミを入れているところだ。

特に第三章で大塚英志が宮台真司に対して、あえてする改憲の主張という戦略に、本当に不備がないと思っているのか、しつこくつっこんでいる部分が参考になる。

そのしつこいツッコミに対して、宮台真司は最後の最後では自分は楽観的であると告白し、それに対して大塚英志は悲観的であると告白する。

つまり、宮台真司は啓蒙的なコミュニケーションが、ごく少数の人々に対してであっても影響をおよぼし、日本の不毛な政治的・文化的言論を変えることができるという希望を持っているが、大塚英志は啓蒙的なコミュニケーションよりも、既存の思考様式にのっかる、ある種の単純化・マニュアル化という切り下げのコミュニケーションでなければ、何も変わらないと悲観的だ。

僕個人の立場は大塚英志に近い。

宮台真司の議論はつねに明快だけれど、僕自身も正しく理解している自信はない。単なる宮台フォロアー、似非ミヤダイ信者と化しているおそれは十分にある。それは、結局のところ宮台真司本人に判定してもらうしかない。

いまあえて「宮台真司本人に判定してもらうしかない」と書いたように、宮台真司が自分の議論についての誤解を、懸命に訂正すればするほど、宮台真司の議論を読んだり聞いたりしている人たちは、ますます自分の理解が間違っているのではないかと不安になる。

そして不安になればなるほど、ますます宮台真司の言論に依存するようになる。これは宮台フォロアーを増やすだけで、宮台真司が期待しているように、彼の協力者を増やす結果にはならない。

結果として、日本の市民は、宮台フォロアーと、宮台嫌いと、宮台真司を含む言論空間全般に無関心な一般人の三種類に別れる。圧倒的多数を占めるのは、もちろん無関心な一般人で、宮台嫌いは、宮台真司の議論に多少なりとも関心を持つだけまし、ということになる。

この状況に悲観的にならない宮台真司が理解できない、という大塚英志の「感覚」は、僕も大いに共感する。

宮台真司は承認を決して安売りしない。それは思想家としては正しいが、いくら宮台氏自身が「あえて」大乗仏教的な説き方をしたところで、無関心な一般人にその声はそもそも届かない。

宮台真司は自分の声が、宮台氏が顔を思い浮かべることの出きる数十人、数百人単位の人たちを除いて、誤解されるどころか、まったく届いていないことに「あえて」気づかないふりをしているのだろうか。

こんなことを書いている僕の声は、残念ながら宮台真司には届かない。届かないので、僕は自分の解釈を訂正しようがない。訂正しようがない限り、僕は宮台真司を正しく理解しているかどうかについて、永遠に宙吊りのままになる。

永遠に宙吊りのままでは、僕は宮台真司の議論に同意することはできても、それに基づいて行動することまではできない。いや、正確に言えば、行動しないことはできないので、自分の行動が僕が個人的に正しいと考えている宮台真司の意図に沿った結果を生み出すものなのか、僕一人では検証できない。

そうしてますます似非ミヤダイ信者として、宮台真司の言説に依存せざるを得なくなる。

『愚民社会』の書評として、こんな下らないブログが書かれていることについて、宮台真司はがっくりするしかないだろう。

しかしそれは宮台真司のコミュニケーションが、僕のような「愚民」に届いたときに常に引き起こす蓋然性のある「コミュニケーションの失敗」なのだから仕方ない。

宮台真司自身が宮台真司をめぐるコミュニケーションのすべてを、完全にコントロールできるという考え方は、言うまでもなく自己矛盾だ。失敗が起こりえないなら、そもそも愚民社会を議論する必要さえない。

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2011/09/15

水樹奈々の自伝エッセー『深愛』を読んだ

水樹奈々著『深愛』(幻冬舎)を読んだ。今年のはじめ(2011/01/21)に発売された彼女の自伝エッセーだ。

自伝の部分を通読して分かるのは、父親にとびきり厳しく育てられた娘は、真面目で、自罰的で、自分の父親を理想の恋愛対象と考えるファザコン女性に育つという典型例だということ。

そうして育てられた娘にとって、異性は肉体もつ生身の人間というより、理念的な存在になるので、恋愛感情と身体的な関係はまったく別のものとして認識される。

したがって、彼女の最初の身体的な体験が、中学を卒業してすぐ親元を離れ、生活し始めた東京の満員電車での痴漢だったことから、身体的な接触が不愉快な感情としか結びつかなくなったのも無理はない。

その後、事務所の社長であり「先生」である男性の家に住み込みながら、演歌歌手になるべくレッスンを受けているときに、日常的にセクハラを受けても、自罰的に反応すること、つまり「無感情」という反応しかできなくなるのも、仕方のないことだ。

そしてその事務所との契約を何とか打ち切って、キングレコードの現在のプロデューサの下で活動を始めたとき、そのプロデューサが彼女の「売り」を、1980年代アイドル以上の不可侵な処女性とするのも、性的なものに対する彼女の自罰的「無反応」という時期があったからこそだろう。

水樹奈々が30歳を過ぎてもフリフリの衣装で歌い続けることができるのは、いまだに彼女にとって最も理想的な男性が、すでに亡くなった父親であり、その恋愛感情と全く無関係なところに、身体的な性愛の関係が未発達のまま残されている「ように見える」からだ。

これくらいアニメファンにとって理想的な声優であり、歌手はいないように思う。

いわゆる非リア充の(=実生活が充実していない)男性にとって、理念的な恋愛と身体的な恋愛を、ひとまず分離して向き合える「処女性」のあるアイドルは理想的だ。

また、非リア充の女性にとっても、不愉快な部分を拭い去れない身体的な恋愛を、理念的な恋愛と分離している「処女性」のあるアイドルは、感情移入しやすい。

もちろん実生活が充実し、恋愛感情と肉体関係が何の違和感もなく一致しているリア充な人たちから見れば、30歳を過ぎてフリフリの衣装で、舞台を駆けまわりながら歌う水樹奈々は、浜崎あゆみや倖田來未と比べると、ただ単に「キモい」。

水樹奈々の棲むサブカルチャーで非リア充な社会と、そうでないメインカルチャーのリア充な社会に、少なくとも僕が知っている限りの日本の社会が大きく分断されていることには違いない。

ただ、今まではたしかにメインカルチャーは文句なくメインカルチャーたり得たけれど、実際にはメインカルチャーを支えていた経済的中間層の共通の価値観のようなものは、すでに崩壊している。

エイベックス的歌姫とそのファンたちの形成する社会も、いまや一つのサブカルチャーに過ぎない。エイベックスという会社も、浜崎あゆみも倖田來未も、まだそのことを理解していないけれども。

その点、水樹奈々が今でも「演歌歌手になる」というデビューの出発点にあった動機付けを捨てていないことは象徴的だ。つまり演歌歌手とそのファンが形成する社会もまた、サブカルチャー化しているのである。それは同性愛者の氷川きよしがオバサンのアイドルに祭り上げられていることからも分かる。

以上のような意味で、水樹奈々の『深愛』という自伝エッセーは、それほど意外性のある内容ではなく、「なるほどやっぱりそうか」と、いちいち納得させられる事だけが書いてある。

むしろこの納得性というか、普段から見ている水樹奈々のイメージとの一貫性こそが、今の水樹奈々の地位をもたらしていると言える。

彼女が本書の中で、セクハラやいじめ体験を告白していることを、売名行為だと非難する人がいるようだが、「売名行為をしないアイドル」というのは言葉の矛盾だ。

一貫性のあるイメージに沿って、私生活を切り売りすることも、アイドルにとっては芸能活動の一部なのであって、本書を「売名行為」だとか、「悲劇のヒロインぶっている」とか、「下積み時代の話で同情を誘おうとしている」などと非難する人は、魚屋にアジが売っていることに文句をつけているのと同じで、まったく無意味なことをしている。

もし水樹奈々がこのまま、今は亡き父を理想化しつづければ、もしかすると小森まなみのように50歳を過ぎ、声帯に限界が来るまで、フリフリの衣装で舞台に立ち、声優をし続けられるかもしれない。

それは、平々凡々たる生活を送っている人間には望むべくもない、何て素晴らしい人生だろうか。

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2011/08/05

古賀茂明『官僚の責任』(PHP新書)を読んだ

古賀茂明著『官僚の責任』(PHP新書)を読んだ。

テレビでもおなじみ、経産省から退職を迫られている改革派官僚、古賀茂明氏の発売されたばかりの新書を読んでみた。

本来は単行本『日本中枢の崩壊』(講談社)を読もうかとも思ったのだが、論旨は読む前からわかるので、細かいエピソードの記述が冗長だろうと思い、やめていた。そこへコンパクトな新書が発売されたので、さっそく読んでみた次第。

一言で要約すると、官僚は自分の利権を守ることしか考えていない、という、言い古された内容になるが、やはり古賀氏が身をもって体験した具体例を読むと、ここまでひどいのかと、暗い気持ちになる。

それでも古賀氏のような人物が経産省の内部にいる限り希望がもてるが、氏はすでに退職勧奨をうけており、経産省にすっかり取りこまれている海江田大臣は、氏を守ろうとしない。

震災後の復興も、福島第一原発事故対応も、このまま行けば従来どおり、縦割りの各省庁が自らの利権を守るために、無駄な税金が投入される、と。おっしゃるとおり。

ただ、古賀氏の官僚批判はまわりまわって、結局は国民の投票行動の批判になる。これは正しいのだが、そうすると「この国民にしてこの官僚あり」となり、国民をこんなふうにしたのは教育であり、教育の内容は官僚が法律を通じて定めているのだから、やはり循環論法になる。

国民の投票行動を変えるには、教育改革が必要であり、教育改革のためには文部省改革が必要であり、文部省改革のためには真の政治主導ができる政府が必要であり、そういう政府ができるには国民の投票行動が変わらなければならない。これでひとまわり。

国民の投票行動を変えるための策として、本書の後半で古賀氏は、国家によるさまざまな過剰な保護、つまり、国民の側がもっているさまざまな「既得権益」の抜本的な廃止を訴えている。

たとえば赤字の零細農家の保護をやめて農業を集約化し、国際競争力をもたせる、正規雇用者の解雇についての厳しすぎる規制をなくす、年金の支給開始年齢を80歳くらいまで一気に上げる、などなど。

これらの各論になると、今度は官僚ではなく、「既得権益」を得ている国民の側が主導で、官僚を味方に引き入れて抵抗する。

この抵抗を利用して自分の票にするのが、日本における選挙の戦い方で、古賀氏の改革案に国民の側が抵抗すれば、すべては元のもくあみになる。

結局のところ、官僚の責任は国民の責任ということになる。

国民の側が、多少たよりない政府であっても、「すべて政府におまかせ」ではなく、むしろ自ら痛みをともなう改革を引きうけるくらいの意識を持てるか。

今のように、マスコミふくめて、何かヘマがあると政府をたたいて溜飲を下げているような国民である限り、官僚の利権体質も変わらないということだ。

そう考えると、ちょっと絶望的になる。たぶん日本は国債がデフォルトを起こすところまで、転げ落ちるのではないかと。

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2011/07/07

宮台真司×飯田哲也『原発社会からの離脱』を読んだ

宮台真司×飯田哲也『原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて』(講談社現代新書)を読んだ。

僕にとっては、最近、宮台真司がビデオニュース・ドットコムのニュース・コメンタリーなどでくり返し話している、おなじみの議論ばかりだったので、正直言って、わざわざ購入して読むまでもなかったかな、という感想だった。

むしろ飯田哲也氏の書いた本を読むべきだと思った。どうやら近日中に、【改訂増補版】北欧のエネルギーデモクラシーという単行本が発売されるらしい。でも2,625円はちょっと高い...。
時間があれば、こちらの洋泉社の新書『日本版グリーン革命で経済・雇用を立て直す』でも読んでみたい。

ただ、『原発社会からの離脱』の宮台真司と飯田哲也両氏の議論を読んで感じたのは、こりゃとても今の日本の社会じゃ、そう簡単に実現しそうにないなぁ~ということだ。

いつも思うのだが、宮台真司の日本社会批判は、あまりに根本的、あまりにラディカル過ぎて、とても宮台氏がこうあるべきという姿になりそうにない。

たぶん宮台氏自身は、実現可能なやり方については、十分具体的に提示しているはずだとおっしゃるだろう。

しかし、ごく一般的な上場企業でIT系の仕事の平社員をやっている僕が、身近にいるごく一般的な日本人を観察するにつけ、まずこういった人たちが、宮台真司氏の言うようなラディカルな改革を推進する政治家にシンパシーを感じるはずがないと思うのだ。

本のタイトルにもあるように、電力会社の地域独占をなくすには、ふつうの日本人が、何でも国まかせの姿勢から、地域共同体のエネルギー政策は自分たちが決めるぞ、くらいの勢いの自治へと、姿勢を変える必要がある。

しかし、僕の周りにいる人たちは、仕事大好きで、土日出勤もいとわない。

地域共同体のことよりも、会社組織の中でいかに出世するかがはるかに大事。そうしてより多くの収入を得て、子どもの教育や、自分たちの老後に備えることに精一杯だ。

ふつうのサラリーマン(あえて男性を意味する単語を使う)にとって、いちばん大事なのは生活だ。

生活に追われ、毎回のボーナスの増減に一喜一憂するサラリーマンが、地域共同体のエネルギー政策の自治に、時間と知恵をしぼるような余裕はない。自分の生活以外に、地域のことにかまけている余裕などない。

宮台真司のように、日本社会の新しい設計図を考えること自体が、仕事みたいな人はいいのだろう。

しかし、ふつうのサラリーマンが地域のことを考える余裕を得るためには、まず日本企業が有給休暇をまともに消化できるような会社になり、サービス残業もなくなり、付き合い残業もなくなり、仕事が終わっても同僚どうしでつるんで飲みに行くような習慣がなくなり(以下略)、という物理的な環境が整う必要がある。

ところが、こうした物理的な時間の余裕を産み出すこと自体が、なんでも国まかせの国民性と表裏一体になっているので、表と裏のどちらから引き剥がすか、ニワトリとたまごのどちらが先か、となり、問題解決の方法が自己循環してしまう。

なので、宮台真司氏の議論は読んでいる途中は気分爽快なのだが、読み終わったあとは、現実をふりかえって、ひどく虚しい気分になる。

とはいえ、まだ宮台真司の最近の議論を読んだことがない方は、コンパクトにまとまっていて、かつ、原発問題に対する根本的な批判があるという点で、本書はとても参考になるので、ぜひご一読を。

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2011/06/13

原発は事故を起こさなくても被ばく者を生み出しつづける

先日の記事でもふれたが、堀江邦夫『原発労働記』(講談社文庫)を読んだ。

原発の下請け・孫請け労働者については、大学時代に左寄りだった先輩などから聞いたことはあったが、実は当時、清潔な中央制御室のイスにすわっている電力会社の社員しかイメージできていなかった。

なので、今回、本書を読むまで、原子炉の近くで働くのだから、一般人より被ばく量が多いのは仕方ないだろう、くらいの認識しかなかった。

本書を読んで、まずいちばん驚いたのは、原子力発電所内の設備が、保守点検の効率性をまったく考えずに設計・建設されていることだった。

とくに敦賀原発の部分では、定期保守に必要な電源が常設されておらず、定期保守のたびに、まず孫請け労働者が高放射線区域に入って、作業用電源を引き込む作業から始めなければいけないことを初めて知って驚いた。

著者の言うように、これでは保守点検のたびに、ムダに被ばくする作業者をわざわざ増やしているようなものではないか。

原発のこうした設計思想も、まさに「トイレのないマンション」式に、人間の安全より運転コストを優先させる思想のあらわれだとわかる。

また、保守作業について、設備に問題はなくても、作業者が効率的かつ安全に作業するための、ささいな費用が徹底して削減されている。

放射性物質の吸引を防ぐため、ひんぱんに取りかえる必要がある防具が十分でなかったり、肝心の点検作業より、その準備作業に時間がかかるなど、コスト削減の結果、自動的に現場作業者の被ばく量が増える結果になっている。

次に驚いたのは、作業者の被ばく量の計測や、放射線に汚染された工具などの持ち出しが、日常的にごまかされていること。

すべては親会社である電力会社に知られないように、下請け・孫請けの段階でもみ消されている。もし電力会社に知られてしまえば、下請け・孫請け会社が原発関連の仕事を失うことになるからだ。

現に本書の筆者は保守作業中に肋骨を骨折し、明らかな労働災害だが、入院費用や休職期間の給与を全額補償するという条件で、労災申請しないことをのまされる。

同様の方法で隠蔽されている労働災害は他にも無数にあるとのことで、各原発の無事故・無災害記録は、どれもでっち上げであることが暴露されている。

他にも、驚いたことはたくさんあるのだが、とにかくこの「愛と苦悩の日記」の読者の皆さんには、ぜひ本書をご一読いただきたい。

そして、各電力会社が、本書が書かれて30年以上たっている今は、こんなひどい労働環境ではないと反論したいのであれば、定期点検中の原発にカメラを入れて、孫請けレベルの労働者が、2011年の今、どういう作業をしているのか、すべて公開すべきだろう。

個人的には、劇的に改善されていることはないだろうと予想している。というのは、本書に登場する福島第一原子力発電所にしても、美浜や敦賀にしても、原発の設備そのものが、30年前のままだからだ。

本書が書かれた後に建設された原発が、定期点検の作業効率を考慮して設計されているのかも知りたい。もしそうでなければ、本書が書かれ、出版されたことが、まったく活かされていないことになる。

僕らの、ある意味、安穏とした生活が、こうした大企業の下請け・孫請けの非正規雇用労働者に支えられていることは、原発に限ったことではない。こういった条件の悪い働き口も、ある人たちにとっては、生活するために必要な仕事だろう。

ただ、原発労働者については、放射線の被ばくがすぐに症状として出てこないために、そして、被ばくや事故の根強い隠ぺい体質があるために、それらが原発の運転コストとして認識されていない点が重大な問題だ。

原発は事故を起こさず、正常に運転されていても、定常的に下請け・孫請け労働者という被ばく者を年々生み出している。

しかもその被ばく量や、健康被害は、親会社である電力会社から見限られないように、下請け・孫請けレベルで隠ぺいされ、電力会社は隠ぺいされている事実さえ、知らずに原発を推進できる。

原発問題を考えるとき、こうしたことを忘れるべきではない。

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2011/06/06

涼宮ハルヒは無知によって凡庸な世界の創造主たりえている

中国でも人気のラノベ(軽小説、ライトノベル)小説家が登場するくらいなので、ラノベについて全く何の認識もないのは問題だと、ふと思った。

それでアマゾンで谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』『涼宮ハルヒの溜息』の古書をそれぞれ1円+送料で購入して、さっそく読んでみた。

なぜ涼宮ハルヒ・シリーズを選んだのかといえば、何となくいちばんよく名前を聞くからで、それ以上の理由は特になかった。

シリーズ第一巻の『涼宮ハルヒの憂鬱』を読み終えてみて、率直な印象は、思ったほど幼稚っぽくなかったが、やはり大したものではないな、といったところだ。

まずテーマは、退屈な日常の主題化。大前提として社会に対する不満がなく、何の不自由もないがゆえに退屈という、恵まれた日常生活が存在すること。

現実の日常生活で、たとえば日々の仕事に適用できずに苦しんでいたり(僕みたいに)、そもそも安定した雇用からあぶれていたりする読者にとっては、まずこの大前提がすでに十分フィクションとして成立する。

このフィクションが成立するのは、登場人物たちが親がかりの高校生だからだ。そして彼らの生活を経済的に支えている親は、この小説にいっさい登場しない。担任の教師もエピソードの付け足しとして描かれるだけで、ほぼ登場しないと言っていい。キョンの妹も、やはり挿話におまけとして登場するだけ。

登場人物たちをめぐっては、社会的にタテ方向の人間関係(両親や教師との関係)はまったくこの小説に描かれない。はっきりした先輩・後輩の関係さえ描かれない。

朝比奈みくるは、キョンや涼宮ハルヒの1年先輩のはずだが、そこに先輩・後輩の上下関係はまったくない。むしろ朝比奈は涼宮の愛玩動物のように描かれる。

この水平な人間関係しか存在しない日常生活というもの自体が、おそらくほとんどの読者が思っているよりも虚構性が強い。水平な人間関係だけで生きていけるような空間は、現実にはどこにもない。

その上で、そういったタダでさえ虚構性に満ちた「退屈な日常」を打ち破るものとして、突然、SF的な異空間が割りこんでくる。

ふつうに読めば、SF的な異空間のような、大げさな物語装置を持ち込まなければいけないほど、この物語の登場人物たちの高校生活は退屈なのだ、となる。

しかし実際には、きわめて凡庸なものとして描かれている高校生活そのものが、上述のようにきわめて特殊で虚構性が強く、現実の社会のどこにもないものだ。

きわめて特殊な涼宮ハルヒたちの退屈な日常を、きわめて凡庸な退屈な日常として描くために、「閉鎖空間」や超能力者、未来人などなどの大げさな物語装置が必要とされているのである。

もう一度言うと、凡庸な日常に突然割りこんでくる非日常、というのがこの小説の主題ではなく、突然割り込んでくる非日常という大げさな道具立てがなければ、もはや凡庸な日常というものがフィクション(小説、おはなし)として成り立たなくなっているんですよ、というのが、この小説の主題である。

なので、超能力者どうしの戦いや、巨人との戦い、涼宮ハルヒにキスをすることで「閉鎖空間」が解除されるなどなどの、大げさな道具立ては、この小説の本筋ではない。

そんな大げさな道具立てを、つぎつぎに導入しなければフィクションとして維持できないような、登場人物たちの平々凡々たる高校生活の方が本筋だ。

だから、そういう平々凡々たる高校生活というフィクションが、いったいどこから産まれて来たのか、という問いが、この小説の中でもっとも重要な問いであるのは偶然ではない。

その答えは、涼宮ハルヒらしい、ということは、小説の始めからすでに書かれているが、涼宮ハルヒ本人はそのことにまったく無自覚という設定になっている。

これも考えてみれば当たり前で、当の作者である谷川流氏や、この小説の読者たちは、この小説に描かれている凡庸な高校生活が、自分の現実生活にない虚構だと分かっている。

なので、その虚構の根拠づけを、いちおうしておかないと、さらにその二階部分に積み重ねる、「閉鎖空間」だの超能力者だのといった、SF的なスペクタクルがまったく描けなくなる。

虚構の根拠づけの、もっとも身も蓋もないやり方は、それは物語の作者が勝手に作ったおはなしです、というものだが、どうやらそれではライトノベルにならないらしい。

芥川賞や直木賞の選考対象になるような小説なら、作者が文字どおり小説の作者として、創造主の権威をもって君臨することは、どうやら許されているようである。

もちろん小説の中には、作者が自ら作者であることを否定し、他の小説やその小説自身との関係性だけで、小説として成り立つような構造をもつ、屈折した小説もある。

そうでない小説の場合、作者が小説の作者、創造主として君臨することは、ふつうは小説の中で作者が小説の書き手について、小説の中で書かれた虚構の出所について、「まったくふれない」ということで実現される。

その物語が、いったいどこから産まれて来たのかについて、あえてまったくふれないことによって、その物語が作者によって創造されたことが明示される。

虚構は、それを産み出した作者の不在によって、はじめて虚構として成り立つ。そんなしくみになっているらしい。

ところが、ラノベの場合は、作者の不在によって虚構として成り立ってはいけないらしい。虚構の存在の源が、作者の不在によって逆にあからさまに示される、ということは、ラノベには似合わないらしいのだ。

そういう理由で、涼宮ハルヒ・シリーズでも、この小説そのものの虚構性の根拠は、涼宮ハルヒという設定にされている。

それによって「作者の不在」を、小説に書き込まないことで書き込む、「作者の不在」によって作者の存在をはっきりと示す、といったことを、やらなくて済んでいる。

この小説の平々凡々たる高校生活は、いったい誰が創造したんだ?という問いには、登場人物の一人である涼宮ハルヒです、という答えが、小説の中に最初から用意されている。

涼宮ハルヒ自身がそれを自覚していない設定になっているのは、仮に涼宮ハルヒがそれを自覚していれば、「誰がそれを最初に知ったのか」という問題が残ってしまうからだ。

小説の中で他の登場人物たちは、涼宮ハルヒが平凡な日常生活の創造主であることを「知っている」。その事実を知らないのは涼宮ハルヒだけである。

これは、この小説を一種のサスペンス(いつ涼宮ハルヒは自分が創造主であることを気づくんだろう、ドキドキみたいな感じ)として読ませるための工夫でもある。

しかしもっと重要なのは、涼宮ハルヒ「だけ」がそれを知らず、作者である谷川流も、読者も、他の登場人物たちも、全員それを知っているという設定にすることで、逆に涼宮ハルヒを創造主として特権化できるからである。

仮に涼宮ハルヒが、自分が創造主であることを知ってしまったら、彼女もまた凡庸な一人の高校生に過ぎない存在になる。超能力者でもなく、未来人でもない、ただの高校生。

涼宮ハルヒが唯一、自分が住んでいる世界の創造主について無知であることが、彼女を創造主たらしめている。そう設定することで、平凡な日常生活は初めて虚構として成立することができる。それによって、初めて「閉鎖空間」だのといった大げさな物語装置を起動させることができる。

『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説を、僕なりにごくかんたんに説明すると、そういうことになる。

で、涼宮ハルヒ・シリーズはそれ以上でも以下でもない。

もしかすると続きを読めば、どこかで涼宮ハルヒが自分が創造主であることに気づくのかもしれないが、そのときはもうこの小説は事実上終わっているだろう。

あとはアニメ化するなり、フィギュアを作るなり、同人誌で二次創作をするなり、コスプレするなりして消費される物語と化す。

作者は僕と同年代だけれど、僕もこういうラノベで一発当てて、平凡な日常生活の地獄から逃避したいものだ。

でも、今の平凡な日常生活を、日々選択し続けているのが自分自身だという諦めからは、何も産まれないんだよね。悲しいことに。

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2011/05/29

トリウム原発が普及するかどうかは科学的合理性と無関係

古川和男『原発安全革命』(文春新書)を読んだ。

本書は同じ著者による2001/08出版の『「原発」革命』(文春新書)の増補新刊で、トリウム原子力発電技術の優位性についての、かなり専門的な技術的解説をふくむ本だ。

はっきり言って、文系の僕には本書中盤~後半にかけての、トリウム原発についての技術的解説部分は全く理解できなかった。

水を冷却材兼中性子の減速材として使い、固形のウラン燃料を使う従来型の原発よりも、溶融塩を燃料とするトリウム原発の方が、何となく技術的に優位だということだけは、くり返し書かれているので理解できた気がする。

しかし、トリウムはそれ自体で核分裂を起こさず、ウランやプルトニウムを混ぜないと核燃料として使えないので、トリウム原発が放射性物質と無縁になるわけではない。

科学的に見て、固形のウラン燃料を使う従来型原発との比較でいえば、原子炉全体の維持管理がかなり簡潔かつ低コストになるという、あくまで相対的な優位性でしかない。

したがって著者も、トリウム原発をあくまで太陽光などの自然エネルギーを安定した発電に使える技術が開発されるまでの、「つなぎ」と考えている。

トリウム原発自身は、終息させる時期を見据えた上で導入すべきという、きわめて現実的な議論だ。

ところで、トリウム原発の利点として著者が再三にわたり強調していることの一つに、核兵器への転用の難しさがある。

トリウム原発は、現状の原発のように、核兵器に流用できるプルトニウムを副産物として出さないばかりか、そのプルトニウムをトリウムに混ぜて燃やしてしまうことができる。

ただ、これまで50年以上、トリウム原発技術がほぼ無視され、ウランを燃料とする原発が世界中で推進されてきたのは、筆者も指摘しているように、まさに使用済み燃料を核兵器に転用できるからだ。

つまり、世界各国がトリウムよりウランを選択したのは、科学的合理性からではなく、政治的合理性からである。

それに対して著者のような科学者が、いくらトリウム原発の科学的合理性を説いても政治的に無効だ。

また、核抑止力をベースとする現代の国際政治と正反対の政治的合理性、つまり、「核の平和利用」の観点から反論しても、やはり政治的な効力がない。

フランスや米国のように、すでに多くの原発を保有し、その副産物として核兵器を製造するのに十分なプルトニウムを持てる国は、すすんでトリウム原発の技術開発をすることもできるだろう。

しかし、すぐにも大量の電力消費国となる開発途上国は、たとえ福島第一原発の事故の後であっても、従来型原発をみすみす捨てるはずがない。効率的な発電と、核兵器の原料を、同時に手に入れられるからだ。

仮に今から各国がトリウム原発を導入するとしても、従来型原発の廃炉の手間が省けるわけではない。その使用済み燃料を、トリウム原発が十分な数、建設されるまで、核兵器に転用されないよう管理する必要性も残る。

僕のような文系ではなく、基本的な理系の知識があり、トリウム原発の優位性が分かれば分かるほど、虚しい読後感のある書物、といったところか。

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