書籍

2009/10/23

『思想地図』vol.2 ジェネレーション、vol.3 アーキテクチャ

何だか、どういう状態が「正常」な自分なのか、だんだん分からなくなってきた。

サラリーマンとしての仕事は、極めて単純な論理で完結している世界なので、「知らない」ということはあっても、「分からない」ということはない。

なので、気力の続く限りは淡々と仕事をこなすことはできる。

ただ、職場であると、私生活であるとに関わらず、他人とのコミュニケーションにおいて、自分がどう振舞うのが「正常」なのか、よく分からなくなってきた。

とにかく普通に話をするのが難しい。どういうテンションが普通なのか、よく分からない。

最近、ビデオニュース・ドットコムを聞いたり、中国語の勉強をしたりする気力がない。

気が向いて『思想地図』vol.3の「特集・アーキテクチャ」を読み終えて、そこそこ面白かったけれど、感想をまとめる気力がない。

でも『思想地図』vol.2の「特集・ジェネレーション」も続けて購入して読み始めている。相変わらずポストモダン思想は好きらしい。

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2009/10/19

香山リカ『しがみつかない生き方』(幻冬舎新書)を読んだ

香山リカ著『しがみつかない生き方』(幻冬舎新書)を読み終えた。

僕のように勝間和代が大嫌いな人は必読。本書の第10章だけでも立ち読みして、溜飲を下げましょう。

だいたい勝間和代みたいな人間が、いろんなメディアで、「がんばらない奴は生きてる価値なし!」というメタ・メッセージを発し続けるから、環境に適応できずに疲れている人たちは、ますます追い詰められるのだ。

勝間和代のような、アングロサクソン的新自由主義かぶれのアジテーターの存在こそ、先進国中最悪の、年間自殺者3万人という日本の国の「後進性」をよく示している。

他にも本書には、大事なテーマが提示されている。

その一つは「生まれた意味を問わない」という章にある、自分を誰とも交替のきかない存在だなどと思わない方がいい、という部分。

むしろ、「替えのきく存在」であった方がいい、という主張。

サラリーマンというのは、言うまでもなく交換可能な職業だ。異動の発令があったら、後任者にちゃんと自分の仕事を引き継げる状態にしておくのが、会社からすれば望ましい。

サラリーマンは、アーティストや職人と違って、むしろ交換可能でなくてはならない。

だからこそ、サラリーマンは決して自分のやっている仕事に生きる意味など求めてはいけない。香山リカは、そう言い切っている。

もちろん精神科医らしく、この章の最後には、ジャック・ラカン研究者によるラカンの「無意識」の解釈を紹介して、生きる意味は無意識だけが知っているのかもしれない、と付け加えている。

とても読みやすいので、出張の新幹線の中で読むには、ちょうどよい本ではないかと思う。

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2009/10/11

香山リカの<勝間和代>を目指さない生き方の本

「疑う」ことを知らない勝間和代が大嫌い、ということを書いたら、ちょうどいい香山リカの新刊を見つけてしまった。

香山リカ著『しがみつかない生き方~「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎新書)だ。

この本の最後の章、つまり10個めのルールが「<勝間和代>を目指さない」なのだ。ズバリでしょ。

まだ全部読んでいないので批評は後日。皆さんもとにかく勝間和代の本を読んで貴重な時間をムダにするくらいなら、この本でも読みましょう。

明日、全日本カラオケグランプリ関西大会なのに、こんな本を買って読み始めてる場合か。

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2009/07/22

村上春樹『1Q84』のベストセラーは「キセキ」でも何でもない

村上春樹の『1Q84』が200万部越えのベストセラーになっているらしい。もちろんこの日記も、それに便乗してアクセス数を稼ごうという魂胆だ。

ベストセラーになった理由について、識者がいろいろもっともらしいことを言うが、真相は単純で、みんな『1Q84』をネタにしたいだけのこと。まさに、この日記のように。

村上春樹の『1Q84』は、久しぶりの村上春樹の長編新作ということで、一部のテレビ番組が取り上げる。

すると、もともとの村上春樹ファンが買う。村上春樹のファン層は文芸書ではかなり多いので、それだけで「中ヒット」になる。

すると、先日の芥川賞の受賞者が、イラン人美女のシリン・ネザマフィさんではなく、地味な商社マンになってしまったこともあり、テレビは文芸ネタとして、さらに『1Q84』を取り上げるようになる。

すると、村上春樹の名前ぐらいは知っている人が、とりあえず書店で『1Q84』の上巻ぐらいは買ってみようということになる。

すると、書店が『1Q84』を入口のいちばん目立つ場所に平積みするようになる。

すると当然、さらに発行部数が伸び、テレビがますますネタにするようになり、NHKはヤナーチェクの『シンフォニエッタ』をBGMに、栗山千明に『1Q84』の冒頭を朗読させたりする。(なぜ栗山千明なんだ?)

あとはこの循環で、マスコミのネタとして鮮度が落ちるまで『1Q84』は売れ続ける。

人々の趣味嗜好が個別化すればするほど、こういう、日本人共通のネタになるものが、突出して売れる。

それだけのことだ。

『1Q84』という作品そのものの評価に関わらず、『1Q84』は運よく売れるスパイラルに入ってしまったというだけのことだ。

それに対して、あとづけで、村上春樹のエルサレム賞でのスピーチの影響だとか、地下鉄サリン事件以降、社会派色の強まった村上春樹作品がより多くの読者層を獲得したとか、もっともらしい解説がつく。

でも、実体は、ドラマ『ルーキーズ』の主題歌が、ギネスブックに掲載申請されるほど、携帯電話でダウンロード数を稼いだのと、大して変りない。

もちろん「キセキ」をダウンロードした人たちと、『1Q84』の購入層はまったく違うだろうけれど。

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2009/07/20

中川淳一郎著『ウェブはバカと暇人のもの』を読んだ


中川淳一郎著『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)を読んだ。

もっとも説得力のある梅田望夫批判で、本書に付け足すべきものは何もない。

この「愛と苦悩の日記」では以前、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を徹底的に批判した。

しかし、ニュースサイトの現場で、僕のような「バカと暇人」ばかりを相手にしている中川淳一郎氏の批判は、具体的で説得力がある。

あえて留保をつけるとすれば、少なくとも日本ではウェブは「バカと暇人」のものだが、他の国では分からない、ということだ。

ただ、ネットの受容に文化的差異があるであろうことが、梅田望夫氏の、まるでウェブがすべての国に均等に「革命」をもたらすかのような考え方が完全に間違っていることの何よりの証拠だろう。

2000年ごろまではウェブの世界にも一種の先行者利益があったかもしれない。

何しろ僕のように、今ではYouTubeに「中島美嘉シングル全曲カバー」「柴田淳シングル全曲カバー」といった「ゴミ」コンテンツを発信しているような「暇人」が運営していた、「think or die」というサイトが、@niftyの取材を受けたくらいだからだ。

Movable Typeが登場する前、HTMLが書けて、それなりの内容のある文章をネットで発信することが先行者利益だった。というより、単なる先行者利益でしかなかった。

そしてまさに梅田望夫氏のいう「ウェブ2.0」という「革命」が起こったがゆえに、少なくとも日本ではウェブは「バカと暇人」のものになってしまった。

梅田望夫氏は「ウェブ2.0」のおかげで、ネット世界がより理想的なものになるという、完全に間違った幻想を抱いてしまったが、日本で実際に起こったことは、ネットの世界が極めて凡庸で、当り前で、単なる日常になってしまった、ということだった。

何という皮肉。

そして梅田望夫氏は、その皮肉な結果をいまだに自覚せず、日本のネットの現実から目をそむけ、ネットが世の中に変革をもたらし続けると信じているようだ。

そんな梅田望夫氏の「イタさ」に気づかない人が、いまだに梅田望夫氏の理想論を持ち上げている。

ただ、中川淳一郎氏のような本が出てきたということは、日本人がインターネットの世界に対して、冷静に対処できるようになってきた証拠で、良い兆候だと、僕は考える。ネット上の「バカと暇人」の一人として。

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2009/07/11

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』を読んだ

たまには哲学の本も読まなきゃと思って、出張の新幹線で読むために仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書)を読んだ。

高校時代にハイデガーの『存在と時間』を読んでおきながら、実はいまだにアーレントは1ページも読んだことがない。

そこへたまたま書店で、大好きな仲正昌樹が書いた本書を見つけたので「衝動買い」してしまった。

中身は予想にたがわず、いかにも仲正昌樹らしいひねくれたハンナ・アーレント解説書になっていて、思わずニンマリしながら読み進めてしまう面白さ。

仲正昌樹は世の中にはびこる「わかりやすさ」症候群みたいなものを、徹底して批判しながら、あえてハンナ・アーレントのような難解な思想家の著作を、とってもわかりやすく解説してくれる。

そのひねくれ具合が絶妙で、仲正昌樹はクセになってしまう。

公的な領域と私的な領域の峻別についてのアーレントの思想は、たしかに右翼とも左翼ともつかない、独特の徹底性があるのだなと分かった。

本当はここで満足することなく、次はアーレント自身の著作を読まなきゃいけないのだけれど、残念ながらもう大部の哲学書を読むだけの集中力がない。

まだ若くて集中力の続く方は、本書『今こそアーレントを読み直す』の冒頭で解説されている、アーレントの主著『全体主義の起源』からどうぞ。

ちなみにハンナ・アーレントはこんな女性。
Hannah_arendt20090711

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2009/06/01

たった11ページで裁判員制度が完全に無意味だと分かる本


国民の過半が反対している裁判員制度が、強引に施行されてしまった。

宮台真司著『日本の難点』(幻冬舎新書)では、p.215~225のたった11ページで、「司法の民主化」を目指しているという裁判員制度が、どれだけ間違った制度であるかが、とても簡潔に説明されている。

他のトピックについても、本書は必読だ。

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2009/05/24

宮台真司『日本の難点』(幻冬舎新書)を読んでいる

社会学者・宮台真司の書いた『日本の難点』(幻冬舎新書)を読んでいる。


縦横無尽にさまざまな問題を、あざやかに、わかりやすい言葉で整理していく手法には、相変わらず感心させられる。さまざまな社会問題を考えるにあたって、とても参考になる観点を与えてくれる。

ただ、読んでいて非常に虚しくなる。

というのは、この本に書かれていることを実践できる立場にある人たちは、宮台真司のいう公共心を持つ少数のエリートだけだ。

僕は東京大学で、宮台真司がこの本の中で引用しているジャック・デリダなどの現代思想を学んだおかげで、この本の内容を、おそらく正しく理解できている。

しかし、僕のサラリーマンとしての日常生活は、実に下らない問題に忙殺されるだけの毎日だ。

サラリーマンとして長く働けば働くほど、仕事の内容のほとんどが、社内・社外のいろいろな人たちの「わがまま」を調整することになる。

社内のそれぞれの部署は自分の利益を主張し、社外の関係者も自分の利益を主張する。

それらがお互いに衝突するのを、どうやって調整して、妥協点を見つけるか。中堅サラリーマンの仕事をひとことで表現すれば、単なる「利害調整」である。

そういう下らない利害調整に、毎日、胃が痛くなるような思いをして、神経をすり減らして、疲れ切って家に帰ってきて。そういう毎日の繰り返しだ。

サラリーマンの利害調整の仕事には、公共性のかけらもない。

また、僕にしかない能力を発揮する機会もない。

宮台真司の書いていることはもっともだし、僕自身、ほぼ完全に同意する。

しかし、僕のように、社内外の利害調整で疲弊しているサラリーマンには、宮台真司の提唱するような、社会をより良くするための活動に参加する力は残っていない。

宮台真司は、こういう本を新書として出版することで、いったい誰に語りかけているのだろうか?

こういう本を読んで、たしかに勉強にはなるけれども、実に下らない利害調整に忙殺されるサラリーマンとしては、読んでいて、ただただ虚しい。

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2009/04/01

香山リカ著『雅子さまと「新型うつ」』を読んだ

香山リカ著『雅子さまと「新型うつ」』(朝日新書)を読んだ。香山リカの他の一般向け書物同様、精神医学の現場の実態を反映させながらも、とても読みやすい本になっている。

雅子さまに対する「適応障害」という診断や治療経過について、香山リカはいくつか重要な指摘をしている。

たとえば、宮内庁の対外的なコミュニケーションの問題。宮内庁は雅子さまの病状や治療経過について、ことあるごとに皇室という特殊な環境の重圧によるストレスに言及している。

このことがいくつか深刻な誤解を生んでいると、香山リカは指摘する。

一つは、「同じような環境で、秋篠宮紀子さまは病気にならないんだから、やっぱり雅子さまの忍耐が足りないんじゃないの」という、心無い誤解。

一つは、皇室の生活は重圧に満ちた息苦しい環境であるというネガティブな印象を、宮内庁自ら国民に喧伝しているようなものだ、という点。

そしてもう一つ、最も重要なのが、本書のタイトルにある「新型うつ」とも関係する誤解。

僕も含めて、この本を読むまで、多くの人は「雅子さまは皇族としての公務の重圧によるストレスで病気になった」と考えているが、香山リカは「新型うつ」を一つの例として、まったく逆ではないかと推測している。

ここから先はネタバレになるので、本書をじっさいに読んでいただきたい。

香山リカの言っていることが正しいとすると(おそらく正しいと思う)、彼女の書いている通り、「静養」「安静」を中心とする治療方針は、完全に間違っており、かえって病気を長引かせることになる。

雅子さまの回復を願う国民の一人として、この香山リカの指摘は非常に重要であり、宮内庁が真摯に受け止めるべき意見の一つだと考える。

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2009/03/18

佐藤俊樹著『意味とシステム』を読んでいる

佐藤俊樹著『意味とシステム~ルーマンをめぐる理論社会学的探求』(勁草書房)はやっぱり面白い。

二クラス・ニューマンの社会システム論の解説書なのだが、いきなりルーマンのシステム理論の限界を指摘するところから始まるので、ルーマンに埋没することなく、冷めた目でルーマンを理解することができる(あるいは理解した気になることができる)。

前半はルーマン理論のコアな部分の解説になっていて、第二章は長岡克行氏の佐藤氏に対する批判への反論をしつつ、ルーマンのシステム理論の限界をつきつめていくスリリングな展開。

後半はシステム理論の応用編で、おそらく会社員にとっては「第五章 官僚制と官僚制化:組織システム論の視界と限界」が非常に面白いだろう。

法システムと官僚制システム(よく誤解されるのだが、官僚制というのはいわゆるお役所組織のことではなく、マックス・ウェーバーの定義によれば、私企業の会社組織こそ典型的な官僚制組織ということになる)の違いと、この2つのシステムの相互関係から、会社組織の本質をシステム理論の観点から理解できる。

著者の佐藤氏は、ルーマン理論の魅力は、抽象的な理論体系としてではなく、実際の社会事象の分析に幅広く適用できる点にあると、本書の中でくり返し書いているが、この官僚制組織の章は、まさにそのことがはっきりと示されている。

僕はルーマンの『社会システム』の英訳本を最初の50ページで挫折してしまったが、ルーマンってこんなに面白かったのかと思わせてくれる貴重な本だ。

って、まだこの本を読み終わっていないのだけれど。

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2009/02/24

林知行著『標準ポピュラーコード理論』を読んだ

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読み終わった後、林知行著『標準ポピュラーコード理論(改訂新版)』を読んだ。

たまに気が向くと音楽理論書を読むのだが、やっぱり楽器がちゃんとできないと無意味だと感じる。ギターは全く練習していないので、簡単なコードしか弾けないし。

それでも、例えばD7→Db7→Cというコード進行のDb7は、単に経過コードじゃなくて、ドミナントコード(G7)の裏コードで、D7はさらにそのドミナント(ダブルドミナント)ということが分かっただけでも良かった。

よっぽどヒマがあったら中島美嘉の『STARS』のコード分析でもしてみたいが、「答え合わせ」ができないのであまり意味がない。

後半のスケールの話はまったく理解できなかった。そもそもコードによってAvoid(避けるべき音)がどのように決定されるのか、肝心なことが説明されていないので分からない。

まったく同じテーマの本で、3倍くらいの分量で、ていねいに解説してくれている理論書を読みたいが、プロのポピュラー・ミュージシャンはそんな本を書くヒマがないのかもしれない。洋書ならありそうかも。

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2009/02/17

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読み終えた

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読み終えた。東浩紀批判と宮台真司の依拠するルーマンのコミュニケーション論からの着想に立脚した(?)2000年代サブカルチャー批評として、今までにない視点が得られ、非常に面白く読めた。

ただ、当然の批判として、そもそもサブカルチャー批評そのものが、大多数の人々にとってはどうでもいい「島宇宙」であること、そして先日書いたように、宇野氏の大きな議論の展開そのものが教養主義的な成長指向を無条件に是認していること、そして、コミュニケーションの善悪の判断基準の問題を宙吊りにして、とにかくコミュニケーションの回路を開け!(=「ドアを開けろ!」)という結論が、それまでのセカイ系=決断主義批判に対する結論としてあまりに拙速なことなどがあげられる。

もちろん本書は、宇野氏の模索の出発点と見るべきで、これらの批判は「早すぎる」批判だ。これから宇野氏がどのように議論を展開していくのか、非常に興味深いところだ。

もう一つ、個人的に気になったのはリファレンスの偏りである。特に音楽がほぼ無視されている点だ。

例えば、クラブが自閉的な島宇宙なのか、異なる者とのコミュニケーションの可能性を担保する場なのかによって、クラブミュージックの評価は正反対になるはずだ。

そして浜崎あゆみや倖田來未の、根拠不明の圧倒的なカリスマ性や、音楽ジャンルの無意味と思われるほどの細分化、「ひとりカラオケ」という没コミュニケーションの形態などは、むしろ少女漫画や『仮面ライダー』より、多くの人々に身近な問題として提示できる。

いずれにせよサブカルチャー批評が音楽シーンを無視する理由が、まったく理解できない。この点は宇野氏に限らず、他のサブカルチャー批評にもあてはまる重大な欠陥だ。
サブカル批判は音楽を無視しないでほしい。

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2009/02/15

宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』はめちゃ面白い

いま宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を読んでいるが、久しぶりに本格的で面白いサブカルチャー批評だ。「愛と苦悩の日記」の読者の皆さんにもぜひお勧めの一冊。

宮台真司の推薦文つきだが、全体としては、東浩紀のサブカルチャー批評に対する根本的な批判の書となっている。

『新世紀エヴァンゲリオン』のひきこもり系の克服としての『バトルロワイヤル』的決断主義とその蹉跌。その後にテレビドラマ、映画、漫画などのサブカルチャーが、どのように課題を解決しようと模索しているかを、シンプルな分析枠組みで、すっきりと論じている。

連載をまとめた本ということもあるが、テレビドラマや漫画のネタバレあらすじ紹介も豊富、同じ論点が繰り返し提示されており、そういった教育的配慮もゆきとどいた読者に親切な本だ。

ただ、面白いのは面白いのだが、東浩紀の自己慰撫的な批評を批判し、超克することで、本来の批評を復権させるという著者の宇野氏の意図自体が、きわめて教養主義的で、本書の存在そのものを自己言及的にメタレベルから見たとき、実は『新世紀エヴァンゲリオン』が葬り去ったはずの『機動戦士ガンダム』的教養小節を召還していることになっている。

また、東浩紀批判はいってみれば宇野氏による「父殺し」の試みであり、著者が必死になって東浩紀のサブカル批評を批判しようとすればするほど、実は宇野氏にとって東浩紀が「大きな物語」として機能している。

つまり本来的な批評を取りもどすという宇野氏の意図そのものが、批評というものをヘーゲル的な歴史観に回収する観点に立っている。

デリダ研究者である東浩紀はそれを分かった上で、サブカル批評には自己慰撫的な批評しか残されていないと決断したのではないか。僕はそう考えており、東浩紀の批評が単に堕落しているのだと切り捨てることには強い違和感がある。

それを差し引いても、この『ゼロ年代の想像力』は2001年以降のサブカルを本格的に論じた初めての批評であり、非常に面白い。

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2009/01/18

大学時代の友人の書いた本を読み始めた

大学時代、同じ学科だった人が昨年春に勁草書房から単行本を出していたことを、今ごろGoogleで彼の名前を検索して気づき、さっそくAmazon.co.jpで購入して読み始めている。

自閉症の世界認知の観点から現象学を拡張しようという、野心的な試み。彼が精神医学の方面に研究の幅を広げていたとは、まったく知らなかったので、驚くとともに非常に興味を持ち、「これは読まなきゃ」と思った。

まとまった感想は読了してから書きたいのだが、内容が軽くて読みやすい新書と違い、本格的な論文なので、一体いつ読み終わるやら...。

いちおう読むからには、方法としての現象学がつねにすでにそれによって汚染されている「主観性 subjectivity」(それが間主観性であれ)が、自閉症の分析のなかでどこまで相対化されているかを、一つの着目点として読んでみたい。

自閉症は器質因だが、症状の「現われ」は飽くまで、その観察者を含む社会環境との相互作用が産む可能性のある、無数の結果の一つにすぎない。

その「現われ」の解釈も、自閉症と環境の相互作用の産出する結果の一つの、可能な記述の一つにすぎない。

観察者もその相互作用というシステムの内部にいる以上、それら可能な記述のうちの一つを特権化することはできず、せいぜい自閉症と環境の相互作用のバリエーションの一例として記述することしかできないはずだ。

これが、上述の本を読むに当たっての僕のシステム論的な立場である。

...なんて一介のサラリーマンが本職の研究者の著書をとりあげて、偉そうなことを書いている場合か。

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上杉隆著『ジャーナリズム崩壊』を読んだ

またまたまた今ごろ読むかという本を読んだ。上杉隆著『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書)

やや米国礼賛が過ぎる感はあるが、日本の「記者クラブ」制度が世界的に見ていかに異常かがよくわかる本。

この本を読むと「日本の新聞やテレビニュースは見なくていいかも」と本当に思えてくる。

日本のメディアが報道するニュースに毎日ふれている皆さんにとっても、その欺瞞性を知るための必読書。

ちなみに、皆さんよくご存知の田原総一郎氏や、日曜朝の関口宏『サンデーモーニング』によく登場する岸井成格氏は、著者の上杉氏のことを、単なる若造で、相手にするに値しないと公言している。

日本のジャーナリズムの閉鎖性・排他性を徹底して批判する上杉氏は、本書で本多勝一氏も俎上にのせている。「えっ?あの本多勝一氏まで批判されるのか」と思った方には、なおさら必読書。

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2009/01/17

福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』を読んだ

またまた今ごろ読むかという本を読んだ。福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)

これは生物学の解説書ではなく、上質のエッセーとして堪能すべき本。分子レベルで人間の体はどんどん入れ替わっているというのは、すでに「常識」になっており、本書の唯一の科学的主張に新奇さは感じられない。

個人的には、数学や幾何学にまったく疎いので、トポロジーの観点から生物を見るところが興味深かった。

専門家としての見地から、細胞どうしの相補性の部分を、生命と環境の相補性まで敷衍して論じて頂ければ、もっと楽しめた。

全く面白くない感想文で申し訳ない。日々自分が下らない人間になっていくようで嫌になってくる。

下らないついでに最近YouTubeにアップした筆者による中島美嘉『ひとり』のオクターブ下のカバーをどうぞ。

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2009/01/08

武田邦彦著『偽善エコロジー』(幻冬舎新書)

武田邦彦著『偽善エコロジー』(幻冬舎新書)を読んだ。武田氏の環境問題批判書を今ごろ読むなんて乗り遅れているが、必読書。

Amazonのカスタマーレビューを読む限り、武田氏の環境問題批判はすでに「ネタ」と化しているようだ。しかし、テレビを中心とするマスメディアが喧伝しているエコロジーの偽善性を認識するきっかけとしては十分価値があると思う。

右へ曲がっているものを、真っ直ぐにするには、いちど思い切り左へ曲げる必要があり、武田氏の本はマスメディアのプロパガンダに対抗する「反プロパガンダ」としては十分な機能を果たしている。

そういった機能を評価せずに、武田氏の著書を単なる「トンデモ本」扱いして切り捨てる議論は間違っている。

ところで僕の大好きな中島美嘉さん。やっぱりマイ箸運動、続けますか?

それから僕の好きでも何でもない藤原紀香さん。それでもNHKの『SAVE THE FUTURE』の仕事を請けつづけて、ツバルが水没するのは温暖化のせいだと台本どおりに話し続けますか?

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2008/12/28

小幡績著『すべての経済はバブルに通じる』を読んだ

今さらながら小幡績著『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)を読んだ。証券化という金融技術のもつ機能を明快に解説し、世間のバブルについての常識をバッサリ斬っている。

サブプライムローンに端を発する金融危機が、過去のバブルとどう違うのか。現代の金融資本主義において発生するバブルに、とういう本質的な変化が起きているのか。解説は明晰だ。さすが東大経済学部主席卒業。

終盤にある今年2008年の、上海株式市場暴落に始まる世界の株式市場暴落の解説はやや退屈だが、実はその退屈さこそがバブルの本質をよく表現していると言えるだろう。

本書にはたびたび、岩井克人の「貨幣は貨幣であるから貨幣なのだ」という貨幣の定義が引用されている。小幡氏はバブルもあらゆる根拠付けを逃れ、かつ、現代の資本主義に構造的に組み込まれた不可避の現象だと書いている。

では世界経済はもう永遠に金融バブルから逃れられないのか。小幡氏は本書の最後に興味深い見通しを書いている。サブプライムローン問題とは何だったのか。総括する上で必読書。

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2008/11/15

高橋源一郎『ニッポンの小説―百年の孤独』

久しぶりに高橋源一郎センセイの本を読んだ。『ニッポンの小説 百年の孤独』だ。

久しく小説を読んでいない僕は、高橋源一郎センセイの文芸批評を批評する立場にないので、平板な感想だけを述べることにする。

小説とは、客体化・対象化不可能な存在と、それを客体化することなく何らかの関係を打ちたてようとする試みであり、この試みは本質的にどこまでいっても終りがなく、試みのままとどまるような試みである。

このように要約してしまうと、小説を定義可能なものとして客体化・対象化したことになってしまうが、それは小説を成立させている散文一般の避けられない運命のようなものだと、高橋源一郎センセイは考えているらしい。

本書は僕にまったく馴染みのない現代詩をたくさん引用しているので、前半は正直、とっつきにくかった。

しかし、中盤で、内田樹のレヴィナス論に依拠しながら、小説や散文とは何かを高橋源一郎センセイが考え始める段になると、ようやく僕にも手がかりがつかめてきた。

そして何より本書は、高橋源一郎センセイの小説や散文、現代詩に対する愛があふれている。そして自ら小説家としての使命感・倫理観にもあふれている。

サラリーマンの仕事は、結局のところ全てを対象化する「私」を前提とする、ごく日常的な営みなので、高橋源一郎センセイにとっての小説のように、一生をかけて問い続けるような問題には決してなりえない。

そんなサラリーマンの仕事に、人生の大半を浪費している自分が、やっぱりイヤになってくる。本書の読後感としてそんなことを感じるのは間違っているのかもしれないが、どうしてもそう感じずにはいられないのだから仕方ない。

そんな筆者個人の事情はともかく、大学で文学を専攻している学生の皆さんにとっては、必読書と言える。

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2008/11/08

仲正昌樹『<宗教化>する現代思想』

昨日は久しぶりの発熱で12時間以上眠っていた。安定剤や解熱剤を使うと不思議なほど際限なく眠れる。

出張の新幹線の暇つぶしに仲正昌樹『<宗教化>する現代思想』(光文社新書)を衝動買いした。著者の仲正昌樹氏は1963年生まれ、東京大学博士課程修了で、高橋哲哉氏より冷めた、東浩紀氏より地道なデリダ研修者として有名(?)。

本書は西洋哲学のイデオロギー色が嫌いな人や、教条的なサヨクの嫌いな人にとっては、とっつきやすい西洋哲学史入門になっている。

また、大学で西洋哲学概説の講義をとっている学生さんには、キリスト教、プラトン、カント、ヘーゲル、ハイデッガー、デリダの思想がコンパクトに紹介されているので、うってつけの西洋哲学入門だと思う。

(「統一教会」を知らないと面白さ半減だが、最近の学生さんはどれくらい統一教会を知っているのだろうか)

この本を読んでいると、個人的には、高橋哲哉氏を批判するためだけに書かれたんじゃないかと思いたくなるくらい、教条主義的なサヨク言説を展開するのにデリダを参照する高橋哲哉氏の振る舞いに対する批判としては、ぴったりしすぎるくらいだ。

でも本書には、高橋哲哉氏の「た」の字も出てこないので、これは僕のうがった見方でしかない。

ただ、本書を読んでも、会社員としての僕にとっては、当然のことながら全くリアリティーがない。「そういえば学生時代、高橋哲哉先生のデリダ『暴力と形而上学』の購読ゼミに出席していたなぁ」という懐かしさしか感じることができない。

それでもたまにこうやって、自分の思想的基盤を再確認してみるのは意味のあることだ。身近に入る会社員たちの凡庸さが際立ってくるのは哀しいことだが。

僕は会社員であっても、真理の探究をあきらめない相対主義的態度を棄てたくない。

会社員であるまえに一市民であり、一市民としての良心は、第一に、会社員として自分がやっている日々の仕事を相対化する立ち位置を保ち続けることだ。

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2008/06/23

大沢真幸『不可能性の時代』を読んだ


昨日、今日の二日間は、大沢 真幸『不可能性の時代』(岩波新書 新赤版)を読んだ。議論の射程の長さに対して、新書という分量が明らかに不足していて、消化不良の感は否めない。

あまりに単純に図式化しすぎているという非難を避けるには、たぶん4倍くらいのページ数で精緻に理論を展開する必要があるだろう。

理論展開のパターンは分かりやすい。両立不可能な二項対立が、実はその背後に第三項を要求するが、その第三項は、二項対立を成立させている「真の第三項」を隠ぺいするために要求されているに過ぎない、というパターンだ。

「真の第三項」は二項対立から直接導くことができず、自らを隠ぺいするために顕在化させるという意味で、「不可能性」と名づけられているが、ポストモダン思想にとってはおなじみの理論展開と言ってよい。

こういう理論を、単なるパッチワークだとか、わけがわからんとか、実際の生活に何の役にも立たないとか、そうした批判そのものが、大沢氏が退けている「第三者の審級」を呼びもどしているに過ぎない。

ただ、大沢氏は時間をかけて、自らの理論体系を構築しようとしているが、このグランド・セオリー指向には、やや違和感を抱く。現代を「不可能性の時代」と名づける行為そのものが、自ら「第三者の審級」たろうとする行為ではないのか。

もちろん大沢氏の理論は自己言及的である点で、その辺の、特定の観点や価値観を臆面もなく一つの教義として主張するような、下らない新書と同列に論じることはできない。

大沢氏の理論は、自らの理論自身を「ネタ」として論じることができる点で、特定の観点や価値観を「ベタ」にお勧めしているような啓蒙書とは、まったく異なる水準にある。

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衛慧『上海宝貝』を読んだ



先週、1970年代生まれの上海の女流作家、衛慧の『上海ベイビー』(文春文庫)を読んだ。中国では発売禁止処分になっているが、原文はインターネットで読むことができる。

卫慧《上海宝贝》

この種の小説はあまり読まないので貧困な読後感しか書けないが、文体は山田詠美を連想させた。そしてヘンリー・ミラーやデュラスなど、欧米の現代文学、音楽などからの引用が豊富で、とても洗練されているのに驚いた。

おそらく著者の衛慧は、上海の中でも文化水準において特権的な集団に属しているのだろう。

ただ、特にこの物語の主題に目新しいものはない。最終章の「私は誰」からも分かるように、この一見、退廃的な物語の主題は、実はかなり「近代的」で道徳的だ。

メタフィクションのように見えるが、実際には私小説的な小説であり、自己言及的というよりは自己愛的な小説だ。

美しい小説であることに違いはないが、飽くまで近代的な美しさの小説だ。

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2007/12/05

『誤用から学ぶ中国語』のすすめ

以前ご紹介した『中国語文法教室』というすぐれた教材を読み終えたのだが、これより先に読むべき本があったことに今日気づいた。


こちらの『誤用から学ぶ中国語』という本だ。『中国語文法教室』は内容が非常に深い分、カバーしているポイントがやや少ないのに対して、『誤用から学ぶ中国語』は広く浅く、入門文法を学んだばかりの人が犯しがちな誤りをあつかって参考になる。例文にすべてピンインが付いている点でも、『中国語文法教室』より親切だ。


中国語を文法からきっちり勉強したい人は、まず千円台の中国語入門をどれでもいいので一冊通して読み、その後に『誤用から学ぶ中国語』を読み、それから『中国語文法教室』を読み、それから『一歩すすんだ中国語文法』を読めば、完璧ではないかと思う。

しかし、この手の中国語文法書、Amazon.co.jpに古書が一冊もないのは、よほど読む人が少ないのだろうか。

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2007/11/12

カート・ヴォネガット『国のない男』


2007/04に逝去したカート・ヴォネガットの遺作『国のない男』を読んだ。ブッシュ大統領を初めとする新保守主義者たちを「サイコパス」と呼び、ナチスドイツと並列に論じているカート・ヴォネガットにとって、よりによってブッシュ政権下の米国で最晩年を生きなければいけないのは、自分でも笑ってしまうくらいのアイロニーだったのかもしれない。

この『国のない男』という書物全体からは、自虐的なユーモアを通り越した、救いようのない絶望感だけが伝わってくるのが、カート・ヴォネガットの一ファンとしてはとても悲しい。

そして、ヴォネガットのような優れた小説家を絶望に追いやる米国は、やっぱりどうかしている。

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2007/10/15

仲正昌樹著『デリダの遺言』を読まなかった

別の本を買うつもりで最寄の大型書店に立ち寄ったら、たまたま仲正昌樹氏の著作を見つけてしまい、半時間近く立ち読みしてしまった。『デリダの遺言』と『思想の死相』の2冊だ。

『デリダの遺言』では、僕が某国立大学でフランス現代思想を研究しようと思い立つきっかけになった、高橋哲哉氏の最近の政治的発言が批判的にとりあげられているので、思わず読み込んでしまった。

思想書としては久々に面白く感じたので、購入して読もうと思ったが、ふと冷静になって考えた。

仲正氏はこの2冊の書物で、思想は「生き生き」していなければならないという強迫観念を徹底的に批判しているが、仲正氏自身、生き生きした思想とそうでない思想という二項対立の図式に、意図的にコミットしている。

仲正氏の言説のスタイルは、仲正氏の意に反して、とてもわかりやすい。なので思わず立ち読みしてしまう。しかし、仲正氏が批判の意図を明解にするには、二元論図式にどっぷり足を踏み入れる必要がある。

もちろん宮台用語でいえば、これは仲正氏の「ネタ」なのだが、西洋哲学の専門家でない僕のような単なる会社員が、仲正氏の本を楽しむこと自体、「ネタ」を「ベタ」へと転じる過程になってしまう。言い換えれば、仲正氏の受け売りで、高橋哲哉氏のサヨク的言説を批判するようなことになってしまう。

仲正氏の思想的批判書は、僕のような大衆に読まれることを、自ら否定するような自己言及的な構造になっているのだ。

そのことに気づいて、僕は自分には『デリダの遺言』や『思想の死相』を、少なくとも「真剣に」読む権利はないし、同じ理由で、高橋哲哉氏のサヨク的言行を批判する権利もないと思い直し、買わずに置いてきた。

それでも読んでやろうという方は、下記のAmazon.co.jpの任意のリンクからどうぞ。

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2007/08/12

ルーマン「機能と因果性」精読(8)

今回も引き続き Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 - Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.AuflageのIII、ページ数で言うと22ページから読み進めたい。

機能主義的分析についての、ルーマンによるやや冗長な説明の部分である。しかし、冗長なだけに、ルーマンの方法論の基礎がよく理解できる貴重な論文であることに違いはない。

「機能的な関係づけの観点が使われるとき、原因であれ結果であれ、因果過程の諸段階は存在論的な事実性ではなく、問題として考えられている。機能主義的分析の基礎概念は、経験的な仮定の形式になっていない。そのことは機能主義的分析をあらゆる目的論的説明、あるいは、機械的説明から区別する。一定の原因が事実として先行し、それによって一定の結果の発生が説明されるか反転されるかすることが、前提されたり承認されたりしているわけではない。また、ある有機体が事実として存続していたり、あるシステムが均衡を保っていたり等々ということが、前提されたり承認されたりしているわけでもない。関係の統一性は問題と見なされているのだ。それは次のようなことだけを意味する。つまり、機能主義的分析の有効性は、個別の場合で問題が解決されるかどうか、結果が生じるかどうか、システムが存続するかどうかといったことに依存しない。したがって、次のようなことをも意味しなければならない。つまり、機能主義的な言表は、原因と結果の特定の関係に関わっているのではなく、さまざまな原因、あるいは、さまざまな結果どうしの関係、つまり、機能的等価物の確立に関わっているのだ」

この部分の説明もかなり冗長な感じがする。機能主義的分析は、事象の繋辞的な側面ではなく、パラダイムの側面に関わるものである、という意味のことが書いてある。

「機能主義的分析の関係づけの観点は、安定化の問題であって、定数の仮定ではないという洞察が、前面に出てくることになる。ここから、因果論的科学の実証主義にとって、関係づけの観点は何ら適切な説明根拠にならないということが生じる。したがって、これまで機能主義的分析が、システムの(ありうる)安定性を複雑な機能的作用によって純粋に因果論的メカニズムで説明することへと還元されていたのも、もっともなことだった。逆に、機能主義的分析の独自性を主張する人たちは、ある問題が説明根拠や分析の支えとなる根拠としても機能しうるということを―たとえここで言う根拠が存在論的形而上学の意味での根拠ではないとしても―受け入れざるをえないのである」

以上で「III.」の部分は終わりになる。ひきつづき「IV.」を読み進めることにしたい。

「IV.機能主義的分析の主要な問題の一つは、関係の統一性の定義だ。関係の統一性にとって機能的作用は等価である。この問いについて近年、機能主義的方法について賛否両論が集中している。関係の統一性の定義のあいまいさを取り除けないことは、多くの人にとって機能主義的方法に固有な困難さだと見なされている。しかしここでも、関心を因果的確定から等価的確定へと移せば、新しい側面がうかびあがる」

説明もなくいきなり「関係の統一性」という問題が持ち出されているので、この問題を理解するためには読み進めてみるしかない。

「支配的な因果的科学の機能主義は、機能を、存続をもたらすもの、あるいは、ある行為システムの存続の個別の前提となるものとして定義している。そこから機能的作用はしばしば行為システムの存続にはっきりと関係づけられる。しかしこうした定式化をより詳細に調べることで、かなりの困難さが明らかにされた。
 このような定式化は生物学に由来しており、有機体の機能的作用を生きている有機体、あるいは、ある種の有機体に関係づける。しかし生きている有機体という概念に、生物学は一義的な経験的関係づけのシステムをもっているが、社会科学はそれを欠いている。ある社会システムは有機体のように固定された型をもたない。たとえ生存のためにそのような発展が必要であっても、一頭のロバがヘビになることはない。それに対して社会秩序には、その同一性と連続的な存続を犠牲にすることなく、深い構造的変化が起こりうる。社会秩序は農業社会から工業化社会に変わりうるし、大家族が家族を超える政治的秩序をもつ部族にもなりうる。そして、いつ新しいシステムが生じるかは決定不可能だ。そうしたことは、社会科学には死という明らかに切断された経験的問題が欠けていることと密接に関係している。生物学において死の問題は存続の基準となっている。したがって社会科学にとって、あるシステムの存続の問題は不確定なものへと輪郭がぼやけてしまう。次のような意見に対しては、適切に反論できる。つまり、ある社会システムの存続は事実としてめったに問題にされないとか、本当に存続にとって決定的な機能的作用はごくわずかしかないとか、そのような理論による説明の価値はほとんどないなどといった意見だ」

ここでは生物学におけるシステム理論と、社会学におけるシステム理論の違いが問題にされている。一つの決定的な違いは、個々の有機体は死を迎えるが、社会システムには死という終わりがないという点だ。

そのために、そもそも社会システムについては、型(タイプ)の変化を論じることに意味はあっても、存続を論じることに意味はないのではないか、という疑念が出てくるのも当然だ。社会システムは言ってみれば「死なない」のだから、存続のための条件を問題にする機能主義的分析の有効性は限定されるのではないか。そういう疑念が出てきても仕方ない。

もちろんルーマンはそうした疑念に対して反論していくことになるが、つづきは次回ということにしたい。

(つづく)

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2007/07/31

ルーマン「機能と因果性」精読(7)

今回は引き続き Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 - Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.AuflageのIII、ページ数で言うと20ページから読み進めたい。

「III. 因果論的科学の機能主義に対する批判は、認識カテゴリーとしての因果性に対する批判と同一視することはできない。また、前者は後者の排除を目的としているわけではない。そして、機能主義的研究と因果論的研究の対比を指摘するのが問題なのでもない。目的論的因果性と機械論的因果性の古くからの区別を、少し更新しようとするのである。因果論的科学の機能主義に対する批判は、むしろ、因果論的関係と機能的関係が、お互いをどう基礎づけるかという関係性を反転させることを狙っている。つまり、機能とは特殊な因果関係なのではなく、因果関係こそが機能的秩序の一つの適用例なのだ」

この冒頭のパラグラフで、機能と因果性の相互関係についてのルーマンの論旨は明白だろう。これまで機能的関係を基礎づけるものとして考えられてきた因果的関係を逆転させ、機能的関係が因果関係を包摂する概念だと言っている。

「われわれは因果的秩序の概念とは独立に定義できる機能概念を見出したあと、この反転のための観点を作り出すことにしたい。そしてそこからさらに、因果関係をその機能的概念の助けをかりて説明することで、因果的判断に固有な意味が、より有効なものになることを示す」

ここではこの第三章全体の意図が示されている。

「古代ギリシアと中世の因果性が、ほとんど把握できないような意味で、存在根拠への有限の関係として理解されていた一方で、近代の始まり以来、因果性における無限の問題は無限性の問題は、避けられないものとなった。各々の因果論的命題(Feststellung)は無限なものに対する様々な方向での指示を含意する。つまり、各々の結果は無限に多くの原因をもち、各々の原因は無限に多くの結果をもつ。さらに、各々の原因は無限の仕方で他の原因と結びつき、あるいは、他の原因と交換できたりする。そこから結果の領域の中に、それに対応する多様な区別が生じる。最後に、各々の因果的過程は自らを無限に分割するとともに、無限に遠くまで追っていくこともできる」

まずルーマンは、近代以降の因果性概念がさまざまなかたちで無限という問題とからめて論じられてきたことを指摘する。

「こうした問題を見すえれば、因果性の存在論的解釈はその意味をうしなう。したがって、原因と結果を一定の存在状態と解釈することも、因果性を一つの原因と一つの結果の間の不変の関係として確立することも、もはや不可能となる。他の原因、他の結果をすべて排除することは正当化できなくなる。たしかに"ceteris paribus"を前提とすることで、社会科学の"exculping phrase"を公式な具体的言表にすることはできる。しかし、他のすべての因果的要素を事実として完全に排除できないなら、そのような言表は何ら経験的価値をもたない。そして社会科学こそは、そのような排除に成功しない典型例だ」

文中のラテン語と英語は原文のままとした。日本語訳は後日つけることにしたい。なおこの部分の論旨にあいまいさはないので、コメントは控える。

「逆に、もはや一つの原因と一つの結果を法則の形で同時に不変なものとしてとらえようと努めるのではなく、一つの原因、または、一つの結果を不変とすることで十分だとすれば、課題は軽減される。等価機能主義は、こうしたより控えめな端緒を推奨する。原因と結果は、生活実践的な根拠、または、理論的な根拠から、関心の焦点を作るが、等価機能主義は原因と結果のどちらかを機能的な関係づけの観点として利用する。つまり、等価的因果関係についての問いの、不変な出発点として利用する。一つの結果を関係の問題として評価すれば、それに関連して一定の諸原因の領域が秩序づけられる。より多くの原因の結びつきが、その結果を引き起こすのに十分なものとして明らかにされる。このように、問題となっている結果はさまざまな原因どうしを関係づけるための秩序づけの観点と見なされる。同じように原因もまた機能的な関係づけの観点と見なされうる。したがって、これらの原因の正当化は問題としてあつかわれる。その原因に対する結果の外周から、さまざまな目的が可能な正当化として選び出される。そうしてさまざまなイデオロギーが機能的に等価であることが証明される」

ここでは、等価的機能主義が原因からでも結果からでも分析を始められること、そして、特定の原因、または、特定の結果から出発することで、一定の問題領域を開き、その領域の内部においては、すべての要素が交換可能で等価なものと見なされうることが説明されている。

「その際に原因のもとでの比較可能性が開かれるが、それは結果の領域の中から唯一の結果が関係づけのための点として選び出され、抽象されることに基づいている。この抽象化は固有のスタイルをもっていて、種概念と類概念による分類的な抽象化とははっきり区別される。つまり、原因と結果のどちらかの個別的な特徴を捨てるのではなく、付随的な結果を捨てるのだ。付随的な結果をすべて考慮に入れようとすると、もはや諸原因のもとでいかなる選択もできなくなってしまう。諸原因は完全に個別で、しかも比較不可能なしかたで観察されることになってしまう。というのは、たしかに個々の原因は一つの結果をもつが、決してすべての結果を共有しているわけではないからだ。言いかえれば、一つの結果は、その原因から生じる付随的な結果を捨てれば、機能的な関係づけの観点にとって本質的な多義性を得る。それによって、より多くの原因の可能性が(それは付随的な結果によってしか区別されないのだが)、機能的に等価なものとして現れる」

この部分は、等価的機能主義が、無数の原因からたった一つの原因を、あるいは、無数の結果からたった一つの結果を選択することで、諸結果の領域、あるいは、諸原因の領域が等価物の領域として現れるという、方法論上の操作が説明されていると理解する。

このあたりの等価的機能主義の方法論的操作についての説明は、やや冗長な気がするのだが、僕が読み落としている重要な意味があるのかもしれない。

「したがって因果論的要素の機能的分析は、原因と結果の関係だけを問題にするわけではない。たしかにそのような関係は分析の端緒として前提されている。そのような関係は補助的方法としては使えるが、命題(Feststellung)の対象としては使えない。分析そのものは、結果の作用の観点のもとで可能な原因を探求するか、あるいは、原因の作用の観点のもとで可能な結果を探求するかのどちらかに集中する。あらゆる機能主義的分析は、ある選ばれた観点を前提とするので、この両方の探求を同時におこなうことはできない。観点を変えると、探求の成果も変わるからだ。そういう意味で、原因と結果の間には『不確定性の関係』がある。因果性の意味は原理的に原因と結果を同時に一義的に確立することを排除している。因果性についての存在論的解釈が獲得しようとしているものは、獲得できないのである。この洞察が機能主義的因果論の出発点を生み出す。機能主義的因果論にとって、排他的な因果法則はせいぜい分析の極端な場合であり、原因の領域にも、結果の領域にも、他の可能性が存在しないということは、絶対的に制限された等価物の極端な場合と考えることができる。しかし、因果的関係の意味は、このような極端な場合の達成にも、他の可能性の排除にもなく、さまざまな可能性を把握し、秩序づけることにある」

要するに機能主義的因果論は、さまざまな可能性の把握という、「権利の問題」の水準にあるということだ。

(つづき)

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2007/07/24

ルーマン「機能と因果性」精読(6)

前回に引き続き、Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 - Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.Auflageの19ページから精読を進める。

「このような意味での機能概念を、機能的変数の枠内で等価物を確立するための規制原理として理解し、因果論的科学の機能主義のかわりに等価物の機能主義を利用すれば、上述の方法論的困難は解消される。したがって『欲求』はもはや、機能主義的な関係づけの観点以外の何物でもなく、さまざまな欲求充足の可能性が互いに等価であることを明らかにするものであることがはっきりする。それらの等価物は、ある欲求が現に充足行為を動機づけるかどうか、またどれくらいの確率で動機づけるかにかかわらず、確立することができる。したがってそれはまた別の問題形式、つまり、社会システム、または、社会文脈の存続にも当てはめられる」

先に欲求と結び付けられた機能的説明が批判されていたが、ここではあらためて、特定の欲求とその充足行為の個別の結びつきから独立した、純粋な交換可能性の体系としての機能概念が提示されている。

「機能主義はしばしばトートロジー的な定式化だという非難をうけるが、以上のような説明でそのような非難は無効になる。機能的な議論は、見出された作用から、それに対応する欲求を推測し、それによって作用の存在を正当化するといった点にはない。ある論理式は、関係づけの観点の定式化と、すべての等価な実現可能性との間だけに成立する。この論理式は分析的=発見的な原則である。どのような変数値(Einsatzwerte)がそのような機能的クラス、つまり、変数に属しているのかは、逆に経験的認識に関することであり、決して関係づけの観点の定式化からは生じない」

機能主義が、すでに発見されている結果から原因を推測することで、その結果はその原因から生じたのだ、という因果論的な機能主義にとどまる限り、たしかにトートロジーに陥ってしまう。

ルーマンがここで救い出そうとしている機能主義は、交換可能な等価物=変数値と、それらを関係づける点からなり、前者はいつでも他の可能性、他の等価なものと交換できるということから、特定の原因と特定の結果に縛られることなく、他の可能な等価物を探索するための発見的方法としても使える。

「さらにそれによって、機能主義的方法がその前提となるシステムの説明に、本質的に静的かつ保守的に関係づけられるのかどうか、あるいは、歴史的発展を考慮に入れることができるような社会的変化の問題はどうなのか、といった問いをめぐる論争が解決される。機能的方法は等価な他の可能性だけでなく、システムにおける変化の可能性、交換と代用の可能性、および、それらのフィードバックの可能性をも考慮に入れつつ、システムの諸性質を分析する。しかし、機能主義的方法は特定の変化の原因を確立したり、それらを前提することへは向かわない」

機能主義的方法は、システムについて決して静的でも保守的でもない、というのがルーマンの主旨であることは言うまでもない。

「したがって、当然のことながら、関係づけの問題は特定の機能的作用から生じる事実としての結果を『説明』することはない。関係づけの問題はその逆の意味を持ち、他の可能性を指し示す。それらの様々な可能性は、関係づけの問題を比較関係および交換関係へと秩序づける。認識が獲得するのはこれだけだが、過小評価すべきではない。しかしながらこの獲得物は、伝統的な存在論的・因果論的科学では評価が困難だった。したがって、ここまで素描された研究の端緒を、さらに説明することが必要となる」

以上のように「II.」の部分は、マリノフスキーの事例から始めて、機能主義的分析の方法をルーマンが素描したものだと言える。次の「III.」でルーマンは、この最後の部分で予告されているように、機能主義的方法を伝統的な因果論的科学(学問)との比較で、さらに深く論じていくことになる。

(つづき)

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2007/07/22

ルーマン「機能と因果性」精読(5)

前回に引き続き、Niklas Luhmann, Soziologische Aufklaerung 1 - Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, 7.Auflageの18ページから精読を進める。

「このような端緒から抽象化の技法と比較に技法が発見される。それらの技法は同一性、観念、類概念といった古い存在論的概念よりも柔軟で、同時に複合的である。たしかに存在論的に構想された観念論は、不確実性を通じて一般概念を獲得しなければならなかった。しかしそうした観念論は、他の可能性の排除の下に観念を絶対的存在の中に確保するために、観念の本質からあらゆる不確定性を排除しようとした。観念論は具体的な世界を―変化の規則の方へではなく―不変の性質の方へと抽象化した。そして観念に可変なものも組み込むことをせず、ただ不変なものだけを組み込んだ。したがって、たしかに一般化はあっても、それは分類の意義しかもたず、世界の変化のための戦略的概念としては役立たない。つまり、他の可能性の発見や、代替物による解決と補完的作用の文脈についての解明のための戦略的概念としては役立たないのだ。機能主義的分析にとって問題となるのは、本質において不変なものという形式で存在を確立することではなく、複合的なシステムの枠内での、可変なものの変化である。不変なものは単に変化の条件として機能するにすぎず、そのようなものとして、特定の機能に対する適応性という観点の下では、不変なものは変数なのである」

ここでは伝統的な存在論的観念論と機能主義的分析が対比されている。ヘーゲルの弁証法的観念論の評価は言及されていないが、古典的な存在論的観念論が静的であり、変化や運動を排除しているというのは、ベルクソンを引き合いにだすまでもなく、よくある論の展開だ。

「存在論的に普遍なものをこのようにすべて解消することによって、徹底的な熟慮の末、機能主義的方法は無限後退という反論にさらされる。つまり、いかなる関係の観点も、それ自身、機能的に分析できるのだとすれば、その研究はいったいどこに限界や、最終的な準拠点を見出すのか、という反論だ」

ルーマンは伝統的存在論の立場から予想される、機能主義的分析への反論を先取りしている。機能主義的分析が、いってみればつねに他の可能性へと送り返すことで成り立っているのだとすれば、機能主義的分析そのものも、機能主義的分析ならざるものへと送り返されるのではないか、という反論である。

これも絶対主義的立場から、相対主義的立場への、よくある反論のパターンだと言える。

「しかしながら、このような反論は、依然として存在論的な思考前提の枠組みの中で動いている思考の文脈においてしか当てはまらない。無限後退というのは、何物かは存在し、かつ、存在しないことはないのだ、ということの根拠に同意することへの反論だ。無限は何物も排除しないのだから、そのような根拠は無限へと解消されてはならない。機能主義的方法の枠内では、そのような根拠づけはいかなる関係づけの観点からも期待されない。逆に、機能主義的方法は、何物かは存在し、かつ、存在しないこともありうるという主張(Feststellung)、何物かは代替されうるという主張を根拠づけるべきなのだ。機能的等価物を確保するには、関係づけの観点が相対的に不変でありさえすれば十分であり、その関係づけの観点は、他の関係づけの観点によって解消される可能性があるものなのだ」

機能主義的方法は、相対的な不変性だけを確保できていればよいのであって、存在論的な絶対的不変性を求めるや否や、無限後退という反論がうまれるのは当然である。

(つづく)

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2007/07/21

ルーマン「機能と因果性」精読(4)

邦訳が出版されていない二クラス・ルーマンの「機能と因果性」のドイツ語原典を引き続き精読してみたい。

なお使っているテキストは、VS Verlag fuer Sozialwissenschaften刊「Soziologische Aufklaerung 1-Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme」の2007/02出版の第7版である。今回はその16ページからということになる。

「II. マリノフスキーの儀式と呪術についての分析は、機能主義研究の古典的パターンだ。儀式や魔術は感情的に困難な事態への適応という問題を参照することで説明されている。儀礼と呪術は緊張の高まる状況を経験せよ、という社会的命令を含意している。凶作と飢饉の脅威や死が迫っている場所では、儀礼と呪術が問題に対する一定の形式の表現を可能にする。儀礼と呪術は仲間の立会いの下、社会的に正しい行動の可能性と必要性を定義し、それによって緊張の経験に形式をあたえることを可能にする。その形式は同時に社会的団結を強める」

ルーマンは機能主義的研究の範例としてマリノフスキーの人類学を持ち出している。

「ここには一見して魅力的で、事実にも基づいた洞察がある。しかしここで興味深いのは洞察そのものではなく、その洞察のもつ魅力と明証性の根拠である。なぜこの種の機能主義的な主張(Feststellungen)が興味深く、明白なのか。このような認識作用はその方法論的正当性の証明をどこに見出すのか」

「こうした明証性の根拠は、機能主義的分析がそこで扱われている事実を比較可能なものにする点にある。機能主義的分析は個々の作用を抽象化された観点に関係づけ、その抽象化された観点はまた別の作用の可能性をも明らかにする。したがって、機能主義的分析の意義は(限定された)比較領域を開くことにある。マリノフスキーが儀式の機能を感情的に困難な自体への適応を容易にすることだと主張するとき、それによってその問題に対する別の解決可能性としてどのようなものがあるか、という問いを、暗に投げかけている。さらに儀式を機能的等価物のその他の可能性に関係づけている。その他の可能性とは、例えばイデオロギー的な説明のシステムや、悲嘆、怒り、ユーモア、爪かみ、想像上の逃避世界に引きこもることなどの個人的反応だ。この点がマリノフスキーの洞察の興味深いところだ。重要なのは、特定の原因と特定の結果の間の規則的な、あるいは、多少なりとも本当らしい関係なのではなく、ある不確かな(problematisch)結果の観点から、より確からしい原因の機能的等価物を確立することなのだ」

ここでは、マリノフスキーを典型とする機能的分析の意義が、比較可能な「他の可能性」、つまり等価物への入れ替え可能性を開く点にあることが主張されている。さらに読み進めてみよう。

「機能的等価物の概念はよく知られており、広く利用されている。しかしその概念は物事を定義するためのメルクマールや、方法の原理とは見なされていない。機能的等価物という概念の可能性は有効に活用されないままだ。この概念の中にこそ機能主義を因果論的方法から引き剥がす鍵がある。機能とは結果を生み出すものではなく、ものごとを規定する意味図式(Sinnschema)なのだ。その意味図式は等価な作用どうしを比較する領域を組織化する。機能とは、さまざまな可能性からある統一的な側面を把握するための特殊な観点を指し示す。この観点においては、個々の作用が具体的な出来事として比較不可能なものとして区別されるにもかかわらず、他方では、等価で、相互に交換可能で、代替可能であるように見えるのだ。したがってある機能はまったくカントが定義したような意味で『様々な表象を一つの共通の表象の下に秩序づけるための行為の統一』なのだ」

ルーマンによれば、いってみれば因果論的分析が、ものごとの統辞論的側面に着目するのに対して、機能的分析がパラダイム的側面に着目しているとされているように思える。

「このような機能概念は最終的に論理的数学的機能理論にも基づいている。これまで、論理的・数学的機能主義と社会科学的機能主義の間の断絶は安易に甘受されてきたが、機能概念の助けを借りれば、その溝をうめることができる。論理学が『~は青い』といった不完全な文を文の機能として扱うとき、特定の可能性から成り立つ限られた比較領域を開くことしか意味せず、それによって欠けているものを補完し、文を真の命題へと完成させる。『空』『私の車』『スミレ』などは、この機能にとって欠けているものを満たす等価物だ。したがって純粋な機能とは一つの抽象化である。抽象化は文の完全な意味を与えない。抽象化は一つの規則を告げるだけであり、その規則にしたがって、文の真偽値を変えることなく、どのような変数値 Einsatze(「独立変数 Argumente」)によって文を完成できるのかが決定される」

この最後の文は訳出しづらいのだが、情報科学の比喩をつかうと理解しやすいだろう。抽象化された文は一つの関数のようなもので、その関数にどのような引数(arguments)を与えるかによって、完成された文の意味が変わってくるが、真偽値が変わるわけではない、ということになるだろうか。

「Einsatz」という名詞はeinsetzenという動詞から来ているが、einsetzenは「はめこむ」というのが最初の意味になっている。したがってEinsatzwerteは、一定の値をもつあてはめ可能なもの、つまり「変数値」と訳してみた。

つづきを読み進めてみる。

「同じような根本思想は数学的機能(=関数)理論でも前提条件となっている。ただし、数学的機能(=関数)理論では、それに加えてより多くの機能的変数値の相互関係に、厳密で明白な秩序が求められている。そのような等価的変数値の秩序が計算操作を可能にしており、計算操作の中では機能(=関数)が変数値を代表している」

Funktionenが「機能」であると同時に「関数」であり、その抽象化の可能性、つまり計算可能性が、代替可能な変数を前提としていることは見やすい。

「すべての機能的等価物の可能性というクラスは、一般に変数として表される。変数とは概念であり、概念は計画的に無規定なままにとどまる。変数とは空位のことだが、変数は任意ではなく一定の方法によってのみ、個々の可能性で満たすことができる。変数は機能的な関係づけの観点によって定義され、その観点を手がかりとして、空位を埋めるどのような可能性が考慮されるかが決まる。また、その観点は別の可能性を発見するための手引きとなる。ある機能の等価物の領域は、機能的な関係づけの観点をどう定義するかに依存している。関係づけの観点の定義は、逆に機能を等価物の領域の構成に向かわせる。そして関係づけの観点を定義することは、このような秩序づけの作用によってのみ正当化される」

因果論に対する機能主義的分析の本質が少しずつ明らかにされているところで、つづきはまた次回ということにしたい。

(つづく)

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2007/07/18

ルーマン「機能と因果性」精読(3)

引き続きルーマンは機能主義的説明を根拠付けようとする努力の3つめの事例を取り上げる。

「3.この問いをさらに究明する前に、説明問題についての3つめの回答が関心をよせるに値する。グールドナーは機能的相互性の概念の助けをかりて解決策を探している。彼は機能自体は決して機能の作用を説明できないという認識から出発する。したがって彼は問題を一つ高い水準に移す。より多くのシステム間の関係という水準だ。機能的作用はふつう一方向的なものではなく、2つ、あるいはそれ以上の多方向の交換の枠組みの中で提供され、そうした交換の枠組みが、関係する諸システム(人格、集団、組織)に存続に必要な作用を供給する」

この3つめの事例では、一つのシステム内部で機能主義的説明を完遂しようとすると、どうしても特定の結果の特権化による因果論的説明を免れない点をふまえた上で、複数のシステム間の機能の相互作用という観点を導入している。

「しかしこの考え方もわれわれの問題の解決にはならない。単に問題の位置をずらすだけだ。まず、このような考え方は、欲求による動機づけがあること、あるいは、個々のシステム内に均衡維持メカニズムがあることを前提として、それらが交換の働きを制御すると考える。したがって、すでに述べたようなさまざまな困難につき当たる。加えて、システムの存続と相互作用の確保を、作用の交換を規則づける一つの『市場』としての上位システムに依存したものにしてしまう。この交換システム自体はその存続が保証されているわけではなく、引き続き必要な個々の作用が提供される想定を十分に根拠づけるものではない。したがってグールドナーは、次のような問題に答えないままになっている。つまり、下位システムはどの程度交換によって存続しているのか。どの程度「補完的メカニズム」(つまり機能的等価物)がその代理となるのか。どの程度交換が役立たないのか。そして最後に、交換システム全体と個別システム全般が存続するのかどうか。ここでも事象の因果論的複雑化だけでは十分な説明根拠にならない」

ルーマンはシステム間の相互作用という説明にも満足していないようだ。

「こうした熟考に共通した根拠となる考え方は、ここで問題となっている因果的科学の機能理論において、特定の原因と特定の結果の間に不変の関係を確立しようとしても成功しないということだ。というのは、それ以外の可能性を排除することに失敗するからである。機能的作用があるシステムの存続をもたあすのは、存在論的に存続が確保されるということではない。つまり『存在、および、存在しないものではないもの』の確立を確保するわけではないのだ。しかし存在しないものと他の可能性を排除することは、存在論的思考前提の枠内にとどまる因果的説明すべてに共通した原理となっている」

ここにいたってルーマンが因果的説明を批判する理由がはっきりする。因果的説明にもとづく機能主義は、いったん特定の原因と特定の結果の間に不変の結びつきを確立すると、それ以外の可能性を原理的に排除してしまう。

そこには存在論の欺瞞的な側面があり、それは現に存在しないものの存在を排除するということだ。ここではまだ明確に書かれていないが、むしろルーマンは、存在しないもの、つまり潜在的なものが、いつでも存在するようになる可能性自体に、システムの存続の根拠を見出そうとしている。

「以上の論述は、マリノフスキーやパーソンズ、グールドナーの機能主義理論を批判するものではない。ただ彼らの機能主義的理論と、一般的な意味での因果論的科学の標準的方法の間の違いに注意を促したいだけだ。伝統的な因果論的実証主義に立脚するとき、ナーゲルやヘンペルとともに、機能主義的理論の欠点に対する反論を解決し、機能主義的理論が厳密な学問性の要求を満たしていないことを確立しようとする傾向がある。しかしその違いを別の方向へ解消することも、同じように正当だといえる。つまり、伝統的因果論的科学の説明方法の有用性に異論を唱えることもできるのだ。しかしそれには機能主義的分析に固有の意味が、原因と結果の間の不変の関係を確立する因果論的科学の規則から独立して、うまく定式化できることが前提となる」

ここから先、ルーマンは機能主義の因果論に対する相対的な有効性についての議論を離れ、機能主義の内在的な正当化へと議論をすすめる。

(つづく)

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2007/07/16

ルーマン「機能と因果性」精読(2)

「機能と因果性」でルーマンはパーソンズの機能主義的方法を要約した上で、その批判的拡張を試みる。

「われわれはこうした批判を独自の本質的なやり方で跡づけ、拡張してみたい。
 その出発点として次のような洞察が使える。つまり、結果によって原因を説明することはもはや不可能であり、それゆえある行為の機能は、その結果を見たとき、その行為の事実としての結果を説明したり、予言を許したりするほど十分な根拠にならない。したがって、機能主義的理論は行為の結果をその機能と関係づけるが、行為の結果を因果論的な補助構造を通じてより詳細にその資格を判定する必要がある。われわれはすでに今しがた、限られた種類の結果しか機能的関係づけの観点として考慮できないことを見た。いまやその結果のもつ特別な資格がどのような方法的意義をもつかが重要になる。その特別な資格によって、結果は十分な説明根拠へと拡張されるだろう。このように試論を進めれば、以下のような3つの例が示される」

ルーマンは機能主義的方法を拡張し、結果を十分な説明根拠にする方法を提示しようとしている。

「1.より古い機能主義的理論では機能的説明が主に欲求と関係づけられ、そこから、動機としての欲求、したがって欲求を満たす行為の原因としての欲求が因果論的に有効とされた。欲求と動機がこのように真剣に同一視されると、生じた結果とそれを生じさせた原因の同一視にまで到り、それによってトートロジー的循環に迷いこんでしまう。それに対して、欲求とそれを除去する動機が分離されると、そのそれぞれを別個に経験的に確立するという困難な問題が生じる。また、欲求と動機の間の論理的(法則的?)関係という問題や、その関係を経験的検証という問題も生じる。そしてさらに、欲求概念がそれによって因果論的な説明能力を失ってしまう」

たとえば、食事という結果的行為を食欲という動機で因果論的に説明しても、じつは何も説明したことになっていない。ルーマンはここで、欲求概念に訴える因果論的説明は、原因と結果の関係性について、なんらプラスアルファの情報をもたらさないことを批判している。

「全く同様に『緊張』または『対立(Konflikt)』といった概念も、欲求の除去という動機を想定するように誘導する。それによってこれらの概念は機能的分析の中心点となり、機能的分析は同時に因果論的説明となる。それによってある科学的世界像が生み出され、その中に緊張の緩和や順応、対立の解消に向かう一見自然な諸傾向が-純粋に方法的制約のある理由から-組み込まれる。結局その根底にあるのは、問題は自らその原因を解消へともたらすものだという楽観的な見解なのだ」

ルーマンはさらに、緊張の緩和、対立の解消といった説明原理もまた、なぜ緊張が緩和されなければいけないのか、対立が解消されなければいけないのか、といった本質的な疑問に答えない点で不十分だとしている。

「2.この因果論的科学による説明の問題に対するもう一つの回答は、均衡理論だ。均衡理論もまた結果をより詳細に性格づけることで機能概念を定義するので、結果を機能的説明の根拠として利用する。均衡理論は機能的説明をもっぱら諸システムだけに関係づけ、諸システムはその環境に対して自分自身を均衡状態に保つとする」

次にルーマンが検討の俎上に載せるのは均衡理論だが、ここでも均衡状態というシステムの結果的な状態が、機能の説明根拠として利用される倒錯を指摘することになる。

「均衡概念による説明は無数に存在する。それらの説明において決定的な考え方は、潜在的な因果性というものだ。システムの中には、かく乱が起こった場合にシステムを安定した状態にもどすように作用する諸原因が存在する。したがって、たとえばお互いを妨害するように定められた機械的な諸力のシステムがあり、それらの諸力はかく乱によって解放されると、均衡を回復する方向に作用するとされる。あるいは、生きている有機体の内部の諸傾向は、特定の環境変化によって共同である原因の組み合わせを生み出し、その原因の組み合わせによって体温が一定に保たれ、流血した傷口をふさぎ、要するに有機体の特定の性質を維持する方向に働く(ホメオスタシスのこと)。あるいは、構成されたフィードバックシステムがあり、環境のある種のデータに関する情報によって、システムの出力を制御する」

ここで例示されているのは、システムの均衡状態が、システムが作動し始める以前に前提されてしまっているシステム論である。ルーマンは当然のことながら、このような決定論的なシステム観も批判の対象としている。

「これらのシステムはすべて、変化する環境の作用に対して特定の特徴を維持する点で共通している。その点でこれらのシステムは、そのような作用をシステム内部の原因によって補完する。したがってシステムは単にシステムの存続に必要な特定の原因が規則的に発生することだけに依拠しているわけではなく、それに加えて諸原因の横のつながりにも依拠しており、それによってある原因の変化という帰結をもたらし、原因どうしが互いに他を補完するように干渉し合う」

ただしルーマンは均衡状態を維持するシステムという考え方に、一つの利点を見出している。それはシステムとその外部である環境の関係から、システム内部で原因の布置そのものが組みかえらる可能性を論じることができるからだ。

「したがって、そのようなシステムの存続安定性は単純な因果関係の複合的な組み合わせによって確保されている。システムの存続安定性は特定の諸原因と特定の諸結果の関係に還元できる。しかしこの関係は、システムを規定しようとすると、法則としてしか定式化されない。つまり、システムごとに一つの変化の可能性しか持たない。熱力学と経済学はこのような意味で、均衡モデルを不変の法則を定式化するための方法的補助手段として使う。このような前提条件があって初めて、システムのある状態から別の状態を推論することができる。そのようにしてのみ、以下のような予知が可能になる。つまり、システムの存続に必要な諸原因の領域内で、環境の制約をうけた変化が起こることで、補完的メカニズムが介入し、システムの重要な特徴を一定に保つ。それに反して、社会生活の領域にはそのように規定されるシステムは存在しない。したがって社会システムに均衡概念を転用すると、概してあいまいな類比や比喩にとどまる。そして、方法的により注意深く考えると、理念形モデルとしての均衡観念が、経験的に記述できる意味なしに導入されるとき、まさにそのことによって均衡観念による説明の実効性が問題となる。パーソンズの研究は均衡観念について一つの注目すべき変種をもたらし、反応メカニズムの考え方を普遍化の概念に結びつけた。パーソンズはそこから出発して、そのような反応メカニズムによって、より確実な方法でシステムを環境の変化に左右されないものとして確立し、その限りで普遍的なものとして確立した。『メカニズム』という概念は特定の原因と特定の結果の関係を示唆し、またそれに対応するパーソンズの機能概念を示唆する。しかし普遍化という概念は、機能概念に対立するものとして構築されている。普遍的なものは独自の方法で特殊性を免れ、まさにそのことによって安定している。普遍的なものはより多くの経験的で多様な可能性に開かれている。その安定性は、イポリット・テーヌが初めて定式化したように、特定の結果に起因せず、代替可能性に起因している。象徴、貨幣、権力、快楽体験などといったパーソンズの普遍化のメカニズムは、おそらく伝統的な因果論的科学の外側に解釈を要求し、その秩序化作用を明らかにするだろう」

均衡概念に関するこの最後のパラグラフでは、パーソンズの普遍化への要求が、機能がシステムの均衡に奉仕するといった目的論的な観点から脱して、代替可能性をもとにした新たなシステム観への道を開くことが予告されている。この点についてルーマン独自の考え方は、本論の後半で展開される。

(つづく)

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2007/07/15

ルーマン「機能と因果性」精読(1)

二クラス・ルーマンの主著『社会学的啓蒙』第一巻(1970年初版)の巻頭論文「機能と因果性」は邦訳がない。

『社会学的啓蒙』の邦訳版によれば、ルーマン自身から強く訳出の要望があったが、各所ですでに引用されているので翻訳しなかったらしい。しかし、機能主義的分析を因果的分析の序列を逆転させるこの論文が、ルーマンの社会システム論を理解する基礎になることには違いない。

「機能と因果性」は次のように始まる。

「機能主義的方法は社会科学において他のさまざまな研究方法の一つと見なされ、概念構築と関連付けの特殊な手法とされる。多くの研究者が機能主義的方法に没頭し、優れた業績に達しているが、機能主義的方法を拒否し、その基礎概念のあいまいさを指摘し、機能主義的方法が一定の価値判断を含み、社会変化の問題に鈍感な点を非難する研究者もいる。あるいは、機能主義的方法を、ふつうの因果律による説明技術と区別するのを認めない研究者もいる。因果論的科学の有効性を検証する厳密な基準に比べ、機能主義的確定(Feststellung)の経験的な有効性や検証可能性の問題もまた未解決だ」

 このようにルーマンは社会科学おける機能主義的方法の評価の低さを指摘している。

「機能的方法をこのようにして限られた意義、限られた成果しか生まない特殊な社会科学的方法として扱うことは、最近キングスレー・デービスが疑問に付している。しかし彼の論文は機能主義的方法の独自性に矛先を向け、いま機能主義が陥っている方法論的困難は、ある部分は不要なものとして、ある部分は社会学と社会人類学に共通の問題として描かれている。機能主義は一面的な因果論的説明や実証的経験主義、進化論的歴史主義に戦いを挑んではいるが、現代のより成熟した社会科学の競技場において余計なもの、鋳つぶしてしまえるものにされかねないと書かれている」

ここは機能主義低方法の評価の低さの具体例である。

「統一的な機能主義的社会科学についてのこのような考え方は魅力的かもしれないが、社会科学の統一の方向ではなく、機能主義的方法の批判の形へ発展する。社会科学の方法論的統一への展望はこのように一気に疑問に付され、破壊される。われわれはこんなことを受け入れなければならないだろうか。
 機能主義的方法の特殊な地位とデービスによる批判は、一定の前提条件をつければ、機能主義と因果論的研究の関係について主要な論点となる。しかしそれらの前提条件は、めったに研究されず、特に方法論的考察のテーマにもならない。仮に研究されれば、目的論的因果性と機械論的因果性の古くからの対立に一貫して流れる観点を確立できるだろう。機能は因果論的概念によって定義されるだろうし、行為、役割、あるいは制度といったものの機能が、事実として引き起こした結果を因果論的に説明できるかどうかが問題になるだろうが、その答えはもちろん否である。したがって因果論的関係が一意的で時間的な方向付けを得て以降(因果論的関係は古代ギリシアの思想家にとっても、中世の思想化にとってもそのような方向付けを持っていなかったのだが)、もはやどんな種類の結果も原因から説明することはできない」

ここでは、因果論との対比で機能主義が真剣に論じられてこなかった点が指摘されている。

「われわれはあの有名な目的因(causae finales)に対する反論を蒸し返す必要はない。問題はそれらの反論が科学的方法としての機能主義にふさわしいかどうかだ。結論を先取りしておこう。機能主義的方法の自己理解が伝統的な存在論的因果論解釈にとどまり、結果による目的論的説明や、原因による機械論的説明とは別の選択肢に関心をもつ限り、それらの反論は機能主義にふさわしい。機能主義的方法が自分で自分を規定し、もはや特殊な因果論的関係としてではなく、逆に機能的カテゴリーの特殊な応用例として因果性が考察されるとき、それらの反論はふさわしくないものになるだろう」

ルーマンは機能主義的方法論を、因果論的方法論から独立に定義することを目指しているのだ。

「I.社会科学は、論理的数学的な機能概念にはっきりと反論するとき、機能的関係を例外なく一種の結果として定義し、因果論的科学に従属させる。目的論的概念を直接使用するとき、しばしばそういうことが起こる。そこでは特殊な結果が目的と見なされ、機能はその目的にかなった行為と見なされる。しかしこのような解釈は、その目的概念をより詳細に説明しようとすると困難に陥る。たしかに予期され、意図された目的だけを考えるわけにはいかず、社会科学の重要な問題はまさに行為の結果の中でも熟慮されなかった結果の領域にあるからだ。そうでなければ目的とは一体何だろうか。目的は行為のその他の結果からどうやって区別されるのだろうか」

ここでは、一つの行為から生まれる多数の結果のうち、特定の結果をその行為の目的として特権化することの欺瞞があばかれている。痛快である。

「これらの問いに対する説得力のある答えはまだ一つも見つかっていない。したがって社会科学、特に社会学と人類学は生物学の研究方法を手本にして、目的論から自由な機能的概念を発見した。複合的に構築された統一体、つまり一つのシステムを存続させる限りにおいて、ある行為を機能と見なしたのだ。この考え方はタルコット・パーソンズによって最も根本的な原理に完成された。パーソンズにとってシステムとは行為のシステムであり、それらの行為は相互に依存し、そのような相互依存によって環境に対して相対的に不変である。つまり環境変化から独立している。いかなる行為もそのようなものとしてのシステムの存続に貢献しており、それによって一つの機能をもつ。一つの機能はまた一つの特殊な結果として特徴づけられる」

ここはタルコット・パーソンズのシステム理論のルーマンなりのまとめだ。

「『システムの存続に対する貢献』や『システム問題の解決』、『システムの統合や順応への要求』などの定式化が単なる因果関係しか意味せず、『AはBの原因である』といったタイプの主張を根拠づける必要があることが明らになると、多くの疑問が浮かんでくる。これらの前提は、ひとたび明らかにされると、因果論的科学の通常の方法論的規則を参照することになる。つまり、一定の原因と一定の結果の間に不変の関係を固定化することで、経験的データを予言し説明する目的を参照したり、そのために必要な理論的かつ実践的な技術をも参照する。このような因果論的科学の厳密な方法論は因果論的判断の真理探究能力を決定している。その方法論がなければ、因果論的言述は原因と結果の関係について学問的有効性をまったく持たなくなってしまう。ここから、ナーゲルとヘンペルは社会科学における機能主義を、これら因果論的科学の方法的諸要求と対立させる権利を得た。その結果は概して否定的だった」

ルーマンの論の展開は速く、ここでは早くもパーソンズの機能主義が一般的な因果論の方法論を要求してしまっていることを暴いている。

(つづく)

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2007/05/27

最適なルーマン入門書『ルーマン 社会システム理論』

ルーマンの『社会システム理論』を英訳のペーパーバック『Social Systems』で少しずつ読みすすめていたのだが、部分的な理解はできるものの、ルーマンの企図の全体をどうしても把握できない。

これまでとっつきやすい入門書には頼るまいと、あえて読まずにいたのだが、ついに誘惑に負けてゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著、舘野受男、野崎和義、池田貞夫訳『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)を買って読みはじめた。

おかげで、なぜ『Social Systems』が理解できないのかが理解できた。1984年に出版された『社会システム理論』は、1960~70年代の社会システム理論の構想を発展させたものであり、それを理解していることを前提として書かれているからだった。

クニール、ナセヒ著の入門書の前半は、ほとんどルーマンの『社会学的啓蒙』という論文集からの引用で占められているので、おそらく1960~70年代の「社会システム理論」を理解するには、まず日本語訳の存在する『社会学的啓蒙』を読むべきであるらしいことがわかった。

いずれにせよ、この入門書のおかげで、ルーマンの社会システム理論の理解にかなり見通しが出てきた。逆に言えば、原書にいきなりあたったときの僕の理解力が、その程度のものでしかないということなのだが。





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2007/05/15

『知恵の樹』と『行為の代数学』

ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ著『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)と、大澤真幸『行為の代数学―スペンサー・ブラウンから社会システム論へ』(青土社)を読んだ。

ルーマンの社会システム理論を理解する前提として、オートポイエーシス理論とスペンサー・ブラウンの理解が必要なのでは、と考えたためだ。

ただ、『知恵の樹』は平易な入門書なので、一般的なサラリーマンにとっては良い頭の体操になるだろうが、オートポイエーシス理論について突っ込んだ記述がなく、実在論と観念論の中庸を行くというスローガンと、生体システムと環境はどちらが先ということではなくお互いがお互いを生み出すのだということが理解できた程度に終わった。

また『行為の代数学』は、どこまでがスペンサー・ブラウンの所論で、どこからが大澤真幸氏の敷衍なのかが分かりづらい。

スペンサー・ブラウン独特の原始算術と原始代数の簡潔な解説は、初めてその方法論にふれる僕にとっては興味深いものだったし、「これって否定と論理和で書き換えられるのでは」と思ったら、案の定、巻末に大澤氏によるブール代数への書き換えが行われていた。

もっともスペンサー・ブラウンそのものについて、評価は分かれるようで、たとえばこちらの「スペンサー・ブラウンなんていらない」というページがある。原始代数は単なるブール代数であり、re-entryは単なるフィードバックだと断じれば、確かにスペンサー・ブラウンなんでなしで済まされるのかもしれない。

さらに『行為の代数学』では、スペンサー・ブラウンもベルクソンもジャック・デリダもヴィトゲンシュタインも究極的には同じことを言っているのだと書かれているような印象が残り、また文体の面では「要するに」が頻出するため、単純化が過ぎるのではないかと考えた。

マトゥラーナ、バレーラについては他の著書も読む必要がありそうだし、スペンサー・ブラウンはやはり原著『形式の法則』(大澤真幸、宮台真司訳)に当たってみる必要がありそうだ。もちろんスペンサー・ブラウンがまともに相手をする価値のある思想家であるとすればだが。

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2007/04/29

ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』

先日、米国の小説家カート・ヴォネガット氏が亡くなったのにちなんで、勝手にヴォネガット追悼週間ということで、近所の図書館にあった唯一の文庫本『チャンピオンたちの朝食』を読んだ。訳は当然のことながら浅倉久志氏。

浅倉氏による日本語訳が出ているのは1984年だが、原書は1973年の出版、訳者あとがきによればヴォネガット氏が『スローターハウス5』の次に完成させた作品ということらしい。

題名から主人公がボクシング選手だと想像する方もいらっしゃるかもしれないが、題名と小説の内容はほとんど無関係。スタイルとしては短い断片と百以上の筆者自身によるイラストからなるメタフィクションで、著者自身が「わたし」として登場する。

1970年代米国の拝金主義、環境破壊、根強く残る人種差別などを軽妙な文体で執拗に批判しつつ、主役、脇役にかかわらず、さまざまな登場人物が平等なディテールで描かれ、物語らしい物語もないまま、はちゃめちゃなクライマックスに向かっていくといった感じの小説。

あえて人道主義的な人間観を相対化して、機能主義的な人間観を通低させている点は、同時代のフランスのポストモダン哲学と共鳴するところがあるように思える。

その意味で、米国で完全に異端あつかいされてしかるべき、ヨーロッパ的な世界観のはずなのだが、米国では出版当時、絶賛と激しい批判が同時に巻き起こったらしい。この作品が絶賛されるという点に、息苦しい日本社会とは違う、米国的自由の本質を垣間見るような気がする。

ヴォネガット特有の悲観主義と皮肉っぽさを楽しめる人にとっては、麻薬的な魅力をもつけれども、何のことだかさっぱりわからない人にはわからないといった性質の小説。高橋源一郎の小説の愛好家なら文句なしに楽しめる作品。

土曜日の朝、NHKFMラジオでピーター・バラカンの番組を愛聴している日本人と、ヴォネガットの愛読者である日本人は、かなり重複しているのではないかと勝手に想像する。

ただ、初めてヴォネガット作品を読む人にとって、おすすめできる作品ではないかもしれない。やはり『スローターハウス5』か『母なる夜』(昔は白水社の新書でも読めたが、今でも読めるのだろうか)をおすすめしたい。

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2007/04/20

川本隆史著『ロールズ―正義の原理』

現代思想の冒険者たちシリーズ、川本隆史著『ロールズ―正義の原理』を読んだ。宮台真司と宮崎哲弥の対談書でおすすめ文献になっていたし、これまでどちらかと言えば理論的な哲学書ばかり読んできた僕にとって、実践的な理性、倫理学の領域はまったく未知だったからだ。

アリストテレスについては『形而上学』は通読したが、『ニコマコス倫理学』はまったく読んでいないし、カントにしても『純粋理性批判』は通読したが、『実践理性批判』は1ページたりとも読んでいない。

それでいきなり現代思想家のジョン・ロールズは飛躍がすぎるかもしれないが、この入門書はそれなりに面白かったし、予想どおり少しだけ退屈だった。退屈だった理由は、本書がジョン・ロールズのダイジェストでしかないからであって、入門書が本質的にもっている限界だから仕方ない。

ただ、本書は時間があればぜひ『正義論』をじっくりと読みたいと思わせるだけの説得力を持っている。

僕らは何が正しくて、何が間違っているのかを論じるときに、共有できるものが少なすぎる。そのため、ジョン・ロールズが批判している「直観主義」で場当たり的な判断を下してしまう。また、個人間に多少格差があっても、全体の総和としてより良くなればOKと思ってしまう。これもロールズが批判する「功利主義」だ。

ここで以前ご紹介したことのあるリバタリアニズム、つまり、国家の介入は最小でよく、あとは個々人が自分自身の幸福をとことん追求しさえすれば、最終的にすべてうまくいくという考え方も、ロールズが厳しく批判する考え方だ。

何が正しいかを根気強く考えることをやめたとき、僕らは直観主義や、功利主義、リバタリアニズムなど、「わかりやすい」考え方に流されてしまう。それに対してロールズは、善の前提としての正義、公正としての正義を非常に慎重な足取りで解明している、らしい。「らしい」というのはロールズの著書を1ページも読んでいないからだが。

しかし、そういうロールズの『正義論』と、宮台真司が理論的な基礎としている社会システム論の明快さが、どうして両立するのかが理解できない。それを理解するためにも、ルーマンの『社会システム理論』とロールズの『正義論』はぜひ通読したいのだが、残念ながら集中して読めるような時間はない。いつになったらそのための時間をとれるのだろうか。

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2007/04/14

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

予想されたことではあるが、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』は半分も読まないうちに図書館へ返却となった。体形だった論文ではなく、いくつかの主題がくり返し断片で論じられる形式なので、非常に読みづらかった。

要するに言語というもののルールは恣意的であり、可能性としてはつねに他のルールでもありうるような一種のゲームであるにもかかわらず、われわれはいかにしてその言語をつかって真理を語ることができるのか。言語をつかって真理を語る権利や資格を、人間はいったいどこから得ているのか。そういうことが書いてあるのだと理解した。

このような理解がある程度正しければ、学生時代に僕が理解しようと努力していたフランスの哲学者ジャック・デリダと、方向性としてはそれほどズレていない。

ヴィトゲンシュタインが言語の「限界」について、ひたすら愚直に探究しているのに対して、ジャック・デリダが一見不真面目に見えるほどまでに、言語の恣意性と戯れている、そういったスタイルの違いがあるだけのような気がする。

...と、分かったようなことを書いても何の意味もない。『哲学探究』から現在の僕が何か得るものがあったか。残念ながらなかった。本書から何かを得るためには、同じ問題をヴィトゲンシュタインとともに考えながら読まなければならないのだが、じっくり考える時間が僕にはないからだ。

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2007/04/13

カート・ヴォネガット死去

今朝、郵便受けに勝手に投函されていた『産経新聞』の試読紙の社会面で、カート・ヴォネガットが84歳で死んだことを知った。一時期、かなりハマった米国の作家だが、ここ数年はまったく読まずにいた。

この「愛と苦悩の日記」でも、彼の小説にたびたび登場する「自殺パーラー」については何度かふれたことがある。個人的にもっとも印象的だった作品は『母なる夜』だ。映画化された作品も観た。この機会に、まだ読んでいない彼の作品を読んでみようか。

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2007/03/08

イリイチ『シャドウ・ワーク』

今さらながら、イリイチ『シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う』(岩波現代文庫)を読んだ。正確には最寄の大型図書館で借りていたので、引越し前に返却する必要があり、途中までしか読めなかった。

以前この「愛と苦悩の日記」にも書いたように、僕は高校生から東京大学の前期課程にかけて、かなりフェミニズムに傾倒し、日本女性学会の記念大会や、女性解放論者の国際会議にも出席していた。

また、ファッションも意図的にフェミニンなものを身に着けていた。僕のことを知らない人は、おそらく同性愛者だと勘違いしただろう。

そういう学生時代の僕にとって、主婦の家事労働を資本主義社会の必然的帰結としての不払い労働、「影の仕事(シャドーワーク)」と呼んで批判の俎上にのせる本書は、フェミニストの間で賛否両論あったこともあり、必読書だったはずだ。

にもかかわらず、今ごろ初めて手にとっていることからも、学生時代の僕がいかに実存的な問題の泥沼にはまりこんでいて、現代哲学を冷静に研究する余裕などなかったかがわかる。

ただ、今回イリイチの『シャドーワーク』を読む前に、広松渉の一連のマルクス思想の解説書を読んでいたいことが偶然にも大変役立った。マルクスは資本家が労働者の労働が生み出す価値のうち、余剰価値の部分を「正当に」簒奪することが、資本主義を成り立たせている余剰価値の源泉であることを暴露した。

そしてイリイチは、マルクスが通りすがりにしかふれなかった、再生産のための「家事」という家庭内の不払い労働と、「主婦」という存在に、マルクスの資本主義批判の枠組みを発展させるかたちで切り込んだ。

しかし残念ながら『シャドーワーク』の率直な読後感は、あまりに理想主義的だ、というものだった。イリイチは「バナキュラーな」という形容詞をキーワードに、社会の資本主義化によって失われた、各地域固有の(=バナキュラーな)生活様式を回復させようとしているようだ。

男性労働力が資本家にとっての商品になったことで、家庭に残された女性は資本主義以前にはなかった「主婦」という位置づけになり、無償の家事労働を強いられるようになった。イリイチは男性労働力を再び共同体内の生産活動にとりもどし、女性も共同体内で男性と同等に労働する社会を夢見ているように思える。

また、子供の教育を国家による管理から共同体にとりもどし、さらに標準国語も大航海時代の発明品だとして相対化し、各共同体が、共同体内で通じる言語を、自ら子供たちに教育していく社会を夢見ているように思える。

現代文明をここまで根本的に相対化するイリイチの視点は、たしかに興味深いと言えるけれども、今さら個々の共同体特有の文化や生活様式の復興を主張するのは、行き過ぎた理想主義ではないか。

今僕らが生きている社会は、それを高度資本主義と呼ぼうが、グローバリゼーション呼ぼうが、不可逆な変化の過程であり、実現可能な改革の処方箋は、今の社会の中でできること、つまり体制内改革、構造をその内部から変えていくような方法論でしかありえないはずだ。

こう考える僕にとって、『シャドーワーク』という現代文明批判の書は、あまりに理想主義的すぎた。でも広松渉のマルクス解説を読んだ後に、偶然にも本書を手に取ったのは幸運だった。順番が逆であれば、イリイチが何を前提にして家事労働を論じているのかが理解できなかったに違いないからだ。

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2007/02/12

廣松渉『物象化論の構図』

廣松渉『物象化論の構図』を読んだ。物象化というマルクス哲学の基本的な着想を手がかりに、マルクスの思想を教条的な誤解から救い出そうとする論文集だ。やはり学生時代、マルクスを無視して西欧現代思想の研究をしようとしていたのは完全に間違いだった。

廣松渉は肺ガンを宣告された後、主著『存在と意味』の執筆を中断してまでも、余命をマルクス思想の復権のために尽くしたと言われる。ソ連崩壊によってマルクスの思想は教条的な解釈とともに葬り去られてしまったが、その状況に抗して廣松渉は最期までマルクスの思想の現代性を顕揚しようとした。

僕自身、マルクスと言えば、無産階級による世界革命によって資本主義を拝し、国家統制経済へと移行する道に理論的背景を与えた思想家で、社会の下部構造(経済)が上部構造(文化)を決定する下部構造決定論者だという具合に、完全に誤解していた。

現象学からハイデッガーの存在論、構造主義、脱構築という流れの中で、マルクスの思想は完全に乗り越えられてしまっているので、今さら勉強するにも値しない。『資本論』など概説書をかじって読んだつもりになっていれば十分、くらいに思っていた。

ところが最近になって宮台真司をきっかけに、廣松渉のマルクス論を続けて読むにつけ、僕のマルクス理解が救いようのないほど通俗的で教条的なものであることに気づかされた。今ごろ気づいても完全に手遅れなのだが。

廣松渉のマルクス論を読んでみて、いちばん「目からウロコ」だったのは、マルクスの思想が唯物論ではないということだ。世界とは人間がそう考えている観念なのか、それとも人間とは独立に存在するものなのかという、古代ギリシア時代からの西洋哲学の論争について、僕はマルクスは世界の客観的な実在を前提とし、世界の物質的条件が資本主義を自壊させて共産主義をもたらすといった歴史観を主張しているのだとばかり思っていた。

しかし廣松渉は、人間の抱く観念こそ真実だと主張する立場も、世界の客観的実在こそ真実だと主張する立場も、どちらもマルクスはしりぞけていると論じている。マルクスはそこにあるのは、人間と自然(この自然も無垢ではなく、人間によって長い歴史の中で変容をこうむってきた自然なのだが)、人間と人間どうしの「関係」だというのだ。

人間と自然の関係を、人間の方にひきつけて自然を人間が頭の中で考えたことに還元してしまえば、それは観念論になり、自然の側にひきつけて自然の客観的実在に還元してしまえば唯物論になる。このように、本来は人間と自然、人間と人間どうしの相互作用であるものを、どちらか一方の極にひきつけてしまう見方を、マルクスは「物象化」として批判している。これが廣松渉がマルクス思想から救い出した物象化論だ。

この物象化論を手がかりにして、廣松渉はハイデッガーの存在論でさえ、部分的にはマルクスの思想から後退してしまっていると批判する。マルクスの物象化論は、マルクスの思想が西洋哲学にとってそう簡単には乗り超えられない射程をもつことを、廣松渉は繰り返し主張している。

今ごろこんなことに気づいて、学生時代にちゃんと廣松渉を読んでおくんだったとため息をついたところで、もうどうにもならないのだが、資本主義の極北の時代を生きる僕らにとって、決してマルクスは過去の人ではないということを知るためにも、一人でも多くの人が廣松渉を復習すべきだろう。惜しむらくは廣松渉の死があまりに早すぎたことだ。

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2007/01/28

廣松渉『今こそマルクスを読み返す』

廣松渉著『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書)を読んだ。「廣松渉の著書は難解」という予断を裏切り、とてもわかりやすいマルクス思想入門書、かつ、廣松渉その人の思想の入門書になっている。

ソ連邦が崩壊したからといって、西欧思想史上、マルクスの思想を無視してよいことにはならない。むしろ『資本論』をまともに読んだことのない僕にとって、マルクスの思想の理解はまだ取り組むべき課題として残っている。(「一介のサラリーマン」がそんなことを課題にする必要があるのかは別として)

本書はソ連邦崩壊後に書かれているので、廣松渉自身、世間一般の風潮が「マルクスは死んだ」という考え方になってしまっていることを十分理解している。

それに対して廣松渉は本書の冒頭で、既存の日本語訳に見られる教条主義的なマルクス理解をしりぞけ、ソビエト連邦が崩壊した今もなお有効なマルクスの思想の本質を読み取ることが目的だと書いている。

その言葉にたがわず、本書で廣松渉はマルクスの思想のうち今もなお有効な資本主義批判を注意深く抜き出し、ていねいに説明している。また、マルクスの思想に対する誤解についても、随所でしりぞける慎重さだ。

共産党の教条主義的な解釈によって、マルクスの思想がいかに歪められてきたか、またそれによって一般人のマルクスに対する「アレルギー」がいかにひどくなってしまったか。そういった現状から、廣松渉は厳密に論理的にマルクス思想が現代にもつ射程を救い出そうとする。

本書を読めば、少なくともマルクスの思想に対する無意味なアレルギーはなくなるし、廣松渉自身、マルクスの思想(とくに資本主義後のマルクスの世界観)と意外なほど距離感をたもっていることも理解できる。

教条的でなく、かつ、妙に「ポストモダンかぶれ」していないマルクス思想入門としては、もっとも堅実な書物ではないかと考える。

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2007/01/22

『啓蒙の弁証法』文庫版を読まねば

この週末、近所の中型書店をぶらぶらしていて、ホルクハイマー、アドルノ著『啓蒙の弁証法』が岩波文庫になっていることを知った。平積みになっていたので目に入ったが、今年に入ってから発刊されたようだ。

岩波文庫にしては定価が1,260円(税込み)と高めだが、549ページの大部だから無理もない。

そういえば河出文庫からも、今年に入ってからジル・ドゥルーズ著『意味の論理学』が上下二分冊で公刊されている。河出文庫からは昨年秋には『アンチ・オイディプス』も上下二分冊で発刊されていたようだ。これには全く気づかなかった。

ドゥルーズが現代にどれだけ有効な射程を持っているかどうかは別として、民主主義からファシズムが生まれた事実の徹底的な批判として、『啓蒙の弁証法』は一度は通読しなければ、と思いつつまだ通読できていない。

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2007/01/15

野中郁次郎ほか『失敗の本質』(中公文庫)

日本のナレッジマネジメント研究の権威、野中郁次郎が執筆に参加している『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫)を恥ずかしながら今さら初めて読んだ。

言うまでもなく本書は大東亜戦争中の日本軍の失敗の原因を、6つの事例(ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦)から分析するものだ。

注目すべきは本書刊行のきっかけとなった研究会が、昭和55年秋に始まっているという点だろう。1980年代前半といえば日本経済は絶好調、まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代だ。その時代にあえて日本の企業組織に残る日本軍の負の遺産を自己批判しようという点に、執筆陣の研究者としての良心が現れていると考える。

事例研究とその分析については、とにかく本書をじっくりと読んでいただきたい。ここでは僕が個人的に説得力があると考えた部分を引用するにとどめたい。

第一章の事例研究にもとづいて、第二章では大きく「戦略」と「組織」に分けて失敗の原因が分析されている。「戦略」はさらに戦略の「目的」が明確か不明確か、戦略が短期決戦志向か長期決戦志向か、戦略の策定方法が帰納的(インクリメンタル)か演繹的(グランド・デザイン)か、戦略のオプションが狭いか広いか、技術体系が一点豪華主義か標準化重視かに分類されている。

「組織」はさらに組織構造が集団主義か構造主義か、組織統合の方式が属人的統合かシステムによる統合か、組織学習の形態がシングル・ループかダブル・ループか、組織内の業績評価が同期・プロセス重視か結果重視かに分類されている。

その第二章から引用する。

「日本軍の組織構造上の特性は、『集団主義』と呼ぶことができるであろう。ここでいう『集団主義』とは(中略)、組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされるという『日本的集団主義』に立脚していると考えられるのである。そこで重視されるのは、組織目標と目標達成の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の『間柄』に対する配慮である」(p.314-315)

「個人責任の不明確さは、評価をあいまいにし、評価のあいまいさは、組織学習を阻害し、論理よりも声の大きな者の突出を許容した」(p.335)

本書を読むと、日本企業の組織運営が、いまだに日本軍の負の遺産を見事に残していることがよく分かる。「愛と苦悩の日記」の賢明な読者の皆さんは、おそらくほとんどの方が既読と思われるが、もし未読の方は、自分の勤める会社組織と、本書で批判されている日本軍の組織的な側面を比較されるとよい。

おそらくほとんどの日本軍の負の側面が、読者のみなさんの会社組織にも日本人のDNAとしてしっかりと受け継がれているだろう。要するに日本はまだ近代化していないのだ。日本が近代を超克するには、まずまともな近代化を実現しなければならない、ということである。

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2007/01/08

三崎亜紀『となり町戦争』(集英社文庫)

三崎亜紀の『となり町戦争』が文庫化(集英社文庫)されたので読んでみた。小説すばる新人賞受賞作品で、公刊時の評判もよかったので期待をもって読み始めたが、現代の日本人にとって戦争というものがもつリアリティが、非常にうまくフィクションに昇華されていた。

戦時中の日本人にとって、戦争は明日の自分自身の生死に直結していたに違いないし、冷戦時代の日本人にとって、最終戦争としての核戦争(第三次世界大戦)は、やはり自分の生死に切迫した脅威と感じられたに違いない。

しかし現代の日本人にとって、戦争はつねに遠くで音もなく進行しており、いつ始まったのか、いつ終わったのか、今も続いているのか、つかみどころのない漠然としたものになってしまっている。

にもかかわらず、極東の防衛上の要衝に位置する米国の同盟国として、日本は実際には米国の世界的な軍事戦略にしっかりと組み込まれている。イラクに派遣された自衛隊に犠牲者は出なくとも、イラクで戦死する米兵やイラクの一般市民は石油利権というかたちで、日本人の生活に実は密接に関係している。

この、派手な爆撃音やプロパガンダもなく、いつの間にか日常生活のすみずみにまで浸透している、遠くの国の戦争という、現代の日本人にとっての戦争のリアリティが、とても巧妙にフィクション化されているのが、この『となり町戦争』だ。

主人公と町役場の女性職員とのやや感傷的な挿話についてだけは、僕としてはこの作品の中にどう位置づけていいのかよく分からなかった。とりあえずは、ラブストーリーでもなければ、この哲学的な「戦争小説」を読み進めてくれない読者のための、感情的なフックとして、著者が準備したものだと考えておこう。

戦争という事実のもつグローバルな側面とローカルな側面、言い換えれば「遠さ」と「近さ」を、となり町との戦争というフィクションにうまく織り込んだ佳作だ。

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2006/12/16

小室直樹『日本人のための憲法原論』

小室直樹著『日本人のための憲法原論』(集英社インターナショナル)を読んだ。

日本が真の民主主義と真の資本主義を取りもどすためには父権復権が必要だという巻末の主張は厳密さを欠いていていただけないが、それ以外の部分は目からウロコの憲法論だった。

キリスト教の予定説についての説明は『日本人のための宗教原論』と大部分が重複するし、同著者の経済学や社会思想の入門書をすでに読んでいる方には食傷気味になる箇所も多いだろう。

しかし、たとえば「憲法とは国民に対する命令ではなく権力に対する命令である」とか、「刑法は犯罪者を裁くための法律ではなく裁判官を縛るための法律である」など、法制度に関する自分の認識がいかに誤っていたかを認識できた。

ほとんどの日本人が憲法というものは、国家が、国民に対して、国民の義務と権利を記していると勘違いしているが、憲法とはそもそも放っておくと怪物(リヴァイアサン)になってしまう国家権力を縛るための慣習法なのだ。

また刑法には「殺人を犯してはいけない」とか「盗みをしてはいけない」などといったことはまったく書かれていない。そもそも容疑者は刑事裁判によって罪刑が確定するまでは無罪なのだから、罪刑が確定した犯罪者を裁く法律というのはありえない。

刑法に書いてあるのは、もし誰かが殺人を犯したときにはこれだけの刑しか科すことができない、という量刑に関する規定なのだ。もし裁判官が刑法で懲役3年以下と定められた罪に対して懲役5年の求刑をすれば、その裁判官は刑法に違反したことになる。

そういうわけで、刑法とは裁判官を縛るための法律であって、犯罪者を裁くための法律ではないのだ。

これらのことは恥ずかしながら、僕にとってまったく目からウロコだった。

まだ司法制度についても、小室直樹氏は田中角栄のロッキード裁判のデタラメさを例として、日本の司法制度がいかに未成熟であり、三権分立の原則に完全に反しているかを暴き出している。

このことは、先日ご紹介したビデオニュースドットコムで、エコノミスト植草一秀氏が登場して冤罪を訴えた放送回で、社会学者・宮台真司が強調していたことでもある。

近代司法制度においてもっとも重要なことは、裁判が適正な法的手続きにしたがって行われたかどうかということであって、容疑者が心の中で犯罪を犯そうという意図をもっていたかどうかなど、刑事裁判には全く関係ないのだ。

ほとんどの人が、刑事裁判で裁判官は容疑者を裁くのだと勘違いしているが、裁判官は検察を裁いている。検察が容疑者が有罪であることを立証するにあたって、適正な法的手続きにしたがっているか、そしてその立証に破綻がないかをチェックするのが刑事裁判なのであって、犯罪者を裁くのが刑事裁判ではない。

最近、宮台真司や小室直樹の著作でこうした議論にふれるまで、僕も恥ずかしながら憲法や司法制度について完全に誤解していた。

近代市民社会を生きる者として、憲法とは何か、民主主義とは何か、資本主義とは何か、そして日本の憲法・民主主義・資本主義がすでに死んでしまっているという事実を、『日本人のための憲法原論』を読んで、まず認識することから始めたい。

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2006/12/09

続・内藤朝雄『いじめの社会理論』

内藤朝雄『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解』(柏書房)から、いくつか印象的な部分を引用してみたい。

「会社や学校では、精神的な売春とでもいうべき『なかよしごっこ』が身分関係と織り合わされて強いられている。そしてこの生きていくための日々の『屈従業務』が、人々の市民的自由と人格権を奪っている」(p.1)

「現代の日本社会では、多くの人々が共同体への人格的献身として学校や会社への参加を強いられ、人格的自由あるいはトータルな人間存在を収奪され、きわめて酷いしかたで隷属させられるといった事態が生じた」(p.20)

「学校は会社とともに日本の中間集団全体主義を支えてきた。日本の学校は若い人たちに共同体を強制する、いわば心理的過密飼育の檻になっている」(p.24)

「たとえば、スーパーマーケットや路上で市民が市民を殴っているのを見かけたら、別の市民はスーパーマーケットの頭越しに警察に通報する。その通報者は市民的公共性に貢献したとして賞賛される。しかし学校で『友だち』や『先生』から暴力をふるわれた生徒が学校の頭越しに警察に通報したり告訴したりするとしたら、道徳的に非難されるのは『教育の論理』を『法の論理』で汚した暴行被害者の方である」(p.120)

「いじめで自殺する少年の多くは、加害者を司直の手にゆだねるという選択肢を思いつくことすらできないままに死んでいく。それに対して加害生徒グループや暴行教員は自分たちが強ければ、やりたい放題、何をやっても法によって制限されないという安心感を持つことができる」(p.120)

そして内藤氏による「自由な社会の構想」は次のようなものだ。

「①人々を狭い閉鎖空間に囲い込むマクロ条件を変えて、生活圏の規模と流動性を拡大すること。
②公私を峻別し、こころや態度を問題にしない、客観的で普遍的なルールによる支配。」(p.266)

おそらく読者の皆さんが働いている職場も、「精神的な売春とでもいうべき『なかよしごっこ』」を強制されるような閉鎖空間ではないだろうか。

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2006/12/07

内藤朝雄『いじめの社会理論』

ビデオニュースドットコムにも出演して、いじめ問題について宮台真司、神保哲生と鼎談していた内藤朝雄の書いた『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』(柏書房)を読んだ。

中盤はかなりハードな理論構築になっているので、精神分析や哲学、社会学の知識のない方は、前半と後半を読むだけでも十分「目からウロコ」のいじめ論になっている。

昨夜だったかのNHKの9時からのニュースでも、いじめに対する「画期的な対策」として、学級の中で小学生どうしがお互いの良いところを褒め合う、という取り組みが紹介されていたが、その程度では全くいじめ問題の対策にならないということは、この『いじめの社会理論』の冒頭を読むだけでわかる。

内藤氏がいじめの根本的な原因とするのは「中間集団全体主義」だ。全体主義といえばナチスや戦時中の日本のような、国家による全体主義が真っ先に思い浮かぶが、内藤氏は、国家と個人の中間に存在する集団、たとえば「学校」や「会社」などといった「中間集団」による全体主義こそが、いじめの根本原因だとする。

また、内藤朝雄氏は本書の中で、世間の識者や権威、有名人がもっともらしく語る「いじめ問題」の解決策を類型化し、問題設定そのものが間違っているとして、バッサリと斬り捨てている(同書p.47以降を参照)。

今日のニュースでも、英国の制度にならって、加害者側を出席停止にするという案は、いじめ対策としては行き過ぎだ、と答弁する政治家が登場していたが、こういう答弁こそが学校のいじめを「正当化」しているのだ。

また、相手の立場にたって考える心を育てればいじめはなくなるといった「こころ」に依拠した議論も、まったく効果がないどころか、いじめの被害者の「こころ」を改造することでいじめを解決しようという現場の指導を正当化することになってしまう。

『いじめの社会理論』を読み終えると、世の中のいじめ問題に関する議論のほぼ全てが問題設定そのものを誤っており、かつ、即効薬にも中期的対策にもならないことがわかり、やや絶望的な気分になる。

本書の末尾で内藤氏が提言しているような制度は、一体いつになったら日本で真面目に議論されるようになるだろうか。大人が生活している会社という中間集団でさえ、「みんな仲良く」という同調圧力がこれだけ強いのだから。

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香山リカ『多重化するリアル』

香山リカ『多重化するリアル』(ちくま文庫)を読んだ。多重人格は病気というより、共通の大きな目標(経済成長など?)をもてなくなった現代社会に、人間が適応しようとした結果ではないか、という問題提起だ。

ダニエル・キースなどの多重人格者を主人公にした小説が流行した後、多重人格は精神科医が作り出したニセの病気ではないかという意見も出たが、臨床現場では実際に多重人格(正確には解離性人格障害と呼ばれる)が増えているらしい。

最近では多重人格は病気というより、むしろ、その場その場で複数の役割をこなさなければならない現代人の特徴だという意見が主流になっている。もちろん香山リカは狭い意味での多重人格と、現代人の特徴としての多重人格的な性格を区別する。

ただ、重要なのは、こういった見方が何を生み出すのか、つまり「多重人格は現代人が環境に適応しようとした結果だ」と言ったとして、そこから何が生まれるのかだ。香山リカ自身、解離性人格障害を現代人の特徴と語ること自体、共通の「大きな物語」の再生産ではないかと自問している。

...という論旨はともかく、本書でいちばん興味深いのは文庫版のあとがきである。40代後半になった著者の「実存的」な悩みがかなり正直に吐露されている。売れっ子著述家精神科医の「弱い」一面が垣間見えるので、ぜひご一読を。


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2006/11/26

鈴木邦男『言論の不自由?!』『愛国者は信用できるか』

鈴木邦男の本をたてつづけに2冊読んだ。『言論の不自由?!』(ちくま文庫)と『愛国者は信用できるか』(講談社新書)だ。宮台真司の「転向」以降の対談集や著作の中でよく言及されるので、今まで新右翼の本など一冊も読んだことがなかったが、読んでみようという気になった。

宮台真司を読んでいると、どうやら自分は「ヘタレ左翼」ではないかという気がしてきたからだ。僕が東京大学の駒場キャンパスに入学した頃はまだ駒場寮の古い建物があって、学生自治会の幹部や、新左翼の残党のような人が生活していた。

高校時代にボーヴォワールの『第二の性』を読んで「男らしさ」の強迫観念から解放された僕は、入学間もなくフェミニズム系のサークルに入った。世の中はまだバブル経済の絶頂期で、そんな時代に地味な社会学系サークルに入るような学生といったら、当然、二十年遅れで左翼思想にかぶれているような人たちばかりだ。

僕は60年代、70年代の安保闘争などといった昭和史など全く知らないノンポリのくせして、フランス現代哲学を研究するのには何となく左翼でなければならない程度の政治意識しかなかった。

一度だけ新左翼運動に協力していた先輩に乞われて、何か日本武道館に関する反対署名に署名したことがあるが、そのときもこの署名が公安だか警察だかの手に渡ったら逮捕されてしまうのではないかなどと見当違いな恐れを抱いたりしている始末だった。

それでもその後いちおう自分としては政治的には左翼のつもりで、社会党はもちろん、共産党も信用ならないと考え、デリダの「脱構築」のようなリ体制内改革が自分の政治的信条だと考えてきた。

しかし、これって単なる時代遅れのニューアカデミズムかぶれではないか?と考え始め、結局会社員になってからは、ひたすら組織の論理とサラリーマン的習俗に順応して生きてきて、左翼がどうこうということ自体がどうでもよくなった。

で、最近久しぶりに宮台真司の著作を集中的に読んで、鈴木邦男や見沢知廉などといった名前を目にするにつけて、そういえば左翼にシンパシーを抱いておきながら、まともに右翼の言説に触れたことさえなかったことに気づかされた。

そこで鈴木邦男を読んでみたというわけだが、元左翼(だったのかはきわめてあやしいが)の僕にとって鈴木邦男は新右翼への最適の入り口だと感じた。新右翼といえば言論の自由を抹殺するようなテロリズムの実行犯というイメージが先立って、まともに読むべき言説などないと考えがちだ。

しかし氏は、例えば長崎市長が天皇の戦争責任に言及したときの銃撃事件などについて、右翼のテロリズムは自分で自分の首を絞めているようなものだ、言論の場を自ら奪っているようなものだと非難する。(そして同じ右翼の仲間から脅迫をうけたりする)

愛国心や天皇制の議論についても、宮台真司のいう「ヘタレ右翼」が矛盾した言論や思考停止のロマンティシズムで噴き上がるだけなのに対して、非常に合理的で冷静な議論を展開している。

何より氏の書く文章は不思議なユーモアに満ちている。愛国心とか天皇制とか、政治的に重い議論をしているのに、思わずふきだしてしまいそうになる軽さがあって、深刻ぶったところが一つもない。

それもおそらくは意識的に選択された文体で、氏は街宣車で大声でわめき立てる右翼といったイメージを何とか払拭し、一水会代表を退いた今でも、右翼が冷静な言論の場に復帰できるように言論による努力を続けているのだ。

とにかく右翼といえば街宣車というイメージしかない人は、一度、鈴木邦男のこの2冊を読まれるとよい。『愛国者は信用できるか』の中では、藤原正彦が『国家の品格』の中で書いている「愛国心を祖国愛と言い換えればよい」という提案も、あっさりと一蹴されて痛快だ。


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2006/11/18

地方都市の郊外の夢・宮台真司『教育真論』

以前にも書いたが、毎日のように地方都市の夢を見る。日本にいかにもありがちな地方都市の郊外、まばらな商業施設、本数の少ない鉄道、ところどころに廃墟と化した建物、そして僕自身がその一軒の家に二十代の学生として生活しているのだが、両親はおらず、たまに弟が登場する。

大学にも行かず、毎日何をして暮らしているのか、夢を見ているこちらには分からない。ただ、どういうつながりだかわからない友人たちと出かけたり、一人で地方都市の郊外をぶらぶらしたりして、無為に時間をつかっている感じ。まさに「まったり」と生きているようなのだ。

最近、宮台真司の本ばかり読んでいるせいだろうか。先週も対談集『教育真論』を読み終えたところだし。第三部は漫画家・江川達也の論客としての本領発揮というオマケもあり、この手の対談集は宮台真司の実存(実体験)の告白も随所に出てきて、氏の思想を理解するのにとても役立つ。

これら地方都市の郊外の夢を、単なる現実逃避願望のガス抜きと考えるのは、わかりやすいといえばわかりやすいが、そのうち本当にあちら側の世界が現実に思えてくるのではないかと、楽しみなような、不安なような。

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2006/11/12

宮台真司著『絶望・断念・福音・映画』『援交から天皇へ』

宮台真司『絶望・断念・福音・映画―「社会」から「世界」への架け橋』(メディアファクトリー)と『援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002』(朝日文庫)を読んだ。

『絶望・断念・福音・映画』は宮台真司による映画評論で、取り上げられている映画の内訳としては意外に米国映画が多く、蓮実重彦の映画評論のように映画についての豊富な教養を必要とされる本でもない。

また、形式に焦点をしぼった蓮実重彦の映画批評をよく知っている宮台氏が、あえて、映画の「形式」ではなく「意味内容」を「実存的」に分析するという、時代遅れの手法をとっているので、本格的な現代批評に親しみのない人でも、とっつきやすい内容になっている。

もっと言えば、すべての映画について物語が要約されているので、ふだん映画を観てい人でも議論についていける。

そもそも本書は、映画批評の形を借りて、前著『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』(ちくま文庫)の議論を敷衍するために書かれているので、半分は映画評論だが、残りの半分は宮台真司の思想が延々と展開されていて、どちらかといえば宮台思想の方が主役である。

なので、映画評論というよりは、宮台真司の思想の、宮台氏自身による、映画をネタにしたわかりやすい解説書と言うべきで、最近の宮台真司の考えていることを知るのに比較的手軽な入口になる。おすすめの本である。

『援交から天皇へ』は宮台真司が書いた「解説」を集めた単行本の文庫化だ。こちらは宮台氏がそれぞれの小説や映画の作者の創作意図を、パターン化してわかりやすく言語化していく過程が痛快だ。

どちらの書物にも言えることだが、とくに『絶望・断念・福音・映画』には宮台氏の過去の個人的な体験が豊富に語られている。大学教授がこんなプライベートなことまで書いてしまっていいのかということまで、作品の実存的分析の一部分として書かれている。

これらルソー的「告白」の部分も、ミーハーな宮台真司ファンとしても十分に楽しめるし、氏の思想の背後にはどのような実生活からの裏付けがあるのか、よく理解できる。

やはり学者というのは、個人的な実生活に根ざして内部から湧き出す意欲のようなものがなければ、とても研究生活を続けることができないのだということもよくわかる書物だ。研究職を目指している学生にとっても大変参考になると思われる。
(僕はその動機付けのなさに、研究生活を断念したクチなのだが)

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2006/11/05

東浩紀・大澤真幸『自由を考える―9・11以降の現代思想』

東浩紀と大澤真幸の対談集『自由を考える―9・11以降の現代思想』(NHK出版)を読んだ。世界貿易センタービルへのテロが時代の画期になっているのかどうかは明確ではないが、環境管理型社会の進展につれて「自由」という概念のもつ意味がまったく変わってきていることが、はっきりと理解できる本。

僕らが「自由」という言葉からふつうに考える「自由」というものは、本来できるはずのことが、何らかの制約があってできない、というものだけれど、現代の「自由」はそれとはまったく意味が違ってきていて、「自由」を求める主張がとても難しくなっている。その困難さを、この二人の対談はあざやかに解き明かしている。

対談集ということで、途中、二人の話がどんどん脱線していく部分もかなり楽しめる。とくに『スタートレック』について延々と脱線する部分は、『スタートレック』のコアなファンならたぶん相当楽しめるはず。

ただ、個人的には大澤真幸がやたらと弁証法的な思考形式を展開するところが、やや鼻についた。東浩紀も対談の随所で大澤氏の「弁証法グセ」を茶化している。

それにしても、東氏は僕の一歳年下で、僕も毎日のように利用していた教養学部の図書館の玄関にいつも名前が貼り出されていたのを記憶している。たぶん図書の返却期日を過ぎていますよ、ということで貼り出されていたのだと思ったけれど、違ったらごめんなさい。

あれからもう約15年が過ぎて、こちらは思考的な冒険の一切ない、ある意味とても退屈なシステム構築の仕事をしていて、東浩紀氏は現代的な事象をめぐる刺激的で鋭い思考の冒険をつづけている。

この違いが、東氏と僕の人間として出来の違いをはっきりとあらわしている。最近、僕は自分という人間の下らなさを痛感させられる。

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2006/11/02

北田暁大著『嗤う日本の「ナショナリズム」』

北田暁大著『嗤う日本の「ナショナリズム」』(日本放送出版協会)を読んだ。インターネットという媒体がもつ日本的に特殊な位置づけについて、梅田望夫氏『ウェブ進化論』などの「森林資源のムダづかい本」と比べると的確に分析されている。

北田氏による各時代の分析は以下のように要約されると思われる。

1970年代は連合赤軍に見られるような反省の自己目的化(反省のための反省、「総括」のための「総括」)。
1980年代は糸井重里に代表される、自己目的化した反省への抵抗としての無反省。
1990年代は「抵抗」という契機さえ失った純粋な無反省(『きょうきん族』や『紅鯨団』など「楽屋オチ」中心のバラエティー番組)。皮肉な無反省。
そして今は、1990年代の皮肉な無反省を支えていたマスコミという「大きな物語」さえもが単なるネタになり下がり、皮肉の応酬を内輪で際限なくつづける冷笑的態度(「2ちゃんねる」がその代表)。

このように北田氏の分析は弁証法的展開を見せるが、「2ちゃんねる」利用者などの、メディアに対して冷笑的態度をとりつつ「あえて」コミットできる程度にメディアリテラシーの高い自覚的な人々はごく一部だと思われる。

ほとんどの人が『国家の品格』のような国家主義的なメッセージの強度や、ワールドカップでの国家主義的な盛り上がりに、単純に反応しているのではないか。

『国家の品格』を読んで「我が意を得たり」と思ってしまう人は、まず本書のような書物を手にとらないだろうということを考えると、現代日本におけるこの鋭利なナショナリズム分析も、ごく狭い論壇の内部でしか流通しないマイナーな言説でしかない、というのは悲観的過ぎる見方だろうか。

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2006/10/27

小島信夫氏死去

小説家の小島信夫氏が亡くなったらしい。たしか高橋源一郎氏だったかが、ダラダラ書くだけで小説になってしまう奇跡的な小説家なので、皆さんは決してマネしようと思わないように、と書いていた記憶がある。

最近読んだ中では、保坂和志氏との往復書簡集『小説修業』が面白かったように記憶している。例によって、読んだ本の内容は、読む端から忘れるので、漠然とした印象しか残らないのだが、小島信夫氏の不思議な自虐的ユーモアをただよわせる「まったり」系の文章は好きな文章だ。

文庫でも読める作品があるので、未読の方はぜひどうぞ。

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2006/10/22

姜尚中と宮台真司のスタンスの違い

姜尚中(カン・サンジュン)と宮台真司の対談集『挑発する知』(双風舎)を読み終えた。先日ご紹介した『網状言論S改』だけを読むと、東浩紀の宮台真司に対する「実存的なツッコミ」ばかりが目立って、肝心の宮台真司のスタンスの変化が、単なる右翼への転向に読めてしまう。

もし本当にそうだとすると、そもそも在日コリアンという出自をもつ思想家である姜尚中のような人との対談など成立しないわけで、この『挑発する知』を読めば、宮台氏の右翼的発言に関する誤解がすっきり解消される。

要するに宮台氏は、国家と国民をはっきりと分けて考え、国家は国民のために奉仕すべきものであり、そうなっていない場合は、国民が国家を操縦しなければならないと主張しているのだ。

ただ、国民が国家をコントロールできるようになるには、今の日本国民(もちろん宮台氏は「日本国民」の範囲についても議論の余地があると留保をつけている)のレベルは低すぎると、国民に対しても厳しい視線を向けている。

そのために学術的・専門的な議論を、一般の国民にかみくだいて説明する役割を担う人々を大学が育成しなければと主張している。宮台氏は今のところめぼしい人がいないので、自分が研究者であると同時にその役割も果たさざるを得ないと告白している。姜尚中もこの議論には賛同している。

実は個人的に、最近、姜尚中が日本テレビのコメンテーターとして登場していることが気になっていて、どちらかといえば左翼系のハードな理論家である姜尚中が、読売新聞系の制約を息苦しく思わないのだろうかと無用な心配をしていた。

しかしこの『挑発する知』を読むと、宮台氏との対談を通じて、姜氏自身も一定のリスクをおかしてでもマスコミを利用してより多くの人たちに語りかける「実践」にコミットする決意をしていることがよくわかる。

一般の国民にあえて「わかりやすく」語りかけることの危険性も有効性も分かった上で、その一歩を踏み出そうとする姜氏のコミットメントが理解できただけでも、この『挑発する知』を読む価値はあった。

また、両氏の方法論についての違いも、本書のまえがきとあとがきでわかりやすく両氏自身の言葉で説明されている。宮台氏は社会状況に応じて技術・道具としての理論を自由に取り替えることの優位性を説き、姜氏は時代を通じて変わらない真理の実在と、時代によって変わる分析枠組みの可変性を両立させることの重要性を説く。

つまり、宮台氏はあくまでルーマンの方法論に忠実であり、それに対して姜氏はハバーマスの対話する理性が受け継いでいる西欧啓蒙主義の伝統と、ルーマンやデリダのような方法論的戦略性を両立させようという、より困難な道を選んでいる。

いずれにせよ、同じ時代に共闘する二つの知性の共鳴・共振が心地よい対談集だ。





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2006/10/16

北朝鮮外交についての宮台真司の「予言」

2003/11に出版された姜尚中(カン・サンジュン)と宮台真司の対談集『挑発する知』(双風舎)を読んでいるのだが、北朝鮮の核実験について宮台真司の鋭い指摘があったので、引用しておく。

「2002年10月に政府が拉致被害者五人の強制帰国を決め、北朝鮮との約束を破ったときに、私はすぐにラジオで『北朝鮮は今後、日本を外交交渉の相手として認めず、アメリカを相手にして核カードを切るだろう』と予測したら、そのようになった。(中略)五人の拉致を認めるということは、あとのないカードを北朝鮮が切ったとみることができるからです。
 究極のカードを切った北朝鮮の意図は、簡単です。(米国との)休戦協定を平和条約や不可侵条約に変えることも含めて北朝鮮を助けてくれないか。アメリカの愛人である日本からアメリカに口を利いてくれないか。そういうシグナルをだしてきたわけです。
 ここで日本が口を利けば、戦後始めて日本が外交でイニシアティブを執ることができたでしょう。これほど国益に資することはないと思ったのですが、拉致被害者の北朝鮮への帰国を拒否したことにより、そのチャンスは一瞬にしてつぶれてしまいました」(p.52)

 僕自身、日本のマスコミがあまりに一般人の感情面に訴えて、拉致被害者の奪還をあおりすぎることに疑問を抱いていたのだが、なるほどそういうことだったのかと宮台氏の議論に納得した。

 北朝鮮は核実験を強行し、まさに宮台真司の予言したとおりの展開になってしまっている。そしていま北朝鮮外交のイニシアティブを握っているのは、中国である。この部分の少し後で、北朝鮮の脅威をあおる読売・産経系メディアについて、宮台氏はその矛盾をついている。

 彼らは、一方では、北朝鮮の核の脅威に対抗するにはアメリカに追従する必要があると言いながら、他方では、北朝鮮の核の脅威など恐れるに足らず!徹底して強硬姿勢を貫いて拉致被害者の全員奪回をめざせ!と言う。

 安倍晋三の外交姿勢もまったく同じで、北朝鮮の核の脅威について、一方ではそれを意図的に「あおる」ことで、アメリカ追従外交の口実に利用し、他方ではそれを意図的に「なめる」ことで、対北朝鮮の強行姿勢の口実に利用する。

 もちろん安倍晋三自身は完全に矛盾していることを承知で、拉致被害者に対する同情心をうまく利用して国民を巻き込みながら、北朝鮮外交をおしすすめているわけだが、その目的はおそらく一つしかなく、自衛隊を正規軍にして軍備増強を図るという、宮台氏の言う米国のネオコン式のマッチポンプ(自分でマッチの火をつけておきながら、自分でポンプで消すこと)なのだろう。北朝鮮の脅威を自分であおっておいて、それを利用して軍備増強へ世論を誘導する。その循環がすこしずつ世論を軍備増強の方向へ動員していく。

 そういうわけで安倍晋三が小泉首相の正統な後継者であることは確かだが、注意したいのは、「安倍晋三の外交姿勢に反対!」という主張と、「拉致被害者を還せ!」という主張は両立しないということだ。

 小泉首相時代に敷かれた現在の北朝鮮外交を軌道修正するには、残念ながらもはや日本は、逆説的ではあるが、米国べったりの姿勢を貫くことで、中国のイニシアティブを際立たせるしか手がなくなっている。

 宮台氏の言うように、拉致被害者5人を北朝鮮へ帰国させなかった時点で、日本にはアメリカ追従の道しかなくなってしまったのだ。これは真の右翼からすれば国辱ものの外交上の失策である。

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2006/10/15

『波状言論S改』の高橋哲哉批判

東浩紀著『波状言論S改』を読み終えたが、第三章「再び『自由を考える』(現象学的身体と環境管理動物は自由か)」での、東浩紀、鈴木謙介、社会学者・大澤真幸による鼎談がなかなか面白かった。(敬称略)

ひとつは大澤真幸と東浩紀の、宮台真司批判だ。最近の宮台真司が確信犯的に、一つの戦術として「天皇制」などの言葉をもちだす右寄りの言論を展開していることについて、その言論が宮台氏の「あえてやっているのだ」という意図に反して、単なる反動として機能してしまっているのではないかと、強く批判している。

もうひとつは東浩紀の指導教官であり、僕自身も東京大学の駒場にいたとき、大きな影響を受けた高橋哲哉に対する批判だ。東浩紀は高橋哲哉のデリダ解釈について、デリダと言語学者サールの有名な論争「有限責任会社ABC」を例にとって、あまりに文字通りに(コンスタティブに)真面目にうけとりすぎているという批判をしている。

特に従軍慰安婦問題などとめぐる高橋哲哉の政治的な言論が、デリダの文字通りの読みにあまりに偏りすぎていて、デリダのもう一つの重要な側面である、文字通りの意味を意図的に茶化して、ズラしていくことで、文字通りということ(エクリチュール)の限界とその外部を指し示すという方法論を捨て去ってしまっているというのだ。

ただ、だとすればデリダの遺産をすべての面で受け継ぐとしたら、高橋哲哉が「真面目に」取り組んでいる従軍慰安婦問題はどのように論じるべきなのか、第三章の鼎談では一切論じられていないので、この批判はあまりフェアではないと僕は考えた。

いずれにせよこの『波状言論S改』という鼎談集は、宮台真司と高橋哲哉という、僕個人にとってかなり思い入れのある現代日本思想家に、別の視点を与えてくれたという点で、気軽に手にとったわりには意外に意義深い書物だった。

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2006/10/12

宮台真司氏の思想の変化

ここ最近、社会学者・宮台真司の著作を集中して読んでみて、その思想の変化が分かってきた。

僕が宮台氏の著作を読み始めたころ、氏は女子高生の生活様式に現代を生き延びる最適解を見い出していた。地域コミュニティが崩壊し、出会い系サイトに代表されるように人と人との出会いに必然性がなくなり、さらに転職が当たり前になり、組織人もますます単なる交換可能な存在になってきた。

このように人間関係の偶発性、交換可能性が高まった90年代以降の日本社会を生き延びるには、大それた理想など追求せず、日常に埋没してまったりと生きるのが最適解だ、というのが90年代の宮台氏の処方箋だった。

ところが宮台氏はその後も援助交際女子高生の取材を続け、彼女たちがうつ病や神経症などに悩まされるようになっている現実を目の前にする。結局のところ人間が耐えられる偶発性や交換可能性には限界があったのだ。

もう一つ宮台氏の思想の変化のきっかけになったのが、環境保護団体など左翼系の活動家たちを、政策提言の面で支援するなかでの、一種の失望だ。彼らはあまりに素朴すぎて、保守陣営の戦術に対してきわめて弱いのだ。

そこで宮台氏は、個人として現代を生き延びるためには、内発的な行動原理を、政治組織として保守陣営に対抗するためには、したたかな戦略性を提唱するようになった。

前者の試みは社会の外部に存在する規定不可能なものとしての「世界」を参照することになり、言ってみれば社会学の枠を越えることになる。後者の試みは方法論において真のマキャベリズムを目指し、あえて保守思想にコミットすることで保守陣営の保守性の不十分さを浮き彫りにしようとする。

今後、宮台氏の思想と実践がどのように変化していくのか、引き続き注目しないわけにはいかない。

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2006/10/10

宮台真司の実存的「弱さ」に切り込む東浩紀

東浩紀著『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』を読んでいる。第一章が東浩紀、宮台真司、鈴木謙介の鼎談になっているのだが、最近「元気がない」宮台真司に、その元気のなさの理由について、東浩紀が方法論の行き詰まりという観点から鋭く切り込んでいるのが非常に面白い。

最終的には宮台真司にも弱い面があるということを、公の場で語ることにも一定の意味があると、第一章はしめくくられている。宮台真司の実存的な問題をここまで突っ込めるのは東浩紀ぐらいではないか。

やや内輪ウケ的なノリもあるが、社会システム理論という方法論が、それを駆使する宮台真司のような人物に、どのような実存的「副作用」(?)を与えるかを知ることは、社会システム理論の研究者にとって非常に興味深いと言えるのではないか。

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2006/10/09

論理的思考への読書案内

とある読者の方から、論理的思考力を身につけるための道案内をお願いしたいというメールを頂いた。僕の「非常に鋭い論理的思考に憧れを持っています」とのことだ。僕の思考がどの程度まで論理的かは別として、大切な読者の方からの要望なので回答してみたい。

かなり以前にこの「愛と苦悩の日記」の親サイトである「think or die」にも書いた覚えがあるが、僕の西欧現代思想への入り口は、高校時代に日本史の教師から勧められて読んだ岸田秀の『ものぐさ精神分析』シリーズだ。そこからフロイトの精神分析を知るようになった。

もう一つの流れは、小学生の頃からの実存的な(=個人的な)悩み、つまり、「なぜ男の子は男らしくなきゃいけないの?」という素朴な疑問にものすごい説得力をもって答えてくれた、ボーヴォワール『第二の性』だ。そこからフッサール、ハイデガーという現象学系列の現代思想を読むようになった。

高校時代、まったくわけも分からないまま、ハイデガーの『存在と時間』(岩波文庫)の上巻を繰り返し読んでいたが、これが形而上学的な思考法を身につける非常に良い訓練になった。

『存在と時間』の冒頭で、ハイデガーがしつこくアリストテレスに言及するので、アリストテレスの古典も少し読んだ記憶がある。また、ハイデガーの師匠(?)であるフッサールについては、中公バックスの世界の名著シリーズに収録されている『デカルト的省察』も読んでいる。やはり高校時代の話だ。

僕の決定的な弱点は、マルクスを一切読まなかったことに尽きる。僕の高校時代はDCブランドブームの最盛期で、マルクスなんて何のリアリティもなく、そんなものを読むのは新左翼シンパの残党で時代錯誤もはなはだしい、といった意識しかなかったのだろうと思う。そのせいでヘーゲルの弁証法もついにまともに読むことがなかった。

大学に進学してからフランス現代思想の研究が中途半端になったのも、ヘーゲル、マルクスの線が完全に欠落していたからだろう、というのが、今になっての遅すぎる反省だ。

また、同じ高校時代の日本史の先生の勧めで、丸山真男の本も少しだけ読んだ記憶がある。非常に難解だという印象しか残っていないのだが、あの体験も思考の論理的厳密さの良い訓練になった気がする。

ただし、質問を下さった読者の方に、最初からいきなりフロイトやフッサール、ヘーゲルの原典にあたることはお勧めできない。やはり日本人の優れた批評家、思想家から入って、その本が参照している西欧の思想家の本をつまみ食いしていく、というのが最も効率的ではないか。

上述の丸山真男もその一人だが、吉本隆明、柄谷行人、浅田彰、見田宗介、僕は読んだことがないが橋爪大三郎、廣松渉などだ。これらの思想家が少し難解だというときは、この「愛と苦悩の日記」でもよく取り上げる、宮台真司や、東浩紀のエッセー的な著作をおすすめする。

この種の日本の思想家の本を読むとき意外に重要なのが、著者と「時代の記憶」を共有できるかどうかだ。東浩紀はズバリ僕と同世代なので、時代背景を共有でき、その点、著作も理解しやすい。

宮台真司は僕より一世代上だけれども、宮台真司のいう首都圏の進学校的な文化(氏の出身校である麻布高校的文化)は、関西の進学校に一足遅れて伝わっているので、神戸の有名進学校に通っていた僕にとっては共有しやすい。

高校時代、同じように西欧現代思想にかぶれていた、中途半端なニューアカデミズムかぶれの友だちが周囲にいたことも大きかったと思われる。なかなかハードな論理的思考を一人きりで研鑽するというのは、動機づけの面で長続きしないものだ。その意味で、当時の優秀で頭の切れる友人たちのおかげ、という部分も大きい。

しかし上京して東京大学の文学系の人たちと実際に出会ってみて、いかに自分が勉強不足かを痛感させられることになる。柳田國男全集を完読してしまっているような人がいたり、浅田彰をはじめとするニューアカブームを、ブームとしてすでに消化してしまっているような人がいたりするのだ。彼らの思想的洗練に比べると、大阪の都会育ちの僕でさえ単なる「田舎者」にすぎなかった。

話が完全に脱線してしまっているが、メールを下さった方が20代~30代の方なら、とりあえず宮台真司、東浩紀を片っ端から読んでみるのはどうだろうか。それと並行して、岩波文庫に収録されているような西欧哲学の古典を、地道に読み続ける。そうすれば、そのうちいろんなものがつながってきて、論理的な思考力が知らない間に身についているということになる。

文庫で安く手に入る推薦図書を下記に列挙しておくので、順番に読んでみてはどうだろうか。文庫本でもまとめて買えばアマゾンの送料は無料になったはずなので、自分にプレッシャーをかける意味で、一気買いをおすすめする。

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2006/10/08

ルーマン『社会システム理論』を読む(1)

突然だが、二クラス・ルーマンの『社会システム理論』を英訳で読んでみる。使うのはスタンフォード大学出版のペーパーバック版。ジョン・ジュニア・ベッナーズ、ダーク・ベッカー英訳だ。

これを読みながらの独り言をだらだら書いていくという形式であって、決して直訳でも何でもないので、本当の意味でこれを読む皆さんにとっての二クラス・ルーマンのお勉強になるかどうかはわからない。ではさっそく始めよう。

『社会システム理論』の序文は「システム理論のパラダイムの変化」と題されている。今日、システム理論は非常に異なるさまざまなレベルの分析に使える包括的な概念になっている。ただ、「システム理論」という言葉の意味があいまいなので、社会学的な分析に使おうとするときは、もっとはっきりした定義がないと、一見、精密なようで、実は根拠のない分析になってしまう。

他方、「一般システム理論」というのが急速に発展している。社会学理論に関する議論とは違って「一般システム理論」は最近、根本的な変化を遂げていて、学際的な努力がなされている。だから社会学の理論を構築するにあたっても、この一般システム理論の発展から得るものは大きい。とくに一般システム理論の最近の変化は、社会学の理論的な関心にぴったりだけれども、まだ抽象度と複雑さを上げる余地がある。ルーマンの『社会システム理論』は一般システム理論を社会学の理論的関心に適用するために、そのギャップを埋めようとするものらしい。

序文では、まず分析の3つのレベルを区別すれば十分だとされる。3つのレベルを区別するには、次の様な問題を設定してみればいいと書かれている。「一般システム理論の水準での『パラダイムの変化』が、社会システムの一般理論にどんな影響を及ぼすか」。

この問題を設定することで、3つの異なるレベルを想定していることになる。一つは「システム一般」のレベル。二つめは、機械、有機体、社会システム、精神システムといったさまざまなシステムのレベル。3つめは、それぞれのシステムの内部にあるサブシステムのレベルだ。たとえば社会システムの中には、相互作用、組織、さまざまな社会(狭義の社会)といったサブシステムがある。

システムを一般的に語る場合、システムという状態にある対象物のさまざまな特徴のことを意味したり、それらの特徴全体の統一性のことを意味したりする。そのために、一般システム理論は、一般化されたシステムについての理論にもなってしまう。

こういう風に、システムそのものと、システムという概念(モデル)をごっちゃにしてしまうという問題は、3つの異なるレベルのすべてで起こるおそれがある。なので、システムの概念(モデル)のことを、システムと呼ばないように気をつける必要がある。同様に、有機体の概念(モデル)を有機体と呼ばないように、機械の概念(モデル)を機械と呼ばないように、社会の概念を社会と呼ばないように気をつける必要がある。

つまり、理論的な抽象度のいちばん高いレベルにあっても、対象物を名指す用語を、その対象物を知るための手段(概念やモデルなど)を名指すために使ってはいけないのだ。社会という対象物を名指す用語である「社会」という名詞を、その社会を知るための手段にすぎない「社会」という概念を示すために使ってはいけないし、有機体というものを示す「有機体」という言葉を、有機体を理解する方法にすぎない「有機体」概念を示すために使わないようにしなければならない。

だから、われわれが「システムがある」と言うときは、単に、それらをシステムという概念を使って調査することを正当化できるような特徴を示す対象物が、目の前にあると言っているだけだ。逆に言えば、システムという概念のせいで、おたがいに比較可能な、違ったり同じだったりするさまざまな事実を、捨て去ってしまうことにもなる。

この種の(理論指向的な)概念的な抽象化は、(構造指向的な)自己抽象化と、注意深く区別しなければならない。概念的な抽象化は、いろいろなものをお互いに比較することを可能にし、自己抽象化は、対象物の内部に同じ構造を再適用することを可能にする。これら2つを厳密に区別した上ではじめて、これら2つがオーバーラップする部分をちゃんと考えることができる。

たとえば、自己抽象化するために、概念的な抽象化を利用するシステムがありうる。つまり、他のシステムがもっているさまざまな特徴と、自分自身がもっているさまざまな特徴を比較することで、自らの構造を作り上げるようなシステムもありうる。

ここから、ある対象物の内部で、概念的な抽象化が、その対象物の内部で、どのていど自己抽象化に依存しているかを解明できるようにもなる。ルーマンはさきほどのシステムの3つのレベルという抽象的なスキームを、概念的なスキームとして使う。それによって、一つ一つのシステムが形作られるさまざまな異なる可能性を比較検討することができるからだ。

ただ、このような比較検討をおこなうには、対象物そのものの内部で起こっている自己抽象化もとりあつかうことになる。一つひとつのシステムは、システムという概念(モデル)のさまざまな特徴をを自分自身に適用することができるし、じっさいに適用してもいる。

たとえば、内部と外部の差異、というのも、システムという概念のさまざまな特徴の一つだ。その限りで、ここでは、分析的スキーム以上の何物かが巻き込まれているといえる。さまざまなシステムどうしを比較することで、システムが自己抽象化にどの程度まで立脚しているのか、そしてお互いにどの程度まで同じで、どの程度まで異なっているのかをテストできる。

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2006/10/07

宮台真司著『サブカルチャー神話解体』を読んだ

『サブカルチャー神話解体』(パルコ出版)を読んだ。事前に『限界の思考』で本書を出版するに至る宮台真司の個人史(歴史=物語)のようなものを読んでいたので意外にすっきりと理解できた。

そして、コミュニケーションの体系としての社会システムに繰り返し言及されるので、間接的に二クラス・ルーマンの社会システム理論のお勉強にもなっている(のではないかと思う)。

サブタイトルに「少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在」とあるように、1960年代以降のサブカルチャーを材料に、社内内部のコミュニケーションそのものやその背景の連続性と非連続性を、図式的ではありながらもダイナミックに分析している。

本書を読むと、サブカルチャーをはじめとする社会現象を分析した書物が、社会をあまりにも粗雑に、特定の「概念」や「物語」に切り詰めてしまい、前の時代からの連続性や、同時代の社会の異なる部分どうしの相互作用(コミュニケーション)を見逃してしまっているかがよくわかる。

逆に言えば、本書を読んでしまうと、つぎつぎに新書で出版されるたぐいの社会分析など、底が浅すぎてもう読めなくなってしまう。おそらく二クラス・ルーマンの社会システム論は、それくらい社会現象の分析ツールとして切れ味が鋭いのだろうと想像する。

「想像する」と言うのは、まだルーマンの著作を一冊も読んでいないので、文字どおり想像するしかないからだ。やはり自宅にある英訳を地道に読まなければ。


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2006/09/27

宮台社会学入門としての『限界の思考』

今読んでいる『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』は、僕と同世代の北田暁大という社会学者と宮台真司の対談形式なのだが、ほとんど北田氏による宮台社会学入門、といった感じになっている。しかもアイロニーに関する議論が延々とつづく中で、宮台氏の『サブカルチャー神話解体』(1993)が何度も言及されるので、この本も読まないわけにはいかなくなってくる。

これって結局、宮台真司の策略にまんまとハマっていることになるのでは?と思いつつも、図書館でさがしてみよう。しかし本来はルーマンの『社会システム理論』の英訳本をもっているので、まずそちらを読むべきなのだろうが...。まとまった時間がほしい。いつになったらまともにルーマンを読めるのだろうか。

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2006/09/19

英語版Wikipedia「二クラス・ルーマン」和訳

宮台真司氏の思想的な基盤になっている二クラス・ルーマンだが、英語版Wikipediaに紹介記事があるので、試しに日本語に翻訳してみたい。

なおこの記事はGNU Free Documentation Licenseのもとでライセンスされており、Wikipediaの記事「二クラス・ルーマン」を利用している。

This article is licensed under the GNU Free Documentation License. It uses material from the Wikipedia article "Niklas Luhmann".

※ちなみにルーマンを含む「社会システム論」の系譜については、次のブログの記事が参考になりそうなので、リンクを掲載しておく。「社会学しよう!:社会システム論」

「ルーマンの著作

ルーマンは法律から、経済、政治、芸術、宗教、環境学、マスメディア論、恋愛にいたるまで、さまざまなテーマで40冊近くの書物を書いている。その理論は米国社会学に多大な影響を与えているが、現在ドイツの社会学で主流であり、日本や、ロシアを含む東欧で特に受容されている。世界の他の地域での注目度が低いのは、部分的には翻訳の困難さによる。その著作は社会学者を含むドイツ人読者にとってさえ読み解くのが困難なためだ。

北米においてルーマンは、おそらく批判理論家のユルゲン・ハバーマスとの社会システム論の可能性についての論争で最もよく知られている。かつての師、タルコット・パーソンズのように、ルーマンは「グランド・セオリー」の擁護者であり、社会生活のあらゆる側面を普遍的な理論枠組でとらえようとする。彼の著作のテーマの多様性が、何よりもそのことを示している。ルーマンの理論は一般的には非常に抽象的だと見なされ、その著作は読解困難とされている。この事実が、彼の信奉者のややエリート主義的な行動や、その理論に含まれる政治的保守主義とあいまって、社会学の世界でルーマンを議論の的にしている。ルーマンに対する主な批判は、米国学術誌上での、ピユシュ・マーサーによるルーマンの一部の著作に対する詳細な解釈に見られる(「引用もされておらず、根本的でもない:二クラス・ルーマンの環境学的コミュニケーション」コミュニケーション・レビュー誌, 8: 329-362, 2005)。ルーマン自身、彼の理論を「迷宮のようで」「直線的ではない」と書いており、単純な誤解しか産みださない「早急な理解」を避けるために、自分の文章をわざと謎めいたものにしていると言っている。

ルーマンの理論

ルーマンの理論の中核要素はコミュニケーションである。社会システムはコミュニケーションのシステムであり、社会とは最も包摂的な社会システムである。社会システムはあらゆるコミュニケーションを包摂し、かつ、コミュニケーションのみを包摂しているので、今日の社会は世界的な社会となっている。システムはそれ自身とその環境の境界によって定義されることで、無限定な複雑さや(いわゆる)混沌、外部と区別される。

したがってシステムの内部は複雑さが低減されたゾーンとなる。システム内部のコミュニケーションは、外部で利用可能な全ての情報の限定された部分だけを選択することで行われる。このプロセスも「複雑性の低減」と呼ばれる。情報が選択され、処理される基準が意味(ドイツ語ではSinn)である。社会システムと物理的あるいは人的システムの両方が(これらの区別については下記を参照)、意味を処理することで作動している。

さらにそれぞれのシステムは、そのコミュニケーションの中で絶えず再生産される自己同一性によって区別され、何が無意味と見なされ、何がそうでないと見なされるかに依存している。仮に、あるシステムが自己同一性をの維持に失敗すると、システムとして存在することをやめ、それが発生した環境の中へ解消される。ルーマンはこのように、過剰に複雑な環境から、事前にフィルタリングされた要素から再生産されるプロセスを、ウンベルト・マトゥラナとフランシスコ・ヴァレラの認識論的生物学の用語を使って、オートポイエーシス(自己創造という意味)と呼んだ。社会システムはオートポイエーシス的に閉じており、その内部で環境からの資源に依存している。しかしこれらの資源はシステムの動作の一部をなしていない。思想も消化もコミュニケーションの重要な前提条件だが、どちらもコミュニケーションの中にはそのものとして現れない。

ルーマンはオートポイエーシスの動作(環境からの情報のフィルタリングと処理)を、一連の論理的な区別としてのプログラムになぞらえている(ドイツ語ではUnterscheidungen)。ここでルーマンは英国の数学者G.スペンサー=ブラウンの区別の論理を参照している。この区別の論理は、マトゥラナやヴァレラが早くからあらゆる認識プロセスの機能モデルとして採用していたものである。所与のあらゆるシステムの「自己創造」を導く最高の基準とは、二分法(二進数)を定義することであるとされる。

スペンサー=ブラウンのルーマンに対する影響はいくら評価してもしすぎることはない。スペンサー=ブラウンの著作『形式の法則』は、それまで知られていた論理というものをすべて無効にしようとしている。それにともない、スペンサー=ブラウンは本書の序文で自分自身を「宇宙で最も知的な書物」の著者だと称揚している。しかし、マトゥラナはスペンサー=ブラウン以前の論理を適用している。したがって、ルーマンが自らに真理があると主張しても、それは完全にスペンサー=ブラウンの主張に依存していることになる。マトゥラナはオートポイエーシスの問題でスペンサー=ブラウンと和解することはできない。そしてマトゥラナはルーマンの理論を裏付ける理論家として、ルーマンに引用されることをはっきりと断っている。

ルーマンは最初パーソンズの影響下でその社会システム理論を発展させたが、ほどなくパーソンズ的概念から身を引いた。最大の違いは、パーソンズがシステムを、単に社会の中で特定のプロセスが継続することを理解するための分析的道具としてしか利用しなかった点だ。それに対してルーマンは、彼のシステム観を存在論的に扱って、こう書いている。「システムは存在する」と。もう一つの違いは、パーソンズが、社会全体の機能に対して特定の下位システムがどのように貢献するかを問うのに対して、ルーマンが、未規定な環境からさまざまなシステムが自らをどう差異化するか、というところから始めている点だ。ルーマンも確かに特定のシステムが全体としての「社会」に貢献するための機能をどのように満たしているかを考察している。しかしこれは多かれ少なかれ社会全体を見わたすようなビジョンなしに、たまたま起こることだとしている。最後に、システムのオートポイエーシス的な閉鎖性が、パーソンズの概念とのもう一つの根本的な違いである。それぞれのシステムは厳密に自分自身のコードにしたがって動いており、他のシステムが環境をどのように認知しているかについてまったく理解をもたない。たとえば、経済学はまったく貨幣に関することであって、経済システムの内部には、道徳などの外部の観点に対する独立した役割はない。

ルーマンの理論で、一見特異だが、実は厳密に論理的な全体の枠組みにおさまっている公理の一つに、人間の位置づけがある。人間はあらゆる社会システムの外部に存在するという公理だ。あらゆる社会システムは「純粋なコミュニケーション」からなるため、(個人的あるいは物理的なシステムである)人間の意識を明らかに必要としているが、しかしながらそれは、環境的な資源として必要としているにすぎない。ルーマンの言葉によれば、人間は、まさに人間が会話の一部ではないのと同じように、社会の一部分でもなく、いかなる特定のシステムでもない。ルーマン自身、一度端的にこう語っている。「私は人々には興味がない」と。

ルーマンは20世紀初頭マックス・ウェーバーによって社会学に導入された非規範的な学問という理念に専念し、後にカール・ポパーの批判に対してその理念を再定義し、擁護した。しかし、社会に関する記述的理論と規範的理論を必ずしも厳密に分けない学界において、ルーマンの「反人間的」社会学は、最も有名なところではユルゲン・ハバーマスなどを含む「人間解放的な」科学者から広範な批判を受けている。」

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2006/09/18

宮台真司・速水由紀子『サイファ 覚醒せよ!』

宮台真司・速水由紀子著『サイファ 覚醒せよ! 世界の新解読バイブル』が2006/09/10に文庫化されていたので購入して読んでみた(ちくま文庫)。

(それにしても、いかがわしい自己啓発書のような題名はいただけない。宮台氏のパートナー、速水女史の発案に違いないが、サイファが「暗号」を意味する「cipher」だと分かる僕のような人間は別として、ふつうの人には「アレフ」と同じいかがわしさを与えるおそれが十分にある。速水女史の狙いなのかもしれないが...)

東京大学博士課程出身の気鋭の社会学者、宮台真司氏の著作で、僕がいちばん最近読んだのは『美しき少年の理由なき自殺』だが、僕の中では依然として、宮台氏の思想についての理解は、オウム事件直後に書かれた『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)の段階にとどまっていた。


つまり、個々人が自分のミニマルな欲望にしたがって生きる「まったり」した生き方を肯定する考え方だ。社会全体は、「島宇宙」のような趣味を同じくする無数の小さなグループに分断されて、個々人はその島宇宙の中で自分の存在理由や尊厳といったものを確認できればいい。それが宮台氏がこれからの時代を生きる処方箋として、提示した生き方だと理解していた(僕が誤解している可能性は高いが)。

しかし2000年に出版され、今回文庫化された『サイファ 覚醒せよ!』を読むと、宮台氏が社会の外側にある「世界」の存在を手がかりにして、島宇宙の散在という社会観から、明らかに一歩踏み出しているように読めた。書店で立ち読みしてそれがわかったので、購入してみたというわけだ。

おそらく宮台氏にその一歩を踏み出させたのは、『美しき少年の理由なき自殺』で書かれている宮台フォロワーの少年の自殺の一件らしい。この文庫版のあとがき(p.319)で、宮台氏自身がそう告白している。

宮台氏のいう「社会」とは、まさに氏の専門である社会学が対象とするコミュニケーションの全体としての「社会」だが、本書『サイファ』で、宮台氏は自覚的にその「社会」の外側にある「世界」を主題にしている。

あくまで社会学の枠内で宮台氏の考え方をフォローしてきた人たちにとって、社会の外側に広がる「世界」という視点は新鮮にちがいないので、いかがわしいタイトルは無視して、本書『サイファ 覚醒せよ!』を強くおすすめする。

しかし、高校生のときからフッサールの現象学を勉強し始め、大学でフランス現代思想をかじった僕にとって、本書で宮台氏がくりかえし確認している「世界の根源的な未規定性」はむしろなじみ深いものだ。

「世界」そのものを定義しようとすると、定義の根拠となるものをまず定義する必要がでてくる、といった「無限後退」におちいってしまう。これは西欧現代思想をかじっていれば、おなじみの考え方だ。宮台氏は本書の後半で、フッサールの「超越論的主観性」や、ゲーデルの「不完全性定理」を例としてあげている。

端的な訪れとしての世界、という『サイファ 覚醒せよ!』における宮台氏の「世界」観は、フランスの現代思想家、エマニュエル・レヴィナスの「顔」の概念も想起させる。

宮台氏はこの世界の根源的な未規定性という問題設定に気づくこと自体が、日本社会の同調圧力(みんな仲良く、同じでなければいけないという圧力)から自由になる手がかりだとしているが、残念ながら学生時代に超越論的主観性を学んだ僕にとって、フッサールの思想は、サラリーマン社会の同調圧力から自らを救う手がかりにはまったくなっていない。

ただ、だからといって、フランス現代思想に慣れ親しんだ者は、本書『サイファ 覚醒せよ!』を読む必要はない、ということにはならない。

宮台真司という、いまの日本にとって最も重要な思想家の転換点を理解することで、オウム事件以降、日本の社会も一つの重大な転換点をむかえているということを理解できるからだ。

とくに麻原彰晃の死刑が確定した今、オウム事件以降のこれからの社会に対して、宮台真司がどのような処方箋を提示しようとしているのか、それを理解するために、いったん本書でその転換点をおさえておく価値は十分にあるだろう。

ところで僕は『サイファ』以降の宮台氏の思想的展開として、さっそく『神保・宮台(激)トーク・オン・デマンドIII ネット社会の未来像』(春秋社 2006/01/25刊)を読み始めた。

『サイファ』でも宮台氏は東浩紀氏を高く評価している。この「愛と苦悩の日記」でも東氏の著作を取り上げたことがあるが、東氏は若手のデリダ研究者として実績を評価され、多方面で活躍している。この対談集でも東氏の興味深い意見交換を読むことができる。『ネット社会の未来像』については、読了したらまたここで触れてみたい。


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2006/08/26

高橋源一郎『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』

高橋源一郎の『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』(朝日新聞社)を読んだ。愛読者の期待を裏切らず、高橋源一郎にしか書けない、短編小説集、というより、「現代詩」集だ。

ぎりぎりまで切り詰められた、一見暴力的なまでに乾いた文体から、おさえがたくにじみ出る高橋源一郎ならではの叙情を、この短編集でも心ゆくまで堪能できる。なんでもない単語が、絶妙の空間をへだてて互いに響きあう。その余白・空間のコントロールの仕方が、高橋源一郎の職人芸だ。

最初に収録されている、絶望的なまでにモテない男女が、最終的にアダルトビデオの撮影現場で出会う物語は、まったく恋愛と無縁な人間がいかにして恋愛というものと遭遇を果たすか、恋愛が成立する極限の地点を描いて奇跡的だ。

世の中にあふれている恋愛小説は、少なくともどちらかが美男、美女であるか、人並みの容姿であることが暗黙の前提になっている。高橋源一郎はそういった暗黙の約束事にひそむ、恋愛小説の固定観念を自由に飛びこえる。そして、絶望的にモテない男女を主人公にして、恋愛小説を成立させるという、離れわざを読ませてくれる。

出版から一年半も遅れて手にとったのは、高橋源一郎ファンとしては不覚だったが、さすがとうならせる短編集だった。


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2006/08/24

克元亮さん著『ITアーキテクト x コンサルタント』公刊

執筆に参加した本が出版された。克元亮さん著『ITアーキテクト x コンサルタント 未来を築くキャリアパスの歩き方』(ソフトバンククリエイティブ(旧ソフトバンクパブリッシング)刊)である。

どの部分に参加しているかはあえて書かないが、著者の克元さんからお声をかけて頂き、執筆に参加する運びとなった。メールでインタビューに答え、ゲラ直しもメールという、メール完結型の執筆で、最小限の時間で参加させていただくことができた。

これだけの単行本をまとめるというのは、想像するに大変な作業で、克元さんの力量には頭が下がる。カバーも思ったよりもクールでシンプルなデザインになっているので、個人的にも仕上がりは気に入っている。

将来的なキャリアパスを真剣にお考えのシステムエンジニアの皆さんには、おすすめの一冊である。とくにITアーキテクトの役割は、今後ますます重要になるので、技術力を大事にしながら、上級システムエンジニアへのキャリアアップを考えている方には、参考になると思う。

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2006/08/17

伊坂幸太郎『重力ピエロ』

初めて読んだ『ラッシュライフ』のよくできた物語構造が面白かったので、伊坂幸太郎『重力ピエロ』を読み始めた。文体は簡素で読みやすいのはよいが、ネット上の書評で『ラッシュライフ』より良い作品だとあったのはウソだろう。

放火現場周辺の落書きも、各単語の頭文字が遺伝子の塩基配列になっていることが早々に分かってしまうし、この後、何を動機付けとして読み続ければいいのか分からない。もしも最後に意表をつくどんでん返しでもあれば、もう一度書評を書きたい。なければ、書評は以上である。

本当に面白い本に出会うというのは、なかなか難しいことだ。

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2006/08/14

伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』

キオスクで文藝春秋を買って、伊藤たかみ氏の芥川賞受賞作『八月の路上に捨てる』を読んだ。ここでいちいちあらすじを要約することはしないが、『リセットボタン』の読後感同様、男性と女性の感情のすれ違いが何気ない台詞や動作で非常に繊細に描かれている点は素晴らしいと感じた。

しかし、この作品が日本の小説に何か新しい観点や思想、文体、方法論ををもたらしたかといえば、それは全くない。ご存知のように文藝春秋には一人ひとりの選考委員の選評が掲載されているが、山田詠美女史の選評に、この作品は賞ねらいだと山田詠美女史が批判すると、河野多恵子女史が「狙って何が悪いと反論してきた、というグチっぽい下りがある。

たしかにこの作品の細部には、一見なげやりながらも実は余韻のある言葉の選び方といい、いかにも「ブンガク」然としたところが濃厚にあり、読後も「ああブンガクを読んだ」という充実感にひたれる。そのあたりが山田詠美女史が「賞ねらいだ」と言いたくなる理由に違いなく、前衛性はかけらもない。

他のほとんどの選者に共通していた意見は、どうして最近の日本の若い人が書く小説にはビョーキの人間ばかりが出てくるのだ、というもので、『八月の路上に捨てる』でも主人公の男性が離婚を決意した妻は、病名は出てこないが、強迫神経症のような行動をとり、それが離婚の一因になっている。その他の候補作にも神経症やPTSDの人物が登場するらしい。

たとえば僕の好きな高橋源一郎の作品にも、ヘンな人物はたくさん登場するのだが、その描写が突き抜けていて、誰もが一種の神々しさを放っている。ブンガクが現実の閉塞感に敗れてしまうなら、ブンガクの可能性とはいったい何だろうか。高橋源一郎の作品はブンガクがはらむべき倫理性について、そう読者に語りかけてくるのだが、伊藤たかみ氏の作品には、そいういうところが全くない。

ブンガクにおける前衛とは、現実を突き抜けた自律性を作品の中で確立できているか(高橋源一郎の場合はそれが「神々しさ」として現れてくるのだと思うが)、そこにあるのではないかと考えた。

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2006/08/10

伊坂幸太郎『ラッシュライフ』

伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮文庫)を読んだ。物語の構成が奇跡的なほどよく出来た小説だ、という感想を持ったのは、僕がミステリーを読まないせいかもしれない。ミステリーを読みなれている読者であれば、この小説に「構成の妙」以外の素晴らしさを真っ先に見出すのかもしれないが、僕にとっては第一に物語の構成が信じられないくらいよくできた小説だ。

5つの物語が、それぞれの物語の主人公がそれと気付くことなく、接点を持ちながら並行して語られるのだが、それぞれの物語が同じ日時のことを語っているのではなく、実は時間に前後関係があり、それが最後の方になってだんだんと分かってくる、しかも、物語どうしの入り組み方を暗示するように、エッシャーのだまし絵がモチーフとして使われているとう、とにかくこれ以上凝りようがないほど、凝りに凝った物語構成をもっている。この物語構成の巧みさを楽しむためだけでも十二分に読む価値のある小説だ。

次に気付いたのは、死体をのこぎりでバラバラにしたり、殺人を企図する連中がいたり、若者が失業者を殴りつけたり、暴力的な場面が決して少なくないにもかかわらず、強い倫理観に裏付けられた作品だという点である。それは最後の最後をお読み頂ければわかる。「人間にとって本当に大切なものは何か」という問いに対して、伊坂幸太郎は愚直なほど前向きな答えを提示している。

そのせいで、決して幸福とはいえない登場人物たち、というよりむしろ、不幸のどん底と言ってもいい登場人物たちばかりであるにもかかわらず、読後感は爽快だ。

夏の新潮文庫の100冊キャンペーンで、かわいいパンダのマスコットがもれなくもらえるというので、どれを読もうかと選んだ2冊が、スティーブンソンの『ジーキル博士とハイド氏』と『ラッシュライフ』だった。『ジーキル博士とハイド氏』も古典ながらミステリー的な展開をもった物語だが、『ラッシュライフ』は思わぬ拾い物だった。

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2006/07/16

伊藤たかみ『リセット・ボタン』と自作の小説(未完)

伊藤たかみという角田光代の夫だという人物が芥川賞を受賞したらしいので、近所の図書館で受賞作の掲載されている文学界6月号を探したが貸出し中だった。Amazon.co.jpでは『ミカ!』が唯一の文庫のはずなのに、近所の図書館にはなぜかその文庫も単行本もなく、幻冬舎文庫に『リセット・ボタン』という書き下ろし作品があったので、そちらをロッテリアで1時間ほどで読了した。

今から6年前、インターネットの自殺サイトが話題になった頃に書かれた作品と思われるが、主人公が昔の恋人の名前を、偶然、自殺志願者の集まる掲示板で見つけたことから物語ははじまる。

主題は自殺についての人それぞれの考え方であり、基本的に自殺は人間の自由であるということが肯定されている。主人公のミサは最後、本当に自殺したのかどうか、分からない結末になってはいるが、自殺は人間の自由であるという考え方は否定されていない。

物語は最後のデパートのトイレの個室に行き着くくだりは、ややご都合主義的だけれど、登場人物の配役がよくできている。自殺についてのさまざまな考え方が、それぞれの登場人物によって表象されているので、全体として自殺をめぐる一種の寓話としてきれいにおさまっている。

人物どうしの距離感は、微妙な共感から暴力的な対立まで、かなり繊細に書き分けられている点がすばらしいと感じた。

ただ、阿部和重のような前衛性はまったくないし、絲山秋子のように純文学と思わせていきなりファンタジーが入り込んでくるような、技巧性もまったくない。『リセット・ボタン』という作品に限って言えば、自殺という重い主題をはかない恋愛の物語で一気に読ませている点で、芥川賞的というよりは直木賞的だ。

自殺志願者が集まるサイトが話題になった頃、実は僕もひとつ物語を思いついて書き始めたが、最後まで書く気力が続かなかった。巨漢の若い女性が人生に絶望して、インターネットで同年代の女性が呼びかけていた、自動車で練炭をつかった一酸化炭素中毒による集団自殺の誘いにのる。

決行日は偶然クリスマスイブで、朝のラッシュと反対方向の電車に乗って、待ち合わせ場所の郊外のファミリーレストランに着いてみると、自分以外の3人は、彼女からすればなぜ自殺する必要があるのか理解できないような、華奢で美しい女性たちだった。

その時点ですでに彼女は残りの3人の同情的な視線を感じたが、軽自動車のバンで決行場所と決めていた山奥へ車が進むにつれて、真冬の車内でひとり汗だくになっている自分の醜悪さに耐え難くなり、おトイレを口実に車から降ろしてもらい、そのまま雪の降り始めた山道をあてどなくさまよい歩くうちに意識を失う。

目覚めた場所は清潔な病院のベッドで、真冬の山中に数日間放置されていたために重い肺炎にかかって点滴を打たれていた。意識がもうろうとしたまま1週間入院して、ようやく自宅に帰った彼女は、ネットでニュースを検索して、クリスマスの早朝にあの山中で残りの3人が集団自殺を遂げていたことを知る。

彼女は死神にさえ見捨てられた悔しさに、今度こそ集団自殺を成功させるためとダイエットを始める。バイト代をジム通いの費用につぎこみ、数十キロの減量に成功。ふたたび集団自殺のサイトを訪問して、女性だけでの集団自殺の呼びかけに参加し、いよいよ決行を明日に控えた夜。

通いなれた近くのコンビニを久しぶりに訪れ、この世の最後の思い出に、巨漢だったころは決まって3箱買っていたチョコチップ入りビスケットを、1箱だけとってレジに向かうと、レジにいた大学生風のさえない男が、「あと2箱はぼくからです」といって、ありふれたラッピングのほどこされたビスケットをいきなり手わたされた。その日はたまたまホワイトデーだったというわけだ。

彼女は憮然としてそのプレゼントをつき返すと、逃げるようにコンビニを出て自分の部屋に帰る。よりによって、ようやく死ねるという前日にこんな風にからかわれるとは。悔し涙が枯れた顔をあげて鏡をのぞくと、そこにあったのは、見なれた醜悪な巨漢の女ではなく、あのクリスマスイブの夜に、ファミレスで自分に冷たい視線を投げても不思議でないような、どこにでもいる華奢な女だった。

彼女は鏡に映った自分の姿に唖然として、涙をぬぐいながら、あわててコンビにへ向かった。おそらく毎日自分が変わっていくのを見ていたであろう、あの大学生風のレジの男から、あのプレゼントをあらためて受けとるためだ。いつの間にか自分が人を傷つける方の立場になっていることに、彼女ははじめて気づいた。そして同時に、自分のような人間でも、人の気持ちを受けとることができるのだということも。

...そういうお話を思いついた。タイトルは『ビューティフル・スーイサイド』で、基本的にハッピーエンドのお話だ。やはり僕個人としては、伊藤たかみ氏のように、自殺を人間の自由だと肯定することは倫理的に難しい。『リセット・ボタン』についても、実際にはミサは自殺などせず、インターネット上で自殺を完遂したかのような演技をしていただけだという解釈をとりたい。


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2006/05/16

すごいことになっている筑摩書房の文庫新刊

職場の近所の紀伊國屋書店をぶらぶらして気づいたのだが、先月・今月の筑摩書房の文庫の新刊はすごい。斎藤環『戦闘美少女の精神分析』、木村敏『自己・あいだ・時間 ―現象学的精神病理学』、ミシェル・フーコー『フーコー・コレクション1 狂気・理性(全7巻)』、ジークムント・フロイト『あるヒステリー分析の断片―ドーラの症例』。精神分析関連書のオンパレードだ。『自己・あいだ・時間』なんて、単行本で4,000円以上もしたのに、文庫化である。文庫化。

さっそく斎藤環『戦闘美少女の精神分析』を読み始めた。


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2006/05/04

魚津郁夫著『プラグマティズムの思想』

魚津郁夫著『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫)を読んだ。『国家の品格』は明らかに反米色が強いが、藤原正彦氏の「論理には限界がある。だから論理以外のもの、つまり『情緒』でバランスをとるべきだ」という主張には僕は賛成できない。

俗っぽい表現をすれば、論理に限界があるからこそ、論理を突き詰めなければ、本当のことは見えてこないと考える方が、「武士道」って感じがするからだ。論理がダメだからって、さっさと論理から逃げるのは、やはり「武士道」に反する「卑怯」なのではないか。

藤原正彦氏が嫌いな米国を、根っこのところで支えているのがプラグマティズムという考え方で、『プラグマティズムの思想』はそのコンパクトな入門書になっている。もともと放送大学のテキストとして書かれているので、哲学史にくわしくない人にもわかりやすく書かれている。『国家の品格』の考え方に疑問をもっている人にはおすすめの本だ。

魚津氏はプラグマティズムの肝になる考え方を、C・S・パースという思想家の「可謬主義」だとしている。「認識能力に限りのある私たち人間は誤謬をおかす可能性をつねにもっている」という考え方だ。

人間は仮説と検証を重ねることで自己修正し、より確かなものへと少しずつ近づいていくことができる。しかし、絶対に確かなもの(=真理)というのは、無限の検証のくりかえしの先にしか見つからないので、実際にはそこにたどり着くことはありえない。

では、そのような探求をつづけることで、人間が「ひとつのおなじ結論に導かれる」のかと言えば、同じプラグマティズムでも思想家によって意見がわかれるようだ。

パースはひとつのおなじ結論に導かれると考えたが、クワインという思想家は、観点によって真理の定義は異なると考える。そしてローティーという思想家は、さらにおしすすめて、真理を見つけるのが探究の目的だと考えること自体を否定し、異質な個人どうしが会話を継続することが哲学だと主張する。

真理について見解は分かれているが、プラグマティズムが論理の限界を認め、だからこそ検証や会話を重ねていくことで、一歩ずつ確かなものに近づこうと言っている点は、すべての思想家に共通している。

論理には限界があるからこそ、検討や会話が必要なのだから、論理に限界があるからといって、手っ取り早く論理をすっ飛ばしてしまったのでは、かえって論理の限界をそのままにしてしまうことになる。

残念ながら人間は論理から完全に逃げることはできない。であれば、論理の限界を少しでも減らすために、論理的な検証や会話をつづけることこそ、正しい方法ではないのか。『プラグマティズムの思想』を読んで、あらためてそう考えた。


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2006/04/30

敢えて「敢えて藤原正彦氏を弁護する」に反論する

とある読者の方から、藤原正彦著『国家の品格』を擁護するブログをご紹介いただいた。Leiermann氏の「Niemals-Gasse」というブログだ。その記事はこちらの「敢えて藤原正彦氏を弁護する」である。

Leiermann氏の藤原正彦擁護をひとことで要約すると、氏の書くものはすべて「寝言ポエム」だから、そもそも真面目に反論するに値しない、となる。「寝言ポエム」という言葉は知らなかったが、はてなダイアリーのキーワード定義によれば、「カフェやモスバーガーの店先によくあるような、店員によって黒板に書かれた、自意識過剰で上滑りした見るも痛々しいひとことポエム。うっかり読むと体感湿度が上昇する」とのことだ。

大阪のお笑いが好きな方に分かりやすく言えば、藤原氏のエッセーはすべて、ひとりボケ、ひとりツッコミなのだから、真面目に反論すること自体、藤原氏の「主張の最も重要な部分」、つまり「自然言語における論理の限界の指摘」をかえって肯定することになるというわけだ。

しかし、Leiermann氏自身がこの記事への「ヒンカク」氏のコメントに対する返答の中で認めているように、「しかし現在、その『床屋政談』レベルの話が真面目に受け止められてしまっているし、藤原氏がそれを敢えて押しとどめようとしないという現実は確かにあります。問題があるとすればそこだと思います(この件に関しては、当該記事を書いた当初は無自覚で、hazama-hazama 氏に指摘されて気付いた次第です)」

つまり、Leiermann氏のように、余裕をもって藤原正彦氏のエッセーを楽しめる知的水準にある「エリート」は非常に限られているのだ。Leiermann氏は、藤原正彦氏のエッセーは「何とも言えぬ諧謔味を醸成し、多くの愛読者を獲得しているわけである」としているが、それは事実に反している。

Leiermann氏は大学院生のようだから、ごく普通の民間企業につとめる僕とは全く違う環境で生活している。大学に残って研究を続ける人は「大学の研究者だって会社員と大して変わらず俗っぽい」とよく口にするが、申し訳ないが、民間企業の研究開発部門以外の部門で働いた経験のない人たちに、自ら「エリート」であることを否定する権利はない。

「エリート」ではない一般の日本人の大半が『国家の品格』を「真面目に」うけとっているの、はれっきとした事実である。

全国紙に掲載される『国家の品格』の広告に登場する読者の感想も、あえて「真面目な」反響にしぼられている。出版社やマスコミは決して『国家の品格』を、藤原氏一流の諧謔としては取り上げない。藤原氏がゲストとしてフジテレビ日曜朝の報道番組に出演したときも、竹村健一氏は『国家の品格』をあくまで「真面目に」紹介しているのである。『国家の品格』を良書と考える一般の日本人の大半は、藤原正彦氏の議論を「真面目に」うけとめているのだ。

僕が『国家の品格』に「真面目に」反論する理由はまさにここにある。一般の日本人は藤原正彦氏のエッセーを「真面目に」うけとめているのだから、それを解毒するには、僕のような「エリート」と一般人の中間にある人種が、藤原正彦氏を「真面目に」やっつけなければならないのだ。

Leiermann氏のような「エリート」に対してあえてキツいことを書くとすれば、「エリート」が藤原氏のエッセーを知的諧謔だと悦に入って「真面目に」とりあわないことは、「エリート」としての知的誠実さを欠いている。

たとえば僕の大学時代の師である高橋哲哉氏のように、飽くことなく「真面目に」靖国問題を議論しようとしている「エリート」と比較すれば、残念ながらLeiermann氏が知的誠実さを欠いていることを指摘せざるをえない。

Leiermann氏の書いているように「実際この本を錦の御旗にして、自説の補強に使っている俗物が社会の上層部に多くいるのは確か」であり、のみならず、この本を時節の補強に使っている俗物は社会の中層部にも下層部にもたくさんいるのだ。

Leiermann氏の擁護は、藤原正彦氏のエッセイストとしてのスタイルの解説にはなっても、エリートの一人として氏が知的誠実さを欠いていることの言い訳にはならない、ということだ。この意味でも、藤原正彦氏の方法論はやはり「卑怯」だと言わざるを得ない。

この記事も真面目すぎる内容で申し訳ない。

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2006/04/25

『国家の品格』の市場原理主義批判に見る藤原正彦氏の「卑怯」

『国家の品格』第一章では、先日、ほぼ完全に誤っていると指摘した実力主義批判とともに、「市場原理主義」の批判もおこなわれている。これについては日本経済新聞が「核心」というコラムで取り上げ、その時代錯誤を非難していることをご紹介した。

ここでも藤原正彦氏の市場原理主義批判が、どれほど間違っているかを指摘しておきたい。

「何でも市場に任せれば一番効率的であり、国家の介入は出来るだけ少ない方がよい。少しオーバーに言うと、経済に限定すれば国家はいらない。国家は外交、軍事、治安などを行うだけでよいということです」(p.27)

この部分は先日紹介したウォルター・ブロック著、橘玲訳『不道徳教育』が主題として取り上げているリバタリアニズムの正しい要約になっており、問題はない。続きを読んでみよう。

「市場原理主義の前提は、『まずは公平に戦いましょう』です。公平に戦って、勝った者が利益を全部とる。英語で言うと『ウイナー・テイクス・オール』というものです。公平に戦った結果だから全然悪いことはない。勝者が全部取って構わない。こういう論理です。」(p.27)

藤原正彦氏は国語教育の重要性を説いているわりに、非常にいい加減な言葉の使い方をするのだが、ここで藤原氏の言っている「公平」という言葉の意味がよくわからない。「同一の経済的・物理的条件」という意味なら市場原理主義に反するので、おそらく「機会の平等」と理解するのが適切だろう。

ある事業分野への参入をさまたげるものがなく、誰もが必要な資金さえあれば競争に参加できる。それが市場原理主義の前提である。藤原正彦氏は、そうして競争が始まると必ず最後には一つの企業が競争に勝ち、すべての利益をとる、つまり独占状態になると書いているが、これがデタラメというか、藤原氏の単なる被害妄想であることは分かりやすい。

むしろ市場原理主義がちゃんと機能している市場においては、理論上独占は起こらない。マイクロソフトでさえ基本ソフト市場を独占しているわけではない。パーソナルコンピュータ市場という風に市場の範囲をあえて狭くとらえれば、独占と見えるかもしれないが、サーバ機、メインフレーム、携帯電話、家庭電化製品など、基本ソフトの必要なあらゆる機器を広くとらえると、マイクロソフトの独占はまったく成立していない。

基本ソフト市場は、市場原理主義によって新たに企業が参入し、基本ソフトを必要とする機器の種類そのものが広がっていくことで、マイクロソフトのような巨人の独占は徐々に切り崩されていく。マイクロソフトでさえ気づかない隙間市場を目ざとく見つけ出し、そこから儲ける起業家は必ず出てくるし、オープンソースのようにソフトウェアの生産過程そのものを変革しようという新しい発想も新たな市場を開拓する。

一人の人間、一つの企業の発想や技術革新には限界があっても、市場原理主義によって新規参入の機会が確保されている限り、その限界を打ち破る企業が必ず出てくる。それによって独占・寡占が固定化されることはありえない。それが市場原理主義である。

むしろ独占が成り立ちやすいのは、鉄道やユーティリティ(電気・ガス・水道)などの社会基盤事業だが、これらは膨大で長期にわたる設備投資が必要で、そもそも参入機会が非常に制限されているため市場原理主義が機能しない事業である。「ウイナー・テイクス・オール」という状況は、藤原正彦氏の議論とはまったく逆で、市場原理主義が働かない事業領域でこそ起こってしまうのだ。

もう少しこのあたりの議論を、リバタリアニズムの立場から敷衍したWebサイトがある。永井俊哉ドットコム「至上原理としての市場原理」だ。

さらに藤原正彦氏は続けている。

「しかしこの論理は、後ほど詳しく述べる『武士道精神』によれば『卑怯』に抵触します。大きい者が小さい者と戦いやっつけることは卑怯である。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。武士道精神はそう教えています。しかし市場原理主義ではそんなことに頓着しません。一本道のような論理で、全体を通してしまいます」(p.27~28)

すでにお分かりのように、むしろ市場原理主義は新規参入の機会を確保することで、小さいものが大きい者と互角に戦う機会を与えてくれるのだ。大企業からは生まれないような斬新な発想や、あまりに市場規模が小さく、大企業が手を出しても無意味だと考えるような隙間市場では、中小企業は大企業を打ち負かすことさえできる。

しかし藤原正彦氏が『国家の品格』の中で「卑怯」を取り上げるたびに登場する、「大きい者」「小さい者」「強い者」「弱い者」とは一体どういう意味なのだろうか。

市場原理主義の文脈でふつうに考えると「大きい者」=大企業、「小さい者」=中小企業となるが、藤原正彦氏の武士道精神に忠実にしたがって、仮に大企業が中小企業と戦うことをやめたらどうなるのだろうか。例えば大型スーパーは、地方のさびれた商店街の近くに出店しないとしたらどうなるか。大型スーパーだけでなく、大手小売業者のインターネット通販も規制する必要があるだろう。

そうするとその地方に住む人々の生活の利便性が損なわれ、大型スーパーに比較して割高な商品を購入しなければならなくなる。それがその地方に住む人たちの実質的な生活水準を押し下げるとすると、それは商店街全体の売れ行きに影響する。

他方、出店機会を失われた大型スーパーチェーンは、売上を伸ばすことができないため、従業員の給料を減らすか、解雇するかを迫られる。今度は大型スーパーの従業員が「弱い者」の地位に落ちてしまうのだ。

こんなことくどくど書くまでもなく、経済というのはそこに参加している人たちや企業が交換を通じて、時々刻々と「大きい者」になったり「小さい者」になったり、「強い者」になったり「弱い者」になったり、徐々に変化していく世界である。

そのような変化があるからこそ、「小さい者」や「弱い者」が「大きい者」や「強い者」になる機会が開かれているのであって、それこそが市場原理主義の最大の利点だ。

先日も書いたように、藤原正彦氏の言う「武士道精神」の「卑怯」という概念は、「大きい者」「小さい者」が永久に固定されている世界を考えなければ成り立たない概念なのである。女性は女性として永遠に弱い者である限りにおいて、男が女を殴るのは「卑怯」なのだ。

すると残る問題は、いつのタイミングで「強い者」と「弱い者」を固定するのかということになる。この点で藤原正彦氏の卑怯さが際立ってくる。藤原正彦氏は、自分がベストセラーのエッセイストであり、お茶ノ水大学という権威ある学府の教授であることを自覚している。保守論客としてさまざまなマスメディアでの発言力を持ち、明らかに「強い者」である。

自分自身が「強い者」となっている今、この状態を固定化してしまえば、自分自身は永久に「弱い者」を庇護する立場に立つことができる。愚かな国民たちを高みから見くだし、「強い者」の立場から「武士道精神」という高尚な価値観を説いて、衆愚の蒙昧を開いてやることができる。

結局のところ藤原正彦氏は、自分にとって都合の良い現状を固定化するために、実力主義や市場原理主義など、現状にゆさぶりをかけるような動的な制度を憎悪しているだけなのだ。これが「卑怯」でなくて何だろうか。


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2006/04/24

いよいよ全国紙が藤原正彦氏『国家の品格』批判を開始

今日の日本経済新聞朝刊5面の「核心」というコラムで、日本経済新聞社のコラムニストが藤原正彦氏『国家の品格』を強烈に批判していた。そろそろ日経新聞のようなマスメディアも、藤原正彦氏を正面から批判する気になってきたということか。

「核心」の論旨は次のようなものである。江戸時代の日本はアダム・スミスが市場原理を理論化する以前から、すでに国内で市場原理にもとづく交易がさかんに行われていた。

「ベストセラーになった『国家の品格』で、著者の藤原正彦お茶の水女子大教授は『経済改革の柱となった市場原理をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化』が損なった日本の品格を『武士道』精神の再興で取り戻せと訴える」

「『市場』活用の長い歴史を持つこの国(=日本)で、改革の試みを十把一絡げに『米国流の市場原理主義』と切り捨てるのは、福沢(諭吉)から日本の商人の例で市場メカニズムの説明を受けながら『西洋の流儀はキツイものだね』と評した幕府高官の現代版ではないか、と思う」

藤原正彦の議論はそうとう胡散臭いぞ、というごく常識的な認識が、日本経済新聞のような全国紙から少しずつ広がっていくことをぜひとも期待したい。そうしやって一人でも多くの日本人が、ありきたりの論理的思考能力と、何よりも「良識」を取りもどし、あの『国家の品格』という奇妙奇天烈なベストセラーはいったい何だったのだろうと、冷静にふり返ることができる日が、一日も早く来てほしいものだ。

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2006/04/23

ほぼ完全に間違っている『国家の品格』の「実力主義」批判

『国家の品格』第一章では、実力主義、資本主義、市場原理主義など、経済の領域での欧米型の考え方がほぼ全否定されている。しかし藤原正彦氏の議論は、ほぼ完全に間違っている。

第二章では、これらの主義を成り立たせている「論理」そのものは全否定されておらず、「論理」だけではダメだという、単なる相対化にとどまっている。ところが第一章の資本主義、市場原理主義に対する藤原正彦氏の攻撃は、ほとんど感情的ともいえる激しさだ。

「実力主義を本当に徹底し始めたらどうなるでしょうか。例えば同僚は全員ライバルになります。ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる。教えたら最後、自分が追い落とされてしまいます。したがって、いつも敵に囲まれているという非常に不安定な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまうのです」(p.25)

この部分など、民間企業で働いた経験のない大学教授らしい、ほほえましいほど素朴な実力主義批判だ。「徒競走で差をつけるのはいけない、みんないっしょにゴールさせましょう」と言い張る小学生教諭と大差ない。

現実には、同期入社どうしのもっとも激烈な実力主義競争にさらされたのは、最近、実力主義がうるさく言われてからの新入社員たちではなく、はるか昔、団塊の世代が新入社員だったころのことだ。何しろ「同期」の人数がケタ違いである。団塊の世代は、大企業であれば何千人という同期入社の中で、出世競争を勝ち抜くために長時間労働を強いられた。

それでも藤原正彦氏が批判するような実力主義の弊害があらわれなかったのは、職位や金銭以外で社員に報いる制度があったからだ。つまり、一生懸命働いていれば、たとえ出世競争で同期に敗れたとしても、一定の満足のいく内容の仕事が与えられる。高橋伸夫氏が『虚妄の成果主義』で書いている未来傾斜式の考え方だ。現時点の金銭ではなく、未来に与えられる仕事の内容で、従業員に報いる、とても日本的なシステムである。

つまり、藤原氏が恐れるように、今さら実力主義を徹底しなくても、日本企業は団塊の世代が新入社員だった時代からすでに実力主義だったのであり、今ごろになって「同僚は全員ライバルになります」と騒ぎ立てるのはまったく筋違いだ。

「ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる」という部分からも、民間企業の人事評価制度が上司と部下のそれぞれに何を期待しているか、藤原正彦氏がまったくの無知であることがよくわかる。

藤原正彦氏は、一つの企業組織の内部での競争のことしか考えていないようだ。しかしすべての民間企業は、企業どうしでも競争している。むしろ企業どうしの競争で優位に立つための手段として、社内で適切な競争が行われるように、人事評価の制度を作っているのだ。

もし本当に「ベテランが新入りにノウハウを絶対に教えなく」なったらどうなるか。たしかにその企業の内部だけを見れば、ベテランは新人に自分たちの地位を奪われる心配をすることなく、安心してその地位に居座れるだろう。ところがそんなことをしてしまうと、次の世代の会社を担う人材がいつまでたっても育たず、他の企業との競争に敗れてしまう。他の企業との競争に敗れれば、ベテランだけでなく、新入りまでが職を失い、路頭に迷うことになる。

だから普通の民間企業では、ベテランたちには新人を育成する職務が与えられており、その職務を怠るとマイナス評価される。「新入りにノウハウを絶対教えない」ようなベテランは、新入りに追い落とされる代わりに、人事評価制度を通じて会社に追い落とされるのだ。

民間企業で働いている会社員なら誰もが知っている、こんな当たり前のことさえ藤原正彦氏は認識していない。にもかかわらず、恥ずかしげもなく、さも実力主義が完全悪であるかのように書いているのだ。さらに続けて藤原正彦氏は書いている。

「世界中の人々が賛成しようと、私は徹底した実力主義には反対です。終身雇用や年功序列を基本とした社会システムを支持します」(p.25)

ここでも藤原正彦氏は大学教授ならではの無知をさらけ出している。終身雇用と年功序列が、どうして実力主義と両立しないと言い切れるのだろうか。むしろ実力主義を徹底しなければ、個々の企業は終身雇用や年功序列を守れない、というのが真実ではないのか。

一度入社した従業員に出来るだけ長く会社に残ってもらおうと考えたとき、一人ひとりの実力にかかわらず全員に同じ給料を支払ったら、何が起こるだろう。給料が実力に見合わないと考える人は転職するだろう。逆に、会社の資金力を無視して、すべての従業員に高すぎる給料を支払い続ければ、会社が存続できなくなり、結果として終身雇用を維持できなくなる。

年功序列についても同じことが言える。年功序列が意味を持つのは、その企業固有のノウハウや暗黙知は、その企業の中で長く働けば働くほど身につくという考え方があるからだ。そして企業固有のノウハウや暗黙知といったものも、れっきとした「実力」の一つである。

そうした「実力」を評価するからこそ、給料の一部分をその企業での勤続年数に比例させる。それが年功序列である。年功序列とは、従業員の実力を正しく評価するための一つの手段なのだ。この観点からの実力主義を徹底させれば、藤原正彦氏の望みどおり、年功序列は強化される。

このように、実力主義があるからこそ、企業の終身雇用や年功序列が可能になるのである。藤原氏の実力主義批判は、ほぼ完全に間違っているということがお分かりいただけるだろう。

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2006/04/22

差別の固定を正当化する藤原正彦氏の「惻隠の情」(後編)

そして「平等」という概念が単なるフィクションであることを論じる箇所でも、女性との関係が登場する。

「私は小学生の時から勉強はめざましく出来ましたが、女性にはいっこうにもてませんでした。いまだに何とかならないかと思っておりますが、世界中の女性の目がくもっているので、なんともなりません。そのうえ絵の才能は小学校からずっと通信簿で『2』でしたし、中高六年間続けて多少は自信のあるサッカーも、ベッカムの足元にも及ばない。夫婦喧嘩では女房にすら敵わない。人の能力はなにひとつ平等ではないのです」(p.89)

まだ『国家の品格』をお読みでない「think or die」愛読者の方々は、藤原正彦氏のひどく「品位」を欠く議論が、いい加減バカらしくなってきたと思うが、いましばらくお付き合い頂きたい。

藤原氏が「平等」という概念に代わるものとして擁護するのは、武士道の「惻隠の情」である。そもそも「平等」とは、差別を撲滅するために生み出された概念だと藤原氏は考えているようだ。

「差別に対して『平等』という対抗軸を無理やり立て、力でねじ伏せようというのが、闘争好きな欧米人の流儀なのです。(中略)我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などはなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」(p.91)

このような「平等」についての議論から、藤原正彦氏が、女性に「弱者」であってほしいと望んでいることは容易に読みとれる。女性に限らず、差別される者が「弱者・敗者・虐げられた者」でなければ、「惻隠の情」の必要性そのものが成り立たなくなってしまうからだ。

これは非常に危険な考え方である。というのは、もし差別される者が「弱者・敗者・虐げられた者」の地位から抜け出そうと努力しはじめたとき、藤原正彦氏は「惻隠の情」をどうするつもりなのだろうか。「闘争好きな欧米人の流儀」で、差別される者たちが立ち上がっても、「惻隠の情」はまだ有効なのだろうか。

「差別を本当に撲滅しようとするなら、平等という北風ではなく惻隠という太陽をもってしなければなりません」(p.91)

女性は「弱者」で哀れむべき存在であるからこそ、「思いやり」という「太陽をもってしなければ」ならない。らい病患者は「虐げられた者」だからこそ「惻隠の情」の対象に値する。

もうお分かりのように、藤原正彦氏のいう差別の解決策「惻隠の情」は、差別される者が、永遠に差別される者である限りにおいて、有効な解決策なのだ。差別される者たちが自ら差別と戦うために立ち上がったとき、彼らはもう「弱者」ではなくなり、「惻隠の情」や「思いやり」という「太陽」をほどこしてやることもできなくなる。

女性たちが黙って「弱者」の地位に甘んじてさえいれば、「惻隠の情」をほどこしてやるのに、下手に自己主張などするからいけないのだ。自分が女性にもてないのは、女性の方が自由を主張するからである。藤原正彦氏の女性観は、「惻隠の情」という考え方に端的にあらわれていると考えていい。

藤原氏の書いているように、欧米の「平等」という概念が「闘争的」なのだとすれば、それは、差別される者がその地位から抜け出す権利を認めているからだ。差別される者は、「惻隠の情」などといった余計なおせっかいをふり払って、その地位から抜け出す権利がある。

ちなみに、藤原正彦氏は第三章で「エリート」養成の必要性を論じているだけでなく、第七章ではインドのカースト制を「国家の品格」の一例としてあげている。「惻隠の情」は、差別する者、差別される者が固定されていてはじめて成立するのだから、当然といえば当然だ。

そして藤原正彦氏は「自由」という概念もフィクションにすぎないとしりぞけるが、その箇所でまたもや女性との関係を持ち出す。

「私が、好きな女性に接近する自由を行使すると、その女性は必ず私から遠ざかる自由を行使する、というのが私のこれまででした。自由と自由が衝突しなかったら、私は夢のような人生を送れたはずだったのです」(p.93)

藤原正彦氏が「自由」「平等」という概念をしりぞけるのは、自由と自由が衝突して結局どちらかが不自由になるから、平等と平等が衝突して結局不平等になるから、という理由だ。

つまり、完全な自由も、完全な平等もないという事実を理由に、自由と平等をかんたんに捨て去り、代わりに「惻隠の情」を持ち出している。女性が自由を行使しなければ、女性が平等を主張をしなければ、女性に「惻隠の情」をもって対することができるのに、差別される者が自由や平等を主張するから、「惻隠の情」が成り立たなくなってしまう。藤原正彦氏はこのように主張しているように見える。

第五章、武士道精神の復活を主張する章で、藤原正彦氏は幼いころ自分に武士道の考えをたたきこんでくれた父親(作家・新田次郎氏)に感謝して書いている。

「しかも、父の教えが非常に良かったと思うのは、『それには何の理由もない』と認めていたことです。『卑怯だから』でおしまいです。で、私はその教えをひたすら守りました。例えば『男が女をぶん殴っちゃいけない』と言ったって、簡単には納得しにくい。現実には、ぶん殴りたくなるような女は世界中に、私の女房を筆頭に山ほどいる。しかし、男が女を殴ることは無条件でいけない。どんなことがあってもいけない」(p.127)

なぜ藤原正彦氏は女を殴りたくなるのか。それはこの直前に書かれてある父の言葉にはっきりと書かれてある。

「父は『弱い者を救う時には力を用いても良い』とはっきり言いました。ただし五つの禁じ手がある。一つ、大きい者が小さい者をぶん殴っちゃいかん。(中略)三つ、男が女をぶん殴っちゃいかん」(p.127)

男は女より無条件に大きく、強い者だから、弱き者である女性を絶対にぶん殴っちゃいかんのである。つまり、藤原正彦氏が女を殴りたくなるのは、弱き者であるはずの女が強く見えることがあるからなのだ。

女性は永遠に弱き者である限りにおいて、武士道の「惻隠の情」の庇護の対象になる。そして弱き者であるから、真剣にとりあうに値しない。女性との関係は私的な領域に押しこんでおいて、必要に応じてユーモアのネタとして使えばいい。それによって公的な領域である『国家の品格』の本論・骨格が揺るぐようなことはない。

ところが、以上に見てきたように、藤原正彦氏は自分の女性観をうっかり漏らすことで、自分の武士道擁護論がきわめて危険な差別固定化の思想を孕んでいることを露呈してしまっている。エリートである藤原正彦氏にとって、やはり女性との関係はつまずきの石(スキャンダル)になっているようだ。

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差別の固定を正当化する藤原正彦氏の「惻隠の情」(前編)

『国家の品格』にはところどころ藤原正彦氏の「品位」を疑いたくなる箇所がある。それは、藤原正彦氏が私的な傍白と、公的な議論を使いわけるという「卑怯」な手をつかっている箇所だ。その多くは、藤原正彦氏が自らの女性観をもらしている箇所である。

「もっとも、いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです。私はまったくそうは思いませんが、そういう意見のあることはあらかじめお伝えしておきます」(p.12)

もちろん著者自身は、ユーモアのつもりで書いているのだろう。しかし「女房」という私的な部分をもち出すことで、国家の品格を論じている公的な側面からの逃げ道をつくっている。「女房」が語っていることを通じて、自己をおもしろおかしく戯画化し、真面目な反論をさけようとするその方法は、かなり「卑怯」だ。

第三章で藤原正彦氏は民主主義をしりぞけている。その理由は次のとおりだ。

「過去はもちろん、現在においても未来においても、国民は常に、世界中で未熟である。したがって、『成熟した判断が出来る国民』という民主主義の暗黙の前提は、永遠に成り立たない」(p.83)

そして「国民は永遠に成熟しない。放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう。それを防ぐために必要なものが、実はエリートなんです」(p.83)ということで、藤原正彦氏はエリート養成の必要性をうったえる。

この部分、よくよく読んでみるまでもなく、藤原正彦氏は正面から読者を罵倒している。「お前らは永遠に未熟な凡人だ」という具合に。本書の内容を支持している読者の方々は、みな自分のことを「エリート」だと考えているのだろうか。だとすれば藤原氏の書いていることは当たっていることになる。「国民は永遠に成熟しない」のだ。

そして問題の女性観をもらす箇所がくる。

「イギリスの政治家には真のエリートが多いので、賄賂や汚職の話はほとんど聞きません。国民のために命をささげるような者は、国民を欺くようなことはしないのです。女性問題のスキャンダルは時々あります。こちらはどんな教育をしてもなくなりません」(p.87)

藤原正彦氏は本書だけでなく、他の著書でも教育の重要性をくりかえし説いている。ところが、女性問題のスキャンダルだけは、どんなエリート教育をしてもなくならないのだそうだ。女性との関係は男性にとっては、「国民のために命をささげるような」仕事の世界とはまったく別の世界ということなのだろう。

女性関係をふくむ私的な領域と、仕事に命をささげる公的な領域、その二つを藤原正彦氏ははっきり分けている。そして、公的な領域の問題には真剣に、それこそ「命をささげるように」取り組むが、「女性問題」のような私的な領域の問題には、いともかんたんにさじを投げている。

「女房」を引き合いに出している部分にも同じことが言える。「女房」との関係は藤原正彦氏にとって私的な領域であり、「女房」の意見に真剣にとりあう価値はない。話のはじめに読者の心をつかむユーモアとして利用する価値しかない。

国民のために命をささげるエリートも、私的な領域で女性問題を起こすことは許される。だとすると、藤原正彦氏が「国民」と言うとき、そこに女性は含まれていないと考える必要がありそうだ。もし女性が国民の一人であるなら、「国民を欺くようなことはしない」という「真のエリート」の定義と矛盾してしまう。

女性は国民ではないから、「女房」を欺いて他の女性と「スキャンダル」を起こしても「真のエリート」の名に傷はつかない。女性に代表される私的な領域は「真のエリート」にとっての逃げ場であり、藤原正彦氏の議論にとっても逃げ場になっている。

このように藤原正彦氏は、私的な領域(女性との関係)と公的な領域(男としての仕事)とで、二つの価値基準を使いわけている。公的な領域では許されないことも、私的な領域では許される。この二重規範は、藤原正彦氏の実に「卑怯」な議論の進め方である。

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論理を批判しながら論理を駆使する藤原正彦氏の「卑怯」

『国家の品格』の「はじめに」で、著者の藤原正彦氏は執筆動機にふれている。藤原正彦氏は米国の大学で3年間教鞭をとって帰国した後も、日本の大学の教授会で米国流の合理主義をふりかざした。「数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはそほどのことでもない、と考えるようになりました」(p.4)。

これは「論理」(=欧米の合理主義)そのものが悪いのではなく、日本という環境と「論理」の相性が悪かった、というだけの話だ。ところが驚くべきことに藤原正彦氏はこの体験から「論理」そのものに欠陥があるのだという、完全に間違った結論を導き出す。

そもそも藤原正彦氏を本書の執筆に駆り立てているのは、「いま日本は荒廃しているとよく言われますが、世界中の先進国はみな似たような状況です」という現状認識である。今の世の中はおかしくなっている。おかしくなっているからには何か原因があるはずだ。その原因は何だろうか。そうだ、「論理」偏重の考え方がその原因だ。

本書の前半では、藤原正彦氏は「論理」を全面的に否定しているわけではない。「論理とか合理とかいうものが、非常に重要なのは言うまでもありません。しかし、人間というのはそれだけではやっていけない」(p.20)そして「論理」を補完するものとして「情緒と形」というものを持ち出している。

ところが巻末に近づくにつれて、いつの間にか、「論理」とその産物である「自由」や「平等」といった思想よりも、「論理」を補完する「情緒と形」の方が優れているということになってしまう。

「現代を荒廃に追い込んでいる自由と平等より、日本人固有のこれら情緒や形の方が上位にあることを、日本は世界に示さねばなりません。自由、平等、市場原理主義といった教義は、共産主義がそうであったように、いかに立派そうな論理で着飾っていても、人間を本当に幸せにすることはできないからです」(p.185)

であれば、いっそのこと「論理」など捨てて、「情緒と形」だけで生きていったらどうだろうか。本当に藤原正彦氏の主張するように、「論理」そのものには欠陥があるが、「情緒と形」そのものには欠陥がないのだとしたら、欠陥のないものを原理にして生きる方が良いに決まっている。

しかも藤原正彦氏によれば「情緒と形」を原理として生きることができるのは、世界中で唯一「日本人」だけらしいのだ。したがって「時間はかかりますが、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと私は思うのです」(p.191)という言葉で本書は締めくくられることになる。

最初は、米国流の「論理」が日本の環境と相性が悪かっただけの話が、最終的には「情緒と形」を体現できる日本人しか世界を荒廃から救えないという、ものすごい話になってしまっている。最初は「論理」を相対化するだけだった議論が、いつの間にか日本的「情緒と形」至上主義にすりかわっている。

ところで「わが民族しか世界を救うことができない」という考え方を、選民思想という。ナチス・ドイツが「アーリア人こそ世界でもっとも優秀な民族である」と主張していたのと、藤原正彦氏の『国家の品格』の主張に大きな違いはない。

藤原正彦氏自身、「論理」に欠陥があると言っているのだから、藤原正彦氏の「論理」に欠陥があるのも無理はない。というより、藤原氏の議論は「論理」にさえなっていない。もちろん藤原氏はわざと非論理的な文章を書いているに違いない。いったん「論理と合理」を否定してしまえば、後は何をどうこじつけようが構わないというわけだ。

ところが藤原正彦氏はたしかに本書の読者を説得しようとしている。いったいどういう方法で藤原氏は読者である僕らを納得させようとしているのだろうか。世界を本格的に救えるのが日本人しかいないということを、どうやって藤原正彦氏は説得しようとしているのか。

藤原氏が頼りにしているのは、やっぱり「論理」の力なのではないか。たしかに『国家の品格』はいたるところで論理的な破綻をきたしている。それでもさまざまな事例や引用を駆使して、読者を納得させようとしている。

藤原正彦氏が「論理」に欠陥があると本当に信じているなら、なぜ190ページ以上もかけて「情緒と形」の「論理」に対する優位を説得する必要があるだろうか。最初にひとことだけ自分の主張を書いて、それで終わりにすればよいのではないか。

一つのテーマについて藤原正彦氏がこれだけの紙面を割いているのは、そして藤原氏がこの『国家と品格』だけではなく他にも多数の書物を書いているのは、他人の意見を変えるには(少なくとも「大人」の意見を変えるには)、「論理」がなくてはならないと分かっているからではないのか。

僕ら藤原正彦氏の読者は、途方にくれてしまう。藤原正彦氏は「要するに、重要なことの多くが、論理では説明出来ません」(p.49)と書いているのに、僕らにむかって「情緒と形」が「論理」よりも優れているということを、延々と「論理」で説明しようとしているように見える。決して頭ごなしに「ならぬことはならぬものです」(p.48)などと書き捨てたりせず、根気よく長い「論理」で僕らを説得しようとしている。

『国家と品格』の読者は、「論理」の限界を声高に主張する藤原正彦氏と、大いに「論理」を頼りにして僕らを説得しようとしている藤原正彦氏と、どちらの藤原正彦氏を信じればいいのだろうか。

この疑問に対して、藤原正彦氏はきっとこう答えるだろう。「そういうのが『論理』偏重だと言っているのだよ」。確かに。一方で「論理」を否定しておきながら、他方で「論理」を駆使するという方法をとれば、藤原正彦氏は何でも言いたい放題、書きたい放題である。誰がどのような方法で反論して来ようが、藤原正彦氏は「だからお前は『情緒と形』ということが分かっていないのだ」というひとことで、その反論をかんたんにしりぞけることができる。

このような藤原正彦氏のやり方を「卑怯」と言わずして、何と言えばいいのだろうか。

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2006/04/21

藤原正彦著『国家の品格』を批判するための前提条件

まず藤原正彦氏の『国家の品格』を粉砕するにあたって、藤原氏が武士道精神に反するような極めて「卑怯」な防御線を張ってあることを知っておこう。藤原氏は読者からの反論をあらかじめ封じるために、『国家の品格』の第二章「『論理』だけでは世界が破綻するのなかで、「言うまでもなく、論理は重要です。しかし、論理だけではダメなのです」という論理を展開している。

もし藤原氏の『国家の品格』に僕らが論理的に反論したとすれば、藤原氏はきっとこう反論するだろう。「その論理至上主義こそ、私が否定している当のものなのだから、あなたの反論は無効である」と。

しかし第二章を読めばわかることだが、藤原正彦氏は「『論理』だけでは世界が破綻する」ということを、できるだけ論理的に説明しようと努力している。「論理だけではダメだ」という命題について「これからそれを証明したいと思います。理由は四つあります」と宣言した上で、(1)論理には限界があること、(2)最も重要なことは論理では説明できないこと、(3)論理にはそれ自体論理的に証明できない出発点が必要なこと、(4)長い論理は信頼性が低いことの4点をあげている。

藤原氏がやっているように、論理の限界を論理的に説明することを認めてしまうと、ふつうの論理的思考能力がある人なら、すぐに次のような疑問がわいてくるだろう。では、いったいどこまでが論理的に説明してもいい範囲で、どこからが論理的に説明してはいけない範囲なのか。その線引きは誰が決めるのか。その線引きをする権利は誰にあるのか。

全ての人間には自由にものを考える権利があるとすれば、その線引きを最終決定する権限は誰にもない。それぞれの人が自分なりに線引きをすればいいだけのことで、藤原氏の身勝手な線引きにしたがう必要はない。

しかし藤原氏はおそらく自分の線引きこそが正しいと強弁するだろう。そうでなければわざわざ『国家の品格』という本を書く動機が見当たらない。現に藤原氏自身が本書の冒頭でこう書いている。

「私が確信していることは、日本や世界の人々が確信していることとしばしば異なっております。もちろん私ひとりだけが正しくて、他のすべての人が間違っている。かように思っております」(p.11)。

これで『国家の品格』を粉砕する条件がととのった。藤原氏はあくまで自分ひとりだけが正しく、僕ら全員が間違っていると主張しているのだから、僕らは藤原氏ひとりだけが間違っていると反論することができるわけだ。

それにしても「私ひとりだけが正しくて、他のすべての人が間違っている」などということを、一般の書店で流通することがあらかじめ分かっている原稿に書いてしまえる藤原正彦氏は、常軌を逸している。ただただ、常軌を逸している。

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2006/04/20

ウォルター・ブロック著・橘玲訳『不道徳教育』の痛快な原理主義

ウォルター・ブロック著、橘玲訳『不道徳教育 擁護できないものを擁護する』(講談社)を読んだ。久しぶりに痛快に面白い本だった。原書は何と30年前の1976年に米国で出版された『Defending The Undefendable(擁護できないものを擁護する)』だが、橘玲氏の思い切った「超訳」によって、今の日本に生きる僕らにとって驚くほど新鮮で時宜を得た内容になっている。

とても道徳的に擁護できないと思われるような行為、ポン引き、女性差別主義者、ダフ屋、ニセ札づくりなどを、リバタリアニズムの立場から切れ味鋭く論理的に擁護していく書物だ。リバタリアニズムというのは、訳者によるまえがき「はじめてのリバタリアニズム」によれば、国家の存在も否定する徹底した市場原理主義のことだ。

国家こそ諸悪の根源であり、すべてを市場原理に任せれば最大多数の最大幸福が実現する。それが本書の一貫した主張だ。僕は不勉強で、アナーキズムは共産主義としか結びつかないとばかり思っていたのだが、市場主義の極北にも国家の存在しないユートピアがあったというわけだ。

しかしリバタリアニズムの論理が理想論であることには違いない。現実には国家による市場や市民生活への介入は法律にもとづいて行われており、今さらそれらを完全になくすことはできない。完全になくすことができなければ、妥協に満ちた「不完全な市場主義」の世界を微調整しながら生活していくしか方法がない。

まえがきで橘玲氏が分類しているように、リバタリアニズムは飽くまで「原理主義」の一派であり、僕らの住んでいる日本社会で事実上、主流になっているケインズ主義は「功利主義」である。「原理主義」は現実がどうあろうと徹底して理想を追求し、「功利主義」は現実を出発点にして最良の結果が得られるような方法論を追求する。

「原理主義」が一種の理想論であることを知った上で、本書の論理的な主張を道具として身につけておけば、いい加減な市場主義批判に反論するための強力な武器になる。たとえば藤原正彦氏のような、きわめていい加減な市場主義批判など、『不道徳教育 擁護できないものを擁護する』の論理をもってすれば実にかんたんに反論できる。

もちろんその反論を封じるために、藤原氏は論理というもの自体の限界を盾にとるわけだが、次回は大ベストセラー『国家の品格』に鉄槌を下したい。

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2006/04/11

メルキオール『現代フランス思想とは何か』

■J.G.メルキオール『現代フランス思想とは何か―レヴィ=ストロース、バルト、デリダへの批判的アプローチ』を読み終えた。メルキオールのような啓蒙主義の考え方の人は、考えるという行為の生産性を重要視するようだ。つまりある書物を読んだとき、読者がどれくらい賢くなるか、それがその書物に書かれていることの価値を決めるということだ。

そんなメルキオールのような人が、デリダを「思想の文学化だ」と何度も繰り返し厳しく批判するのは理解できる。また、文学作品を読むとき、テキストの外部、たとえば著者の生い立ちや、その書物が書かれた時代背景といったものすべてを排除するポスト構造主義のテキスト分析の考え方は、文学作品の読みを浅薄なものにしてしまうという批判も、啓蒙主義らしい批判だ。

またメルキオールは、構造主義がsyntagmを重視し、paradigmをほぼ無視することで、歴史を否定するか無視するかのどちらかで、ポスト構造主義が歴史を単なる遅延、つまり決定不可能性に還元してしまっていると批判する。これも啓蒙主義という立場を考えれば、納得の批判である。

一人ひとりの人間は毎日少しずつ成長し、賢くなってしかるべきだし(この言い方、どこかで読んだと思ったら、親サイトで徹底批判したアンソニー・ロビンズ『夢と幸せをつかむ!成功への9ステップ』ではないか。啓蒙主義がプラグマティズムと親和性があるのは当然かもしれないが)、人類総体としても少しずつ賢くなってしかるべきだ。

しかし後期デリダの政治的な発言をメルキオールはどう考えるのだろうか。たしかにデリダの思想をサブカルチャー批判など、言語学や記号論と親和性の高い分野に適用する限りは、メルキオールの啓蒙主義からの批判は有効かもしれないが、高橋哲哉氏のようにデリダ研究者でありながら、もっとも先鋭的な歴史問題に取り組んでいる事例は、どのような批判を受けるのだろうか。残念ながら一介の会社員である僕には、この興味深いデリダ研究テーマに取り組む時間がない。

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2006/04/02

『国家の品格』藤原正彦氏に関するおすすめブログ

■藤原正彦氏のエッセーについて、立ち読み程度で言いっぱなしも失礼だと考えたので、昨日近所の古本屋で氏のエッセイストとしてのデビュー作と思われる『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)を買って、きっちりテキスト分析をしようと計画した矢先、まさに先回りして同じことをやって下さっているブログの記事からトラックバックを頂いた。ここで改めてご紹介したい。

sleepless nightさんによるブログ『性・宗教・メディア・倫理』の今日2006/04/02の記事「新田次郎によろしく」である。エッセイストとしての藤原氏の「歴史」がコンパクト、かつ、非常に的確にまとまっているので、ぜひご一読下さい。

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読んであきれる『国家の品格』まえがき

■昨日、近所の大型書店で『国家の品格』を立ち読みしたけれど、まえがきで著者自身が自分に品格のないことを認めている上に、自分の奥さんがここに書いてあることの半分以上は信用ならないと言っているなどと書いてあるではないか。

自ら品格のないことを認めておきながら、自分の地位を利用して大真面目で国家の品格を啓蒙する本を出版するような、いい加減な大人の存在こそが藤原氏自身の嘆くような現状を産み出しているのではないのか。

まったく、あきれてモノも言えない。モノが「言えない」ので、その代わりに「書いて」みた。

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2006/03/30

品格を欠く藤原正彦のエッセー

■近所の小さな本屋に立ち寄ったら、今ベストセラーになっている『国家の品格』の著者、藤原正彦の『祖国とは国語』(新潮文庫)が平積みになっていた。どれだけつまらない本かを確かめるためにぱらぱらめくってみると、案の定、国家が折り目正しくなるためには、国民一人ひとりが折り目正しくならなければならない。そのためには小学生の国語教育が最重要である。などと当たり前のことが延々と書かれている。

きっと『国家の品格』という本にも同じようなことが書かれているに違いない。この種の本を読む人たちは、自分の考えで自分自身を洗脳したい人か、当たり前のことがいかに当たり前に書かれているかを確認して、著者の考えていることの凡庸さを嘲笑したい人くらいだろう。

しかしこの藤原正彦という人物は決して凡庸ではない。自分自身が「品格」を欠いていることに全く気付いていないという点で、きわめて非凡な数学者である。『祖国とは国語』の後半部分に、自宅と別に書庫専用の家を持ちたいという短いエッセーがある。その中で藤原氏は、どうせ書庫を作るなら愛人を一人囲えるくらいの小さな部屋が欲しいと書いている。下品である。

また、そのすぐ前のエッセーでは、旅行に出かけるときにはいつも自分の妻に、旅先できっと美しい踊り子を見つけてくる(つまり浮気してくる)と宣言して出かけるが、自分はどうしてももてない運命にあるようだ、などと書いている。下らなすぎる。

さて、この藤原という人のどこに「品格」があるのだろうか。小学生にはきっちり国語を教え込むべきだとか、国家の品格が大事だとか言う前に、自分に品格がないことを一日も早く自覚して欲しいものだ。繰り返し書くが、自分の書いていることの品格のなさに全く無自覚であるという点で、藤原正彦氏はきわめて非凡な数学者である。

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メルキオール『現代フランス思想とは何か』読書中

■最近書評がないとお思いの読者もいらっしゃるだろうが、いまJ.G.メルキオール著『現代フランス思想とは何か―レヴィ=ストロース、バルト、デリダへの批判的アプローチ』を図書館で借りて読んでいるところだ。邦題のとおり、現代フランス思想家3人に対する啓蒙主義の観点からの批判で、4年前の出版当時、たしか日本経済新聞の書評に取り上げられていたはずである。

それまでジャック・デリダの『エクリチュールと差異(上)』を面白く読んでいたのだが、比較的堅実なルソー読解の書『グラマトロジーについて』に比べると、いかにもデリダらしい言葉の戯れの側面が強くなっていて、かなり読みづらいことは否めない。

いっそのことデリダをバッサリ斬って捨てている本でも読んでみようかということで『現代フランス思想とは何か』を読み始めたというわけだ。メルキオールの「構造主義者レヴィ=ストロース」に対する評価は良い面、悪い面の両方にわたっているが、バルトについてはほぼ完全に斬り捨てている。辛うじて後期のセンチメンタルなバルトだけをプラス評価するにとどまっている。

その斬り捨て方が痛快で、この『現代フランス思想とは何か』は非常に面白い本である。肝心のデリダについてはこれからなので、読み終わったらまた書きたいと思う。

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2006/03/20

徳田和嘉子『東大生が教える!超暗記術』

■ダイヤモンド社から発売されているの徳田和嘉子著『東大生が教える!超暗記術』という本が、毎週のように日本経済新聞に広告が出ているし、Amazon.co.jpの売上ランキングでも91位になっているらしい。宣伝文句に「たった一年で東京大学法学部に合格した徳ちゃんの暗記術を大公開」とあるので、この本を読めばたった一年で東大に合格できるくらいの記憶力が身につくとだまされて購入する一般人がおそらくたくさんいるのだろう。

ただ、言うまでもなくこの著者はこの本に紹介されている暗記術のおかげで東大法学部(おそらく文化一類のことを言っているのだと思うが)に合格したわけではない。

自分の勉強法を他の人にも応用できるように体系化して、最終的にはこのように書物のかたちにまとめるだけの構想力や文章力があったからこそ、彼女は東大に合格したのだ。また、「たった一年で」合格したというのも大ウソで、彼女が東大に合格できた勤勉さは、受験勉強を本格的に始める前からすでにそなわっていたはず。

結局のところ、自分の考えの全体をつじつまが合うようにまとめ上げる能力とか、わかりやすい文章を書く能力とか、ものごとに地道に、勤勉に取り組む能力とか、そういったものがすべてこの著者にそなわっていたからこそ東大に合格できたわけで、この本に書かれている暗記術と彼女の東大合格とは直接の関係はないのだ。

そういうこともよく考えずにキャッチコピーにおどらされて、この手の「東大生本」に安易に手を出すような人たちは、残念ながら自分の子供を東大に入学させることもできないし、自分自身の記憶力を飛躍的に伸ばすこともできない。

昔から言うように「学問に王道なし」。本当に子供を東大に入れたいとか、自分の記憶力を伸ばしたいと思うなら、自分で苦心して自分にいちばん合った方法論を見つけ出さなければならない。この手の本を買って、楽して結果を得ようと思う人たちに、この本の著者のような結果を出すことはできないのだ。

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2006/03/05

小川洋子『博士の愛した数式』

■『グラマトロジーについて(下)』を読み終えた後、Amazonで注文した『エクリチュールと差異(上)』が届くまで数日間があったので、携帯電話で電子書店パピレスから小川洋子『博士の愛した数式』をダウンロードして読んだ。小川洋子作品は一作品は読んだ覚えがあり、読んだとすれば芥川賞作『妊娠カレンダー』に違いないのだが、内容がまったく思いださせないところからすると、きっと読んでいないのだろう。

映画化された作品だが、作品そのものが非常に映画的である。最近の小説は高橋源一郎のように言葉そのものの可能性を、まるで現代詩にように極限にまで追求しているのでない限り、どれも映画的になるのは仕方ないのかもしれない。『博士の愛した数式』は