2008/03/11

NHKスペシャル「上海から先生がやってきた~貧困の村で~」

最近NHKスペシャル『激流中国』の「上海から先生がやってきた ~貧困の村で~」という番組を観た。上海の女子大生が、ボランティアで貧しい農村に赴き、教師として一年間生活する様子を追ったドキュメンタリーだ。

一人の女子生徒は、努力家にもかかわらず成績が伸びない。女子大生の教師が家庭訪問すると、父親は亡くなっており、母親は仕事中の負傷で仕事ができず、兄が生計を立て、女子生徒は家事をすべてやらなければいけないので勉強する時間がないのだ。

しかも母親の手術代に銀行から借金をしていて、女子大生の教師と銀行に行くまで、高額の利子がついていることさえ知らないでいる。何とかその生徒を大学に進学させようと、女子大生の教師は奨学金の候補に推薦するが、仲間の大学生のボランティア教師との話し合いで却下されてしまう。

上海の裕福な家庭で、何の不自由もなく育ってきた女子大生が、初めて自分の無力さを気づかされて慟哭する様子は、考えさせられるものがあった。

でもこれって、どこかで見たような。中国政府はかつて、大学生を強制的に農村に送って労働させていなかったか。そう、「下放政策」のことだ。

もちろん今回はボランティアで、決して強制ではないが、ボランティアの教師になることで進学に有利になるなど、インセンティブの利かせ方が巧妙になっているだけのような気がする。

今も昔も中国の農村と都市部の経済格差は大きく、それを橋渡しする「政策」がインテリ層を巻き込んで講じられている形式も似ている。この種の「政策」が将来の経済格差の改善に役立てばと願わずにはいられない。

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2008/02/12

倖田來未さんの「羊水」発言について

倖田來未さんの失言が波紋を広げているが、問題は単純だ。

まず「マスコミは騒ぎ過ぎ」という批判があるが、この種の醜聞でマスコミに節度を求めるのは無理がある。そもそもマスコミは大衆をあおるのが仕事だ。マスコミに節度を期待するなら、この問題以前に批判すべき点は山ほどある。ましてマスコミと共存共栄の関係にあるタレントたちが、マスコミを批判して倖田來未さんをかばうのは完全に矛盾している。

さて、問題のラジオ番組は生放送ではなく録音だという。つまり倖田來未さんをサポートするスタッフが確認を漏らしたということだ。タレントの「品質管理」を怠った点で、スタッフに明らかに問題がある。タレントの発言がどんな波紋を呼ぶか、先回りして未然に防ぐのが人気商売であるタレントの最も重要な「品質管理」だろう。

そして倖田來未さん自身の問題は、おそらく本当に「35歳を過ぎたら羊水が腐る」と思っていた点だ。公的な場で発言するのに必要な、最低限の知識や教養がなかったということだ。

僕は彼女が悪意ある人間だとは思えない。言ってはいけないことをあえて言うような、意地悪な人間だとは思えない。そういう彼女が、何の引っかかりもなく「羊水が腐る」と話したのは、本当にそう思っていたと考えるのが妥当だ。彼女は、自分の知識や教養のなさに気づけないほど、知識や教養がないということだ。

ただ、タレントは神様ではない。タレントとして歌やダンス、自分をプロデュースする才能など、さまざまな才能を持った人間に、さらに無難な一般人としての素養も要求するのはどうだろうか?

僕は、今回の問題は、単純にエイベックスが「品質管理」を怠ったことだと考える。彼女がいかに知識や教養を欠いているか、いちばん分かっていたのはエイベックスのスタッフのはずだ。であれば「商品」がボロを出さないようにきっちり管理するのが彼らの仕事である。

例えば、日本語が不自由なalanさんに、日本語の家庭教師をつけたり、通訳をつけたりするのはavexの仕事だ。それと同じように、一般常識の足りない倖田來未さんを周囲でちゃんとフォロー(管理)するのがavexの仕事だ。

もちろん、倖田來未さんが一人の私人として、「35歳をすぎたら羊水が腐る」と誤って信じていたこと自体にも問題はある。しかしそれはほとんどの日本人が「日本国憲法は法律の中でいちばん上位の法律だ」と誤って信じていることと同じレベルの問題で、”お勉強”が必要なのはお互いさま、ということだ。

もう少し分析してみよう。

なぜ倖田來未さんの「羊水」発言が、私人としての発言であるかのように騒がれ、倖田來未さんが個人攻撃され、それに対して例えば和田アキコさんが個人的に彼女をかばうような発言し、それがまた話題になるのか。

それは、われわれメディアの受け手が、いつの間にか「約束事」を忘れてしまっているからではないだろうか。

「倖田來未」というのは単なるエイベックスの「商品」であって、ご本人の私人としての人格とは無関係である。芸能界というのはそういうものだろう。そういう「約束事」をわかった上で、芸能人についてあれこれおしゃべりするのが、芸能界やメディアの世界の正しい楽しみ方である。

ところが、いつの間にかメディアの受け手であるわれわれはその「約束事」を忘れ、まるで芸能人が私人としての本人であるかのように反応していないだろうか。もちろんメディア自身、その「約束事」をあえて破るフリをするような、プライベート暴露的なお遊びが過ぎるが、それも飽くまで一定の「約束事」にのっとった単なるゲームだ。

タレントが単なるゲームの「駒」であることを忘れてはいけない。

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2007/12/08

そして土曜は上海制作のドラマ『银色年华』

そして土曜日の夕方はBS日テレで、台湾ではなく上海制作のテレビドラマ『キラメキの季節』(原題『银色年华』2004年)。画質の悪さと、脚本のゆるさ、衣装のセンス、ゆったりした演出を見れば、台湾制作のドラマでないことは一目瞭然。

このドラマ、2、3回、しかも部分的にしか観たことがないのだが、主演女優だけ何故アフレコになっているのか分からずにいた。愛らしい表情に不釣合いなガラガラ声なのか、他にどういう理由が考えられるか。

今日インターネットで調べて、疑問が解消された。主演女優の张娜拉(チャン・ナラ)は韓国の人気女優なのだ。こちらに朝鮮日報オンラインの『銀色年華』制作発表の記事がある

この記事によれば制作発表の時点で、张娜拉は中国語を懸命に勉強中ということだが、おそらく残念ながら撮影開始までに、中国人が理解できるレベルまで中国語の発音が上達しなかったのだろう。それでやむをえず张娜拉の台詞だけアフレコにしたのだろう。

本人のアフレコなのか、別の中国人女優が録音しているのかは定かでないが、あのきれいな標準中国語の発音は、ちょっと彼女自身の発音とは考えにくいか。

チャン・ナラ自身が歌うこのドラマ『銀色年華』の主題歌(?)のミュージックビデオはこちら

『銀色年華』に主演するチャン・ナラに密着したドキュメンタリー番組はこちら。韓国語字幕つきの韓国語なので、韓国語の分かる方はどうぞ。朝鮮日報の記事にある、制作発表会でのチャン・ナラの中国語によるスピーチも聞ける。

このドキュメンタリーには撮影現場で中国語の台詞の指導をうける様子が映っている。現場では中国語の台詞をしゃべっているようだ。アフレコするにも口の動きが合っていないとダメということか。


このドラマでは妙に地味に見える刘亦菲Liú Yìfēiだが、どうやら2006/07/19に日本でCDデビューしていたらしく、そのイーフェイ名での『真夜中のドア』という曲のミュージックビデオはこちら

こうやってインターネットで調べ物をしていると、いくらでも話が広がる。きりがないのでこの辺で。

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2007/12/07

木曜、金曜は2日連続台湾ドラマ

昨天晚上我看了周渝民的电视剧,美味关系。今天晚上看了徐若瑄的电视剧,别爱我。我觉得别爱我比美味关系有意思得多。


毎週木曜日の夜は、台湾観光局のテレビCMに出演した台湾の男性4人組アイドルF4の一人、周渝民(ヴィック・チョウ)主演の『おいしい関係』をBS日テレで、毎週金曜日の夜はTBS系のBS-iで、日本ではすっかりお目にかかれなくなったビビアン・スーが、難病に冒される悲劇のヒロインを演じる『天使の約束』(原題『别爱我(私を愛さないで)』)と、すっかり台湾ドラマにどっぷりだ。

『おいしい関係』の直前の一時間はC-POPの一時間番組が放送されている。個人的にはS.H.Eや飞轮海といったタレントの皆さんのニュースはどうでもよく、大S(バービー・スー)と小S(シュー・シーディー)の実の姉妹が司会をしている料理番組が面白い。

毎回、歌手や俳優などいろいろなスターがゲストとして登場し、料理を作るのだが、料理などそっちのけで、おバカな会話を繰り広げ、そのテンポのよさがなんとも心地良い。あの早口の標準語を聴き取るのが、僕の中国語学習の一つの目標だ。

ただ残念なのは、出てくる字幕が繁体字で、簡体字で標準語を勉強している僕にとっては、とても読みづらいことだ。

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2007/11/20

シーテックのテレビCMがついに「潤滑に」を訂正

コムスンの不祥事以来姿を見せない折口会長のグッドウィルグループが擁するシーテックという会社だが、以前からテレビCMのナレーション「プロジェクトを潤滑に進めます」という日本語が「プロジェクトを円滑に進めます」の間違いではないのかと話題になっていた。

どうやらついに撮り直したらしい。今日たまたまシーテックのテレビCMを目にしたら「プロジェクトに最適なパフォーマンスを」といった内容に変わっていた。さすがに恥ずかしくなったのだろうか。

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まだ続けるつもりか?DoCoMo2.0

DoCoMo 2.0のテレビCM、まだ続ける気か?あれだけ豪華タレント陣をそろえておきながら何の成果にもつながっていないのに、NTTドコモの経営陣には広告宣伝についてまともな判断力があるのだろうか。

ただただ、あきれる。

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2007/11/09

予想通り大失敗のDoCoMo 2.0キャンペーン

予想どおりNTTドコモの「DoCoMo 2.0」キャンペーンはたった半年で完全に失敗した。今月に入ってからか、浅野忠信、長瀬智也、妻夫木聡、吹石一恵、土屋アンナ、蒼井優などなど出演の例のテレビCMを見なくなった。あれだけのオールスターキャストで大失敗となると、今ごろ社内関係者がどんな処分をされているか。

携帯電話会社を変えても番号はそのままという、ナンバーポータビリティ制度を狙ったキャンペーンだったわけだが、ご承知のようにNTTドコモはいまだに一人負けの状態。

「さて、そろそろ反撃してもいいですか?」なんていう若者への訴求力が全くないダサダサの(←これも死語だが)コピーを見た瞬間に、誰しも「こりゃ失敗するな」と思ったはずだ。

大事なのは、そもそもこういう誰もが容易に失敗を予想できるようなキャンペーンに経営陣がOKを出してしまうNTTドコモだからこそ、今の一人負けの状態があるということであって、その逆ではないということだ。

まあでもNTTドコモがトップシェアであることには違いないし、auのシェアが劇的に増えているわけでもないので、本当に恥をかいたのはあのCMを作った関口現氏だけかもしれない。大学の先輩のことを悪く書くべきでないが。

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2007/04/08

今さらながら飯島愛の引退について(2)

ただし、一連の飯島愛の引退番組でやはり気になったのは、AV女優時代のことがまったく触れられなかった点だ。今日の『ウチくる』でも、幼少時代とテレビタレントとしてデビューして以降のことしか触れられず、その間にあるAV女優時代について一切言及されなかった。

僕と同年代の男性の多くは、おそらく彼女のことを人気のAV「単体女優」として初めて知り、後にテレビに出演しているのを見て、「AV女優から『脱がないタレント』というキャリアパスもあるんだ」と驚いたのではないか。

この「愛と苦悩の日記」ではあまり僕個人の性的な話題は取り上げないが、彼女がセーラー服姿で出演する女子校生もののアダルトビデオの映像の記憶が鮮明に残っている。僕がまだ大学生のころに見たビデオだ。

村西とおる監督と黒木香の登場から、ソフトオンデマンドというAV制作会社にいたるまで、良かれ悪しかれAV業界は少しずつ「市民権」を得てきているのだから、飯島愛がここまで徹底して元AV女優という経歴を、少なくともテレビの画面上からは抹消しようとしている理由は何なのだろうか。

引退の最後までAV女優時代をテレビ上から抹消しつづけたことは、彼女と同じ道を進もうとしていたAV女優たちの未来を否定することになりそうだ。

例えば及川奈央などは(わかる人にしかわからない名前で申し訳ない)、飯島愛には遠く及ばないにしても、ある程度のタレントとして活躍したかもしれないが、その道はほぼ閉ざされたと言っていい。

もしかすると飯島愛は、AV女優からテレビタレントというキャリアパスを自分で最後にするために、意図的にAV女優という過去をテレビ上では抹消したのかもしれない。

つまり、彼女のファンである少女たちが勘違いをして、テレビタレントになる手段としてAV女優を目指す愚行に走らないよう、たとえAV業界からの非難を浴びようとも、あえてAV女優は恥ずべき職業だというメッセージを伝えているのかもしれない。

彼女が個人的な名誉のためだけにAV女優という過去を抹消するとは考えづらいし、彼女自身、風俗産業の女性たちや、その予備軍の少女たちに与える影響の大きさを自覚しているだろう。

「AV女優は恥ずべき仕事だ」という保守的なメッセージを意図的に発しつづけることで、少女たちが安易に風俗産業に身を投じないようにしているのだろう。それが元AV女優から、図らずも売れっ子タレントになってしまった自分の社会的責任だと考えているのではないか。

彼女は芸能界引退後もブログは続けるようなので、思い出したときにはのぞいてみたい。まだ30代半ばなのだから、大久保松恵としてはさまざまな展開があるに違いない。AV女優時代から彼女を見ている同世代の人間として、彼女の新しい生活が幸福なものであればいいと思う。

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今さらながら飯島愛の引退について(1)

基本的に「テレビっ子」である僕の、お気に入りのバラエティー番組、『サンデージャポン』『金曜日のスマたち』『ウチくる』をこの2週間ほど見ていたおかげで、飯島愛の引退を何度も目にすることになった。

飯島愛が芸能界から引退したところで、僕の日常生活が大きく変わるわけではないし、引退の本当の理由が彼女の腎臓の病気かどうかなど、はっきり言ってどうでもいいことだ。

『金スマ』では女性占い師が登場して、本人が公表を控えている別の理由があることが示唆されていたが、そもそも芸能界から引退するのに、もっと言えば、人が何かの決心をするのに、唯一の本当の理由など存在しないだろう。何らかの事態が起こる理由は、つねに後知恵でしかない。

半年もたてば飯島愛が多くのレギュラー番組をもつ売れっ子タレントだったことも、「そういえばそんなタレントもいたね」程度の話題にしかならないだろう。一般人にとっての芸能界はそもそもそういうものだ。

にもかかわらず、彼女の引退の場面を見て、僕がある種の感慨にふけり、もらい泣きまでしてしまったことには、いくつかの理由がありそうだ。

一つは単純に同世代ということ。子供のころのメディア経験が共通している。『ガンダム』や『銀河鉄道999』などのアニメ、80年代のビルボードチャートを賑わせた洋楽、おニャン子くらぶ、などなど。

バブル時代に入ってしまうと、同じ東京生活でも、彼女は「不夜城」六本木を遊びまわり、こちらは東京大学で腐っていたという、日向と日陰の対照的な生活になっているが、同世代の文化的背景は共有している。

そして、二つめはもっと本質的な点。高度経済成長を達成し、豊かさのあまりこれから進むべき方向性を失った日本社会で、小学生として自分の将来を決定しなければならなかったことだ。

今日初めて飯島愛のブログを流し読みしてみたのだが、彼女は小学生のころ、地元の亀有から四谷まで塾通いをして中学受験を目指していたという。僕も大阪の下町出身だが、平々凡々たる家庭の子供でも、80年代は高学歴が明るい未来を約束するという神話がまだ生き残っていた。

おそらく彼女も、どの中流家庭にもあった親の期待にこたえようとしたが、中学受験の段階でつまずき、中学、高校と完全なアノミー(何のために生きているのかわからない状態)に陥ったに違いない。

僕のほうは中学受験に成功し、中高一貫の進学校に入学し、大学受験にも成功した結果、ずいぶん遅れて大学生になってから完全なアノミーに陥ってしまった。それが大失恋の時期と重なったため、いまだに後を引くほど大きな影響を人生に残している。

世間の大多数の1970年代生まれの人たちは、高度経済成長の後の豊かな社会で、そこそこの幸福はそれほど苦労しなくても手に入るという現実に、疑問を抱くことなく適応し、小市民的幸福に埋没した家庭を築いている。

しかし、僕らの同世代には、当たり前に幸福な自己像を素直に受け入れられない人たち、宮台真司の最近の用語で言えば「超越系」の人たちがいたということだ。

そして飯島愛、というより大久保松恵さんは、たまたま中学生にして既に当たり前の幸福に疑問を抱き、他方、たとえば僕のような人間は、たまたま20歳になって初めてそのことを切実な問題として突きつけられたということだ。

自分のやっていることが常に「つくりもの」でしかないこと、自分が好んでそうなったというより、やむを得ずそうなってしまったという感覚、そういう感覚に日々とらわれている人がいる。

彼女はベストセラー『PLATONIC SEX』について、大槻ケンヂに「好きなように生きてきただけじゃん」と指摘され、笑って肯定したそうだ。大槻ケンヂに指摘されるまでもなく、すべての自伝が多かれ少なかれ「つくりもの」であり、自分の人生など本当はわざわざ言あげする価値もないということを、いちばんわかっていたのは、おそらく彼女自身だったに違いない。

自分の言行が、言う端から、行う端から、大して意味のない凡庸なものに思えてしまう。でもそれを自虐的にまぜっかえしてごまかすこともまた、責任ある大人の言動ではないこともわかっている。

そういった、根拠のない罪の意識をベースにした自意識過剰の悪循環から、すっきりと脱出することができない心性を、同じ1970年代生まれとして、僕は彼女と共有しているのではないかと思う。

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2007/02/11

NHKで老醜をさらした堺屋太一と丹羽宇一郎

日付が変わってもう昨晩になるが、NHK総合テレビの「団塊の世代」をテーマにした一般視聴者参加討論番組に宮台真司が出演していた。

今後は理論構築の仕事に重点を置いていくといいつつ、依然として精力的に「世直し」モードの活動もしているのだなぁと敬意を表しつつしばらく見ていたのだが、見るに耐えず、途中でチャンネルを変えてしまった。

なぜ見るに耐えなかったのかと言えば、宮台真司や慶應義塾大学教授・金子勝に比べて、堺屋太一や伊藤忠商事会長・丹羽宇一郎がバカでもわかるキレイ事ばかりしゃべって、まったく議論のレベルがかみ合っていなかったからだ。

宮台真司はとにかく勉強量で堺屋太一を圧倒している。自説の裏付けとなるリファレンスの量が圧倒的に多く、かつ、妥当なのだが、堺屋太一や他の出演者、スタジオにいる視聴者もまったく彼の話についていけていないのだ。

誰も彼の話をまともに受けとめて議論できないので、画面上、宮台真司が単に自分の知識をひけらかしているようにしか見えなくなってしまう。ビデオニュース・ドットコムでビデオジャーナリストの神保哲生と宮台真司の議論がかみあっているのとは好対照だ。

金子勝は堺屋太一と同じ経済学をバックボーンとして議論するのだが、堺屋太一が団塊の世代の「明るい老後」とも表現すべき理想論を、さしたる根拠もなく振り回すのに対して、金子勝は非常に現実を冷静に見ている。

例えば、大企業はここ数年間、定年延長の一方で若年層の労働者を非正規雇用化してきたが、金子勝は、企業が定年延長という選択肢を持つことで、世代間の政治的な力の不均衡が露呈した事実を正視して議論していた。

それに対して堺屋太一は、定年延長が団塊の世代にとって人生の選択肢を広げることになった、という楽観的理想論しか語ることができない。伊藤忠商事会長・丹羽宇一郎も堺屋太一と同じく理想論、建前論ばかり語っていた。つまりは年長世代の自己正当化理論ばかりを語っていたということだ。

まさに泥臭い現実を正視せず、自らの行為を正当化する理論構築しかできないこの種の人物が、経済政策の決定に大きな影響力を持っていたり、財界で発言力を持っていたりするからこそ、日本は若者にとって閉塞感しか抱けない社会になってしまっているのではないのか。

そのことをまったく分かっていないからこそ、堺屋太一や丹羽宇一郎のような人々には第一線から引退してもらわなければならないのだ。だからこそ「定年」という制度は必要なのだ。

しかし堺屋太一や丹羽宇一郎がそのことを理解する日は来ないだろう。

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2007/02/04

Windows VistaとMacのテレビCMを比較する

Windows VistaのテレビCMに比べて、Macintoshの比較広告のまあ子供っぽいこと。あのMacの比較広告にひかれてMacを買う人間、Macユーザでよかったと思う人間は虚栄心のかたまりだろう。

Macintoshの比較広告「Get a Mac」日本語版シリーズ

Macintoshのあの比較広告は、明らかに「他人の目から見たときにWindowsよりMacがカッコいい」ということを訴求している。そこには「他人の目を気にする自分」という自意識過剰な自己が確かにある。

他人の目が気にならないなら、Windowsユーザに対してMacintoshの優位性をわざわざ主張する必要などないはずだ。Windowsを使っていようが、Macintoshを使っていようが、自分で納得していればいいわけで他人と比較する必要はない。

それに対してWindows VistaのテレビCMが素晴らしいのは、あくまで個人的な感動を描くことに集中している点である。

すでにご覧の方はお分かりのように、Windows VistaのテレビCMのテーマは、万里の長城を初めて見た白人女性の思わずもらす「Wow」という感嘆詞と、Windows Vistaの画面を初めて見た日本人男性の思わずもらす「おお」という感嘆詞が同じものだ、ということだ。

Windows VistaのテレビCMの中で思わず感嘆詞をもらす人たちは、お気づきのようにすべて一人である。この点があのCMの演出上のポイントだ。

つまり、他人から見たときに自分がどう思われているか、そんなことはどうでもいい。本当の感動というものはきわめて個人的(personal)で私的(private)な体験なのだ、というのがWindows VistaのテレビCMのメッセージである。

これに比べると、Windowsのカッコ悪さをダシに、自分自身のカッコ良さを訴求するMacintoshの比較広告が、病的なほど自意識過剰なことがわかる。Macintoshの比較広告は、意図に反してMacintoshユーザを根本からバカにしているのだ。

つまり、Macintoshの比較広告は、Macintoshユーザというのは、他人の「あなたはこうあるべきだ」という欲望を、いとも簡単に自分自身の欲望だと思い込んで内面化してしまう、まさに中身がからっぽの泡のような「バブリーな人間」であることを告発しているのだ。

さらに、Windows VistaのテレビCMが、個人の想像を超えた、突然の世界の現れ(例えば万里の長城の雄大さなど)に驚くという、脱自的な体験を淡々と描くことに成功しているのに対して、Macintoshの比較広告は徹底して自閉的で自己満足的な自意識、「オレのセンスはいいだろう」「わたしっておしゃれでしょ」という、それこそヲタク的な自閉性のレベルにとどまっている。

Windows VistaのテレビCMが「世界へ開かれた窓(windows)」というWindowsのコンセプトを描くことに成功しているのに対して、ラーメンズ出演のMacintoshのテレビCMは、「カッコよさ」の自閉的な回路の追認にしかなっていない。

Apple社には、小じゃれた周辺機器メーカーとしての未来しかないだろう。

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2007/01/21

「あるある大事典『納豆ダイエット』はねつ造」でわかる日本人の民度

またも日本人の民度の低さ、メディアリテラシーの低さが明らかになった。フジテレビ系列のテレビ番組『発掘!あるある大事典2』の2007/01/07放送分「納豆ダイエット」に多数のでっちあげが含まれていたことが話題になっているが、それよりも、この放送の後、全国のスーパーで納豆が売切れになったという事実の方が深刻だ。

たんなる健康バラエティー番組の放送内容を、これほど多くの人々が真にうけて納豆を買いあさり、納豆メーカが臨時の増産体制に追い込まれる。どうして日本の一般人はテレビで垂れ流される、たかがバラエティー番組の情報を、これほどかんたんに鵜呑みにしてしまうのだろうか。

これが報道番組なら話は少し違ってくるが、『発掘!あるある大事典2』など、毎回お笑いタレントや元スポーツ選手しかゲスト出演しない、たかがバラエティー番組ではないか。

これこそ小泉政治のポピュリズムを支えた、日本人の民度の低さ、批判力のなさだ。なぜもう少し冷静かつ批判的にメディアの情報を受けとることができないのか。

番組の内容がねつ造だとわかると、「体重が減らないからおかしいと思っていた」「テレビ局はいいかげんにしてほしい」と消費者の「怒りは収まらない」という。(毎日新聞)

日本人はテレビ局を批判する前に、自分たちの批判力のなさを反省した方がよい。「この国民にして、このテレビ番組」なのであって、その逆ではない。「この国民にして、この衆愚政治」なのであって、その逆ではない。「この国民にして、この前近代的司法制度」なのであって、その逆ではない。

『発掘!あるある大事典2』の視聴率が良く、影響力が大きいのは、この下らない番組を大勢の日本人が支持しているからこそである。「テレビ局はいいかげんにしてほしい」とこぼす消費者は、天につばしているようなものだ。その自覚さえないのでは、どうにも救いようがない。

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2007/01/07

社会的転換点としてのキャンディーズ

昨年末NHK総合で放送されていた「プレミアム10」枠の『わが愛しのキャンディーズ』が、2007/01/04にBS2で再放送されていた。前回は解散コンサート部分しか観られなかったが、今回は90分すべてを観ることができた。

社会的文脈に置いたとき、キャンディーズというアイドルグループが「大人vs若者」、つまり、若者から見た「大人は判ってくれない」という図式に見事にはまっていたことがよくわかる。

『微笑がえし』や『つばさ』といった解散間近のシングルの歌詞の中で、「青春」という言葉が忘れられたもの、二度と取り戻せないものとして語られているし、解散コンサートでも伊藤蘭が、自分たちの未熟さと大人たちの分別を対比させている。

もちろんこれはプロデューサ側の「演出」でしかないのだが、アイドルというものが「大人は判ってくれない」という図式で商品化されていた点に1970年代的なアイドルの位置づけがはっきり現れている。

ただ、キャンディーズはおそらくそうした「大人vs若者」という図式から、「これって私」という図式への過渡期にあったアイドルではないかと思われる。

解散コンサートの観客のほとんどが、若い男性ファンであり、全国的に組織化されたファンクラブ「全キャン連」だったのは確かだが、他方で、後期のキャンディーズは少女たちのファッションリーダにもなっていた。

少女たちにとってのファッションリーダ、少女たちにとってのあこがれの対象としてのアイドルという側面は、キャンディーズ解散後のピンクレディーにおいてより強力なマーケティング戦略として採用される。

その結果、1980年代のアイドルからは、若い男性ファンにとっての「大人は判ってくれない」的な側面(もちろん演出された反社会性でしかないのだが)がきれいさっぱりなくなり、ほとんど少女ファンにとっての「これって私」的な側面だけが残る。

女性アイドルの男性ファンは「大人は判ってくれない」的な社会に対する反抗という外向きの動機づけから、「僕だけの○×ちゃん」という私的な夢想という内向きの動機づけで女性アイドルを応援するようになったと言える。

キャンディーズの頃までは、女性アイドルの親衛隊に不良やヤンキー、学生運動の武闘派くずれが多かったのに対し、1980年代以降の女性アイドルの親衛隊が「ヲタク」化するのはまさにこのような背景からだろう。

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2006/12/10

Macintoshの新テレビCM、ダサさの極地

Macintoshの新しいテレビCMシリーズ、スーツ姿のいかにもサラリーマン然とした黒縁メガネの男性が左、カジュアル・ファッションでリラックスした語り口の男性が右に立ち、かけ合いの中から左側の男性の「ダサさ」を浮き彫りにするという内容だが、左側の男性がWindows、右側の男性がMacintoshを象徴していることは明らかだ。

しかし、この「カッコよさを主張する」という右側の男性のコミュニケーション・スタイルそのものが、日本で言えば1980年代のバブル的なものであり、今、こうしてテレビCMのかたちで見せられると、いかにも時代錯誤でダサダサなのだ。おそらく糸井重里ならこのMacintoshのテレビCMシリーズを、現代日本の時代性とかけ離れたものだとして、まったく評価しないだろう。

逆に、このMacintoshのテレビCMに感情移入する人たちは、「カッコよさを主張することが、2006年の現代においては実はとてもダサいのだ」ということをまったく理解していない、時代錯誤の「バブル崩れ」たちだと言える。いまだに「イケてることを主張することはイケてる」という無反省なバブル精神にどっぷりつかっている人々なのである。

この時代錯誤のMacintoshのテレビCMに比べれば、Microsoftがいま展開している明らかに企業向けのテレビCMシリーズ、つまり、社員一人ひとりの力を引き出すのがITの使命だというテーマのCMシリーズの方が、よほど経済至上主義的な2006年の時代性にぴったり来ている。

MicrosoftのテレビCMの方が優れているということではない。ただ、今ごろ「カッコよさ」や「イケてる」ことをベタに訴えるCMを垂れ流してしまうApple社の時代とのズレこそ、同社がiPodでしか食っていけない企業に成り下がった原因ではないのか。そしてその誤りにApple社はまだ気づいていないらしい、ということがよくわかる。

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2006/12/05

キャンディーズのドキュメンタリー番組

昨夜、1970年代のアイドルグループ「キャンディーズ」のドキュメンタリー番組がNHKで放送されていた。ただ気づいたのが遅く、1978年の後楽園球場(現在の東京ドーム)での解散コンサートの部分しか観ることができなかった。

久しぶりに本格的に死にたくなった。当時僕はまだ小学生で、どちらかといえばピンクレディーの熱狂的なファンだったのだが、いずれにせよこれから30年の人生、何にでもなり得た、可能性のかたまりだったわけだ。

ところが今、28年前のコンサート映像を見て愕然とする。メインボーカルの伊藤蘭が「大人の人たちは、私たちのことをバカだと言います(筆者注:人気の絶頂で解散するから)。でも私たちはバカじゃありません」と言ってる本人は当時すでに20代前半の立派な大人で、日本語版Wikipediaによれば、キャンディーズの解散には、売上げの取り分について事務所との確執があったとのこと。

ありがちなウラ事情など当時小学生だったファンは知るよしもなく、ただスーちゃん(田中好子)がいちばん好きで、舞台に立つキャンディーズの「アウラ」は複製大衆芸術であるにもかかわらず圧倒的だったし、今の僕にとっても気恥ずかしいほどに圧倒的だ。

10年ほど前もキャンディーズのベストアルバムをヘビーローテーションで聴いていた時期があったのだが、意外に美しくハモられている楽曲のサビにも鳥肌が立たないと言えばウソになる。

要するに単なる懐古趣味でしかないことは自分でもよく分かっているが、この28年間は一体何だったのだろうかと考えると愕然とする。そして当時の映像の圧倒的な「アウラ」を感じた後、これからの28年間のことなど一切考えたくなくなるだけの虚脱感がある。それは歴然とした事実だ。

以上、久しぶりにメンヘル(=メンタルヘルス)モードの記事でした。

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2006/11/28

「ビデオニュース・ドットコム」のすすめ

最近テレビがつまらない。報道番組さえ一般市民の感情に媚びるような作りのものばかりでつまらない、とお思いの方には、ぜひビデオニュース・ドットコムをおすすめしたい。

ジャーナリスト・神保哲生と社会学者・宮台真司が毎回司会をつとめ、スポンサーの縛りのあるマスメディアがなかなか登場させないようなゲストを迎えて鼎談をおこなうスタイルのインターネット放送(ストリーミング)だ。

月額525円で会員にならないとほとんどの放送回が見られないが、無料放送回があるので、まずそこからご覧になるとよい。(という僕もまだ会員になっていないのだが)

やわらかいところから入りたい方は、無料放送回の「猿でもわかるオタク入門」での精神科医・斉藤環と宮台真司のかけあい漫才や、植草一秀が冤罪を訴える放送回からご覧になるとよい。

その他、ナショナリズムや安倍内閣などハードな政治問題をテーマにした回もあるが、大手ジャーナリズム出身の神保哲生と宮台真司が、マスメディアのありかたそのものについて雑談っぽく話したりする部分は、メディアリテラシー教育として僕でも非常に参考になる。

たとえば三菱ふそうやシンドラー社がなぜか集中的に叩かれてしまう理由など、日ごろ僕らが垂れ流されるままにうけとっているマスメディアとは、少し距離をおくためにも、ビデオニュース・ドットコムのようなメディアに触れておくことは非常に重要だと考える。

この「愛と苦悩の日記」の愛読者は、すべからくビデオニュース・ドットコムを観るべきだと言い切ってもいい。

...と書いても、「もうとっくの昔から観てるよ」と言われそうだけれど。

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2006/09/18

細木数子の「検閲」に迎合するへたれフジテレビ

細木数子はついに、メディアの検閲まで始めたようだ。フジテレビが連続ドラマのDVDを発売しようとしたところ、うち一話に細木数子を思わせる登場人物が悪役として描かれているというので、その一話分を削除させたらしい。

本当に下らない。馬鹿げている。こんな「プチ女帝」を簡単にのさばらせてしまうほど、フジテレビはマスメディアとしての独立性や自負を失ってしまっているのだろうか。細木数子のような、単なる一出演者にここまで迎合するフジテレビは、遠からず視聴者の信頼を失うだろう。

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2006/09/06

あびる優100kmマラソンの理由

昨日、何となく見ていたバラエティー番組で、あびる優(20歳)が100kmマラソンを走っていた。なんで彼女が100kmマラソンを走らなきゃいけないのかと思って、Yahoo!JAPANでニュースを検索したら、テレビ番組で、昔友だちと集団で万引きしたというぶっちゃけトークをして、事務所から謹慎処分のようなものを受けていたんだった。

最近、芸能界に復帰して、仕事もないので、日本テレビの24時間テレビと同じ時間に100kmマラソンに挑戦すべく、50日間のトレーニングをつむという企画だったようだ。

最近のトークバラエティーは、ゲストの私生活暴露がネタになっているようなところがある。うけをとるために、1の話を10にふくらませる場合もあるだろう。どこまでが冗談で通じるのか、当時未成年のあびる優に適切な判断を求める方が、酷といえば酷なのかもしれない。万引きと同程度の犯罪を一度も犯したことがない若手芸能人が、どれくらいいるか、ということを考えると。

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2006/08/15

TBSドラマ『さとうきび畑の唄』再放送を観る

3年前に放送された明石家さんま主演のTBSドラマ『さとうきび畑の唄』の再放送の後半部分をたまたま観てしまった。大阪に住んでいた小学生のころは毎年、夏休みのこの時期になると「戦争展」に行くのが家族の習慣で、年に一回、戦争のことを考えることも必要だろう。

このドラマは、日本軍の行動の理不尽さが際立つ物語になっていることは誰も否定できないだろう。明石家さんま演じる父親をはじめとする写真館の一家の考え方は、軍国主義から一定の距離をおいているので、視聴者がこの一家に感情移入できるように物語が組み立てられている。結果として、報国という大義のためなら日本人どうしでさえ殺し合いをする日本軍の残虐性が際立つのは、当然といえば当然だ。

そして、米国の軍人はすくなくとも民間人と軍人をはっきり区別し、投降した民間人を殺すことはなかったという点も、明確に描かれている。この点でも、民間人と軍人を区別せず、一億国民が総じて殉ずるべきだという日本軍の理不尽さが際立っている。(実際には米軍も空襲や原子爆弾で民間人を大量に殺害しているわけだが)

この種の戦争をテーマにしたドラマや子供向けのアニメでは、おおむね日本軍が悪で、民間人はその犠牲者だという図式が多い。悪という抽象的なものを、日本軍や軍部という実体のあるものとして分離してしまうと、日本軍さえ存在しなければあんなことは起こらなかったのだ、とか、東京裁判でA級戦犯にされたような人たちが存在しなければあの戦争は起こらなかったのだ、などといった、誤ったメッセージを伝えることになってしまう。

あれは軍部が悪かったのであって、日本の民間人は被害者だ、というぐあいに悪を局所化することで、あの写真館の一家をふくむ民間人には何の罪も無かったのだ、というメッセージには、たしかに視聴者にとって一種の安心感がある。

もちろん、冗談にも軍隊を賛美するような人間は論外、というより、単なる人間のクズだが、軍に戦争責任を押しつけておいて、自分たち民間人には何の罪も無いという考え方も、二度と戦争を起こさないために、はたして本当に有効かということを考えてみる必要がある。

『さとうきび畑の唄』のようなドラマを観ると、単純に感動できず、どうしてもこういう違和感が残ってしまう。

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2006/07/13

中村修二氏、陳腐な議論を展開

NHK教育テレビの『視点・論点』という短い番組で、中村修二が例によってアメリカの教育制度は良い、日本の教育制度はダメだという、時代錯誤も甚だしい名誉白人的な視野の狭い議論を延々とまくし立てていた。

臆面もなく陳腐化した教育論をまくし立てる彼の姿を見て、かつての努力の人もひとたび世間に持ち上げられればここまで堕落してしまうのだと憐れに思うとともに、梅田望夫氏のことを思い出した。

両氏の共通点は、「アメリカは良い(進んでいる)、日本は悪い(遅れている)」という恐ろしく単純な二元論で日本人の自虐性につけこんで、自分は知名度とそこそこの富を得ているという点だ。その論には根本的な独創性も説得性のある根拠もなく、極めて個人的な体験から得られた個人的な感想を、まるでそれが世界の原理か何かのように勝手に普遍化している点でも、両氏は共通している。

彼らのような言説をわざわざ取り上げるマスコミもどうかしているのだが、それが平均的日本人の限界であって、その限界があるからこそ、彼らのような名誉白人的な論客が「寄生」する隙間もあるということなのだろう。

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2006/06/11

『雪待ちにんにく卵黄物語』BGMのギターTAB譜

すべての日本のギタリストのために、ここに、やずやテレビCM『雪待ちにんにく卵黄物語』BGMのギターソロ用TAB譜を掲載しておく。第五話まで使用されていたギター演奏版のオリジナルキー(Am)で採譜してある。

ご存じない方のために付け加えておくと、TAB譜とは楽譜の読めないギタリストのために、ギターの各弦について指で押さえる場所を示した譜面だ。本来なら楽譜で掲載したいのだが、僕のパソコンには楽譜を記述するソフトが入っていないので、やむを得ずExcelで作れるTAB譜にした。

Excelで作ったので音の長さの指定ができないが、幸い『雪待ちにんにく卵黄物語』のBGMは8分音符より細かい符割りも、シンコペーションもないので、このTAB譜で十分演奏できる。

ではすべての日本のギタリストの皆さん。この曲を爪弾きながら、ユウキの幸せな人生を祈ろうではないか。

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2006/06/10

やずや『雪待ちにんにく卵黄物語』コメンタリー(2)

「第八話 湧水編」では、おじいさんの家に帰ったユウキが、収穫したにんにくを湧水で洗うのを手伝う場面。収穫のシーンは、肉体労働の躍動感を表現するために、このCMシリーズには珍しく手持ちカメラである。

ラスト近く、川の流れをじっと見つめるおじいさんの横顔のカットは、ユウキ目線のカメラだ。短いカットながら、微笑むでもない無言の横顔と、それを見つめるユウキの真剣な眼差しは、おじいさんがユウキに何かの決意をうながしているように見える。

「第九話 停車場編」は、にんにくの収穫を手伝い終えたユウキが、ふたたび親戚の元へもどるバスの停車場が舞台となる。初めてユウキが演技らしい演技をする回だ。土がついたままのとれたてのにんにくを手提げのビニール袋いっぱいに土産としてもたされたユウキが、バスに乗りこんだ後、振り返って、閉まりかける自動ドアごしにおじいさんに何かを言いかけようとする。

そんなユウキを見つめるおじいさんも初めて演技らしい演技をしている。意外なほど厳しい表情で、まるで郷愁にかられがちなユウキの心をいましめるかのようなのだ。その無言の叱責を理解して、ユウキは村を離れるバスの中で、ひとり小さくうなずく。

しかし、中学生のユウキが村を離れて親戚の元で、にんにくの臭いをバカにされながらも暮らす決意を強いるものとは一体何なのだろうか。

それを予告するかのように、ナレーションがかぶさる。「秋に小さな芽を出して。長い冬に向かいます」。やはりこれはにんにくのことだけを語っているのではない。ユウキに芽生えた小さな決意は、おじいさんの元を離れてクラス二度目の冬を迎えるのだ。

「第十話 雪どけ編」は、やはりにんにくの生育が、親戚の家でのユウキの生活の隠喩となっている。冬を越したにんにくは自分の体温で雪を解かすという(植物に体温があるはずがないのだが)。

それに象徴されるかのように、親戚の家で掃除を手伝うユウキと、親戚の家の娘の間に、自然な微笑がこぼれる。ようやく打ち解けることができるようになったその生活に、雑巾を絞るユウキの顔にも、安堵の笑みが浮かぶ。雪国にも遅い春がもうすぐやってくるというわけだ。

「第十一話 なごり雪編」では、親戚の家のお兄さんが家を出るための身支度を整え、それを悲しげに見つめる妹の場面から始まる。この回ではなごり雪が降るので、季節的にはおそらく大学に進学するために都会に出るのではないだろうか。

そんな親戚のお兄さんのために、ユウキは丸揚げにんにくを持たせてあげる。玄関先で母親からそれを手渡されたお兄さんが、「にんにく?」とユウキに問いかけると、ユウキは悲しげに目をふせてしまう。しかしお兄さんはユウキにむかって、にっこりと微笑みかける。

そこに降り始めるなごり雪。ユウキは複雑な表情で、親戚のお兄さんの背中を視線で追っている。ナレーションは「なごりの雪が降るころ、にんにくも伸びやかに育ち始めます」と語る。親戚のお兄さんとのわだかまりも解けて、春に向けてユウキの自立心も育ち始めるということなのだろう。出来すぎの感もある演出である。

「第十二話 さくら編」は、親戚の娘と一緒に買い物に来るユウキの場面。冒頭の親戚の娘の台詞が重要だ。「東京では三月に咲くんだって」。そしてユウキは「うっそだー」と答える。

このやりとりだけで、ユウキと親戚の娘がすっかり親友になっていることを理解させる。そして同時に、やはり親戚の娘の兄が東京の大学に通うために上京していたのだということが分かる。簡潔なやりとりで背景の状況をすべて説明する、よくできた脚本だ。

ところで、親戚一家が登場する回から気になっていたのだが、なぜ親戚一家は完璧な標準語を話しているのだろうか。青森県内の出身なら、日常生活でここまで完璧な標準語を話すとは考えづらい。また、このCMシリーズは、親戚一家に不注意で標準語を話させるほどいい加減ではない。むしろ非常に丁寧に計算されている。

だとすると、この親戚一家は一度、首都圏に出て生活していたのを、何らかの事情で再び青森に戻ってきているのかもしれない。ただ、親戚の家は立派な一軒家で、第十一話で映るその玄関の門構えもなかなか立派である。そして親戚の家には夫婦と息子一人、娘一人の四人しかいない。

この立派な一軒家は、もとはこの親戚の家のご主人の両親が建てたものに違いない。ご主人はこの家の長男で、大学進学のためか、就職のためか、首都圏で生活するようになった。そしてそこで出会った女性と結婚し、長い首都圏の生活で夫婦ともども標準語で日常生活を送るようになった。

長男、長女も首都圏の生活の中で産まれたのだろう。ところが、そこへ青森の親が病気になったとの知らせが届く。長男として親の面倒を看るために、やむを得ず会社に青森支社への転勤願いを出し、家族四人で青森の実家にもどる。

しかし、数年のうちに両親ともに他界してしまう。首都圏にもどることも考えるが、二人の子供が既に青森の町での生活にとけこんでいるのを見て、また転校を繰り返すことで子供たちの心に負担をかけたくないと、そのまま実家にとどまる決意をした。そうして長男は高校生に、長女も中学生に育ったころ、自分の両親の兄にあたるおじいさんから頼まれて、町の中学校に通うというユウキを預かることになったのだ。

自分の両親が昔、おじいさんにお世話になっているので、喜んで預かることにしたものの、一度、首都圏での生活を経験している長男、長女から見ると、ユウキはどうしても田舎の子に見える。だから初めはにんにくばかりにこだわっているユウキのことを、心の中でバカにしていたに違いない。

しかし、長男はいよいよ自分が、かつての父親と同じように、一人で東京で暮らすようになり、長女は今まで当たり前のようにそばにいてくれた兄がいなくなってしまうことから、初めて親子や兄妹といったつながりの大切さを知る。

そして、ユウキがあんなににんにくにこだわっているのは、ユウキがおじいさんのことを思う気持ちのあらわれなのだということに気づくのだ。親戚の娘は、自分が遠く東京で生活する兄のことを心配しているように、ユウキは遠く村で一人暮らしをするおじいさんを思いやっている。ユウキのおじいさんに対する思いやりは、そのままユウキのにんにくを大切にする心にあらわれている。

第十二話では、親戚の娘はそのことをもう十分に理解している。だからこそ、市場で見かけたにんにく(福地ホワイト六片)を思わず手に取り上げたユウキを見て、親戚の娘は優しく微笑むのである。

「遅い春が、青森にもおとずれました。今年のにんにくも元気に育っています。たくましく育っています」、そう語るナレーションに、仲良さそうに桜並木の下を歩く親戚の娘とユウキの笑顔が重なる。ユウキも、元気に、たくましく育っている。

もしかするとこの満開の桜は、親戚のお兄さんが上京してからすでに一年が経った、青森の遅い春なのかもしれない。

ここまで季節がめぐっても、ユウキの両親は一度も登場しない。そうなると、もしかするとユウキの両親は亡くなっているのではないかと疑いたくなってくる。おばあさんが亡くなっていることは確実のようだ。すると、小学生の最後の数年間を、ユウキはおじいさんが一人で育てていることになる。

おじいさんは、ユウキの両親が亡くなったとき、いずれ青森の町に住む自分の甥夫婦にユウキを託さなければいけないことを予想していたのだろう。自分も老い先長くはない。ユウキが自分になついてくれる、やさしい孫であることはうれしいし、いつまでも自分のもとにいてくれたらどんなにかいいだろう。

しかし、自分に残された人生を考えれば、ユウキは一日も早く甥夫婦の家族にとけこんでくれなければならない。そうでなければ、ユウキは自分を失った悲しみに負けてしまうかもしれない。

だからこそおじいさんは心を鬼にして、中学生になったらユウキを甥夫婦のもとに送り出そうと決意していたのだろう。

第一話の冒頭、ナレーションは語っている。「雪深い山里に、ある日、たった一つ、特別なにんにくが生まれました」。もちろんこれは直接には雪待ちにんにくのことを語っているのだが、おじいさんにとってユウキは、ある日、たった一人生まれた、特別な孫であることに違いない。すでに第一話から、にんにくはおじいさんにとってユウキの暗喩になっていたのである。

さて、現在放送されているのはこの第十二話までだが、次に何か「事件」が起こるとすれば何だろうか。そしてこの物語の結末はどうなるのだろうか。その一つの可能な物語については、また次回以降に書いてみたい。

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やずや『雪待ちにんにく卵黄物語』コメンタリー(1)

やずやという会社の「雪待にんにく卵黄」のテレビCMに一貫したストーリーがあることをご存知の方もいらっしゃると思う。時代錯誤のお下げ髪で無口な女の子が登場する、あのCMだ。

やずやのWebサイトの下記のページから、現在までに放送されたCM全話を観ることができる。
http://www.yazuya.com/osirase/gekijyo/1.html

舞台は青森県田子町の農村。「第一話 収穫編」はみんみん蝉が鳴いており、主人公の女の子、ユウキが体操着で学校へ向かう途中に、にんにく畑で収穫に励むおじいさんに朝ごはんを届けている。おそらく二学期が始まったばかりの初秋だろう。後で分かるが、このときユウキは小学6年生である。

「第二話 泥洗い編」ではおじいさんとユウキが、収穫したにんにくを川で洗っている。なお、このCMシリーズにはユウキの両親は登場しない。おそらくもう農業を専業としていないか、まったく農業をやめて勤め人をしていると思われる。

第二話は日が高い昼間の場面なので、土曜日か日曜日なのだろう。ユウキは第一話と同じ体操着でおじいさんのにんにく洗いを手伝っている。まだ小学生だし、農作業で汚れるのだから、学校のない日も、ユウキの普段着は体操着なのだ。

「第三話 夕食編」は心優しいユウキが、収穫したにんにくの茎を切る作業をつづけるおじいさんの夕食に、にんにくを準備してあげる場面。さて、夕食の場面にさえ両親が登場しないとなると、にんにくの収穫後の農閑期には、ユウキの両親は都会へ出稼ぎに行っているのかもしれない。

「第四話 駅舎編」では、中学生になったユウキが制服で登場する。通学途中の駅で、にんにくを焼くおばさんを見かけ、おじいさんのことを思い出す冬の場面だ。やずやのWebサイトの解説では、中学生になっておじいさんのもとを離れ、親戚の家で暮らし始めた、とある。

過疎化の進んだ山間部の中学校は廃校になってしまったのか、あるいは、とても真面目そうなユウキのことなので、勉強がよくできて、町の偏差値の高い中学校に通わせてやろうという親心から、家を離れたのだろう。

「第五話 小包編」では、親戚の家で暮らすユウキのもとに、おじいさんから小包が届く。それを知らせる親戚のおばさんのせりふ、「小包が届いてますよ」という他人行儀な言葉が、ユウキと親戚一家の微妙な距離を感じさせる。

小包にはにんにくが一杯に詰め込まれ、「からだに気をつけてください」というおじいさんからの手紙が入っている。こちらの書き言葉は、いかにも手紙を書き慣れないおじいさんが、かわいい孫のために書いた精一杯の手紙という感じがよく出ている。

しかし、この箱一杯のにんにくが、第六話でちょとした波乱を生むことになる。

「第六話 丸揚編」では、ユウキがおじいさんから贈られたにんにくを、いつもお世話になっている親戚の家族のために、夕食のおかずとして丸揚げにする。

親戚のおばさんはユウキを気づかって、自分の息子に「これもお食べなさい」とにんにくの丸揚げをすすめるが、「やだよ。クサいから」とすげない返事。となりでその妹も鼻で笑って、兄に無言で同意する。

「せっかくユウキちゃんが作ってくれたのにね」と親戚のおばさんは残念そうだが、次のカットでアップになるユウキは、悲しげな眉をしながら、唇を一文字に結んで、ただ微笑んでいる。いいえ、いいんです、と言いたげだ。

その頃、夕食をとるおじいさんは、ユウキがよく夕食に作ってくれていたのと同じ、にんにくの醤油煮を一人で食べているのだった。

「第七話 帰郷編」では、風鈴の鳴る晩夏の親戚の家の夕食の席。親戚のおばさんが心配そうな顔で、「帰るって、ユウキちゃん。学校どうするの」とユウキに問いかける。ユウキは黙ったまま。親戚のおじさんが「いいじゃないか」とユウキを気づかう。

このやずやのCM、CMということで時間が短いせいもあるのだろうが、小津安二郎作品の野田高梧の脚本を思い出すのは、僕だけではないだろう。簡潔な台詞と、役者の一本調子な台詞の言い方も、小津作品を思い出させる。単に役者が素人なせいかもしれないが。
さて、とうとうユウキは、おじいさんの家にバスで帰ってしまう。頃はちょうどにんにくの収穫期。だが、ナレーションははっきりとにんにくの収穫期は初夏だと語っている。第一話でみんみん蝉が鳴いていたのとつじつまが合わなくなるが、初夏から晩夏にかけてにんにくは収穫されると理解すればいいのだろう。

初夏ということは、ユウキは町の中学校をやめたわけではなく、夏休み中の登校日や、休み中に開講される補習には出ずに、家に帰ったということだと思われる。

「長い冬を、雪の下で耐えたにんにくは、たくましく育ちます」というナレーションが、決してにんにくのことだけを語っているのではないことは明白だ。初めて親元を離れて、長い冬を過ごしたユウキもまた、たくましく育ったに違いない。

ちなみに、僕がテレビを見ていて、このCMに一貫したストーリーがあると気づいたのは、この第七話である。

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2006/05/14

『サンデーモーニング』で浅井信雄氏の的外れな少子化対策発言

今朝のTBS系『サンデーモーニング』の「風をよむ」コーナーで「”母の日”に考える『子供』」と題して少子化問題が取り上げられていた。

そもそも『サンデーモーニング』は過去に石原都知事発言の日韓併合発言を捏造していたり、スポーツコーナー以外は真剣に観る価値のない番組だ。Wikipediaの『サンデーモーニング』の項目でも「風をよむ」は「全く的外れの主張をおこなっているときもある」とされている。

今日の少子化問題では浅井信雄が、少子化対策の「成功例」としてフランス政府の対策をあげていた。しかしこの「愛と苦悩の読者」はご存知のように、先月の『COURRIER JAPON』がフランスの出生率が上昇したのは、主に社会全体が保守化しているためだと書いていた。子供を産まない女性に対する、男性や年長の女性の「口撃」が強くなっているとのことだ。

フランスは先進国の中でも女性に対する差別が根強い国で、だからこそ50~60年代にボーヴォワールを代表とするフェミニストたちの強烈な反対運動が起こったわけだが、90年代から巻き戻しが始まっているということらしい。

もちろんこれは、あくまで『COURRIER』誌の主張でしかないが、浅井信雄氏も、フランスの出生率上昇、イコール、フランス政府が金をつぎこんだからだと発言するのは、「国際政治学者」としてあまりにおそまつではないか。

というより、浅井信雄氏の発言など、誰もそのまま信じていないのだが。

氏のプロフィールについては浅井信雄氏の所属するタレント事務所「三桂」のWebサイトを参照のこと。(『サンデーモーニング』のコメンテーターは、浅井信雄、中西哲生と、関口宏を代表取締役とするタレント事務所「三桂」の所属ってことか。なるほど)

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2006/04/20

江原啓之と美輪明宏による擬似「論理療法」

昨夜つけっぱなしのテレビで『オーラの泉』という、スピリチュアル・カウンセラー江原啓之、美輪明宏、TOKIOの国分太一が出演する番組が流れていた。江原啓之と美輪明宏がゲストの人生相談に霊能者的な観点(どんな観点だ?)から回答する番組だが、これも一つの論理療法かもしれないと考えた。

昨晩は釈由美子がゲストで19歳までの人生は悲惨だったなどの述懐をし、それに対して江原氏は、釈由美子の前世について断片的に語り始める。そして美輪明宏がそれをあざやかな手さばきで一編の物語にするという連係プレーだ。

釈由美子の前世は商家の美しい娘で、とある武家からの婚姻の申し出を断った上に、その武家の仇敵である別の武家の武士に思いを寄せている。断られた武家は娘の一家皆殺しを狙って家に火を放つが、娘だけは逃げのびて武士と駆け落ちする。最後には娘は花街に身を落とし、喉を短刀で突いて自殺した。これが江原啓之と美輪明宏が即興で創作した釈由美子の前世の物語である。

娘が自害したのが19歳だったので、釈由美子が19歳で芸能界デビューするまでの人生が悲惨だったのは当然で、美輪明宏いわく「19歳のときから、あなた自身のこの世界での本当の人生が始まったのよ」ということになる。釈由美子が舞台のスモークなどを嫌うのも、体調が悪くなるときには必ず喉から具合が悪くなるのも、すべて家に火を放たれた前世の記憶のため、というわけだ。

この物語が真実であるかどうかなど、カウンセリングの来訪者である釈由美子にとってはどうでもよい。来訪者にとって重要なのは、世界に対する悲観的な見方や考え方(認知)を変えることで、より幸福な人生を送るということである。

以前この「愛と苦悩の日記」でもとりあげた「ブリーフセラピー」の有名な事例に、すきっ歯の女性の症例があった。自分がすきっ歯であることを気に病んで暗い生活を送っていた女性に対し、セラピストは前歯の隙間からどれだけ遠くまで水を飛ばせるか、毎日練習することをすすめる。

職場の給湯室でこっそり水を飛ばす練習をしていた女性は、いきなりそこへ入ってきた男性にあやまって水をかけてしまう。それをきっかけに二人は交際するになり、めでたく結婚したという有名な症例である。

江原啓之と美輪明宏がやっていることも本質的には同じことである。来訪者は身の回りに起こる不愉快な出来事について、それらすべてが未来の悪い兆候だと思い込んでいる。その認知を変えるために、江原啓之と美輪明宏は、それは不幸だった前世の記憶が原因だという、霊感の強い釈由美子にとっては十分に説得力のある新しい解釈を提示する。

そして19歳のときに前世の影響から自由になっているのだと告げることで、釈由美子が今の悲観的な考え方を持ち続けることには、何ら根拠がないと納得させる。これで来訪者は認知を変えるだけでなく、今後の行動も変えるきっかけを与えられたことになる。

江原啓之のいかがわしい前世物語のでっち上げも、それが来訪者を説得でき、認知を変えることで行動も変える効果を持つなら、一定の価値はあると考えられる。細木数子がただひたすら自分の考え方(認知)を来訪者に対して、お説教がましく強制するのと比べると、江原啓之の方がカウンセラーとしてははるかに無害で、場合によっては存在意義さえあると言えるのかもしれない。


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2006/04/04

NHK『ニュースウォッチ9』から目が離せない

■NHKは変わろうとしているのか。4月1日から始まった毎晩9時の新番組『ニュースウォッチ9』は、テレビ朝日でもここまで徹底しているかと思うほど、政府や官庁への批判が手厳しい。今日はBSE専門調査会の専門員の半数が辞任したニュースについて、はっきりと「政府の政治的圧力があったと語る委員がいた」と報道していたし、官庁の随意契約問題では、環境庁の発注案件の93%が随意契約になっており、ホームページの作成や報告書の作成などについて、一般競争入札にすれば明らかに税金の無駄遣いが防げることを専門家の意見から実証し、公然と環境庁批判を展開していた。

僕の大学時代の先輩や同級生にもディレクター志望でNHKに就職した人が数人いたが、右か左かどちらかと言われれば左寄りの人が多かったと記憶している。従軍慰安婦のドキュメンタリー番組について、政治家の圧力があったのではないかという問題の記憶も新しい時期に起こった不祥事を経て、NHKの中で左寄りの人たちがのびのびと仕事ができるようになってきているのだとすれば、これは相当面白い見ものだ。

これからの『ニュースウォッチ9』は見逃せない。

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