映画

2009/05/07

イベントコンパニオンの「余命」の商業主義的搾取?

TBSが連日、他局にまで主演の女優・男優を出演させ、猛烈に宣伝しまくっている、実話をもとにした某新作映画。

原作の女性がAV女優だったという話題で、一時期、ネットが「祭り」状態になっていたことを初めて知った。

どうやら実話らしい。正確にはイベントコンパニオンだった彼女が、一度AVに出演しただけので、「AV女優」という表現は不適切だろう。

TBSが彼女の友人と結託して、彼女の「余命」を商売にしているという噂が事実かどうかまでは分からない。

ただ、職業の貴賎にかかわらず、一人の若い女性が乳がんで亡くなったという事実の重さに変わりはない。

それにしても、『私は貝になりたい』(2008年)もそうだが、TBSはどうしてこういう人の命の重みを問うような深刻な映画を、極めて軽薄かつ大々的に、商業主義的な宣伝ができるのだろうか。

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2008/11/08

『ホームレス中学生』は何とあの古厩監督作品!

芸人が書いた自伝小説が原作の映画なんて観る価値なし!と思っていたのだが、何と映画版『ホームレス中学生』は、あの古厩監督の作品ではないか。

古厩監督とは、言うまでもなくあの名作『この窓は君のもの』(1995年)の監督で、後に長澤まさみ、小栗旬、伊藤淳史、塚本高史という豪華キャストで、全国高校ロボット競技大会を題材にした『ロボコン』の監督としても有名(でもないか)。

映画版『ホームレス中学生』も、DVDが出たらTSUTAYAで借りて観ることにしよう。きっと長回しでじっくり見せてくれるシーンが満載に違いない。(劇場に行きたいところだが、何しろ自分で自由に使えるお金を絞られているので仕方がない)

なお『この窓は君のもの』はケーブルテレビの日本映画専門チャンネルで、2008/11/10(月)20:00~、2008/11/18(火)12:00~放送される。まだ観ていない方はぜひこの機会を逃されないように。

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2008/05/05

映画『オズの魔法使』を観て「常に既に」

たまたまザッピングしていたらNHK BSで『オズの魔法使(The Wizard of OZ)』を放送していたので最後まで観てしまった。この映画を見るのは10年以上ぶりで2回目だが、こんな映画だっただろうか?

Technicolor作品で、Dorothyがオズの国にいる間カラーになるというのは有名な話で書くまでもないが、記憶の中では鬱蒼とした森の中をDorothy一行が延々と旅するroad movieだった。実際にはエメラルドの国や悪い魔女の城の場面が大半だ。

それに、脳みそのないカカシ、心の無いブリキの木こり、臆病なライオンが最後に脳みそや心や勇気を手に入れる場面の脚本は、もっと気の利いた台詞だと勝手に美化していた。実際には、偉大なるオズの魔法使自体が機械仕掛けで、人はもともと理性と感情と勇気を持っているというオチだった。

ただし、気づいたことがいくつかあった。というより、前回観て既に気づいていたことを忘れているだけかもしれないが。

冒頭のカンザスから最後まですべてセット撮影であること。相当金がかかっている。昔の興行界では普通だったのだろうが、大勢の小人症の歌手が登場すること。

ブリキの男が登場して錆びついた体に油を挿してもらった後、地面に足の裏をつけたまま左右にゆらり、ゆらりと倒れそうになりながら倒れないというアクション。マイケル・ジャクソンの振付けのオリジナルがここにあったということ。

それでも冒頭、Dorothyが『Over the Rainbow』を歌い始めた途端に涙が流れ始めたのはなぜだろうか。嫌なことのない世界にあこがれ、空を仰ぎながら歌うJudy Garlandの歌に。

でも結局Dorothyは「やっぱりお家がいいわ」と、家に戻ってくる。苦悩にあふれたこの世界に戻ってきたことが本当に良かったのか。『オズの魔法使』は本当に観客に夢を与えてくれる映画なのか。

日本語版ウィキペディアで初めて知ったが、この映画で一躍人気女優になったJudy Garlandは典型的な破滅型の人生を送ったらしく、薬物依存症、セックス依存症、バイセクシャル。47歳で睡眠薬の大量服用で死んだという。

夢のような作品は破滅的な現実に支えられている。美は常に既に汚染されている。そうでない美は存在しないということか。

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2007/11/03

『ALWAYS三丁目の夕日』

たまたまテレビで放送していたので、『ALWAYS三丁目の夕日』(2005年日本)という映画を見た。公開当時、日本アカデミー賞総なめで話題になり、どうやら今日から続編が公開されているらしい。

凝った特殊視覚効果のわりに、お涙頂戴式の脚本によく合った抑制された脚本で、もたいまさこや三浦友和も良く、さほど悪くない映画だった。

日本人がみな太平洋戦争の陰を引きずり、これ以上悪くなりようのない希望に満ちた時代背景なので、プロの脚本家ならいくらでも泣ける話を作れるだろう。オイルショックごろまでならいくらでも続編が撮れる映画に違いない。

もっとも、これほど後ろ向きの映画もない。観終わった後、「あの頃は良かった。それに比べて今の時代は...」というため息しか出ない。よくよく考えると、何の希望も残さない、かなり残酷な映画だ。

そういえば先月、これもたまたまテレビで放送していたので『フラガール』を初めて観たのだが、脚本としてはこちらも「昔はつらくても希望があった」という感慨しか残らない。演出技術としては、フラダンスシーンの編集が細かいカット割りとスローモーションの多用で、典型的なお涙頂戴式脚本に似つかわしくなく洗練されていたのが意外だった。

その他、最近ハイビジョンとYAMAHAのホームシアターシステムで観た映画は、フランソワ・トリュフォー監督『アメリカの夜』、キューブリック監督『2001年宇宙の旅』。『アメリカの夜』は何度観ても素晴らしい映画賛歌。『2001年宇宙のたび』は1968年の作品であることが信じられない特殊効果と、キューブリック監督らしい画面の隅々まで徹底された美学に、ただただ見惚れてしまう。

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2007/08/01

追悼ベルイマン監督、アントニオーニ監督

20世紀を代表する世界的な映画監督が2人、たてつづけに亡くなった。スウェーデンのイングマール・ベルイマン(「ベイルマン」ではないので要注意!)と、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニだ。

ベルイマン作品は『処女の泉』(1959)、『秋のソナタ』(1978)、他に1950年代のモノクロ作品をもう数本見ているような気がするが、なにせ学生時代の話なので記憶が定かでない。『処女の泉』で、地面に横たわる娘のなきがらを抱き上げた瞬間、泉が湧き出るシーンは忘れられない。

『秋のソナタ』については、たしかウディ・アレンがこの作品をモチーフにしてシリアスな人間劇を撮っていたはずだが、何だっただか...。いや、ベルイマン作品の名カメラマンであるスヴェン・ニクヴィストがウディ・アレン作品を何本か撮影しているはずだ。

アントニオーニ作品では『欲望』(1966)を2回以上観ている。他には『太陽はひとりぼっち』(1962)、共同監督作品の『愛のめぐりあい』(1995)。『欲望』は記憶に残るシーケンスがいくつもあるが、『愛のめぐりあい』ではマルコビッチの演技よりも、なぜか走り去る自動車の俯瞰ショットの構図がやけに印象に残っている。

ベルイマン作品のテーマについては、ひと言で表現すれば「絶対的な絶望の向こう側に垣間見える希望」といったところだろうか。アントニオーニ作品については、テーマよりも表現技法の都会的洗練だろう。

いつごろからか自宅でさえ映画を観なくなってしまった。引越したせいで近所にTSUTAYAがなくなったこともあるが、そもそもこの手の名作映画のDVDは店舗に在庫がない。おそらく追悼上映会が近々都心のミニシアターで開催されるに違いないので、行くことにしたい。


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2006/01/04

ウディ・アレン監督『さよなら、さよならハリウッド』(2002年)

■今さらながら、4年前のウディ・アレン監督作品『さよなら、さよならハリウッド』をDVDで観た。一昨日観た中谷美紀主演映画といっしょにTSUTAYAから借りてきたものだ。脚本はウディ・アレン自身によるもので、映画監督が心因性の失明状態になりながらも、米国では酷評され、フランスで傑作と評価される傑作を撮ってしまうという彼らしいウィットの効いた物語。

監督としての映画づくりも、彼らしく計算されつくされたさりげなさにあふれている。エスクァイア誌の女性ゴシップ記者の扱いが少々中途半端な感じが残ったし、息子との和解が再び目が見えるようになるきっかけになった点も、意図的な設定であるにしても、精神分析的文脈として鼻についた。しかし、映画監督が突然失明するという設定を十分に活かしきった娯楽作になっているのは、さすがだ。

本作は2002年カンヌ映画祭のオープニングを飾っているが、意外にもウディ・アレンがカンヌ映画祭に参加したのはこれが初めてだという。この映画にも西海岸に代表される米国映画界の商業主義に対する軽蔑、フランスの映画評に対する信頼、米国人カメラマンに繊細な映像は撮れないという断言など、米国人でありながらコスモポリタンであるウディ・アレンの本質がよく表現されている。

だから僕もハリウッド映画が嫌いなのだ。ちなみにこの映画の原題は『Holleywood Ending』、つまり「ハッピーエンド」ということなのだが、映画は主役の映画監督が米国からフランスへ旅立つ場面で終わっている。


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2005/03/13

井筒和幸『パッチギ』

■出版社の人と企画の打ち合わせの後、時間が空いたので、有楽町で井筒和幸監督『パッチギ』を観てきた。井筒監督作品を観るのは初めてだが、僕のような観客にも考えるスキを与えないやや乱暴とさえ言える短いカットのスピード感ある積み重ねで一気にクライマックスに持ち込む。そのクライマックスも複数の物語の流れが一度に登り詰める否応なしの力強いカタルシス。

ぽってりした体形でおさげ髪の沢尻エリカは最近のスマートな韓国女優ではなく崔銀姫(チェウニ)のような往年の韓国映画女優を思わせて1968年という時代設定にぴったりの配役。娯楽性を犠牲にせずに在日の虐げられた歴史をしっかり語らせる点もうまい。ベテラン監督にもかかわらず、ヘンにそつないところがなく荒削りなようでいて、しかしながら細かい言い捨てたような台詞にも捨てるところがない演出は素晴らしい。


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2005/02/05

市川準『トニー滝谷』

■村上春樹原作、市川準監督『トニー滝谷』(2004年)を観た。たった75分間のほぼ全編、カメラが右へ水平移動しながらの場面転換、映像による描写を抑制する代わりに淡々とした西島秀俊のナレーション。その映像は色彩も抑えられ、坂本龍一の静かなピアノ曲とともに、まさに様式美だけで成立しているようなストイックな映画で、個人的には宮沢りえが他界した妻の洋服を試着するシーンなど、固定ショットのままもっと長回しでもいい。

トニー滝谷が妻を失ってからのワンシーン、ワンシーンはもっと長いカットでもいい。たった75分間で終わってしまうのが本当に惜しい映画で、これほどあっさりした中篇映画になってしまっていることが残念な佳作。ちなみに、最後のクレジットでキャストのところに「猫田直」の名前を見つけたのだが、どこに出演していたのか気づかなかった。女子更衣室で宮沢りえに話しかけていた同僚OLの役立ったかもしれない。


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2005/01/30

相米慎二『東京上空いらっしゃいませ』

■昨日書いたような訳で『セーラー服と機関銃』に引き続いて、相米慎二監督『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)を近所のTSUTAYAで借りてきて観た。改めて相米監督が可能な限りワンシーン・ワンカットで撮りたいということが分かる。前半のジャズクラブで三浦友和と中井貴一が話し合うシーンはワンカット5分もある。故郷の川越を訪れる牧瀬里穂が幼なじみと橋の上で久しぶりに出会うシーンも、クレーンを使いながらのワンシーンワンカット。本作でデビューの牧瀬里穂にほとんど元気な芝居しかさせない潔さがかえって彼女の魅力を引き出している。

今観るとチープな特撮はご愛嬌として、主題歌の井上陽水作曲『帰れない二人』もあいまって相米監督の隠れた名作ファンタジーだ。予想に違わず「相米マジック」にかかってしまい、今はピーターと仲良しのおばさんになってしまった牧瀬里穂のデビュー当時に完全に魅了された。この脚本の設定はよく考えると本質的に「白血病もの」に通じるね。


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二日連続、薬師丸ひろ子

■今日何となくBSデジタルをザッピングしていたら森村誠一原作シリーズの角川映画『野性の証明』(1978年)が放送されていた。二日連続で薬師丸ひろ子とは。小学生のとき薬師丸ひろ子の連絡先を探そうと、全国の電話帳が置いてある電話局に出かけて薬師丸姓を必死で探したことを思い出す。『野性の証明』はリアルタイムでは見ておらず、『セーラー服と機関銃』で熱烈なファンになった後に観ただけだが、佐藤純彌監督の演出のせいか時代のせいか、サスペンスドラマのように安っぽい映画だ。薬師丸ひろ子がカワイイことだけは間違いないのだが。

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