2008/05/05

映画『オズの魔法使』を観て「常に既に」

たまたまザッピングしていたらNHK BSで『オズの魔法使(The Wizard of OZ)』を放送していたので最後まで観てしまった。この映画を見るのは10年以上ぶりで2回目だが、こんな映画だっただろうか?

Technicolor作品で、Dorothyがオズの国にいる間カラーになるというのは有名な話で書くまでもないが、記憶の中では鬱蒼とした森の中をDorothy一行が延々と旅するroad movieだった。実際にはエメラルドの国や悪い魔女の城の場面が大半だ。

それに、脳みそのないカカシ、心の無いブリキの木こり、臆病なライオンが最後に脳みそや心や勇気を手に入れる場面の脚本は、もっと気の利いた台詞だと勝手に美化していた。実際には、偉大なるオズの魔法使自体が機械仕掛けで、人はもともと理性と感情と勇気を持っているというオチだった。

ただし、気づいたことがいくつかあった。というより、前回観て既に気づいていたことを忘れているだけかもしれないが。

冒頭のカンザスから最後まですべてセット撮影であること。相当金がかかっている。昔の興行界では普通だったのだろうが、大勢の小人症の歌手が登場すること。

ブリキの男が登場して錆びついた体に油を挿してもらった後、地面に足の裏をつけたまま左右にゆらり、ゆらりと倒れそうになりながら倒れないというアクション。マイケル・ジャクソンの振付けのオリジナルがここにあったということ。

それでも冒頭、Dorothyが『Over the Rainbow』を歌い始めた途端に涙が流れ始めたのはなぜだろうか。嫌なことのない世界にあこがれ、空を仰ぎながら歌うJudy Garlandの歌に。

でも結局Dorothyは「やっぱりお家がいいわ」と、家に戻ってくる。苦悩にあふれたこの世界に戻ってきたことが本当に良かったのか。『オズの魔法使』は本当に観客に夢を与えてくれる映画なのか。

日本語版ウィキペディアで初めて知ったが、この映画で一躍人気女優になったJudy Garlandは典型的な破滅型の人生を送ったらしく、薬物依存症、セックス依存症、バイセクシャル。47歳で睡眠薬の大量服用で死んだという。

夢のような作品は破滅的な現実に支えられている。美は常に既に汚染されている。そうでない美は存在しないということか。

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2007/11/03

『ALWAYS三丁目の夕日』

たまたまテレビで放送していたので、『ALWAYS三丁目の夕日』(2005年日本)という映画を見た。公開当時、日本アカデミー賞総なめで話題になり、どうやら今日から続編が公開されているらしい。

凝った特殊視覚効果のわりに、お涙頂戴式の脚本によく合った抑制された脚本で、もたいまさこや三浦友和も良く、さほど悪くない映画だった。

日本人がみな太平洋戦争の陰を引きずり、これ以上悪くなりようのない希望に満ちた時代背景なので、プロの脚本家ならいくらでも泣ける話を作れるだろう。オイルショックごろまでならいくらでも続編が撮れる映画に違いない。

もっとも、これほど後ろ向きの映画もない。観終わった後、「あの頃は良かった。それに比べて今の時代は...」というため息しか出ない。よくよく考えると、何の希望も残さない、かなり残酷な映画だ。

そういえば先月、これもたまたまテレビで放送していたので『フラガール』を初めて観たのだが、脚本としてはこちらも「昔はつらくても希望があった」という感慨しか残らない。演出技術としては、フラダンスシーンの編集が細かいカット割りとスローモーションの多用で、典型的なお涙頂戴式脚本に似つかわしくなく洗練されていたのが意外だった。

その他、最近ハイビジョンとYAMAHAのホームシアターシステムで観た映画は、フランソワ・トリュフォー監督『アメリカの夜』、キューブリック監督『2001年宇宙の旅』。『アメリカの夜』は何度観ても素晴らしい映画賛歌。『2001年宇宙のたび』は1968年の作品であることが信じられない特殊効果と、キューブリック監督らしい画面の隅々まで徹底された美学に、ただただ見惚れてしまう。

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2007/08/01

追悼ベルイマン監督、アントニオーニ監督

20世紀を代表する世界的な映画監督が2人、たてつづけに亡くなった。スウェーデンのイングマール・ベルイマン(「ベイルマン」ではないので要注意!)と、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニだ。

ベルイマン作品は『処女の泉』(1959)、『秋のソナタ』(1978)、他に1950年代のモノクロ作品をもう数本見ているような気がするが、なにせ学生時代の話なので記憶が定かでない。『処女の泉』で、地面に横たわる娘のなきがらを抱き上げた瞬間、泉が湧き出るシーンは忘れられない。

『秋のソナタ』については、たしかウディ・アレンがこの作品をモチーフにしてシリアスな人間劇を撮っていたはずだが、何だっただか...。いや、ベルイマン作品の名カメラマンであるスヴェン・ニクヴィストがウディ・アレン作品を何本か撮影しているはずだ。

アントニオーニ作品では『欲望』(1966)を2回以上観ている。他には『太陽はひとりぼっち』(1962)、共同監督作品の『愛のめぐりあい』(1995)。『欲望』は記憶に残るシーケンスがいくつもあるが、『愛のめぐりあい』ではマルコビッチの演技よりも、なぜか走り去る自動車の俯瞰ショットの構図がやけに印象に残っている。

ベルイマン作品のテーマについては、ひと言で表現すれば「絶対的な絶望の向こう側に垣間見える希望」といったところだろうか。アントニオーニ作品については、テーマよりも表現技法の都会的洗練だろう。

いつごろからか自宅でさえ映画を観なくなってしまった。引越したせいで近所にTSUTAYAがなくなったこともあるが、そもそもこの手の名作映画のDVDは店舗に在庫がない。おそらく追悼上映会が近々都心のミニシアターで開催されるに違いないので、行くことにしたい。


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2006/01/04

ウディ・アレン監督『さよなら、さよならハリウッド』(2002年)

■今さらながら、4年前のウディ・アレン監督作品『さよなら、さよならハリウッド』をDVDで観た。一昨日観た中谷美紀主演映画といっしょにTSUTAYAから借りてきたものだ。脚本はウディ・アレン自身によるもので、映画監督が心因性の失明状態になりながらも、米国では酷評され、フランスで傑作と評価される傑作を撮ってしまうという彼らしいウィットの効いた物語。

監督としての映画づくりも、彼らしく計算されつくされたさりげなさにあふれている。エスクァイア誌の女性ゴシップ記者の扱いが少々中途半端な感じが残ったし、息子との和解が再び目が見えるようになるきっかけになった点も、意図的な設定であるにしても、精神分析的文脈として鼻についた。しかし、映画監督が突然失明するという設定を十分に活かしきった娯楽作になっているのは、さすがだ。

本作は2002年カンヌ映画祭のオープニングを飾っているが、意外にもウディ・アレンがカンヌ映画祭に参加したのはこれが初めてだという。この映画にも西海岸に代表される米国映画界の商業主義に対する軽蔑、フランスの映画評に対する信頼、米国人カメラマンに繊細な映像は撮れないという断言など、米国人でありながらコスモポリタンであるウディ・アレンの本質がよく表現されている。

だから僕もハリウッド映画が嫌いなのだ。ちなみにこの映画の原題は『Holleywood Ending』、つまり「ハッピーエンド」ということなのだが、映画は主役の映画監督が米国からフランスへ旅立つ場面で終わっている。


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2005/03/13

井筒和幸『パッチギ』

■出版社の人と企画の打ち合わせの後、時間が空いたので、有楽町で井筒和幸監督『パッチギ』を観てきた。井筒監督作品を観るのは初めてだが、僕のような観客にも考えるスキを与えないやや乱暴とさえ言える短いカットのスピード感ある積み重ねで一気にクライマックスに持ち込む。そのクライマックスも複数の物語の流れが一度に登り詰める否応なしの力強いカタルシス。

ぽってりした体形でおさげ髪の沢尻エリカは最近のスマートな韓国女優ではなく崔銀姫(チェウニ)のような往年の韓国映画女優を思わせて1968年という時代設定にぴったりの配役。娯楽性を犠牲にせずに在日の虐げられた歴史をしっかり語らせる点もうまい。ベテラン監督にもかかわらず、ヘンにそつないところがなく荒削りなようでいて、しかしながら細かい言い捨てたような台詞にも捨てるところがない演出は素晴らしい。


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2005/02/05

市川準『トニー滝谷』

■村上春樹原作、市川準監督『トニー滝谷』(2004年)を観た。たった75分間のほぼ全編、カメラが右へ水平移動しながらの場面転換、映像による描写を抑制する代わりに淡々とした西島秀俊のナレーション。その映像は色彩も抑えられ、坂本龍一の静かなピアノ曲とともに、まさに様式美だけで成立しているようなストイックな映画で、個人的には宮沢りえが他界した妻の洋服を試着するシーンなど、固定ショットのままもっと長回しでもいい。

トニー滝谷が妻を失ってからのワンシーン、ワンシーンはもっと長いカットでもいい。たった75分間で終わってしまうのが本当に惜しい映画で、これほどあっさりした中篇映画になってしまっていることが残念な佳作。ちなみに、最後のクレジットでキャストのところに「猫田直」の名前を見つけたのだが、どこに出演していたのか気づかなかった。女子更衣室で宮沢りえに話しかけていた同僚OLの役立ったかもしれない。


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2005/01/30

相米慎二『東京上空いらっしゃいませ』

■昨日書いたような訳で『セーラー服と機関銃』に引き続いて、相米慎二監督『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)を近所のTSUTAYAで借りてきて観た。改めて相米監督が可能な限りワンシーン・ワンカットで撮りたいということが分かる。前半のジャズクラブで三浦友和と中井貴一が話し合うシーンはワンカット5分もある。故郷の川越を訪れる牧瀬里穂が幼なじみと橋の上で久しぶりに出会うシーンも、クレーンを使いながらのワンシーンワンカット。本作でデビューの牧瀬里穂にほとんど元気な芝居しかさせない潔さがかえって彼女の魅力を引き出している。

今観るとチープな特撮はご愛嬌として、主題歌の井上陽水作曲『帰れない二人』もあいまって相米監督の隠れた名作ファンタジーだ。予想に違わず「相米マジック」にかかってしまい、今はピーターと仲良しのおばさんになってしまった牧瀬里穂のデビュー当時に完全に魅了された。この脚本の設定はよく考えると本質的に「白血病もの」に通じるね。


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二日連続、薬師丸ひろ子

■今日何となくBSデジタルをザッピングしていたら森村誠一原作シリーズの角川映画『野性の証明』(1978年)が放送されていた。二日連続で薬師丸ひろ子とは。小学生のとき薬師丸ひろ子の連絡先を探そうと、全国の電話帳が置いてある電話局に出かけて薬師丸姓を必死で探したことを思い出す。『野性の証明』はリアルタイムでは見ておらず、『セーラー服と機関銃』で熱烈なファンになった後に観ただけだが、佐藤純彌監督の演出のせいか時代のせいか、サスペンスドラマのように安っぽい映画だ。薬師丸ひろ子がカワイイことだけは間違いないのだが。

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相米慎二『セーラー服と機関銃』

■夜中にBSデジタルで相米慎二監督『セーラー服と機関銃』(1981年)をついつい終わりまで観てしまった。「はじめての口づけを、中年のオジンにあげてしまいました。ワタクシ、愚かな女になりそうです、マル」。小学5年生のときリアルタイムで観て、学生時代に観て、これで3回目だ。

映画そのものの素晴らしさは言うまでもないのでここでは触れないとして、今観ると11歳の頃の僕がこの映画を観て頭がおかしくなるくらい薬師丸ひろ子のファンになった理由がまったく分からない。学生時代にリアルタイムで観た同じ相米慎二監督の『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)のときも、危うく牧瀬里穂のファンになりかけたものだ。相米マジックか?相米監督は2001年に故人となっているが、貴重な人材を失くしたものだ。


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2005/01/23

ソフィア・コッポラ『ロスト・イン・トランスレーション』

■Finally I watched 'Lost in Translation' (2003) directed by Sofia Coppola. When I was working for an automobile company, my German colleague strongly recommended this movie. I couldn't find time to go to the theatre while this movie was first-run. Even after DVD was released in video rental shops at the end of the last year, I was still waiting until we can rent it DVD for one week because newly released DVDs can be usually rented only one night. If you can't rent it for one week, you must rent it exactly the day before you watch the movie. But how can you ensure nothing will prevent you from watching it the day after you rent it? That's the reason why I need one-week-rental.

Anyway I've finally watched 'Lost in Translation'. In Japan it seems 'feminine delicacy' is stereotype evaluation of her movies since her first movie 'Virgin Suicides' (1999). I also think her script is nuance-filled and not a typical American movie. No big accidents happen. Only the situation where two Americans happen to be in Tokyo produces surprisingly stoic and low-keyed story with a kind of deep emotion after the end of the movie. The camera moves gently just like the story. Almost all through the movie, the slightly shaking frame of the handheld camera tells the uneasiness of two main characters, while some still shots with a bit longer cut are mixed skillfully.

The only American characteristics about this moive might be the fact it has a lot of music. Even a bit too much music for me. I was surprised one Japanese song called 'Kaze Wo Atsumete' is inserted not only in the sequence in Karaoke but at the end of the credit roll because this is one of my favorite songs. I'm not sure if it is only me who is irretated by some scenes slightly out of focus in the camera.

We can summarize the theme of the script like this: those who live a desperate life not decisively in desperation while they can't run away from it. I sympathize with this theme so strongly. That might be because the director is the same generation called 'X generation' as me.

ソフィア・コッポラ監督『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)をようやくDVDで観た。以前、自動車メーカーに勤めていたときに同僚のドイツ人が自分たちの置かれている状況そのものだから是非観てほしいと勧められていたが、ロードショーは逃してしまった。DVDがレンタルビデオ店に並んでからも一週間レンタルができるまで待っていたら今になってしまったということだ。

ソフィア・コッポラ監督作品については『ヴァージン・スーサイズ』(1999年)の時から紋切り型のように言われているようだが、アメリカ映画らしからぬ繊細な脚本は女性脚本家ならではということか。決定的な事件が起こるわけでもなく、異国におかれたアメリカ人二人という状況だけで意外にストイックな物語は淡々と進むが、後には静かな感動を残すというタイプの脚本。物語に合わせるようにカメラの動きも穏やかで、ほとんどがかすかにフレームが揺れる不安定な手持ち風のカットだが、スチルに近い長めのカットもうまく使い分けられている。

個人的には少し多すぎたように思うが、音楽たっぷりなところは唯一アメリカ映画らしいところ。はっぴーえんどの『風をあつめて』がカラオケのシーンだけでなく、エンドロールにまで流れてきたのには少し驚いた。ピントが甘いカットが二、三気になったのは僕だけだろうか。逃げ出したい現実に絶望しながら、しかし決定的には絶望せずに生きているという主題には共感でき過ぎて恐いくらいだが、それもソフィア・コッポラ監督が僕と同じX世代だからだろうか。


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2005/01/12

河瀬直美『沙羅双樹』

■河瀬直美監督『沙羅双樹』(2003年)を観た。DVDに収録されているメイキングの中でインタビューに答えて、監督は映画制作を得意なカレーライスでお客さんをもてなすことにたとえている。故郷の奈良を舞台にするのは秘密のスパイスを効かせて、いかに観客に楽しんでもらうか、それが映画を作るということだと明言している。

しかし『萌の朱雀』(1997年)もそうだったが、監督の作品は時に説明を省略し過ぎる。『沙羅双樹』についても予告篇を見ない限り、冒頭のシーケンスが「双生児の一方が神隠しにあった」様子を描いていることは分からない。少なくともあの兄弟が双生児であることは、カットされなかった脚本では一度も語られないままである。双生児であることを映画の題名から想像しろというのは無理な話だ。どちらかと言えば映画マニアである僕にとっても明らかに説明不足の脚本は、客観的に「観客を楽しませるための映画」などとは決して言えない。

もちろん僕はそれが悪いと言っているのではない。監督は自分の作品が極めて限られた観客にしか受容されないことに自覚的になった方が、もっと個性むき出しの素晴らしい作品を産み出せるのではないかと考えたのだ。手持ちカメラでワンシーン、ワンカット、同時録音のドキュメンタリー手法。俳優の演技も最小限に抑え、感情の抑揚もなく淡々としている。監督も言うように演出によって徹底的に作り込まれた超・人為的な「普通」である。その極北が神隠しにあった弟の生まれ変わりが産まれるという大団円によって、非常に嘘っぽい「ドラマ」になり果てている。それが気になるのだ。


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2005/01/03

利重剛『BeRLiN』

■昨日に引き続き利重剛監督・脚本の『BeRLiN』(1995年)を観た。107分の長編。正直、脚本の出来は『エレファントソング』の方がいい。主人公の「キョウコ(仮名)」の人物像がさまざまな人の証言であぶり出され、そのうち数人が消息を絶った彼女の捜索に日常生活を犠牲にしてまでのめり込んでいく。その過程で脚本の必然的な流れとして、中谷美紀演じる主役が一種の「天使」として理想化されてしまう。にもかかわらず結末は永瀬正敏と中谷美紀の二人の狭い世界に収束するのだから、さんざん伏線を引いておいて謎解きのつまらないミステリーみたいなものだ。

このアンチクライマックスの脚本を映画として観られる作品にしているのは、紛れもなく監督としての利重剛の才能だ。キャストの中ではダンカンと山田辰夫の演技が明らかに力不足だが、それでも佳作になっているのはやはり監督の才能だ。『エレファントソング』の松田美由紀の号泣は文字どおり森にこだまする「エレファントソング」として必然性はあるが(ネタバレさせないためにあえてよく分からない表現にしておく)、本作で中谷美紀にPTSDとおぼしき発作の演技をさせるのは、「キョウコ(仮名)」の根本的な弱さの提示で彼女の「天使」性を強化することにしかならない。彼女の精神異常はその前の自傷癖の描写で十分すぎるほど伝わっている。

このように脚本が空回りしている点がとても残念な作品だ。あまりに残念なので『クロエ』(2001年)も観てみることにしたい。(ちなみに昨日の日記で利重剛氏の姓名の区切りが「り・じゅうごう」となっていたのは「りじゅう・ごう」の誤りだったことをお詫びするとともに、ご指摘頂いた読者の方に感謝いたします)


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「映画」を初めて学んだ映画『地獄に堕ちた勇者ども』

■BSデジタル放送は民放各局もNHKのように地味な番組を放送しているので意外に楽しめる。BSフジは深夜にヴィスコンティ作品のノーカット放映などやっているものだから(しかもCMの量は地上波より格段に少ない)ついつい観てしまう。『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)も断片的ではあるが久しぶりに観た。ヴィスコンティ作品はこんなにズームが多用されていたかと意外に思った。確かにいちいち計算し尽くされているズームで、ズームを使ってでもワンカットで撮るのには何か意図があったのだろう。

別の場所にも書いたが、参考までに『地獄に堕ちた勇者ども』は筆者が高校時代の彼女に大阪のオフシアター(たぶん大毎地下劇場)に連れて行かれて初めて観たヨーロッパ映画で、それまで007シリーズやハリウッドのロードショー、アイドル映画ばかりを観ていた僕が、「映画を観る」ということを教えられた映画である。


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2005/01/02

利重剛『エレファントソング』

■狭い世界のついでながら利重剛(りじゅう・ごう)監督・脚本『エレファントソング』(1994年)を観た。60分の中編。1995年ベルリン国際映画祭ベスト・アジア映画賞受賞作。最近僕が観た映画とのつながりは説明不要だろう。DVD版には偶然にも『この窓は君のもの』を撮影し終えたばかりの古厩智之が監督した約12分のメイキングが収録されている。本作もプロデュースが仙頭武則だからか知らないが、本当に世界は狭い。プロの撮影現場を初めて経験する古厩監督自身の初々しいナレーション付きだ。

このメイキングを観て分かったのだが、手持ちと思ったカメラは実はロープで宙吊りにされていた。フレームが観客の潜在意識に与える影響は観客自身が思うより大きく、ロープで吊るされているのか、人間がかついでいるのか、ステディカムなのか、完全に固定されているのかでカットの印象はまったく変わる。一貫して固定カメラの作品に手持ちのカットが入ると、それは誰かの見た目ということに自動的になってしまう。映画の規則の面白いところだ。そんなことはどうでもいいのだが、メイキングで利重剛監督は「浮遊感覚」を出すのためにロープで吊るしたと語っている(正確には古厩監督のナレーションがそう引用している)。

救いを与えてくれた人の死にどう報いるかという重いテーマが、そのカメラの「浮遊感覚」と、素朴な脚本と、主演の松田美由紀のおかげで軽やかな感動を残すドラマになっている。利重剛の他の作品も観たいと思った。

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福島拓哉『自由』『JAM』

■福島拓哉監督『自由』(2003年)をDVDで観た。37分の短編映画で、同じDVDに短編『JAM』(1999年)も収録されている。この監督の作品は初めて観るのだが『JAM』の完成度は期待以上だった。プロデュースのP-kraftは映画制作・配給・上映のサイクルを自社のみで完結することを目標に結成されたクリエーター集団のようで、映像作品の受注もしているらしい。そのせいかデジタルビデオ作品のわりに、シーンごとの露出やデジタルエフェクトはよく考えられており技術的な完成度は高い。

俳優としての福島拓哉氏の演技もまったく不安なく感情移入させる。脚本もうまい。ただ『自由』については前半の女子高生の挿話部分は凡庸すぎるし、主役の女優にも不満が残る。前半の展開でヤマになる「事件」は映画の脚本としては平凡に思える。あの男子高校生がなぜ「事件」を起こすまでに至ったのかがまったく描かれず、女子高生が「事件」に巻き込まれた必然性が見えない。結果として、走る女子高生のシーケンスも、せっかくの移動撮影も含めてやや上滑りになっている。

それに対して後半は矛盾した男女の関係が、強い説得力で書きこまれていて素晴らしい。このDVDを観るなら『自由』の後半と『JAM』だけでいい。『JAM』はたった30分に濃密な主題性とスタイリッシュな映像・音楽が凝縮されて、ムダなところがない。強いて言えば主人公とその「兄貴」の具体的な挿話が一つ脚本に入っていれば完璧だと思われる。ラスト、暗転してからのセリフの残り具合も絶妙で、思わずクール!と叫んでしまいたくなる。同監督では『PRISM』というDVDも発売されているが、残念ながらサイコサスペンスで僕には観ることができない。


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2005/01/01

青山真治『EUREKA ユリイカ』

■青山真治監督・脚本・編集・音楽『EUREKA ユリイカ』(2000年)をDVDで観た。2000年のカンヌ映画祭の国際批評家連盟賞を受賞している。液晶ワイドテレビでシネスコの画面をまともに観るために画面サイズ変更ボタンを何度か押して迷ってしまった。

4時間近い映画を観るのが久々だったせいか、中盤のカットがあまりに長すぎたせいか、途中、何度か倍速再生した。バスジャック事件の凄惨な現場から生還した人々が、そのトラウマから再生する物語ということで、トラウマによるパニックに日常生活でいまだ多少の不自由を感じている僕には映画として突き放して観づらかったこともあるのだろう。カメラがあまり動かず、ロングショットと長回しが多用されている典型的なタルコフスキー型「哲学映画」で、学生時代の僕なら熱狂したかもしれないが、今の僕には一つの佳作としか評価できない。

演出は抑制が効いていて上品だし、演技も過剰なところが一つもないので基本的には好きな種類の映画であることには違いない。ただ。哲学的な主題の追求には明らかに不適切なシーケンスがひとつあった。四人の登場人物がみなサングラスをかけて高原を歩いて登っていくところだ。あのシーケンスだけで感情移入を妨げられたと言ってもいい。

それから劇場で観ていれば違ったのだろうが、同時録音の音声が聞きづらく、DVDに収録されているフランス語字幕を参考にしなければならなかった。モノクロネガをカラーポジに焼き付ける実験的な方法のモノクロ映画で、「再生」が実現したと思われるラストシーンだけがカラーになるというのは予想通りの展開。やはりこの映画に4時間近くも費やすことはなかったのかもしれない。

プロデューサーは仙頭武則。青山真治とともに音楽を担当しているのは、何と古厩監督『この窓は君のもの』の音楽の山田勲生(ちなみに音楽もあまりに気に入ったので先日『この窓は君のもの』のサントラCDをAmazon.co.jpで購入してしまった)。役所広司の妹役で出演している尾野真千子は『萌の朱雀』の主演女優。バスジャック犯役の利重剛は矢口史靖監督『ひみつの花園』に西田尚美の相手役で出演していた。役所広司に殺人の嫌疑をかける刑事役の松重豊は矢口監督『アドレナリン・ドライブ』にヤクザ役で出演していた。なんだかこの手の映画は世界が狭くって。


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園子温『うつしみ』

■園子温監督・脚本『うつしみ』(1999年)をDVDで観た。ゴダールだと思えば観ることができるビデオ作品。写真家・荒木経惟、ファッションデザイナー・荒川眞一朗、俳優・麿赤児が登場するドキュメンタリー部分と、鈴木卓爾主演のフィクション部分が編集で織り合わされている。

字幕の多用と詩的なセリフはまさにゴダール張りだが、ゴダールよりはるかに露悪的。鈴木卓爾が張子のペニスを持ち、張子のヴァギナを追いかけて走り回る妙に即物的なシーケンスはどうだろうか。あれさえなければ、案外平凡なハッピーエンドも納得できる範囲内の抒情性になったと思われる。渋谷での街頭パフォーマンスのシーケンスもあまり好きではない。

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2004/12/30

新藤兼人『縮図』

■新藤兼人監督『縮図』(1953年)を観た。溝口健二監督の薫陶を受けているにもかかわらず今まで一本も観たことがなかったので、レンタルビデオ屋にずらりと並んでいた新藤監督作品のDVDから、初期の作品を適当に選んだのがこの作品だった。

監督第四作で、原作は貧しい靴屋の娘が身売りされ芸者として身も心もズタズタになりながら家族を支えるために力強く生きぬくという徳田秋声の自然主義小説、主演は靴屋の娘・銀子役で乙羽信子、その父親役が宇野重吉、銀子を身請けする役で山村聡、山田五十鈴も出演している。

こんなにカメラがよく動く映画は久しぶりに観た。前半、芸者になったばかりの銀子が客とじゃんけん遊びをするシーケンスで、人物に寄っていくカメラがゆっくりねじを回すようにねじれていく動きや、人物の上からカメラがかぶさって乗り越えるような動き。ねじれる動きはスムーズなので機械的な機構だろうが、人物を見下ろしながら乗り越えるカットは手持ちらしくカメラが揺れる。今ならステディカムででも使うところなのだろうが、そんなものがない時代にこういうカメラの動きを要求した先進性には驚く。

もう一つ印象的だったのは、芸者の弾く三味線のアップだ。よくロックバンドのギタリストの華麗なフィンガリングをクローズアップにするため、ギターのネックの先にCCDカメラを固定して、遠近法の奥行きを効かせてフレットを撮っている絵があるだろう。新藤監督はあれを三味線でやっているのだ。もちろんあの時代に小型カメラなどないので、三味線の棹の先にカメラを固定する代わりに、おそらくカメラに三味線の棹の先を固定して、そのまま演奏させていると思われる。

本作は脚本が自然主義小説だし、新藤監督はリアリズムの作風だとも言われるが、宇野重吉演じる父親が作業している様子を、広角レンズをつかって俯瞰でとらえる奇妙に丸っこい絵なども、絵はかなり意図的に作り込まれている点が印象に残った。

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2004/12/26

学校の怪談『怪猫伝説』

■ホラーやスプラッター映画は苦手なのでほとんど観たことがないのだが、『ONE PIECE 秋コレクション』に収録されている『猫田さん』という作品が、『学校の怪談 物の怪スペシャル』で矢口監督自身によって『怪猫伝説』というタイトルでリメイクされていると知って、この部分を観るためだけにVHSビデオを借りてみた。

『猫田さん』の主演は、この作品の人間になったネコ役に入れ込んだあまり相川直から改名した女優・猫田直で、『怪猫伝説』では深津絵里が演じている。『ONE PIECE』での固定カメラ、ノーカット、同時録音ではなく、普通にカット割りのある短編になっている。深津絵里と猫田直、どちらかよりネコ役にはまっているかと言えば無論、猫田直だろう。

『怪猫伝説』でも猫田直はネコを飼っている男子大学生の同級生のチョイ役で登場しているが、『猫田さん』で猫舌という設定の猫田直が、生姜湯を冷まそうと手のひらであおぐ仕草と言い、しゃべり方と言い、『怪猫伝説』の深津絵里のカラッとした演技よりも動物的だ。猫田直はそういうしゃべり方しかできないので、ネコ役にはまるのは当然と言えば当然で、『猫田さん』は『裸足のピクニック』同様、女優との幸福な出逢いで作品の完成度が高まっていると言える。

『怪猫伝説』はワンシーン、ワンカットでない分、飼い主の男子大学生の手元のクローズアップなど、ややくどいカットもあるが、大学の廊下で深津絵里がニワトリと大騒ぎするシーンのジャンピングカットや、自転車の荷台に飛び乗るシーン、ラストでいざ男子大学生が深津絵里に思いを告白しようという場面が、自転車をこぎ去る後姿のロングショットでカットになるところなど、矢口監督らしい演出が楽しめる作品になっている。

深夜に及ぶ手術の終わったネコと手をとりながら眠る深津絵里の横顔のショットは、『アドレナリンドライブ』でラーメンを作っている間に眠ってしまう石田ひかりの横顔のショットを想起させた。静かに眠る少女の横顔のショットは矢口作品の特権的な一瞬を構成しているのかもしれない。ちなみに『ONE PIECE 秋コレクション』の最後には鈴木卓爾監督の独特の世界が広がる16mmの短編カルトムービー『おっけっ毛 ビビロボス』も収録されている。

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2004/12/23

猫田さん

■先日も書いた矢口史靖・鈴木卓爾監督の『ONE PIECE 春コレクション』『ONE PIECE 秋コレクション』だが、ビデオの短編作品集で、そもそも矢口史靖がカメラ固定、カットなし、同時録音で、編集作業もアフレコも不要の低予算作品を作ってみようと発案して、盟友の鈴木卓爾監督に呼びかけたところから始まったらしい。

一つの楽しみ方として、『アドレナリンドライブ』で主人公の青年が追い詰められて部屋のカーテンに隠れるシーンや、ガス爆発など、矢口監督の長編作品の細かなアイデアの元ネタを見つけるということがある。春コレクションの『バニー』など、オチがはっきりしているものはコントと変わらないのであまり面白みがないが、矢口作品では『春のバカ』(春コレ収録)、『猫田さん』(秋コレ収録)など、脚本のアイデアが光る作品がある。それに対して鈴木卓爾作品は不可解さやハズシ方が微妙で、ハズシ具合がくどいものが多い気がする。

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2004/12/19

風間志織『火星のカノン』

■トップページをご覧の方は既にお気づきのように「愛と苦悩の日記」を過去分も全て@niftyの「ココログ」というblogサービスに移行させた。所定の形式のテキストファイルに変換すれば、一気にサーバへアップロードできることが分かったので、JavaでHTMLを変換するバッチ処理プログラムを作成した。

HTMLファイルを解析して、日付別の日記の本文を、日付を示す文字列をキーに、本文をVectorオブジェクトに格納してHashMapオブジェクトに保存するクラスを定義し、そのクラスが作成したHashMapオブジェクトをココログへアップロードできる形式のテキストファイルに変換しながら書き出すといった感じのプログラムだ。

今までは直接HTMLファイルをテキストエディターで編集していたが、今後はテキストファイルを作成しておいて、それを「すべて選択」してココログの更新画面へ「貼り付け」することになる。勝手が変わるのはあまり居心地が良くないが、blogは世の中の流れなのでいつまでもそれに乗らないのも読者に不親切ということでデータ移行してみた。

風間志織監督『火星のカノン』(2001年)を観た。『冬の河童』(1995年)が淡々とした描写ながらも意外に余韻のある作品で、近所のTSUTAYAに『火星のカノン』の在庫があったこともあって観てみた。

公式Webサイトがまるでテレビドラマの番組宣伝のような軽めのデザインだったので、『冬の河童』に比べると作風が軟化してしまっているのかもと恐れていたのだが、しかし全くそんなことはなかった。テレビをデジタル液晶にしてから、ハイビジョン放送とそうでない映像の解像度の違いが気になって仕方なくて、ビデオを借りてきて映画を観ると粒子の粗さが余計に目立つ。この映画も16mmかと思うほどだが、実際には35mmで、撮影の石井勲氏が意図的に柔らかいタッチを狙っているのだろうか。

『冬の河童』同様、激しい感情表出のない抑制の効いた演出だが、しっかりと主人公の絹子(久野真紀子)と聖(中村麻美)の感情はこちらに伝わってくる。『冬の河童』にも出ていた和久田理人が焼き鳥屋の店主役で出演している。物語は妻子のいる冴えない中年男の公平と不倫することでしか孤独を紛らせることの出来ない絹子と、偶然知り合いになった聖が、公平から絹子を奪うまでの経緯を描いている。ヘテロセクシャルの絹子が、所詮長続きしない不倫の関係に絶望した孤独のために、同性の聖と関係を持つという展開は、こうあっさり書いてしまうと明らかに無理があるし、レズビアンの位置づけが否定的なのも気になる。

しかしローキーな映像と冷静なフレーミングは、聖との関係に完全には満足できないながらもそこに逃げ込むしかなかった絹子の心情を、かなりの説得力をもって描き出すことに成功している。同性愛を描いている映画としては、かなり僕自身の理想に近い。本質的に永遠に不完全であることが運命づけられている幸福が、きちんと描かれているからだ。

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2004/12/15

風間志織『冬の河童』

■風間志織監督『冬の河童』(1995年)を観た。『裸足のピクニック』の主演女優である芹川砂織が、ピアノ教室の生徒役でワンカット(2カットだったか)だけ出演しているからだ。DVDに予告篇も収録されていたのだが、何故か予告篇は鮮明に覚えていた。ちょうど『裸足のピクニック』や『この窓は君のもの』を観ていた頃なので、たぶん当時、名古屋のどこかの劇場で観たに違いない。

固定ショットと逆光のシーンが多い淡々とした映画で、感情表出を抑制した演出のわりに人間関係が複雑だ。写実的かというとそうではなく、河童に見立てた男の子と女の子が唐突に登場したりする。絵作りは非常に美しく、監督の作家性が前面に押し出された佳作とでも評すればいいだろうか。田辺誠一が俳優としてデビューした映画でもある。だからDVD化されているのだろう。

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2004/12/05

矢口史靖・鈴木卓爾『パルコフィクション』

■矢口史靖監督、鈴木卓爾監督の短編オムニバス『パルコフィクション』(2002年)を観た。先日、矢口監督の長編作品はすべて観たと書いたが、短編が残っている。そのうち『ウォーターボーイズ』と『スウィングガールズ』の間に撮られたのが本作。

二人は『裸足のピクニック』『ひみつの花園』と共同で脚本を書いているが、本作のVHS版に収録されているメイキングから、二人の盟友ぶりがうかがえて興味深い。矢口監督が鈴木監督の撮影風景を家庭用ビデオカメラで撮っているのだが、鈴木監督が「今日、撮りきれるかな。撮り残しがいちばんイヤだな。時間が足りないよ」とビデオカメラのこちら側にいる矢口監督に話しかけ、矢口監督が「鈴木は現場主義だからね。現場で何が起こるかにあわせる。ボクはコンテ主義」と答えていたところが印象的だった。

たしかにメイキングを見ていると、矢口監督は現場でも絵コンテをもって赤鉛筆で加筆しながら演出している様子だが、一方の鈴木監督は俳優やスタッフと話しながらシーンを作っていっている印象があった。作品そのものはナンセンス全開のスピーディーなコメディーばかりで単純に楽しめる。最後の第5話はナンセンスさとラブストーリーのバランスが絶妙な鈴木作品。夜の大きな階段のシーンは印象的で秀逸。他の作品もそうだが、鈴木脚本は強烈な個性を持っていて、わかる人はハマるけれども、『スウィングガールズ』や『ウォーターボーイズ』のような一般ウケする映画にはなれない。商業的な成功とは無縁の作家主義的な作品だと言える。興味深いオムニバスだった。

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犬童一心『ジョゼと虎と魚たち』

■犬童一心監督『ジョゼと虎と魚たち』(2003年)を観た。最近の矢口監督作品のうち『ウォーターボーイズ』(2001年)主演男優と『スウィングガールズ』(2004年)主演女優が出演しているというだけの理由。上野樹里は実年齢より4、5歳上の大学4年生と卒業1年後を演じている。

本作は大阪が舞台(ロケは東京)で上野樹里は地元の関西弁で演じているが、『チルソクの夏』『スウィングガールズ』の純朴な女子高生とはまったく違う、計算高い優等生だが女性的な弱さも(なんて書くと差別的な表現だが)垣間見せる女性を淡々と演じて、池脇千鶴演じる気丈な下半身障害者と好対照をなしている。

本作で妻夫木聡が演じる男は、観ようによっては本能だけで生きるそうとうひどい奴ということになるが、それでもいやらしさが出ないのは、妻夫木自身がもつ嫌味のなさだろう。池脇千鶴はひとこと、うまいとしか言いようがない。ラストのカット、人生を悟りきって10歳くらい一気に年をとってしまったかのような表情は、さすがだと感じさせる。という具合に俳優のことばかり書いているのは、おそらくこの監督はうまい俳優がいてこその映画監督だと考えたからだ。

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楽しめるDVD副音声コメンタリー

■そういえば『ジョゼと虎と魚たち』はDVD版を借りて観たのだが、監督、妻夫木、池脇の3人が全編コメントをしゃべっている副音声というのがついていて、そのしゃべりが興味深いのでついつい2回目も最後まで観てしまった。最近のDVDはこういうオマケがお得感を演出しているので、ついつい矢口監督『裸足のピクニック』(1993年)の期間限定生産DVDも買ってしまった。これも矢口監督と共同脚本の鈴木卓爾の全編コメンタリー副音声が付いているのだ。

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2004/11/30

矢口史靖『ひみつの花園』

■これで矢口史靖監督・脚本作品をすべて観たことになる。一昨日の日記にも書いたように最寄のTSUTAYAにはなかったので、会社からウチに帰る途中の駅にあるTSUTAYAをさがして、見つけた『ひみつの花園』(1997年)を借りた。

強烈なお金大好きキャラを演じる主演の西田尚美は、最近フジテレビのドラマ『白い巨塔』で法廷で真実を証言する看護婦役で見たばかりだ。本作で日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞している。最終的にこの主人公の女と同棲する大学の助手役の利重剛は脚本家・小山内美江子の長男で、故・鷺沢萠と結婚していたこともあるらしい。

矢口作品では常連の「引越しのサカイ」のおじさん徳井優と田中要次(『スウィングガールズ』でパチンコ屋の店主)、おそろしく太っていた頃の伊集院光、ちょい役で濱田マリ、という具合に、決してマイナーな俳優ばかりが出演している映画ではないということが分かるのだが、DVDがなくてVHSビデオで観たこの作品は、つい7年前の映画とは思えないほどKODAKフイルムの発色が悪く、監督が意図的に安っぽい張りぼて人形やプラモデルを使った「特撮」をしていることもあってまるで1960年代の映画のようだった。オリジナルがモノラル録音であることも、そう思わせた一因かもしれない。

最近の作品に比べると、人物に寄ったスチルショットが特に前半でやたらと多く、背景までセットを作りこむ予算がなかったのではないか。アフレコがされていない無音のシーンも目立つ。ちょっと信じられないくらい大胆な省略法も、どちらかと言えば予算があればきっちり撮りたかった絵が撮れないことが原因の、脚本上の苦肉の処理という面が強いのではないだろうか。

この作品が鈴木卓爾との共同脚本になっているから、最近の矢口作品にはないかっとび感があるのだという説もあるが、予算制約説の方が本当なのではないかと思う。省略しすぎじゃないかというシーケンスと、ここは省略してもいいだろうというシーケンスのバラつきが、個人的にはかなり目についた。

たった2年後に撮られた『アドレナリン・ドライブ』と比べても、編集のバランス感覚は雲泥の差がある。それをB級スラップスティックの魅力が失われたと感じるのか、矢口監督が本来撮りたかったものが撮れる予算を確保できるようになったと見るのか。僕は矢口監督の才能がだんだんと発揮されるようになってきていると見たいのだが。

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2004/11/28

矢口史靖『アドレナリン・ドライブ』『ウォーターボーイズ』

■久しぶりに短い間にたくさんの映画を観て、やっぱり映画は僕が帰っていくべきひとつの場所だと感じたので、前回日記を書いてから矢口史靖監督『アドレナリン・ドライブ』(1999年)『ウォーターボーイズ』(2001年)を観た。これで矢口氏単独での監督長編作品はあと『ひみつの花園』(1997年)を残すだけだ。

近所のTSUTAYAにはないのでなんとかどこかのTSUTAYAで探し出さなければ。こういうときに会員証が全店舗共通になったのは便利だ(目ざとい読者ならすでにTSUTAYAについてのエッセーが削除されていることにお気づきかもしれない)。『ウォーターボーイズ』はおそらくいちばん商業的には成功しているのだろうけれど、脚本としてはほぼ破綻している。

『スウィングガールズ』のパンフレットの中で監督自身が語っているように、竹中直人演じる水族館のイルカの調教師役は「超ご都合主義」が本領の矢口脚本にしても、位置づけのよくわからない役柄になっている。プールの水道料金や魚の弁償など、金銭的な問題が出てくるのに、男子高校生たちの家庭環境はまったく隠されたままだ。その意味で『ウォーターボーイズ』は脚本・映像とも、男子高校生たちだけに依存しすぎていて映画としては計算が甘い。

『アドレナリン・ドライブ』ははるかに超ご都合主義的脚本が冴えていて、最後のどんでん返しも粋なハッピーエンドとして、純粋にフィクションとして十分楽しめる。それ以上の感想についてはYahoo!JAPAN MOVIEに書いたレビューを参照いただきたい。たいしたことは書いていないけれど。

このレビューで書いたジャンピングカットだが、そう言えば『スウィングガールズ』でも高校野球の予選大会で、山河高校攻撃の九回裏、ラストバッターの最初の2ストライクのシーンで使われていた。

それからこれら3作品に共通する要素として眼鏡の女の子がいる。このテーマについても『ウォーターボーイズ』は消化不良だが、『アドレナリン・ドライブ』の石田ひかりと『スウィングガールズ』の本仮屋ユイカは脚本でよく活かされている。テレビのニュースにしても3脚本共通で、矢口監督のお決まりの道具立てのようだ。『アドレナリン・ドライブ』では石田ひかりが札束の入ったナップサックを横取りした男を救命して警察表彰される下り、『ウォーターボーイズ』では高校生たちがスクープ狙いの一般市民の誤解から一躍有名人になってしまうシーン、『スウィングガールズ』ではご承知のとおり食中毒の場面で使われる。

そういえば警察表彰というのは『アドレナリン・ドライブ』と『スウィングガールズ』に共通する道具立て。軽快なアコースティックギターでBGMが処理されている部分もよく似たシーンが見つかる。要するに矢口監督作品は、やはり一連の大いなるワンパターン・スラップスティックコメディーとしてアタマをからっぽにして楽しむコメディだということがよくわかる。しかも最近の邦画のコメディとしては、演出はかなり上品である。

『ウォーターボーイズ』で、『ベニスに死す』のマーラーの交響曲第五番第三楽章が流用されていたのにはすこし驚いたが、こういう名作の引用やパロディに限らず、矢口監督は基本的にクローズアップからロングショットまで、とてもまじめに演出をする人であることがわかる。だから僕のようなクソまじめな人間が観ても心から笑える映画をちゃんと作れる監督なのだ。今から次回作が楽しみである。

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2004/11/21

李継賢『思い出の夏』

■昨日は日比谷シャンテシネで『やさしい嘘』(2003年)を観て、その夜はTSUTAYAで借りてきた李継賢(リー・チーシァン)監督『思い出の夏』(2001年)を観た。中国映画である。原題は『王首先的夏天 High Sky Summer』で、主人公の少年、王首先の夏の空という意味だ。

中国山西省の小さく貧しい村に北京から映画の撮影隊がやってくる。村でただ一つの小学校に通う子供たちと撮影隊との、夏の短い期間だけの交流を描いた映画で、キャストは2人を除いてすべて素人。子供たちはほんとうに中国の農村に暮らす子供たちらしい。この映画そのものが脚本の内容とダブり、なかばドキュメンタリーのような作り方の作品になっている。演出は全体としてやや中国映画らしいクドさはあるけれども、主人公の少年は、まったくの素人にどうやってここまでの演技をさせたのだろうと驚くほどだ。広大な自然をいかしたロングショットが印象的で、すこしキアロスタミを思わせるようなところがあった。

しかし撮影隊の助監督が道に迷った少年をついに見つける場面など、場面によっては人物に寄るべきではないかと思ったところもある。また、ラストのビデオ映像の長い引用は、すこし監督自身の感傷が入りすぎではないか。いずれにせよ力強い倫理観に裏づけられたこのタイプの中国映画は、退廃的な中国映画よりは個人的に好きだ。

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トリュフォー『あこがれ』『突然炎のごとく』

■そして今日は今日で、池袋のいつの間に改装されていた新文芸座でフランソワ・トリュフォーの2本立て『あこがれ』(1958年)『突然炎のごとく』(1961年)を観てきた。以前にも書いたようにトリュフォー作品は好きでたくさん観ているのだが、短編の『あこがれ』は初めてだ。現代のわれわれが観ると、そのエロティシズムはすこし素朴すぎて思わず笑ってしまいそうになるが、実験的な手法が随所に使われていて興味深い。そして『突然炎のごとく』は2回目なのだが、まるで初めて観たかのような新鮮な驚きがたくさんあった。それについてはまた日を改めてゆっくりと書きたい。

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2004/11/03

三谷幸喜『笑の大学』

■三谷幸喜脚本、星護監督『笑の大学』(2004年)を観てきた。三谷幸喜の脚本だけでほとんどもっているような映画なので、この脚本を舞台で観た人は、この映画を観る必要はないかもしれない。テレビや映画で『世にも不思議な物語』を演出しているだけあって、星護監督の映像上の演出は、二人の対話の切りかえしショットのフレーミングや、照明の工夫などツボをおさえている。

ただ、コメディ映画であるにしても、『石川三十五郎』の舞台の小松政夫のカットバックはくどいし、劇場に入っていく役所広司を、建物の中まで追っていくシーケンスは、あそこまで撮る必要があったかどうかは疑問だ。検閲室で役所広司が警官役を演じて、初めて芝居の面白さに歓喜するシーンも、テレビ向きの過剰演出ではないか。それでも脚本の面白さを味わうのに邪魔にならない映像という意味では、映画として十分楽しむことができた。この脚本をより多くの人たちが観られるように映画化した功績は大きい。

脚本に話を移すと、『笑の大学』はコメディと言っても、かなりまじめなコメディだ。扱っているテーマは、三谷幸喜自身の喜劇作家として