音楽

2009/11/18

「鬼束ちひろ全曲カバー計画」になりそうな勢い

今日も、夜7時から9時のゴールデンタイムに爆睡。

一日出社するだけで心身とも疲弊し、もうろうとした意識で帰宅し、食事をとり、ゴールデンタイムに眠る。

その後、お風呂に入ってから、鬼束ちひろの『帰り路をなくして』『僕等 バラ色の日々』『edge』『We can go』『螺旋』『call』『声』、Jewelの『Foolish Game』などの歌の練習をしていた。

この分だと、「鬼束ちひろシングル全曲カバー計画」ではなく「鬼束ちひろ全曲カバー計画」になりそう。

ただ、『いい日旅立ち・西へ』だけは歌いません。
当然でしょ。鬼束ちひろの作った歌じゃないんだから。

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2009/11/16

あえて、柴田淳と鬼束ちひろのファンを比較する

先日、mixiの某女性シンガーソングライターのコミュニティーを退会したと書いた。実名を出せば、柴田淳のコミュニティーだ。

このコミュニティーの運営に、柴田淳やビクターのスタッフは全く関与していない。純粋にファンが立ち上げて、運営している。

退会した理由は、先日も書いた通りだ。

新譜『ゴーストライター』に関するトピックで、あるアマチュアミュージシャンが、プロデューサの起用やミックスなどについて、ちょっとプロっぽい批評を書いた。

すると、知ったかぶりするな、音楽は心で聴くものだ、など、幼稚な反論が噴き上がり、ちょっとした「炎上」になったためだ。

これでは、mixiの柴田淳コミュニティーでは、柴田淳を無条件に礼賛し、励ます書込みしかできない。いかにも日本的な、「空気」による言論統制がしかれたコミュニティーになってしまっているのだ。

ところが、ファンクラブ専用サイトの掲示板でも、同じことが起こった。

ニューアルバムの1曲目の『救世主』がロックとは言えない、柴田淳の声質に合っていないという意見に対し、柴田淳を擁護する非論理的な反対意見が出てきた。

柴田淳本人は、ファンどうしのやりとりを、いろいろな喜怒哀楽と表現し、自分の反省材料にしたいと、ファンクラブ専用ブログに、いったん書込んだが、すぐに削除した。

いつも比較対象にして申し訳ないが、鬼束ちひろのmixiコミュニティーを見てみよう。

ニューアルバム『DOROTHY』の、特に『STEAL THIS HEART』のプロモーションビデオに対する意見は、賛否両論、真っ二つに分かれた。

しかし、鬼束ちひろのコミュニティーは、ある人の批判に対して、別の人が感情的にかみつくといった「炎上」には発展していない。

良く言えば、皆さん冷静。悪く言えば、他人の意見に無関心。

柴田淳に対して、少しでも批判的なことを書くと、「柴田淳の味方」のファンの皆さんが次々登場して柴田淳を擁護し、批判的なことを書いた人物に反撃するのとは、とても対照的だ。

ファンが集まったときに形成される空気感に、これだけの差が生じるのは、なぜか?

その最大の原因は、柴田淳や鬼束ちひろ本人の振る舞い方だろう。

柴田淳の魅力は、作品の制作過程や、本人の率直な心情が、公式サイトの日記などに公開される。

そのため、ファンの中には、柴田淳という人の特定の側面に対して、感情移入しすぎてしまう人たちが出てくる。

もちろん、これは柴田淳の責任ではない。

柴田淳といえども、単なる商業音楽のアーティストの一人であり、別にファンの一人ひとりと情緒的な関係があるわけではない。

ファンは、柴田淳の作品に対して、対価を支払うことで、この社会のなかで、一定の法則やルールにそった「アーティスト」と「ファン」というコミュニケーションのゲームを楽しんでいるのである。

ところが、柴田淳がブログで心情を吐露すると、それに対して本気で感情移入してしまうファンも出てくる。

「アーティスト」と「ファン」という、あくまで大人の距離を保った関係性を超えて、まるで自分自身が柴田淳の心情を代弁できるかのような錯覚を抱くファンが出てくる。

少し昔の事例でいえば、某アイドル歌手が事務所の窓から投身自殺したとき、後追い自殺したファンのようなものだ。

柴田淳のファンには、良くも悪くも純粋な人の割合が高く、容易に彼女に感情移入して、一切の批評・批判を許さないという「親衛隊」的態度をとってしまうのだ。

一方、鬼束ちひろも、雑誌のインタビュー記事などで、かなり率直に自分の心情を吐露するタイプだ。

自責の念の強さと、自信の強さが同居しつつ、内攻的で、頑固な点など、柴田淳と鬼束ちひろには、性格の共通点が多い。

しかし、鬼束ちひろは、ファンの同情を徹底して拒絶する。

作品を作るにあたって、あてにできるのは自分だけ。自分の苦境に際しても、ファンに助けを求めたり、傷をなめ合うようなジェスチャーは全く見せない。

もっとも、そのせいで、活動を休止しなければいけないほど、悪い精神状態に追い込まれてしまうのかもしれないが...。

柴田淳とそのファンたちは、一つの心理的なつながりのあるコミュニティーを形成している。その意味で、柴田淳は「姉」っぽい。

それに対して、鬼束ちひろが関係を結ぶのは自分自身と、「神様」としか呼びようがない超越的な存在だ。鬼束ちひろのファンたちは、彼女と超越的な存在との関係を、かなり距離をおいて取り巻きながら、祈るように見つめるしかない。その意味で、鬼束ちひろは「巫女」っぽい。

こうしたファンとの関係性の違いが、mixiのような場所で、ファンが形作るコミュニティーの性質に反映している。

こんな風に客観的に分析してみると、なかなか面白いし、柴田淳と鬼束ちひろのそれぞれのプロモーション活動にも、この違いが反映されている気がする。

どちらのファン・コミュニティーも、「諸刃の剣」だ。

柴田淳のファンが作るコミュニティーは、仲間意識が強くなりすぎて、排外主義的になるおそれがある。というより、すでに、そうなりつつある。すると、ファンは減ってしまう。

中島美嘉のファンくらいの母数があれば話は別だが、決してメジャーとは言えない柴田淳のファンが、「柴田淳の味方」を標榜するあまり、排外主義的になるのは、商業的にリスクが高い。(=柴田淳が生計を立てられなくなるおそれがある)

鬼束ちひろのファンが作るコミュニティーは、ファンどうしのつながりが希薄すぎて、口コミによるファン層の拡大が望めない。コアなファンが固定化され、それ以上広がらないおそれがある。

『月光』というメガヒットがある鬼束ちひろのファンは、おそらく少しずつ減少して、今はなんとか一定数を維持している状況だろうが、これ以上、劇的にファンが減るリスクはあまりない。

音楽シーンにおけるポテンシャルは、正直言って、鬼束ちひろの方が大きい。

鬼束ちひろは、王道バラードと、ロック(それも時代遅れのハードロックではなくオルタナ)の両方に対応できるスタッフがいるし、『Tiger In My Love』のような曲の頃から、それを受け入れるファン層がいるからだ。

対して、柴田淳は、どうしても王道バラード路線がメインだ。なにせ、『救世主』のようなロック(っぽい)曲がアルバムに1曲入るだけで、ファンどうしが、ロックだ、ロックじゃないだの、激しく口論するような状態なのだから。

鬼束ちひろなら、フジテレビの『僕らの音楽』で、ニルヴァーナを原曲と全く違うアレンジでカバーしても、ニルヴァーナが何であるかを知っているファン層が確実に存在する。

しかし、柴田淳が『救世主』のような曲をアルバムに入れると、ファンから出てくる名前は、ボン・ジョヴィ、モトリー・クルー、浜田麻理、挙句はカルメン・マキと、時代錯誤もはなはだしい。

個人的には、柴田淳がロックをやるなら、ロックに関してこの程度のレベルのファンたちの理解を完全に超えているようなロックをやるべきだと思う。

分厚いディストーション・ギターで、サビにはちゃんとコーラスも入ってます、みたいな耳触りのよいハード・ロックではなく、サビ以外はベースしか鳴っていないようなスカスカの音とか、リード・ギターとサイド・ギターのリズムがバラバラだとか。

そこまでやる気がいないなら、柴田淳は、この21世紀に下手にロックに手を出さない方がよい。バート・バカラックのような、極上のメロディーメーカーとして、やっていける天才なのだから。


※ちなみに柴田淳のアルバム『ゴーストライター』のレビューは以下のページをご参照ください。
「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(1)天才的メロディー」
「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(2)歌詞と性差」
「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(3)不可能の果てに」

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2009/11/15

『音楽と人』2007年11月号鬼束ちひろインタビューを分析!

今日も意味もなく倦怠感。でも部屋にいても鬱々とするだけ。

東梅田駅からディアモールをぶらぶら歩き、大阪マルビルのTOWER RECORDSに立ち寄ったら、鬼束ちひろのインタビュー記事のある雑誌『音楽と人』2007年11月号を発見。迷わず購入。

夕方の公園(たぶん新宿御苑?)で撮影された写真は、この時期特有の表情。ストレートのロングヘアで、眉間にしわを寄せたまま、完全に表情が固まっている。まったく、笑顔がない。

インタビューも、あまり会話として成立していない。

何か所か、僕の注釈をはさみながら引用してみる。(インタビュアーは青木優。男性だ


(「Sweet Rosemary」の歌詞「人生は長いのだろう」についての質問)
―(略)失礼ですけど鬼束さんって、今おいくつですか?
「27になります」
―それで<人生は長い>と思うのって、どういうものですか。
「なんとなく、そう思ったんです」
―人生がこの先も長いのは、楽しいことだと思います?
「ううん」
―思わないですか。何でですか。
「べつに長く生きようと思ってないから」
―うーん。じゃあ楽しく生きようって思うもんじゃないですか。
「うん……私はそうじゃないんですね」
(中略)
―<せっかくだから楽しく生きればいいな>とか思いません?
「思わないな」
―ずっとそういう考えですか。
「うん。いや、物心ついてから。ジェットコースターのように行きたい」
―ジェットコースターみたいに?日々を全力で、ですか。
「全力とは違う」
(※注釈:インタビューアーはジェットコースターという乗り物を、乗客が運転しているわけではないことに気づいていないのだろうか。鬼束ちひろがここでジェットコースターという比喩を使ったのは、どちらかと言えば、自分の意思とは無関係に、激しく自分が振り回されることを表現したいのだろう)
―激しく?
「うん……そういうのが好きなんですよね」
(中略)
―ご自身ではどういうところが他人に比べて激しいと思います?
「まず感情ですね」
―つまり爆発しちゃう時が。
「あります」
―そういう時は、どんな感じになるんですか。
「ああ……怒鳴ったりするかな。怒鳴り口調になったりするかも」
―ほんとですか。あと、想像すると……泣きわめくとか?
「ああ、ありますね」
(※注釈:と、答えている鬼束ちひろは、おそらく淡々としていたに違いない)
―どういう瞬間にそうなっちゃうのか、自分でわかります?
「急になる時がありますね。不意に」
―なんかいろいろ考えてて?
「うん。でも、ひとりなんですよ」
―あ、そうなんですか。そんな自分をどんなふうに思います?
「生きにくいなぁと思います」
―(中略)ここには大人になっていくことの中で生じるジレンマや揺らぎを感じたんですよ。その収まりの悪さって持ってるんじゃないですか。
「そうですね」
―それはいつぐらいに生じたか、覚えてます?
「中学生ぐらい」
―周りとなじめなかったとか?
「なじんだふりをしていました」
―(中略)でも高校出て10年も経つと、社会で受け入れなきゃいけないことも経験してきたんじゃないですか。
「うん……いや、しなかったです。そういう場所には一度もいたことがない」
―わりと好きなことをやってきた感じか。それにたどり着けた自分はどう思いますか。
「まだ、たどり着けてないですね」
―あ、話が戻ってきましたね(笑)。

Onitsuka_ongakutohito20071101

最近僕は思うのだが、活動休止前の『インソムニア』『This Armor』『SUGAR HIGH』の3枚のアルバムは、実は3枚組で発売できたアルバムで、一貫して、鬼束ちひろとプロデューサーが同じテンションで制作したのではないか。

その間、鬼束ちひろは作詞・作曲に集中して、その他の全ての「大人の事情」に関わる仕事を周囲のスタッフに任せていたに違いない。

ただ、そのテンションを維持できた条件が無くなったとき(それが何かは分からないが)、鬼束ちひろは不意に、無防備なまま「大人の事情」の中に放り出され、スタッフが取り次いでいた聴き手とのつながりを切断され、一人で歌と向き合う自分以外の何も見つからなくなったのではないか。


―(中略)自分自身に。好きになれないところが多いんですか。
「とこばっかりですね」
―そうですか。でも、みんな大なり小なりそういうところがあると思うんですよ。あなたもきっと折り合いをつけようとしてるんじゃないかなと思うんですけど……。
「つけれないから、こういう曲(※注釈:『MAGICAL WORLD』と『Angelina』のこと)を書くんだと思います」
―うん、そう思います。性格のどういうところが嫌いなんですか。
「感情の激しいところ…………執着しやすいところ」
―(中略)それは歳を重ねるごとに軽くなってます?それとも……。
「……重くなってる」
―はあー、ほんとですか。何で重くなってるんでしょうね?
「そのぶんだけ、いろいろ知るからだと思う」
―あ、経験は増えるけど、合わせることはできないと。じゃあ<何でこうなってるんだろう?>とか<何でこんなのを義務づけられてるんだろう>と思うことってあるんじゃないですか。
「……………………いっぱいありすぎて、困るんですよね」
―いっぱいある。自分がそれに対処しきれなかったりします?
「はい」
―(中略)ひさしぶりの作品を作り終えてみて今、どんなふうに思います?
「……いや、いいアルバムになったなと思います」
―はい。全力を尽くしたなという気がします?
「全力は、まだ尽くしてない」
―(中略)<もっともっとできるはずだ>と。<まだ自分の中から何か出てくるはずだ>って?
「うん」
―じゃあ苦しんだところってありました?
「やっぱりブランクがあったから、歌にすごい……」
―(中略)これを作って、何か見えたことってあります?
「とくにないです」
―自分はこういう人間だなとか。
「……それはとうにわかっているので」
―そうですか。今後<こんなことを唄いたいな>と感じるものってあります?
「長く唄えるものを作りたいですね」
―ずっと唄っていける歌?
「はい」
―ふーん。そんなふうに思われたのって、今までもありました?
「あんまりなかったですね」
―(中略)じゃあ音楽でこれからどんな活動をしていきたいと思います?
「マイペースで……自分自身を見失わないように」
―見失ってしまった時期が。
「うん……そうですね」
―今はちゃんと見えてます?
「(うなずく)」
―じゃあ今後どんな人生を送っていけたらいいと思いますか。
「…………ジェットコースターのような」

これでインタビュー記事は終り。見事なオチが付いている。

もちろん、以上はインタビューのごく一部なので、鬼束ちひろファンならAmazon.co.jpでバックナンバーを入手せよ!
Amazon.co.jp:『音楽と人』2007年11月号

ところで、名状しがたい居心地の悪さについては、『ROCKIN'ON JAPAN』2002年2月の2万字インタビューの方が分かりやすく表現されている。
以下、p.045からの引用。


「(略)でもたぶん、孤独とか不安ていうのはずっとあったと思うの、小学校の頃から。なんなんだろうこれはと思って。陸上も頑張ってきたし、勉強とかもできたけど、満足なんてしたことないし。満たされたことなんてなかったし、今も満たされてないし。もうずっと潜伏してる感じ。もうずっとあたしと一心同体なの、不安とか孤独とかが。もちろん楽しいこととかもあるけど、そんなのより孤独とか不安のほうが全然多くて。高校の時とか、ほんとに、もう、自分の中でそれを持て余してたと思うの。もうほんと、悶々としてましたね、高校の頃なんか特に。『わたしはここにいていいのかな』とか『わたしの居場所はここなのかな』っていう、そういうほんとに漠然としたことを悩んだりとか」

例の「システムとしての孤独」論だ。

それになぞらえれば、ジェットコースターの比喩は、「システムとしての人生の不条理」論と言える。

システムとしての孤独が、鬼束ちひろの作詞・作曲の源泉になり、その結果として自分では制御不能な、激しい変化の中に放り込まれて、振り回された、と。

そのような状況を、ジェットコースターなどの比喩をつかって客観視できるようになるまでの数年間が、活動休止期間で、それが自分を見失っていた時期ということだろう。

……えっと、鬼束ちひろのインタビュー記事を分析して、僕は一体何がしたいのか分からなくなってきた。

いまだにはっきり覚えているのだが、中学三年生くらいの頃、塾に行くために、大阪のJR阪和線に弟や女友達と一緒に乗っていて、女友達のうちの誰かに、長生きしたいかと聞かれて、「長生きなんかしたないわ(関西弁)」と答えた。

僕はもう40歳近くになってしまったが、すでに十分人生は長いと感じる。長すぎるくらいに長いと感じる。まさかここまで長生きするとは思わなかった。もう十分だと感じる。

というのも、上記のインタビューで鬼束ちひろが言っているように、世の中を知れば知るほど、世の中に適応できない自分自身が、どんどん重くなってくるからだ。

10年前は、まだ、もしかすると世の中、特にサラリーマン社会というものが、グローバリゼーションという外圧で、自分の思う方向に変わるかもしれないという希望があった。

しかし、グローバリゼーションによる変化によっても、僕自身にとって適応不可能なサラリーマン社会の側面は変わらないばかりか、かえって強化される結果に終わった。

不適応による精神的負担は、これからもますます重くなっていくばかりだろう。もう、諦めるしかない。

この日記は、一体何が書きたかったんだ?単に「鬼束ちひろ」でググったときのページランクを稼ぎたいだけだったりして。

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2009/11/14

鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(3)クレジットを熟読する

2009/10/28発売、鬼束ちひろのニューアルバム『DOROTHY』について。

最初に書いておくと、この鬼束ちひろ2年振りのアルバム『DOROTHY』は、クズみたいなJ-POPが氾濫している中で、2009年、正統な意味で聴くに値するアルバムの一つである。

前々回は「鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(1)その形而上学的構想について」、そして、前回は「鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(2)アレンジの劇的な変化」と題して、まともにレビューをした。

しかし、今回はレビューではなく、歌詞カードに書いてある各曲のクレジットが、すべてローマ字なので、漢字に書き直し、一体どんなミュージシャンが『DOROTHY』を支えているのかを調査してみる。(以下、敬称略)


1.『WHITE WHALE IN MY QUIET DREAM』

この曲は、細野晴臣氏と親交があるというベテラン浜口茂外也(はまぐち もとや)の演奏する、アイルランドの太鼓ボーラン(bodhran)だけというシンプルな伴奏。


2.『陽炎』

ピアノ:坂本昌之
ベース:ベテランの松原秀樹。氏は現在、パーカッションの斎藤ノブ率いる(?)Vibes(ヴァイブス)というグループでベース担当。
ドラムス:江口信夫。同じく現在はVibesのドラマーとして活躍しておられる。
エレキギター&アコースティックギターベテランの古川望。兄の古川初穂と1982年にプログレ・フュージョンバンド『羅麗若(ラレイニヤ』でデビューしたらしい。
ストリングス:弦一徹ストリングス。弦一徹はバイオリン奏者としての芸名で、本名は落合徹也。坂本昌之氏がプロデュースした平原綾香『Jupiter』にも、弦一徹ストリングスとして参加している。なるほど『Jupiter』つながりね。
バイオリン:弦一徹、金子芳子、梶谷裕子、永田真希
ヴィオラ:森琢也、Chikako Nishimura(この方は調べがつきませんでした)
チェロ:森田香織、唐沢安岐奈(男性で読売日本交響楽団の団員)


3.『X』

ピアノ&プログラミング:坂本昌之
ベースベテランの美久月千晴。2004年、櫻井和寿、小林武史を中心に編成された、Bank Bandに参加しているので、小林武史つながりか?
ドラムス小田原豊。レベッカの3代目ドラマー。ベースの美久月千晴とは「DON'T LOOK BACK」というバンドに1998年~1999年に在籍。ちなみに、柴田淳のアルバム『ゴーストライター』の1曲目『救世主』のドラムも担当している。
エレキギター西川進。椎名林檎のバックバンドもやっていた有名なギタリストらしい。柴田淳のアルバム『ゴーストライター』では『雨』のギターを担当。
ストリングス:弦一徹ストリングス
バイオリン:弦一徹、森琢也、門脇大輔、永田真希
ヴィオラ&バイオリン:金子芳子、梶谷裕子
チェロ:森田香織、謝名元 民(じゃなもと・たみ。沖縄出身、東京交響楽団チェロ奏者)


4.『ストーリーテラー』

Wurlitzer(ウーリッツァー、電気ピアノの一種):坂本昌之
ベース:ベテランの高水健司(1951年神戸生まれ)。1977年ごろから10年間、松任谷由実のレコーディングに参加。
ドラムス、ダラブッカ(中近東の太鼓)、ジャンベ(西アフリカの太鼓)鶴谷智生
エレキギター&アコースティックギター今剛(こん・つよし)。たぶん坂本昌之とは、中島みゆきつながり。
シェケレ(西アフリカの打楽器)、シェイカー、プイリ(フラ打楽器):浜口茂外也。1曲目でボーランを演奏している方。
ブルースハープベテランのブルースハープ奏者、八木のぶお


5.『STEAL THIS HEART』

ピアノ&プログラミング:坂本昌之
ベース:高水健司
ドラムス&タンバリン河村"カースケ"智康。白井貴子のバッグバンド(クレイジーボーイズ)のドラム担当。2007年のap bank fesに参加している。
エレキギター:西川進


6.『I Pass By』

ピアノ&ハモンドオルガン:坂本昌之
ベース:美久月千晴
ドラムス:小田原豊
エレキギター&アコースティックギター:今剛


7.『帰り路をなくして』

ピアノ:坂本昌之
ベース:美久月千晴
ドラムス:鶴谷智生
エレキギター&アコースティックギター:今剛
ストリングス金原千恵子ストリングス。
バイオリン:金原千恵子、大久保祐子、藤家泉子(ふじいえ・もとこ)、佐分利恭子、押鐘貴之(この方は中島美嘉『見えない星』でもバイオリン担当)
ヴィオラ:古河原裕仁、山田雄司
チェロ:堀沢真己、増本麻理


8.『Losing a distance』

ピアノ&ハモンドオルガン:坂本昌之
ベース:松原秀樹
ドラムス:江口信夫
エレキギター&アコースティックギター:古川望
(この曲は『陽炎』と全く同じメンバー)


9.『ラストメロディー』

ピアノ:坂本昌之
ベース:美久月千晴
ドラムス:河村"カースケ"智康
エレキギター&アコースティックギター:西川進


10.『蛍』

ピアノ:坂本昌之
フレットレス・ベース:松原秀樹
ドラムス:江口信夫
ガットギター&ブズーキ:古川望
(ここまで『陽炎』『Losing a distance』と全く同じメンバー)
ストリングス:弦一徹ストリングス
バイオリン:弦一徹、永田真希、森琢也、門脇大輔
ヴィオラ&バイオリン:金子芳子
ヴィオラ:梶谷裕子
チェロ:森田香織、唐沢安岐奈
(ストリングスも『陽炎』とほぼ同じメンバー)


11.『VENUS』

ピアノ:坂本昌之
フレットレス・ベース、マンドリン、ブズーキ渡辺等。(元SHI-SHONENのメンバー!当時の彼女が好きなグループだったので、涙がちょちょ切れる。どうでもいい話で済みません)
ドラムス:河村"カースケ"智康
エレキギター、マンドリン&ブズーキ:西川進
ダフ(インドの打楽器):浜口茂外也
ハープ朝川朋之。ちなみに、柴田淳のアルバム『ゴーストライター』で『Love Letter』のハープも担当。
ストリングス:弦一徹ストリングス
バイオリン:弦一徹、金子芳子、永田真希、門脇大輔
ヴィオラ&バイオリン:森琢也、梶谷裕子
チェロ:森田香織、岩永知樹

渡辺等氏については、GEMMATIKA RECORDS/no choice recordsというクレジットも追記されている。

レコーディングは、新宿のスタジオ サウンド バレイ、渋谷のBunkamuraスタジオ。

おやっ?と思ったのは、英語詞のアドバイザーとして、翻訳家・大島豊という人物の名前がクレジットされていること。ちゃんと英語が正しいかどうかを、チェックしてもらっているわけだ。(今までは?)

歌詞カードブックレットの最後のページには、有名な話だが、エグゼクティヴ・プロデューサとして、ナポレオン・レコーズの「鬼束孝一郎」なる人物が登場する。

ユニバーサルに移籍してから、鬼束ちひろは自分の楽曲の版権を、自分で設立したナポレオン・レコーズで保有しているらしく、2007年のアルバム『LAS VEGAS』から登場するこの「鬼束孝一郎」という人物は、ちーちゃんのお父さんだといううわさ。(鬼束家で男性は、父親と弟の2人だけなので)

以上、『DOROTHY』のクレジットをじっくり眺めてみた。柴田淳の『ゴーストライター』と意外にかぶっているのが面白い。

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2009/11/09

柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(3)不可能の果てに

2009/11/04発売、柴田淳のニューアルバム『ゴーストライター』のレビュー3回目。

前回は、天才的なメロディーが随所に輝くこのアルバムなのに、歌詞について何故レビューする気が萎えたか、その理由を中心に書いた。

そのせいで、各曲の歌詞について全く触れなかったので、今回はちゃんとレビューしたい。

最初に当り前のことを書いておく。このレビューには、「こうすればもっと売れる」「こうすればもっと良くなる」という意図は全くない。単に個人的な感想を書いているだけだ。

また、もう一つ当り前のことを書いておく。僕が『ゴーストライター』の歌詞のレビューを書くのは、その価値があるからだ。

ほとんどのJ-POPの歌詞が希望や肯定を素朴に書いているだけか、完全にクズなのに対して、柴田淳は絶望や不可能性といった、一般的にはネガティブな価値観を、ちゃんと歌詞に書き込んでいる。

前置きはこれくらいにして、『ゴーストライター』の各曲の歌詞のレビュー。(シングルで先行発売されている『Love Letter』は省略)

結論から言えば、『ゴーストライター』の中で詳細にレビューすべきは1曲目の『救世主』と、前回問題にした『うちうのほうそく』だけで、その他の曲はかんたんに触れることにする。

なので、まず「その他」から見てみよう。

■『透明光速で会いに行く』(作詞作曲:柴田淳)について

『透明光速で会いに行く』の歌詞は、過度に理想化された相手に対する、素朴で一直線な恋愛感情を描いている。なにしろ光速でなければたどり着けない相手なのだから、恋愛対象を理想化しすぎだ。

もちろん、恋愛の不可能性はラブソングの重要なテーマで、その比喩として「透明光速」というフレーズは美しい。

■『蝶』(作詞作曲:柴田淳)について

『蝶』の歌詞は、無残に捨てられることに生きる意味を見出す、プライドの高い女性を描いている。(生物学的に女性かどうかは別として)

プライドが高いと言える理由は、「忘れてあげるわよ」という意思を、自分を捨てた相手にあえて伝えず、「忘れてあげた私はすごい」と自分を慰めることで完結しているからだ。

自分を傷つけた人物とのコミュニケーションを拒否し、自分で自分を納得させ、自己完結するのは、自分のプライドを傷つけないための手段だ。

仮に「忘れてあげるわよ」という捨て台詞を、実際に相手に投げつけたなら、「誰も忘れるな、なんて頼んでねえよ!」と反論され、余計に傷つくだけだ。

この曲は、自尊心と恋愛が両立不可能であることを、書いているのかもしれない。

■『雨』(作詞作曲:柴田淳)について

『雨』の歌詞は、決定的な一歩を踏み出せないでいる、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ君タイプの性格を描いている。

この曲は、理想や幸福を手に入れることの不可能性が主題だ。

理想的な幸福は、手に入らないからこそ理想なのである。この矛盾は、近代文学においては、かなり使い古された主題である。なので、これ以上書くべきことはない。

■『宿り木』(作詞作曲:柴田淳)について

『宿り木』の歌詞は、恋愛依存症を比喩的に描写している。

自己と他者の区別がなくなる一体感は、しばしば恋愛の究極の理想として描かれる。

しかし、そもそも恋愛はお互いに完全に理解しあうことの不可能性、お互いに出逢うことの偶然性の上にしか成立しない。

したがって、完全な一体感や同一化は、単なる幻想である。

これも恋愛の不可能性の一つの側面だ。それでも、その不可能なものの実在を信じたいという、非合理的な感情が、この曲の歌詞の柱になっている。

■『君にしかわからない歌』(作詞作曲:柴田淳)について

『君にしかわからない歌』の歌詞は、「歌手という職業と、幸福な恋愛の両立は不可能だ」という考えを持っている歌手を描いている。

もし運命の人に出会ってしまったら、この歌手は歌い続ける動機を失ってしまうようなのだ。

言い換えれば、恋愛の不可能性こそが、この歌手が歌手であることの必要条件になっている。

だからこの歌手は、上述の他の曲で、恋愛の不可能性について語っているのだとも言える。

ただ、当然のことながら、一般的に、歌手と幸福な恋愛が両立しないということはない。

歌い続けるための動機は、必ずしも自分以外の誰か(=他者)を愛することでなくてもよい。自分自身を愛する自己愛であっても、歌い続けるための動機として十分だ。

自分の苦しみや孤独は、自分だけが愛せるものであって、他の誰にも愛することはできない。そういった形の自己愛も、歌い続けるための動機になりうる。

しかし『君にしかわからない歌』に登場する歌い手は、歌い続けるために、恋愛の不可能性を必要としている。

■『幸福な人生』(作詞作曲:柴田淳)について

『幸福な人生』の歌詞は、人間が孤独から逃れることのニセの可能性を描いている。

人間は孤独から逃れるために、恋愛において誰かを愛し、誰かに愛されようとする。

しかし、人間どうしが完全に理解しあうことが本質的に不可能である以上、恋愛によって孤独を癒すことも不可能である。

この『幸福な人生』の歌詞は、「求める愛」から「与える愛」へ転換することで、孤独から逃れられるかもしれない、という希望を書いている。

しかし、「求める愛」であろうと「与える愛」であろうと、人間どうしが完全に理解し合うことが不可能である事実は解消されない。言い換えれば、人間は永遠に孤独から逃れられない。

「求めない」と決断すれば幸せを得られるはず、というのは、ニセの希望なのだ。

以上で「その他」の各曲のレビューは終わった。

『幸福な人生』以外の曲の歌詞が、すべて何らかの不可能性を主題にしているのに対し、『幸福な人生』だけが、「与える愛」が不可能性から脱する糸口になるかもしれないという、ニセの希望を主題にしている。

そういう曲がアルバム最後に来ているのは、やや皮肉だ。

もし作詞者が、ニセの希望だと分かった上でこの詞を書いたのなら、この皮肉は、作詞者からリスナーに対する皮肉である。

そうではなく、作詞者自身がニセの希望と分からずに書いているなら、作詞者の自分自身に対する皮肉になっている。この歌詞を聴いた人が、その皮肉の悲しさを感じとれるかどうかにかかわらず...。

こういった皮肉も、柴田淳の書く歌詞の、最大の魅力の一つであることには違いない。

さて、残りの重要な2曲である。

■『うちうのほうそく』(作詞作曲:柴田淳)について

『うちうのほうそく』の歌詞については、前回のレビューで、「それは宇宙の法則ではなく、文化的性差だ」と、身も蓋もないツッコミを入れた。

そのツッコミは、以下のような意味で書いた。

宇宙の法則と書いてしまうと、神様などの超越的な存在が決めた法則で、人間には責任がないように聞こえる。

しかし、男性が寒色系、女性が暖色系、高級レストランの女性用メニューに値段が書いていないことなどなどは、れっきとした、人間の作った慣習であり、もっと言えば、生物学的な性別にもとづく固定観念だ。

仮病をつかって相手に甘えるのも、女性に対して母性を求める、典型的な「女らしさ」の固定観念である。

女性がヒールをはいて脚を美しく見せ、男性がシークレットシューズをはいて背を高く見せるという文化も、女性は美しくなければならない、男性はたくましくなければならない、という、人間が作り出した固定観念にすぎない。

『うちうのほうそく』の歌詞は、「女らしさ」「男らしさ」という固定観念が、人間ではない超越的な存在が決めた、普遍的な法則であるかのように歌っている点で、完全なウソっぱちなのだ。

ましてそれを「素晴らしくて神秘的」「美しくて奇跡的」だと称賛しているのだから、大いに問題だ。

こういった「女らしさ」「男らしさ」を当り前だと思ったり、素晴らしいと思ったりする人が、世の中の大多数を占めているのは事実だ。

しかし、だからこそ、例えば、性同一性障害の人たちや、同性愛の人たちは、マイノリティとして生きづらい思いをしなければいけない。

性的マイノリティの人たちにも、このアルバムの「その他」の曲に書かれているような、幸福の不可能性や、恋愛の不可能性を追求する権利がある。

だが、それを妨げているのが、他でもない、『うちうのほうそく』の歌詞に書かれているような、「女らしさ」「男らしさ」という固定観念を「素晴らしい」とする考え方なのだ。

この曲で宇宙の法則扱いされていることは、人間が長年にわたって作り上げてきた、陳腐な固定観念に過ぎないことを忘れてはいけない。

そういうわけで、この『うちうのほうそく』という曲の歌詞は、作詞した本人の意図にかかわらず、とても政治的なメッセージを持っていて、politically incorrect ギリギリの線をいっている。

■『救世主』(作詞作曲:柴田淳)について

最後は『救世主』の歌詞について。

あえて言えば、このアルバムの中で、性別についての陳腐な固定観念や、言い古された幸福の不可能性を超えた、新しい「何ものか」に触れているのは、この曲の歌詞だけだ。

その「何ものか」を言葉で表現するのは難しいが、美しい絶望のようなものかもしれない。

「傷」という単語が3回出てきて、それは「私」の体の表面にあると同時に、心の中にもある、癒えない、と同時に、言えない(言語化不可能な)「傷」である。

なので歌詞カードでは「イエナイ」とカタカナで表記されている。

その他に登場するのは、「私」と「あなた」と「何か」と「誰か」だ。

「あなた」という存在は、「私」があえて選んだ選択肢として、はっきり名指されている。

しかし、その「あなた」という選択肢も、暗いトンネルを抜け出せるならどこでも良かった、「ここ」以外ならどこでも良かったという、一種の逃げ場所でしかない。

そもそも「私」は、癒えないし、言語化できない「傷」を負っているのだから、いくら笑っても、救われることは決してない。

ただ、ニセの笑いであっても、救われたフリをすることで、「あなた」は救われる、と書いてある。

「あなた」は「私」が選んだ唯一の逃げ場であり、「私」が自分を偽るという演技が成立する、特権的な場所なのだ。

この「あなた」は、例えば柴田淳のような人にとっては、音楽に当たるのではないか。

こういった「私」と「あなた」の関係とって、「何か」という存在は、周囲の雑音、わずらわしい雑事に過ぎない。

そして「誰か」という存在も、「私」の癒えない「傷」を癒してあげると、見え透いたウソをついたり、「私」に必要以上の要求をしてくるような、目障りな人々に過ぎない。

「現れては消える」日常のわずらわしい雑事や、「笑ってと」無理強いをしてくるわずらわしい人たちが、作り出している「暗い道」。

そこから抜け出した先にも、結局は、真の救済は存在しない。

なぜなら、真の救済が、「どこでもよかった」という逃避によって簡単に手に入るなら、そもそも人は「傷」に苦しみながら生きることなどないはずだからだ。

もちろん、その抜け出した先にある、「私」と「あなた」の関係においても、真の救済は存在しない。

ただ、少なくとも、「私」が「救われたと笑ったら/あなたはまた 私に救われる」という、”救い合いごっこ”のような関係は成立する。

たとえそれがニセの救いであっても、”救い合いごっこ”というコミュニケーションが成立する特権的な場所が、そこにはある。

そもそも、真の救済などというものは手に入らない。

だからこそ、「私」と「あなた」の間で、「笑い」を通じた”救済ごっこ”が成立する場所は、たとえニセの救済であっても、人が手に入れることのできる、最良のものなのではないか。

真の救済を得ることは、人が生きている限り不可能だが、”救いのゲーム”のようなものを、「私」と「あなた」の間で続けていくことで、人は、完璧ではなくとも、最良のものを手に入れることができる。

『救世主』の歌詞は、そのようにして、人間が不可能性の果てに、辛うじて最良のものを手に入れることができる、そんな場所を示している。

(レビューおしまい)

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2009/11/07

中島美嘉バラード曲のリズムの「クセ」

中島美嘉の2009/11/04発売の新曲『流れ星』を覚えてるんだけど、デビュー曲の『STARS』や『見えない星』など、前から中島美嘉のバラードのメロディーで気になっていることがある。

16分音符→付点8分音符というシンコペーションが、やたらとたくさん出て来るのだ。

「(ウン)タタァータタァータタァータタァー」というリズム。

『流れ星』でこのリズムが登場する部分に下線を引くとこうなる。

「ながれぼし ねえ キミはなにをおもってみているの
みつけたほし いま ボクのなかでたしかにかがやくひかり

めにえがいてたばしょは もうゆめみたいじゃないけど
まどにうつっているボクらはにてるのかな?きみはなんていうだろうな?」

やはり多い。

これって、中島美嘉が歌いやすいようにわざとこう作曲しているのか、候補曲の中から中島美嘉が選ぶときの好みなのか。誰か教えて。

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2009/11/06

柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(2)歌詞と性差

2009/11/04発売、柴田淳のニューアルバム『ゴーストライター』レビュー2回目。

前回の「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(1)天才的メロディー」では、柴田淳の書く歌詞に興味はないと言い切ってしまった。

曲先のアーティストに対する、僕としては最大の賛辞なんだけど、本人が凹むといけないので、その理由と、ちょっとは歌詞についても触れる。

(※なお、柴田淳の歌詞が、そのへんのJ-POPのクズみたいな歌詞と比較して、どれだけ素晴らしいかは『柴田淳の歌詞における「いま」の宙吊りについて』に書いてあるので、お忘れなく)

このアルバムを聴いて、このアルバムの歌詞について真剣にレビューする気が全くなくなったのは、「うちうのほうそく」という曲の歌詞が原因なのだ。歌詞の一部を引用する。

「赤のTシャツ 青のTシャツ 誰かがくれたら
きみが赤 ぼくが青 なぜか決まってる」

これは決して宇宙の法則ではない。

単なる文化的性差(ジェンダー)だ。

前にも書いたが、柴田淳という人は、文化的性差については驚くほど保守的である。男は男らしく、女は女らしくという、時代錯誤の考え方を素直に体現している。

一青窈が、先日書いたようにトランスジェンダーの人たちと親交があったり、中島美嘉がどこかで「男らしさ、女らしさより、自分らしさだ」と言っていたり、鬼束ちひろがROCKIN'ON JAPANの連載で「バイセクシャルになりたかった」と書いていたり。

とりわけアーティストと言われる人が、文化的性差のような下らない固定観念にこだわる理由は全くないはずだ。

また、自分のアイデンティティの問題、「自分は誰なのか?」という問題を真剣に掘り下げれば、必ず、「なぜ女は女らしく、男は男らしく生きなきゃいけないのか?」という問題に突き当たるはずだ。

でも柴田淳は、この点に躓いていないように見える。

「ぼく」という一人称を歌詞によく使うにもかかわらず、柴田淳の歌詞には、男性性と女性性がきれいに書き分けられている。

ただ、最近の曲に比べると、昔の柴田淳の歌詞は、より「ジェンダー・フリー」だった気がする。

シングルだけ拾ってみると、『ぼくの味方』『それでも来た道』『ため息』の「僕」はかなり「女々しい」。女性でもおかしくないくらいだ。

『月光浴』『紅蓮の月』は、「あなた」「君」と2種類の二人称が同時に登場するトランスジェンダーな歌詞だ。

『未成年』の「ぼくら」は性別にかかわらず、孤独な若さを象徴している。『ちいさなぼくへ』も幼いころの自分に語りかける歌詞で、性別にこだわらない。

『白い世界』の「僕」も性別を超えて、人間の存在のはかなさを語っている。『花吹雪』は卒業式ソングなので性別に無関係。

最近の曲になればなるほど、柴田淳の歌詞は「男らしさ」「女らしさ」の固定観念がはっきりしてくる。

『ゴーストライター』を見てみよう。

『救世主』には、「黒い髪を掻き上げて」という即物的な歌詞が出て来て、「私」の性別が女性だと確定する。ただし「救世主」の性別が明確でない点は素晴らしい。

『透明光速で会いに行く』には「メイクもオシャレも大丈夫!」などという、とっても恥ずかしい歌詞が出てくる。

こういう歌詞はドリカムにでも書かせておけばいい。柴田淳の書くべき歌詞ではない。

『Love Letter』の二人称は一貫して「あなた」であり、「煙草の火」という単語が出てきた時点で、ほぼ性別が確定する。

『蝶』も二人称は一貫して「あなた」だが、これは例の情念系バラード系列の曲なのでよい。『宿り木』も『幸福な人生』も、一人称は「私」、二人称は「あなた」で性差が鮮明。

『君にしかわからない歌』は一人称が「私」で二人称が「君」なので、女性歌手から聴き手へのメッセージであることがはっきりする。

ということで、『雨』だけが残った。『雨』に登場する「ぼく」は、昔の柴田淳の曲によく登場した、かなり女々しい男の子だし、女の子でもおかしくない。

ジェンダーの問題だけで、かなり長々と書いてしまったが、それでも僕は柴田淳の歌詞は、いまのJ-POPの歌詞の中ではクオリティが段違いに高いと思う。

僕が歌詞のクオリティを判断するときの規準は、高橋源一郎の小説『さようなら、ギャングたち』だ。

世間ではこの小説は小説ということになっているが、じっさいには現代詩だからだ。

高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』は、日本語には、感情に直接うったえかける単語を使わなくても、涙を流すほど人を感動させる力がある、ということを、僕らに教えてくれる。

今まで聴いたJ-POPの歌詞で、この基準に限りなく近いのが、鬼束ちひろの活動休止前の楽曲の歌詞だ。

「鼓動を横切る影が/また誰かの仮面を剥ぎ取ってしまう」
(『infection』より)

まったく意味不明だが、誰かのせいで何かを失った切実な喪失感は伝わってくる。

今日、たまたまテレビ朝日『ミュージック・ステーション』を見ていたのだが、夏にバーベキューをするのが、二人の大切な思い出だという内容の歌詞の曲が、2曲も出てきた。

某男性デュオの『春夏秋冬』と、仮面ライダーとヘキサゴンつながりの男性タレントの『いちょう』だが、この手のJ-POPの歌詞は、はっきり言ってクズだ。この想像力や語彙の貧困さは救いようがない。

でも、こういう曲がヒットするJ-POP業界のリスナーは、こういう曲と同じくらい質の低いリスナーばかり、ということである。

柴田淳の歌詞は、こういうクズみたいなJ-POPの歌詞とは格が違う。だから僕は柴田淳のファンなのだし、ファンクラブにも入るくらいだし、柴田淳のシングルを全曲カバーしてYouTubeにアップするくらい、彼女の曲を愛しているのだ。

でも『ゴーストライター』に関しては、『うちうのほうそく』の歌詞を聴いた瞬間、完全に萎えてしまった。

柴田淳なら、おなじ「宇宙規模の法則」を書くなら、たとえば、次のようなことを「うちうのほうそく」にしてほしかった。

・足の指の爪を切るとき、かならず小指から切る
・アイスコーヒーに浮かぶ氷をストローで吹いて穴をあける
・長袖のセーターをたたむとき、左の袖を下にする
・横断歩道をわたるとき、黒いアスファルトばかり踏む

まあ、素人の僕が考えることなので、出来は悪いが、少なくとも「男らしさ」「女らしさ」といった退屈な固定観念よりはましだろう。

年齢のせいなのかもしれないが、柴田淳の歌詞がますます「男らしさ」「女らしさ」の文化的性差に縛られた内容になるとすれば、僕は彼女の紡ぎ出す美しいメロディーと、彼女の透明な声だけを愛することにする。

以上、『ゴーストライター』のレビュー2回目。歌詞に関してでした。

(3回目につづく)

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2007/6/1の『僕らの音楽』で「流星群」を歌う鬼束ちひろを発見

今日、偶然YouTubeで、鬼束ちひろが2007/06/01にフジテレビ『僕らの音楽』第159回に小林武史プロデューサと出演したとき、「流星群」を歌っている動画を見つけた。

こんなものテレビで放送していいのか、というくらい、音程も不安定、声量もない。異様に痩せこけた頬と首筋。落ちくぼんだ目。眉間にしわを寄せたまま表情も固まっている。

先日見つけた「エキサイト・ミュージック」のインタビュー動画もそうだが、2007年『LAS VEGAS』リリース当時の鬼束ちひろの状況が、ここまで悪いとは思わなかった。

『LAS VEGAS』のプロデュースを依頼された小林武史の慈悲と、全身の羽根をむしりとられ、歌も忘れかけた鳥が、のどから絞り出すように歌う「流星群」。

ラスト、窓の向こうの東京タワーを背景に、グランドピアノに向かう小林武史と、その前に、左向きにぽつんと立つ、裸足に黒のドレス姿の、背の低いちーちゃん。

あまりの痛々しさと、「やっぱりこれで生きていこうと思いましたね」という決意に、涙があふれそうになる歌唱だ。

そのうちYouTubeからは削除されるだろうから、この動画は大切にとっておくことにする。

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2009/11/04

柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(1)天才的メロディー

今日は柴田淳のニューアルバム『ゴーストライター』のレビュー。

※なお下記のレビューの続きはこちら
「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(2)歌詞と性差」
「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(3)不可能の果てに」

最初に書いておくと、僕は柴田淳のファンクラブ「蠍一座龍世柴田組」の第一期組員であり、すでに来年のツアーチケットを予約購入済みの、彼女のファンである。

中島美嘉のファンクラブにさえ入っていない僕が、柴田淳のファンクラブには入っているのだ。

この点をお忘れなく。

24ページの歌詞カード(ブックレット)の扉の言葉には次のようにある。

「2009年の始め、/私は出口の見えないトンネルで/迷子になっていた。/小さくうずくまって、/体はまるで、/半分消えかかった幽霊のようだった。/誰か助けて…。/ふと見上げた空には、/白龍がいた。」

公式サイトの日記や、モバゲータウンの日記からも、このアルバム制作に入ったころも、制作中も、柴田淳がかなり悪い精神状態だったことは分かっていた。

なので、どれほど陰惨なアルバムになっているだろうか、と期待して聴いた。

結果、一切の個人的な苦悩を感じさせない、ウェルメイドな、いかにも柴田淳らしい美しいメロディーがたっぷり詰まった、透明感のあるアルバムだった。

いったい扉の言葉にある、救いを求めるほどの苦悩や、引退を考えたほどの絶望は、どこにあるのか?と、本人に直接聞きたいぐらい、あらゆるネガティブな要素がきれいにろ過された作品になっている。

陰惨さの期待は裏切られたが、美しさの期待は応えられた。

また、柴田淳は今回のアルバムで、ロックをやってみた、と書いていたが、ロックは1曲もなかった。

たぶん彼女は1曲目の「救世主」がロックだと言いたいのだろうが、これはディストーション・ギターをアレンジに使った、美しいバラードである。

演歌でも、たまに音の歪んだエレキギターをアレンジに使うが、それでも演歌は演歌であるのと同じように、「救世主」という曲も、このアルバムでいえば「蝶」、過去の曲でいえば「紅蓮の月」と同系列の、柴田淳らしいマイナーコードの情念系バラード以外の何物でもない。

正統な意味でのロックには、リフとブルース・スケールが必要だが、この曲には、そのどちらもない。

サビの「現れては消える」という短いフレーズのなかに、2回も減4度が出て来るが、このブルース・スケールの泥臭さとはほど遠い、洗練されたメロディーは、断じてロックではない。

2曲目の「透明光速で会いに行く」は、文字どおりカラッと晴れた初夏の午前に、窓を開けて東名高速を飛ばしながら聞きたくなる爽快な曲。アレンジを含め、きわめて完成度の高い、筒美京平も顔負けの王道ポップスだ。

3曲目の「Love Letter」については、シングルが先行発売されているが、ボーカルはシングルとは別テイクで、アルバムの方が力強く、切実に胸に迫ってくる。

8分近い時間を全く感じさせないのは、アレンジがピアノ、ストリングスだけでなく、ホルン、フルート、ハープまで入った、非常に贅沢な構成になっているせいもあるだろう。

柴田淳の透明な声に、ホルンの旋律がからんでくる部分は、鳥肌もの。ただただうっとりと聴き入ってしまう。

4曲目は「うちうのほうそく」。タイトルからしてお気楽な感じ。ウクレレっぽいアレンジのマンドリンを主体とするバッキングで、4ビートの曲。

だからこの曲のどこに苦悩があるんだ?とっても楽しそうじゃないか。とっても幸せそうじゃないか。踊りだしたくなるほど。

5曲目の「蝶」は、先ほども書いたが、過去の曲でいえば「紅蓮の月」や「椿」の系列にある、いかにも柴田淳らしいマイナーコードの情念系バラード。

東海テレビ制作のお昼1時半からの連続ドラマの主題歌にぴったりな曲。

やはりメロディーがたまらなく美しいので、柴田淳のこの種の曲って、覚えて歌うと気持ちいいんだよなぁ。

6曲目は短い打ち込みインストで「雫」という曲。クレジットに「Programming: Jun Shibata」とあるので、たぶん柴田淳自身が、初めて打ち込みをやってみました、的な曲なのだろう。

音色はオルゴールのみ。失礼ながら、NHKラジオ第1放送の深夜、放送終了時にかかる曲を思い出してしまった。

(ちゃんとYouTubeにアップしてくれている人がいた!ここをクリックすると聞ける

昨年のアルバム『親愛なる君へ』にも同様に、短いインスト曲「38.0℃」というのが、アルバムの真ん中に収録されている。

こちらは柴田淳自身の演奏するアコースティック・ピアノだが、個人的にバッハの「ゴールドベルク変奏曲」のアリアを想起させる、シンプルだが美しい対位法で素晴らしい。

それに比べると、この「雫」には、山手線の発車音のようでもあり、やや不満。やはり生ピアノの方が良かったような...。

7曲目の「雨」なのだが、これはメジャー・コードで、ロック・テイストのバラード。あくまでロック・テイストであって、やはり、リフもブルーススケールもないので、ロックではない。

ただ、この「雨」のクレジットにある「Guitar: Susumu Nishikawa」について、出来ることならスタッフの皆さんに確認したいことがある。

この「Susumu Nishikawa」とは、まさかあの西川進のことではないでしょうね?ということだ。

そう、まだレビューが途中になっている鬼束ちひろのニューアルバム『DOROTHY』で、凶器的なエレキギターを聞かせている西川進氏だ。

もしそうだとしたら、残念ながらこの曲のエレキギターが西川進である必要性は全くなかったと言っていい。

ただ、絶妙にマイナーコードが散りばめられたメロディーラインは、やはり佳品。

何度も書くが、ウェルメイドでバランスのとれた王道バラードにかけては、柴田淳のソング・ライティングは抜群だ。何たって、もしこの西川進が、本当にあの西川進なら、西川進が西川進でなくなってしまうくらいなのだから。

8曲目の「宿り木」は、ピアノ伴奏主体の静かなバラードだが、かなり特殊な曲。

イントロからして、ピアノのペダルづかいが奇妙で、その背後からアンビエントな音がひっそり聞こえて来る。雷鳴?とキラキラした音だが、クレジットに「Programming」がないので不明。

で、特殊な曲と書いたのは、柴田淳の曲にしては、珍しく予測不能な転調があるからだ。

Aメロ、BメロはEbマイナー。そしてコードがサビの直前でそのV7(Bb7)になるので、当然、流れ的にはサビはEbmで始まると思ったら、いきなりCメジャーだ。

メロディーの流れからしても、BbからEというありえないつながり。こんなのありなのか?と、慌てて手元にあるポピュラー・コード理論の教科書をめくってみる。

EbmはメジャーコードでいえばGb。楽譜上では♭の数がいちばん多くなる調だ。

そしてCメジャーはご存知のように♭や♯が一つも付かない。

つまり、柴田淳は、完全5度ずつ上がっていく、または下がっていく、近親調の考え方からすると、Cメジャーから最も遠いGbの、しかもマイナーであるEbマイナーから、Cメジャーへ転調するという、とんでもない離れ業をやってのけているわけだ。

間奏は、いったんCマイナーへ転調した後、Ebマイナーにもどる。CマイナーはメジャーでいえばEbで、近親調の考え方からすると、ちょうどCメジャーとGbメジャーの真ん中にある。

おそらく柴田淳は、このコード進行も「計算」している。

「宿り木」については、この転調によるサビのメロディーの輝きが、シンプルなアレンジにもかかわらずドラマティックなので、これ以上言うべきことはない。

柴田淳のソング・ライティングの才能が、ただものではないと思わずうなってしまう一曲だ。

9曲目の「君にしかわからない歌」は、一転してメジャーのアップテンポな曲。これもメロディーの美しさが何とも言えない。

サビも単純なリフレインではなく、きらめくようなファルセットへ駆け上がっていくボーカルは、柴田淳の醍醐味。

最後10曲目の「幸福な人生」は、ピアノ伴奏のみでじっくりと聞かせる、美しいバラード。

「Love Letter」の豪華絢爛なアレンジと正反対だが、それでも柴田淳の書くメロディーとボーカルは、ちゃんと僕らの胸に響く。

(だから「Love Letter」のハープのグリッサンドは、僕にとっては少しやり過ぎのように聞こえた)

静かな余韻を残して終わるCメジャーのこのバラードは、『ゴーストライター』の終曲にふさわしい。

以上が、数回聴いた限りでの柴田淳のニューアルバム『ゴーストライター』のレビューだ。

えっ?歌詞については触れないの?

はい。柴田淳の書く歌詞には、個人的にあまり関心がありません。

何故なら、柴田淳の曲は、メロディーと彼女自身の声さえあれば、アレンジがどうあろうと、歌詞の中身がどうあろうと、完全に成立してしまうからだ。

冒頭にも書いたように、彼女の苦悩は、この『ゴーストライター』から微塵も感じとることができないほど、音楽のかたちで見事に昇華されている。

ということは、例えば鬼束ちひろのような人と違って、柴田淳は個人的な感情を、自分の作る曲や詞に叩きつけるタイプのシンガーソング・ライターではないのだ。

もし柴田淳がそういうタイプのシンガーソング・ライターなら、「うちうのほうそく」などというお気楽な曲や歌詞を書けるはずがない。

柴田淳の紡ぎ出すメロディーは、柴田淳の個人的な感情や実存とは全く別のところにあり、それでもなお、そのメロディーが極めて美しいことが、柴田淳の柴田淳たるゆえんだと思う。

下手に解釈の余地を与えてしまう歌詞などあえて無視して、柴田淳の紡ぎ出すメロディーと、そのボーカルだけを聴くことでも、この『ゴーストライター』は完全に一つの作品として成立している。

(つづく)

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2009/11/03

鬼束ちひろライブDVD『ULTIMATE CRASH』を復習

過去の鬼束ちひろの復習第二弾、TSUTAYAのDISCASで、DVD『ULTIMATE CRASH '02 LIVE AT BUDOKAN』を借りた。

なぜか羽毛田丈史と富樫春生のベートーベンの『月光』ソナタの、なぜか連弾(富樫氏が左手、羽毛田氏が右手)で始まる、この武道館コンサートについては、すでにネットのあちこちで書かれているし、NHKのドキュメンタリーのネタになっているので、特に書くことなし。

この頃のちーちゃんファンって、結局のところ、このDVDの最後にも出てくる、充実感たっぷりの満面の笑顔に惹かれていたんじゃないかと思うくらい、全身でライブを楽しんでいる印象。

ただ、個人的には、ライブでの常にのどを絞っている発声が、ややくどい感じがして、CD録音の方が好きかも。

確かにこの頃に比べると、新譜『DOROTHY』でのボーカリストとしての鬼束ちひろは、格段に表現の幅が広がっている気がする。

Onitsuka_ultimatecrash2002_smile200

ところで、過去の鬼束ちひろの復習をいろいろやっていて、エキサイトミュージックで『LAS VEGAS』発売2007年当時の、鬼束ちひろのインタビュー映像を見つけた。

眉間にしわを寄せたまま、伏し目がちで、微動だにせず、全く笑顔を見せず、淡々とインタビューに答える彼女が痛々しい。

だが、ビデオメッセージの方では、カメラの向こうがファンだからなのか、引きつり気味の笑顔を見せている。

その後、元気の出てきたちーちゃんは、公式サイトの2008年新春動画メッセージで見ることができる。

でも悲しいことに、僕自身の「柴田淳」熱だったり、「鬼束ちひろ」熱がいつまで続くか分からない。なにしろ飽きっぽいので。

生「中島美嘉」を見るまで、生「鬼束ちひろ」を見るまで死ねない!とか言っていても、しばらくすると、それがそのために生き続けるだけの価値のあるものか、などと平気で考えていたりする。

本当に悲しいことだ。

結局『papyrus』vol.27,DEC 2009は買ったけど。中島美嘉が子猫と戯れて、少女のような笑顔を見せている写真にやられた。

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