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2007/05/29

「株はバクチではない」一部訂正

昨日の記事を掲載した直後に、競馬などは特定の馬券が多く売れると、勝敗の確率は変わらないが、オッズは変わるというご指摘を頂いたので、訂正させて頂きます。

特定の馬券が多く売れるほどオッズが下がるのは、おそらく馬券の購入者に分配する原資の金額が、ある程度の変動幅であらかじめ決まっているからなのだろう。

いずれにせよ、賭けの参加者の行動によって勝敗の確率が変動しないのは、株のような市場での取引との本質的な違いだ。もちろん株取引での「勝ち」をキャピタルゲインを得ることである、と定義した上での話しだが。

さらに、当然のことだが、馬券と株券ではリキディティが違う。買った馬券を転売してキャピタルゲインを得ることはできないが、買った株券は転売しないと儲けを得ることができない。そして売るという行為そのものが、株価に影響を与える。

株式市場は株券を媒介にした、自己言及的な閉じたシステムで、市場内での行動はすべて株の売買という形態でおこなわれ、その売買行為のすべてが株価を通じて、他のすべての売買行為が決定される条件となる。

...とか、まあどうでもよくなってきた。いずれにせよ、賭け事と株取引を、そこで行われている行為どうしの関係という観点から観察したときには、本質的に異なるものであり、「株もバクチみたいなもの」という言表は、そういう観察からは明らかに誤っている、ということだ。

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2007/05/28

株はバクチではない

「株はバクチみたいなものだ」と言って株式投資に反対する人は、株と賭け事の本質的な違いがわかっていない。かんたんなことで、例えば競馬は、特定の馬券を何十万人が買おうが、その馬券のオッズは変わらない。一方、株は、特定の株券を買う人が増えれば増えるほど、その株券の価格が高騰する。

賭け事は、賭けに参加する人の行動によっても、勝敗の確率は変わらない。参加者が同時に競技者であるような賭け事は別として、パチンコ台の設定、宝くじの当選確率、競走馬やボートの調子は、賭けに参加する人の行動に影響をうけない。

それに対して、株は売る人と買う人の合意で価格が決まる市場取引なので、売買に参加することで儲かるか儲からないかの確率そのものが変わる。というよりむしろ、売買に参加する人がいなければ、株取引そのものが成立しない。

ところで、僕はギャンブル好きの人間を心底軽蔑している。ギャンブル好きは必ず人生において誰かを不幸にするからだ。ギャンブル好きは自分が他人を不幸にする資格があると勘違いしている傲慢な人間であるか、ギャンブル好きであることで誰かを不幸にしていることにさえ気づかない馬鹿であるかのどちらかである。ましてや自分のギャンブル歴を武勇伝のように語る人間は、単なるクズである。

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2007/05/27

最適なルーマン入門書『ルーマン 社会システム理論』

ルーマンの『社会システム理論』を英訳のペーパーバック『Social Systems』で少しずつ読みすすめていたのだが、部分的な理解はできるものの、ルーマンの企図の全体をどうしても把握できない。

これまでとっつきやすい入門書には頼るまいと、あえて読まずにいたのだが、ついに誘惑に負けてゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著、舘野受男、野崎和義、池田貞夫訳『ルーマン 社会システム理論』(新泉社)を買って読みはじめた。

おかげで、なぜ『Social Systems』が理解できないのかが理解できた。1984年に出版された『社会システム理論』は、1960~70年代の社会システム理論の構想を発展させたものであり、それを理解していることを前提として書かれているからだった。

クニール、ナセヒ著の入門書の前半は、ほとんどルーマンの『社会学的啓蒙』という論文集からの引用で占められているので、おそらく1960~70年代の「社会システム理論」を理解するには、まず日本語訳の存在する『社会学的啓蒙』を読むべきであるらしいことがわかった。

いずれにせよ、この入門書のおかげで、ルーマンの社会システム理論の理解にかなり見通しが出てきた。逆に言えば、原書にいきなりあたったときの僕の理解力が、その程度のものでしかないということなのだが。





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2007/05/25

自殺サイトと16歳の高校生について

ひきつづき、エヴァンゲリオンTVシリーズを第八話、アスカ・ラングレー登場まで観終わってテレビをつけると、自殺サイトで知り合った40代の男性と行方不明になっていた16歳の男子高校生が、ご両親の懸命の捜索もむなしく、40代男性とともに遺体で発見されたとの報道。

キャスターは若い命を道づれにした40代の男を憎悪するコメントだったが、果たしてそう言いきれるだろうか。

たとえば、「この40代の男性のおかげで、自殺という望みをかなえることができた男子高校生は、幸運だった」という言表は、倫理にもとると言いきれるだろうか。

先日、かんたんに自分の命に終止符を打てる「壁のスイッチ」があれば、僕は迷わずそれを押す、という記事を書いた。さっそくトラックバックを頂いたが、その方は「日々のささやかな喜びさえあれば、生き続けるのに十分だ」そうだ。

ただ、これは裏を返せば、その方の「生きづらさ」の水準が、ささやかな喜びさえあれば十分相殺される程度のものでしかないだけのことだ。つまり、この方は十分に幸福なのである。

もっと生きたいのに、不運にして不治の病で夭逝された方々は、確かに不運だが、決して不幸とは言えないだろう。なぜなら、もっと生きたいという希望を持つことができていたからだ。

こういうことを書くのは、倫理にもとると言いきれるだろうか。

不運にして不治の病に苦しむ方々が、この16歳の男子高校生に対して、「自分で殺す命があるなら、私に下さい」と言ったとしても、その言表は残念だけれども完全に無意味だ。理由は単純で、命のうけわたしなどできないからだ。

ある命が絶望して自らの命を絶つという事実と、別の命が希望にあふれているのに自らの意に反して失われてしまうという事実は、おたがいに独立した事実で、どちらからどう働きかけても、どちらも救われない。

希望にあふれながら不治の病に犯された人が、絶望している人に対して、「生きろ」というのも完全に無意味だ。この二人が別の人間であるのは、まさに異なる環境におかれているからで、だからこそ、一方は希望にあふれ、他方は絶望するのだ。

その「違い」を無視して「どちらも同じ命だ」と考えることは、この二人が別個の独立した人格であることを否定することになる。非人格的な命といった、抽象的なものを優先させ、一つひとつの人格を無視することが、はたして倫理的と言えるだろうか。

件の40代の男性は、自らの自殺の意思と同時に、16歳の高校生の自殺の意思も尊重し、行動にうつしたわけだが、このことははたして非倫理的なのだろうか。自殺を望むことは、非倫理的なのだろうか。自殺というのは、どうして端的に悪だと言えるのだろうか。

自殺を悪だと言うためには、どうしても一つひとつの人格を超越した「生命全体」のようなものの意思を持ち出さざるをえないのではないか。よく言われる「人は生きているのではなく、生かされているのだ」という言葉も、生命が個々人の人格を超越した何物かであることを、言外にふくんでいる。

しかし、自分の命が、そういった何か超越的な存在の所有物であって、自分の所有物でないという考え方こそ、非倫理的ではないのか。「この命、お国のために捧げます」という考え方と同形ではないか。

であれば、ある人たちにとって、自殺が、個として生きるための最後の手段として残されていることは、正しいことではないのか。

「自殺もひとつの生き方である」と、なぜ言ってはいけないのか。人間は遅かれ早かれ、みな死ぬ。したがって、すべての生き方は死に方でもある。その人がどのように生きたかは、その人がどのように死んだかということだ。

「どのように生きたか」のうちの一つの可能性、一つの選択肢として、自殺があってはなぜいけないのか。なぜ端的に自殺という生き方を悪だと言いきれるのか。

残された者たちがみな悲しむのは、死因が病死であれ、事故死であれ、自殺であれ、どんな場合でも仕方ないこととして、この16歳の高校生と40代の男性は、自殺という最後の希望を実現できて幸福だったと、どうして言ってはいけないのだろうか。

残されたご両親はたしかに無念かもしれないが、息子の最後の望みをかなえ、自らも自殺した40代の男性を憎むことが、はたして正しいことなのだろうか。

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2007/05/24

エヴァンゲリオン第壱話・第弐話

いかん。気づいたらYouTubeでエヴァンゲリオンTVシリーズの第壱話、第弐話を続けて観てしまっていた。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ...。僕の場合は、何から?

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2007/05/18

マイケル・ジャクソン「あの娘が消えた」と水越恵子「Too Far Away」

夜中に目が覚めてNHK『ラジオ深夜便』をつけたらマイケル・ジャクソン特集で、彼がまだ若い頃の美しいバラード「あの娘が消えた」(She's Out of My Life)が流れていた。

正直言ってマイケル・ジャクソンはあまり好きではないので、1979年発売のアルバム『Off The Wall』収録のこの曲も初めて聴いたのだが、イントロを耳にした瞬間、どこかで聴いたような...。

そう、伊藤薫作曲、水越恵子が歌う「Too Far Away」のイントロにそっくりなのだ。剽窃と言っても言い過ぎではない。ぜひ聞き比べてみてほしい。「She's Out of My Life」の方はYouTubeを検索すればすぐに見つかる。だからといって「Too Far Away」という曲の美しさにも変わりはないのだが、ここまで酷似したイントロもいかがなものか。

安倍なつみ版の「Too Far Away」→安倍なつみ - Too Far Away ~女のこころ~ - Single - Too Far Away

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2007/05/15

『知恵の樹』と『行為の代数学』

ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラ著『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)と、大澤真幸『行為の代数学―スペンサー・ブラウンから社会システム論へ』(青土社)を読んだ。

ルーマンの社会システム理論を理解する前提として、オートポイエーシス理論とスペンサー・ブラウンの理解が必要なのでは、と考えたためだ。

ただ、『知恵の樹』は平易な入門書なので、一般的なサラリーマンにとっては良い頭の体操になるだろうが、オートポイエーシス理論について突っ込んだ記述がなく、実在論と観念論の中庸を行くというスローガンと、生体システムと環境はどちらが先ということではなくお互いがお互いを生み出すのだということが理解できた程度に終わった。

また『行為の代数学』は、どこまでがスペンサー・ブラウンの所論で、どこからが大澤真幸氏の敷衍なのかが分かりづらい。

スペンサー・ブラウン独特の原始算術と原始代数の簡潔な解説は、初めてその方法論にふれる僕にとっては興味深いものだったし、「これって否定と論理和で書き換えられるのでは」と思ったら、案の定、巻末に大澤氏によるブール代数への書き換えが行われていた。

もっともスペンサー・ブラウンそのものについて、評価は分かれるようで、たとえばこちらの「スペンサー・ブラウンなんていらない」というページがある。原始代数は単なるブール代数であり、re-entryは単なるフィードバックだと断じれば、確かにスペンサー・ブラウンなんでなしで済まされるのかもしれない。

さらに『行為の代数学』では、スペンサー・ブラウンもベルクソンもジャック・デリダもヴィトゲンシュタインも究極的には同じことを言っているのだと書かれているような印象が残り、また文体の面では「要するに」が頻出するため、単純化が過ぎるのではないかと考えた。

マトゥラーナ、バレーラについては他の著書も読む必要がありそうだし、スペンサー・ブラウンはやはり原著『形式の法則』(大澤真幸、宮台真司訳)に当たってみる必要がありそうだ。もちろんスペンサー・ブラウンがまともに相手をする価値のある思想家であるとすればだが。

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2007/05/06

水越恵子は一発屋アイドルにあらず

引越してからAMラジオの入りが悪くなったので、寝入りばな、やむなくFMばかり聴いている。土曜日の深夜、NACK5という埼玉ローカルのFM放送で『WEEK-END PARTY~forever young~』という番組があることに最近気づいた。題名から想像がつくように、40~50代向けの番組で、一か月ほど前はキャンディーズの元プロデューサーがゲストで、たまたま聴いた昨日のゲストは、なんと水越恵子だった。

と言っても、スマッシュヒットになったサードシングル『ほほにキスして』しか知らなかったのだが、谷村新司がカバーした『Too Far Away』がもともと彼女のサードアルバム『アクエリアス』の収録曲だったことを初めて知った。

彼女は山梨県の信用金庫に勤めていた19歳のとき、友人となかば冗談で応募したアイドル発掘番組『スター誕生』の県予選に、思いがけず勝ち残ってしまう。

しかし、彼女は高校時代から友人とアマチュアバンドを組んでおり、東京の決勝で歌った曲も明らかにアイドル路線ではなく、年齢も高めということで、どのレコード会社からも声がかからずに終わった。

ところが、その後しばらくして、とある事務所から勤務先の信用金庫に直接電話があり(当時一人暮らしをしていた彼女の部屋には電話がなかったらしい)、叙情フォーク系の新人として売り出したいので上京してくれないかと誘いがあったらしい。

上京した彼女は事務所の言うままに、その事務所の養成所出身の奥谷美保子とフォークデュオ「姫だるま」を結成し、当時のかぐや姫などと同系統の叙情派フォーク曲『道祖神のある坂道を』でテイチクレコードからデビューした。

道祖神のある坂道を
姫だるまという名前は、彼女自身の談によれば、前髪を切りそろえ、二人そろって顔が丸かったので、お姫様みたいなだるまということで事務所が付けたのだろうとのこと。『道祖神のある坂道を』のジャケット写真を見ると分からないでもない。もう一つは、おそらく「かぐや姫」を意識した名前でもあったのだろう。

ただ、奥谷美保子は事務所の意図どおり叙情派フォークのシンガーソングライターだったのに対して、水越恵子のバックグラウンドは飽くまで洋楽だったため、奥谷美保子が姫だるまのマネージャと結婚したのを期に、2枚目のシングル『吉田川』を最後に解散した。

『吉田川』は明らかに『神田川』を意識したタイトルだが、奥谷美保子の作詞・作曲によるもので、水越恵子の作詞・作曲した『流れるままに』はB面になっている。おそらくデビューシングルの『道祖神のある坂道を』も奥谷美保子の作品で、B面の『恋人の条件』が水越恵子ではないだろうか。

姫だるま解散の翌年、1978年に水越恵子はシングル『しあわせをありがとう』でソロデビューすることになる。このデビュー曲は歌唱法も含め、同じニューミュージックでも荒井由美の都会的センスより、中島みゆきを連想させる。

本格的なブレイクは3枚目のシングル曲『ほほにキスして』だが、アイドル的な曲調で大ヒットになり、コンサートの観客がいきなり「ヤンキーの皆さん」(本人談)ばかりになってしまったことに、かなり戸惑いを感じていたようだ。

大ヒットの後、彼女はテレビ番組への出演を控え、アルバム制作とコンサートを中心とした活動にシフトしたため、当初の「大人のニューミュージック」を指向するファン層がもどってきたという。

とくにサードアルバム『アクエリアス』の最後に収録されている『Too Far Away』は、シングルカットされているわけでも、特別なキャンペーンをしたわけでもないのに、結婚式のキャンドルサービスのBGMなどとして少しずつ全国に広まっていき、ついには谷村新司がカバーするまでの隠れた名曲となっている。

NACK5の番組の中でしきりに強調されていたのは、ソロデビュー当時の水越恵子のルックスの良さが、『ほほにキスして』で「アイドル一発屋」的なイメージを定着させてしまったのではないかということだった。たしかに彼女のことを、1980年代にはロサンジェルスでアルバム制作をしたり、TOTOと共演したこともあるアーティストだと認識している人は少ないのではないか。

最近では、日経新聞や読売新聞で、ダウン症児の一人息子を女手ひとつで育てていることで再び知られるようになっているが、番組では最新アルバムの発売が歌詞の書き直しで延期になっているといった、妥協を許さない女性アーティストとしての変わらない側面も見せていた。

その他詳細は彼女自身の著書『神さまレイくんをありがとう』を直接あたって頂くのがよいだろう。

ちなみに韓国のUNという男性デュオも『Too Far Away』をカバーしていたようだ。韓国POPSにまったく詳しくない僕には、UNが誰なのかわからないが。

また、YouTubeを検索すると、安倍なつみまでが『Too Far Away』をカバーしていることがわかる。しかも来週発売の新曲としてで、インターネット上の解説を読むと、どこもかしこも「谷村新司の1988年の曲のカバー」と書かれてある。オリジナルは水越恵子なので、皆さんお間違えなきよう。

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2007/05/05

「熱狂の日」のバカ親たち

三年目にして初めて「熱狂の日」(La Folle Journée)に行ってきた。90人編成のオーケストラのムソルグスキー『展覧会の絵』がたった1,500円で聴けるのだから、朝一番9:45開演でも行かないわけにはいかない。

しかし、5,000人のホールで「0才からのコンサート」なので、お子様の泣き声がうるさく、音量の小さな部分は聴くに耐えなかった。

こんなことを書くと、「0才からのコンサートなのだから、子供の泣き声に文句をつける方が筋違いだろ」と非難を受けそうだが、決してそんなことはない。これは「熱狂の日」のWebサイトにも表記されていないのだが、演奏が始まる前、司会者が聴衆に向かって「3つだけ約束してください」という話をするのだ。

一つは、親御さんに向けての注意で、「どうしてもお子さんが泣きやまない場合は会場の外に出てください」というもの。もう一つは言葉のわかる子供に向けての注意で、「お父さんやお母さんとお話ししたくなっても、演奏が終わるまで待ってください」というもの。三つめは、「演奏中は場内を歩き回らないで下さい」というものだ。

この3つの約束がまもれない親は(乳幼児に罪はなく、もっぱら親の責任と考えるべきだろう)、たとえ「0才からのコンサート」といえども、本来は中座すべきなのだ。

しかし、はじめから約束など守る気のない大人は腐るほどいる。1,500円のクラシック・コンサートに珍しがって来る大人のうちの数パーセントの人々のレベルなど、その程度のものでしかない。

いちばんひどかったのは、全席指定席であるにもかかわらず、二階席の後方がすいているからといって、そこを勝手に自由席あつかいして、泣きやまない子供の避難場所にする親だ。

僕は当日券を買ったので、二階席の中ほどに座らざるをえなかった。すると演奏が佳境に入ったころ、そういうバカ親の一人が、泣きわめく子供を抱いて通路の階段を上ってきたり、子供を走りまわらせて遊ばせたりし始めるのだ。

それでも二曲目のラベルの『ラ・ヴァルス』は面白かったし、これに懲りて乳幼児のいないプログラムにも入場したが、こちらのバルトークのピアノ協奏曲第3番と、弦楽のためのディベルティメントは素晴らしかった。

くり返すが、乳幼児が突然泣き出すのは当然だし、子供たちに罪はない。問題は演奏前の約束を守れない親であり、指定席を勝手に自由席あつかいするような、約束以前の社会的不適合を示す親である。

こういう大人たちは、他人の沈黙によって保たれている会場の静寂にタダ乗りするフリーライダーなのだ。外見は大人だが、0才なのはこういった一部の親の方である。

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三角合併を外資黒船説でしか論じられない愚かな日本のメディア

テレビがつまらないのでビデオニュース・ドットコムの「マル激トーク・オン・ディマンド」最新回、第318回の山崎養世氏と神保哲生、宮台真司の対談を観はじめたが、あまりに面白くて90分間ぶっ通しで観てしまった。

三角合併を「外資黒船説」という見方でしか報道できない日本のメディア非難から話は始まるのだが、そこから、楽天のTBS買収や、ホリエモン、村上ファンド事件、日本の規制業種批判、年金問題の抜本的な解決法、日本の皆保険制度擁護、教育に市場原理を取り入れようという安倍政権に対する批判、聖徳太子から頭山満にいたる日本の政治精神史まで、徹底した合理主義者である山崎養世氏が、あらゆる論点を縦横無尽に、「目からウロコ」でわかりやすく論じていく。(ちなみに『国家の品格』も斬って捨てられている)

この山崎氏は、東京大学経済学部卒で、米ゴールドマン・サックスの共同経営者の座にまで登りつめた人なのだが、まさに宮台真司の最近の亜細亜主義にずばりストライクゾーンの論客で、宮台真司が嬉々として対談している様子も見ものだ。

この第318回だけでも、月額525円支払ってビデオニュース・ドットコムの会員になる価値はある。「愛と苦悩の日記」の読者の皆さんは、絶対にこの山崎養世氏の回を観るべきである。

山崎養世氏の考え方をあらかじめ知っておきたい方は、僕自身は未読だが氏の著作『米中経済同盟を知らない日本人』をお読みになってからでもよいだろう。

ただ、ビデオニュース・ドットコムの対談を観て、神保氏や宮台氏の質問を通じて、ある程度相対化した方が、山崎氏の真意は正しく理解できるかもしれない。徳間書店から出版されているということもあり、もしかすると下記の書物を読んだだけでは、山崎氏の亜細亜主義が「親米ヘタレ右翼」と混同されるおそれがあるからだ。

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2007/05/01

NHKFM『今日は一日“アニソン”三昧』

今ごろ気づいたのだが、夜中0時をまたいで昨晩からNHKFMでアニメーション主題歌の特別番組を放送していたようだ。しかもその司会が水木一郎と緒方恵美ときている。

リクエスト曲がかかりっぱなしで二人はほとんど話さないのだが、ジングルでは二人とも異様なテンションの高さだ。

それにしても『ゲゲゲの鬼太郎』や『ルパンIII世』から『ローゼンメイデン』(僕も題名と登場人物の衣裳を知っているだけで物語は全く知らないのだが)まで、リスナーが完全に島宇宙化していることがわかる。

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ビジネス文書にもう志賀直哉はいらない

ビジネス文書を書くにあたって、僕がお手本として念頭においていたのは志賀直哉だった。同じ情報量を伝えるのに、いかに簡潔な日本語で伝えられるかがビジネス文書の真髄だと考えていたからだ。

ところが一般のサラリーマンの日本語力は、簡潔な文体を正しく読み込めるほど高くないらしいことが最近わかってきた。

最近、テレビのバラエティー番組で字幕が多用されているせいなのか、まともな日本語で書いてある良質な本を読まずに、いかがわしい自己啓発本や金儲けの本ばかり読むせいなのか、原因は明らかでないが、簡潔を旨とするメールが誤解をうける場合が多くなってきた。

仕方ないので最近は、一通のメールには極力4つ以上の用件を含めない、大事なことは冒頭と末尾にくり返すことにしている。

日本企業の人事評価が成果主義に傾くにつれて、日本企業のサラリーマンの思考はますます物事を単純化するようになり、「わかりやすさ症候群」に磨きがかかっている。この流れはいったいどこまで進むだろうか。

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