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2007/04/29

カーペンターズ『青春の輝き』

先日NHKでカーペンターズのドキュメンタリー番組が放送されていたが、彼らの有名なヒット曲の中で唯一弾き語りしたことのなかった「I Need to be in Love」(邦題『青春の輝き』)を、ふとどうしても覚えたくなって、迷わずYouTubeで検索してみた。こういうときにYouTubeは強力な道具になる。カーペンターズ - Carpenters: Gold - Greatest Hits - I Need to Be in Love


期待どおり、本人たちが歌唱する歌詞の字幕つきライブ版と、プロモーションビデオ版が見つかり、歌詞は別のWebサイトから入手してMS-Wordで行間をたっぷりとって印刷し、メロディーを聴きながら、行間の余白にギターをつかって伴奏のための和音を自分でつけていく。

我流なので自信はないが、メジャー7thやディミニッシュコードが多様された優雅なコード進行で、カーペンターズ作品のメロディーの美しさにはいつもながら鳥肌が立つ。

歌詞も素晴らしい。文字どおりには、理想を追い求めすぎた過去の恋愛を悔やむ内容だが、過度の完全主義を自省する、より普遍的な解釈もできそうなので、思わず替え歌を作りたくなる。言うまでもなくもっとも美しい部分は次の一行だ。

I know I ask perfection for a quite imperfect world
And fool enough to think that's what I'll find

Youtubeでカーペンターズの他の曲、「Close to You」「Rainy Days and Mondays」などを検索して観るうちに、偶然、関連する動画一覧にREO Speedwagonが現れ、そこから1980年代に熱中していたBillboardヒットチャートに脱線してしまった。

そこでふと思い浮かんだ名前がTracy Ullmanだ。「They Don't Know」のプロモーションビデオを20年以上ぶりに観て、そういう意味だったのかと今さらながら納得した。所帯じみた主婦が1960年代の若かりし頃を振り返る内容だったのだ。中学生の頃の僕はまったく理解していなかった。

さらに脱線して、1980年代後半に放送されていたらしい「Tracy Ullman Show」で、彼女が主役を演じるコントもいくつか観ることができた。英語を完全に聴き取れないのが残念だったが、エキセントリックな女性キャラを演じさせると一級のコメディアンであることが確認できた。

そうするちにふとStrawberry Switchbladeの名前を思い出して検索し、プロモーションビデオを観たのだが、ゴシックロリータ・ファッションの原点はもしかすると彼女たちなのではないかと思った。

そんな風に、YouTubeの著作権違反動画を観つつ、無為に過ごす黄金週間である。

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ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』

先日、米国の小説家カート・ヴォネガット氏が亡くなったのにちなんで、勝手にヴォネガット追悼週間ということで、近所の図書館にあった唯一の文庫本『チャンピオンたちの朝食』を読んだ。訳は当然のことながら浅倉久志氏。

浅倉氏による日本語訳が出ているのは1984年だが、原書は1973年の出版、訳者あとがきによればヴォネガット氏が『スローターハウス5』の次に完成させた作品ということらしい。

題名から主人公がボクシング選手だと想像する方もいらっしゃるかもしれないが、題名と小説の内容はほとんど無関係。スタイルとしては短い断片と百以上の筆者自身によるイラストからなるメタフィクションで、著者自身が「わたし」として登場する。

1970年代米国の拝金主義、環境破壊、根強く残る人種差別などを軽妙な文体で執拗に批判しつつ、主役、脇役にかかわらず、さまざまな登場人物が平等なディテールで描かれ、物語らしい物語もないまま、はちゃめちゃなクライマックスに向かっていくといった感じの小説。

あえて人道主義的な人間観を相対化して、機能主義的な人間観を通低させている点は、同時代のフランスのポストモダン哲学と共鳴するところがあるように思える。

その意味で、米国で完全に異端あつかいされてしかるべき、ヨーロッパ的な世界観のはずなのだが、米国では出版当時、絶賛と激しい批判が同時に巻き起こったらしい。この作品が絶賛されるという点に、息苦しい日本社会とは違う、米国的自由の本質を垣間見るような気がする。

ヴォネガット特有の悲観主義と皮肉っぽさを楽しめる人にとっては、麻薬的な魅力をもつけれども、何のことだかさっぱりわからない人にはわからないといった性質の小説。高橋源一郎の小説の愛好家なら文句なしに楽しめる作品。

土曜日の朝、NHKFMラジオでピーター・バラカンの番組を愛聴している日本人と、ヴォネガットの愛読者である日本人は、かなり重複しているのではないかと勝手に想像する。

ただ、初めてヴォネガット作品を読む人にとって、おすすめできる作品ではないかもしれない。やはり『スローターハウス5』か『母なる夜』(昔は白水社の新書でも読めたが、今でも読めるのだろうか)をおすすめしたい。

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2007/04/28

壁のスイッチに関する合理的な判断

明日、何かうれしいことが起こるとして、それが今までの人生でいちばんうれしかったことよりもうれしい確率をHとしよう。明日、何かイヤなことが起こるとして、それが今までの人生でいちばんイヤだったことよりもイヤな確率をSとしよう(ちなみにSはShit!の頭文字)。

四捨五入すると40歳であるこの年齢を前提とした場合、H<Sとなることはほぼ議論の余地がない。僕がまだ十代であれば、H>Sだと自信をもって言うこともできただろうが、四捨五入して40歳という年齢は、自分が死ぬまでにどれくらいのことしか出来そうにないか、ほぼ予想がつく年齢である。

例えば僕は今からプロのピアニストになることはできない。フランス現代思想の研究者として准教授の座につくこともできない。そうなる前にホームレスになるのがオチだ。

H<Sとなることがほぼ議論の余地がないのであれば、いったい明日という日は何のために存在するのだろうか。前にも書いたかもしれないが、もし自分の部屋の壁にスイッチがあって、それを切ると何の苦痛もなく自分の人生が終わるのだとすれば、僕は迷わずそのスイッチを切るだろう。残念なことに世の中にそんな便利なスイッチは存在しないが。

このように書くと、頭がからっぽな人は、すぐに僕のことを慢性のうつ病あつかいしたくなるだろうが、残念ながら僕は絶望しているわけでもないし、何事にもやる気が出ないわけでもない。毎日をそこそこゆかいに暮らしている。

にもかかわらず、そういうスイッチがあれば迷わず切るのだ。H<Sとなることに議論の余地がないのだから、そういうスイッチがあれば切る、というのは極めて合理的な行動だ。つまり、僕は単に合理的なだけであって、うつ病でもないし、絶望しているわけでもないのである。

このような僕の考え方を、おかしいと思う人たちは、あまりに能天気すぎて、人間だけに与えられた知性を自ら放棄した人たちである。

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2007/04/27

「根回しのワナ」

サラリーマン社会には「根回しのワナ」というものがあるが、あまり知られていない。いったん根回しや調整をしなければ仕事ができないという仕事のスタイルを身につけてしまったが最後、どんどん根回しの深みにはまっていく、という現象のことだ。

日本のサラリーマン社会では、「周到な根回し」という非生産的な労働に時間を割けば割くほど、能力がなくても出世できるという経験的な法則性がある。しかし、根回しによって出世したサラリーマンは、出世すればするほど、課される仕事が大きくなるため、さらに高度な根回しが要求される。

そこで、さらに高度な根回しに奔走すると、さらに出世して、退職するか生活習慣病で死ぬか、燃え尽き症候群で自殺するまで、根回しから逃れられないサラリーマン生活を送ることになるのだ。

この「根回しのワナ」、またの名を「根回し地獄」から逃れる方法は比較的かんたんである。まず際限ない出世をあきらめ、そこそこの生活ができる程度の地位で足るを知り、社畜としての人生とは決別し、人間らしい生活を送る決断をすることである。

そして、周囲から「あいつはぶしつけなヤツだ」「気を遣うということを知らないやつだ」と思われようが、そんなことにこだわる方がせせこましい生き方であると無言で開き直って、自分の仕事に真面目に取り組めばよい。

そうすれば会社に対して少なくとも損害を与えることはないので、解雇されることはまずない。同時に人間らしい生活が送れる。

最もバカげているのは、根回しや調整、周囲への気遣いといった非生産的な労働に疑問さえ抱かず、それらをサラリーマンとして当然の仕事、もっと言えば、それらこそがサラリーマンの仕事の真髄だと思い込むことである。

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クエリーベース配布リストを使い倒す

Microsoft Exchange 2003 Serverを使い込んでいると、いろいろと面白い発見がある。その一つが「クエリーベースの配布グループ」である。

Exchange 2003 ServerをインストールしたWindowsサーバ上でActive Directory管理ツールを起動すると、通常のActive Directory構成のWindowsサーバでは作成できない「クエリーベースの配布グループ」というものを作成できる。

通常はユーザを一人ずつ固定で指定するメーリングリスト(Windows用語では「セキュリティグループ」または「配布グループ」)しか作成できないのだが、Exchange 2003 Serverが導入されているサーバ上のActive Directory管理ツールでは、GUIを使ってユーザを動的に抽出してメンバーにしたメーリングリストが作成できるようになるのだ。

ユーザを抽出する条件としてはユーザのプロパティなら何でも使える。例えばユーザのプロパティの「説明」欄に所属部署を入力しておいて、部署別の同報通知用メーリングリストを「クエリーベースの配布グループ」として作成したりできる。

このようにすると、新入社員はActive Directoryにユーザ登録して、説明欄に所属部署を入力するだけで、自動的に該当の部署のメーリングリストに追加される。ユーザ登録とメーリングリストのメンバーを管理する二度手間がなくなるわけだ。これがクエリーベースの配布リストの便利な点である。

ここまではExchange 2003 Server以降をお使いの方なら誰でもご存知だろうか、ここからが本題である。

Active Directory管理ツールのGUIからクエリーベースの配布リストを作成する場合、抽出条件として複数の条件を指定するとき、AND条件にしかならないという制限がある。

例えば、電子部品事業部の所属で、かつ、東京事業所勤務のユーザという具合に、抽出条件をAND条件として、どんどん絞り込んでいくことはできても、経理部所属のユーザ、または、人事部所属のユーザという具合に、抽出条件をOR条件にして、どんどん人数を増やしていくことができないのだ。

しかし内部的にクエリベースの配布リストがユーザを抽出するときに使っているのは、LDAPフィルタ文字列である。LDAPフィルタ文字列とは、LDAPに対してさまざまなオブジェクトを問い合わせるために使う文字列で、関係データベースでいうSQL文に相当するものだ。

LDAPフィルタの文法は次のようなものだ。「AかつB」は「(&(A)(B))」と表現する。「AかつBかつC」は「(&(A)(B)(C))」となる。「AまたはC」は「(|(A)(B))」となる。「Aかつ(BまたはC)」なら「(&(A)(|(B)(C)))」だ。否定の場合は「!」を使うので、「Aではない」は「(!(A))」と表現される。

Active Directory内からユーザを抽出したいとき、オブジェクトカテゴリは「user」なので、まず「(objectCategory=user)」という条件が必要だ。次に説明欄が「経理部」という条件は「(description=経理部)」となる。文字列の部分一致検索をしたければ「(description=*経理部*)」、前方一致なら「(description=経理部*)」、後方一致なら「(description=*経理部)」でよい。

経理部ユーザと人事部ユーザ全員を抽出したければ「(&(objectCategory=user)(|(description=経理部)(description=人事部)))」となる。じっさいにVBScriptでユーザを抽出したければ下記のようになる。

Set oConn = CreateObject("ADODB.Connection")
Set oCommand = CreateObject("ADODB.Command")
oConn.Provider = "ADsDSOObject"
oConn.Open "Active Directory Provider"
Set oCommand.ActiveConnection = oConn

oCommand.CommandText = _
"<LDAP://dc=yourcompany,dc=co,dc=jp>;(&(objectCategory=user)(|(description=経理部)(description=人事部)));cn"
Set oRS = objCommand.Execute

後は最後のADODB.Recordsetオブジェクトを最初から最後までループさせてoRs.Fields("cn").Valueを読み取れば、抽出結果のユーザの共通名(common name)を列挙できる。ちなみにこの事例は、あなたの会社のActive Directoryドメイン名が「yourcompany.co.jp」と前提している。それが「LDAP://dc=yourcompany,dc=co,dc=jp」という部分である。

そしてここからが今回のハイライトである。なんとGUIではAND条件しか指定できないクエリーベースの配布リストも、その「msExchDynamicDLFilter」という名称のプロパティにLDAPフィルタ文字列を直接書き込んでやると、どんな条件でも自由に設定できてしまうのだ。

まず該当のクエリーベース配布リストのオブジェクトを取得する。そのクエリーベース配布リストが「メーリングリスト」という名称のOU内にあるとしよう。

Set oGroup = GetObject("LDAP://cn=経理人事メーリングリスト,ou=メーリングリスト,dc=yourcompany,dc=co,dc=jp")

そして、このオブジェクトのmsExchDynamicDLFilterプロパティに、好きなだけ複雑なLDAPフィルタ文字列を設定し、保存すればよい。

oGroup.Put "msExchDynamicDLFilter", "(&(objectCategory=user)(|(description=経理部)(description=人事部)))"
oGroup.SetInfo

以上である。このクエリーベース配布リストをActive Directory管理ツールから開くと、既に抽出条件はGUIから変更できなくなっているが、抽出結果のユーザ一覧を見ると、フィルタが正常に機能していることがわかる。

スクリプトでしか抽出条件を変更できない点は不便だが、AND条件、OR条件、NOT条件をいかようにでも複雑に組み合わせられることを考えれば、かなり使える発見だと思う。これを知らないまま、クエリーベース配布リストは実用に耐えないと思っている企業ユーザは、意外に多そうな気がする。

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2007/04/20

川本隆史著『ロールズ―正義の原理』

現代思想の冒険者たちシリーズ、川本隆史著『ロールズ―正義の原理』を読んだ。宮台真司と宮崎哲弥の対談書でおすすめ文献になっていたし、これまでどちらかと言えば理論的な哲学書ばかり読んできた僕にとって、実践的な理性、倫理学の領域はまったく未知だったからだ。

アリストテレスについては『形而上学』は通読したが、『ニコマコス倫理学』はまったく読んでいないし、カントにしても『純粋理性批判』は通読したが、『実践理性批判』は1ページたりとも読んでいない。

それでいきなり現代思想家のジョン・ロールズは飛躍がすぎるかもしれないが、この入門書はそれなりに面白かったし、予想どおり少しだけ退屈だった。退屈だった理由は、本書がジョン・ロールズのダイジェストでしかないからであって、入門書が本質的にもっている限界だから仕方ない。

ただ、本書は時間があればぜひ『正義論』をじっくりと読みたいと思わせるだけの説得力を持っている。

僕らは何が正しくて、何が間違っているのかを論じるときに、共有できるものが少なすぎる。そのため、ジョン・ロールズが批判している「直観主義」で場当たり的な判断を下してしまう。また、個人間に多少格差があっても、全体の総和としてより良くなればOKと思ってしまう。これもロールズが批判する「功利主義」だ。

ここで以前ご紹介したことのあるリバタリアニズム、つまり、国家の介入は最小でよく、あとは個々人が自分自身の幸福をとことん追求しさえすれば、最終的にすべてうまくいくという考え方も、ロールズが厳しく批判する考え方だ。

何が正しいかを根気強く考えることをやめたとき、僕らは直観主義や、功利主義、リバタリアニズムなど、「わかりやすい」考え方に流されてしまう。それに対してロールズは、善の前提としての正義、公正としての正義を非常に慎重な足取りで解明している、らしい。「らしい」というのはロールズの著書を1ページも読んでいないからだが。

しかし、そういうロールズの『正義論』と、宮台真司が理論的な基礎としている社会システム論の明快さが、どうして両立するのかが理解できない。それを理解するためにも、ルーマンの『社会システム理論』とロールズの『正義論』はぜひ通読したいのだが、残念ながら集中して読めるような時間はない。いつになったらそのための時間をとれるのだろうか。

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2007/04/15

QBハウスにブロンドの美女

今日、QBハウス(1,000円理容のチェーン店)に行ったら、背の高い、正直なところあまり冴えない日本人の中年男性と、ブロンドの白人女性のカップルが順番待ちをしていた。白人女性はカジュアルなファッションをしていたが、痩せ型の美人で、もの珍しそうに入口にある券売機や、理髪中の他の客をちらちら見ながら相手の男性と話していた。

白人女性の番が来て席にすわると、相手の男性がスタッフに後ろ髪だけを切りそろえるように言い、男性は男性で自分も髪を切ってもらっていた。

髪を切り終わると、白人女性は満足した様子でスタッフに片言の日本語でお礼を言い、ほぼ同時に髪を切り終えた男性とともに店を出て行った。

駅ビルの中にあったそのQBハウスの店舗は、例えば神保町にある店舗と違って、できたばかりのせいかとても明るく清潔な感じで、仮にこの白人女性が米国人だとすれば、簡単なカットとはいえ、東京都内でたった1,000円で済んだことに驚いたのではないか。

おそらく相手の男性が連れてきたのだと思うが、あの白人女性は実は留学生か何かで、ふつうの美容院に行くお金がなかったのか、お金はあるけれども男性の誘いで、ちょうど後ろ髪を少しだけ切りたいところだったし、興味本位でQBハウスに来てみたのか、いったいどちらだったのだろうか。

1,000円美容院でアジア系やヒスパニック系の外国人は見たことがあるが、明らかにアングロサクソン系の白人で、しかも女性は見たことがなかったので、どうでもいいことだがここで報告してみた。

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2007/04/14

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

予想されたことではあるが、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』は半分も読まないうちに図書館へ返却となった。体形だった論文ではなく、いくつかの主題がくり返し断片で論じられる形式なので、非常に読みづらかった。

要するに言語というもののルールは恣意的であり、可能性としてはつねに他のルールでもありうるような一種のゲームであるにもかかわらず、われわれはいかにしてその言語をつかって真理を語ることができるのか。言語をつかって真理を語る権利や資格を、人間はいったいどこから得ているのか。そういうことが書いてあるのだと理解した。

このような理解がある程度正しければ、学生時代に僕が理解しようと努力していたフランスの哲学者ジャック・デリダと、方向性としてはそれほどズレていない。

ヴィトゲンシュタインが言語の「限界」について、ひたすら愚直に探究しているのに対して、ジャック・デリダが一見不真面目に見えるほどまでに、言語の恣意性と戯れている、そういったスタイルの違いがあるだけのような気がする。

...と、分かったようなことを書いても何の意味もない。『哲学探究』から現在の僕が何か得るものがあったか。残念ながらなかった。本書から何かを得るためには、同じ問題をヴィトゲンシュタインとともに考えながら読まなければならないのだが、じっくり考える時間が僕にはないからだ。

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「顧客第一」が産み出すおバカな社会

いまサービス業の社内情報システム部門で働いているせいか、顧客満足といえばできるかぎり顧客の要望を実現すること、という考え方が当たり前のように社内にまかりとおっている。しかし顧客の言いなりになるだけでなく、顧客を啓蒙することもサービス業の使命である。

わかりやすいのは環境問題だ。小売業がレジ袋を廃止すれば顧客の利便性は失われる。顧客の言いなりになることが営利企業の至上命題なら、レジ袋を廃止するのはナンセンスだ。しかし、現にレジ袋を廃止する企業が存在するのは、顧客を啓蒙するのも企業の使命だという暗黙の了解があるからだ。

家電製品やパソコン、携帯電話も、利用者のわがままをくみとって、できるだけ使いやすくというのが、一見、無条件に正しいことのようだが、実際には30年前の家電と比べると現在の家電の操作ははるかに複雑で高機能になっている。だんだん使いやすくなっているどころか、使いづらくなっている。

しかしこれは、より多くの人々が高性能な製品を使えるようになるように、家電メーカーが長い時間をかけて、製品を通して一般消費者を啓蒙していると言えないだろうか。

僕は情報システムの構築の仕事をしているわけだが、この業界では特に、顧客の言いなりになると、だいたいとんでもないシステムができあがる。だいたいはシステムを作る側よりも利用する側の方が、情報システムについての知識が不足しているためだ。

したがってシステム構築にたずさわる人たちは、自分たちが利用者の要望をくむだけでなく、利用者を啓蒙する使命もおびていることを忘れてはいけない。IBMクラスのシステム構築業者になれば、コンサルティングサービスを通じて顧客を啓蒙するということを自覚的におこなえるが、レベルの低いシステム構築業者は「安くていいものを」という顧客の言いなりになってしまい、「安くて悪いもの」を結果的に作ってしまう。

啓蒙されることを嫌がる自己中心的な顧客は、結局は良いサービスを受けることができないし、良い製品を使いこなすようになることができない。良い情報システムを構築したいなら、企業の経営者は顧客としての自社の要望が無条件に正しいなどと思ってはいけない。システム構築業者から学ぼうとする姿勢がなくてはならない。

人々を啓蒙するのは、けっして学校だけの役割ではない。一般消費者として僕らが受けるサービスや、購入する製品の一つひとつが、僕らにとっての「教師」になりうるのだ。ただし、そこから何か新しいことを学ぼうとする人たちにとってだけは。

たとえば、いま亀戸駅前のマクドナルドでこの文書を入力している僕の目の前には、僕が入店する前からコンセントつきのカウンター席で携帯ゲーム機に延々と興じている少年3人がいる。

マクドナルドは顧客の要望に忠実なので、彼らを叱り飛ばすことはないけれども、何時間にもわたって座席を占有することが、ほめられたことではないということを、これら3人の少年は学び損ねている。

高度成長を成し遂げて以降の、日本の(そしてもしかすると世界中の資本主義国家の)すべての企業は、これまで顧客満足、顧客至上主義を言いつづけることで、顧客のわがままを際限なく増長させてきた。それによって自分たちが製品やサービスを通じて顧客を啓蒙できるという、大きな可能性を自らドブに捨てるようなことをしてきた。

日本経済新聞の社説の論調も、企業の顧客至上主義を当然のことのように考えている。最近読んだ社説では、環境問題に敏感な若者のライフスタイルが、あたかも自然と環境問題をより良い方向にみちびくようなことが書いてあった。

しかしこれは完全なウソっぱちだ。環境のことを考えるなら、顧客は今までは通用したわがままを、どうしてもひっこめる必要がある。そして企業はそういう風にわがままをひっこめさせるために、顧客を啓蒙する努力をしなければならない。顧客の増大するわがままをひたすら実現することが企業の社会的責任ではなく、顧客を啓蒙することこそが、特定の製品技術やサービスについて、一般消費者より高度な知識・ノウハウをもつ企業の社会的責任ではないだろうか。

企業の管理部門にいると、現場の人たちはやたらと「管理部門は現場に対するサービス部門だ」などということを言い、まるで現場のわがままを無際限に聞き入れることが管理部門の使命のように言う。しかし、企業の管理部門は、本当は現場を啓蒙することの方が本質的な役割なのだ。

顧客満足、顧客第一という言葉がはびこることで、社会から啓蒙の機会がどんどん失われている気がする。典型的なのは学校に文句ばかり言う親たちだ。

まさに啓蒙の場である学校までが、単なるサービス業のようにみなされ、親たちはレストランやクリーニング屋の仕事に文句をつけるのと同じように、学校の教師たちに文句をつける。最後の啓蒙のとりでである学校までが、顧客第一の美名のもとに、単に顧客のわがままをくみとる機関に堕落してしまう。

関西テレビの健康情報番組のねつ造問題もまったく同型だ。啓蒙ということには、個人的に知りたくないことを知らされる、ということも含まれているのに、テレビ局は顧客の知りたいことだけを知らせるようになり、最終的には顧客の知りたいような情報を作り出す。

知らなかったこと、知りたくないことを知るという啓蒙の機会を失ってしまったら、人々はどうやって前に進むのだろうか。

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2007/04/13

カート・ヴォネガット死去

今朝、郵便受けに勝手に投函されていた『産経新聞』の試読紙の社会面で、カート・ヴォネガットが84歳で死んだことを知った。一時期、かなりハマった米国の作家だが、ここ数年はまったく読まずにいた。

この「愛と苦悩の日記」でも、彼の小説にたびたび登場する「自殺パーラー」については何度かふれたことがある。個人的にもっとも印象的だった作品は『母なる夜』だ。映画化された作品も観た。この機会に、まだ読んでいない彼の作品を読んでみようか。

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2007/04/10

ヱヴァンゲリヲン新劇場版

都内に引っ越してきていちばん困っているのは、AMラジオがまともに受信できなくなったことだ。それでもこの間の日曜日、ひどい雑音をかいくぐって、久しぶりに『林原めぐみのTokyo Boogie Night』を聴いた。

先日、Yahoo!JAPANのトップページからのリンク先で、今年10年ぶりに劇場公開されるエヴァンゲリオンの新作について、ほとんど何の付加情報もない予告編を見たばかりだったのだが、久しぶりに聞いた『Tokyo Boogie Night』では、偶然にも林原めぐみが2007/09/01公開の『ヱヴェンゲリヲン新劇場版』の第一部のプレスコが終わったという報告をしていた。

プレスコというのはアフレコの反対語で、声優が録音した声にそって、あとから動画をつけることを言う。ただし、林原めぐみの報告によれば、厳密には2007/09/01公開の『ヱヴェンゲリヲン新劇場版』の第一部は、10年前のテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』のダイジェスト版らしく、テレビ版のフィルムを編集した動画に、林原めぐみを含むオリジナルの声優たちがアフレコをして、その声にあてて動画を新たに制作する(プレスコ)という、凝った手順になっているようだ。

すでにテレビ版の物語を知っている人たちも、新しい動画が作られるというだけで十分観る価値がありそうだ。そして10年ぶりのアフレコ、というかプレスコがどんな風になっているのか。

林原めぐみはラジオを聴く限り10年前と驚くほど声は変わっていないが、『トリビアの泉』に声で出演してた緒方恵美の碇シンジの演技はどんなものになっているだろうか。『ウチくる』の派手なナレーションしか聴けなかった三石琴乃の、葛城ミサトはどんな風だろうか。

しかし、もう10年前になるのか。

サラリーマン生活に絶望していた僕にとって、格好の現実逃避の引き金になった『新世紀エヴァンゲリオン』からもう10年。10年たっても僕はいまだにサラリーマン生活というものに希望を抱くことができないでいる。残る人生は、ただ惰性と漸進的忘却のみ、ということなのだろうか。

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2007/04/09

錦糸町生活

最近引っ越したため、週末、通勤定期をつかって電車賃を使わずに通える繁華街が新越谷から錦糸町に変わった。新越谷のような郊外の繁華街に比べると、錦糸町はたしかに土地柄が悪い。しかし大阪でいえば天王寺に似た香りがして、すこしだけ懐かしくもある。

僕にとって週末の繁華街でもっとも居心地のいい場所は、2階以上のフロアがあるファーストフード店の、2階より上の閑散としたフロアのソファ席だ。家族連れの多い店舗はうるさくて集中できないのでダメ。駅から少し離れた、お客の少なめの店舗がいちばんいい。

ソファ席に腰かけて、昼食にハンバーガーセットのハンバーガーを食べた後、フレンチフライとソフトドリンクを、少しずつ飲み食いしながら、日経新聞や哲学書を読んだり、ノートPCで「愛と苦悩の日記」の記事を書いたりして、一人で二時間近くねばる。これが僕にとって週末の至福の時である。

錦糸町にもこの条件にぴったりと当てはまるファーストフードの店舗を見つけた。

錦糸町の北側には、この春開店一周年を迎えた「オリナス」というショッピングモールがあるのだが、ディズニーショップがあるせいで家族連れが多く、ここの3階のフードコートは子供の泣き声が騒々しく読書に集中できない。オリナスは吹き抜けの空間が心地よくて良いのだが、子供連れが多いのは頂けない。

アルカキットは大型書店や、広大な100円均一ショップがあって、意外に使える。オリナスにしてもアルカキットにしても、錦糸町の北口方面は、比較的新しいビルが多いので快適なのだが、南口方面はリヴィンにしても丸井にしても年季の入ったビルで、ややげんなりする雰囲気だ。

読者の中で錦糸町の穴場をご存知の方がいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたい。僕が「穴場」という場合は、当然、食事のおいしい店でもなく、お酒のおいしい店でもなく、パチンコ屋でも場外馬券上でもなく、子供連れが少なく静かに本が読めて、数時間ねばっても千円以上かからない、清潔な店のことだ。

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2007/04/08

今さらながら飯島愛の引退について(2)

ただし、一連の飯島愛の引退番組でやはり気になったのは、AV女優時代のことがまったく触れられなかった点だ。今日の『ウチくる』でも、幼少時代とテレビタレントとしてデビューして以降のことしか触れられず、その間にあるAV女優時代について一切言及されなかった。

僕と同年代の男性の多くは、おそらく彼女のことを人気のAV「単体女優」として初めて知り、後にテレビに出演しているのを見て、「AV女優から『脱がないタレント』というキャリアパスもあるんだ」と驚いたのではないか。

この「愛と苦悩の日記」ではあまり僕個人の性的な話題は取り上げないが、彼女がセーラー服姿で出演する女子校生もののアダルトビデオの映像の記憶が鮮明に残っている。僕がまだ大学生のころに見たビデオだ。

村西とおる監督と黒木香の登場から、ソフトオンデマンドというAV制作会社にいたるまで、良かれ悪しかれAV業界は少しずつ「市民権」を得てきているのだから、飯島愛がここまで徹底して元AV女優という経歴を、少なくともテレビの画面上からは抹消しようとしている理由は何なのだろうか。

引退の最後までAV女優時代をテレビ上から抹消しつづけたことは、彼女と同じ道を進もうとしていたAV女優たちの未来を否定することになりそうだ。

例えば及川奈央などは(わかる人にしかわからない名前で申し訳ない)、飯島愛には遠く及ばないにしても、ある程度のタレントとして活躍したかもしれないが、その道はほぼ閉ざされたと言っていい。

もしかすると飯島愛は、AV女優からテレビタレントというキャリアパスを自分で最後にするために、意図的にAV女優という過去をテレビ上では抹消したのかもしれない。

つまり、彼女のファンである少女たちが勘違いをして、テレビタレントになる手段としてAV女優を目指す愚行に走らないよう、たとえAV業界からの非難を浴びようとも、あえてAV女優は恥ずべき職業だというメッセージを伝えているのかもしれない。

彼女が個人的な名誉のためだけにAV女優という過去を抹消するとは考えづらいし、彼女自身、風俗産業の女性たちや、その予備軍の少女たちに与える影響の大きさを自覚しているだろう。

「AV女優は恥ずべき仕事だ」という保守的なメッセージを意図的に発しつづけることで、少女たちが安易に風俗産業に身を投じないようにしているのだろう。それが元AV女優から、図らずも売れっ子タレントになってしまった自分の社会的責任だと考えているのではないか。

彼女は芸能界引退後もブログは続けるようなので、思い出したときにはのぞいてみたい。まだ30代半ばなのだから、大久保松恵としてはさまざまな展開があるに違いない。AV女優時代から彼女を見ている同世代の人間として、彼女の新しい生活が幸福なものであればいいと思う。

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今さらながら飯島愛の引退について(1)

基本的に「テレビっ子」である僕の、お気に入りのバラエティー番組、『サンデージャポン』『金曜日のスマたち』『ウチくる』をこの2週間ほど見ていたおかげで、飯島愛の引退を何度も目にすることになった。

飯島愛が芸能界から引退したところで、僕の日常生活が大きく変わるわけではないし、引退の本当の理由が彼女の腎臓の病気かどうかなど、はっきり言ってどうでもいいことだ。

『金スマ』では女性占い師が登場して、本人が公表を控えている別の理由があることが示唆されていたが、そもそも芸能界から引退するのに、もっと言えば、人が何かの決心をするのに、唯一の本当の理由など存在しないだろう。何らかの事態が起こる理由は、つねに後知恵でしかない。

半年もたてば飯島愛が多くのレギュラー番組をもつ売れっ子タレントだったことも、「そういえばそんなタレントもいたね」程度の話題にしかならないだろう。一般人にとっての芸能界はそもそもそういうものだ。

にもかかわらず、彼女の引退の場面を見て、僕がある種の感慨にふけり、もらい泣きまでしてしまったことには、いくつかの理由がありそうだ。

一つは単純に同世代ということ。子供のころのメディア経験が共通している。『ガンダム』や『銀河鉄道999』などのアニメ、80年代のビルボードチャートを賑わせた洋楽、おニャン子くらぶ、などなど。

バブル時代に入ってしまうと、同じ東京生活でも、彼女は「不夜城」六本木を遊びまわり、こちらは東京大学で腐っていたという、日向と日陰の対照的な生活になっているが、同世代の文化的背景は共有している。

そして、二つめはもっと本質的な点。高度経済成長を達成し、豊かさのあまりこれから進むべき方向性を失った日本社会で、小学生として自分の将来を決定しなければならなかったことだ。

今日初めて飯島愛のブログを流し読みしてみたのだが、彼女は小学生のころ、地元の亀有から四谷まで塾通いをして中学受験を目指していたという。僕も大阪の下町出身だが、平々凡々たる家庭の子供でも、80年代は高学歴が明るい未来を約束するという神話がまだ生き残っていた。

おそらく彼女も、どの中流家庭にもあった親の期待にこたえようとしたが、中学受験の段階でつまずき、中学、高校と完全なアノミー(何のために生きているのかわからない状態)に陥ったに違いない。

僕のほうは中学受験に成功し、中高一貫の進学校に入学し、大学受験にも成功した結果、ずいぶん遅れて大学生になってから完全なアノミーに陥ってしまった。それが大失恋の時期と重なったため、いまだに後を引くほど大きな影響を人生に残している。

世間の大多数の1970年代生まれの人たちは、高度経済成長の後の豊かな社会で、そこそこの幸福はそれほど苦労しなくても手に入るという現実に、疑問を抱くことなく適応し、小市民的幸福に埋没した家庭を築いている。

しかし、僕らの同世代には、当たり前に幸福な自己像を素直に受け入れられない人たち、宮台真司の最近の用語で言えば「超越系」の人たちがいたということだ。

そして飯島愛、というより大久保松恵さんは、たまたま中学生にして既に当たり前の幸福に疑問を抱き、他方、たとえば僕のような人間は、たまたま20歳になって初めてそのことを切実な問題として突きつけられたということだ。

自分のやっていることが常に「つくりもの」でしかないこと、自分が好んでそうなったというより、やむを得ずそうなってしまったという感覚、そういう感覚に日々とらわれている人がいる。

彼女はベストセラー『PLATONIC SEX』について、大槻ケンヂに「好きなように生きてきただけじゃん」と指摘され、笑って肯定したそうだ。大槻ケンヂに指摘されるまでもなく、すべての自伝が多かれ少なかれ「つくりもの」であり、自分の人生など本当はわざわざ言あげする価値もないということを、いちばんわかっていたのは、おそらく彼女自身だったに違いない。

自分の言行が、言う端から、行う端から、大して意味のない凡庸なものに思えてしまう。でもそれを自虐的にまぜっかえしてごまかすこともまた、責任ある大人の言動ではないこともわかっている。

そういった、根拠のない罪の意識をベースにした自意識過剰の悪循環から、すっきりと脱出することができない心性を、同じ1970年代生まれとして、僕は彼女と共有しているのではないかと思う。

>>自意識の悪循環に疲れたこころを癒す歌声

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2007/04/02

タミフル服用せず異常行動

やはりタミフルを服用しないのに、異常行動で死亡する事故の実例が出てきた。毎日新聞によれば、2007/03/27夜、京都市伏見区で、小学校6年生の男児が、インフルエンザにかかっていて、タミフルを服用していないのに、マンションから「転落死」したようだ。

各種メディアはいまだに厚生労働省たたきに熱心で、厚生労働省が従来の見解を改めたことに「それみたことか」という風情だが、本当ならタミフルと異常行動の間の因果関係の有無がはっきりするまで、誰にも厚生労働省をたたく権利はないはずなのだが。

感情的な日本人たち...。

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