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2007/02/25

相変わらず「使えない」GroupBoard Workspace 2007

Microsoft GroupBoardのニュースグループを久しぶりにのぞいてみたが、うちの職場にはやはり「desknet's Enterprise版」を導入して正解だったと確信を新たにした。

たとえばGroupBoard Workspace 2007のスケジュール/設備予約機能では、月間のスケジュール登録数が1000個を超えると、超えた部分がカレンダー上に表示されなくなるらしい。これは致命的というよりも、バカげた欠陥である。

そして、設備予約でデフォルトがダブルブッキング可能になっている点も、相変わらず修正されていないようで、これも致命的欠陥だ。

そもそもGroupBoard Workspace 2007の利用前提となる SharePoint Services 3.0を正しく導入するだけの社内SEをかかえている企業は、それなりの規模に違いない。これではGroupBoard Workspace 2007がターゲットとする企業規模と矛盾している。月間のスケジュールが1000個を超えると表示されないなどというのは、実にナンセンスな欠陥である。

さらにGroupBoard Workspace 2007からは、階層化された組織図を管理できることを売りにしているが、この組織図たるや画面上で手で更新するしかないと来ている。これもナンセンスな欠陥だ。

「desknet's Enterprise版」も階層化された組織図をもつことができるが、画面上で手で更新する他に、CSVファイルによる一括新規読み込み、一括更新機能が、当たり前のこととして整備されている。

組織変更があったときに、部署を一つひとつ、画面上で手で変更する必要があるなどというのは、企業での実運用を考えれば、ほぼ完全なナンセンスである。

「desknet's Enterprise版」のように、いったん現状の組織図をCSV形式で書き出して、Excelをつかって組織変更を反映させた後に、一気にCSV形式で更新をかける、というのがまっとうな実運用だろう。

さらにGroupBoard Workspace 2007は、裏で動いているSQL Serverのテーブル定義をManagement Studioをつかって覗いても、テーブルどうしの関係が簡単に分からないようになっている。その理由の一つが、スケジュールやディスカッションなど、種類の異なるデータが同一のテーブルに書き込まれるなど、美しくない設計になっていることだ。

また、意味不明の内部管理の一意番号がたくさんあるため、テーブルを直接修正しても、いざ画面にひょうじされると何故かそれらが反映されていないということになってしまう。

それに対してSQL Server 2005版の「デスクネッツ・エンタープライズ版」は、Management Studioを使えば、概ねテーブル名からユーザ情報や組織情報のありかを類推できるし、Management Studioを使ってユーザの属性情報を手動で手早く更新することもできる。

また、開発元のネオジャパン社ときちんと機密保持契約を締結すれば、こちらの要求した範囲のテーブル定義書を公開してもらえる。まさに「デスクネッツ・エンタープライズ版」は、企業での実運用をよく考えて開発・提供されているグループウェアなのだ。

マイクロソフトのGroupBoard Workspace 2007開発陣の皆さんは、企業の現場の実態をまったくご存じないようだ。ここは一つ、妙なプライドを捨てて、一度、ネオジャパンやサイボウズのような国産グループウェア開発業者の考え方を謙虚に学んでみてはどうか。そうしない限り、たしかにLotus Notes/Dominoには勝てるかもしれないが、デスクネッツやサイボウズには絶対に勝てない。

10年以上にわたって企業現場でグループウェアを導入・運用してきた僕からの、マイクロソフトの世間知らずのGroupBoard Workspace開発陣への、おせっかいなアドバイスだ。

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六か国協議、拉致問題が日本のボトルネック

少し前の話になるが、北朝鮮の六か国協議で、日本だけが拉致問題を理由に、直接的な経済支援に参加しなかった。ビデオニュース・ドットコムによれば、宮台真司はこの日本の意思決定は完全な失敗とのことだが、僕もこの意見に賛成する。

第一に、今回の協議で北朝鮮は、米国から経済支援が得られれば成功だったのだから、日本など初めから眼中にない。

第二に、宮台真司曰く、経済制裁が意味をなすのは、今までおこなっていた経済支援を打ち切る場合だけだ。今までもずっと制裁を続けている日本が「まだ続けるぞ」と脅したつもりでも、外交交渉上の効果はゼロである。これも当たり前のことだ。

今回支援を決めた日本以外の国々は、今回支援を決めたことによって、逆に、今後「支援打ち切るぞ!」という外交カードを手に入れたことになる。この重要な外交カード手に入れるチャンスを、日本はみすみす逃してしまったことになる。

さらに慶応大教授・金子勝氏は、北朝鮮に各国がどんどん経済支援をおこなって、同国内の経済的な枠組みを根本的に変えてしまうのが、実は独裁体制崩壊への近道になるのだと主張している。

以上のように、日本はいろいろな外交戦略をとることができるのに、結局のところ北朝鮮との外交交渉では、いつも拉致問題を理由に強硬姿勢をとりつづけるところに行き着いてしまう。

北朝鮮のような国家を相手に、拉致問題を正面突破で解決しようなどというのは、外交の専門家に聞かなくても、素朴すぎて稚拙な戦略だということはすぐに分かる。

なのに日本の政府も外務省も、拉致家族の「感情」と拉致問題に関する国民の「感情」に「配慮」するあまり、北朝鮮との外交交渉で自ら手足を縛らざるを得ない状況におちいっている。

もし日本政府が戦略的に拉致問題を棚上げするなどという戦略をとれば、それこそ参院選で大敗を期すことになることになる。だから国民の「感情」に配慮すれば、政府も外務省も北朝鮮との交渉では、手詰まりになってしまう。

結局のところ、本当に拉致問題を解決したいなら、まず北朝鮮との国交正常化するか、北朝鮮の独裁体制を内部崩壊させるしかない。いま日本がとりつづけている「兵糧攻め」は、今回の日本以外の経済支援決定で、まったく無効になった。

だとすれば日本に残された唯一の選択肢は、拉致問題を正面きって北朝鮮に問いただすことを、いったんやめることしかない。そうしない限り、拉致された人々は永久に日本に帰ってこれないだろう。

しかし日本国民は何かと「感情」をベースに意思決定する国民性があるから、こうした思い切った合理的な方針転換をすることは、まずできないだろう。つまり日本は政府も外務省も世論も、拉致問題の解決について、自分で自分の首を締めつづけるだろう、ということだ。残念なことに...。

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2007/02/17

ビジネスパーソンの低レベルな「情報戦」

いま僕が勤めている業界は、社長クラスになると知らない人がいないというくらい世間が狭いらしい。それだけに業界内で何か目新しいことが起こったとき、すぐ業界中に伝わるようで、その世間の狭さは客観的に見ると何とも滑稽だ。

巧妙な情報戦を仕掛けているつもりでも、頭の良い人間から見れば、誰が何を仕掛けようとしているのかはすぐに分かってしまう。いちばん滑稽なのは、巧妙な情報戦を仕掛けているつもりの当人が、それがバレていることに気づいていない点、仕掛けられた情報戦に踊らされたり、見事に洗脳されたりしている人たちに、その自覚がない点だろう。

「ビジネスパーソン」という凡庸な人種が、自社の利害のために仕掛ける情報戦とはこの程度のものなのかと、客観的に見ていると滑稽でもあるし、うら悲しい気分にもなる。もう少し屈折した、巧妙な仕掛けを見せてほしいものだ。

まぁ、うまい投資話にだまされる詐欺の被害者が後を絶たないことからしても、一般人の「信じやすさ」は、悲しいかな、この程度のものなのだ。

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2007/02/12

廣松渉『物象化論の構図』

廣松渉『物象化論の構図』を読んだ。物象化というマルクス哲学の基本的な着想を手がかりに、マルクスの思想を教条的な誤解から救い出そうとする論文集だ。やはり学生時代、マルクスを無視して西欧現代思想の研究をしようとしていたのは完全に間違いだった。

廣松渉は肺ガンを宣告された後、主著『存在と意味』の執筆を中断してまでも、余命をマルクス思想の復権のために尽くしたと言われる。ソ連崩壊によってマルクスの思想は教条的な解釈とともに葬り去られてしまったが、その状況に抗して廣松渉は最期までマルクスの思想の現代性を顕揚しようとした。

僕自身、マルクスと言えば、無産階級による世界革命によって資本主義を拝し、国家統制経済へと移行する道に理論的背景を与えた思想家で、社会の下部構造(経済)が上部構造(文化)を決定する下部構造決定論者だという具合に、完全に誤解していた。

現象学からハイデッガーの存在論、構造主義、脱構築という流れの中で、マルクスの思想は完全に乗り越えられてしまっているので、今さら勉強するにも値しない。『資本論』など概説書をかじって読んだつもりになっていれば十分、くらいに思っていた。

ところが最近になって宮台真司をきっかけに、廣松渉のマルクス論を続けて読むにつけ、僕のマルクス理解が救いようのないほど通俗的で教条的なものであることに気づかされた。今ごろ気づいても完全に手遅れなのだが。

廣松渉のマルクス論を読んでみて、いちばん「目からウロコ」だったのは、マルクスの思想が唯物論ではないということだ。世界とは人間がそう考えている観念なのか、それとも人間とは独立に存在するものなのかという、古代ギリシア時代からの西洋哲学の論争について、僕はマルクスは世界の客観的な実在を前提とし、世界の物質的条件が資本主義を自壊させて共産主義をもたらすといった歴史観を主張しているのだとばかり思っていた。

しかし廣松渉は、人間の抱く観念こそ真実だと主張する立場も、世界の客観的実在こそ真実だと主張する立場も、どちらもマルクスはしりぞけていると論じている。マルクスはそこにあるのは、人間と自然(この自然も無垢ではなく、人間によって長い歴史の中で変容をこうむってきた自然なのだが)、人間と人間どうしの「関係」だというのだ。

人間と自然の関係を、人間の方にひきつけて自然を人間が頭の中で考えたことに還元してしまえば、それは観念論になり、自然の側にひきつけて自然の客観的実在に還元してしまえば唯物論になる。このように、本来は人間と自然、人間と人間どうしの相互作用であるものを、どちらか一方の極にひきつけてしまう見方を、マルクスは「物象化」として批判している。これが廣松渉がマルクス思想から救い出した物象化論だ。

この物象化論を手がかりにして、廣松渉はハイデッガーの存在論でさえ、部分的にはマルクスの思想から後退してしまっていると批判する。マルクスの物象化論は、マルクスの思想が西洋哲学にとってそう簡単には乗り超えられない射程をもつことを、廣松渉は繰り返し主張している。

今ごろこんなことに気づいて、学生時代にちゃんと廣松渉を読んでおくんだったとため息をついたところで、もうどうにもならないのだが、資本主義の極北の時代を生きる僕らにとって、決してマルクスは過去の人ではないということを知るためにも、一人でも多くの人が廣松渉を復習すべきだろう。惜しむらくは廣松渉の死があまりに早すぎたことだ。

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2007/02/11

宮崎県知事定例会見の低レベルな記者陣

日本の記者クラブ制度はやはり廃止すべきだ。東国原知事の初の定例記者会見は、ほとんどが対立候補だった持永氏が副知事候補とされている件で占められた。今後実施される政策の優先順位などのまともな質問は一切なし。

せっかくの定例会見が完全に時間の無駄、つまりは税金の無駄。興味本位のスキャンダル報道のために犠牲にされている。記者クラブなどという大手メディアの既得権益保護制度があるから、記者のレベルが落ちるのは当然なのだ。

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NHKで老醜をさらした堺屋太一と丹羽宇一郎

日付が変わってもう昨晩になるが、NHK総合テレビの「団塊の世代」をテーマにした一般視聴者参加討論番組に宮台真司が出演していた。

今後は理論構築の仕事に重点を置いていくといいつつ、依然として精力的に「世直し」モードの活動もしているのだなぁと敬意を表しつつしばらく見ていたのだが、見るに耐えず、途中でチャンネルを変えてしまった。

なぜ見るに耐えなかったのかと言えば、宮台真司や慶應義塾大学教授・金子勝に比べて、堺屋太一や伊藤忠商事会長・丹羽宇一郎がバカでもわかるキレイ事ばかりしゃべって、まったく議論のレベルがかみ合っていなかったからだ。

宮台真司はとにかく勉強量で堺屋太一を圧倒している。自説の裏付けとなるリファレンスの量が圧倒的に多く、かつ、妥当なのだが、堺屋太一や他の出演者、スタジオにいる視聴者もまったく彼の話についていけていないのだ。

誰も彼の話をまともに受けとめて議論できないので、画面上、宮台真司が単に自分の知識をひけらかしているようにしか見えなくなってしまう。ビデオニュース・ドットコムでビデオジャーナリストの神保哲生と宮台真司の議論がかみあっているのとは好対照だ。

金子勝は堺屋太一と同じ経済学をバックボーンとして議論するのだが、堺屋太一が団塊の世代の「明るい老後」とも表現すべき理想論を、さしたる根拠もなく振り回すのに対して、金子勝は非常に現実を冷静に見ている。

例えば、大企業はここ数年間、定年延長の一方で若年層の労働者を非正規雇用化してきたが、金子勝は、企業が定年延長という選択肢を持つことで、世代間の政治的な力の不均衡が露呈した事実を正視して議論していた。

それに対して堺屋太一は、定年延長が団塊の世代にとって人生の選択肢を広げることになった、という楽観的理想論しか語ることができない。伊藤忠商事会長・丹羽宇一郎も堺屋太一と同じく理想論、建前論ばかり語っていた。つまりは年長世代の自己正当化理論ばかりを語っていたということだ。

まさに泥臭い現実を正視せず、自らの行為を正当化する理論構築しかできないこの種の人物が、経済政策の決定に大きな影響力を持っていたり、財界で発言力を持っていたりするからこそ、日本は若者にとって閉塞感しか抱けない社会になってしまっているのではないのか。

そのことをまったく分かっていないからこそ、堺屋太一や丹羽宇一郎のような人々には第一線から引退してもらわなければならないのだ。だからこそ「定年」という制度は必要なのだ。

しかし堺屋太一や丹羽宇一郎がそのことを理解する日は来ないだろう。

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2007/02/04

Windows VistaとMacのテレビCMを比較する

Windows VistaのテレビCMに比べて、Macintoshの比較広告のまあ子供っぽいこと。あのMacの比較広告にひかれてMacを買う人間、Macユーザでよかったと思う人間は虚栄心のかたまりだろう。

Macintoshの比較広告「Get a Mac」日本語版シリーズ

Macintoshのあの比較広告は、明らかに「他人の目から見たときにWindowsよりMacがカッコいい」ということを訴求している。そこには「他人の目を気にする自分」という自意識過剰な自己が確かにある。

他人の目が気にならないなら、Windowsユーザに対してMacintoshの優位性をわざわざ主張する必要などないはずだ。Windowsを使っていようが、Macintoshを使っていようが、自分で納得していればいいわけで他人と比較する必要はない。

それに対してWindows VistaのテレビCMが素晴らしいのは、あくまで個人的な感動を描くことに集中している点である。

すでにご覧の方はお分かりのように、Windows VistaのテレビCMのテーマは、万里の長城を初めて見た白人女性の思わずもらす「Wow」という感嘆詞と、Windows Vistaの画面を初めて見た日本人男性の思わずもらす「おお」という感嘆詞が同じものだ、ということだ。

Windows VistaのテレビCMの中で思わず感嘆詞をもらす人たちは、お気づきのようにすべて一人である。この点があのCMの演出上のポイントだ。

つまり、他人から見たときに自分がどう思われているか、そんなことはどうでもいい。本当の感動というものはきわめて個人的(personal)で私的(private)な体験なのだ、というのがWindows VistaのテレビCMのメッセージである。

これに比べると、Windowsのカッコ悪さをダシに、自分自身のカッコ良さを訴求するMacintoshの比較広告が、病的なほど自意識過剰なことがわかる。Macintoshの比較広告は、意図に反してMacintoshユーザを根本からバカにしているのだ。

つまり、Macintoshの比較広告は、Macintoshユーザというのは、他人の「あなたはこうあるべきだ」という欲望を、いとも簡単に自分自身の欲望だと思い込んで内面化してしまう、まさに中身がからっぽの泡のような「バブリーな人間」であることを告発しているのだ。

さらに、Windows VistaのテレビCMが、個人の想像を超えた、突然の世界の現れ(例えば万里の長城の雄大さなど)に驚くという、脱自的な体験を淡々と描くことに成功しているのに対して、Macintoshの比較広告は徹底して自閉的で自己満足的な自意識、「オレのセンスはいいだろう」「わたしっておしゃれでしょ」という、それこそヲタク的な自閉性のレベルにとどまっている。

Windows VistaのテレビCMが「世界へ開かれた窓(windows)」というWindowsのコンセプトを描くことに成功しているのに対して、ラーメンズ出演のMacintoshのテレビCMは、「カッコよさ」の自閉的な回路の追認にしかなっていない。

Apple社には、小じゃれた周辺機器メーカーとしての未来しかないだろう。

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