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2006/12/31

Recordsetオブジェクトをソート可能な配列変数として使う

VBScriptで「自由にソートできる配列変数」が使えないかと調べていたら、ADODB.Recordsetオブジェクトがその目的に使えることがわかった。検索エンジンにひっかかるようにここに記しておく。

【参考ページ】
http://www.roubaixinteractive.com/PlayGround/FSO/Sort_Folder_Contents.asp

単純に「ソートできる文字列型の配列変数」の代わりになるものを作りたければ、ADODB.Recordsetオブジェクトを生成し、文字列型の列を1つ追加する。下記の例では最大半角200文字を格納できる「Field1」という名称の列を1つ追加している。もちろん複数の列を追加することもできるし、文字列型以外の型の列も追加できる。

新しい値を追加するにはRecordsetオブジェクトのAddNewメソッドを使い、データベースでいえば行を追加する感覚になる。最後にUpdateメソッドを呼び出すと変更が反映される。

ソートするにはRecordsetオブジェクトのSortメソッドに、SQL文の「ORDER BY」以降の記述をそのまま引数としてわたせばよい。下記の例では「Field1 DESC」となっており、Field1列の降順でソートされる。昇順なら「ASC」、複数列を指定するなら「Field1 DESC, Fields2 ASC」などとなる。

ソートした結果を取り出すのはデータベースの行操作とまったく同じで、MoveFirstメソッドを呼び出してから、繰り返し文でEOF(データの終わり)に突き当たるまでMoveNextを呼び出せばよい。

Dim oRs
Const adInteger = 3
Const adDate = 7
Const adVarChar = 200

Set oRs = CreateObject("ADODB.Recordset")

With oRs.Fields
.Append "Field1", adVarChar, 200
End With

oRs.AddNew
oRs.Fields("Field1") = "AAAA"
oRs.AddNew
oRs.Fields("Field1") = "CCCC"
oRs.AddNew
oRs.Fields("Field1") = "BBBB"
oRs.Update

oRs.Sort = "Field1 ASC"
oRs.MoveFirst
Do Until oRs.EOF
' 何かの処理をする
oRs.MoveNext
Loop

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2006/12/30

TBSラジオ『アクセス』に宮台真司出演

昨晩2006/12/29 22:00からのTBSラジオ『アクセス』は29日は「M2のウラ紅白・テレビじゃ聞けないJ-POP批評2006」と題して、宮崎哲弥と宮台真司がJ-POP、映画、Web2.0などについてしゃべりまくっていた。

宮台真司はインターネット放送ビデオニュース・ドットコムよりも一段と毒舌がさえわたり、今年ヒットした邦画については「はっきり言って『クソ』ですよね」と切り捨て、「悲しみ」「絶望」を表現することに成功している映画でなければ評価しないと語っていた。

YouTubeについてはJASRACの姿勢を「バカですね」とバッサリ。そもそも著作権とは表現者の食いぶちのための権利であって、JASRACのような中間業者の既得権益を守るためのものではない。

YouTubeによって表現の場を得る表現者がいるのだから、YouTubeが著作権者にとって利益になる点を理解せず、やみくもにYouTubeに講義するJASRACは、自らの利権にしか関心のない「バカだ」というわけだ。

ただ、いちばん興味深かったのは番組の締めに宮台氏が語った来年の抱負で、「来年はフィールドワークからはなれて、理論構築の仕事にシフトしていきたい」とのことだった。いったいどんな著作が公刊されるのか、とても楽しみだ。

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2006/12/28

暴力型のいじめには被害届で対抗を

2006/12/27時事通信によれば、東京都千代田区の区立小学校で、教師に体罰を受けて2週間の打撲を負った生徒の保護者が、警視庁神田署に被害届を出したという。正しい流れだ。

(ただし、時事通信がわざわざ「女性教諭」というふうに、加害者の性別を特定している意図は理解できない)

加害者が生徒の場合でも客観的な身体的被害がある場合は、ただちに警察署に被害届を出して警察を介入させるべきだ。そうすれば、いくら小学生でも「いじめは損だ」ということぐらい分かってくるので、内藤朝雄氏のいう暴力型のいじめは確実に減るだろう。

残るは「コミュニケーション操作型」のいじめ、つまり「シカト」や言葉によるいじめだ。こちらの方については内藤朝雄氏は固定的なクラス分けの制度を廃止しない限り改善は難しいだろうと書いている。

いずれにせよ、学校であれ会社であれ、客観的な身体的被害を証明できるならきっちり被害届を出して暴力方のいじめは「警察沙汰」にすべきである。そうするしかいじめを減らす実効のある方法はない。

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2006/12/27

モチベーションは自分自身で調達せよ

サラリーマンが仕事をするための動機づけをどこから手に入れるかについて、数年前の僕は間違った考え方をもっていたかもしれない。サラリーマンが仕事をするための動機づけは、最終的には会社組織の外部から手に入れるしかないのだ。

いまサラリーマン社会では「コーチング」の流行ひとつとってみても、部下を動機づけするのも上司の仕事の一つだという考え方が「正しい」こととしてまかり通っている。

部下を動機づけるのが上司の仕事だとすれば、その上司を動機づけるのは上司の上司の仕事ということになり、最終的には会社組織のトップがすべての社員の動機づけの責任を負うことになる。

しかしこれはよく考えると、単なる組織への依存にすぎない。仕事をするのは会社組織に参加するための最低要件なのであって、会社組織に参加しておいて、つまり給料をもらっておいて、「やる気にさせてくれないのは会社のせいだ」などとほざくのは、単なる甘えであり、感情的な依存にすぎない。

したがって「コーチング」などといったことに会社が組織的に取り組むのは、少なくとも日本企業では、社員の会社に対する感情的な依存をさらに強化するといった悪循環を生み出すだけに終わる可能性が高い。

言い換えれば、会社組織がコーチングなどといったことを下手にやればやるほど、社員に「オレが(わたしが)やる気にならないのは会社のせいだ」という言いわけを垂れ流す余地をあたえることになる。

そういう言い訳が強くなれば、会社組織はますますコーチングのような動機づけへの取り組みを強化せざるを得なくなる。このような悪循環が起こる。

サラリーマンは特定の会社組織に自分の意志で参加し、報酬をうけているのだから、会社組織に参加するための最低要件、つまり「仕事をすること」についての動機づけは、組織の外部から自分で手に入れるのが当然だろう。

それは「家族のため」でもいいし「仕事自体が趣味的に好きだ」でもいい。動機づけの調達の方法は何でもいいのだが、とにかく自分自身で調達するのが、自立した市民としての会社組織への参加の仕方だ。

僕が今まで在籍した会社にも「自分がやる気になれないのは上司が悪い、会社が悪い」とほざく同僚が何人かいたし、もしかすると僕自身もその一人だったかもしれない。問題なのはどれだけ早くそのことに気づくかだ。

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2006/12/24

「治外法権」化した学校という「聖域」

今日のTBS『報道特集』は心的外傷に苦しむ少女のいじめ問題を取り上げていた。中国人の少女が小学生時代、暴力にまでエスカレートしたいじめに合い、6年たった今でも安定剤なしでは眠れないという。

最近、少女の両親が当時の加害児童の両親を相手どり、損害賠償請求(民事裁判)を起こしたが、加害児童側はいじめの事実そのものがなかったと争う構えだという。

番組の内容としては、両親の調査請求に対して教育委員会が小学校に実地に聴き取り調査し、いじめの事実を認め、両親に謝罪するという、珍しく誠実な態度だったと評価していた。

確かに、いじめの事実を隠蔽しつづけた事例に比べれば、まだましだと言えるのかもしれないが、『報道特集』のような本格的なジャーナリズム志向の番組としては、あまりに粗末な結論だ。

当時小学生の少女は体にあざができるほどの暴力をうけていたというのだから、どう考えても傷害事件として警察に通報するのが、ふつうの市民として学校関係者がとるべき当然の対応ではないだろうか。

たとえば町中で小学生の女の子が、集団で殴る蹴るの暴行を受けていたとしよう。そこにたまたま通りがかった普通の大人なら、あわてて注意してやめさせるか、その勇気がなければ、少なくとも警察を呼ぶかするのが当たり前の対応だろう。

『報道特集』が取り上げていた少女の場合でも、傷害事件であることは明らかだ。それにもかかわらず警察に通報しなかった学校側は、校長や教師である以前に、一市民としてやるべきことをやっていないだけのことではないか。

目の前で展開されている立派な刑事事件を、警察に通報することさえせず、見逃すような人間に、そもそも教師などつとまるはずがない。

つまり、これほどまでに「学校」という場は治外法権の「聖域」となってしまっているのだ。日本の学校はここまでわけのわからないことになっているのである。

一歩、校門をくぐれば、そこはもう市民社会の法律が適用されない治外法権であり、教師が生徒を殴ろうが、生徒が生徒を殴ろうが、生徒が教師を殴ろうが、殴り放題、器物損壊もやり放題。

いくら法に触れるようなことをやっても、学校側が警察に通報することはない。こんなことでいじめ問題がなくなるわけがないではないか。案外、左翼の熱血漢タイプの教師ほど、学校に警察が介入することに猛烈に反対し、学校を必死で「聖域」化しようとする傾向があるらしい。

そう言えば昔観たテレビドラマ『3年B組金八先生』でも、警察が校内になだれ込むのを必死で押しとどめようとする金八先生が、学校と言う聖域の純粋さを守る「ヒーロー」のように描かれていたのを思い出す。

傷害事件は警察の手にゆだねよ。このごく当たり前のことさえ実行できない教育関係者に、いじめ問題を云々する資格などない。

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一介のサラリーマンにできる「公的貢献」とは

昨夜はビデオニュース・ドットコムで、京都立命館大学収録の第292回マル激トーク・オン・ディマンド「ちょっとみんな元気ないんじゃない」を延々と観ていた。

立命館大学はビデオニュース・ドットコム主催者の神保哲生氏が、学生向けのゼミを持っているとのことで学生との討論形式なのかと思ったが、じっさいには、前半は宮台真司と神保哲生が時事ネタについて中身の濃いかけ合い漫才をやるという、ゲストなしのマル激トーク・オン・ディマンドと同じ展開で非常に参考になった。

とくに「日本が近代を脱するためにはまず近代化しなければいけない。そのためのリソースとして利用できる数少ない既存の資源が、象徴天皇制である」という「転向後」の宮台氏の主張がわかりやすく展開されていた。

そして、マル激トーク・オン・ディマンドがインターネット・ニュースメディアとして唯一黒字の会社であることを知って驚いた。それと同時にマスメディアに対するオールタナティブとしてのインターネットの可能性に希望を感じた。(その意味でも梅田望夫の『ウェブ進化論』は皮相な議論だ)

ただ、一介のサラリーマンとしてまとまった自由時間がない僕にとって「公的な貢献」をする方法が、じっさいには選挙で投票するくらいしかないことに絶望的な気分にもなる。

宮台氏の議論に最近よく出てくる顕教(大乗仏教)・密教(小乗仏教)論、つまり、真の民主主義を確立するには、一般大衆が民主主義を信奉する(=大乗仏教)だけではドイツのワイマール共和国のように、国家全体主義を呼びよせる衆愚におちいるだけなので、裏で少数のエリートが民主主義を制度として維持する(=小乗仏教)必要がある、という議論のことだ。

宮台氏の学術用語をまじえた議論を完全に理解できるという意味で、僕は密教を担う最低限の資格はある。大学をレジャーランドとして過ごした大多数のサラリーマンとは、はっきりと違う人生を歩んできている。

ところがそんな僕でも一介のサラリーマンになってしまえば、「有能な人間ほど仕事が増える」というサラリーマン社会の法則にしたがって、マイペースで仕事をする同僚の手に余る仕事をすべて拾い上げなければならない状況に置かれる。

宮台真司氏の議論を完全に理解できるのに、日本の真の近代化のために公的貢献をする時間もなく、そのためのコネづくりができるような環境も既になく、絶望的な気分で日常生活を送らなければならない。

現時点でできることといえばこうしてブログを書くぐらいなのだが、自分のITスキルを活かしつつ、子供向けに「密教」的な教育を提供するような私塾を起業することが、ほぼ唯一の可能性として残されているかもしれない、と考えたりもする。

最後にこの第292回マル激トーク・オン・ディマンドでもふれられていた、小室直樹『日本人のための憲法原論』をあらためておすすめしておく。

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2006/12/21

完全に無意味なホワイトカラー・エグゼンプション導入論

ホワイトカラー・エグゼンプション(ホワイトカラー労働時間規制適用免除制度)の導入検討が話題になっているが、この制度の大前提は、ホワイトカラーが本当の意味で自分の裁量で労働時間を決められる環境になっていることだ。

しかしそんな日本企業がいったいどこにあるのか。

管理職でさえ、部下や他部署の顔色をうかがいながら「付き合い残業」しなければいけなかったり、訳のわからない社内行事に参加させられたりといった、理不尽な同調圧力があちこちで働くような日本企業に、この制度を導入できる環境などあるわけがない。

日本の経営者団体も、自分たちの企業の実態はいちばんよく知っているはずだから、彼らがこの制度に賛成するのは明らかに賃金抑制の意図だ。

「時代が変わったからそろそろ新しい制度を入れなければ」という、まったく根拠のない空論をテレビで平気で吐いている経営者には、恥を知れと言いたい。

また、「ホワイトカラー・エグゼンプション反対論は、残業代で稼ぎたい負け犬の遠吠えにすぎない」という賛成論は一見もっともらしいが、日本企業の実態を無視した暴論で聞くに値しない。

ホワイトカラー・エグゼンプション導入に賛成する人たちは、理念だけで突っ走って噴き上がっているお祭り野郎としか評しようがない。

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2006/12/19

劇場版『幻魔大戦』(1983年)

昔の話ばかりで申し訳ない。「大川ゼミ」のある天王寺駅まで通う阪和線の中、小学生の頃の僕が毎日読みふけっていたのは、星新一や筒井康隆のショートショートと、平井和正の『幻魔大戦』(当時は角川文庫)だった。

最近、近所の図書館で『幻魔大戦』を探したところ、角川文庫版の蔵書はなく、角川文庫2冊分が1冊ずつにまとまった集英社文庫版の全10巻しかないのが残念だった。角川文庫版のあの官能的な挿絵が好きだったのだが。

今日、偶然、新聞のテレビ欄で見つけてNHKBS2の劇場版アニメ『幻魔大戦』(1983年角川映画)を観た。主人公の東丈の声を古谷徹がやっていたとは知らなかったが、今観るとさすがに荒唐無稽な超能力の物語で退屈する。

キース・エマーソンの音楽は、なにしろ今でもMP3プレイヤーの定番に入れているほど、主題歌の『光の天使』こそ素晴らしいが、戦闘シーンには全く不釣合いに間延びしている。

それでも当時、劇場で観てそれなりに感動したのは、おそらく僕のシスターコンプレックス(現実には僕に姉はいない)のど真ん中を射抜いたからだろう。主人公の東丈を母親代わりに育てた姉が、強姦を連想させる方法で東丈の目の前で幻魔の手先に殺されるという場面に、小学生の頃の僕がのめり込まないわけがない。『銀河鉄道999』のメーテルに夢中になっていたのも、同じシスターコンプレックスのせいだ。

アニメに詳しい人なら大友克洋のキャラクターデザインや、金田伊功の電光の演出などだけでも十分に楽しめるのだろうが、残念ながら今の僕にとっては完全に失われてしまった何ものかの痕跡でしかない。そもそも痕跡とは不在を指し示すものなのだから、それ自身が充実している必要はまったくない。痕跡はそもそも虚しいものなのだ。

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2006/12/18

大川ゼミのあったビルからあべの地下街へ

ついでに今回の帰省では、小学校のころ通っていた、天王寺駅前の学習塾の入っていた雑居ビルも訪ね当てることに成功した。成光ビルという間口の狭いビルである。もちろん今はもうその「大川ゼミ」という進学塾は入居していないが、一階からまっすぐに伸びる狭くて急な階段が何よりの目印だ。

そして、あべの地下街(略して「あべちか」)のいちばん北の端の出口を上がってすぐの場所にあったはず、ということも手がかりになった。

雑居ビルの前から小学生の頃のように、天王寺駅へ帰るつもりで逆にあべの地下街に降りていくと、幅のせまい通路の左右に、昔と同じうらぶれたカウンターの一杯飲み屋がならんでいる。このあたりは「あべの横丁」という名前だ。

その飲み屋街を過ぎると、こちらは昔と違ってこぎれいな地下街が広がっている。最近できたのか、こぎれいなモスバーガーの前でメニューをのぞきこみながら迷っている女子校生が3人。偶然にもOさんが通っていた女子校の制服だった。グレーのブレザーに特徴のある校章なのですぐにわかる。

すべてが失われてしまった。何もかもが。

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久しぶりに鶴山台をひとり歩く

出張で大阪に帰省したついでに天王寺から足を伸ばしてJR阪和線の北信太駅まで出かけてきた。以前ここでも触れたが、鶴山台という都市基盤整備公団の大団地は僕が幼稚園から小学校6年生までを過ごした土地だ。

小学生の頃は北信太駅から鶴山台団地の賃貸棟の58棟、そして後に引っ越した分譲棟の8棟までは随分遠く感じたものだが、大人になって歩いてみるとそれほどでもない。今回はビデオカメラをもって、平日の午前中ということもあって人影まばらな団地の中を歩き回ってみた。

実は6年ほど前にも寒い季節に訪れたことがあるのだが、そのときはなぜか気が引けて、当時通っていた小学校の校庭の裏までまわって、小学校5、6年と付き合っていたOさんの家に近づくことができなかった。

でも今日は思い切って小学校の正門の前を通り過ぎて敷地沿いに右へ折れ、しばらく歩くと見えてくる通用門を通り過ぎてもう一度敷地沿いに右へ折れる。すると校庭裏にまっすぐな道路が伸び、左に大きな一軒家がずらりとならんでいる。

少し歩くとOさんの実家が僕の記憶の姿のままにたたずんでいた。四半世紀ぶりにしげしげと見上げたOさんの家は、長年の風雨にもくすむことなく白い壁がまぶしく輝いていた。一般的な日本家屋より傾斜のきつい屋根と、美しいクリーム色の壁のせいで少し西洋風に見えるところまで何も変わっていない。

周囲に誰がいるわけでもないのに、心臓が破れそうなほど高鳴るのを悟られまいと、早足でその前を通り過ぎた。その後、いつもOさんと学校帰りに歩いた団地の中の小道をなぞるように歩いてみた。この小道も何も変わっていない。ところどころにある小さな児童公園の遊具も、Oさんとならんですわって話した木製のベンチも、少し小さく見えるだけで、何も変わっていない。

小学校の卒業アルバムから僕自身の作文を引用してみる。漢字仮名遣い、句読点もそのまま引用する。原文に改行がないので読みづらいがご容赦いただきたい。

作文全体がかぎカッコでくくられ、話し言葉になっていることにご注意されたい。自分で言うのも何だが、六年間の思い出について架空のインタビューをうけた記事という凝った体裁になっている。

ひとにぎりの六年間

「六年間の思い出?そうだなぁ、僕の性格が性格だかったから物心も早くついて……。入学の時は、同じ棟に居たMさんちのお姉さん(当時高学年)に色々なことを教えてもらってわりと不安もなしに一年生になれたよ。そう、こんな事言ってもいいのかな、初めてバレンタインデーにチョコレートをもらったのが一年生だった。ニヒヒ。二年生と三年生の記憶っていうのはあまりないんだ。なぜかって、その時と今の友達の質が変わっているからだよ。でも、五年生と六年生ほどすばらしい時期はなかったな。僕の人生論の根本的な考えが出来上がったのもこの時期なんだ。さて、ざっとマッハ10ぐらいのかけ足で見て来た六年間は僕にとって……”人生のスタートライン”でもあった六年間。一日一日の劇的瞬間が昨日の事のように思い出される印象強い六年間。努力の大切さを受験という試練を乗り越えて知った六年間。なにもかもがすばらしい思い出ばかりの六年間。そして、まさに、あっという間に過ぎ去った『ひとにぎりの六年間』だった。少しませてるけど『今、人類にとって必要なのは、愛。』これが小学校生活六年間での僕の哲学の結論なのです。」

小学校6年生のガキに「五年生と六年生ほどすばらしい時期はなかったな」と言わせ、「今、人類にとって必要なのは、愛。」という自意識過剰な台詞を書かせたのは、他ならぬOさんのおかげである。おそらくOさんは、西洋風の一軒家が今も美しいままであるように、幸福な結婚をされて、美しく年齢を重ねていることだろう。

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2006/12/16

Winny裁判:包丁職人を殺人ほう助罪にする愚

Winnyの開発者が著作権法違反のほう助罪で有罪判決を受けた。よくよく考えるとこれは信じられない判決である。

今回の判例が今後のさまざまな刑事事件に適用されると、とんでもないことになる。包丁をより握りやすいように改良した人は、殺人ほう助罪で有罪になる可能性が高くなる。超小型CCDカメラの開発者は盗撮のほう助罪で有罪になる可能性が高くなる。赤外線撮影機能のビデオカメラを再発売したら、そのメーカは刑事訴追をうける可能性も出てくる。

体内で分解されやすいアルコール飲料を開発した技術者は、飲酒運転のほう助罪で有罪になるかもしれない。詐欺に引っかかりやすい人々の心理的メカニズムを論文にして発表した心理学者は、詐欺のほう助罪で訴追されるリスクが出てくる。YouTubeの親会社であるGoogleも、著作権法違反ほう助でいつ訴えられてもおかしくない。

などなど。そもそも特定のソフトウェアを開発した技術者が、刑事で訴追されるというのは先進諸国を見ても異常事態なのだ。著作権法違反によって経済的な損害をうけたということで、民事訴訟(損害賠償請求)を受ける事例は欧米にもあるようだが、ファイル共有ソフトが刑事事件になったのは、日本だけらしい。

しかも有罪判決を受けたのだから、今回のWinny裁判は端的に日本の司法制度の異常だと言い切ってよいだろう。

どうやら、京都府警はWinnyの開発者である金子氏の協力を得つつ、Winnyで著作権法違反を犯した容疑者をつきとめたのだが、時を同じくして署員がWinnyによる情報漏えい事件を起こしてしまったために、手のひらを返して金子勇氏をスケープゴートに仕立て上げた、というのが本当らしい。警察による司法の私物化だ。

いずれにせよ、今回の有罪判決によって、日本の技術者たちが萎縮してしまうことは間違いない。自分の開発した技術がどのように悪用されるか、その影響をすべて事前に予測することなど不可能だ。

今回の警察の愚挙は、日本の技術者たちから、実用的な技術革新を生み出そうという動機付けを奪ってしまったことになる。やはり日本という国の民度はそうとう低いようだ。

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小室直樹『日本人のための憲法原論』

小室直樹著『日本人のための憲法原論』(集英社インターナショナル)を読んだ。

日本が真の民主主義と真の資本主義を取りもどすためには父権復権が必要だという巻末の主張は厳密さを欠いていていただけないが、それ以外の部分は目からウロコの憲法論だった。

キリスト教の予定説についての説明は『日本人のための宗教原論』と大部分が重複するし、同著者の経済学や社会思想の入門書をすでに読んでいる方には食傷気味になる箇所も多いだろう。

しかし、たとえば「憲法とは国民に対する命令ではなく権力に対する命令である」とか、「刑法は犯罪者を裁くための法律ではなく裁判官を縛るための法律である」など、法制度に関する自分の認識がいかに誤っていたかを認識できた。

ほとんどの日本人が憲法というものは、国家が、国民に対して、国民の義務と権利を記していると勘違いしているが、憲法とはそもそも放っておくと怪物(リヴァイアサン)になってしまう国家権力を縛るための慣習法なのだ。

また刑法には「殺人を犯してはいけない」とか「盗みをしてはいけない」などといったことはまったく書かれていない。そもそも容疑者は刑事裁判によって罪刑が確定するまでは無罪なのだから、罪刑が確定した犯罪者を裁く法律というのはありえない。

刑法に書いてあるのは、もし誰かが殺人を犯したときにはこれだけの刑しか科すことができない、という量刑に関する規定なのだ。もし裁判官が刑法で懲役3年以下と定められた罪に対して懲役5年の求刑をすれば、その裁判官は刑法に違反したことになる。

そういうわけで、刑法とは裁判官を縛るための法律であって、犯罪者を裁くための法律ではないのだ。

これらのことは恥ずかしながら、僕にとってまったく目からウロコだった。

まだ司法制度についても、小室直樹氏は田中角栄のロッキード裁判のデタラメさを例として、日本の司法制度がいかに未成熟であり、三権分立の原則に完全に反しているかを暴き出している。

このことは、先日ご紹介したビデオニュースドットコムで、エコノミスト植草一秀氏が登場して冤罪を訴えた放送回で、社会学者・宮台真司が強調していたことでもある。

近代司法制度においてもっとも重要なことは、裁判が適正な法的手続きにしたがって行われたかどうかということであって、容疑者が心の中で犯罪を犯そうという意図をもっていたかどうかなど、刑事裁判には全く関係ないのだ。

ほとんどの人が、刑事裁判で裁判官は容疑者を裁くのだと勘違いしているが、裁判官は検察を裁いている。検察が容疑者が有罪であることを立証するにあたって、適正な法的手続きにしたがっているか、そしてその立証に破綻がないかをチェックするのが刑事裁判なのであって、犯罪者を裁くのが刑事裁判ではない。

最近、宮台真司や小室直樹の著作でこうした議論にふれるまで、僕も恥ずかしながら憲法や司法制度について完全に誤解していた。

近代市民社会を生きる者として、憲法とは何か、民主主義とは何か、資本主義とは何か、そして日本の憲法・民主主義・資本主義がすでに死んでしまっているという事実を、『日本人のための憲法原論』を読んで、まず認識することから始めたい。

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2006/12/13

YouTubeに対抗して「MyTube」

この「愛と苦悩の日記」へのトラックバック先から知ったのだが、YouTubeに掲載されている動画を携帯電話で閲覧できる形式に変換するWebサイトがあるようだ。その名も「MyTube」というこちらのサイトである

正直言ってトップページはほとんど「18歳未満閲覧禁止」といった非常にいかがわしい雰囲気なのだが、実際に携帯電話から接続して何でもよいのだが試しにキャンディーズの『やさしい悪魔』をダウンロードしてみると、正しく動画として再生できる。技術的には確かなようだ。

YouTubeとは異なり、動画の分類が日本人にわかりやすくなっているし、何よりYouTubeがその名のとおり能動的に動画を創作して掲載することで、利用者の表現欲を満たすことを意図しているのに対し、MyTubeの方はいかにも日本人らしく、既存の動画を受動的に楽しむことを意図している。

結局のところYouTubeのようなCGM(消費者が作り出す媒体)は、利用者に能動的に表現する文化的背景があって初めて機能するのであって、平均的な日本人がブログやYouTubeを使っても、平凡な日常の垂れ流しや、既存の映像資産の受動的な享楽にしかならない。

この点でも梅田望夫氏がWeb 2.0の革命性を日本企業の経営者に説いてまわってもなかなか理解されないと嘆いているのは、見当違いもはなはだしい。米国と日本の文化的背景を理解していないのは梅田望夫氏の方なのだ。

シリコンバレーで長く生活する間にどっぷり米国文化に浸かりすぎたために、米国(特に西海岸)の文化的な文脈と日本のそれとの区別までつかなくなってしまったのだろう。梅田望夫氏はいい加減に、自説の不明を恥じるべきなのだが、まだ反省するつもりはないようだ。

最近の梅田望夫氏の見苦しいインタビュー記事はこちら。

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2006/12/12

YouTubeでキャンディーズにハマる

予想どおりYouTubeに著作権法違反と思われるキャンディーズ関連の動画がいくつか掲載されていた。先日NHK『プレミアム10』の枠で放送されたキャンディーズのドキュメンタリー番組の一部も早速掲載されている。

違法だと分かってはいるものの、やはり志村けんとキャンディーズのワンパターンなコントだったり、当時のコンサート中継のカメラワーク、背景の安っぽいセット、生バンド演奏、紙テープでいっぱいの舞台(アイドルのコンサートから紙テープが消えたのはいつからだろうか)、今観るとかなり奇妙に思える振付けなどから、1970年代のアイドル文化の雰囲気を丸ごと想起できるのは、YouTubeという情報基盤があってこそだ。

他にも歌番組に出演する久保田早紀、レコード大賞を受賞するちあきなおみ、10代の岩崎宏美(やはり歌唱力は素晴らしい)、紅白歌合戦での朱里エイコ『北国行き』(赤組の司会が佐良直美、白組の司会が堺正章)など、いろいろ検索して観はじめるときりがない。

そしてこれら百科事典には当然掲載されていない芸能人の情報は、日本語版ウィキペディアで検索すると、おおまかなことは把握できる。佐良直美が芸能界から姿を消す原因となった同性愛スキャンダルの相手がキャッシーだったということまで分かってしまう。

その意味で、確かにYouTubeやWikipediaといった、CGM(consumer generated media)はインターネットの利用者にとってかなり便利だし、魅力的な情報基盤であることには違いない。しかしそれでも「Web 2.0」と俗称されるこれらの情報基盤が、いまだに梅田望夫氏が喧伝するような「革命的」なものかと言われると、はなはだ疑問だ。

言ってしまえばYouTubeもWikipediaも、既に存在する情報の流動性を高めるのに役立っているだけであって、新しい情報を生み出しているわけではない。社会全体の情報の総量というものがあるとして、その総量を増やしているわけでは決してなく、ただその回転率を高めているだけだ。

貨幣経済に例えれば「Web 2.0」は金融の役割はたしかに果たしているかもしれないが、総体としての経済を成長させているわけではない。経済の成長は主に技術革新によってもたらされるが、「Web 2.0」はこれまで紙ベース(百科事典)や個人ベース(録画したビデオテープの貸し借り)で行われてきたことの量的な流動性を高めたにすぎず、そこに何か質的に新しい情報の誕生があるわけではない。

要は、YouTubeもWikipediaも、ひまつぶしやお勉強にはなるが、それ以上のものではない、ということだ。その程度のものでしかない限り、「Web 2.0」がインターネット利用を根本的に変えたかのように喧伝するのは、単なるデマゴーグとしか評価できない。

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2006/12/10

Macintoshの新テレビCM、ダサさの極地

Macintoshの新しいテレビCMシリーズ、スーツ姿のいかにもサラリーマン然とした黒縁メガネの男性が左、カジュアル・ファッションでリラックスした語り口の男性が右に立ち、かけ合いの中から左側の男性の「ダサさ」を浮き彫りにするという内容だが、左側の男性がWindows、右側の男性がMacintoshを象徴していることは明らかだ。

しかし、この「カッコよさを主張する」という右側の男性のコミュニケーション・スタイルそのものが、日本で言えば1980年代のバブル的なものであり、今、こうしてテレビCMのかたちで見せられると、いかにも時代錯誤でダサダサなのだ。おそらく糸井重里ならこのMacintoshのテレビCMシリーズを、現代日本の時代性とかけ離れたものだとして、まったく評価しないだろう。

逆に、このMacintoshのテレビCMに感情移入する人たちは、「カッコよさを主張することが、2006年の現代においては実はとてもダサいのだ」ということをまったく理解していない、時代錯誤の「バブル崩れ」たちだと言える。いまだに「イケてることを主張することはイケてる」という無反省なバブル精神にどっぷりつかっている人々なのである。

この時代錯誤のMacintoshのテレビCMに比べれば、Microsoftがいま展開している明らかに企業向けのテレビCMシリーズ、つまり、社員一人ひとりの力を引き出すのがITの使命だというテーマのCMシリーズの方が、よほど経済至上主義的な2006年の時代性にぴったり来ている。

MicrosoftのテレビCMの方が優れているということではない。ただ、今ごろ「カッコよさ」や「イケてる」ことをベタに訴えるCMを垂れ流してしまうApple社の時代とのズレこそ、同社がiPodでしか食っていけない企業に成り下がった原因ではないのか。そしてその誤りにApple社はまだ気づいていないらしい、ということがよくわかる。

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『GOLDEN☆BEST/キャンディーズ』

キャンディーズ『GOLDEN☆BEST/キャンディーズ』((c)2002 Sony Music House Inc.)。2002年リリースのベスト盤。CD1はシングルA面コレクション。CD2はその他の曲。

キャンディーズというアイドルグループはシングルの曲数だけ見ると大したことないと思ったが、アルバム収録曲も含めると活動期間中に200曲以上も録音しているらしい。2004/06発売の『CANDIES PREMIUM~CANDIES ALL SONGS CD BOX~』がほぼ全曲網羅しているようだ。

―ジャケット写真―







―CD1―
曲名作詞作曲編曲
01 キャンディーズ山上路夫宮川 泰宮川 泰
02 あなたに夢中山上路夫森田公一竜崎孝路
03 そよ風のくちづけ 山上路夫 森田公一 穂口雄右
04 危ない土曜日 安井かずみ 森田公一 竜崎孝路
05 なみだの季節 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
06 年下の男の子 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
07 内気なあいつ 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
08 その気にさせないで 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
09 ハートのエースが出てこない 竜 真知子 森田公一 竜崎孝路
10 春一番 穂口雄右 穂口雄右 穂口雄右
11 夏が来た! 穂口雄右 穂口雄右 穂口雄右
12 ハート泥棒 林 春生 すぎやまこういち 船山基紀
13 哀愁のシンフォニー なかにし礼 三木たかし 馬飼野康二
14 やさしい悪魔 喜多條 忠 吉田拓郎 馬飼野康二
15 暑中お見舞い申し上げます 喜多條 忠 佐瀬寿一 馬飼野康二
16 アン・ドゥ・トロワ 喜多條 忠 吉田拓郎 馬飼野康二
17 わな 島 武実 穂口雄右 穂口雄右
18 微笑がえし 阿木燿子 穂口雄右 穂口雄右
19 つばさ 伊藤 蘭 渡辺茂樹 渡辺茂樹
20 キャンディーズ1676日 島 武実 穂口雄右 穂口雄右
―CD2―
01 ラッキーチャンスを逃さないで竜 真知子 宮本光雄 渡辺茂樹
02 悲しきためいき山上路夫 宮川 泰 竜崎孝路
03 雨と涙とあのひとと千家和也 穂口雄右 あかのたちお
04 どれがいいかしら千家和也 穂口雄右 穂口雄右
05 恋のあやつり人形竜 真知子 馬飼野康二 馬飼野康二
06 あなたのイエスタデイ喜多條 忠 吉田拓郎 馬飼野康二
07 キャンディ・ツイスト森 雪之丞馬飼野康二 馬飼野康二
08 銀河系まで飛んで行け喜多條 忠 吉田拓郎 馬飼野康二
09 銀河空港竜 真知子 馬飼野康二 馬飼野康二
10 アンティック ドール伊藤 蘭 伊藤 蘭、渡辺茂樹 渡辺茂樹
11 午前零時の湘南道路田中好子 田中好子、渡辺茂樹 いじだかつのり
12 あこがれ藤村美樹 藤村美樹、渡辺茂樹 渡辺茂樹
13 インスピレーション・ゲーム阿木燿子 穂口雄右 穂口雄右
14 100% ピュア・レディ島 武実 穂口雄右 穂口雄右
15 グッド・バイ・タイムズ阿木燿子 穂口雄右 穂口雄右
16 暑中お見舞い申し上げます Part2喜多條 忠 常富喜雄 穂口雄右
17 アン・ドゥ・トロワ パートⅡ喜多條 忠 吉田拓郎 馬飼野康二
18 Candies Beats
(Exteneded Version)

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2006/12/09

続・内藤朝雄『いじめの社会理論』

内藤朝雄『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解』(柏書房)から、いくつか印象的な部分を引用してみたい。

「会社や学校では、精神的な売春とでもいうべき『なかよしごっこ』が身分関係と織り合わされて強いられている。そしてこの生きていくための日々の『屈従業務』が、人々の市民的自由と人格権を奪っている」(p.1)

「現代の日本社会では、多くの人々が共同体への人格的献身として学校や会社への参加を強いられ、人格的自由あるいはトータルな人間存在を収奪され、きわめて酷いしかたで隷属させられるといった事態が生じた」(p.20)

「学校は会社とともに日本の中間集団全体主義を支えてきた。日本の学校は若い人たちに共同体を強制する、いわば心理的過密飼育の檻になっている」(p.24)

「たとえば、スーパーマーケットや路上で市民が市民を殴っているのを見かけたら、別の市民はスーパーマーケットの頭越しに警察に通報する。その通報者は市民的公共性に貢献したとして賞賛される。しかし学校で『友だち』や『先生』から暴力をふるわれた生徒が学校の頭越しに警察に通報したり告訴したりするとしたら、道徳的に非難されるのは『教育の論理』を『法の論理』で汚した暴行被害者の方である」(p.120)

「いじめで自殺する少年の多くは、加害者を司直の手にゆだねるという選択肢を思いつくことすらできないままに死んでいく。それに対して加害生徒グループや暴行教員は自分たちが強ければ、やりたい放題、何をやっても法によって制限されないという安心感を持つことができる」(p.120)

そして内藤氏による「自由な社会の構想」は次のようなものだ。

「①人々を狭い閉鎖空間に囲い込むマクロ条件を変えて、生活圏の規模と流動性を拡大すること。
②公私を峻別し、こころや態度を問題にしない、客観的で普遍的なルールによる支配。」(p.266)

おそらく読者の皆さんが働いている職場も、「精神的な売春とでもいうべき『なかよしごっこ』」を強制されるような閉鎖空間ではないだろうか。

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2006/12/07

内藤朝雄『いじめの社会理論』

ビデオニュースドットコムにも出演して、いじめ問題について宮台真司、神保哲生と鼎談していた内藤朝雄の書いた『いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体』(柏書房)を読んだ。

中盤はかなりハードな理論構築になっているので、精神分析や哲学、社会学の知識のない方は、前半と後半を読むだけでも十分「目からウロコ」のいじめ論になっている。

昨夜だったかのNHKの9時からのニュースでも、いじめに対する「画期的な対策」として、学級の中で小学生どうしがお互いの良いところを褒め合う、という取り組みが紹介されていたが、その程度では全くいじめ問題の対策にならないということは、この『いじめの社会理論』の冒頭を読むだけでわかる。

内藤氏がいじめの根本的な原因とするのは「中間集団全体主義」だ。全体主義といえばナチスや戦時中の日本のような、国家による全体主義が真っ先に思い浮かぶが、内藤氏は、国家と個人の中間に存在する集団、たとえば「学校」や「会社」などといった「中間集団」による全体主義こそが、いじめの根本原因だとする。

また、内藤朝雄氏は本書の中で、世間の識者や権威、有名人がもっともらしく語る「いじめ問題」の解決策を類型化し、問題設定そのものが間違っているとして、バッサリと斬り捨てている(同書p.47以降を参照)。

今日のニュースでも、英国の制度にならって、加害者側を出席停止にするという案は、いじめ対策としては行き過ぎだ、と答弁する政治家が登場していたが、こういう答弁こそが学校のいじめを「正当化」しているのだ。

また、相手の立場にたって考える心を育てればいじめはなくなるといった「こころ」に依拠した議論も、まったく効果がないどころか、いじめの被害者の「こころ」を改造することでいじめを解決しようという現場の指導を正当化することになってしまう。

『いじめの社会理論』を読み終えると、世の中のいじめ問題に関する議論のほぼ全てが問題設定そのものを誤っており、かつ、即効薬にも中期的対策にもならないことがわかり、やや絶望的な気分になる。

本書の末尾で内藤氏が提言しているような制度は、一体いつになったら日本で真面目に議論されるようになるだろうか。大人が生活している会社という中間集団でさえ、「みんな仲良く」という同調圧力がこれだけ強いのだから。

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香山リカ『多重化するリアル』

香山リカ『多重化するリアル』(ちくま文庫)を読んだ。多重人格は病気というより、共通の大きな目標(経済成長など?)をもてなくなった現代社会に、人間が適応しようとした結果ではないか、という問題提起だ。

ダニエル・キースなどの多重人格者を主人公にした小説が流行した後、多重人格は精神科医が作り出したニセの病気ではないかという意見も出たが、臨床現場では実際に多重人格(正確には解離性人格障害と呼ばれる)が増えているらしい。

最近では多重人格は病気というより、むしろ、その場その場で複数の役割をこなさなければならない現代人の特徴だという意見が主流になっている。もちろん香山リカは狭い意味での多重人格と、現代人の特徴としての多重人格的な性格を区別する。

ただ、重要なのは、こういった見方が何を生み出すのか、つまり「多重人格は現代人が環境に適応しようとした結果だ」と言ったとして、そこから何が生まれるのかだ。香山リカ自身、解離性人格障害を現代人の特徴と語ること自体、共通の「大きな物語」の再生産ではないかと自問している。

...という論旨はともかく、本書でいちばん興味深いのは文庫版のあとがきである。40代後半になった著者の「実存的」な悩みがかなり正直に吐露されている。売れっ子著述家精神科医の「弱い」一面が垣間見えるので、ぜひご一読を。


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2006/12/05

キャンディーズのドキュメンタリー番組

昨夜、1970年代のアイドルグループ「キャンディーズ」のドキュメンタリー番組がNHKで放送されていた。ただ気づいたのが遅く、1978年の後楽園球場(現在の東京ドーム)での解散コンサートの部分しか観ることができなかった。

久しぶりに本格的に死にたくなった。当時僕はまだ小学生で、どちらかといえばピンクレディーの熱狂的なファンだったのだが、いずれにせよこれから30年の人生、何にでもなり得た、可能性のかたまりだったわけだ。

ところが今、28年前のコンサート映像を見て愕然とする。メインボーカルの伊藤蘭が「大人の人たちは、私たちのことをバカだと言います(筆者注:人気の絶頂で解散するから)。でも私たちはバカじゃありません」と言ってる本人は当時すでに20代前半の立派な大人で、日本語版Wikipediaによれば、キャンディーズの解散には、売上げの取り分について事務所との確執があったとのこと。

ありがちなウラ事情など当時小学生だったファンは知るよしもなく、ただスーちゃん(田中好子)がいちばん好きで、舞台に立つキャンディーズの「アウラ」は複製大衆芸術であるにもかかわらず圧倒的だったし、今の僕にとっても気恥ずかしいほどに圧倒的だ。

10年ほど前もキャンディーズのベストアルバムをヘビーローテーションで聴いていた時期があったのだが、意外に美しくハモられている楽曲のサビにも鳥肌が立たないと言えばウソになる。

要するに単なる懐古趣味でしかないことは自分でもよく分かっているが、この28年間は一体何だったのだろうかと考えると愕然とする。そして当時の映像の圧倒的な「アウラ」を感じた後、これからの28年間のことなど一切考えたくなくなるだけの虚脱感がある。それは歴然とした事実だ。

以上、久しぶりにメンヘル(=メンタルヘルス)モードの記事でした。

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