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2006/09/28

須田氏のネット事大主義・第3回

日経ビジネスオンラインのコラム「Web2.0(笑)の広告学」第三回が掲載された。この記事を書いている時点でトラックバックが1件もついていないので、早速ツッコミを入れてみる。

やはり須田氏と梅田望夫氏はよく似ていて、ネットを過大評価する傾向にある。ネット事大主義とでも言えばいいだろうか。

前回、須田氏は、実際にはバーガーキングのPR戦略でしかない取り組みを、YouTubeの新しい広告モデルだと誇大広告したが、今回も冒頭から懲りずに誇大広告を展開している。

米国でドリトスがテレビCMをネット上で公募したことを、「CGM」(消費者が作るメディア)時代の証明だと誇大広告しているのだ。これも実際にはバーガーキングと同じく、話題性によるPR戦略と、CM制作費を賞金1万ドルと安く上げる工夫でしかない。

そして今回のテーマはSNSのミクシィだ。ミクシィの利用者数は570万人で、確かに須田氏の言うように若者にとっては加入していて当たり前のインフラかもしれない。しかし1億2000万人の日本人のうち、たった570万人しか利用していないサービスを「セロテープ」「サランラップ」「ゼロックス」と同列に論じる須田氏の無神経さには言葉を失う。これはネットの過大評価以外の何物でもない。

そしてミクシィのコミュニティーから映画『ホテル・ルワンダ』の国内公開が決まったエピソードで、この映画を「ヒット映画」と称しているが、国内興行成績で一度も10位以内に入っていない映画をヒット映画と言えるかどうかは疑問だ。

しかもこの映画の評判が広がった直接の原因は、この映画のミクシィ内のコミュニティーが、映画評論家・町田智浩氏のブログに取り上げられたからであって、町田氏のブログのメディアとしての権威と認知度によるものだ。

さらにその後、コミュニティーの主催者であった水木氏が、署名活動など、リアルの世界で寝る暇を惜しんで公開運動を進めたからこそ国内公開が実現したわけで、水木氏の情熱があれば、ミクシィでなくても、たとえば5年前のYahoo!JAPANのテーマ別掲示板でも同じことは起こっただろう。

部分的にネットを巻き込んだ口コミというのは、ネットが普及している今、それほど珍しいことではない。『ホテル・ルワンダ』の事例が特殊なのは、水木氏の情熱であって、ミクシィの成功例だからではない。その点で須田氏の議論は完全におかしい。そのため須田氏の議論は、広告がいかにして水木氏の情熱が先導したような「仲間内の盛り上がり」を作り出せるか、という奇妙な展開になっている。

「SNSはユーザが極めてプライベートな感情を交換する場です」という定義も完全に間違っている。ミクシィは「足あと」機能をはじめとして、自分の行動の履歴が参加者にいちいち明らかになってしまうので、実際にはかなり神経をつかう場だ。

そんな場でプライベートな感情を交換しようものなら、たちまち仲間はずれにされてしまう。例えばこのブログのように須田氏のコラムをいちいち批判するような心性は、ミクシィのような仲良しサークルには許容されない。

SNSは決して「ハートとハートのオープンなコミュニケーション」(須田氏はクリエイターのわりに言葉選びのセンスが悪い)ができるような場ではない。気をつかって仲間の機嫌を損ねないように振舞わなければ、誰も仲間になってくれない場である。

そしてファイブミニの広告キャラクターの話が出てくる。こんなキャラクターがあるなんて初耳だったが、この広告コミュニティーを、「ハートとハートのオープンなコミュニケーションを企業がすれば、参加者も応えてくれ」る事例とするのは、須田氏のこじつけもいいところだ。

このバカげたキャラクターのお遊びについてこれる人々が結果としてコミュニティーに残っただけであって、しかも彼らはおそらく「アクダー・マーキン」(悪玉菌)というキャラクタの、下らなさ、バカらしさを知った上で、そういう下らなさに反応する自分の下らなさを楽しんでいるのだ。

決して企業のハートのあるメッセージが消費者のココロに刺さっているわけではない。ここで起こっているのは、対象物の下らなさを知った上で、そんな下らないものに反応している自分の下らなさを楽しむという、高度なシニシズムの遊びだ。

須田氏は消費者をなめている。完全になめている。毎日これだけ膨大で良質な広告や、楽屋オチ満載のバラエティー番組にさらされている消費者が、企業の心のこもったメッセージにストレートに感動してキャラクター遊びに参加するはずがないではないか。

最後に第3回目のコラムは、ミクシィのようなSNSは「マス媒体」と呼べるのか、「マスメディア」の本質とは何なのかという問いで終わっている。須田氏の定義を頭の良い言葉で言い換えると、「マス」とは伝播速度も減衰速度も高いメディアで、ミクシィのようなSNSは伝播速度も減衰速度も低いメディアとなる。

「SNSがパワーを持っていくことは、既存のマスメディアにどのような影響を及ぼすのか?そもそも『マス媒体』『マスメディア』の本質とは何なのか?」という須田氏の問いに答えよう。

SNSは趣味趣向の同じ人間を出会わせる媒体にはなる。例えば『エウレカセブン』好きの人間を出会わせる媒体にはなる。しかしその一人ひとりが『エウレカセブン』と出会うのはマス媒体である。このようにSNSとマス媒体は補完関係にある。

つまり一定数の消費者が飛びつくネタを提供できるのはマス媒体しかない。そして同じネタに反応した人々が、今までなら専門誌や同人誌、イベントでしか出会えなかったが、今はネット上のコミュニティーで地理的制約・時間的制約を超えて効率よく出会える。

『ホテル・ルワンダ』も米国で本当の意味でヒットしたからこそ(=マス媒体)、日本にもそれに反応する人々がごく少数だが生まれた。彼らがミクシィで出会って、有名映画評論家のブログ(=マス媒体)を利用することで、日本国内にも一定数のコミュニティーを形成できた。

このことが糸井重里の「ほぼ日」(=マス媒体)で話題になることで、さらにコミュニティーを広げ、最後は映画の配給会社(=マス媒体)でより多くの人にリーチできるようになった。極めつけは日経ビジネスEXPRESSという典型的なマス媒体のインタビュー記事に取り上げられたことだろう。そして須田氏のコラムも同じ日経BP社のマス媒体である。

このようにマス媒体と、ミニコミ媒体(SNS、専門誌、同人誌)はいつの時代も補完関係にある。別にSNSが特別新しいことをやっているわけではない。かつての紙媒体(専門誌や同人誌)と比べると、地理的・時間的効率がいいという「程度の差」があるだけで、「質の差」はない。

だからSNSが時代に本質的な変化をもたらすだとか、広告展開に革命的な変化をもたらすなどといった過大評価は避けなければならない。

さて、ますます連載第4回が楽しみである。

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2006/09/27

宮台社会学入門としての『限界の思考』

今読んでいる『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』は、僕と同世代の北田暁大という社会学者と宮台真司の対談形式なのだが、ほとんど北田氏による宮台社会学入門、といった感じになっている。しかもアイロニーに関する議論が延々とつづく中で、宮台氏の『サブカルチャー神話解体』(1993)が何度も言及されるので、この本も読まないわけにはいかなくなってくる。

これって結局、宮台真司の策略にまんまとハマっていることになるのでは?と思いつつも、図書館でさがしてみよう。しかし本来はルーマンの『社会システム理論』の英訳本をもっているので、まずそちらを読むべきなのだろうが...。まとまった時間がほしい。いつになったらまともにルーマンを読めるのだろうか。

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2006/09/24

人間は「内在系」と「超越系」に分けられる

ここ数週間、社会学者·宮台真司をまとめ読みしているが、僕の実存的な煩悶に明快な図式を与えてくれる。

内在系と超越系という区別もその一つだ。今読んでいる『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』から引用する。

「『内在系』とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせれば、幸せになれる者のこと。『超越系』とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかに煩悶する者のこと。〈社会内〉のポジショニングには自足できない存在です」(p.103)

言うまでもなく僕はこの図式を使えば「超越系」なわけで、「内在系」ばかりの会社員に囲まれたサラリーマン生活がストレスフルなのはある意味当然なのだ。

こんなことを再認識することにどの程度意味があるかは別にして。

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「きっこのブログ」の無自覚な坂東眞砂子批判

タヒチ在住の坂東眞砂子という直木賞作家が、日経夕刊の連載で子猫殺しを告白したらしい。飼い猫に避妊手術をしたくないので、生まれてきた子猫を崖の上から放り投げるのだという。

この告白に対して「きっこのブログ」のように感情的な反論をすることは簡単だが、坂東氏を単なる犯罪者・異常者と判断するのは早い。坂東氏がこの行為を選択するに至った「論理」を理解せずして、同様の行為を避けることはできない。

きっこのブログ「猫殺し作家の屁理屈」
きっこのブログ「呆れ果てるイイワケ」

Yahoo!ニュースで抜粋だけ読んだ僕は、生まれたばかりの子猫を殺すのも「避妊手術」の一種で、可能性としての生命を奪うか、目の前に実在する生命を奪うかで、前者を選択しているだけではないか。それを坂東氏は分かっていないと考えた。

ところが問題のコラム全文を読むと、坂東氏自身は自分の行為が「子種を殺すか、できた子を殺すかの差」だと理解している。それでも子猫を殺すのは、大人の雌猫から性の悦びと出産という生の充実を奪いたくないからだ、という。

さらに大前提として「動物をペットとして飼う」こと自体が人間のエゴだと告発し、自分もそのエゴから自由でないことを認めている。その後、坂東氏は「弁明」を公表し、避妊手術は許され、子猫殺しは犯罪だと無条件に判断する価値観に疑問を呈している。

「きっこのブログ」はこれを「呆れ果てるイイワケ」と斬り捨てているが、「きっこのブログ」は坂東氏の自己批判の徹底ぶりを理解できていない。

坂東氏が言っているのは、猫を飼うことについて真に「正義」と呼べる選択肢は、「猫を飼うのをやめる」、この一つだけということなのだ。

それ以外の選択肢をとる人間(坂東氏も含まれる)、つまり、猫を飼っておきながら、避妊手術をしたり子猫殺しをしたりする人間や、そもそも人間様の都合で猫を飼う人間には、いかなる正義も主張する権利がない。

したがって、「子猫殺しより避妊手術の方がマシだ」という考え方は、自己欺瞞性に無自覚だからこそ、より「犯罪的」である。これが坂東氏の論理なのだ。

「きっこ」氏だけでなく、坂東氏を異常者呼ばわりする人々は、坂東氏の問題提起のラジカルさを理解しそこねている。

さらに、坂東氏がそこまで「何が正義か」という議論にこだわるのなら、何故猫を飼うことをやめ、絶望的に孤独な人生にコミットしないのかという意見もあるだろう。(坂東氏自身「私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢さからだ」と認めている)

ただ、先進諸国の動物の権利擁護論が、常に自己欺瞞をはらむ点は忘れてはいけない。たとえ猫を飼うのをやめても、僕らがペットを飼える程度の経済的な豊かさを享受しているのは、誰かがどこかで「子猫殺し」に近いことを、僕らの代わりにやってくれているおかげだからだ。

「きっこのブログ」の筆者は、坂東氏ほど徹底して考えていないからこそ、坂東氏を端的に犯罪者・異常者だと断定できるのだ。坂東氏が犯罪者・異常者なら、日本で安穏と生活しながら、ブログでまったりした言論を垂れ流している僕や「きっこ」氏も、犯罪的であり、異常である。

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2006/09/23

石原都知事国旗·国歌訴訟控訴で意味不明の反論

東京都の都立校に国旗掲揚と国歌斉唱を義務付ける条令について、地裁が違憲の判断を下し、石原都知事は控訴の意向だという。

裁判官は都立校の現場を見るべきだ、規律の維持のためには国旗·国歌は必要だと、記者会見で意味不明の反論をしていた。

義務化した点が違憲なのであって、国旗掲揚、国歌斉唱が違憲だと判断されたわけではない。そんなことよほどのバカでない限りわかる。普段から衆愚をバカにしているわりに、見え透いた稚拙な論点のすり替えだ。

規律を守りたいなら朝夕トイレ掃除でも義務化した方がはるかに実効がある。

小泉首相も同主旨の反論をしている。ここまで小馬鹿にされて国民が怒らないことの理解に苦しむ。

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2006/09/21

「パルナスの歌」MP3ファイル完全版

今日、日本テレビ系のバラエティ番組で話題になっていて、思わずなつかしくなった『パルナスの歌』だが、ネット上にオリジナル完全版のMP3ファイルが、作詞・作曲者の承諾の上、掲載されているのを見つけた。

歌は中村メイ子、ボニージャックス。前半は歌入り、後半はカラオケ。計5分28秒のMP3ファイルである。

パルナスの歌(完全版)

このページのいちばん下、「PLAY HERE」を右クリックして、「名前をつけて保存」で保存できる。

素晴らしい。週末、時間があったらギターでコードをつけてみたい。

※追記:テレビCMの動画はこちら

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2006/09/19

日経ビジネスオンライン「Web2.0(笑)の広告学」

日経ビジネスオンラインで「Web2.0(笑)の広告学」という連載が始まっていることに気付いた。筆者の須田伸氏自身が「(笑)」という文字をつけていることからも、梅田望夫氏のようなWeb2.0崇拝とは距離をおいているようだ。

しかし連載の第一回では、梅田望夫式の形式至上主義から、内容至上主義に反転しただけのように読める。

梅田式の形式至上主義、つまり、「Web2.0」の形式さえあれば社会に革命的な変化をもたらすという極論を捨てて、正反対の内容至上主義、つまり、テレビだろうがネットだろうが、中身さえ良ければ勝ち残るという極論に転換しているだけのように読める、ということだ。

このような枠組みが、はたしてインターネット広告の今後について考えるために有効なのだろうか。

連載第一回では、最近YouTubeにアップされたテレビの一場面(お笑い芸人の謝罪シーンや、某ボクサーの父親と漫画家の舌戦など)を例にとり、これらの場面がアップされたのは、やはりコンテンツとして面白いからだ、という議論になっている。

果たしてそうか。逆に、わざわざ時間をとって見たくもないゴシップだから、ネットで見れれば十分と判断されたのではないのか。この手のゴシップが媒体を問わず人々にもてあそばれるのは、洋の東西も、時代も問わない。

もし須田氏が、広告などゴシップと大差なく、大衆にいじられてなんぼだと割り切っているなら問題ないのだが、「ココロに刺さる」という須田氏の表現からは、広告は少なくともゴシップより上質であるべきだという含意が読みとれる。

また、須田氏は内容至上主義を採用することで、消費者の多様性を軽視してはいないか。同じゴシップでも、YouTubeで反応する消費者もいれば、女性セブンで反応する消費者もいるし、そもそも無反応な消費者もいる。多様な消費者グループがお互いにコミュニケーションなく並存しているという状況を軽視してはいないか。

須田氏は、連載の第一回の末尾に次のように書いている。

「これまでは広告主が消費者にリーチする目的と、数の限られているキー局や全国紙、有力な雑誌のコンテンツをファイナンスするだけの費用との間に、バランスが成立してきたとも言えます。/しかし今、このバランスが崩れつつあます。/インターネットやゲーム、ケータイ電話と、消費者が接するメディアもデバイス(機器)も多様化し、マスにリーチするのが以前よりも難しくなっているからです。」

ここには、消費者が多様化している現代においてなお、実在しない「マス」にリーチしたいという、須田氏の実現不可能な欲望が読みとれる。そのような欲望を基盤にするからこそ、広告とゴシップの区別があいまいになるような、内容至上主義が導き出されてしまうのだ。

資生堂の「TSUBAKI」の広告展開が成功しているという須田氏の意見に対し、第二回でさっそく読者から反論されていることからもわかるように、須田氏は広告そのものが、80年代の糸井重里全盛期のような「マス」ではなく、「マイナー」と化していることを十分に自覚していない。

連載の第二回では、YouTubeにおける、消費者を広告の作り手として取込んだ米バーガーキングの新しい取組みに、須田氏はネット広告の可能性を見出している。

しかし、バーガーキングの狙いがPR効果にあることは明白だ。

同社の目的は、YouTubeのユーザで、かつ、映像編集できる技術を持つ超少数派(おそらく米国でも数千人だろう)に訴求することではなく、こうした新奇な取組みが既存のマスメディアに取り上げられることによるPR効果にあることは、広告の素人である僕にだってわかる。

現に須田氏自身が、日経というマスメディアをつかって、そのPR効果に手を貸しているではないか。

したがって、須田氏の主張に反して、バーガーキングのケースがYouTubeの新たな広告モデルになることはない。少なくとも従来の広告より投資効率の良い広告手法にはならない。

ネット上で無償サービスを提供しているすべての企業が、いまだに従来どおりのクリエイティブによる広告や、グループ企業内の金融事業からの収益に依存しているのは周知の事実だ。この広告モデルを打破するような「奇跡」など、ネットは起こしてくれない。

須田氏が企画しているYouTubeに似た「アメーバビジョン」も、収益を上げるには至らない断言できる。(こうしたネット上の草の根メディアは腐るほどあるし、今後も亜流が無数に登場するだろうからだ)

「奇跡」が起こらない理由はきわめて単純だ。消費者が自由に処分できる資源が限られているからだ。特に「時間」という資源である。

ネット広告が一定の収益をあげるには、まず広告を掲載するサイトが消費者の滞在時間を伸ばすために、多額の投資で無償サービスやコンテンツを充実させる必要がある。(ホリエモンのように社長自ら広告塔になる場合さえある)

そして、その多額の投資が、ページビューの増加を通じて広告料に反映される。消費者が「時間」という究極の資源的制約をもつ限り、これ以外の広告モデルは存在しない。時間の制約がある限り、さまざまなメディアが消費者の有限な時間を奪い合い、それに応じて広告料が配分されるだけだからだ。

広告市場そのものが拡大するのは、広告が進化しているからではなく(メディアミックスは江戸時代から存在した)、商品やサービスの品質で差別化することが難しくなった結果、広告による差別化が、相対的に投資効率が良くなっただけのことだ。

こうして考えてくると、須田氏はネットに幻の「奇跡」を求めているとしか読めない。この点で須田氏は梅田氏に近づいてくる。梅田氏は「Web2.0」は一大革命だという幻想をもち、須田氏はネットが広告にブレイクスルーをもたらすという幻想をもつ。

さてさて、どうしてこうも次々とネットに妙な幻想を抱く人々が現れるのだろうか。

このようなネットの偶像化・神格化・理想化こそ、本当に論じるべきテーマであって、ネットが広告にどんな変化をもたらすかなどという、結論の見えた問題をテーマにしてもつまらない。

そこで、須田氏がなぜネットに幻想をもってしまうのかを勝手に分析させて頂ければ、(1)広告の存在価値は「ココロに刺さる」コンテンツにあり、同時に(2)広告は「マス」にリーチすべきものである、という相矛盾したことを前提としているためだ。

「この矛盾の克服こそが広告の奥深さだ」ということは、広告の素人である僕にも想像できる。しかし、だからといってネットにその解決を期待するのは安易という他ない。

3回目の連載が楽しみである。

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英語版Wikipedia「二クラス・ルーマン」和訳

宮台真司氏の思想的な基盤になっている二クラス・ルーマンだが、英語版Wikipediaに紹介記事があるので、試しに日本語に翻訳してみたい。

なおこの記事はGNU Free Documentation Licenseのもとでライセンスされており、Wikipediaの記事「二クラス・ルーマン」を利用している。

This article is licensed under the GNU Free Documentation License. It uses material from the Wikipedia article "Niklas Luhmann".

※ちなみにルーマンを含む「社会システム論」の系譜については、次のブログの記事が参考になりそうなので、リンクを掲載しておく。「社会学しよう!:社会システム論」

「ルーマンの著作

ルーマンは法律から、経済、政治、芸術、宗教、環境学、マスメディア論、恋愛にいたるまで、さまざまなテーマで40冊近くの書物を書いている。その理論は米国社会学に多大な影響を与えているが、現在ドイツの社会学で主流であり、日本や、ロシアを含む東欧で特に受容されている。世界の他の地域での注目度が低いのは、部分的には翻訳の困難さによる。その著作は社会学者を含むドイツ人読者にとってさえ読み解くのが困難なためだ。

北米においてルーマンは、おそらく批判理論家のユルゲン・ハバーマスとの社会システム論の可能性についての論争で最もよく知られている。かつての師、タルコット・パーソンズのように、ルーマンは「グランド・セオリー」の擁護者であり、社会生活のあらゆる側面を普遍的な理論枠組でとらえようとする。彼の著作のテーマの多様性が、何よりもそのことを示している。ルーマンの理論は一般的には非常に抽象的だと見なされ、その著作は読解困難とされている。この事実が、彼の信奉者のややエリート主義的な行動や、その理論に含まれる政治的保守主義とあいまって、社会学の世界でルーマンを議論の的にしている。ルーマンに対する主な批判は、米国学術誌上での、ピユシュ・マーサーによるルーマンの一部の著作に対する詳細な解釈に見られる(「引用もされておらず、根本的でもない:二クラス・ルーマンの環境学的コミュニケーション」コミュニケーション・レビュー誌, 8: 329-362, 2005)。ルーマン自身、彼の理論を「迷宮のようで」「直線的ではない」と書いており、単純な誤解しか産みださない「早急な理解」を避けるために、自分の文章をわざと謎めいたものにしていると言っている。

ルーマンの理論

ルーマンの理論の中核要素はコミュニケーションである。社会システムはコミュニケーションのシステムであり、社会とは最も包摂的な社会システムである。社会システムはあらゆるコミュニケーションを包摂し、かつ、コミュニケーションのみを包摂しているので、今日の社会は世界的な社会となっている。システムはそれ自身とその環境の境界によって定義されることで、無限定な複雑さや(いわゆる)混沌、外部と区別される。

したがってシステムの内部は複雑さが低減されたゾーンとなる。システム内部のコミュニケーションは、外部で利用可能な全ての情報の限定された部分だけを選択することで行われる。このプロセスも「複雑性の低減」と呼ばれる。情報が選択され、処理される基準が意味(ドイツ語ではSinn)である。社会システムと物理的あるいは人的システムの両方が(これらの区別については下記を参照)、意味を処理することで作動している。

さらにそれぞれのシステムは、そのコミュニケーションの中で絶えず再生産される自己同一性によって区別され、何が無意味と見なされ、何がそうでないと見なされるかに依存している。仮に、あるシステムが自己同一性をの維持に失敗すると、システムとして存在することをやめ、それが発生した環境の中へ解消される。ルーマンはこのように、過剰に複雑な環境から、事前にフィルタリングされた要素から再生産されるプロセスを、ウンベルト・マトゥラナとフランシスコ・ヴァレラの認識論的生物学の用語を使って、オートポイエーシス(自己創造という意味)と呼んだ。社会システムはオートポイエーシス的に閉じており、その内部で環境からの資源に依存している。しかしこれらの資源はシステムの動作の一部をなしていない。思想も消化もコミュニケーションの重要な前提条件だが、どちらもコミュニケーションの中にはそのものとして現れない。

ルーマンはオートポイエーシスの動作(環境からの情報のフィルタリングと処理)を、一連の論理的な区別としてのプログラムになぞらえている(ドイツ語ではUnterscheidungen)。ここでルーマンは英国の数学者G.スペンサー=ブラウンの区別の論理を参照している。この区別の論理は、マトゥラナやヴァレラが早くからあらゆる認識プロセスの機能モデルとして採用していたものである。所与のあらゆるシステムの「自己創造」を導く最高の基準とは、二分法(二進数)を定義することであるとされる。

スペンサー=ブラウンのルーマンに対する影響はいくら評価してもしすぎることはない。スペンサー=ブラウンの著作『形式の法則』は、それまで知られていた論理というものをすべて無効にしようとしている。それにともない、スペンサー=ブラウンは本書の序文で自分自身を「宇宙で最も知的な書物」の著者だと称揚している。しかし、マトゥラナはスペンサー=ブラウン以前の論理を適用している。したがって、ルーマンが自らに真理があると主張しても、それは完全にスペンサー=ブラウンの主張に依存していることになる。マトゥラナはオートポイエーシスの問題でスペンサー=ブラウンと和解することはできない。そしてマトゥラナはルーマンの理論を裏付ける理論家として、ルーマンに引用されることをはっきりと断っている。

ルーマンは最初パーソンズの影響下でその社会システム理論を発展させたが、ほどなくパーソンズ的概念から身を引いた。最大の違いは、パーソンズがシステムを、単に社会の中で特定のプロセスが継続することを理解するための分析的道具としてしか利用しなかった点だ。それに対してルーマンは、彼のシステム観を存在論的に扱って、こう書いている。「システムは存在する」と。もう一つの違いは、パーソンズが、社会全体の機能に対して特定の下位システムがどのように貢献するかを問うのに対して、ルーマンが、未規定な環境からさまざまなシステムが自らをどう差異化するか、というところから始めている点だ。ルーマンも確かに特定のシステムが全体としての「社会」に貢献するための機能をどのように満たしているかを考察している。しかしこれは多かれ少なかれ社会全体を見わたすようなビジョンなしに、たまたま起こることだとしている。最後に、システムのオートポイエーシス的な閉鎖性が、パーソンズの概念とのもう一つの根本的な違いである。それぞれのシステムは厳密に自分自身のコードにしたがって動いており、他のシステムが環境をどのように認知しているかについてまったく理解をもたない。たとえば、経済学はまったく貨幣に関することであって、経済システムの内部には、道徳などの外部の観点に対する独立した役割はない。

ルーマンの理論で、一見特異だが、実は厳密に論理的な全体の枠組みにおさまっている公理の一つに、人間の位置づけがある。人間はあらゆる社会システムの外部に存在するという公理だ。あらゆる社会システムは「純粋なコミュニケーション」からなるため、(個人的あるいは物理的なシステムである)人間の意識を明らかに必要としているが、しかしながらそれは、環境的な資源として必要としているにすぎない。ルーマンの言葉によれば、人間は、まさに人間が会話の一部ではないのと同じように、社会の一部分でもなく、いかなる特定のシステムでもない。ルーマン自身、一度端的にこう語っている。「私は人々には興味がない」と。

ルーマンは20世紀初頭マックス・ウェーバーによって社会学に導入された非規範的な学問という理念に専念し、後にカール・ポパーの批判に対してその理念を再定義し、擁護した。しかし、社会に関する記述的理論と規範的理論を必ずしも厳密に分けない学界において、ルーマンの「反人間的」社会学は、最も有名なところではユルゲン・ハバーマスなどを含む「人間解放的な」科学者から広範な批判を受けている。」

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2006/09/18

自衛隊不祥事の原因は風俗に行けなくなったこと?

先日来、自衛隊の誤射や銃火器の紛失と、不祥事が連続した。それに関連してYahoo!JAPANのニュースに自衛官の発言として引用されていた言葉に、強い違和感をもった。

スポーツ報知『消える自衛隊員に何が?…外出制限、集団生活、いじめ原因か』

この記事で「軍事ジャーナリスト」が次のように言っている。

「海自は1回、航海に出ると1か月間帰ってこない。航海中は娯楽もなく彼女とも会えない。かつて月に1回上陸した際には、みなでソープランドに行くなど、どんちゃん騒ぎをしてストレスを発散してきた。それが今は、行儀良くお利口になってきて、ストレス発散をしづらくなってきているんです」

つまり、ソープランドにも行けないほど世間の目を気にする必要が出てきたので、「発散」する場所がなくなり、自衛官にストレスがたまり、さまざまな問題の原因になるのだ、という論旨だ。

何より違和感をもったのは、このスポーツ報知の記事が、この自衛官の言葉を批判することなく、傾聴すべき一つの見解として紹介している点だ。ただ、こんな言い訳にもならない言い訳が正々堂々と報道されるスポーツ紙の世界こそ、僕が毎日を過ごしているサラリーマン社会そのものなのである。

例えば、夜、おしゃれな和風レストランでの飲み会に出席すると、席にすわるなり日本各地のソープランド街や、非合法な売春地区についてのうんちく話が始まったりする。

ふつうのサラリーマンが、リラックスした席でこういう話をすること自体の是非は、ここではあえて問題にしない。一介のサラリーマンである僕には、民間企業の営業職の職場はこんなもんなんだと、現実を受け入れるしか選択肢がないわけだ。

被雇用者として生活する人々は、年齢を重ねるごとに「他の選択肢」を確実に失っていく。そして、人によって異なるが、一定の年齢になれば、生きていくためには、明らかに法に触れることを除いて、大抵のことに妥協せざるを得なくなる。僕もその一人だ。

そういう風にして追い詰められていくのが、一般的な被雇用者(サラリーマン)の、いたって普通の生活である。ソープランド街のうんちく話にいちいち神経を尖らせる方が「どうかしている」のだ。

僕自身、こうしてインターネット上で、いわゆる「きれいごと」を書いている間は、そのような被雇用者としての生活から自由であるかのような幻想を抱くことができるが、現実には、会社員生活のいろいろな場面で、以上のような冷厳な事実を、イヤでも再確認させられるのである。

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細木数子の「検閲」に迎合するへたれフジテレビ

細木数子はついに、メディアの検閲まで始めたようだ。フジテレビが連続ドラマのDVDを発売しようとしたところ、うち一話に細木数子を思わせる登場人物が悪役として描かれているというので、その一話分を削除させたらしい。

本当に下らない。馬鹿げている。こんな「プチ女帝」を簡単にのさばらせてしまうほど、フジテレビはマスメディアとしての独立性や自負を失ってしまっているのだろうか。細木数子のような、単なる一出演者にここまで迎合するフジテレビは、遠からず視聴者の信頼を失うだろう。

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宮台真司・速水由紀子『サイファ 覚醒せよ!』

宮台真司・速水由紀子著『サイファ 覚醒せよ! 世界の新解読バイブル』が2006/09/10に文庫化されていたので購入して読んでみた(ちくま文庫)。

(それにしても、いかがわしい自己啓発書のような題名はいただけない。宮台氏のパートナー、速水女史の発案に違いないが、サイファが「暗号」を意味する「cipher」だと分かる僕のような人間は別として、ふつうの人には「アレフ」と同じいかがわしさを与えるおそれが十分にある。速水女史の狙いなのかもしれないが...)

東京大学博士課程出身の気鋭の社会学者、宮台真司氏の著作で、僕がいちばん最近読んだのは『美しき少年の理由なき自殺』だが、僕の中では依然として、宮台氏の思想についての理解は、オウム事件直後に書かれた『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)の段階にとどまっていた。


つまり、個々人が自分のミニマルな欲望にしたがって生きる「まったり」した生き方を肯定する考え方だ。社会全体は、「島宇宙」のような趣味を同じくする無数の小さなグループに分断されて、個々人はその島宇宙の中で自分の存在理由や尊厳といったものを確認できればいい。それが宮台氏がこれからの時代を生きる処方箋として、提示した生き方だと理解していた(僕が誤解している可能性は高いが)。

しかし2000年に出版され、今回文庫化された『サイファ 覚醒せよ!』を読むと、宮台氏が社会の外側にある「世界」の存在を手がかりにして、島宇宙の散在という社会観から、明らかに一歩踏み出しているように読めた。書店で立ち読みしてそれがわかったので、購入してみたというわけだ。

おそらく宮台氏にその一歩を踏み出させたのは、『美しき少年の理由なき自殺』で書かれている宮台フォロワーの少年の自殺の一件らしい。この文庫版のあとがき(p.319)で、宮台氏自身がそう告白している。

宮台氏のいう「社会」とは、まさに氏の専門である社会学が対象とするコミュニケーションの全体としての「社会」だが、本書『サイファ』で、宮台氏は自覚的にその「社会」の外側にある「世界」を主題にしている。

あくまで社会学の枠内で宮台氏の考え方をフォローしてきた人たちにとって、社会の外側に広がる「世界」という視点は新鮮にちがいないので、いかがわしいタイトルは無視して、本書『サイファ 覚醒せよ!』を強くおすすめする。

しかし、高校生のときからフッサールの現象学を勉強し始め、大学でフランス現代思想をかじった僕にとって、本書で宮台氏がくりかえし確認している「世界の根源的な未規定性」はむしろなじみ深いものだ。

「世界」そのものを定義しようとすると、定義の根拠となるものをまず定義する必要がでてくる、といった「無限後退」におちいってしまう。これは西欧現代思想をかじっていれば、おなじみの考え方だ。宮台氏は本書の後半で、フッサールの「超越論的主観性」や、ゲーデルの「不完全性定理」を例としてあげている。

端的な訪れとしての世界、という『サイファ 覚醒せよ!』における宮台氏の「世界」観は、フランスの現代思想家、エマニュエル・レヴィナスの「顔」の概念も想起させる。

宮台氏はこの世界の根源的な未規定性という問題設定に気づくこと自体が、日本社会の同調圧力(みんな仲良く、同じでなければいけないという圧力)から自由になる手がかりだとしているが、残念ながら学生時代に超越論的主観性を学んだ僕にとって、フッサールの思想は、サラリーマン社会の同調圧力から自らを救う手がかりにはまったくなっていない。

ただ、だからといって、フランス現代思想に慣れ親しんだ者は、本書『サイファ 覚醒せよ!』を読む必要はない、ということにはならない。

宮台真司という、いまの日本にとって最も重要な思想家の転換点を理解することで、オウム事件以降、日本の社会も一つの重大な転換点をむかえているということを理解できるからだ。

とくに麻原彰晃の死刑が確定した今、オウム事件以降のこれからの社会に対して、宮台真司がどのような処方箋を提示しようとしているのか、それを理解するために、いったん本書でその転換点をおさえておく価値は十分にあるだろう。

ところで僕は『サイファ』以降の宮台氏の思想的展開として、さっそく『神保・宮台(激)トーク・オン・デマンドIII ネット社会の未来像』(春秋社 2006/01/25刊)を読み始めた。

『サイファ』でも宮台氏は東浩紀氏を高く評価している。この「愛と苦悩の日記」でも東氏の著作を取り上げたことがあるが、東氏は若手のデリダ研究者として実績を評価され、多方面で活躍している。この対談集でも東氏の興味深い意見交換を読むことができる。『ネット社会の未来像』については、読了したらまたここで触れてみたい。


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2006/09/16

ガッチャピン(?)

ネットで発見した。


ガッチャピン

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2006/09/15

「時代錯誤の上司観」にトラックバック頂いた

ブログ「りんたい」から「時代錯誤の上司観」についてトラックバックを頂いた。

「TB: 時代錯誤の上司観」

「多くの部下は、上司にカリスマ性や器の大きさなどを期待していないんじゃないか、というのが私の感触です」というご意見だ。ほんとうにそうなら、僕はどんなにうれしいか。

ブログ「りんたい」の筆者さんの期待に反して、僕の周囲には、じっさいに言葉に出してそう話す人たちが存在する。僕の単なる思い込みではなく、そう言われた実体験にもとづく記事なのである。

たぶん「りんたい」の筆者さんには、「いまどきそんな人がいるの?」と、きっと驚いて頂けると思う。その意味では僕は「りんたい」の筆者さんとまったく同意見である。

僕が「りんたい」の筆者さんの言うように、「期待されている」からこそ、器の大きさを求められているのかと言えば...自信はない。単に価値観が食い違っているだけと、僕は考えている。

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2006/09/14

エヴェンゲリオン<新劇場版>製作発表

最近すっかり更新を怠っているこの「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」読者なら既にご存知のように、エヴァンゲリオンの新劇場版の製作発表があった。来年夏、再来年春・夏にロードショーされるとのこと。

10年前の劇場版では描かれなかった真実が明かされるという触れ込みだが、明かされるべき真実が存在するということにしてしまうと、エヴァンゲリオンの決定不可能性という魅力が半減してしまいそうな感じもする。

先日、フジテレビ系『トリビアの泉』を観ていたら、副音声の「影のナレータ」に、なんと『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジ役の声優・緒方恵美が登場。久しぶりに緒方恵美の声を聞いたが、こんなに高い声だっけ、という印象。公式サイトによれば、緒方恵美は現在、個人事務所を設立して活躍中とのこと。

当然、新劇場版の声優陣はオリジナル・キャストのままであることを期待する。まさか登場人物が全員、10歳年を食ってるなんてことはないだろうな。『林原めぐみの東京ブギーナイト』を聴いていれば、そのうち新劇場版の製作経過の話が出てくるかもしれないと期待。

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アムロ・レイのコスプレ芸人、若井おさむ

テレビ朝日系『笑いの金メダル』で、いま話題の吉本興業所属芸人、若井おさむ。声優・古谷徹に声が似ていて、『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイのコスプレで一人コントをやるのだが、『ガンダム』を観たことのある人なら、そうとう笑える、典型的な内輪ウケ(=島宇宙的)ネタ満載。

しかし、テレビ的にサンライズなど権利保有者の許可を得てやっているのだろうか。それだけが少し心配。嘉門達夫も、アルバムを発売するときは、原曲の権利者にいちいち許諾をとるのが大変と、以前、ラジオ番組で話していたし。

長州小力は、長州力ネタだけであそこまでメジャーになれたので、受容者の母数としては『ガンダム』ファンの方が圧倒的に多いし、若井おさむもそこそこ人気が出てくるかも。ブライト艦長か、シャアのものまね芸人が登場して、たまに組んでコントなんかやれば最高。(コンビを組むと、さすがにくどいし、ネタに制約が出てき過ぎるだろうから)

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2006/09/13

日常生活を相対化する視点の重要性

会社員を長く続ければ続けるほど、会社での仕事以外のために割ける時間が少なくなってくる。年齢が高くなって組織の中での責任が重くなり、退社後も仕事のために時間を割かざるを得ないということもあるし、体力・気力の面で他のことに手を出そうという意欲が低下してくるということもある。

数年前に比べると仕事に無関係な本、つまりITに関係のない純文学や現代思想書、経済学書などを読む量は確実に減っているし、世俗的で効率性重視の思考を超えた視点でものを考えることも、だんだんと難しくなってきている。

要するに自分の思考がだんだんと陳腐で、いかにもサラリーマン的なもの、実業的・功利主義的なものに馴致されつつあるということだ。

それでも自分がそうして実業的・功利主義的な思考にならされつつあるという自覚があるだけ、まだましだと思っているのだが、こういったある種「超越論的な観点」を維持するために、サラリーマン社会や日常生活というものを完全に相対化できる視点へのリファレンスを、できるだけ失わないようにしなければならない。最近、あらためてそう考える。

僕の場合は現代思想書や、高橋源一郎のような前衛的な現代文学が、日常を完全に相対化する視点になっている。単なる気晴らしに終わらない、一定の強度のある読書体験が、僕にとっての「二本目の足」(三本目?)で、たとえ仕事上の問題をかかえても、それを客観的に眺めることを許してくれる観点なのだ。...のはずなのだが。

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2006/09/12

時代錯誤の「上司」観

どうやら多くの日本人会社員は、上司というものは、人間的な器が大きいから上司たりうるのだ、と考えているようだ。カリスマ性と言い換えてもいいだろう。

しかし、これでは、日本企業は近代的組織ではないということになる。上司という地位が、「器」やカリスマ性といった属人的なもので決まるのでは、その組織を長期にわたって安定的に運営することはできない。部長のAさんが抜けたら、その部はおしまい、課長のBさんが抜けたら、その課はおしまい、というとんでもないことになってしまう。

近代的組織において部長が部長であるのは、人事評価によって一定の業務経験やスキルを身につけていると判断され、組織を運営する規則によって指名されたからである。それ以上でも、それ以下でもない。

部長の権威の源泉は、本質的には社内の規則であって、その人物のカリスマ性ではない。もちろんカリスマ性のある部長、課長といった人は存在するが、カリスマ性があるから上司になっているのではない。

こんなこと基本的な近代的組織の考え方だと思うのだが、いまだに上司に「器の大きさ」のような、客観的な根拠のない素質を求める時代錯誤の人間が、日本の会社組織には実にたくさんいる。

僕もいちおう管理職ということになっているが、たまたまそのポストが空いていて、会社に指名され、所定の責任と権限を組織の規則にもとづいて行使しているだけであって、別に器が大きかったり、カリスマ性があったりするからではない。

いったい日本人は、いつになったら「近代」というものを、日常生活できちんと実践できるようになるのだろうか。

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英『エコノミスト』誌のおちゃめな記事

2006/09/07付け英『エコノミスト』誌にこんな皮肉たっぷりでおちゃめな記事が掲載されていた。

Fear of flying - Welcome aboard

導入部分だけ翻訳するとこうなる。「機内アナウンスは全部本当というわけではない。もし正直な機内アナウンスがあったら、どうなるだろうか?」

本来は全文訳出したいくらいだが、無断転載はできないのでそうもいかない。かなり笑えるので、頑張ってお読みいただきたい。ちなみに、途中に登場する「sudoku」は今そこそこ流行っている数字版クロスワードのようなゲーム「数独」のことだ。

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2006/09/10

夢の中で見た夢の中で見た町並み

最近よく夢を見て、しかもその内容が連続している。日本のどこかの地方都市にありそうな平凡な町並みが登場し、そこを歩きまわっているのだ。いかにもありそうなローカル線の駅があり、時刻表もいかにもといった感じで電車の本数が少なく、いかにもといった感じで制服を着た中高生が乗っていたりする。

いつもそんな夢ばかりでうんざりしていたら、今日はメタレベルの夢を見た。メタレベルという意味は、そういう夢について確認する夢を見たということだ。

つまり夢の中で、「あれっ?この土地、どこかで見たことがあるな」と思ったら、夢の中で見た、いかにもありそうな地方都市そのままじゃないか、と気づいて驚いたのだが、それが夢だった、ということだ。

今日、夢に出てきた土地は、おそらく岐阜県か静岡県の大きな川べりに広がる平野の町並みで、大きな工場があるわけでもなく、鉄道が通っているわけでもないので開発に取り残され、廃業したトタン屋根の雑貨屋がそのままになっていたり、ここに住んでいる人たちはどうやって生活しているのだろうといった感じだった。

それがあまりに本当にありそうな感じなので、あっ、これが今まで夢で見ていた町だったんだ、と夢の中で思わず納得してしまったのだ。

そうやって、覚めても、覚めても、夢の中で、その夢が覚めても、永遠に夢の中という小説がどこかにないか、ご存知の方はお教えいただきたい。

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今さら「男おやつ」などと

江崎グリコが2006/09/08、首都圏で働く男性1,000人を対象に勤務中のおやつに関するアンケートをおこなったらしい。男性会社員が勤務中に間食する「男おやつ」は、いまや常識になっているということだ。

「男おやつ」が常識に(ITmedia News 2006/09/08)

っていうか、今さら「男おやつ」みたいな造語で、男性社員が勤務時間中に間食することが、新奇な社会現象みたいなことを書かれても困るのだが。

デスクワーク、しかもパソコン作業中心の、いまどきのホワイトカラーが、頭を回転させるために糖分補給するのは当然だし、僕だって新入社員のころから間食をしている。某自動車メーカで上司だったドイツ人は、グループ内の会議になると「We need sugar.」と言いながら、あめやチョコレートを部下に配っていたものだ。

メンタルバランスチョコレート「GABA」を売らんがための、江崎グリコのつまらないマーケティング戦術なのだろう。

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2006/09/09

胃カメラ体験記(未体験者必読)

生まれて初めて胃カメラを飲んだ。去年の健康診断で胃炎と診断され、内視鏡検査をすすめられたが、結局、一年間胃カメラを飲まずじまいだった。

胃カメラの検査は身体測定、採血、聴覚・視覚検査などの最後。もったいぶるので余計に緊張させられた。他人よりかなり神経質なので、こういう初体験の前は相当ナーバスになる。

いよいよ名前を呼ばれ、検査室前の椅子にすわると、看護師さんから胃の中をきれいにする液体を飲むように言われる。紙コップの中の無色透明の液体は、少しとろみがあって、甘みもあり、決しておいしくはないがふつうに飲み干せる。

次には、唾液をおさえ、胃の動きを弱めるための筋肉注射をされる。弱い麻酔のようなものらしい。注射の場所はインフルエンザの予防注射と同じ上腕部。薬を押し込むときにグッと痛みがあるが、大したことはない。

この注射、看護師によれば、人によって目がチカチカしたりすることがあるらしい。僕の場合は、健康診断が終わったあと、近くの大型書店で文庫本を立ち読みしていたとき、目のピントがまったく合わず、文字が二重に見えるという症状が出た。もちろん数十分で完全におさまった。

筋肉注射の次は、のどの麻酔だ。看護師さんが小さく太めの注射器に、無色透明の液体を入れてもってくる。注射器には針がなく、先端はスポイトのような管になっている。

椅子にもたれて上を向き、口をあけているように言われる。すると看護師さんが注射器を口の上にかまえ、とろっとした無色透明の液体を舌の上に垂らす。飲み込まず、上を向いたままで、口の中に3分間ためておくように言われる。

言われたとおりにしていると、たしかに舌がしびれて感覚がなくなってくるのがわかる。しかし舌ばかり麻酔しても意味がない。胃カメラが通るのはのどなのだから、のどに麻酔を効かせなければ。

そう思った僕はうがいのときのようにどの奥を開いて、舌を上の方に持ち上げた。すると麻酔がとろりと舌の上からのどの奥の方へ流れ出す。看護師さんに飲み込んでも無害だと言われていたので、少々ごくりとやるのを覚悟で、のどの奥の奥まで、とろみのある麻酔をゆっくり流し込んだ。

3分たつと看護師さんが再びあらわれ、麻酔のとろみを洗面所で吐き出すように言われる。うがいをすると意味がないので、口の中に残っているとろみを水で洗う程度だ。そしていよいよ胃カメラ検査室に通される。

胃カメラの機械は2分の1のサーバラックぐらいの大きさで、それに満載したサーバくらいの音を立ててベッドの枕元に鎮座している。黒い蛇のように伸びたカメラの先端から、紫がかった青い光が高速にちらちらと明滅している。宇宙船の一室といった雰囲気。

ベッドに横向きに寝るように言われ、円筒形の樹脂を噛まされる。これで口が閉じられなくなるので、唾液は口元のステンレスのトレーに垂らすように言われる。三十半ばになってよだれを垂れ流しというのは、やや屈辱的である。

三十代前半の男性医師が入ってきて、胃カメラを手に取ると、看護師が検査室の照明を落とす。なぜ照明を落とすんだ?患者をリラックスさせるためか?と思ったが、よく考えると医師に胃カメラのモニタがよく見えるようにするためだ。視線は遠く壁のほうをまっすぐに見ているように、全身から力を抜くように、いろいろ注文をつけられる。

そして、ついに胃カメラ挿入。のどは麻酔されているので痛みはないが、筋肉注射はあまり効かなかったようで、嘔吐反射が強い。胃カメラがのどを通ろうとすると、のどが勝手に収縮して「オエッ!」となる。

それを3~4回繰り返したので、医師は冷静に「じゃあ通しちゃいますね」と言い、強引に胃カメラを押し込んだ。巨大な飴玉を飲み込んだような感覚があった後、ようやくカメラが食道に入ったようだ。強引に入れられたせいで、二、三日、のどに、風邪のひき始めのような鈍痛が残った。

あとは身体的な痛みはまったくない。胃にカメラが到達しても、すこし圧迫感がある程度だ。しかし「とんでもなく長いものを飲み込んで、この状況からあと5分間は逃れられないのだ」というパニック感が高まるが、目の前に医者と看護師がいるので、されるがままと観念したら、全身から力がぬけた。

それに、検査の前半、看護師さんがずっと背中をさすってくれていたので、それだけで随分気が楽になった。酒を飲まない僕にとって、嘔吐して背中をさすられたのは、子供のとき以来だ。

驚いたのは、検査中、カメラが前後に移動する長さが意外に長いこと。カメラの方向転換をするために、途中、カメラをおそらく30~50センチくらい一度引き抜いて、また胃の中へ押し込む。すると胃にぐっと圧迫感がくる。

そして胃カメラの医師の手元には液体を注入する口がついているらしく、検査中、何回か注射器を差し込んで何かの液を注入していた。注入するたびに胃の中にひやっとした液体が広がって、お腹いっぱいな感じになる。

するとその液体に押し出されて、胃の中の空気が行き場を失い、検査中、僕は何度も長いげっぷをした。あんなに長いげっぷを続けてしたのは、生まれて初めてである。他の人もああいうげっぷをするものなのだろうか。

ようやく検査が終わり、胃カメラが引き抜かれた。引き抜くときは、挿入するときの嘔吐反射の苦痛がウソのように、するっと何事もなく抜けた。しかしその後、口の端からよだれがダラダラ垂れるのがかっこ悪い。看護師さんの前で醜態をさらすのがまた屈辱的だ。

診断結果は慢性胃炎ということで、胃がんに変わる可能性もあるので、定期的に胃カメラ検査を受けるようにとのこと。検査に思ったより時間がかかったのは、組織の一部を切り取ったからのようだった。

僕は酒もタバコもやらず、少食、やせ型で、健康診断では胃の他にまったく異常がないので、老衰と自殺の他に自分の死のイメージを抱けなかった。しかし、ここに「胃がん」という非常に具体的な可能性が出てきたというわけだ。

酒もタバコも暴飲暴食もやらない、辛い食べ物も嫌い、コーヒーも一日1杯飲むか飲まないかなのに、慢性胃炎になる原因はただ一つ、ストレスである。それも対人関係のストレスだ。

普通の人になら何でもない日常会話ひとつとっても、僕にとっては舞台の上でアドリブを言わされるような緊張感があるのだから、当然だ。このストレスから逃れようとすれば、引きこもって失業するしかないので、慢性胃炎はこのまま着実に悪化するだろう。

でも、胃がんなら悪くない。抗がん剤で無意味な延命をして散財するより、多少の胃痛をかかえながらでも、モルヒネだけの末期治療で、病院のベッドの上で半分眠りながら死ねるのなら、悪くない。

老いて孤独死して、腐敗した死体を発見されるよりは、五十代でも病院のベッドで清潔に死ぬ方が美しいだろう。(下記のブログを参照)

「特殊清掃『戦う男たち』―自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去まで施行する男たち」(※食事前、食事中にお読みにならぬようご注意を)

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2006/09/07

徳山高専生殺害事件の遅すぎた自殺

三面記事ネタで大変申し訳ないが、徳山高専生殺害事件は容疑者自殺で幕となったようだ。320円出して『週刊新潮』を読む気はないので、2ちゃんねるのスレなどを読んでいると、容疑者自宅にはバッキービジュアルプランニングというメーカのアダルトビデオが多数あったとか。

このメーカ、過去に女優に重症を負わせた事件を起こしているらしい。バッキー事件まとめブログを参照。

そんなことはどうでもよく、僕が驚いたのは、古厩監督の映画『ロボコン』のロケ地が、この山口県にある徳山高専だったということ。主演の長澤まさみが自転車で走りぬける道路も、徳山高専から5kmほどの場所らしい。

ロボコン―山口県周南市のロケ地観光ガイド

古厩監督の長編デビュー作『この窓は君のもの』は、僕が観た映画のベスト10に入る名作で、『ロボコン』もゆったりした間が好きな作品だ。細かい批評はこの「愛と苦悩の日記」の過去記事を検索していただきたいが、意外なところで、今回のこの陰惨な事件とつながりがあった。

こんな風にこの記事を入力していると、テレビの『ワールドビジネスサテライト』のシカ肉に関するニュースのBGMに、何と『この窓は君のもの』のサントラから2曲も使われているのが流れて来たではないか。

容疑者の少年は、自分が犯人だとすぐに分かってしまうことを承知の上で、あの場所で犯行に及んだのだろうから、初めから自殺するつもりだったに違いない。彼は暗い欲望にとりつかれたまま生き続けることを、すでにあきらめていて、遅かれ早かれ自分をここまで追い詰めることになると予期していたはずだ。

であれば、さっさとひとりで自殺すればよかったのだ。誰かを道連れにしてからの自殺では遅すぎる。彼のような人物にとっても、制度化された安楽死は必要と言える。

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2006/09/06

あびる優100kmマラソンの理由

昨日、何となく見ていたバラエティー番組で、あびる優(20歳)が100kmマラソンを走っていた。なんで彼女が100kmマラソンを走らなきゃいけないのかと思って、Yahoo!JAPANでニュースを検索したら、テレビ番組で、昔友だちと集団で万引きしたというぶっちゃけトークをして、事務所から謹慎処分のようなものを受けていたんだった。

最近、芸能界に復帰して、仕事もないので、日本テレビの24時間テレビと同じ時間に100kmマラソンに挑戦すべく、50日間のトレーニングをつむという企画だったようだ。

最近のトークバラエティーは、ゲストの私生活暴露がネタになっているようなところがある。うけをとるために、1の話を10にふくらませる場合もあるだろう。どこまでが冗談で通じるのか、当時未成年のあびる優に適切な判断を求める方が、酷といえば酷なのかもしれない。万引きと同程度の犯罪を一度も犯したことがない若手芸能人が、どれくらいいるか、ということを考えると。

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2006/09/05

DominoをASP.NETに移植する(5)

DominoのASP.NETお手軽移行計画(いつの間にか「お手軽」が付いているのは気にしない)の5回目は、ユーザ認証だ。

いちばんかんたんなのは、ActiveDirectoryに登録されているユーザ名とパスワードで基本認証させる方法だ。社内の安全なネットワークなら、この方法で十分だろう。

IIS 6.0を稼動させているWindowsサーバが、すでにWindowsドメインに参加していれば、IISの設定で、「既存のWebサイト」の「ディレクトリ セキュリティ」タブの「認証とアクセス制御」の「編集」ボタンをクリックする。

そして、匿名アクセスは有効のままでもよいが、「認証済みアクセス」欄で、「統合Windows認証」と「基本認証」にチェックマークを入れればよい。

あとは、開発するASP.NET 2.0アプリケーションのweb.configファイルに、下記のように記述するだけだ。

<authentication mode="Windows" />
<authorization>
<deny users="?" />
</authorization>

denyタグの「?」は匿名ユーザという意味なので、このように記述すれば、IIS側で匿名アクセスを有効にしてあっても、匿名アクセスが拒否される。

また、プログラム内では「HttpContext.Current.User.Identity.Name」で、ログインしたユーザ名を取得できる。

このようにしておけば、開発したASP.NET 2.0アプリケーションの任意のページを開こうとすると、ユーザ名とパスワードを入力するダイアログが表示される。ActiveDirectoryの(つまりパソコンにログインするときの)ユーザ名とパスワードを入力すれば、ログインできる。

また、Internet Explorerのセキュリティ設定の「ユーザー認証」の項目を「イントラネットゾーンでのみ自動的にログオンする」に設定し、「イントラネット」ゾーンの「サイト」設定で、「ほかのゾーンにないローカル(イントラネット)のサイトをすべて含める」や「プロキシ サーバを使用しないサイトをすべて含める」が選択されていれば、自動ログオンも可能だ。

以上のように、ASP.NET 2.0のユーザ認証をActive Directoryに統合した上で、シングルサインオンが実現できる。Notes/Dominoの場合、Active DirectoryとDomino Directoryを、サードバーティ製のツールで同期をとるか、手作業で両方のディレクトリにユーザ登録する必要があるので、ユーザ管理の簡素化という意味ではASP.NET 2.0に移行した方が、運用が効率化される。

Notes/Dominoを利用しても、Webアプリケーションの場合は、いずれにせよIDファイルによる物理的なセキュリティの確保は不可能だ。しかもDomino Directory上でIDファイルのパスワードと、Webアプリ用の「インターネットパスワード」を別管理する必要がある。

したがって、Webアプリが前提なら、ユーザ管理をActive Directoryに統合した上で、Active Directoryのポリシーを使って、パスワード期限を短くするとか、パスワードの複雑性を高くするなどの方法でセキュリティを高める方が、運用は効率的になる。

もう完全にNotes/Dominoを裏切った筆致になってしまっている。お許し頂きたい。10年来のNotes/Dominoとの付き合いで、かなり後ろめたさはあるが、DominoのWebアプリ開発では純正のカレンダーコントロールさえ存在しないという限界があるのだから、致し方ない。


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2006/09/02

WordPressME2.0で記事を日付昇順にする方法

ブログ管理ツールWordPressでは、設定変更だけで記事の表示順を日付昇順に変更できない。wp-includes/classes.phpに2行追加するだけで、昇順にでき