伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』
キオスクで文藝春秋を買って、伊藤たかみ氏の芥川賞受賞作『八月の路上に捨てる』を読んだ。ここでいちいちあらすじを要約することはしないが、『リセットボタン』の読後感同様、男性と女性の感情のすれ違いが何気ない台詞や動作で非常に繊細に描かれている点は素晴らしいと感じた。
しかし、この作品が日本の小説に何か新しい観点や思想、文体、方法論ををもたらしたかといえば、それは全くない。ご存知のように文藝春秋には一人ひとりの選考委員の選評が掲載されているが、山田詠美女史の選評に、この作品は賞ねらいだと山田詠美女史が批判すると、河野多恵子女史が「狙って何が悪いと反論してきた、というグチっぽい下りがある。
たしかにこの作品の細部には、一見なげやりながらも実は余韻のある言葉の選び方といい、いかにも「ブンガク」然としたところが濃厚にあり、読後も「ああブンガクを読んだ」という充実感にひたれる。そのあたりが山田詠美女史が「賞ねらいだ」と言いたくなる理由に違いなく、前衛性はかけらもない。
他のほとんどの選者に共通していた意見は、どうして最近の日本の若い人が書く小説にはビョーキの人間ばかりが出てくるのだ、というもので、『八月の路上に捨てる』でも主人公の男性が離婚を決意した妻は、病名は出てこないが、強迫神経症のような行動をとり、それが離婚の一因になっている。その他の候補作にも神経症やPTSDの人物が登場するらしい。
たとえば僕の好きな高橋源一郎の作品にも、ヘンな人物はたくさん登場するのだが、その描写が突き抜けていて、誰もが一種の神々しさを放っている。ブンガクが現実の閉塞感に敗れてしまうなら、ブンガクの可能性とはいったい何だろうか。高橋源一郎の作品はブンガクがはらむべき倫理性について、そう読者に語りかけてくるのだが、伊藤たかみ氏の作品には、そいういうところが全くない。
ブンガクにおける前衛とは、現実を突き抜けた自律性を作品の中で確立できているか(高橋源一郎の場合はそれが「神々しさ」として現れてくるのだと思うが)、そこにあるのではないかと考えた。
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