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2006/06/27

『ゲッターロボ』と『ザンボット3』比較論

『無敵超人ザンボット3』だけを観たのでは、同時代の合体ロボットものアニメの中での位置づけが理解しにくいので『ゲッターロボ』も観てみた。こちらも僕が子供のころリアルタイムで熱中していたテレビアニメで、ご承知のとおり永井豪原作である。

どちらも3つの機体が1台のロボットに合体する点で共通だが、『ゲッターロボ』はどの機体が頭になるかで3種類の合体パターンがある点がユニークだ。

両者の明らかな違いは、やはり一般人の描かれ方だろう。敵方のロボットが船を沈没させたり街を破壊するとき、『ゲッターロボ』ではいかにも漫画的に船やビルが視覚的にきれいに破壊され、その内部に生きた人間が存在することはまったく示唆されない。『ウルトラマン』が市街地でいくら怪獣と戦っても、倒壊したビルの下敷きになって死ぬ人が描かれないのと同じお約束にのっとっている。

対して『ザンボット3』は多くの一般市民が戦争に巻き込まれて死んでいく事実を表立って描写している点で、やはり画期的な合体ロボットもので、この点だけでもお子様向けロボットアニメの枠から大きく踏み出している。

さらに登場人物の造形も両者では大きく異なっている。ゲッターロボを操縦する3人の性格は一人ずつステレオタイプ化されており、本来一人の人間が持つさまざまな性格を、3つの人格に分割して描いている。

他方、ザンボット3を操縦する3人は、それぞれが矛盾する側面を内包した人格として描かれている。たしかに描写は神勝平に偏っており、残りの2人、宇宙太や恵子の描写は不十分だが、勝平は自分の信じる正義と一般市民の信じる平和の不一致に葛藤し、恵子は両親のもとで平穏な生活を送りたいという気持ちと、地球を守るために戦わなければならないという気持ちに悩んでいる。

『ゲッターロボ』では、より強力になっていく敵を倒し、3人がロボットの操縦により習熟し、力強くなっていく過程が物語になっているのに対し、『ザンボット3』ではそれだけでなく、一人ひとりの内面的な葛藤が解決していく過程も物語をひっぱる強い力になっている。

『ゲッターロボ』がお約束にのっとった徹底して表層的で様式的な「合体ロボットもの」であるのに対し、『ザンボット3』にとっての「合体ロボットもの」という形式は、主人公の内面的葛藤とその解決を通じた少年の成長を描くために借りた、単なる手段ではないかと思えるほどだ。

どちらが優れているということはなく、現代に至るまで日本のアニメの多数派は『ゲッターロボ』型で、『ザンボット3』は少数派と言えるのではないか。

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DominoエージェントでMySQLのLOAD DATAを実行

下記のようなことを仕事でやっているSEは日本に僕一人しかいないと思うが、万が一同じ問題でつまずいているSEがいたときのために、検索エンジンに引っかかるように記しておく。

Lotus DominoのLotus Scriptで記述したエージェント内で、ADODB経由でドミノとは別サーバのMySQLに接続し、「LOAD DATA」コマンドをADODB.ConnectionオブジェクトのExecuteメソッドで発行したときの問題だ。ポイントは、ドミノとMySQLが別サーバであるという点。

Call oConn.Execute("LOAD DATA INFILE '\\MySQLServer\D$\datafile.csv' (以下略)")

このような行を含むエージェントを、手元のパソコンのノーツ・クライアントで実行すると、正常に実行され、MySQLのテーブルにテキストファイルの内容が一括読込みされる。

ところが、この全く同じエージェントをスケジューリングして、ドミノサーバ上で定時起動すると、「LOAD DATA」コマンドを発行する行でエラーになって停止する。Dominoのログデータベースに書き出されるメッセージは「OLE: 自動オブジェクトのエラーです」だ。

ノーツ・クライアントを使ってローカルでは問題なく実行できるエージェントが、サーバ上で起動するとエラーになることから考えると、これはドミノのエージェントのセキュリティ制限によるエラーと考えられる。

もちろんこのエージェントのプロパティで、実行権限は最高(セキュリティレベルとしては最低)の「3」に設定してあるのだが、それでも、ドミノサーバとは別サーバであるMySQLサーバ上のファイルを読込むような処理を、その別サーバに対して実行するように命令するのは、Dominoのセキュリティ上不可能と思われる。

その証拠に、読込み対象のファイルをドミノサーバ上にコピーし、ドミノサーバにMySQLサーバへODBC接続する環境を導入してから実行したところ、同じエージェントが問題なく定時起動できるようになった。

注意したいのは、最終的にロードされる先のMySQLは依然としてドミノとは別サーバなのに、ロード対象のテキストファイルが、MySQLサーバ上に存在すればエラーとなり、エージェントが実行されているドミノサーバ上に存在すればエラーにならないということだ。

以上、さて何人の方のお役に立つか...。

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Fedora Core 5で読者から助言

Fedora Core 5のインストールトラブルについて書いたところ、早速ある読者の方から、Fedora CoreはRed Hatのベータ版の位置づけなので顧客に提供する環境には使ってはいけないと言われたことがある、というメールを頂いた。

毎日CVSでパッチを追いかけているような人でなければ利用するのは厳しく、ドライバも完全に動作しないものがかなりあるということだ。こんな半製品を大部の解説書つきで、いかにもWindowsユーザ向けの入門用Linuxみたいな触れ込みで売り出す出版社は詐欺同然だ。

この読者のお勧めはCentOSやKnoppixといったディストリビューションとのことだ。

僕はといえば、Fedora Core 5を削除して、近所の図書館で借りてきたRed Hat Linux 9の解説書付録のPublisher版をインストールしてみた。GNOMEもネットワークカードもモニターも完全に動作する。ただ、解説書が初心者向けにGUI中心の記述になっているので、やはりCentOSに乗り換えようかと考えている。

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2006/06/25

Fedora Core 5 デフォルトゲートウェイ接続不能

手持ちのSOTEC製のノートPCに、Fedora Core 5をインストールしようとしたら、そもそもインストールがテキストモードでしかできない。インストールが完了しても、やはりテキストモードでしか起動しない。モニターのエラーでXウィンドウが起動しないのだ。/etc/X11/xorg.confファイルのDefaultDepthや、Subsection "Display"のDepthを変更してもダメ。

Googleでビデオカードの「VT8378」という型名を手がかりに検索していたら、唯一、Linux関連情報で見つかったのが富士通の下記のページだった。

http://www.fmworld.net/biz/fmv/annc/linux/05_Summer/XConfig/x_esp_c5100.html

このXF86Configファイルにある数値にあわせて、Section "Monitor"のHorizSyncとVertRefreshの数値を変更してから、startxコマンドを入力したら、無事、GNOMEが起動した。

安心したのもつかの間、カタカナは正常に表示されるが、漢字の部分がすべて、正方形の枠の中に文字コードとおぼしき4桁の16進数が2桁×2行で表示されて、日本語としてまったく読めないのだ。

たぶん日本語フォントが正しくインストールされていないと思われるので、GNOMEの言語を英語に切り替えて再起動、Firefoxでインターネットに接続しようと思ったら、接続できない。pingで確認すると、手持ちのデスクトップパソコンからはつながるデフォルトゲートウェイに接続できない。

仕方なくDHCPではなく、手動でデフォルトゲートウェイと同じサブネットマスクのIPアドレスを付与して再起動するも、デフォルトゲートウェイにpingさえ通じない。

しかし奇妙な現象に気づいた。手持ちのデスクトップパソコンから、Fedora CoreをインストールしたノートPCへpingを飛ばし続けると、Fedora Coreの起動中、テキストモードの間だけはpingが通り、Xウィンドウが起動すると同時にpingが通らなくなる。

Fedora Coreは初期状態でファイアウォール機能が有効になっているので、これを無効にすればいいのかと思いきや、icmpとは無関係のようで、無効にしてもデフォルトゲートウェイにpingが通らない。SELinuxの設定も無関係。


仕方ないので、当分テキストモードで使うことにする。テキストモードからstartxでXウィンドウを起動すると、やはりpingが通じなくなり、ログアウトしてテキストモードに戻ってservice network restartすると、再びpingが通じるようになる。このXウィンドウの嫌がらせは何なのだろうか。

Linuxコミュニティーは一体いつになったら、一発でインストールできるディストリビューションをWindowsユーザに提供してくれるのだろうか。ちなみにインストールしようとしているノートPCはSOTEC AL7180A。まだあきらめるつもりはないが、4年ぶりのLinuxインストール挑戦は再び失敗してしまった。

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一情報処理研究者のグーグル評

先日、近しい人からグーグルの検索エンジンについて、情報処理の研究者たちの間での率直な評価というものを聞くことができた。例の「ページランク」という検索アルゴリズムは、学術的にはすでにたいしたことはない、陳腐なものらしい。

研究者たちをうならせているのは、むしろ、大規模なサーバ群を、検索結果の整合性や一貫性をそこなわないように、安定稼動させている、その技術の方だという。

ここでもやはり梅田望夫氏の書いている「情報発電所」説が、単なる誇大広告であることがよくわかる。グーグルの検索エンジンは、決して世界中のWebサイトに書かれていることを「理解」している「神の視点」ではない。技術的には陳腐なしくみなのだ。

その近しい人は、グーグルに優秀な情報処理研究者が就職していることを否定はしなかったが、きっと彼らの才能は、ビジネスとして検索エンジンを安定稼動させることや、機能追加していくことに注がれているのであって、グーグルをSF映画に出てくるような、人工知能としての「ビッグ・ブラザー」にすることに注がれているわけではないのだろう。

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富野由悠季『ターンエーの癒し』

で、古くは『鉄腕アトム』のテレビアニメ版の制作にもかかわり、『無敵超人ザンボット3』や『機動戦士ガンダム』の監督でもある富野由悠季(旧名:富野喜幸)という人が、いったいどういう人物なのか。まとまったエッセー集はないかと探したところ、『ターンエーの癒し』(角川春樹事務所)という本が近所の図書館で見つかったので読んでみた。

このエッセー集は富野氏が『ターンAガンダム』の制作期間中に、どういう形でかよく分からないが書きためた文章をまとめたものらしいだが、富野由悠季という人の人となりが本人によって正直に吐露されている。

SM好きで、大学時代に女性の縛り絵を描いていたという、自らのセクシャリティの告白とからめた、日本人の性に対する考え方の変化を論じた部分まで登場する。また、富野という人が、自虐的で自分の才能に常に懐疑的であるくせに、周囲に対してひどく批判的であることがよく分かる。

そのために親友が一人もおらず、私生活では伴侶の亜々子女史を除けば、つねに孤独であることも書かれている。もちろん、富野氏はそのことを公に出版する書物に書けるほど、自覚的であり、『ターンAガンダム』の制作を通じて、そんな自分のスタンスが変化しつつあることも記している。

僕がこの本を読んだのは、アニメーションの制作において「監督」は何をやる人物なのかを知りたかったからなのだが、このひどく自虐的で内攻的なエッセー集に、『ザンボット3』や『ガンダム』の底を流れる暗さの理由をはっきり読み取ることができた。

ところで「監督」としての富野氏の仕事は、「物語世界の概要をうみだして、そのストーリーをかく。どうじにキャラクター・デザイナーとメカニック・デザイナーをえらびだして、ストーリーにそったデザインをつくってもらう。それに並行して、ぼくが構成案をかいて、その検討の段階でシナリオ・ライターに参加してもらい、シナリオを執筆してもらう。(中略)そして、シナリオのオーケーをだしたら、それをコンテ・マンにわたして、コンテにしてもらう。そのコンテを修正するのが、ぼくのメインの仕事になるのだが、僕の場合は、このコンテの加筆修正をすることで、創作上のワーキングの大半がおわる。なぜなら、コンテでフイルムにあらわれる表現の70パーセントを支配してしまうのだから、おわったとするのだ。」(同書p.155)

富野氏にとって、自分の演出意図が最終的に作品にきめ細かく反映されるかどうかは、コンテにかかっているようだ。「このコンテをきるという仕事は、一頁に五こまの桝目があって、そこに絵を描き、その右に、絵の内容説明とセリフをかきいれるスペースのある用紙をつかう」(p.156)。

コンテとは「演出指示の設計図といった性格の書類」(p.80)で、コンテを書くという仕事は、「視覚印象の力学をつかってドラマのストラクチャーを創作していくという仕事なのだから、画面構成によっては、台詞を変更することもでてくる。場合によっては、シーンそのものの変更、差し替えもありえると判定できる」(p.83)。

「アニメの場合のコンテは(映画と違って)、アニメーターのえがくべき画面のレイアウトの指示とどうじに、演技を指示するという性格をもっている」(p.83)。「たとえば、こうだ。TOP、ロラン(『ターンAガンダム』の主人公の名前)立ち止まり、右目線。左にむく。そのときのポーズはこれこれ……。左よりディアナ(同じく登場人物の名前)、Fr.I(フレームイン)。台詞の項目には、ロランの右目線のとき『なんです?』。ディアナにむいて、『どこにいらっしゃったんです?』」(p.157)

お読みになってお分かりのように、富野氏のコンテは画面に登場するキャラクターの一挙手一投足に、外形的な演技を厳密につけていくようにして書かれる。僕はなるほどと思った。ここまで厳密に登場人物の演技を指定するのだから、最終的な作品の画面は、ほとんど富野氏の意図どおりになる。

ただ、さきに引用したように、富野氏はすべてのコンテを自分で書くわけではなく、コンテ・マンの書いたコンテをチェックする役割にまわる。本書では、修正しなくてもいいようなコンテを書いて来い、といった、スタッフに対する批判も正直に書かれている。

本書を読むことで、富野氏がアニメーション制作の現場でどのような仕事をしているのかがよく理解できた。

ところで、本書に一箇所だけ『無敵超人ザンボット3』についての意外な言及がある。『ターンAガンダム』最終回の打ち上げパーティーについての記述の中だ(p.273)。興味のある方は、直接、本書をお読みいただきたい。富野アニメのファンなら、この『ターンエーの癒し』は必読書だろう。

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2006/06/24

『無敵超人ザンボット3』完走だが

『無敵超人ザンボット3』を最終話まで観終えた。

物語の面では、人間爆弾についての一連のエピソードがクライマックスだったと言える。一般市民が戦災の被災者としてだけでなく、自らの肉体を兵器に改造されることで、戦闘員として、意に反して戦争に加担してしまうという、戦争の不条理さを鋭く描いているからだ。

中でも、第18話「アキと勝平」がもっとも優れている。主人公の少年、神勝平は、子供らしいほのかな恋心をよせるアキという少女が、人間爆弾に改造され、ザンボット3の母艦キング・ビアルの勝平の部屋で爆死してしまう。この脚本はかなり痛ましいので、第18話は単独でも見る価値はある。

最後の3話は、物語の面では「皆殺しの富野」の本領発揮で、勝平の祖父や父親が次々と「特攻」で死んでいく、やや退屈な展開だ。ザンボット3の他の二人の操縦者、宇宙太と恵子も敵の母艦の内部で自爆する。

「女、子供」だけは事前に睡眠薬を飲まされて、母艦から小さなカプセルで地球へと帰され、敵との最終戦は大気圏外での死闘というわけだが、ご想像のとおり神勝平だけがボロボロの戦闘ロボットとともに大気圏をつきぬけて地球に生還する。大気圏をつきぬけながらの死闘というのもファースト・ガンダムや『ガンダムSEED』で見慣れた場面だ。

そういうわけで、物語の面で素晴らしいのは中盤までだ。恵子のエピソードについても、最後の自爆の部分よりも、第12話「誕生日の死闘」の方が脚本、演出とも、はるかに素晴らしい。

ただ、演出手法の面では、最後の3話はそれまでの回と別物になっている。真っ白の画面に勝平の姿が黒線の輪郭だけで徐々に浮かびあがるなど、それまでの回の作画が基本的に「見えたまま」を描いているだけなのに対して、最後の3話には、心理描写や抽象的な描写がたびたび現れる。

おそらく監督の富野氏が最後の3話では全く手を抜かなかったのだろう。その証拠に最後から4話目の第20話「決戦前夜」は、過去に登場した敵方のロボットのうち3体が、再び攻めて来るという設定で、ほとんどのシーケンスが過去のフイルムの使いまわしで観るに耐えない。これは明らかに最終回へ向けての「時間稼ぎ」だ。

『ガンダム』の原点であるこの『無敵超人ザンボット3』を、お勉強のために観たい方は、以上のようなことから、最初の3、4話と、第12話~第18話、あとは最終話を観れば十分だというのが僕の見解だ。

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2006/06/18

『無敵超人ザンボット3』第17話「星が輝く時」より

『無敵超人ザンボット3』第17話は「星が輝く時」というタイトルで、第16話「人間爆弾の恐怖」に登場した人間爆弾は、一話完結のお約束に従って既に解決済みのものと思って見たのだが、予想に反して第16話よりも人間爆弾の悲劇の描写が異常にリアルだった。ちょっと気が滅入ってしまうほどだ。

人間爆弾というのは、異星人ガイゾックが効率よく低コストで地球人を殲滅するために、人間の体内に時限爆弾を埋め込んで元の生活に戻し、周囲の人間を爆破の巻き添えにして殺害するという、子供向けロボットアニメとしては、少し残酷すぎやしないかと思われる設定だ。

第17話ではさらに、異星人ガイゾックが難民キャンプと見せかけて避難民を収容し、本人に気づかれないようにつぎつぎと時限爆弾を埋め込んでいくという展開になっている。人間を自爆兵器に改造する工場を、難民キャンプに偽装しているわけだ。

そして静岡から逃げ延びて来た神勝平の友人たちも、その罠にはまって偽装キャンプに収容されてしまう。そして友人たちのうちの2人が、ある日警備兵に部屋から連れ出され、気づかぬうちに体内に時限爆弾を埋め込まれてしまう。背中にある星型の傷がそのしるしだったのだ。

神勝平たちはなんとかその偽装難民キャンプを破壊することに成功するが、埋め込まれた時限爆弾を取り出す方法がない。自分の体に爆弾が埋め込まれていると知った他の難民たちも、人々を自分の爆破の巻き添えにしないために、家族のもとを離れて海岸に向かって歩き出す。

以下、第17話の最後の場面の脚本を映像から書き起こしてみる。かなり悲惨な場面なので、何かで気がふさいでいるときには、お読みにならないように。僕個人は、有名なテレビドラマ『私は貝になりたい』で十三階段を上るフランキー堺の芝居を見たとき以来の陰惨な印象をうけた。

勝平の友人・浜本 「だから、俺だって、いつ爆破しちまうかわからねぇんだ」
勝平 「キングビアルにも、爆弾を体から抜き出す方法の記録なんてないんだよ。ごめんな」(浜本の肩を抱いて泣く)
浜本 「いいって、もう。こうしているうちに爆発しちまうといけねぇ。あばよ」
(中略)
浜本 「人のいないところに行くよ。最後ぐらい、カッコよくさせてくれよ。えへっ。えへへへっ」(後ろ姿で勝平たちをふり返ることなく立ち去っていく。そして他の人間爆弾にされてしまった避難民と合流し、海岸の方へ歩いていく。勝平たちはその後ろ姿をただ見送るしかない)
(中略)
浜本 「どうせ、父ちゃんも母ちゃんも、いなくなっちまったんだ。俺だってすぐに母ちゃんとこへ...。うっ...俺っ...いやだ...。母ちゃんも父ちゃんもいないとこで死ぬなんて...独りで死ぬなんて...いやだ!いやだぁ!いやだぁ!」
人間爆弾となった難民A 「誰か止めんか。爆弾になったものを人様のとこへやるでない!」
浜本 「いやだぁ!!こわい!!こわいんだ!父ちゃん!父ちゃん...母ちゃん...。こわいよぉ!!母ちゃん、助けて!!助けてよぉ!何でも言うこと聞くからよぉ!!母ちゃん!父ちゃ~ん!」(浜本の体が星型に光った後、大破する)

そう、この第17話の「星が輝く時」という題名は、勝平の友だち浜本が人間爆弾にされ、爆破される瞬間のことを言っているのだ。

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ますます絶望的になる『ザンボット3』の展開

富野喜幸監督のロボットアニメ『無敵超人ザンボット3』(1977年)はようやく全話の3分の2ほどまでたどり着いた。異星人は北海道を除く日本列島をおおかた壊滅状態に追いやり、生き残った日本人は難民となって北海道へ移住を強いられている。

主人公であり、ザンボット3をあやつる3人のリーダ、神勝平(じん・かっぺい)の友人たちも、戦災で肉親を次々と失いながらも何とか都市郊外の難民キャンプで生き延びているといった物語の展開になっている。

地球人類の殲滅を狙う異星人は、人間を捕獲してその体内に爆弾を仕込み、都心の地下鉄や飛行機に乗り込ませて自爆させる。現代のテロリズムを連想させて、子供向けの合体ロボットアニメにふさわしくない恐ろしい現実感がある。

ただ、一方で異星人の謎の支配者ガイゾックの手下として、日本の壊滅を狙うキラー・ザ・ブッチャーは、残忍な悪役に似つかわしくないコミカルなキャラクターとして描かれていたり、何より主人公の神勝平の子供らしい負けん気や、底抜けの楽天主義が、このどんどん陰惨になっていく物語を、辛うじて子供向けのロボットアニメとして成立させている。

家族と離れたため、神勝平に憎悪の視線を向けていた例の親友も、東北まで避難する途中で拾った、戦災で両親を失って失語症になった少女をザンボット3に救ってもらうエピソードで、ようやく神勝平と和解することになる。この回では、『ザンボット3』を観はじめてから初めて泣いてしまった。

小さな和解に涙してしまうくらい、この『無敵超人ザンボット3』が描写する地球の状況というのは、坂を転げ落ちるように絶望的になっていくのだ。異星人が次々送り出す怪獣ロボット(メカ・ブースト)との戦いは終わりがないように思えてくる。もう日本人にとって逃げ場は北海道しか残っていないのであれば、日本が全滅するのも時間の問題ではないか。

キャラクターのコミカルさにもかかわらず、『ザンボット3』の物語が全体として暗い陰を落とすのは、やはり戦禍に巻き込まれる一般人の死や苦悩、戦争に対する憎しみを、毎回必ずといっていいほど執拗に挿話として描いているためだろう。

残り3分の1は一体どのような物語の展開になるのだろうか。

ちなみに、コメントが物語に集中しているのは、作画やメカデザイン、動画上の演出について特筆すべき点がほとんどないためだ。ロボットの合体シーンや、怪獣ロボットとの戦闘シーンは倍速で飛ばしながら観ている。

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2006/06/14

本当にテレビでよく耳にする『エウレカ』の劇伴奏

最近、テレビのニュース番組やバラエティー番組で、本当によく『交響詩篇エウレカセブン』のオリジナルサウンドトラックから、佐藤直紀作曲の劇伴奏が使われているのを耳にする。今日も『報道ステーション』のクロアチアの戦場を紹介する部分で使われていた。

たしかに佐藤直紀氏の曲はBGMとしては、旋律は簡素だが適度に劇的で、自己主張が強すぎない素晴らしい作品だ。最近、毎朝、通勤電車でつり革につかまって立ったまま熟睡できるのも、佐藤直紀氏の『エウレカセブン』のためのトラックのお蔭である。

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『無敵超人ザンボット3』を観はじめた

『無敵超人ザンボット3』というロボットアニメ(1977年)が、日本のアニメ史上それほど重要な作品だとは知らなかった。僕は小学生の頃このアニメをオンタイムで見ているので、合体ロボット・ザンボット3の外観もおおよそ記憶に残っている。もしかすると超合金のおもちゃを持っていたかもしれない。

ところが今、ブロードバンド放送「ShowTime」のバンダイチャンネルで改めて観てみると、脚本が異常だ。小学生の頃の僕は、おそらくこの脚本の異常さを全く理解せずに、ただ合体ロボットのかっこよさだけにひかれて観ていたのだろう。

脚本の何が異常かと言えば、異星人を倒すために闘う「正義」のヒーローであるザンボット3の搭乗員や、その母艦であるキング・ビアルの乗組員の全員が、一般市民から憎悪されているのだ。今のところ第5話までしか観ていないのだが、それも回を追うごとにその憎悪が増すのである。

その理由は、ザンボット3と異星人の送り出す怪獣ロボット(メカ・ブースト)の戦闘のため、海岸の市街地が壊滅的な被害を受け、ザンボット3の3人の乗組員のリーダー、神勝平(声:大山のぶ代)の親友が、ついには戦災孤児になってしまう。ザンボット3が怪獣もろとも海に落ちてきたときに起こった大波に、両親と妹が呑み込まれてしまったためだ。

第5話では、普通の合体ロボット・アニメと同じような「カッコいい戦闘シーン」のシーケンスと並行して、その戦闘によって引きこされる火災や大波の中を逃げ惑う一般市民が死んでいく様子が克明に描かれる。孤児になったその親友は、廃墟と化した町から、海に浮かぶ母艦キング・ビアルを憎しみに満ちた表情で凝視しつつ、神勝平に対する恨みの言葉を吐き捨てる。そんなカットで第5話は終わる。

これが子供向け合体ロボット・アニメの演出と言えるだろうか。ところが、僕がオンタイムで観て熱中していたくらいで、この名古屋テレビ製作のアニメは、おもちゃメーカーとの相乗効果もあって商業的にかなり成功したらしいのだ。

ここまで書けば既にお分かりかと思うが、この『無敵超人ザンボット3』の監督は、この2年後に『機動戦士ガンダム』を監督する富野喜幸(現:富野由悠季)である。

戦禍に巻き込まれる一般市民の悲劇の深刻さと、ザンボット3や母艦キング・ビアルの乗組員(血のつながった3組の家族)の、時にコミカルでほのぼのした描写の対比もまた異常だ。

同じセルの使いまわしの合体シーンや、カッコいい、言い換えれば安っぽい戦闘シーンをすっ飛ばして、この脚本の異常さを堪能するだけでも、『無敵超人ザンボット3』は十分観る価値のある作品と言える。とくに『機動戦士ガンダム』のファースト時代からのファンの方にとってはそうだろう。


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2006/06/12

Domino Webアプリ用カレンダー日付入力ダイアログ

Lotus DominoでWebブラウザ対応アプリケーションを開発するとき、日付入力欄のための入力補助機能がない。Notesクライアントなら、1か月分の小さなカレンダーがポップアップ表示され、日付をクリックするとその日付が入力される、という便利な機能があるが、Webブラウザではこの機能は無効になってしまう。

インターネットを検索してみると、JavaScriptを利用したカレンダーによる日付入力補助機能が無償でいくつか提供されているが、機能が豊富すぎてDomino Designerの開発環境では使いづらいものばかりである。それならばということで、自作してみた。

動作検証はInternet Explorer 5.5以上のみで行っている。また、下記の作業手順はDomino Designer 7.0以上を前提としている。

まず「カレンダー入力画面」の作成方法からご説明する。この「カレンダー入力画面」は社内のDominoアプリで使いまわす共通部品格納用のデータベースに作成するのがいちばんよい。ここでは、共通部品格納用のデータベースを仮に「CommonModules.nsf」と名づける。

(1)ページを新規作成して仮に「SelectDatePage」と名づける。(名前は任意)
(2)同ページの「JS Header」プロパティで、実行「Web」「JavaScript」を選択し、添付のJavaScriptプログラムをそのままコピー&貼り付けする。
(3)そのページの「onLoad」プロパティに「drawCalendar();」と入力し、ページを表示するときに現在年月にもとづくカレンダーが初期状態で表示されるようにする。
(4)ページ上に、パススルーHTMLとして次の1行のみを記述する。
<div id="Calendar">Calendar</div>

次に、このカレンダー入力画面の利用方法をご説明する。

(A)任意のDominoデータベースの、任意のフォームに、日付型の編集可能フィールドを作成する。
 ※このフィールド名を仮に「TESTDATE」とする。
(B)そのすぐ右隣に「日付設定」など、適当な名称でボタンを作成する。
(C)そのボタンの「onClick」イベントの実行「Web」「JavaScript」に、次のような短いJavaScriptコードを設定する。

window.open('/CommonModules.nsf/SelectDatePage?OpenPage&TESTDATE', '_blank', 'width=240,height=240,menubar=no,location=no,status=no')

ここで注意すべきは、(1)で作成したページへの正しい絶対URLを指定することと、入力値を返したい入力欄(ここではTESTDATEという名称)を要求文字列として引き渡すことである。また、メニューバー、アドレス欄、ステータスバーを表示させないようにすることもポイントだ。

手順としては以上ですべてである。1つのフォームの中に、カレンダー入力画面を呼び出すボタンは好きなだけ作成できる。

なお、下記のカレンダー表示部分のJavaScriptでは、カレンダーの各セルにclassidをいちいち付与している。したがってスタイルシートで、セル別に見栄えを変えられる。スタイルシートのためのクラス名は以下の通りだ。

.calendar_table=カレンダー全体
.calendar_header=カレンダー全体の見出し部分のセル
.calendar_header_sunday_cell=日曜日の見出し部分のセル
.calendar_header_sunday_value=日曜日の見出し部分の中身
.calendar_header_saturday_cell=土曜日の見出し部分のセル
.calendar_header_saturday_value=土曜日の見出し部分の中身
.calendar_header_weekday_cell=平日の見出し部分のセル
.calendar_header_weekday_value=平日の見出し部分の中身
.calendar_date_empty_cell=空のセル
.calendar_date_empty_value=空のセルの中身
.calendar_date_cell=日付の入ったセル
.calendar_date_value=日付の入ったセルの中身

いちばん簡単には、(1)で作成したカレンダー入力画面のページの「HTML Head Content」プロパティに、例えば下記のようなスタイルシートを入力すればよい。全体が二重引用符でくくられていることに注意されたい。これだけでもヘッダ部分にかんたんな色の装飾がつく。

"<style type='text/css'>
.calendar_header { background-color: #cccccc; }
.calendar_header_sunday_cell { background: #ffcccc; }
.calendar_header_sunday_value { color: #cc0000; }
.calendar_header_saturday_cell { background: #ccccff; }
.calendar_header_saturday_value { color: #0000cc; }
.calendar_header_weekday_cell { background: #f0f0f0; }
</style>"

スタイルシートやJavaScriptが書ける方は、これらの必要最小限のコードからお望みのままにカスタマイズして使っていただければ幸いである。

Java Script Source Code

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2006/06/11

『雪待ちにんにく卵黄物語』BGMのギターTAB譜

すべての日本のギタリストのために、ここに、やずやテレビCM『雪待ちにんにく卵黄物語』BGMのギターソロ用TAB譜を掲載しておく。第五話まで使用されていたギター演奏版のオリジナルキー(Am)で採譜してある。

ご存じない方のために付け加えておくと、TAB譜とは楽譜の読めないギタリストのために、ギターの各弦について指で押さえる場所を示した譜面だ。本来なら楽譜で掲載したいのだが、僕のパソコンには楽譜を記述するソフトが入っていないので、やむを得ずExcelで作れるTAB譜にした。

Excelで作ったので音の長さの指定ができないが、幸い『雪待ちにんにく卵黄物語』のBGMは8分音符より細かい符割りも、シンコペーションもないので、このTAB譜で十分演奏できる。

ではすべての日本のギタリストの皆さん。この曲を爪弾きながら、ユウキの幸せな人生を祈ろうではないか。

ここをクリック

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「腐女子」が彼女だった僕の青春時代

今日、テレビ東京系『アド街ック天国』で東京・池袋の「乙女ロード」がとりあげられていた。男性オタクの聖地が秋葉原なら、女性のオタク(腐女子と呼ばれる)の聖地は池袋アニメイト本店周辺の「乙女ロード」というわけだ。

この「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」で7年前に書いたのだが、何を隠そう、僕が小学生から高校までつきあっていた彼女が、女子高に通っていた時期、まさしく腐女子だったのである。

当時は『キャプテン翼』と『聖闘士星矢(せいんと・せいや)』が腐女子の皆さんにとってのもっぱらの元ネタで、少年キャラクター同士の濃厚な同性愛描写があるようなパロディー漫画や小説の同人誌を、僕の彼女は一生懸命製作していた。

彼女は大阪では有名な私立の女子進学校に通う文学少女で、絵を描くよりも文章の方が得意だったので、もっぱら今で言うところの「ボーイズラブ」小説を書いていた。

僕自身、彼女の話についていくために、毎週テレビでアニメーション版の『聖闘士星矢』を観ていたのだが、今日の『アド街ック天国』には『聖闘士星矢』のフィギアが登場していた。いまだに『聖闘士星矢』に熱狂している三十代の腐女子の皆さんがいるのだと知って驚いてしまった。

スポーツものの『キャプテン翼』に代わる現代版は、言うまでもなく『テニスの王子様』だが、バトルファンタジーものの『聖闘士星矢』に代わるのは、現代では何になるのだろうか。『D-Gray man』とかいう漫画なのだろうか。さすがに僕もこの年齢ではもう最新の腐女子トレンドについていくことができない。

以上、青春時代を腐女子の彼女と過ごしておきながら、自分は今でもオタクになりきれない筆者であった。(いくら『交響詩篇エウレカセブン』が良くても、エウレカに「萌え」ろと言われても「萌え」られない)

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2006/06/10

やずや『雪待ちにんにく卵黄物語』コメンタリー(2)

「第八話 湧水編」では、おじいさんの家に帰ったユウキが、収穫したにんにくを湧水で洗うのを手伝う場面。収穫のシーンは、肉体労働の躍動感を表現するために、このCMシリーズには珍しく手持ちカメラである。

ラスト近く、川の流れをじっと見つめるおじいさんの横顔のカットは、ユウキ目線のカメラだ。短いカットながら、微笑むでもない無言の横顔と、それを見つめるユウキの真剣な眼差しは、おじいさんがユウキに何かの決意をうながしているように見える。

「第九話 停車場編」は、にんにくの収穫を手伝い終えたユウキが、ふたたび親戚の元へもどるバスの停車場が舞台となる。初めてユウキが演技らしい演技をする回だ。土がついたままのとれたてのにんにくを手提げのビニール袋いっぱいに土産としてもたされたユウキが、バスに乗りこんだ後、振り返って、閉まりかける自動ドアごしにおじいさんに何かを言いかけようとする。

そんなユウキを見つめるおじいさんも初めて演技らしい演技をしている。意外なほど厳しい表情で、まるで郷愁にかられがちなユウキの心をいましめるかのようなのだ。その無言の叱責を理解して、ユウキは村を離れるバスの中で、ひとり小さくうなずく。

しかし、中学生のユウキが村を離れて親戚の元で、にんにくの臭いをバカにされながらも暮らす決意を強いるものとは一体何なのだろうか。

それを予告するかのように、ナレーションがかぶさる。「秋に小さな芽を出して。長い冬に向かいます」。やはりこれはにんにくのことだけを語っているのではない。ユウキに芽生えた小さな決意は、おじいさんの元を離れてクラス二度目の冬を迎えるのだ。

「第十話 雪どけ編」は、やはりにんにくの生育が、親戚の家でのユウキの生活の隠喩となっている。冬を越したにんにくは自分の体温で雪を解かすという(植物に体温があるはずがないのだが)。

それに象徴されるかのように、親戚の家で掃除を手伝うユウキと、親戚の家の娘の間に、自然な微笑がこぼれる。ようやく打ち解けることができるようになったその生活に、雑巾を絞るユウキの顔にも、安堵の笑みが浮かぶ。雪国にも遅い春がもうすぐやってくるというわけだ。

「第十一話 なごり雪編」では、親戚の家のお兄さんが家を出るための身支度を整え、それを悲しげに見つめる妹の場面から始まる。この回ではなごり雪が降るので、季節的にはおそらく大学に進学するために都会に出るのではないだろうか。

そんな親戚のお兄さんのために、ユウキは丸揚げにんにくを持たせてあげる。玄関先で母親からそれを手渡されたお兄さんが、「にんにく?」とユウキに問いかけると、ユウキは悲しげに目をふせてしまう。しかしお兄さんはユウキにむかって、にっこりと微笑みかける。

そこに降り始めるなごり雪。ユウキは複雑な表情で、親戚のお兄さんの背中を視線で追っている。ナレーションは「なごりの雪が降るころ、にんにくも伸びやかに育ち始めます」と語る。親戚のお兄さんとのわだかまりも解けて、春に向けてユウキの自立心も育ち始めるということなのだろう。出来すぎの感もある演出である。

「第十二話 さくら編」は、親戚の娘と一緒に買い物に来るユウキの場面。冒頭の親戚の娘の台詞が重要だ。「東京では三月に咲くんだって」。そしてユウキは「うっそだー」と答える。

このやりとりだけで、ユウキと親戚の娘がすっかり親友になっていることを理解させる。そして同時に、やはり親戚の娘の兄が東京の大学に通うために上京していたのだということが分かる。簡潔なやりとりで背景の状況をすべて説明する、よくできた脚本だ。

ところで、親戚一家が登場する回から気になっていたのだが、なぜ親戚一家は完璧な標準語を話しているのだろうか。青森県内の出身なら、日常生活でここまで完璧な標準語を話すとは考えづらい。また、このCMシリーズは、親戚一家に不注意で標準語を話させるほどいい加減ではない。むしろ非常に丁寧に計算されている。

だとすると、この親戚一家は一度、首都圏に出て生活していたのを、何らかの事情で再び青森に戻ってきているのかもしれない。ただ、親戚の家は立派な一軒家で、第十一話で映るその玄関の門構えもなかなか立派である。そして親戚の家には夫婦と息子一人、娘一人の四人しかいない。

この立派な一軒家は、もとはこの親戚の家のご主人の両親が建てたものに違いない。ご主人はこの家の長男で、大学進学のためか、就職のためか、首都圏で生活するようになった。そしてそこで出会った女性と結婚し、長い首都圏の生活で夫婦ともども標準語で日常生活を送るようになった。

長男、長女も首都圏の生活の中で産まれたのだろう。ところが、そこへ青森の親が病気になったとの知らせが届く。長男として親の面倒を看るために、やむを得ず会社に青森支社への転勤願いを出し、家族四人で青森の実家にもどる。

しかし、数年のうちに両親ともに他界してしまう。首都圏にもどることも考えるが、二人の子供が既に青森の町での生活にとけこんでいるのを見て、また転校を繰り返すことで子供たちの心に負担をかけたくないと、そのまま実家にとどまる決意をした。そうして長男は高校生に、長女も中学生に育ったころ、自分の両親の兄にあたるおじいさんから頼まれて、町の中学校に通うというユウキを預かることになったのだ。

自分の両親が昔、おじいさんにお世話になっているので、喜んで預かることにしたものの、一度、首都圏での生活を経験している長男、長女から見ると、ユウキはどうしても田舎の子に見える。だから初めはにんにくばかりにこだわっているユウキのことを、心の中でバカにしていたに違いない。

しかし、長男はいよいよ自分が、かつての父親と同じように、一人で東京で暮らすようになり、長女は今まで当たり前のようにそばにいてくれた兄がいなくなってしまうことから、初めて親子や兄妹といったつながりの大切さを知る。

そして、ユウキがあんなににんにくにこだわっているのは、ユウキがおじいさんのことを思う気持ちのあらわれなのだということに気づくのだ。親戚の娘は、自分が遠く東京で生活する兄のことを心配しているように、ユウキは遠く村で一人暮らしをするおじいさんを思いやっている。ユウキのおじいさんに対する思いやりは、そのままユウキのにんにくを大切にする心にあらわれている。

第十二話では、親戚の娘はそのことをもう十分に理解している。だからこそ、市場で見かけたにんにく(福地ホワイト六片)を思わず手に取り上げたユウキを見て、親戚の娘は優しく微笑むのである。

「遅い春が、青森にもおとずれました。今年のにんにくも元気に育っています。たくましく育っています」、そう語るナレーションに、仲良さそうに桜並木の下を歩く親戚の娘とユウキの笑顔が重なる。ユウキも、元気に、たくましく育っている。

もしかするとこの満開の桜は、親戚のお兄さんが上京してからすでに一年が経った、青森の遅い春なのかもしれない。

ここまで季節がめぐっても、ユウキの両親は一度も登場しない。そうなると、もしかするとユウキの両親は亡くなっているのではないかと疑いたくなってくる。おばあさんが亡くなっていることは確実のようだ。すると、小学生の最後の数年間を、ユウキはおじいさんが一人で育てていることになる。

おじいさんは、ユウキの両親が亡くなったとき、いずれ青森の町に住む自分の甥夫婦にユウキを託さなければいけないことを予想していたのだろう。自分も老い先長くはない。ユウキが自分になついてくれる、やさしい孫であることはうれしいし、いつまでも自分のもとにいてくれたらどんなにかいいだろう。

しかし、自分に残された人生を考えれば、ユウキは一日も早く甥夫婦の家族にとけこんでくれなければならない。そうでなければ、ユウキは自分を失った悲しみに負けてしまうかもしれない。

だからこそおじいさんは心を鬼にして、中学生になったらユウキを甥夫婦のもとに送り出そうと決意していたのだろう。

第一話の冒頭、ナレーションは語っている。「雪深い山里に、ある日、たった一つ、特別なにんにくが生まれました」。もちろんこれは直接には雪待ちにんにくのことを語っているのだが、おじいさんにとってユウキは、ある日、たった一人生まれた、特別な孫であることに違いない。すでに第一話から、にんにくはおじいさんにとってユウキの暗喩になっていたのである。

さて、現在放送されているのはこの第十二話までだが、次に何か「事件」が起こるとすれば何だろうか。そしてこの物語の結末はどうなるのだろうか。その一つの可能な物語については、また次回以降に書いてみたい。

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やずや『雪待ちにんにく卵黄物語』コメンタリー(1)

やずやという会社の「雪待にんにく卵黄」のテレビCMに一貫したストーリーがあることをご存知の方もいらっしゃると思う。時代錯誤のお下げ髪で無口な女の子が登場する、あのCMだ。

やずやのWebサイトの下記のページから、現在までに放送されたCM全話を観ることができる。
http://www.yazuya.com/osirase/gekijyo/1.html

舞台は青森県田子町の農村。「第一話 収穫編」はみんみん蝉が鳴いており、主人公の女の子、ユウキが体操着で学校へ向かう途中に、にんにく畑で収穫に励むおじいさんに朝ごはんを届けている。おそらく二学期が始まったばかりの初秋だろう。後で分かるが、このときユウキは小学6年生である。

「第二話 泥洗い編」ではおじいさんとユウキが、収穫したにんにくを川で洗っている。なお、このCMシリーズにはユウキの両親は登場しない。おそらくもう農業を専業としていないか、まったく農業をやめて勤め人をしていると思われる。

第二話は日が高い昼間の場面なので、土曜日か日曜日なのだろう。ユウキは第一話と同じ体操着でおじいさんのにんにく洗いを手伝っている。まだ小学生だし、農作業で汚れるのだから、学校のない日も、ユウキの普段着は体操着なのだ。

「第三話 夕食編」は心優しいユウキが、収穫したにんにくの茎を切る作業をつづけるおじいさんの夕食に、にんにくを準備してあげる場面。さて、夕食の場面にさえ両親が登場しないとなると、にんにくの収穫後の農閑期には、ユウキの両親は都会へ出稼ぎに行っているのかもしれない。

「第四話 駅舎編」では、中学生になったユウキが制服で登場する。通学途中の駅で、にんにくを焼くおばさんを見かけ、おじいさんのことを思い出す冬の場面だ。やずやのWebサイトの解説では、中学生になっておじいさんのもとを離れ、親戚の家で暮らし始めた、とある。

過疎化の進んだ山間部の中学校は廃校になってしまったのか、あるいは、とても真面目そうなユウキのことなので、勉強がよくできて、町の偏差値の高い中学校に通わせてやろうという親心から、家を離れたのだろう。

「第五話 小包編」では、親戚の家で暮らすユウキのもとに、おじいさんから小包が届く。それを知らせる親戚のおばさんのせりふ、「小包が届いてますよ」という他人行儀な言葉が、ユウキと親戚一家の微妙な距離を感じさせる。

小包にはにんにくが一杯に詰め込まれ、「からだに気をつけてください」というおじいさんからの手紙が入っている。こちらの書き言葉は、いかにも手紙を書き慣れないおじいさんが、かわいい孫のために書いた精一杯の手紙という感じがよく出ている。

しかし、この箱一杯のにんにくが、第六話でちょとした波乱を生むことになる。

「第六話 丸揚編」では、ユウキがおじいさんから贈られたにんにくを、いつもお世話になっている親戚の家族のために、夕食のおかずとして丸揚げにする。

親戚のおばさんはユウキを気づかって、自分の息子に「これもお食べなさい」とにんにくの丸揚げをすすめるが、「やだよ。クサいから」とすげない返事。となりでその妹も鼻で笑って、兄に無言で同意する。

「せっかくユウキちゃんが作ってくれたのにね」と親戚のおばさんは残念そうだが、次のカットでアップになるユウキは、悲しげな眉をしながら、唇を一文字に結んで、ただ微笑んでいる。いいえ、いいんです、と言いたげだ。

その頃、夕食をとるおじいさんは、ユウキがよく夕食に作ってくれていたのと同じ、にんにくの醤油煮を一人で食べているのだった。

「第七話 帰郷編」では、風鈴の鳴る晩夏の親戚の家の夕食の席。親戚のおばさんが心配そうな顔で、「帰るって、ユウキちゃん。学校どうするの」とユウキに問いかける。ユウキは黙ったまま。親戚のおじさんが「いいじゃないか」とユウキを気づかう。

このやずやのCM、CMということで時間が短いせいもあるのだろうが、小津安二郎作品の野田高梧の脚本を思い出すのは、僕だけではないだろう。簡潔な台詞と、役者の一本調子な台詞の言い方も、小津作品を思い出させる。単に役者が素人なせいかもしれないが。
さて、とうとうユウキは、おじいさんの家にバスで帰ってしまう。頃はちょうどにんにくの収穫期。だが、ナレーションははっきりとにんにくの収穫期は初夏だと語っている。第一話でみんみん蝉が鳴いていたのとつじつまが合わなくなるが、初夏から晩夏にかけてにんにくは収穫されると理解すればいいのだろう。

初夏ということは、ユウキは町の中学校をやめたわけではなく、夏休み中の登校日や、休み中に開講される補習には出ずに、家に帰ったということだと思われる。

「長い冬を、雪の下で耐えたにんにくは、たくましく育ちます」というナレーションが、決してにんにくのことだけを語っているのではないことは明白だ。初めて親元を離れて、長い冬を過ごしたユウキもまた、たくましく育ったに違いない。

ちなみに、僕がテレビを見ていて、このCMに一貫したストーリーがあると気づいたのは、この第七話である。

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2006/06/06

『魔犬ライナー0011変身せよ』(1972年)

笹川ひろし原案の東映まんがまつり第一作のカラーアニメーション『魔犬ライナー0011変身せよ』(1972年)を半分まで観たのだが、さすがに脚本も演出も動画もひどくて最後まで観るに耐えなかった。

音楽もテンポのいい戦闘シーンとちぐはぐの、いかにも70年代ラウンジミュージック風のjazzyな感覚でまったくのれない。どうやらこのアニメに登場するサイボーグ犬という設定は、後に笹川ひろしが監督をする『新造人間キャシャーン』のフレンダーの原型になったらしい。

4年前の『太陽の王子 ホルスの冒険』と本作を比べると、演出と動画の品質の差は歴然としている。いかに『太陽の王子 ホルスの冒険』が1968年当時としては奇跡的な作品だったかということがよくわかる。

ところで4匹登場するサイボーグ犬のうち一匹の声を、野沢雅子が演じている。彼女の声優としてのキャリアの中では、最初期の作品になるのではないか。

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2006/06/03

いまも変わらない『太陽の王子 ホルスの冒険』

高畑勲監督、宮崎駿・大塚康雄製作の『太陽の王子 ホルスの冒険』(1968年)を最後まで観たが、想像以上の完成度で驚いてしまった。

主人公の少年ホルスが同じ孤独を分かち合う少女ヒルダ(実は悪魔グルンワルドの魔法によってその妹にされてしまっている)の声優が、40年前とはいえ市原悦子であるこが頂けないので、声優さえ一新すれば、いま、デジタルリマスタリングして、音声もドルビー化することで、十分子供向け新作長編アニメとして通用する躍動感と疾走感のある演出である。

脚本も単純な勧善懲悪ではなく、悪魔の妹であるヒルダが、悪魔としての人格と、人間としての善良な人格をあわせ持つことで葛藤し、少年ホルスが村人たちと協力してその善良な側面をヒルダの命とともに救い出すという物語で、ホルスがヒルダと剣を交える場面もある。

秀逸なのはヒルダとの戦いによって、少年ホルスが「迷いの森」という、一種の精神世界のようなところへ突き落されたあとの抽象度の高い一連の描写である。「迷いの森」の中でホルスは、悪魔としての孤独なヒルダをどうすれば人間たちの世界に連れもどすことができるのか、その苦悩が心象風景として描かれる。

先日、『新造人間キャシャーン』の富野喜幸監督による演出で、「見えないもの」を見せる点を特徴としてあげたが、『太陽の王子 ホルスの冒険』の終盤にある「迷いの森」の心象風景は、十分な制作費と時間のおかげですでに一定の完成度に達したシーケンスになっている。

戦闘シーンは『少年猿飛佐助』の終盤、猿飛佐助と妖女との空中戦のたどたどしさ、躍動感のなさ、スピード感のなさと比べると、『太陽の王子 ホルスの冒険』は冒頭の少年ホルスと狼の群れの戦いからいきなり強烈なリズム感に満ちている。

しかし、逆に言えば高畑勲、宮崎駿の二人は、『太陽の王子 ホルスの冒険』から一歩も踏み出していないように見える。心の中に深い孤独と葛藤を抱き、ホルスに向かって剣をふりおろす残酷さをもちながら、表情に乏しい少女ヒルダは、容易にナウシカやサンを思い出させる。とくに異性に対する恋愛感情をまったく表情にあらわさない演出は一貫している。

また、村人たちが協力してふいごを動かし「太陽の剣」を鍛える場面は、容易に『もののけ姫』のたたら製鉄の場面を想起させる。このような、群集が一致団結した力強さを描く場面の、地の底から空へと湧き上がるような演出法も、今に至るまでほとんど変わっていないのではないか。

いずれにせよ、やはりこうして日本アニメーションの名作を時系列で観ていくことには、かなり意味がありそうだということが分かってきた。

『太陽の王子 ホルスの冒険』についての英語のWebサイトをいくつかあげておく。

The Great Adventure of Horus, Prince of the Sun (55枚のスクリーンショットの引用付き評論)

Horus: Prince of the Sub (脚本の「哲学的な深さ」や戦闘シーンの動きのなめらかさが評価されている)

Hols: Prince of the Sub (英語版ウィキペディア。東映アニメがディズニー作品の単なる鋳直しから真の意味で脱した最初の作品だと評している。村が狼の群れに襲われるスチルショットのシーンは、演出意図ではなく、予算・時間超過のためにやむを得ずそうなったらしい。また、もともと高畑勲が想定した登場人物たちは東北地方の先住民・蝦夷の設定だったが、東映からの圧力で北欧に変更させられたようだ。)

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2006/06/01

『白蛇伝』『少年猿飛佐助』と『太陽の王子 ホルスの大冒険』

薮下泰司監督・脚本の日本初の長編カラー・アニメーション『白蛇伝』(1958年)について、読者の方から白蛇が美女に化けるという物語類型についての新書『蛇女の伝説』(平凡社新書)をご紹介頂いた。書店で少し立ち読みしただけだが、やはり中国の古い物語だけでなく、ギリシア神話にも起源があるらしい。時間があれば図書館で借りて読んでみたい。

このアニメの翌年に製作された『少年猿飛佐助』(1959年)も少し観てみた。こちらは日本初のシネスコ版長編カラー・アニメーションということだ。監督は同じ薮下泰司氏なので、作画や演出法について『白蛇伝』と大きな違いはない。やはりディズニーのフルアニメーションをお手本にした、なめらかな動画で、キャラクターに「影がない」のがきわだった特徴だ。

「影がない」というのは、例えばキャラクターに左から光が差せば、当然、右側が影になるので、キャラクターの右側の輪郭に沿って、輪郭から少し入った部分が、帯状に少し暗めの色彩で塗られてしかるべきである。70年代以降のアニメを見慣れている僕らにとっては、この「影がない」キャラクターというのは、観ていてかなり奇異に感じる。

薮下演出の「カメラ」(これも繰り返しになるが、アニメなので実際にカメラが存在するわけではない)は、基本的に上下左右のドーリーか、ティルト、パン程度の動きをするだけで、カット割りによるクローズアップはあっても、キャラクターに徐々に「カメラ」が寄っていくズームアップはないし、クレーンにあたる動きもない。

また、俯瞰ショットや「あおり」のショットも極端に少ないし、主観ショットは一つもなかったのではないか。

このように型にはまった薮下演出は、やはり十年後の『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)と比較すると際立つ。『太陽の王子 ホルスの大冒険』は高畑勲が監督し、宮崎駿と大塚康雄が製作を担当している。

良く知られているように、『白蛇伝』や『少年猿飛佐助』のようななめらかなキャラクターの動きは、時間を均等に割って運動を描いているためであって、大塚康雄などのアニメーターはキャラクターの運動をデフォルメするために、意図的に時間を均等割りにしていない。

また、「カメラ」も実によく動く。現実のカメラには不可能な速度でドーリーするし、クレーンも多用される。ズームもあれば、スチルをつなぎあわせるという斬新なシーケンスもある。当然動くキャラクターにも影がついているし、シネスコサイズを存分に生かす大胆な構図も随所に現れる。

俯瞰ショットもあおりもある(そもそも岩男は足元からあおらないことには大きさが表現できない)。また、「カメラ」がわざとキャラクターの動きについていけないかのように、キャラクターがフレームから一瞬外れるカットまである。

個人的にジブリ作品はあまり好きではないが、こうして『太陽の王子 ホルスの大冒険』を観ると、高畑勲、宮崎駿、そして大塚康雄が一つの時代を切り拓いた人たちだということがよくわかる。


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