« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »

2006/04/30

梅田望夫氏が求める新たな「権威」とは

この「愛と苦悩の日記」の『ウェブ進化論』批判について、ようやくトラックバックを頂くようになった。今日『いっつあんのひとり言』というブログから頂いたトラックバックの記事「『ウェブ進化論』は権威主義か?」に書かれていた反論に、ここで反論しておきたい。

まず「いっつあん」さんは、僕が、『ウェブ進化論』がベストセラーになっている原因は、梅田氏の学歴や経歴に対する日本人の権威主義的な反応だ、と書いていることに反論して、「まず梅田さんが興味を持たれているのは東大の院卒だからというわけではないと思う。むしろシリコンバレーで長年コンピュータ界の変化を見てきた"経験"、また"はてな"のプロジェクトに参加していることなどの方がよっぽど重要だろう」と書いている。

しかし、シリコンバレーは、アメリカという国に対して複雑な感情をもつ日本人にとって、そしてITに強くない人々にとって、立派な「権威」である。シリコンバレーでの日本人としては先進的な活躍、その後の「はてな」という斬新なITベンチャーでの活躍、これがITに弱い多くの日本人にとってなぜ「権威」でないと言えるだろう。むしろ筑摩書房はそのような梅田氏の経歴に、ネット世界を語るだけの「権威」があると見て、白羽の矢を立てたと考える方が自然だろう。

また「いっつあん」さんは、僕が、ネット上の総表現社会では、多種多様であるべき意見が一つの意見に集約されていくと書いていることに反論して、「梅田さんは別に日本人の意見が多種多様になるとは本書で述べていない。現在のブログの様子は結果的に多種多様ではない、権威主義的な日本人の姿を率直に反映しているだけではないか」と書いている。

この点は「いっつあん」さんの書かれているとおりだ。梅田氏はたしかにウェブによって日本人の意見が多種多様になるとは書いていない。しかし梅田氏は『ウェブ進化論』の第四章などで、玉石混交の状態が「玉」へと集約されていく期待を明記している。それは既存の権威と戦う必要があるからだ。

同書のp.147で梅田氏は次のように書いている。既存の権威は「『石』の悪質さを過激に指摘する方向に走ったり、玉石混交の面倒さを切々と論じたりする」。そのような「権威側が指摘する諸問題を解決するためのテクノロジーは、日進月歩で進化している。既存メディアの権威が本当に揺らいでいくのはこれからなのである。」

この部分をよく読んでみると、梅田氏が玉石混交を「玉」へ集約すること自体は善であると、何の議論もなく前提としてしまっていることに気づく。梅田氏が問題にしているのは、その玉石混交から玉を選別する権利を、既存の権威が独占していることであって、玉石混交から玉を選別すること自体ではない。

依然として権威主義の強い日本において、このような梅田氏の議論は、ネットをもう一つの「権威」にすること以外の何を意味するだろうか。既存の権威は「玉」を選び出す権利を行使することで「権威」たりえているのだから、それをネット世界が持つようになれば、ネットは新たな「権威」になる。わかりやすい議論である。

その証拠に、梅田氏がネット世界の言論を描写するとき、「甲子園」とか「コンテンツの自由競争」などといった表現を使う。これは多種多様な意見が、多種多様なままにとどまるのではなく、その意見の中から「勝者」=「玉」が決まることを梅田氏が期待していることを示している。

梅田氏は、グーグルのページランキングやWikipediaのような仕組みが、「玉」を選び出すためのテクノロジーであると明言している。つまりこれらの新しいテクノロジーは、既存の権威から「玉を選別する」権利を奪うために必要なテクノロジーだと明言しているのだ。これが新たな形の権威主義でなくて何だろうか。

もし梅田氏が本当にネットを新たな「権威」にしたくないのであれば、単に次のように主張すればよかったのではないか。「どうして『玉』を選び出す必要などあるのか。『玉』か『石』かを決める権利は誰にもない。ただそこには永遠の対話があるだけだ。『玉』か『石』かを決めなきゃいけないなんて、それこそ権威主義だ!」と。

もちろん政治的な意思決定の際は、民主主義は多数決の原理に従わざるを得ないが、ネット上の議論で一体どうして「玉」か「石」かを決める必要があるのだろうか。なのに梅田氏は、それを決める必要があると明記している。そして近い将来それを決めるのが、既存の権威ではなくネット世界であるという期待を表明している。梅田氏は新たな権威による「玉」の選別をはっきりと求めているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

敢えて「敢えて藤原正彦氏を弁護する」に反論する

とある読者の方から、藤原正彦著『国家の品格』を擁護するブログをご紹介いただいた。Leiermann氏の「Niemals-Gasse」というブログだ。その記事はこちらの「敢えて藤原正彦氏を弁護する」である。

Leiermann氏の藤原正彦擁護をひとことで要約すると、氏の書くものはすべて「寝言ポエム」だから、そもそも真面目に反論するに値しない、となる。「寝言ポエム」という言葉は知らなかったが、はてなダイアリーのキーワード定義によれば、「カフェやモスバーガーの店先によくあるような、店員によって黒板に書かれた、自意識過剰で上滑りした見るも痛々しいひとことポエム。うっかり読むと体感湿度が上昇する」とのことだ。

大阪のお笑いが好きな方に分かりやすく言えば、藤原氏のエッセーはすべて、ひとりボケ、ひとりツッコミなのだから、真面目に反論すること自体、藤原氏の「主張の最も重要な部分」、つまり「自然言語における論理の限界の指摘」をかえって肯定することになるというわけだ。

しかし、Leiermann氏自身がこの記事への「ヒンカク」氏のコメントに対する返答の中で認めているように、「しかし現在、その『床屋政談』レベルの話が真面目に受け止められてしまっているし、藤原氏がそれを敢えて押しとどめようとしないという現実は確かにあります。問題があるとすればそこだと思います(この件に関しては、当該記事を書いた当初は無自覚で、hazama-hazama 氏に指摘されて気付いた次第です)」

つまり、Leiermann氏のように、余裕をもって藤原正彦氏のエッセーを楽しめる知的水準にある「エリート」は非常に限られているのだ。Leiermann氏は、藤原正彦氏のエッセーは「何とも言えぬ諧謔味を醸成し、多くの愛読者を獲得しているわけである」としているが、それは事実に反している。

Leiermann氏は大学院生のようだから、ごく普通の民間企業につとめる僕とは全く違う環境で生活している。大学に残って研究を続ける人は「大学の研究者だって会社員と大して変わらず俗っぽい」とよく口にするが、申し訳ないが、民間企業の研究開発部門以外の部門で働いた経験のない人たちに、自ら「エリート」であることを否定する権利はない。

「エリート」ではない一般の日本人の大半が『国家の品格』を「真面目に」うけとっているの、はれっきとした事実である。

全国紙に掲載される『国家の品格』の広告に登場する読者の感想も、あえて「真面目な」反響にしぼられている。出版社やマスコミは決して『国家の品格』を、藤原氏一流の諧謔としては取り上げない。藤原氏がゲストとしてフジテレビ日曜朝の報道番組に出演したときも、竹村健一氏は『国家の品格』をあくまで「真面目に」紹介しているのである。『国家の品格』を良書と考える一般の日本人の大半は、藤原正彦氏の議論を「真面目に」うけとめているのだ。

僕が『国家の品格』に「真面目に」反論する理由はまさにここにある。一般の日本人は藤原正彦氏のエッセーを「真面目に」うけとめているのだから、それを解毒するには、僕のような「エリート」と一般人の中間にある人種が、藤原正彦氏を「真面目に」やっつけなければならないのだ。

Leiermann氏のような「エリート」に対してあえてキツいことを書くとすれば、「エリート」が藤原氏のエッセーを知的諧謔だと悦に入って「真面目に」とりあわないことは、「エリート」としての知的誠実さを欠いている。

たとえば僕の大学時代の師である高橋哲哉氏のように、飽くことなく「真面目に」靖国問題を議論しようとしている「エリート」と比較すれば、残念ながらLeiermann氏が知的誠実さを欠いていることを指摘せざるをえない。

Leiermann氏の書いているように「実際この本を錦の御旗にして、自説の補強に使っている俗物が社会の上層部に多くいるのは確か」であり、のみならず、この本を時節の補強に使っている俗物は社会の中層部にも下層部にもたくさんいるのだ。

Leiermann氏の擁護は、藤原正彦氏のエッセイストとしてのスタイルの解説にはなっても、エリートの一人として氏が知的誠実さを欠いていることの言い訳にはならない、ということだ。この意味でも、藤原正彦氏の方法論はやはり「卑怯」だと言わざるを得ない。

この記事も真面目すぎる内容で申し訳ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

梅田望夫著『ウェブ進化論』の「アドセンス」評も完全な間違い

梅田望夫氏は『ウェブ進化論』第二章で、グーグルのアドセンス事業は「全く新しい『富の分配』メカニズム」(p.77)だと書いているが、これも完全な間違いである。

梅田氏は「リアル世界における『富の分配』は、巨大組織を頂点とした階層構造によって行われるのが基本であるが、その分配が末端まであまねく行き渡らないところに限界がある」(p.77)と書いている。

それに対してアドセンスは、個人の小さなWebサイトにも、そのサイトに頻出するキーワードに応じた広告を自動的に表示することで、「リアル世界における『富の分配』メカニズムの限界を超えようとしている。上から下へどっとカネを流し大雑把に末端を潤す仕組みに代えて、末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組みを作ろうとしている」(p.77)というのだ。

どうやら梅田氏は市場経済の基本の基本さえまったく理解していないようである。梅田氏は僕らの住んでいるこの市場経済の世界では、カネは上から下へどっと流れるのだという。かくも不正確な経済観しか持ち合わせていないのなら、梅田望夫氏は決して経済について書くべきではない。自分で自分の顔に泥を塗るだけだ。

梅田氏の書いていることとはまったく逆で、僕らが生活している市場経済こそが「末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組み」そのものである。梅田氏はいったい何を勘違いしているのだろうか。おそらく梅田氏は工学部出身で、社会人になってからも経済学の教科書を一冊も読んでいないのだろう。

市場経済はそのような仕組みを、貨幣流通と価格形成の仕組みを通じて実現している。当たり前のことだが、市場経済に参加するすべての人たちは、すみずみまで一人残らず富の分配をうけている。というより、富の分配をうけることで市場経済に参加している。それも、各人の「貢献に応じて」である。

社会に出て働いていれば、僕らは所属する組織をつうじた社会への貢献に応じたお給料をもらう。子供たちは一般的には養育者から富の分配をうける。定年退職した人たちは年金をもらう。さまざまな事情で仕事につけない人には、社会福祉制度を通じて税金から富が分配される。

もちろん、子供の養育費、年金、社会保障などは、市場経済というよりは「市場経済の修正」と言った方がいいかもしれないが、いずれにせよ僕らの生きている現実のケインズ的な市場経済では、富の分配システムの一部分であることには違いない。

そして分配された富でモノを買ったりサービスをうけたりすることで、その富は今度はモノやサービスを提供する人たちや組織に分配される。富が組織に分配された場合は、その組織の中の給与規定などの分配ルールにしたがって、経営者や従業員にさらに富が分配される。

要するに「カネは天下の回りもの」という至って当たり前のことで、貨幣という形で富は人から人へと循環し、その循環過程にあるモノやサービスの価格は需要と供給のバランスで決まり、循環する貨幣の量は中央銀行が調整している、ということだ。梅田望夫氏が誤解しているように「カネは上から下へどっと流れる」わけでも何でもなく、循環しているのである。

また、梅田氏は富の分配システムを論じるこの箇所で、特異な例を引き合いに出している。

「たとえば時価総額二兆円の製造業ならば、下請け企業群、素材・部品納入企業、販売会社や保守サービス企業など、その企業を中心とした巨大な経済圏が形作られ、地域経済を潤す効果が大きい。その感覚がグーグルには全くない。その代わりに、全く新しいグーグル経済圏をネット上に形作ろうとしているのだが、製造業の経済圏に慣れ親しんだ私たちにはそれが見えない」(p.76)

何も見えていないのは梅田氏の方なのである。大手製造業の下請け企業は、たしかに顧客である大手製造業から富の分配をうけている。しかし、大手製造業を頂点とするピラミッド構造で富が分配されていくという見方は、完全な誤りだ。

なぜなら、その大手製造業は自社製品の消費者(個人または組織)から富の分配をうけるからだ。ここにあるのはピラミッドでも何でもない。さまざまな個人や組織が、おたがいに富を分配しあう網の目(ウェブ)構造である。自社の販売先が購買元でもあるというのはよくある話だ。

大企業が「中心」になって「巨大な経済圏」が作られているわけでは決してない。規模の異なるさまざまな組織と無数の個人が、あるときは組織の構成員として、あるときは一人の消費者として、刻々と変化する網の目状の取引構造を形作っているのである。こんなことは、市場経済学の常識ではないのか。

グーグルのアドセンスは「富の分配」という観点からすると、種々のインターネット広告の一つに過ぎない。他のインターネット広告代理店と差別化するために、広告を出稿するWebサイトの頻出キーワードをもとに、表示する広告を自動選択するという便利な機能をつけている。それだけのことであって、「全く新しい経済圏」を形作ろうとしているわけでも何でもない。

しかもWebサイトの頻出キーワードを自動判別すると言っても、所詮は同一ドメイン単位であり、しかも以前ここに書いたように、グーグルのロボットが文脈を含めて自然言語を理解しているわけではない。キーワードの出現頻度を統計処理しているだけのことである。

さらに言えば、アドセンスだけで自活できるようなWebサイトを運営しようと思えば、そもそもアドセンスなどに頼らずとも十分自活できるくらいの、特定分野での専門知識か、それだけのWebサイトを運営する時間的余裕を作り出すための経済的余裕(たとえば過去に投資した不動産が勝手に稼いでくれる等)が必要なことは当然である。

アドセンスはせいぜい小遣い稼ぎ程度の富の分配にしかならず、僕らが生きている市場経済の巨大な交換(取引)の網目に、部分的に編みこまれているに過ぎない。

このような僕の考えはアドセンスを過小評価しているだろうか。仮にアドセンスが本当に「全く新しい富の分配システム」なのであれば、貨幣の流通速度が飛躍的に高まり、グーグルの利用者が比較的多い先進諸国が未曾有の好景気に沸くはずではないのか。

経済の基本をまったく理解していない梅田望夫氏のアドセンス評は、完全な間違いであることがお分かりいただけたと思う。梅田氏自身、『ウェブ進化論』がベストセラーになることで、大手出版社のリアル世界への大量の広告費投入の恩恵をうけたのだから、今ならアドセンスを過大評価したことを実感をもって訂正できるに違いない。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/29

梅田望夫著『ウェブ進化論』の偏ったグーグル擁護論

今回は、グーグルが自らの企業理念「ウェブ上の民主主義は機能している」と明らかに矛盾していることを論証してみたい。それによって、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』の偏狭さも明らかにしたい。

梅田望夫氏は『ウェブ進化論』の第二章で、グーグルがWeb2.0時代の理想的な企業であるかのように称揚しているが、その議論はやはり狭い視野と激しい思い込みにもとづいている。

たとえばグーグルのWebサイトに掲載されている同社の企業理念にあたる文章「10 things Google has found to be true」(グーグルが真実だと見出した10の事柄)の中に、「Democracy on the web works.」(ウェブ上の民主主義は機能している)という項がある。このグーグルの理念を擁護して、梅田氏は次のように書いている。

「権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、『世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか』というたった一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイトに張り巡らされるリンクの関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランキング・アルゴリズムなのである。リンクという民意だけに依存して知を再編成するから『民主主義』。そしてこの『民主主義』も『インターネットの意志』の一つだと、彼らは信奉しているのだ」(p.54)

梅田望夫氏はこの理念に賛同するだけでなく、それをもっと強化しようと読者に呼びかけている。「ITの進歩によってはじめて可能となる新しい仕組みを是とし、人間の側こそそれに適応していくべき」(p.55)という視点で、グーグルという会社は「世界を作り直そうとしている」(p.55)と書いた上で、グーグル擁護論を展開する。

この部分で梅田氏は、ITが主人、人間が奴隷になるべきだと恥ずかしげもなく明言しており、梅田氏の主張はヘーゲルの弁証法以前の水準にとどまっており、あまりに素朴すぎて痛々しいほどだ。

しかしグーグルが提供しているページランキング機能やアドワーズ、アドセンスなどのサービスが、本当に「民主主義」の前提となる言論の自由を担保する仕組みになっているかどうかは、きわめて疑わしい。

たとえば昨日も書いたように、ブログ上の『ウェブ進化論』書評のほとんどは肯定的評価になっている。その肯定的評価が同書の売上増につながり、さらに肯定的な評価のブログ書評が増えるという循環がはたらいている。

それによって『ウェブ進化論』が売れ続けていることは、ほぼ事実と認めていいだろう。チープな経済誌風に表現すれば、これこそWeb2.0の新しい「口コミ」マーケティングなのだ!!となる。

この循環の過程で、グーグルのページランキングという仕組みがどんな役割を果たしているかは、少し考えればわかる。

Aさんがブログで『ウェブ進化論』は良いと書く。Bさんもたまたま同書を読んでいて、グーグルでAさんのブログを見つけると、「同じ意見の人がいた」と、喜んでトラックバックでAさんのブログから自分のブログへリンクを張る。

ブログ作成者どうしでは、トラックバックされたらお返しするのが、ネット世界ではすでに慣習になっているので、Aさんもトラックバックして、Bさんのブログから自分のブログへリンクを張る。

ここにCさんという人がいて、『ウェブ進化論』など根拠薄弱で読むに値しない本だという書評をブログに書く。Cさんの書評はAさんやBさんのような人からは無視され、リンクが張られることはない。

このようにして、開始時点で『ウェブ進化論』を擁護するブログが少しでも多ければ、トラックバックとそのお返しによる相互リンクが、擁護派の間でどんどん張られていき、グーグルのページランキングの仕組み上、それら擁護派のブログが「ウェブ進化論」というキーワードでグーグル検索したときの上位を独占することになる。これは今、事実として起こっていることなので、グーグル検索して確かめて頂きたい。

逆に『ウェブ進化論』批判派のブログは、相互リンクのネットワークから排除されたままなので、グーグルのページランキングで徐々に下位に押しらやれていく。

グーグル検索で上位のページは閲覧されやすいので、ますます閲覧されるようになり、下位のページは無視されやすいので、ますます無視されるようになる。上位ページに『ウェブ進化論』擁護派が多いという事実が、ますます擁護派を増加させ、世論を擁護派へと収斂させていく。

このようにしてグーグルのページランキングという仕組みは、最初はわずかだった擁護派、反対派の差を、相互リンクの増殖がページランキングを上げるという好循環を通じて、人々の意見を多数派の方向へとどんどん強化していく働きをするのだ。

補足しておくと、相互リンクというブログ間のリンクは、「ネットワーク効果」によってグーグルのページランキングシステムに、単に一次関数的な影響を与えるだけでなく、指数関数的な影響を与える。

たとえば5個のブログがお互いにリンクを張ると、合計10本のリンクができ上がるが、これが倍の10個のブログになると、単に2倍の20本ではなく、45本の相互リンクができ上がる。現実には全てのブログがお互いにリンクを張るなどということは起こらないが、それでも相互リンクの相乗作用で、類似した内容のブログのページランクを押し上げる効果をもつのは事実である。

仮に『ウェブ進化論』の場合のように、著者自身のブログのページランキングが始めから高い場合、『ウェブ進化論』擁護派のブログが驚くべき速度で増え、逆にこの「愛と苦悩の日記」のような『ウェブ進化論』批判派のブログがますます無視されるのは、当然といえば当然の帰結なのである。

では少数派のブログが巻き返しをはかる方法はないのかと言えば、グーグルを使って一つだけ方法がある。それはアドワーズの広告主になることだ。たとえば誰かが「銀河鉄道999」というキーワードでグーグル検索したときに、検索結果画面の右端に、自分のブログの広告が表示されるようにする。「銀河鉄道999」という検索キーワードの広告主になるのである。

誰かがそのキーワードでグーグル検索して、自分のブログの広告をクリックするたびに広告料が発生し、後からまとめてクレジットカードでグーグルに支払う仕組みになっている。

ただし市場原理にもとづいて、人気のあるキーワードには非常に高い値段がつく。したがって個人で買える検索キーワードはマイナーなものに限られるが、それでもこの「愛と苦悩の日記」は一時期「銀河鉄道999」「Notes/Domino」などのキーワードの広告主になって、限られた予算の中で少しずつ読者を増やそうと努力していた。

ところが、である。ある日グーグルから突然メールが届き、あなたのWebサイトは不適格であるとして広告の出稿を止められてしまったのだ。

グーグルはアドワーズ事業において広告主を独自の基準で選別することで、少数派の意見がネット上で認知を得る手段を奪っていると言える。これはグーグルの「Democracy on the web works.」という企業理念と完全に矛盾している。

実はグーグルのもう一つの広告サービス「アドセンス」や、ページランキング機能でも同様に、グーグルがサービスの利用者に突然、利用停止を告知したり、特定のWebサイトをページランキングから削除するなど、事実上の言論統制を行っている。また、グーグルが中国でのビジネスにおいて、特定の宗教団体のWebサイトをページランキング機能から除外しているのは周知の事実である。

佐々木俊尚氏の『グーグル―Google既存のビジネスを破壊する』(文春新書)には、このようなグーグルの負の側面も取り上げられているが、梅田望夫氏は一切ふれていない。

梅田望夫氏のグーグルのアドセンス事業についての説明や、グーグルの組織マネジメントをとりあげた部分にも、初歩的ともいえる誤りがあるのだが、それはまた次回、詳細に論じることにする。

『国家の品格』と同じように『ウェブ進化論』もほとんど「妄想」と呼びたくなるほど救いがたい独断や、致命的な矛盾が散見され、ほとんどまじめに論じるに足りない書物である。しかしそんな書物がベストセラーになっている以上、僕ら少数派はきっちりとブログで批判を展開しつづけなければならない。それこそがネット上の真の民主主義だと、僕は考える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/28

梅田望夫氏の「総表現社会の1000万人」のまやかし

梅田望夫著『ウェブ進化論』をグーグルで検索してみると、個人ブログの書評はほぼ全て肯定的評価になっていて非常に不気味だ。『国家の品格』でも同じことが起こっている。

梅田氏は『ウェブ進化論』第四章で、「不特定多数無限大」の人々がネット上の言論に参加することは衆愚を招くという意見に対して、「総表現社会の1000万人」という考え方で反論する。ブログでネット上の言論に参加している「総表現社会の1000万人」は、エリートと大衆の中間層にあたる。

そして、エリート/ブログ発信者/大衆という、この三層構造のウェブ世界では、もはや少数のエリートが大衆を啓蒙するという図式は成り立たないと梅田氏は断言している。ブログ発信者である新・中間層がネット上で意見を交換することで、そこに社会合意が形成されるというのだ。

ここでも梅田氏の視野は非常に狭い。ブログ発信者たちが何をもとにして自分たちの意見を形成しているのかについて、ネットの外の世界にある既存のマスメディアの存在を完全に無視しているのだ。

ブログ発信者たちがブログのネタを拾ってくるのは、ネット上よりもむしろ、そのほとんどが新聞・雑誌・テレビ・映画・書物・音楽など、既存メディアからだ。そのことはブログをいくつか見てみればすぐに分かる。梅田氏はこんな基本的な事実を完全にすっ飛ばしている。

実世界で『ウェブ進化論』という書物を読んだ「総表現社会の1000万人」の1人が、個人のブログで「『ウェブ進化論』はすごい!」とほめたたえる。しかしそういう肯定的な評価に、『ウェブ進化論』が筑摩書房という権威ある出版社から発刊されている事実や、筆者の梅田氏が東京大学大学院卒であるという事実が、影響していないと考える方が不自然である。

一般人はそのような種々の既存の権威を借りられるからこそ、安心して「『ウェブ進化論』はすごい!」と表現できるのであって、表現する場がたまたま友人たちとの雑談の場ではなく、ネット上のブログだったというだけのことだ。

ただし、悪いことにネット上のブログは物理的な距離と無関係に、相互に意見を交換・共有し合えるので、結果として一人の権威主義が時間と場所を超えて、別の人の権威主義を強化し、ネットは権威の増幅装置になる。

1人が「『ウェブ進化論』はすごい!」とブログに書くと、他のブログ発信者は「やっぱりあのベストセラーはすごいんだ」と考え、実際に『ウェブ進化論』を手に取り、「確かにみんながブログに書いているように『ウェブ進化論』はすごい!」となる。

後はこのプロセスが「総表現社会の1000万人」の間で反復されるだけだ。その結果、『ウェブ進化論』や『国家の品格』といった書物が一つのネット社会の偶像として崇め奉られる。ほとんどのブログが『ウェブ進化論』や『国家の品格』を肯定的に評価しており、この「愛と苦悩の日記」のようにこてんぱんに批判しているブログが数えるほどしかないという厳然たる事実を前にして、梅田氏はいったいどうやって反論できるのか。

梅田氏は同じ第四章で、ネット上の総表現社会では、玉石混交の意見のうちの「玉」が自動選別されるが、それはコンテンツの質をめぐる厳しい競争社会が表出するからだと書いている。しかし現実に日本のネット社会で起こっていることはまったく違っている。

現実に日本のネット社会で起こっていることは、『ウェブ進化論』や『国家の品格』などのベストセラー書評ひとつとっても分かるように、本来多種多様であるべき意見が、一つの意見に集約されていく過程である。玉石混交である以前に、すべての玉がだんだんと真っ白に変色していく過程である。

そこには甲子園に進むための地区予選のような厳しい競争社会などない。ウェブ世界の外部にある既存の権威を借りて、安心して権威と同じ意見を反復し、増幅する、いかにも日本人らしい均質的な共同体が表出しているのである。これは事実なのだから否定のしようがない。

かくも事実に反した、ほとんど妄想に近い梅田望夫氏のネット社会観が、ほとんどのブログで肯定的に評価されてしまっているという事態に対して、危機感を抱くのが当然ではないだろうか。少なくとも多種多様な意見があることは良いという立場をとる人なら、梅田氏のネット社会観が単なる妄想であることにも賛成して頂けるだろうし、そんな妄想がネット上のほとんどのブログで肯定的に評価されているのはおかしい、ということにも賛成して頂けるだろう。

そういう意味で、梅田望夫氏のような扇動者はきわめて危険である。自ら多様な意見を認める良識を標榜しながら、自らが偶像となりつつあることに何の危機感も抱けないほど無自覚・無反省だからだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/27

『交響詩篇エウレカセブン』第1話~第10話無料配信

最初はここで痛烈に批判しておきながら、結局はかなりハマってしまったアニメーション作品『交響詩篇エウレカセブン』だが、2006/04/28 19:00~2006/05/26 18:00の期間限定でブロードバンド放送サイトShowTimeで第1話~第10話が無料配信されることになったようだ。

僕としてはいまだに、この作品の保守的な男女役割分業観や、あまりに下らない大団円は受け入れがたいのだが、中盤の脚本やきめ細かい映像上の演出は、大人向けのアニメーションとしてよく出来ていると考えている。その中盤を楽しむための予備知識として、第1話~第10話を無料で観ておくのは悪くないと思うので、ぜひだまされたと思って、何しろ無料なので、ご覧になることをおすすめしておく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/25

『国家の品格』の市場原理主義批判に見る藤原正彦氏の「卑怯」

『国家の品格』第一章では、先日、ほぼ完全に誤っていると指摘した実力主義批判とともに、「市場原理主義」の批判もおこなわれている。これについては日本経済新聞が「核心」というコラムで取り上げ、その時代錯誤を非難していることをご紹介した。

ここでも藤原正彦氏の市場原理主義批判が、どれほど間違っているかを指摘しておきたい。

「何でも市場に任せれば一番効率的であり、国家の介入は出来るだけ少ない方がよい。少しオーバーに言うと、経済に限定すれば国家はいらない。国家は外交、軍事、治安などを行うだけでよいということです」(p.27)

この部分は先日紹介したウォルター・ブロック著、橘玲訳『不道徳教育』が主題として取り上げているリバタリアニズムの正しい要約になっており、問題はない。続きを読んでみよう。

「市場原理主義の前提は、『まずは公平に戦いましょう』です。公平に戦って、勝った者が利益を全部とる。英語で言うと『ウイナー・テイクス・オール』というものです。公平に戦った結果だから全然悪いことはない。勝者が全部取って構わない。こういう論理です。」(p.27)

藤原正彦氏は国語教育の重要性を説いているわりに、非常にいい加減な言葉の使い方をするのだが、ここで藤原氏の言っている「公平」という言葉の意味がよくわからない。「同一の経済的・物理的条件」という意味なら市場原理主義に反するので、おそらく「機会の平等」と理解するのが適切だろう。

ある事業分野への参入をさまたげるものがなく、誰もが必要な資金さえあれば競争に参加できる。それが市場原理主義の前提である。藤原正彦氏は、そうして競争が始まると必ず最後には一つの企業が競争に勝ち、すべての利益をとる、つまり独占状態になると書いているが、これがデタラメというか、藤原氏の単なる被害妄想であることは分かりやすい。

むしろ市場原理主義がちゃんと機能している市場においては、理論上独占は起こらない。マイクロソフトでさえ基本ソフト市場を独占しているわけではない。パーソナルコンピュータ市場という風に市場の範囲をあえて狭くとらえれば、独占と見えるかもしれないが、サーバ機、メインフレーム、携帯電話、家庭電化製品など、基本ソフトの必要なあらゆる機器を広くとらえると、マイクロソフトの独占はまったく成立していない。

基本ソフト市場は、市場原理主義によって新たに企業が参入し、基本ソフトを必要とする機器の種類そのものが広がっていくことで、マイクロソフトのような巨人の独占は徐々に切り崩されていく。マイクロソフトでさえ気づかない隙間市場を目ざとく見つけ出し、そこから儲ける起業家は必ず出てくるし、オープンソースのようにソフトウェアの生産過程そのものを変革しようという新しい発想も新たな市場を開拓する。

一人の人間、一つの企業の発想や技術革新には限界があっても、市場原理主義によって新規参入の機会が確保されている限り、その限界を打ち破る企業が必ず出てくる。それによって独占・寡占が固定化されることはありえない。それが市場原理主義である。

むしろ独占が成り立ちやすいのは、鉄道やユーティリティ(電気・ガス・水道)などの社会基盤事業だが、これらは膨大で長期にわたる設備投資が必要で、そもそも参入機会が非常に制限されているため市場原理主義が機能しない事業である。「ウイナー・テイクス・オール」という状況は、藤原正彦氏の議論とはまったく逆で、市場原理主義が働かない事業領域でこそ起こってしまうのだ。

もう少しこのあたりの議論を、リバタリアニズムの立場から敷衍したWebサイトがある。永井俊哉ドットコム「至上原理としての市場原理」だ。

さらに藤原正彦氏は続けている。

「しかしこの論理は、後ほど詳しく述べる『武士道精神』によれば『卑怯』に抵触します。大きい者が小さい者と戦いやっつけることは卑怯である。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。武士道精神はそう教えています。しかし市場原理主義ではそんなことに頓着しません。一本道のような論理で、全体を通してしまいます」(p.27~28)

すでにお分かりのように、むしろ市場原理主義は新規参入の機会を確保することで、小さいものが大きい者と互角に戦う機会を与えてくれるのだ。大企業からは生まれないような斬新な発想や、あまりに市場規模が小さく、大企業が手を出しても無意味だと考えるような隙間市場では、中小企業は大企業を打ち負かすことさえできる。

しかし藤原正彦氏が『国家の品格』の中で「卑怯」を取り上げるたびに登場する、「大きい者」「小さい者」「強い者」「弱い者」とは一体どういう意味なのだろうか。

市場原理主義の文脈でふつうに考えると「大きい者」=大企業、「小さい者」=中小企業となるが、藤原正彦氏の武士道精神に忠実にしたがって、仮に大企業が中小企業と戦うことをやめたらどうなるのだろうか。例えば大型スーパーは、地方のさびれた商店街の近くに出店しないとしたらどうなるか。大型スーパーだけでなく、大手小売業者のインターネット通販も規制する必要があるだろう。

そうするとその地方に住む人々の生活の利便性が損なわれ、大型スーパーに比較して割高な商品を購入しなければならなくなる。それがその地方に住む人たちの実質的な生活水準を押し下げるとすると、それは商店街全体の売れ行きに影響する。

他方、出店機会を失われた大型スーパーチェーンは、売上を伸ばすことができないため、従業員の給料を減らすか、解雇するかを迫られる。今度は大型スーパーの従業員が「弱い者」の地位に落ちてしまうのだ。

こんなことくどくど書くまでもなく、経済というのはそこに参加している人たちや企業が交換を通じて、時々刻々と「大きい者」になったり「小さい者」になったり、「強い者」になったり「弱い者」になったり、徐々に変化していく世界である。

そのような変化があるからこそ、「小さい者」や「弱い者」が「大きい者」や「強い者」になる機会が開かれているのであって、それこそが市場原理主義の最大の利点だ。

先日も書いたように、藤原正彦氏の言う「武士道精神」の「卑怯」という概念は、「大きい者」「小さい者」が永久に固定されている世界を考えなければ成り立たない概念なのである。女性は女性として永遠に弱い者である限りにおいて、男が女を殴るのは「卑怯」なのだ。

すると残る問題は、いつのタイミングで「強い者」と「弱い者」を固定するのかということになる。この点で藤原正彦氏の卑怯さが際立ってくる。藤原正彦氏は、自分がベストセラーのエッセイストであり、お茶ノ水大学という権威ある学府の教授であることを自覚している。保守論客としてさまざまなマスメディアでの発言力を持ち、明らかに「強い者」である。

自分自身が「強い者」となっている今、この状態を固定化してしまえば、自分自身は永久に「弱い者」を庇護する立場に立つことができる。愚かな国民たちを高みから見くだし、「強い者」の立場から「武士道精神」という高尚な価値観を説いて、衆愚の蒙昧を開いてやることができる。

結局のところ藤原正彦氏は、自分にとって都合の良い現状を固定化するために、実力主義や市場原理主義など、現状にゆさぶりをかけるような動的な制度を憎悪しているだけなのだ。これが「卑怯」でなくて何だろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/24

いよいよ全国紙が藤原正彦氏『国家の品格』批判を開始

今日の日本経済新聞朝刊5面の「核心」というコラムで、日本経済新聞社のコラムニストが藤原正彦氏『国家の品格』を強烈に批判していた。そろそろ日経新聞のようなマスメディアも、藤原正彦氏を正面から批判する気になってきたということか。

「核心」の論旨は次のようなものである。江戸時代の日本はアダム・スミスが市場原理を理論化する以前から、すでに国内で市場原理にもとづく交易がさかんに行われていた。

「ベストセラーになった『国家の品格』で、著者の藤原正彦お茶の水女子大教授は『経済改革の柱となった市場原理をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化』が損なった日本の品格を『武士道』精神の再興で取り戻せと訴える」

「『市場』活用の長い歴史を持つこの国(=日本)で、改革の試みを十把一絡げに『米国流の市場原理主義』と切り捨てるのは、福沢(諭吉)から日本の商人の例で市場メカニズムの説明を受けながら『西洋の流儀はキツイものだね』と評した幕府高官の現代版ではないか、と思う」

藤原正彦の議論はそうとう胡散臭いぞ、というごく常識的な認識が、日本経済新聞のような全国紙から少しずつ広がっていくことをぜひとも期待したい。そうしやって一人でも多くの日本人が、ありきたりの論理的思考能力と、何よりも「良識」を取りもどし、あの『国家の品格』という奇妙奇天烈なベストセラーはいったい何だったのだろうと、冷静にふり返ることができる日が、一日も早く来てほしいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/23

無料インターネット放送で『エヴァ劇場版』を再体験

アニメーションの話ついでに、いまYahoo!BBで『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2』が何と無料で配信されている。9年前、この「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」のエヴァンゲリオン評論で触れた、例の綾波レイと惣流アスカ・ラングレーと二人だけのエレベーターのシーンも9年ぶりに堪能した。

しかしエヴァと使徒の血みどろの戦闘シーンの多くは、飛ばしながら観ざるを得なかった。僕も年をとってしまったということだろうか。それとも9年前の僕が単に鈍感だっただけなのだろうか。

林原めぐみの『東京ブギーナイト』は今でもほぼ毎週、半分眠りながら聴いているが、先月『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌を歌っていた高橋洋子がゲスト出演していた。二人してよくしゃべることと思いながら聴いていたが、林原めぐみが綾波レイの声を演じてから9年、その間、彼女は結婚して子供も出来ている。

『エヴァンゲリオン』では葛城ミサト役だった三石琴乃、現在は日曜お昼のフジテレビの番組『ウチくる』のナレータや『ドラえもん』ののび太のママ役をやっている彼女も、その間に結婚して子供をもうけている。

10年ひと昔。いずれにせよ『エヴァンゲリオン』をきっかけに「think or die」の読者になった方々も、そうでない方も、何しろ無料なのでどうぞ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

日曜日夜の旅番組に『エウレカセブン』のコテコテBGM登場

土曜日の夜7時、いつも見ている『鉄腕DASH』が憎き野球中継でつぶれていたので、テレビ朝日『旅の香り』という野際陽子司会の番組を流しながらネットをやっていた。すると、お笑い芸人のヒロシが京本正樹と京都を旅するコーナーで、二人が一般の花見客に混じって楽しむ場面のBGMに『交響詩篇エウレカセブン』の劇伴奏曲が流れたではないか。

第17話「スカイ・ロック・ゲート」で、主人公の少年レントンたちが乗る月光号という戦艦の、リフレクション・フィルムと呼ばれる装甲の材料となるスカイ・フィッシュという生き物を捕獲する場面がある。

月光号という戦艦は普通に燃料をつかって飛ぶ以外に、アニメーションの舞台設定である1万年後の地球上の大気に漂っているトランサパランサ・ライトパーティクル(トラパー)という微粒子の浮力を利用して飛行することもできる。

一種のゲリラ部隊である月光号は正規軍と違って戦闘資金が潤沢なわけではないので、燃料を節約するためにできるだけトラパーの浮力を利用して飛ぶために、戦闘で破損したリフレクション・フィルムを修繕する必要があったのだ。

このリフレクション・フィルムの原料がなぜスカイ・フィッシュという生物なのかと言えば、スカイ・フィッシュはトラパー濃度の高い空域に棲息する生物で、体がトラパーの浮力を最大限に利用する組織で出来ているためだ。

そしてこのスカイ・フィッシュという生物は、理由はさだかでないが、人間たちが楽しい気持ちになっているところへ好んで集まってくる。そのためにフィルム職人は月光号の乗組員を誘って、お酒も入れてドンチャン騒ぎをするのだが、そのBGMとしてフィルム職人が流す曲が、『旅の香り』のBGMとして使われていたのだ。

月光号の乗組員はテクノ好きばかりなので、ブラスバンドが演奏するこのコテコテのずっこけ風BGMに「ダっせ~」という感想を漏らすのだが、このBGMは僕の旋律の記憶に間違いがなければ『交響詩篇エウレカセブン ORIGINAL SOUNDTRACK1』に収録されている「永い旅路」「望郷」と同じ旋律の編曲違いである。

しかし『ORIGINAL SOUNDTRACK1』にこの編曲違いのずっこけ風BGMは収録されていない。では『ORIGINAL SOUNDTRACK2』に収録されているかと言えば、それらしき題名の曲が見つからないのでレンタルして聴いてみないことには分からない。

たった一曲のBGMについてこんなに長々と説明することもないのだが、ただ、テレビ番組の音響効果担当は、他局(毎日放送)アニメーションのBGMまでちゃんとチェックしているんだなぁと感心したので、少し突っ込んで書いてみた。

ちなみにこのずっこけ風BGMは『交響詩篇エウレカセブン』放送中に日曜日夜23:30から放送されていた『RADIO Ray=out』では毎週お知らせのコーナーで使われていたので、『エウレカセブン』ファンにはお馴染みのほのぼの曲である。

...いつの間にか僕が『交響詩篇エウレカセブン』のファンになっているように読めるかもしれないが、決してそんなことはない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ほぼ完全に間違っている『国家の品格』の「実力主義」批判

『国家の品格』第一章では、実力主義、資本主義、市場原理主義など、経済の領域での欧米型の考え方がほぼ全否定されている。しかし藤原正彦氏の議論は、ほぼ完全に間違っている。

第二章では、これらの主義を成り立たせている「論理」そのものは全否定されておらず、「論理」だけではダメだという、単なる相対化にとどまっている。ところが第一章の資本主義、市場原理主義に対する藤原正彦氏の攻撃は、ほとんど感情的ともいえる激しさだ。

「実力主義を本当に徹底し始めたらどうなるでしょうか。例えば同僚は全員ライバルになります。ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる。教えたら最後、自分が追い落とされてしまいます。したがって、いつも敵に囲まれているという非常に不安定な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまうのです」(p.25)

この部分など、民間企業で働いた経験のない大学教授らしい、ほほえましいほど素朴な実力主義批判だ。「徒競走で差をつけるのはいけない、みんないっしょにゴールさせましょう」と言い張る小学生教諭と大差ない。

現実には、同期入社どうしのもっとも激烈な実力主義競争にさらされたのは、最近、実力主義がうるさく言われてからの新入社員たちではなく、はるか昔、団塊の世代が新入社員だったころのことだ。何しろ「同期」の人数がケタ違いである。団塊の世代は、大企業であれば何千人という同期入社の中で、出世競争を勝ち抜くために長時間労働を強いられた。

それでも藤原正彦氏が批判するような実力主義の弊害があらわれなかったのは、職位や金銭以外で社員に報いる制度があったからだ。つまり、一生懸命働いていれば、たとえ出世競争で同期に敗れたとしても、一定の満足のいく内容の仕事が与えられる。高橋伸夫氏が『虚妄の成果主義』で書いている未来傾斜式の考え方だ。現時点の金銭ではなく、未来に与えられる仕事の内容で、従業員に報いる、とても日本的なシステムである。

つまり、藤原氏が恐れるように、今さら実力主義を徹底しなくても、日本企業は団塊の世代が新入社員だった時代からすでに実力主義だったのであり、今ごろになって「同僚は全員ライバルになります」と騒ぎ立てるのはまったく筋違いだ。

「ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる」という部分からも、民間企業の人事評価制度が上司と部下のそれぞれに何を期待しているか、藤原正彦氏がまったくの無知であることがよくわかる。

藤原正彦氏は、一つの企業組織の内部での競争のことしか考えていないようだ。しかしすべての民間企業は、企業どうしでも競争している。むしろ企業どうしの競争で優位に立つための手段として、社内で適切な競争が行われるように、人事評価の制度を作っているのだ。

もし本当に「ベテランが新入りにノウハウを絶対に教えなく」なったらどうなるか。たしかにその企業の内部だけを見れば、ベテランは新人に自分たちの地位を奪われる心配をすることなく、安心してその地位に居座れるだろう。ところがそんなことをしてしまうと、次の世代の会社を担う人材がいつまでたっても育たず、他の企業との競争に敗れてしまう。他の企業との競争に敗れれば、ベテランだけでなく、新入りまでが職を失い、路頭に迷うことになる。

だから普通の民間企業では、ベテランたちには新人を育成する職務が与えられており、その職務を怠るとマイナス評価される。「新入りにノウハウを絶対教えない」ようなベテランは、新入りに追い落とされる代わりに、人事評価制度を通じて会社に追い落とされるのだ。

民間企業で働いている会社員なら誰もが知っている、こんな当たり前のことさえ藤原正彦氏は認識していない。にもかかわらず、恥ずかしげもなく、さも実力主義が完全悪であるかのように書いているのだ。さらに続けて藤原正彦氏は書いている。

「世界中の人々が賛成しようと、私は徹底した実力主義には反対です。終身雇用や年功序列を基本とした社会システムを支持します」(p.25)

ここでも藤原正彦氏は大学教授ならではの無知をさらけ出している。終身雇用と年功序列が、どうして実力主義と両立しないと言い切れるのだろうか。むしろ実力主義を徹底しなければ、個々の企業は終身雇用や年功序列を守れない、というのが真実ではないのか。

一度入社した従業員に出来るだけ長く会社に残ってもらおうと考えたとき、一人ひとりの実力にかかわらず全員に同じ給料を支払ったら、何が起こるだろう。給料が実力に見合わないと考える人は転職するだろう。逆に、会社の資金力を無視して、すべての従業員に高すぎる給料を支払い続ければ、会社が存続できなくなり、結果として終身雇用を維持できなくなる。

年功序列についても同じことが言える。年功序列が意味を持つのは、その企業固有のノウハウや暗黙知は、その企業の中で長く働けば働くほど身につくという考え方があるからだ。そして企業固有のノウハウや暗黙知といったものも、れっきとした「実力」の一つである。

そうした「実力」を評価するからこそ、給料の一部分をその企業での勤続年数に比例させる。それが年功序列である。年功序列とは、従業員の実力を正しく評価するための一つの手段なのだ。この観点からの実力主義を徹底させれば、藤原正彦氏の望みどおり、年功序列は強化される。

このように、実力主義があるからこそ、企業の終身雇用や年功序列が可能になるのである。藤原氏の実力主義批判は、ほぼ完全に間違っているということがお分かりいただけるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/22

差別の固定を正当化する藤原正彦氏の「惻隠の情」(後編)

そして「平等」という概念が単なるフィクションであることを論じる箇所でも、女性との関係が登場する。

「私は小学生の時から勉強はめざましく出来ましたが、女性にはいっこうにもてませんでした。いまだに何とかならないかと思っておりますが、世界中の女性の目がくもっているので、なんともなりません。そのうえ絵の才能は小学校からずっと通信簿で『2』でしたし、中高六年間続けて多少は自信のあるサッカーも、ベッカムの足元にも及ばない。夫婦喧嘩では女房にすら敵わない。人の能力はなにひとつ平等ではないのです」(p.89)

まだ『国家の品格』をお読みでない「think or die」愛読者の方々は、藤原正彦氏のひどく「品位」を欠く議論が、いい加減バカらしくなってきたと思うが、いましばらくお付き合い頂きたい。

藤原氏が「平等」という概念に代わるものとして擁護するのは、武士道の「惻隠の情」である。そもそも「平等」とは、差別を撲滅するために生み出された概念だと藤原氏は考えているようだ。

「差別に対して『平等』という対抗軸を無理やり立て、力でねじ伏せようというのが、闘争好きな欧米人の流儀なのです。(中略)我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などはなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」(p.91)

このような「平等」についての議論から、藤原正彦氏が、女性に「弱者」であってほしいと望んでいることは容易に読みとれる。女性に限らず、差別される者が「弱者・敗者・虐げられた者」でなければ、「惻隠の情」の必要性そのものが成り立たなくなってしまうからだ。

これは非常に危険な考え方である。というのは、もし差別される者が「弱者・敗者・虐げられた者」の地位から抜け出そうと努力しはじめたとき、藤原正彦氏は「惻隠の情」をどうするつもりなのだろうか。「闘争好きな欧米人の流儀」で、差別される者たちが立ち上がっても、「惻隠の情」はまだ有効なのだろうか。

「差別を本当に撲滅しようとするなら、平等という北風ではなく惻隠という太陽をもってしなければなりません」(p.91)

女性は「弱者」で哀れむべき存在であるからこそ、「思いやり」という「太陽をもってしなければ」ならない。らい病患者は「虐げられた者」だからこそ「惻隠の情」の対象に値する。

もうお分かりのように、藤原正彦氏のいう差別の解決策「惻隠の情」は、差別される者が、永遠に差別される者である限りにおいて、有効な解決策なのだ。差別される者たちが自ら差別と戦うために立ち上がったとき、彼らはもう「弱者」ではなくなり、「惻隠の情」や「思いやり」という「太陽」をほどこしてやることもできなくなる。

女性たちが黙って「弱者」の地位に甘んじてさえいれば、「惻隠の情」をほどこしてやるのに、下手に自己主張などするからいけないのだ。自分が女性にもてないのは、女性の方が自由を主張するからである。藤原正彦氏の女性観は、「惻隠の情」という考え方に端的にあらわれていると考えていい。

藤原氏の書いているように、欧米の「平等」という概念が「闘争的」なのだとすれば、それは、差別される者がその地位から抜け出す権利を認めているからだ。差別される者は、「惻隠の情」などといった余計なおせっかいをふり払って、その地位から抜け出す権利がある。

ちなみに、藤原正彦氏は第三章で「エリート」養成の必要性を論じているだけでなく、第七章ではインドのカースト制を「国家の品格」の一例としてあげている。「惻隠の情」は、差別する者、差別される者が固定されていてはじめて成立するのだから、当然といえば当然だ。

そして藤原正彦氏は「自由」という概念もフィクションにすぎないとしりぞけるが、その箇所でまたもや女性との関係を持ち出す。

「私が、好きな女性に接近する自由を行使すると、その女性は必ず私から遠ざかる自由を行使する、というのが私のこれまででした。自由と自由が衝突しなかったら、私は夢のような人生を送れたはずだったのです」(p.93)

藤原正彦氏が「自由」「平等」という概念をしりぞけるのは、自由と自由が衝突して結局どちらかが不自由になるから、平等と平等が衝突して結局不平等になるから、という理由だ。

つまり、完全な自由も、完全な平等もないという事実を理由に、自由と平等をかんたんに捨て去り、代わりに「惻隠の情」を持ち出している。女性が自由を行使しなければ、女性が平等を主張をしなければ、女性に「惻隠の情」をもって対することができるのに、差別される者が自由や平等を主張するから、「惻隠の情」が成り立たなくなってしまう。藤原正彦氏はこのように主張しているように見える。

第五章、武士道精神の復活を主張する章で、藤原正彦氏は幼いころ自分に武士道の考えをたたきこんでくれた父親(作家・新田次郎氏)に感謝して書いている。

「しかも、父の教えが非常に良かったと思うのは、『それには何の理由もない』と認めていたことです。『卑怯だから』でおしまいです。で、私はその教えをひたすら守りました。例えば『男が女をぶん殴っちゃいけない』と言ったって、簡単には納得しにくい。現実には、ぶん殴りたくなるような女は世界中に、私の女房を筆頭に山ほどいる。しかし、男が女を殴ることは無条件でいけない。どんなことがあってもいけない」(p.127)

なぜ藤原正彦氏は女を殴りたくなるのか。それはこの直前に書かれてある父の言葉にはっきりと書かれてある。

「父は『弱い者を救う時には力を用いても良い』とはっきり言いました。ただし五つの禁じ手がある。一つ、大きい者が小さい者をぶん殴っちゃいかん。(中略)三つ、男が女をぶん殴っちゃいかん」(p.127)

男は女より無条件に大きく、強い者だから、弱き者である女性を絶対にぶん殴っちゃいかんのである。つまり、藤原正彦氏が女を殴りたくなるのは、弱き者であるはずの女が強く見えることがあるからなのだ。

女性は永遠に弱き者である限りにおいて、武士道の「惻隠の情」の庇護の対象になる。そして弱き者であるから、真剣にとりあうに値しない。女性との関係は私的な領域に押しこんでおいて、必要に応じてユーモアのネタとして使えばいい。それによって公的な領域である『国家の品格』の本論・骨格が揺るぐようなことはない。

ところが、以上に見てきたように、藤原正彦氏は自分の女性観をうっかり漏らすことで、自分の武士道擁護論がきわめて危険な差別固定化の思想を孕んでいることを露呈してしまっている。エリートである藤原正彦氏にとって、やはり女性との関係はつまずきの石(スキャンダル)になっているようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

差別の固定を正当化する藤原正彦氏の「惻隠の情」(前編)

『国家の品格』にはところどころ藤原正彦氏の「品位」を疑いたくなる箇所がある。それは、藤原正彦氏が私的な傍白と、公的な議論を使いわけるという「卑怯」な手をつかっている箇所だ。その多くは、藤原正彦氏が自らの女性観をもらしている箇所である。

「もっとも、いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです。私はまったくそうは思いませんが、そういう意見のあることはあらかじめお伝えしておきます」(p.12)

もちろん著者自身は、ユーモアのつもりで書いているのだろう。しかし「女房」という私的な部分をもち出すことで、国家の品格を論じている公的な側面からの逃げ道をつくっている。「女房」が語っていることを通じて、自己をおもしろおかしく戯画化し、真面目な反論をさけようとするその方法は、かなり「卑怯」だ。

第三章で藤原正彦氏は民主主義をしりぞけている。その理由は次のとおりだ。

「過去はもちろん、現在においても未来においても、国民は常に、世界中で未熟である。したがって、『成熟した判断が出来る国民』という民主主義の暗黙の前提は、永遠に成り立たない」(p.83)

そして「国民は永遠に成熟しない。放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう。それを防ぐために必要なものが、実はエリートなんです」(p.83)ということで、藤原正彦氏はエリート養成の必要性をうったえる。

この部分、よくよく読んでみるまでもなく、藤原正彦氏は正面から読者を罵倒している。「お前らは永遠に未熟な凡人だ」という具合に。本書の内容を支持している読者の方々は、みな自分のことを「エリート」だと考えているのだろうか。だとすれば藤原氏の書いていることは当たっていることになる。「国民は永遠に成熟しない」のだ。

そして問題の女性観をもらす箇所がくる。

「イギリスの政治家には真のエリートが多いので、賄賂や汚職の話はほとんど聞きません。国民のために命をささげるような者は、国民を欺くようなことはしないのです。女性問題のスキャンダルは時々あります。こちらはどんな教育をしてもなくなりません」(p.87)

藤原正彦氏は本書だけでなく、他の著書でも教育の重要性をくりかえし説いている。ところが、女性問題のスキャンダルだけは、どんなエリート教育をしてもなくならないのだそうだ。女性との関係は男性にとっては、「国民のために命をささげるような」仕事の世界とはまったく別の世界ということなのだろう。

女性関係をふくむ私的な領域と、仕事に命をささげる公的な領域、その二つを藤原正彦氏ははっきり分けている。そして、公的な領域の問題には真剣に、それこそ「命をささげるように」取り組むが、「女性問題」のような私的な領域の問題には、いともかんたんにさじを投げている。

「女房」を引き合いに出している部分にも同じことが言える。「女房」との関係は藤原正彦氏にとって私的な領域であり、「女房」の意見に真剣にとりあう価値はない。話のはじめに読者の心をつかむユーモアとして利用する価値しかない。

国民のために命をささげるエリートも、私的な領域で女性問題を起こすことは許される。だとすると、藤原正彦氏が「国民」と言うとき、そこに女性は含まれていないと考える必要がありそうだ。もし女性が国民の一人であるなら、「国民を欺くようなことはしない」という「真のエリート」の定義と矛盾してしまう。

女性は国民ではないから、「女房」を欺いて他の女性と「スキャンダル」を起こしても「真のエリート」の名に傷はつかない。女性に代表される私的な領域は「真のエリート」にとっての逃げ場であり、藤原正彦氏の議論にとっても逃げ場になっている。

このように藤原正彦氏は、私的な領域(女性との関係)と公的な領域(男としての仕事)とで、二つの価値基準を使いわけている。公的な領域では許されないことも、私的な領域では許される。この二重規範は、藤原正彦氏の実に「卑怯」な議論の進め方である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

論理を批判しながら論理を駆使する藤原正彦氏の「卑怯」

『国家の品格』の「はじめに」で、著者の藤原正彦氏は執筆動機にふれている。藤原正彦氏は米国の大学で3年間教鞭をとって帰国した後も、日本の大学の教授会で米国流の合理主義をふりかざした。「数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはそほどのことでもない、と考えるようになりました」(p.4)。

これは「論理」(=欧米の合理主義)そのものが悪いのではなく、日本という環境と「論理」の相性が悪かった、というだけの話だ。ところが驚くべきことに藤原正彦氏はこの体験から「論理」そのものに欠陥があるのだという、完全に間違った結論を導き出す。

そもそも藤原正彦氏を本書の執筆に駆り立てているのは、「いま日本は荒廃しているとよく言われますが、世界中の先進国はみな似たような状況です」という現状認識である。今の世の中はおかしくなっている。おかしくなっているからには何か原因があるはずだ。その原因は何だろうか。そうだ、「論理」偏重の考え方がその原因だ。

本書の前半では、藤原正彦氏は「論理」を全面的に否定しているわけではない。「論理とか合理とかいうものが、非常に重要なのは言うまでもありません。しかし、人間というのはそれだけではやっていけない」(p.20)そして「論理」を補完するものとして「情緒と形」というものを持ち出している。

ところが巻末に近づくにつれて、いつの間にか、「論理」とその産物である「自由」や「平等」といった思想よりも、「論理」を補完する「情緒と形」の方が優れているということになってしまう。

「現代を荒廃に追い込んでいる自由と平等より、日本人固有のこれら情緒や形の方が上位にあることを、日本は世界に示さねばなりません。自由、平等、市場原理主義といった教義は、共産主義がそうであったように、いかに立派そうな論理で着飾っていても、人間を本当に幸せにすることはできないからです」(p.185)

であれば、いっそのこと「論理」など捨てて、「情緒と形」だけで生きていったらどうだろうか。本当に藤原正彦氏の主張するように、「論理」そのものには欠陥があるが、「情緒と形」そのものには欠陥がないのだとしたら、欠陥のないものを原理にして生きる方が良いに決まっている。

しかも藤原正彦氏によれば「情緒と形」を原理として生きることができるのは、世界中で唯一「日本人」だけらしいのだ。したがって「時間はかかりますが、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと私は思うのです」(p.191)という言葉で本書は締めくくられることになる。

最初は、米国流の「論理」が日本の環境と相性が悪かっただけの話が、最終的には「情緒と形」を体現できる日本人しか世界を荒廃から救えないという、ものすごい話になってしまっている。最初は「論理」を相対化するだけだった議論が、いつの間にか日本的「情緒と形」至上主義にすりかわっている。

ところで「わが民族しか世界を救うことができない」という考え方を、選民思想という。ナチス・ドイツが「アーリア人こそ世界でもっとも優秀な民族である」と主張していたのと、藤原正彦氏の『国家の品格』の主張に大きな違いはない。

藤原正彦氏自身、「論理」に欠陥があると言っているのだから、藤原正彦氏の「論理」に欠陥があるのも無理はない。というより、藤原氏の議論は「論理」にさえなっていない。もちろん藤原氏はわざと非論理的な文章を書いているに違いない。いったん「論理と合理」を否定してしまえば、後は何をどうこじつけようが構わないというわけだ。

ところが藤原正彦氏はたしかに本書の読者を説得しようとしている。いったいどういう方法で藤原氏は読者である僕らを納得させようとしているのだろうか。世界を本格的に救えるのが日本人しかいないということを、どうやって藤原正彦氏は説得しようとしているのか。

藤原氏が頼りにしているのは、やっぱり「論理」の力なのではないか。たしかに『国家の品格』はいたるところで論理的な破綻をきたしている。それでもさまざまな事例や引用を駆使して、読者を納得させようとしている。

藤原正彦氏が「論理」に欠陥があると本当に信じているなら、なぜ190ページ以上もかけて「情緒と形」の「論理」に対する優位を説得する必要があるだろうか。最初にひとことだけ自分の主張を書いて、それで終わりにすればよいのではないか。

一つのテーマについて藤原正彦氏がこれだけの紙面を割いているのは、そして藤原氏がこの『国家と品格』だけではなく他にも多数の書物を書いているのは、他人の意見を変えるには(少なくとも「大人」の意見を変えるには)、「論理」がなくてはならないと分かっているからではないのか。

僕ら藤原正彦氏の読者は、途方にくれてしまう。藤原正彦氏は「要するに、重要なことの多くが、論理では説明出来ません」(p.49)と書いているのに、僕らにむかって「情緒と形」が「論理」よりも優れているということを、延々と「論理」で説明しようとしているように見える。決して頭ごなしに「ならぬことはならぬものです」(p.48)などと書き捨てたりせず、根気よく長い「論理」で僕らを説得しようとしている。

『国家と品格』の読者は、「論理」の限界を声高に主張する藤原正彦氏と、大いに「論理」を頼りにして僕らを説得しようとしている藤原正彦氏と、どちらの藤原正彦氏を信じればいいのだろうか。

この疑問に対して、藤原正彦氏はきっとこう答えるだろう。「そういうのが『論理』偏重だと言っているのだよ」。確かに。一方で「論理」を否定しておきながら、他方で「論理」を駆使するという方法をとれば、藤原正彦氏は何でも言いたい放題、書きたい放題である。誰がどのような方法で反論して来ようが、藤原正彦氏は「だからお前は『情緒と形』ということが分かっていないのだ」というひとことで、その反論をかんたんにしりぞけることができる。

このような藤原正彦氏のやり方を「卑怯」と言わずして、何と言えばいいのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/21

Notes/DominoのアクションバーをJavaアプレットに切り替える方法

今日は仕事で下らないことに時間を費やしてしまった、IBM製のグループウェアNotes/DominoのWebブラウザ対応アプリケーション開発で、どうやったらNotesのアクションバー(Action Bar)と呼ばれるGUI部品を、HTML形式からJavaアプレットに変更できるのか、その方法を探し当てるまでに30分近くもかけてしまった。

DominoサーバのHTTPタスクのログデータベース(domlog.nsf)をWebブラウザから開くと、アクションバーがJavaアプレット表示になるので、その設計をDomino Designerで覗いてみても、どこに設定があるのか分からない。

仕方なく自作のデータベースにそのビューだけをコピー・貼付けしてみると、やはりアクションバーはJavaアプレットになっている。ということはビューの設計要素のどこかにHTML形式からJavaアプレットに切り替える箇所があるはずなのだ。

どうやっても分からないので、やむを得ずGoogleでインターネットを探しまわった結果、ようやく発見した。しかし発見した日本IBMのWebサイトの文書には「設計」→「アクションバーのプロパティ」をクリックして、HTML形式からJavaアプレットに変更すると書いてあるだけだ。

きっとDomino Designerの画面最上部のメニューバーの「設計」のことなのだろうと推測し、フォームの設計を開いたり、ビューを開いたり、いろいろとコンテキストを切り替えてみると、確かに「アクションバーのプロパティ」という項目がグレイアウトされた状態で出現することがある。ところが一向にそのグレイアウトがなくならならず、マウスでクリックできる状態になってくれない。

そうやって探し回ること10分以上、フォームやビューの設計を開いて右上のアクションボタンのフレーム部分をクリックしたときだけ、「設計」→「アクションバーのプロパティ」がクリックできるようになることが分かった。しかもアクションボタンのフレーム部分で右クリックしても「アクションバーのプロパティ」が表示される。

クリックして表示された「アクションバー」のプロパティボックスで、「HTML」から「Javaアプレット」に切り替えると、たしかにWebブラウザからそのフォームやビューを開いたとき、画面最上部のアクションボタン部分がJavaアプレットに変更された。

いい加減、Notes/DominoのWebインターフェース全般を、読込みに時間がかかり、クライアントパソコンの環境によっては正常に動作しないJavaアプレットから、全面的にDHTMLかAjaxに書き換えてほしいものだが、IBMのNotes/Domino開発チームはいつになったらそれをやってくれるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

藤原正彦著『国家の品格』を批判するための前提条件

まず藤原正彦氏の『国家の品格』を粉砕するにあたって、藤原氏が武士道精神に反するような極めて「卑怯」な防御線を張ってあることを知っておこう。藤原氏は読者からの反論をあらかじめ封じるために、『国家の品格』の第二章「『論理』だけでは世界が破綻するのなかで、「言うまでもなく、論理は重要です。しかし、論理だけではダメなのです」という論理を展開している。

もし藤原氏の『国家の品格』に僕らが論理的に反論したとすれば、藤原氏はきっとこう反論するだろう。「その論理至上主義こそ、私が否定している当のものなのだから、あなたの反論は無効である」と。

しかし第二章を読めばわかることだが、藤原正彦氏は「『論理』だけでは世界が破綻する」ということを、できるだけ論理的に説明しようと努力している。「論理だけではダメだ」という命題について「これからそれを証明したいと思います。理由は四つあります」と宣言した上で、(1)論理には限界があること、(2)最も重要なことは論理では説明できないこと、(3)論理にはそれ自体論理的に証明できない出発点が必要なこと、(4)長い論理は信頼性が低いことの4点をあげている。

藤原氏がやっているように、論理の限界を論理的に説明することを認めてしまうと、ふつうの論理的思考能力がある人なら、すぐに次のような疑問がわいてくるだろう。では、いったいどこまでが論理的に説明してもいい範囲で、どこからが論理的に説明してはいけない範囲なのか。その線引きは誰が決めるのか。その線引きをする権利は誰にあるのか。

全ての人間には自由にものを考える権利があるとすれば、その線引きを最終決定する権限は誰にもない。それぞれの人が自分なりに線引きをすればいいだけのことで、藤原氏の身勝手な線引きにしたがう必要はない。

しかし藤原氏はおそらく自分の線引きこそが正しいと強弁するだろう。そうでなければわざわざ『国家の品格』という本を書く動機が見当たらない。現に藤原氏自身が本書の冒頭でこう書いている。

「私が確信していることは、日本や世界の人々が確信していることとしばしば異なっております。もちろん私ひとりだけが正しくて、他のすべての人が間違っている。かように思っております」(p.11)。

これで『国家の品格』を粉砕する条件がととのった。藤原氏はあくまで自分ひとりだけが正しく、僕ら全員が間違っていると主張しているのだから、僕らは藤原氏ひとりだけが間違っていると反論することができるわけだ。

それにしても「私ひとりだけが正しくて、他のすべての人が間違っている」などということを、一般の書店で流通することがあらかじめ分かっている原稿に書いてしまえる藤原正彦氏は、常軌を逸している。ただただ、常軌を逸している。

| | コメント (0) | トラックバック (1)