« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »

2006年4月の記事

2006/04/30

梅田望夫氏が求める新たな「権威」とは

この「愛と苦悩の日記」の『ウェブ進化論』批判について、ようやくトラックバックを頂くようになった。今日『いっつあんのひとり言』というブログから頂いたトラックバックの記事「『ウェブ進化論』は権威主義か?」に書かれていた反論に、ここで反論しておきたい。

まず「いっつあん」さんは、僕が、『ウェブ進化論』がベストセラーになっている原因は、梅田氏の学歴や経歴に対する日本人の権威主義的な反応だ、と書いていることに反論して、「まず梅田さんが興味を持たれているのは東大の院卒だからというわけではないと思う。むしろシリコンバレーで長年コンピュータ界の変化を見てきた"経験"、また"はてな"のプロジェクトに参加していることなどの方がよっぽど重要だろう」と書いている。

しかし、シリコンバレーは、アメリカという国に対して複雑な感情をもつ日本人にとって、そしてITに強くない人々にとって、立派な「権威」である。シリコンバレーでの日本人としては先進的な活躍、その後の「はてな」という斬新なITベンチャーでの活躍、これがITに弱い多くの日本人にとってなぜ「権威」でないと言えるだろう。むしろ筑摩書房はそのような梅田氏の経歴に、ネット世界を語るだけの「権威」があると見て、白羽の矢を立てたと考える方が自然だろう。

また「いっつあん」さんは、僕が、ネット上の総表現社会では、多種多様であるべき意見が一つの意見に集約されていくと書いていることに反論して、「梅田さんは別に日本人の意見が多種多様になるとは本書で述べていない。現在のブログの様子は結果的に多種多様ではない、権威主義的な日本人の姿を率直に反映しているだけではないか」と書いている。

この点は「いっつあん」さんの書かれているとおりだ。梅田氏はたしかにウェブによって日本人の意見が多種多様になるとは書いていない。しかし梅田氏は『ウェブ進化論』の第四章などで、玉石混交の状態が「玉」へと集約されていく期待を明記している。それは既存の権威と戦う必要があるからだ。

同書のp.147で梅田氏は次のように書いている。既存の権威は「『石』の悪質さを過激に指摘する方向に走ったり、玉石混交の面倒さを切々と論じたりする」。そのような「権威側が指摘する諸問題を解決するためのテクノロジーは、日進月歩で進化している。既存メディアの権威が本当に揺らいでいくのはこれからなのである。」

この部分をよく読んでみると、梅田氏が玉石混交を「玉」へ集約すること自体は善であると、何の議論もなく前提としてしまっていることに気づく。梅田氏が問題にしているのは、その玉石混交から玉を選別する権利を、既存の権威が独占していることであって、玉石混交から玉を選別すること自体ではない。

依然として権威主義の強い日本において、このような梅田氏の議論は、ネットをもう一つの「権威」にすること以外の何を意味するだろうか。既存の権威は「玉」を選び出す権利を行使することで「権威」たりえているのだから、それをネット世界が持つようになれば、ネットは新たな「権威」になる。わかりやすい議論である。

その証拠に、梅田氏がネット世界の言論を描写するとき、「甲子園」とか「コンテンツの自由競争」などといった表現を使う。これは多種多様な意見が、多種多様なままにとどまるのではなく、その意見の中から「勝者」=「玉」が決まることを梅田氏が期待していることを示している。

梅田氏は、グーグルのページランキングやWikipediaのような仕組みが、「玉」を選び出すためのテクノロジーであると明言している。つまりこれらの新しいテクノロジーは、既存の権威から「玉を選別する」権利を奪うために必要なテクノロジーだと明言しているのだ。これが新たな形の権威主義でなくて何だろうか。

もし梅田氏が本当にネットを新たな「権威」にしたくないのであれば、単に次のように主張すればよかったのではないか。「どうして『玉』を選び出す必要などあるのか。『玉』か『石』かを決める権利は誰にもない。ただそこには永遠の対話があるだけだ。『玉』か『石』かを決めなきゃいけないなんて、それこそ権威主義だ!」と。

もちろん政治的な意思決定の際は、民主主義は多数決の原理に従わざるを得ないが、ネット上の議論で一体どうして「玉」か「石」かを決める必要があるのだろうか。なのに梅田氏は、それを決める必要があると明記している。そして近い将来それを決めるのが、既存の権威ではなくネット世界であるという期待を表明している。梅田氏は新たな権威による「玉」の選別をはっきりと求めているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

敢えて「敢えて藤原正彦氏を弁護する」に反論する

とある読者の方から、藤原正彦著『国家の品格』を擁護するブログをご紹介いただいた。Leiermann氏の「Niemals-Gasse」というブログだ。その記事はこちらの「敢えて藤原正彦氏を弁護する」である。

Leiermann氏の藤原正彦擁護をひとことで要約すると、氏の書くものはすべて「寝言ポエム」だから、そもそも真面目に反論するに値しない、となる。「寝言ポエム」という言葉は知らなかったが、はてなダイアリーのキーワード定義によれば、「カフェやモスバーガーの店先によくあるような、店員によって黒板に書かれた、自意識過剰で上滑りした見るも痛々しいひとことポエム。うっかり読むと体感湿度が上昇する」とのことだ。

大阪のお笑いが好きな方に分かりやすく言えば、藤原氏のエッセーはすべて、ひとりボケ、ひとりツッコミなのだから、真面目に反論すること自体、藤原氏の「主張の最も重要な部分」、つまり「自然言語における論理の限界の指摘」をかえって肯定することになるというわけだ。

しかし、Leiermann氏自身がこの記事への「ヒンカク」氏のコメントに対する返答の中で認めているように、「しかし現在、その『床屋政談』レベルの話が真面目に受け止められてしまっているし、藤原氏がそれを敢えて押しとどめようとしないという現実は確かにあります。問題があるとすればそこだと思います(この件に関しては、当該記事を書いた当初は無自覚で、hazama-hazama 氏に指摘されて気付いた次第です)」

つまり、Leiermann氏のように、余裕をもって藤原正彦氏のエッセーを楽しめる知的水準にある「エリート」は非常に限られているのだ。Leiermann氏は、藤原正彦氏のエッセーは「何とも言えぬ諧謔味を醸成し、多くの愛読者を獲得しているわけである」としているが、それは事実に反している。

Leiermann氏は大学院生のようだから、ごく普通の民間企業につとめる僕とは全く違う環境で生活している。大学に残って研究を続ける人は「大学の研究者だって会社員と大して変わらず俗っぽい」とよく口にするが、申し訳ないが、民間企業の研究開発部門以外の部門で働いた経験のない人たちに、自ら「エリート」であることを否定する権利はない。

「エリート」ではない一般の日本人の大半が『国家の品格』を「真面目に」うけとっているの、はれっきとした事実である。

全国紙に掲載される『国家の品格』の広告に登場する読者の感想も、あえて「真面目な」反響にしぼられている。出版社やマスコミは決して『国家の品格』を、藤原氏一流の諧謔としては取り上げない。藤原氏がゲストとしてフジテレビ日曜朝の報道番組に出演したときも、竹村健一氏は『国家の品格』をあくまで「真面目に」紹介しているのである。『国家の品格』を良書と考える一般の日本人の大半は、藤原正彦氏の議論を「真面目に」うけとめているのだ。

僕が『国家の品格』に「真面目に」反論する理由はまさにここにある。一般の日本人は藤原正彦氏のエッセーを「真面目に」うけとめているのだから、それを解毒するには、僕のような「エリート」と一般人の中間にある人種が、藤原正彦氏を「真面目に」やっつけなければならないのだ。

Leiermann氏のような「エリート」に対してあえてキツいことを書くとすれば、「エリート」が藤原氏のエッセーを知的諧謔だと悦に入って「真面目に」とりあわないことは、「エリート」としての知的誠実さを欠いている。

たとえば僕の大学時代の師である高橋哲哉氏のように、飽くことなく「真面目に」靖国問題を議論しようとしている「エリート」と比較すれば、残念ながらLeiermann氏が知的誠実さを欠いていることを指摘せざるをえない。

Leiermann氏の書いているように「実際この本を錦の御旗にして、自説の補強に使っている俗物が社会の上層部に多くいるのは確か」であり、のみならず、この本を時節の補強に使っている俗物は社会の中層部にも下層部にもたくさんいるのだ。

Leiermann氏の擁護は、藤原正彦氏のエッセイストとしてのスタイルの解説にはなっても、エリートの一人として氏が知的誠実さを欠いていることの言い訳にはならない、ということだ。この意味でも、藤原正彦氏の方法論はやはり「卑怯」だと言わざるを得ない。

この記事も真面目すぎる内容で申し訳ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

梅田望夫著『ウェブ進化論』の「アドセンス」評も完全な間違い

梅田望夫氏は『ウェブ進化論』第二章で、グーグルのアドセンス事業は「全く新しい『富の分配』メカニズム」(p.77)だと書いているが、これも完全な間違いである。

梅田氏は「リアル世界における『富の分配』は、巨大組織を頂点とした階層構造によって行われるのが基本であるが、その分配が末端まであまねく行き渡らないところに限界がある」(p.77)と書いている。

それに対してアドセンスは、個人の小さなWebサイトにも、そのサイトに頻出するキーワードに応じた広告を自動的に表示することで、「リアル世界における『富の分配』メカニズムの限界を超えようとしている。上から下へどっとカネを流し大雑把に末端を潤す仕組みに代えて、末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組みを作ろうとしている」(p.77)というのだ。

どうやら梅田氏は市場経済の基本の基本さえまったく理解していないようである。梅田氏は僕らの住んでいるこの市場経済の世界では、カネは上から下へどっと流れるのだという。かくも不正確な経済観しか持ち合わせていないのなら、梅田望夫氏は決して経済について書くべきではない。自分で自分の顔に泥を塗るだけだ。

梅田氏の書いていることとはまったく逆で、僕らが生活している市場経済こそが「末端の一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組み」そのものである。梅田氏はいったい何を勘違いしているのだろうか。おそらく梅田氏は工学部出身で、社会人になってからも経済学の教科書を一冊も読んでいないのだろう。

市場経済はそのような仕組みを、貨幣流通と価格形成の仕組みを通じて実現している。当たり前のことだが、市場経済に参加するすべての人たちは、すみずみまで一人残らず富の分配をうけている。というより、富の分配をうけることで市場経済に参加している。それも、各人の「貢献に応じて」である。

社会に出て働いていれば、僕らは所属する組織をつうじた社会への貢献に応じたお給料をもらう。子供たちは一般的には養育者から富の分配をうける。定年退職した人たちは年金をもらう。さまざまな事情で仕事につけない人には、社会福祉制度を通じて税金から富が分配される。

もちろん、子供の養育費、年金、社会保障などは、市場経済というよりは「市場経済の修正」と言った方がいいかもしれないが、いずれにせよ僕らの生きている現実のケインズ的な市場経済では、富の分配システムの一部分であることには違いない。

そして分配された富でモノを買ったりサービスをうけたりすることで、その富は今度はモノやサービスを提供する人たちや組織に分配される。富が組織に分配された場合は、その組織の中の給与規定などの分配ルールにしたがって、経営者や従業員にさらに富が分配される。

要するに「カネは天下の回りもの」という至って当たり前のことで、貨幣という形で富は人から人へと循環し、その循環過程にあるモノやサービスの価格は需要と供給のバランスで決まり、循環する貨幣の量は中央銀行が調整している、ということだ。梅田望夫氏が誤解しているように「カネは上から下へどっと流れる」わけでも何でもなく、循環しているのである。

また、梅田氏は富の分配システムを論じるこの箇所で、特異な例を引き合いに出している。

「たとえば時価総額二兆円の製造業ならば、下請け企業群、素材・部品納入企業、販売会社や保守サービス企業など、その企業を中心とした巨大な経済圏が形作られ、地域経済を潤す効果が大きい。その感覚がグーグルには全くない。その代わりに、全く新しいグーグル経済圏をネット上に形作ろうとしているのだが、製造業の経済圏に慣れ親しんだ私たちにはそれが見えない」(p.76)

何も見えていないのは梅田氏の方なのである。大手製造業の下請け企業は、たしかに顧客である大手製造業から富の分配をうけている。しかし、大手製造業を頂点とするピラミッド構造で富が分配されていくという見方は、完全な誤りだ。

なぜなら、その大手製造業は自社製品の消費者(個人または組織)から富の分配をうけるからだ。ここにあるのはピラミッドでも何でもない。さまざまな個人や組織が、おたがいに富を分配しあう網の目(ウェブ)構造である。自社の販売先が購買元でもあるというのはよくある話だ。

大企業が「中心」になって「巨大な経済圏」が作られているわけでは決してない。規模の異なるさまざまな組織と無数の個人が、あるときは組織の構成員として、あるときは一人の消費者として、刻々と変化する網の目状の取引構造を形作っているのである。こんなことは、市場経済学の常識ではないのか。

グーグルのアドセンスは「富の分配」という観点からすると、種々のインターネット広告の一つに過ぎない。他のインターネット広告代理店と差別化するために、広告を出稿するWebサイトの頻出キーワードをもとに、表示する広告を自動選択するという便利な機能をつけている。それだけのことであって、「全く新しい経済圏」を形作ろうとしているわけでも何でもない。

しかもWebサイトの頻出キーワードを自動判別すると言っても、所詮は同一ドメイン単位であり、しかも以前ここに書いたように、グーグルのロボットが文脈を含めて自然言語を理解しているわけではない。キーワードの出現頻度を統計処理しているだけのことである。

さらに言えば、アドセンスだけで自活できるようなWebサイトを運営しようと思えば、そもそもアドセンスなどに頼らずとも十分自活できるくらいの、特定分野での専門知識か、それだけのWebサイトを運営する時間的余裕を作り出すための経済的余裕(たとえば過去に投資した不動産が勝手に稼いでくれる等)が必要なことは当然である。

アドセンスはせいぜい小遣い稼ぎ程度の富の分配にしかならず、僕らが生きている市場経済の巨大な交換(取引)の網目に、部分的に編みこまれているに過ぎない。

このような僕の考えはアドセンスを過小評価しているだろうか。仮にアドセンスが本当に「全く新しい富の分配システム」なのであれば、貨幣の流通速度が飛躍的に高まり、グーグルの利用者が比較的多い先進諸国が未曾有の好景気に沸くはずではないのか。

経済の基本をまったく理解していない梅田望夫氏のアドセンス評は、完全な間違いであることがお分かりいただけたと思う。梅田氏自身、『ウェブ進化論』がベストセラーになることで、大手出版社のリアル世界への大量の広告費投入の恩恵をうけたのだから、今ならアドセンスを過大評価したことを実感をもって訂正できるに違いない。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/29

梅田望夫著『ウェブ進化論』の偏ったグーグル擁護論

今回は、グーグルが自らの企業理念「ウェブ上の民主主義は機能している」と明らかに矛盾していることを論証してみたい。それによって、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』の偏狭さも明らかにしたい。

梅田望夫氏は『ウェブ進化論』の第二章で、グーグルがWeb2.0時代の理想的な企業であるかのように称揚しているが、その議論はやはり狭い視野と激しい思い込みにもとづいている。

たとえばグーグルのWebサイトに掲載されている同社の企業理念にあたる文章「10 things Google has found to be true」(グーグルが真実だと見出した10の事柄)の中に、「Democracy on the web works.」(ウェブ上の民主主義は機能している)という項がある。このグーグルの理念を擁護して、梅田氏は次のように書いている。

「権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、『世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか』というたった一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイトに張り巡らされるリンクの関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランキング・アルゴリズムなのである。リンクという民意だけに依存して知を再編成するから『民主主義』。そしてこの『民主主義』も『インターネットの意志』の一つだと、彼らは信奉しているのだ」(p.54)

梅田望夫氏はこの理念に賛同するだけでなく、それをもっと強化しようと読者に呼びかけている。「ITの進歩によってはじめて可能となる新しい仕組みを是とし、人間の側こそそれに適応していくべき」(p.55)という視点で、グーグルという会社は「世界を作り直そうとしている」(p.55)と書いた上で、グーグル擁護論を展開する。

この部分で梅田氏は、ITが主人、人間が奴隷になるべきだと恥ずかしげもなく明言しており、梅田氏の主張はヘーゲルの弁証法以前の水準にとどまっており、あまりに素朴すぎて痛々しいほどだ。

しかしグーグルが提供しているページランキング機能やアドワーズ、アドセンスなどのサービスが、本当に「民主主義」の前提となる言論の自由を担保する仕組みになっているかどうかは、きわめて疑わしい。

たとえば昨日も書いたように、ブログ上の『ウェブ進化論』書評のほとんどは肯定的評価になっている。その肯定的評価が同書の売上増につながり、さらに肯定的な評価のブログ書評が増えるという循環がはたらいている。

それによって『ウェブ進化論』が売れ続けていることは、ほぼ事実と認めていいだろう。チープな経済誌風に表現すれば、これこそWeb2.0の新しい「口コミ」マーケティングなのだ!!となる。

この循環の過程で、グーグルのページランキングという仕組みがどんな役割を果たしているかは、少し考えればわかる。

Aさんがブログで『ウェブ進化論』は良いと書く。Bさんもたまたま同書を読んでいて、グーグルでAさんのブログを見つけると、「同じ意見の人がいた」と、喜んでトラックバックでAさんのブログから自分のブログへリンクを張る。

ブログ作成者どうしでは、トラックバックされたらお返しするのが、ネット世界ではすでに慣習になっているので、Aさんもトラックバックして、Bさんのブログから自分のブログへリンクを張る。

ここにCさんという人がいて、『ウェブ進化論』など根拠薄弱で読むに値しない本だという書評をブログに書く。Cさんの書評はAさんやBさんのような人からは無視され、リンクが張られることはない。

このようにして、開始時点で『ウェブ進化論』を擁護するブログが少しでも多ければ、トラックバックとそのお返しによる相互リンクが、擁護派の間でどんどん張られていき、グーグルのページランキングの仕組み上、それら擁護派のブログが「ウェブ進化論」というキーワードでグーグル検索したときの上位を独占することになる。これは今、事実として起こっていることなので、グーグル検索して確かめて頂きたい。

逆に『ウェブ進化論』批判派のブログは、相互リンクのネットワークから排除されたままなので、グーグルのページランキングで徐々に下位に押しらやれていく。

グーグル検索で上位のページは閲覧されやすいので、ますます閲覧されるようになり、下位のページは無視されやすいので、ますます無視されるようになる。上位ページに『ウェブ進化論』擁護派が多いという事実が、ますます擁護派を増加させ、世論を擁護派へと収斂させていく。

このようにしてグーグルのページランキングという仕組みは、最初はわずかだった擁護派、反対派の差を、相互リンクの増殖がページランキングを上げるという好循環を通じて、人々の意見を多数派の方向へとどんどん強化していく働きをするのだ。

補足しておくと、相互リンクというブログ間のリンクは、「ネットワーク効果」によってグーグルのページランキングシステムに、単に一次関数的な影響を与えるだけでなく、指数関数的な影響を与える。

たとえば5個のブログがお互いにリンクを張ると、合計10本のリンクができ上がるが、これが倍の10個のブログになると、単に2倍の20本ではなく、45本の相互リンクができ上がる。現実には全てのブログがお互いにリンクを張るなどということは起こらないが、それでも相互リンクの相乗作用で、類似した内容のブログのページランクを押し上げる効果をもつのは事実である。

仮に『ウェブ進化論』の場合のように、著者自身のブログのページランキングが始めから高い場合、『ウェブ進化論』擁護派のブログが驚くべき速度で増え、逆にこの「愛と苦悩の日記」のような『ウェブ進化論』批判派のブログがますます無視されるのは、当然といえば当然の帰結なのである。

では少数派のブログが巻き返しをはかる方法はないのかと言えば、グーグルを使って一つだけ方法がある。それはアドワーズの広告主になることだ。たとえば誰かが「銀河鉄道999」というキーワードでグーグル検索したときに、検索結果画面の右端に、自分のブログの広告が表示されるようにする。「銀河鉄道999」という検索キーワードの広告主になるのである。

誰かがそのキーワードでグーグル検索して、自分のブログの広告をクリックするたびに広告料が発生し、後からまとめてクレジットカードでグーグルに支払う仕組みになっている。

ただし市場原理にもとづいて、人気のあるキーワードには非常に高い値段がつく。したがって個人で買える検索キーワードはマイナーなものに限られるが、それでもこの「愛と苦悩の日記」は一時期「銀河鉄道999」「Notes/Domino」などのキーワードの広告主になって、限られた予算の中で少しずつ読者を増やそうと努力していた。

ところが、である。ある日グーグルから突然メールが届き、あなたのWebサイトは不適格であるとして広告の出稿を止められてしまったのだ。

グーグルはアドワーズ事業において広告主を独自の基準で選別することで、少数派の意見がネット上で認知を得る手段を奪っていると言える。これはグーグルの「Democracy on the web works.」という企業理念と完全に矛盾している。

実はグーグルのもう一つの広告サービス「アドセンス」や、ページランキング機能でも同様に、グーグルがサービスの利用者に突然、利用停止を告知したり、特定のWebサイトをページランキングから削除するなど、事実上の言論統制を行っている。また、グーグルが中国でのビジネスにおいて、特定の宗教団体のWebサイトをページランキング機能から除外しているのは周知の事実である。

佐々木俊尚氏の『グーグル―Google既存のビジネスを破壊する』(文春新書)には、このようなグーグルの負の側面も取り上げられているが、梅田望夫氏は一切ふれていない。

梅田望夫氏のグーグルのアドセンス事業についての説明や、グーグルの組織マネジメントをとりあげた部分にも、初歩的ともいえる誤りがあるのだが、それはまた次回、詳細に論じることにする。

『国家の品格』と同じように『ウェブ進化論』もほとんど「妄想」と呼びたくなるほど救いがたい独断や、致命的な矛盾が散見され、ほとんどまじめに論じるに足りない書物である。しかしそんな書物がベストセラーになっている以上、僕ら少数派はきっちりとブログで批判を展開しつづけなければならない。それこそがネット上の真の民主主義だと、僕は考える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/28

梅田望夫氏の「総表現社会の1000万人」のまやかし

梅田望夫著『ウェブ進化論』をグーグルで検索してみると、個人ブログの書評はほぼ全て肯定的評価になっていて非常に不気味だ。『国家の品格』でも同じことが起こっている。

梅田氏は『ウェブ進化論』第四章で、「不特定多数無限大」の人々がネット上の言論に参加することは衆愚を招くという意見に対して、「総表現社会の1000万人」という考え方で反論する。ブログでネット上の言論に参加している「総表現社会の1000万人」は、エリートと大衆の中間層にあたる。

そして、エリート/ブログ発信者/大衆という、この三層構造のウェブ世界では、もはや少数のエリートが大衆を啓蒙するという図式は成り立たないと梅田氏は断言している。ブログ発信者である新・中間層がネット上で意見を交換することで、そこに社会合意が形成されるというのだ。

ここでも梅田氏の視野は非常に狭い。ブログ発信者たちが何をもとにして自分たちの意見を形成しているのかについて、ネットの外の世界にある既存のマスメディアの存在を完全に無視しているのだ。

ブログ発信者たちがブログのネタを拾ってくるのは、ネット上よりもむしろ、そのほとんどが新聞・雑誌・テレビ・映画・書物・音楽など、既存メディアからだ。そのことはブログをいくつか見てみればすぐに分かる。梅田氏はこんな基本的な事実を完全にすっ飛ばしている。

実世界で『ウェブ進化論』という書物を読んだ「総表現社会の1000万人」の1人が、個人のブログで「『ウェブ進化論』はすごい!」とほめたたえる。しかしそういう肯定的な評価に、『ウェブ進化論』が筑摩書房という権威ある出版社から発刊されている事実や、筆者の梅田氏が東京大学大学院卒であるという事実が、影響していないと考える方が不自然である。

一般人はそのような種々の既存の権威を借りられるからこそ、安心して「『ウェブ進化論』はすごい!」と表現できるのであって、表現する場がたまたま友人たちとの雑談の場ではなく、ネット上のブログだったというだけのことだ。

ただし、悪いことにネット上のブログは物理的な距離と無関係に、相互に意見を交換・共有し合えるので、結果として一人の権威主義が時間と場所を超えて、別の人の権威主義を強化し、ネットは権威の増幅装置になる。

1人が「『ウェブ進化論』はすごい!」とブログに書くと、他のブログ発信者は「やっぱりあのベストセラーはすごいんだ」と考え、実際に『ウェブ進化論』を手に取り、「確かにみんながブログに書いているように『ウェブ進化論』はすごい!」となる。

後はこのプロセスが「総表現社会の1000万人」の間で反復されるだけだ。その結果、『ウェブ進化論』や『国家の品格』といった書物が一つのネット社会の偶像として崇め奉られる。ほとんどのブログが『ウェブ進化論』や『国家の品格』を肯定的に評価しており、この「愛と苦悩の日記」のようにこてんぱんに批判しているブログが数えるほどしかないという厳然たる事実を前にして、梅田氏はいったいどうやって反論できるのか。

梅田氏は同じ第四章で、ネット上の総表現社会では、玉石混交の意見のうちの「玉」が自動選別されるが、それはコンテンツの質をめぐる厳しい競争社会が表出するからだと書いている。しかし現実に日本のネット社会で起こっていることはまったく違っている。

現実に日本のネット社会で起こっていることは、『ウェブ進化論』や『国家の品格』などのベストセラー書評ひとつとっても分かるように、本来多種多様であるべき意見が、一つの意見に集約されていく過程である。玉石混交である以前に、すべての玉がだんだんと真っ白に変色していく過程である。

そこには甲子園に進むための地区予選のような厳しい競争社会などない。ウェブ世界の外部にある既存の権威を借りて、安心して権威と同じ意見を反復し、増幅する、いかにも日本人らしい均質的な共同体が表出しているのである。これは事実なのだから否定のしようがない。

かくも事実に反した、ほとんど妄想に近い梅田望夫氏のネット社会観が、ほとんどのブログで肯定的に評価されてしまっているという事態に対して、危機感を抱くのが当然ではないだろうか。少なくとも多種多様な意見があることは良いという立場をとる人なら、梅田氏のネット社会観が単なる妄想であることにも賛成して頂けるだろうし、そんな妄想がネット上のほとんどのブログで肯定的に評価されているのはおかしい、ということにも賛成して頂けるだろう。

そういう意味で、梅田望夫氏のような扇動者はきわめて危険である。自ら多様な意見を認める良識を標榜しながら、自らが偶像となりつつあることに何の危機感も抱けないほど無自覚・無反省だからだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/27

『交響詩篇エウレカセブン』第1話~第10話無料配信

最初はここで痛烈に批判しておきながら、結局はかなりハマってしまったアニメーション作品『交響詩篇エウレカセブン』だが、2006/04/28 19:00~2006/05/26 18:00の期間限定でブロードバンド放送サイトShowTimeで第1話~第10話が無料配信されることになったようだ。

僕としてはいまだに、この作品の保守的な男女役割分業観や、あまりに下らない大団円は受け入れがたいのだが、中盤の脚本やきめ細かい映像上の演出は、大人向けのアニメーションとしてよく出来ていると考えている。その中盤を楽しむための予備知識として、第1話~第10話を無料で観ておくのは悪くないと思うので、ぜひだまされたと思って、何しろ無料なので、ご覧になることをおすすめしておく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/25

『国家の品格』の市場原理主義批判に見る藤原正彦氏の「卑怯」

『国家の品格』第一章では、先日、ほぼ完全に誤っていると指摘した実力主義批判とともに、「市場原理主義」の批判もおこなわれている。これについては日本経済新聞が「核心」というコラムで取り上げ、その時代錯誤を非難していることをご紹介した。

ここでも藤原正彦氏の市場原理主義批判が、どれほど間違っているかを指摘しておきたい。

「何でも市場に任せれば一番効率的であり、国家の介入は出来るだけ少ない方がよい。少しオーバーに言うと、経済に限定すれば国家はいらない。国家は外交、軍事、治安などを行うだけでよいということです」(p.27)

この部分は先日紹介したウォルター・ブロック著、橘玲訳『不道徳教育』が主題として取り上げているリバタリアニズムの正しい要約になっており、問題はない。続きを読んでみよう。

「市場原理主義の前提は、『まずは公平に戦いましょう』です。公平に戦って、勝った者が利益を全部とる。英語で言うと『ウイナー・テイクス・オール』というものです。公平に戦った結果だから全然悪いことはない。勝者が全部取って構わない。こういう論理です。」(p.27)

藤原正彦氏は国語教育の重要性を説いているわりに、非常にいい加減な言葉の使い方をするのだが、ここで藤原氏の言っている「公平」という言葉の意味がよくわからない。「同一の経済的・物理的条件」という意味なら市場原理主義に反するので、おそらく「機会の平等」と理解するのが適切だろう。

ある事業分野への参入をさまたげるものがなく、誰もが必要な資金さえあれば競争に参加できる。それが市場原理主義の前提である。藤原正彦氏は、そうして競争が始まると必ず最後には一つの企業が競争に勝ち、すべての利益をとる、つまり独占状態になると書いているが、これがデタラメというか、藤原氏の単なる被害妄想であることは分かりやすい。

むしろ市場原理主義がちゃんと機能している市場においては、理論上独占は起こらない。マイクロソフトでさえ基本ソフト市場を独占しているわけではない。パーソナルコンピュータ市場という風に市場の範囲をあえて狭くとらえれば、独占と見えるかもしれないが、サーバ機、メインフレーム、携帯電話、家庭電化製品など、基本ソフトの必要なあらゆる機器を広くとらえると、マイクロソフトの独占はまったく成立していない。

基本ソフト市場は、市場原理主義によって新たに企業が参入し、基本ソフトを必要とする機器の種類そのものが広がっていくことで、マイクロソフトのような巨人の独占は徐々に切り崩されていく。マイクロソフトでさえ気づかない隙間市場を目ざとく見つけ出し、そこから儲ける起業家は必ず出てくるし、オープンソースのようにソフトウェアの生産過程そのものを変革しようという新しい発想も新たな市場を開拓する。

一人の人間、一つの企業の発想や技術革新には限界があっても、市場原理主義によって新規参入の機会が確保されている限り、その限界を打ち破る企業が必ず出てくる。それによって独占・寡占が固定化されることはありえない。それが市場原理主義である。

むしろ独占が成り立ちやすいのは、鉄道やユーティリティ(電気・ガス・水道)などの社会基盤事業だが、これらは膨大で長期にわたる設備投資が必要で、そもそも参入機会が非常に制限されているため市場原理主義が機能しない事業である。「ウイナー・テイクス・オール」という状況は、藤原正彦氏の議論とはまったく逆で、市場原理主義が働かない事業領域でこそ起こってしまうのだ。

もう少しこのあたりの議論を、リバタリアニズムの立場から敷衍したWebサイトがある。永井俊哉ドットコム「至上原理としての市場原理」だ。

さらに藤原正彦氏は続けている。

「しかしこの論理は、後ほど詳しく述べる『武士道精神』によれば『卑怯』に抵触します。大きい者が小さい者と戦いやっつけることは卑怯である。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。武士道精神はそう教えています。しかし市場原理主義ではそんなことに頓着しません。一本道のような論理で、全体を通してしまいます」(p.27~28)

すでにお分かりのように、むしろ市場原理主義は新規参入の機会を確保することで、小さいものが大きい者と互角に戦う機会を与えてくれるのだ。大企業からは生まれないような斬新な発想や、あまりに市場規模が小さく、大企業が手を出しても無意味だと考えるような隙間市場では、中小企業は大企業を打ち負かすことさえできる。

しかし藤原正彦氏が『国家の品格』の中で「卑怯」を取り上げるたびに登場する、「大きい者」「小さい者」「強い者」「弱い者」とは一体どういう意味なのだろうか。

市場原理主義の文脈でふつうに考えると「大きい者」=大企業、「小さい者」=中小企業となるが、藤原正彦氏の武士道精神に忠実にしたがって、仮に大企業が中小企業と戦うことをやめたらどうなるのだろうか。例えば大型スーパーは、地方のさびれた商店街の近くに出店しないとしたらどうなるか。大型スーパーだけでなく、大手小売業者のインターネット通販も規制する必要があるだろう。

そうするとその地方に住む人々の生活の利便性が損なわれ、大型スーパーに比較して割高な商品を購入しなければならなくなる。それがその地方に住む人たちの実質的な生活水準を押し下げるとすると、それは商店街全体の売れ行きに影響する。

他方、出店機会を失われた大型スーパーチェーンは、売上を伸ばすことができないため、従業員の給料を減らすか、解雇するかを迫られる。今度は大型スーパーの従業員が「弱い者」の地位に落ちてしまうのだ。

こんなことくどくど書くまでもなく、経済というのはそこに参加している人たちや企業が交換を通じて、時々刻々と「大きい者」になったり「小さい者」になったり、「強い者」になったり「弱い者」になったり、徐々に変化していく世界である。

そのような変化があるからこそ、「小さい者」や「弱い者」が「大きい者」や「強い者」になる機会が開かれているのであって、それこそが市場原理主義の最大の利点だ。

先日も書いたように、藤原正彦氏の言う「武士道精神」の「卑怯」という概念は、「大きい者」「小さい者」が永久に固定されている世界を考えなければ成り立たない概念なのである。女性は女性として永遠に弱い者である限りにおいて、男が女を殴るのは「卑怯」なのだ。

すると残る問題は、いつのタイミングで「強い者」と「弱い者」を固定するのかということになる。この点で藤原正彦氏の卑怯さが際立ってくる。藤原正彦氏は、自分がベストセラーのエッセイストであり、お茶ノ水大学という権威ある学府の教授であることを自覚している。保守論客としてさまざまなマスメディアでの発言力を持ち、明らかに「強い者」である。

自分自身が「強い者」となっている今、この状態を固定化してしまえば、自分自身は永久に「弱い者」を庇護する立場に立つことができる。愚かな国民たちを高みから見くだし、「強い者」の立場から「武士道精神」という高尚な価値観を説いて、衆愚の蒙昧を開いてやることができる。

結局のところ藤原正彦氏は、自分にとって都合の良い現状を固定化するために、実力主義や市場原理主義など、現状にゆさぶりをかけるような動的な制度を憎悪しているだけなのだ。これが「卑怯」でなくて何だろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/24

いよいよ全国紙が藤原正彦氏『国家の品格』批判を開始

今日の日本経済新聞朝刊5面の「核心」というコラムで、日本経済新聞社のコラムニストが藤原正彦氏『国家の品格』を強烈に批判していた。そろそろ日経新聞のようなマスメディアも、藤原正彦氏を正面から批判する気になってきたということか。

「核心」の論旨は次のようなものである。江戸時代の日本はアダム・スミスが市場原理を理論化する以前から、すでに国内で市場原理にもとづく交易がさかんに行われていた。

「ベストセラーになった『国家の品格』で、著者の藤原正彦お茶の水女子大教授は『経済改革の柱となった市場原理をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化』が損なった日本の品格を『武士道』精神の再興で取り戻せと訴える」

「『市場』活用の長い歴史を持つこの国(=日本)で、改革の試みを十把一絡げに『米国流の市場原理主義』と切り捨てるのは、福沢(諭吉)から日本の商人の例で市場メカニズムの説明を受けながら『西洋の流儀はキツイものだね』と評した幕府高官の現代版ではないか、と思う」

藤原正彦の議論はそうとう胡散臭いぞ、というごく常識的な認識が、日本経済新聞のような全国紙から少しずつ広がっていくことをぜひとも期待したい。そうしやって一人でも多くの日本人が、ありきたりの論理的思考能力と、何よりも「良識」を取りもどし、あの『国家の品格』という奇妙奇天烈なベストセラーはいったい何だったのだろうと、冷静にふり返ることができる日が、一日も早く来てほしいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/23

無料インターネット放送で『エヴァ劇場版』を再体験

アニメーションの話ついでに、いまYahoo!BBで『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2』が何と無料で配信されている。9年前、この「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」のエヴァンゲリオン評論で触れた、例の綾波レイと惣流アスカ・ラングレーと二人だけのエレベーターのシーンも9年ぶりに堪能した。

しかしエヴァと使徒の血みどろの戦闘シーンの多くは、飛ばしながら観ざるを得なかった。僕も年をとってしまったということだろうか。それとも9年前の僕が単に鈍感だっただけなのだろうか。

林原めぐみの『東京ブギーナイト』は今でもほぼ毎週、半分眠りながら聴いているが、先月『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌を歌っていた高橋洋子がゲスト出演していた。二人してよくしゃべることと思いながら聴いていたが、林原めぐみが綾波レイの声を演じてから9年、その間、彼女は結婚して子供も出来ている。

『エヴァンゲリオン』では葛城ミサト役だった三石琴乃、現在は日曜お昼のフジテレビの番組『ウチくる』のナレータや『ドラえもん』ののび太のママ役をやっている彼女も、その間に結婚して子供をもうけている。

10年ひと昔。いずれにせよ『エヴァンゲリオン』をきっかけに「think or die」の読者になった方々も、そうでない方も、何しろ無料なのでどうぞ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

日曜日夜の旅番組に『エウレカセブン』のコテコテBGM登場

土曜日の夜7時、いつも見ている『鉄腕DASH』が憎き野球中継でつぶれていたので、テレビ朝日『旅の香り』という野際陽子司会の番組を流しながらネットをやっていた。すると、お笑い芸人のヒロシが京本正樹と京都を旅するコーナーで、二人が一般の花見客に混じって楽しむ場面のBGMに『交響詩篇エウレカセブン』の劇伴奏曲が流れたではないか。

第17話「スカイ・ロック・ゲート」で、主人公の少年レントンたちが乗る月光号という戦艦の、リフレクション・フィルムと呼ばれる装甲の材料となるスカイ・フィッシュという生き物を捕獲する場面がある。

月光号という戦艦は普通に燃料をつかって飛ぶ以外に、アニメーションの舞台設定である1万年後の地球上の大気に漂っているトランサパランサ・ライトパーティクル(トラパー)という微粒子の浮力を利用して飛行することもできる。

一種のゲリラ部隊である月光号は正規軍と違って戦闘資金が潤沢なわけではないので、燃料を節約するためにできるだけトラパーの浮力を利用して飛ぶために、戦闘で破損したリフレクション・フィルムを修繕する必要があったのだ。

このリフレクション・フィルムの原料がなぜスカイ・フィッシュという生物なのかと言えば、スカイ・フィッシュはトラパー濃度の高い空域に棲息する生物で、体がトラパーの浮力を最大限に利用する組織で出来ているためだ。

そしてこのスカイ・フィッシュという生物は、理由はさだかでないが、人間たちが楽しい気持ちになっているところへ好んで集まってくる。そのためにフィルム職人は月光号の乗組員を誘って、お酒も入れてドンチャン騒ぎをするのだが、そのBGMとしてフィルム職人が流す曲が、『旅の香り』のBGMとして使われていたのだ。

月光号の乗組員はテクノ好きばかりなので、ブラスバンドが演奏するこのコテコテのずっこけ風BGMに「ダっせ~」という感想を漏らすのだが、このBGMは僕の旋律の記憶に間違いがなければ『交響詩篇エウレカセブン ORIGINAL SOUNDTRACK1』に収録されている「永い旅路」「望郷」と同じ旋律の編曲違いである。

しかし『ORIGINAL SOUNDTRACK1』にこの編曲違いのずっこけ風BGMは収録されていない。では『ORIGINAL SOUNDTRACK2』に収録されているかと言えば、それらしき題名の曲が見つからないのでレンタルして聴いてみないことには分からない。

たった一曲のBGMについてこんなに長々と説明することもないのだが、ただ、テレビ番組の音響効果担当は、他局(毎日放送)アニメーションのBGMまでちゃんとチェックしているんだなぁと感心したので、少し突っ込んで書いてみた。

ちなみにこのずっこけ風BGMは『交響詩篇エウレカセブン』放送中に日曜日夜23:30から放送されていた『RADIO Ray=out』では毎週お知らせのコーナーで使われていたので、『エウレカセブン』ファンにはお馴染みのほのぼの曲である。

...いつの間にか僕が『交響詩篇エウレカセブン』のファンになっているように読めるかもしれないが、決してそんなことはない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ほぼ完全に間違っている『国家の品格』の「実力主義」批判

『国家の品格』第一章では、実力主義、資本主義、市場原理主義など、経済の領域での欧米型の考え方がほぼ全否定されている。しかし藤原正彦氏の議論は、ほぼ完全に間違っている。

第二章では、これらの主義を成り立たせている「論理」そのものは全否定されておらず、「論理」だけではダメだという、単なる相対化にとどまっている。ところが第一章の資本主義、市場原理主義に対する藤原正彦氏の攻撃は、ほとんど感情的ともいえる激しさだ。

「実力主義を本当に徹底し始めたらどうなるでしょうか。例えば同僚は全員ライバルになります。ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる。教えたら最後、自分が追い落とされてしまいます。したがって、いつも敵に囲まれているという非常に不安定な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまうのです」(p.25)

この部分など、民間企業で働いた経験のない大学教授らしい、ほほえましいほど素朴な実力主義批判だ。「徒競走で差をつけるのはいけない、みんないっしょにゴールさせましょう」と言い張る小学生教諭と大差ない。

現実には、同期入社どうしのもっとも激烈な実力主義競争にさらされたのは、最近、実力主義がうるさく言われてからの新入社員たちではなく、はるか昔、団塊の世代が新入社員だったころのことだ。何しろ「同期」の人数がケタ違いである。団塊の世代は、大企業であれば何千人という同期入社の中で、出世競争を勝ち抜くために長時間労働を強いられた。

それでも藤原正彦氏が批判するような実力主義の弊害があらわれなかったのは、職位や金銭以外で社員に報いる制度があったからだ。つまり、一生懸命働いていれば、たとえ出世競争で同期に敗れたとしても、一定の満足のいく内容の仕事が与えられる。高橋伸夫氏が『虚妄の成果主義』で書いている未来傾斜式の考え方だ。現時点の金銭ではなく、未来に与えられる仕事の内容で、従業員に報いる、とても日本的なシステムである。

つまり、藤原氏が恐れるように、今さら実力主義を徹底しなくても、日本企業は団塊の世代が新入社員だった時代からすでに実力主義だったのであり、今ごろになって「同僚は全員ライバルになります」と騒ぎ立てるのはまったく筋違いだ。

「ベテランは新入りにノウハウを絶対に教えなくなる」という部分からも、民間企業の人事評価制度が上司と部下のそれぞれに何を期待しているか、藤原正彦氏がまったくの無知であることがよくわかる。

藤原正彦氏は、一つの企業組織の内部での競争のことしか考えていないようだ。しかしすべての民間企業は、企業どうしでも競争している。むしろ企業どうしの競争で優位に立つための手段として、社内で適切な競争が行われるように、人事評価の制度を作っているのだ。

もし本当に「ベテランが新入りにノウハウを絶対に教えなく」なったらどうなるか。たしかにその企業の内部だけを見れば、ベテランは新人に自分たちの地位を奪われる心配をすることなく、安心してその地位に居座れるだろう。ところがそんなことをしてしまうと、次の世代の会社を担う人材がいつまでたっても育たず、他の企業との競争に敗れてしまう。他の企業との競争に敗れれば、ベテランだけでなく、新入りまでが職を失い、路頭に迷うことになる。

だから普通の民間企業では、ベテランたちには新人を育成する職務が与えられており、その職務を怠るとマイナス評価される。「新入りにノウハウを絶対教えない」ようなベテランは、新入りに追い落とされる代わりに、人事評価制度を通じて会社に追い落とされるのだ。

民間企業で働いている会社員なら誰もが知っている、こんな当たり前のことさえ藤原正彦氏は認識していない。にもかかわらず、恥ずかしげもなく、さも実力主義が完全悪であるかのように書いているのだ。さらに続けて藤原正彦氏は書いている。

「世界中の人々が賛成しようと、私は徹底した実力主義には反対です。終身雇用や年功序列を基本とした社会システムを支持します」(p.25)

ここでも藤原正彦氏は大学教授ならではの無知をさらけ出している。終身雇用と年功序列が、どうして実力主義と両立しないと言い切れるのだろうか。むしろ実力主義を徹底しなければ、個々の企業は終身雇用や年功序列を守れない、というのが真実ではないのか。

一度入社した従業員に出来るだけ長く会社に残ってもらおうと考えたとき、一人ひとりの実力にかかわらず全員に同じ給料を支払ったら、何が起こるだろう。給料が実力に見合わないと考える人は転職するだろう。逆に、会社の資金力を無視して、すべての従業員に高すぎる給料を支払い続ければ、会社が存続できなくなり、結果として終身雇用を維持できなくなる。

年功序列についても同じことが言える。年功序列が意味を持つのは、その企業固有のノウハウや暗黙知は、その企業の中で長く働けば働くほど身につくという考え方があるからだ。そして企業固有のノウハウや暗黙知といったものも、れっきとした「実力」の一つである。

そうした「実力」を評価するからこそ、給料の一部分をその企業での勤続年数に比例させる。それが年功序列である。年功序列とは、従業員の実力を正しく評価するための一つの手段なのだ。この観点からの実力主義を徹底させれば、藤原正彦氏の望みどおり、年功序列は強化される。

このように、実力主義があるからこそ、企業の終身雇用や年功序列が可能になるのである。藤原氏の実力主義批判は、ほぼ完全に間違っているということがお分かりいただけるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/22

差別の固定を正当化する藤原正彦氏の「惻隠の情」(後編)

そして「平等」という概念が単なるフィクションであることを論じる箇所でも、女性との関係が登場する。

「私は小学生の時から勉強はめざましく出来ましたが、女性にはいっこうにもてませんでした。いまだに何とかならないかと思っておりますが、世界中の女性の目がくもっているので、なんともなりません。そのうえ絵の才能は小学校からずっと通信簿で『2』でしたし、中高六年間続けて多少は自信のあるサッカーも、ベッカムの足元にも及ばない。夫婦喧嘩では女房にすら敵わない。人の能力はなにひとつ平等ではないのです」(p.89)

まだ『国家の品格』をお読みでない「think or die」愛読者の方々は、藤原正彦氏のひどく「品位」を欠く議論が、いい加減バカらしくなってきたと思うが、いましばらくお付き合い頂きたい。

藤原氏が「平等」という概念に代わるものとして擁護するのは、武士道の「惻隠の情」である。そもそも「平等」とは、差別を撲滅するために生み出された概念だと藤原氏は考えているようだ。

「差別に対して『平等』という対抗軸を無理やり立て、力でねじ伏せようというのが、闘争好きな欧米人の流儀なのです。(中略)我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などはなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」(p.91)

このような「平等」についての議論から、藤原正彦氏が、女性に「弱者」であってほしいと望んでいることは容易に読みとれる。女性に限らず、差別される者が「弱者・敗者・虐げられた者」でなければ、「惻隠の情」の必要性そのものが成り立たなくなってしまうからだ。

これは非常に危険な考え方である。というのは、もし差別される者が「弱者・敗者・虐げられた者」の地位から抜け出そうと努力しはじめたとき、藤原正彦氏は「惻隠の情」をどうするつもりなのだろうか。「闘争好きな欧米人の流儀」で、差別される者たちが立ち上がっても、「惻隠の情」はまだ有効なのだろうか。

「差別を本当に撲滅しようとするなら、平等という北風ではなく惻隠という太陽をもってしなければなりません」(p.91)

女性は「弱者」で哀れむべき存在であるからこそ、「思いやり」という「太陽をもってしなければ」ならない。らい病患者は「虐げられた者」だからこそ「惻隠の情」の対象に値する。

もうお分かりのように、藤原正彦氏のいう差別の解決策「惻隠の情」は、差別される者が、永遠に差別される者である限りにおいて、有効な解決策なのだ。差別される者たちが自ら差別と戦うために立ち上がったとき、彼らはもう「弱者」ではなくなり、「惻隠の情」や「思いやり」という「太陽」をほどこしてやることもできなくなる。

女性たちが黙って「弱者」の地位に甘んじてさえいれば、「惻隠の情」をほどこしてやるのに、下手に自己主張などするからいけないのだ。自分が女性にもてないのは、女性の方が自由を主張するからである。藤原正彦氏の女性観は、「惻隠の情」という考え方に端的にあらわれていると考えていい。

藤原氏の書いているように、欧米の「平等」という概念が「闘争的」なのだとすれば、それは、差別される者がその地位から抜け出す権利を認めているからだ。差別される者は、「惻隠の情」などといった余計なおせっかいをふり払って、その地位から抜け出す権利がある。

ちなみに、藤原正彦氏は第三章で「エリート」養成の必要性を論じているだけでなく、第七章ではインドのカースト制を「国家の品格」の一例としてあげている。「惻隠の情」は、差別する者、差別される者が固定されていてはじめて成立するのだから、当然といえば当然だ。

そして藤原正彦氏は「自由」という概念もフィクションにすぎないとしりぞけるが、その箇所でまたもや女性との関係を持ち出す。

「私が、好きな女性に接近する自由を行使すると、その女性は必ず私から遠ざかる自由を行使する、というのが私のこれまででした。自由と自由が衝突しなかったら、私は夢のような人生を送れたはずだったのです」(p.93)

藤原正彦氏が「自由」「平等」という概念をしりぞけるのは、自由と自由が衝突して結局どちらかが不自由になるから、平等と平等が衝突して結局不平等になるから、という理由だ。

つまり、完全な自由も、完全な平等もないという事実を理由に、自由と平等をかんたんに捨て去り、代わりに「惻隠の情」を持ち出している。女性が自由を行使しなければ、女性が平等を主張をしなければ、女性に「惻隠の情」をもって対することができるのに、差別される者が自由や平等を主張するから、「惻隠の情」が成り立たなくなってしまう。藤原正彦氏はこのように主張しているように見える。

第五章、武士道精神の復活を主張する章で、藤原正彦氏は幼いころ自分に武士道の考えをたたきこんでくれた父親(作家・新田次郎氏)に感謝して書いている。

「しかも、父の教えが非常に良かったと思うのは、『それには何の理由もない』と認めていたことです。『卑怯だから』でおしまいです。で、私はその教えをひたすら守りました。例えば『男が女をぶん殴っちゃいけない』と言ったって、簡単には納得しにくい。現実には、ぶん殴りたくなるような女は世界中に、私の女房を筆頭に山ほどいる。しかし、男が女を殴ることは無条件でいけない。どんなことがあってもいけない」(p.127)

なぜ藤原正彦氏は女を殴りたくなるのか。それはこの直前に書かれてある父の言葉にはっきりと書かれてある。

「父は『弱い者を救う時には力を用いても良い』とはっきり言いました。ただし五つの禁じ手がある。一つ、大きい者が小さい者をぶん殴っちゃいかん。(中略)三つ、男が女をぶん殴っちゃいかん」(p.127)

男は女より無条件に大きく、強い者だから、弱き者である女性を絶対にぶん殴っちゃいかんのである。つまり、藤原正彦氏が女を殴りたくなるのは、弱き者であるはずの女が強く見えることがあるからなのだ。

女性は永遠に弱き者である限りにおいて、武士道の「惻隠の情」の庇護の対象になる。そして弱き者であるから、真剣にとりあうに値しない。女性との関係は私的な領域に押しこんでおいて、必要に応じてユーモアのネタとして使えばいい。それによって公的な領域である『国家の品格』の本論・骨格が揺るぐようなことはない。

ところが、以上に見てきたように、藤原正彦氏は自分の女性観をうっかり漏らすことで、自分の武士道擁護論がきわめて危険な差別固定化の思想を孕んでいることを露呈してしまっている。エリートである藤原正彦氏にとって、やはり女性との関係はつまずきの石(スキャンダル)になっているようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

差別の固定を正当化する藤原正彦氏の「惻隠の情」(前編)

『国家の品格』にはところどころ藤原正彦氏の「品位」を疑いたくなる箇所がある。それは、藤原正彦氏が私的な傍白と、公的な議論を使いわけるという「卑怯」な手をつかっている箇所だ。その多くは、藤原正彦氏が自らの女性観をもらしている箇所である。

「もっとも、いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです。私はまったくそうは思いませんが、そういう意見のあることはあらかじめお伝えしておきます」(p.12)

もちろん著者自身は、ユーモアのつもりで書いているのだろう。しかし「女房」という私的な部分をもち出すことで、国家の品格を論じている公的な側面からの逃げ道をつくっている。「女房」が語っていることを通じて、自己をおもしろおかしく戯画化し、真面目な反論をさけようとするその方法は、かなり「卑怯」だ。

第三章で藤原正彦氏は民主主義をしりぞけている。その理由は次のとおりだ。

「過去はもちろん、現在においても未来においても、国民は常に、世界中で未熟である。したがって、『成熟した判断が出来る国民』という民主主義の暗黙の前提は、永遠に成り立たない」(p.83)

そして「国民は永遠に成熟しない。放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう。それを防ぐために必要なものが、実はエリートなんです」(p.83)ということで、藤原正彦氏はエリート養成の必要性をうったえる。

この部分、よくよく読んでみるまでもなく、藤原正彦氏は正面から読者を罵倒している。「お前らは永遠に未熟な凡人だ」という具合に。本書の内容を支持している読者の方々は、みな自分のことを「エリート」だと考えているのだろうか。だとすれば藤原氏の書いていることは当たっていることになる。「国民は永遠に成熟しない」のだ。

そして問題の女性観をもらす箇所がくる。

「イギリスの政治家には真のエリートが多いので、賄賂や汚職の話はほとんど聞きません。国民のために命をささげるような者は、国民を欺くようなことはしないのです。女性問題のスキャンダルは時々あります。こちらはどんな教育をしてもなくなりません」(p.87)

藤原正彦氏は本書だけでなく、他の著書でも教育の重要性をくりかえし説いている。ところが、女性問題のスキャンダルだけは、どんなエリート教育をしてもなくならないのだそうだ。女性との関係は男性にとっては、「国民のために命をささげるような」仕事の世界とはまったく別の世界ということなのだろう。

女性関係をふくむ私的な領域と、仕事に命をささげる公的な領域、その二つを藤原正彦氏ははっきり分けている。そして、公的な領域の問題には真剣に、それこそ「命をささげるように」取り組むが、「女性問題」のような私的な領域の問題には、いともかんたんにさじを投げている。

「女房」を引き合いに出している部分にも同じことが言える。「女房」との関係は藤原正彦氏にとって私的な領域であり、「女房」の意見に真剣にとりあう価値はない。話のはじめに読者の心をつかむユーモアとして利用する価値しかない。

国民のために命をささげるエリートも、私的な領域で女性問題を起こすことは許される。だとすると、藤原正彦氏が「国民」と言うとき、そこに女性は含まれていないと考える必要がありそうだ。もし女性が国民の一人であるなら、「国民を欺くようなことはしない」という「真のエリート」の定義と矛盾してしまう。

女性は国民ではないから、「女房」を欺いて他の女性と「スキャンダル」を起こしても「真のエリート」の名に傷はつかない。女性に代表される私的な領域は「真のエリート」にとっての逃げ場であり、藤原正彦氏の議論にとっても逃げ場になっている。

このように藤原正彦氏は、私的な領域(女性との関係)と公的な領域(男としての仕事)とで、二つの価値基準を使いわけている。公的な領域では許されないことも、私的な領域では許される。この二重規範は、藤原正彦氏の実に「卑怯」な議論の進め方である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

論理を批判しながら論理を駆使する藤原正彦氏の「卑怯」

『国家の品格』の「はじめに」で、著者の藤原正彦氏は執筆動機にふれている。藤原正彦氏は米国の大学で3年間教鞭をとって帰国した後も、日本の大学の教授会で米国流の合理主義をふりかざした。「数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはそほどのことでもない、と考えるようになりました」(p.4)。

これは「論理」(=欧米の合理主義)そのものが悪いのではなく、日本という環境と「論理」の相性が悪かった、というだけの話だ。ところが驚くべきことに藤原正彦氏はこの体験から「論理」そのものに欠陥があるのだという、完全に間違った結論を導き出す。

そもそも藤原正彦氏を本書の執筆に駆り立てているのは、「いま日本は荒廃しているとよく言われますが、世界中の先進国はみな似たような状況です」という現状認識である。今の世の中はおかしくなっている。おかしくなっているからには何か原因があるはずだ。その原因は何だろうか。そうだ、「論理」偏重の考え方がその原因だ。

本書の前半では、藤原正彦氏は「論理」を全面的に否定しているわけではない。「論理とか合理とかいうものが、非常に重要なのは言うまでもありません。しかし、人間というのはそれだけではやっていけない」(p.20)そして「論理」を補完するものとして「情緒と形」というものを持ち出している。

ところが巻末に近づくにつれて、いつの間にか、「論理」とその産物である「自由」や「平等」といった思想よりも、「論理」を補完する「情緒と形」の方が優れているということになってしまう。

「現代を荒廃に追い込んでいる自由と平等より、日本人固有のこれら情緒や形の方が上位にあることを、日本は世界に示さねばなりません。自由、平等、市場原理主義といった教義は、共産主義がそうであったように、いかに立派そうな論理で着飾っていても、人間を本当に幸せにすることはできないからです」(p.185)

であれば、いっそのこと「論理」など捨てて、「情緒と形」だけで生きていったらどうだろうか。本当に藤原正彦氏の主張するように、「論理」そのものには欠陥があるが、「情緒と形」そのものには欠陥がないのだとしたら、欠陥のないものを原理にして生きる方が良いに決まっている。

しかも藤原正彦氏によれば「情緒と形」を原理として生きることができるのは、世界中で唯一「日本人」だけらしいのだ。したがって「時間はかかりますが、この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと私は思うのです」(p.191)という言葉で本書は締めくくられることになる。

最初は、米国流の「論理」が日本の環境と相性が悪かっただけの話が、最終的には「情緒と形」を体現できる日本人しか世界を荒廃から救えないという、ものすごい話になってしまっている。最初は「論理」を相対化するだけだった議論が、いつの間にか日本的「情緒と形」至上主義にすりかわっている。

ところで「わが民族しか世界を救うことができない」という考え方を、選民思想という。ナチス・ドイツが「アーリア人こそ世界でもっとも優秀な民族である」と主張していたのと、藤原正彦氏の『国家の品格』の主張に大きな違いはない。

藤原正彦氏自身、「論理」に欠陥があると言っているのだから、藤原正彦氏の「論理」に欠陥があるのも無理はない。というより、藤原氏の議論は「論理」にさえなっていない。もちろん藤原氏はわざと非論理的な文章を書いているに違いない。いったん「論理と合理」を否定してしまえば、後は何をどうこじつけようが構わないというわけだ。

ところが藤原正彦氏はたしかに本書の読者を説得しようとしている。いったいどういう方法で藤原氏は読者である僕らを納得させようとしているのだろうか。世界を本格的に救えるのが日本人しかいないということを、どうやって藤原正彦氏は説得しようとしているのか。

藤原氏が頼りにしているのは、やっぱり「論理」の力なのではないか。たしかに『国家の品格』はいたるところで論理的な破綻をきたしている。それでもさまざまな事例や引用を駆使して、読者を納得させようとしている。

藤原正彦氏が「論理」に欠陥があると本当に信じているなら、なぜ190ページ以上もかけて「情緒と形」の「論理」に対する優位を説得する必要があるだろうか。最初にひとことだけ自分の主張を書いて、それで終わりにすればよいのではないか。

一つのテーマについて藤原正彦氏がこれだけの紙面を割いているのは、そして藤原氏がこの『国家と品格』だけではなく他にも多数の書物を書いているのは、他人の意見を変えるには(少なくとも「大人」の意見を変えるには)、「論理」がなくてはならないと分かっているからではないのか。

僕ら藤原正彦氏の読者は、途方にくれてしまう。藤原正彦氏は「要するに、重要なことの多くが、論理では説明出来ません」(p.49)と書いているのに、僕らにむかって「情緒と形」が「論理」よりも優れているということを、延々と「論理」で説明しようとしているように見える。決して頭ごなしに「ならぬことはならぬものです」(p.48)などと書き捨てたりせず、根気よく長い「論理」で僕らを説得しようとしている。

『国家と品格』の読者は、「論理」の限界を声高に主張する藤原正彦氏と、大いに「論理」を頼りにして僕らを説得しようとしている藤原正彦氏と、どちらの藤原正彦氏を信じればいいのだろうか。

この疑問に対して、藤原正彦氏はきっとこう答えるだろう。「そういうのが『論理』偏重だと言っているのだよ」。確かに。一方で「論理」を否定しておきながら、他方で「論理」を駆使するという方法をとれば、藤原正彦氏は何でも言いたい放題、書きたい放題である。誰がどのような方法で反論して来ようが、藤原正彦氏は「だからお前は『情緒と形』ということが分かっていないのだ」というひとことで、その反論をかんたんにしりぞけることができる。

このような藤原正彦氏のやり方を「卑怯」と言わずして、何と言えばいいのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/21

Notes/DominoのアクションバーをJavaアプレットに切り替える方法

今日は仕事で下らないことに時間を費やしてしまった、IBM製のグループウェアNotes/DominoのWebブラウザ対応アプリケーション開発で、どうやったらNotesのアクションバー(Action Bar)と呼ばれるGUI部品を、HTML形式からJavaアプレットに変更できるのか、その方法を探し当てるまでに30分近くもかけてしまった。

DominoサーバのHTTPタスクのログデータベース(domlog.nsf)をWebブラウザから開くと、アクションバーがJavaアプレット表示になるので、その設計をDomino Designerで覗いてみても、どこに設定があるのか分からない。

仕方なく自作のデータベースにそのビューだけをコピー・貼付けしてみると、やはりアクションバーはJavaアプレットになっている。ということはビューの設計要素のどこかにHTML形式からJavaアプレットに切り替える箇所があるはずなのだ。

どうやっても分からないので、やむを得ずGoogleでインターネットを探しまわった結果、ようやく発見した。しかし発見した日本IBMのWebサイトの文書には「設計」→「アクションバーのプロパティ」をクリックして、HTML形式からJavaアプレットに変更すると書いてあるだけだ。

きっとDomino Designerの画面最上部のメニューバーの「設計」のことなのだろうと推測し、フォームの設計を開いたり、ビューを開いたり、いろいろとコンテキストを切り替えてみると、確かに「アクションバーのプロパティ」という項目がグレイアウトされた状態で出現することがある。ところが一向にそのグレイアウトがなくならならず、マウスでクリックできる状態になってくれない。

そうやって探し回ること10分以上、フォームやビューの設計を開いて右上のアクションボタンのフレーム部分をクリックしたときだけ、「設計」→「アクションバーのプロパティ」がクリックできるようになることが分かった。しかもアクションボタンのフレーム部分で右クリックしても「アクションバーのプロパティ」が表示される。

クリックして表示された「アクションバー」のプロパティボックスで、「HTML」から「Javaアプレット」に切り替えると、たしかにWebブラウザからそのフォームやビューを開いたとき、画面最上部のアクションボタン部分がJavaアプレットに変更された。

いい加減、Notes/DominoのWebインターフェース全般を、読込みに時間がかかり、クライアントパソコンの環境によっては正常に動作しないJavaアプレットから、全面的にDHTMLかAjaxに書き換えてほしいものだが、IBMのNotes/Domino開発チームはいつになったらそれをやってくれるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

藤原正彦著『国家の品格』を批判するための前提条件

まず藤原正彦氏の『国家の品格』を粉砕するにあたって、藤原氏が武士道精神に反するような極めて「卑怯」な防御線を張ってあることを知っておこう。藤原氏は読者からの反論をあらかじめ封じるために、『国家の品格』の第二章「『論理』だけでは世界が破綻するのなかで、「言うまでもなく、論理は重要です。しかし、論理だけではダメなのです」という論理を展開している。

もし藤原氏の『国家の品格』に僕らが論理的に反論したとすれば、藤原氏はきっとこう反論するだろう。「その論理至上主義こそ、私が否定している当のものなのだから、あなたの反論は無効である」と。

しかし第二章を読めばわかることだが、藤原正彦氏は「『論理』だけでは世界が破綻する」ということを、できるだけ論理的に説明しようと努力している。「論理だけではダメだ」という命題について「これからそれを証明したいと思います。理由は四つあります」と宣言した上で、(1)論理には限界があること、(2)最も重要なことは論理では説明できないこと、(3)論理にはそれ自体論理的に証明できない出発点が必要なこと、(4)長い論理は信頼性が低いことの4点をあげている。

藤原氏がやっているように、論理の限界を論理的に説明することを認めてしまうと、ふつうの論理的思考能力がある人なら、すぐに次のような疑問がわいてくるだろう。では、いったいどこまでが論理的に説明してもいい範囲で、どこからが論理的に説明してはいけない範囲なのか。その線引きは誰が決めるのか。その線引きをする権利は誰にあるのか。

全ての人間には自由にものを考える権利があるとすれば、その線引きを最終決定する権限は誰にもない。それぞれの人が自分なりに線引きをすればいいだけのことで、藤原氏の身勝手な線引きにしたがう必要はない。

しかし藤原氏はおそらく自分の線引きこそが正しいと強弁するだろう。そうでなければわざわざ『国家の品格』という本を書く動機が見当たらない。現に藤原氏自身が本書の冒頭でこう書いている。

「私が確信していることは、日本や世界の人々が確信していることとしばしば異なっております。もちろん私ひとりだけが正しくて、他のすべての人が間違っている。かように思っております」(p.11)。

これで『国家の品格』を粉砕する条件がととのった。藤原氏はあくまで自分ひとりだけが正しく、僕ら全員が間違っていると主張しているのだから、僕らは藤原氏ひとりだけが間違っていると反論することができるわけだ。

それにしても「私ひとりだけが正しくて、他のすべての人が間違っている」などということを、一般の書店で流通することがあらかじめ分かっている原稿に書いてしまえる藤原正彦氏は、常軌を逸している。ただただ、常軌を逸している。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/04/20

ウォルター・ブロック著・橘玲訳『不道徳教育』の痛快な原理主義

ウォルター・ブロック著、橘玲訳『不道徳教育 擁護できないものを擁護する』(講談社)を読んだ。久しぶりに痛快に面白い本だった。原書は何と30年前の1976年に米国で出版された『Defending The Undefendable(擁護できないものを擁護する)』だが、橘玲氏の思い切った「超訳」によって、今の日本に生きる僕らにとって驚くほど新鮮で時宜を得た内容になっている。

とても道徳的に擁護できないと思われるような行為、ポン引き、女性差別主義者、ダフ屋、ニセ札づくりなどを、リバタリアニズムの立場から切れ味鋭く論理的に擁護していく書物だ。リバタリアニズムというのは、訳者によるまえがき「はじめてのリバタリアニズム」によれば、国家の存在も否定する徹底した市場原理主義のことだ。

国家こそ諸悪の根源であり、すべてを市場原理に任せれば最大多数の最大幸福が実現する。それが本書の一貫した主張だ。僕は不勉強で、アナーキズムは共産主義としか結びつかないとばかり思っていたのだが、市場主義の極北にも国家の存在しないユートピアがあったというわけだ。

しかしリバタリアニズムの論理が理想論であることには違いない。現実には国家による市場や市民生活への介入は法律にもとづいて行われており、今さらそれらを完全になくすことはできない。完全になくすことができなければ、妥協に満ちた「不完全な市場主義」の世界を微調整しながら生活していくしか方法がない。

まえがきで橘玲氏が分類しているように、リバタリアニズムは飽くまで「原理主義」の一派であり、僕らの住んでいる日本社会で事実上、主流になっているケインズ主義は「功利主義」である。「原理主義」は現実がどうあろうと徹底して理想を追求し、「功利主義」は現実を出発点にして最良の結果が得られるような方法論を追求する。

「原理主義」が一種の理想論であることを知った上で、本書の論理的な主張を道具として身につけておけば、いい加減な市場主義批判に反論するための強力な武器になる。たとえば藤原正彦氏のような、きわめていい加減な市場主義批判など、『不道徳教育 擁護できないものを擁護する』の論理をもってすれば実にかんたんに反論できる。

もちろんその反論を封じるために、藤原氏は論理というもの自体の限界を盾にとるわけだが、次回は大ベストセラー『国家の品格』に鉄槌を下したい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

江原啓之と美輪明宏による擬似「論理療法」

昨夜つけっぱなしのテレビで『オーラの泉』という、スピリチュアル・カウンセラー江原啓之、美輪明宏、TOKIOの国分太一が出演する番組が流れていた。江原啓之と美輪明宏がゲストの人生相談に霊能者的な観点(どんな観点だ?)から回答する番組だが、これも一つの論理療法かもしれないと考えた。

昨晩は釈由美子がゲストで19歳までの人生は悲惨だったなどの述懐をし、それに対して江原氏は、釈由美子の前世について断片的に語り始める。そして美輪明宏がそれをあざやかな手さばきで一編の物語にするという連係プレーだ。

釈由美子の前世は商家の美しい娘で、とある武家からの婚姻の申し出を断った上に、その武家の仇敵である別の武家の武士に思いを寄せている。断られた武家は娘の一家皆殺しを狙って家に火を放つが、娘だけは逃げのびて武士と駆け落ちする。最後には娘は花街に身を落とし、喉を短刀で突いて自殺した。これが江原啓之と美輪明宏が即興で創作した釈由美子の前世の物語である。

娘が自害したのが19歳だったので、釈由美子が19歳で芸能界デビューするまでの人生が悲惨だったのは当然で、美輪明宏いわく「19歳のときから、あなた自身のこの世界での本当の人生が始まったのよ」ということになる。釈由美子が舞台のスモークなどを嫌うのも、体調が悪くなるときには必ず喉から具合が悪くなるのも、すべて家に火を放たれた前世の記憶のため、というわけだ。

この物語が真実であるかどうかなど、カウンセリングの来訪者である釈由美子にとってはどうでもよい。来訪者にとって重要なのは、世界に対する悲観的な見方や考え方(認知)を変えることで、より幸福な人生を送るということである。

以前この「愛と苦悩の日記」でもとりあげた「ブリーフセラピー」の有名な事例に、すきっ歯の女性の症例があった。自分がすきっ歯であることを気に病んで暗い生活を送っていた女性に対し、セラピストは前歯の隙間からどれだけ遠くまで水を飛ばせるか、毎日練習することをすすめる。

職場の給湯室でこっそり水を飛ばす練習をしていた女性は、いきなりそこへ入ってきた男性にあやまって水をかけてしまう。それをきっかけに二人は交際するになり、めでたく結婚したという有名な症例である。

江原啓之と美輪明宏がやっていることも本質的には同じことである。来訪者は身の回りに起こる不愉快な出来事について、それらすべてが未来の悪い兆候だと思い込んでいる。その認知を変えるために、江原啓之と美輪明宏は、それは不幸だった前世の記憶が原因だという、霊感の強い釈由美子にとっては十分に説得力のある新しい解釈を提示する。

そして19歳のときに前世の影響から自由になっているのだと告げることで、釈由美子が今の悲観的な考え方を持ち続けることには、何ら根拠がないと納得させる。これで来訪者は認知を変えるだけでなく、今後の行動も変えるきっかけを与えられたことになる。

江原啓之のいかがわしい前世物語のでっち上げも、それが来訪者を説得でき、認知を変えることで行動も変える効果を持つなら、一定の価値はあると考えられる。細木数子がただひたすら自分の考え方(認知)を来訪者に対して、お説教がましく強制するのと比べると、江原啓之の方がカウンセラーとしてははるかに無害で、場合によっては存在意義さえあると言えるのかもしれない。


| | コメント (0) | トラックバック (2)

再び日常へと戻っていく日常と『エウレカセブン』サントラ

予想されたことだが、今週から朝、通勤電車の中で『交響詩篇エウレカセブン オリジナルサウンドトラック1』を密閉型ヘッドフォンで聴きながら、つり革にぶら下がって居眠りする毎日だ。ほとんどが佐藤直紀作曲の管弦楽で、壮大な曲、神秘的な曲(ほとんどドビュッシーの剽窃のような曲もあるのはご愛嬌)、短い挿入曲にアニメーションの様々な場面が思い出される。

「予想されたことだが」と書いたのは、数か月前には松本零士の『銀河鉄道999』や『新竹取物語1000年女王』のオリジナルサウンドトラックを毎日やはり通勤電車の中で半分夢の中で聴いていたからだ。

こうして数か月単位で同じようなパターンの生活が繰り返され、来年の今ごろ何をしているのかも予測することはそれほど難しくない。びっくりするような劇的な変化など訪れるはずもなく、もちろんこれが他ならぬ日常だと言ってしまえばそれまででである。

毎日の生活に変化を与えているものは、強いて言えば何だろうか。僕の場合、食べ物や運動など、感覚的な刺激は何ら変化をもたらさない。感覚的な刺激のうち、唯一の例外は聴覚だろうか。しかし聴覚以上にもっとも変化を与えてくれるのは、新しい考え方や物の見方である。考え方や物の見方が変われば、世界の様子は一変する。

しかし一変したように見えた世界も、少しずつまたもとの日常的な様相へと溶け込んでいく。『交響詩篇エウレカセブン』のような、観方によっては荒唐無稽な世界観も、一時的に自分の認知を変容させるのには役立つ。松本零士のアニメーションも、フランス現代思想に関する書物も同じことで、しばらくたてば世界はまたもとの日常へともどっていく。

一瞬だけ描かれた当時の鮮やかな色彩をとりもどした中世のフレスコ画が、再び色あせていくような、と書くと気どりすぎになるが。そうして波のように打ちよせては引きかえすだけのリズムの、十分に予測可能な日常とこれからの時間には、いったいどのような価値が見いだせるだろうか。

ちなみに佐藤直紀氏は『ALWAYS 三丁目の夕日』の音楽で日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。『交響詩篇エウレカセブン オリジナルサウンドトラック1』には、僕が比較的好きなSUPERCARというグループの『STORYWRITER』という曲が入っている。このアニメのために書かれた曲ではなく、制作者が挿入歌として選んだ曲だが、トラパーの波に乗る爽快感がよく表現されている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/16

梅田望夫著『ウェブ進化論』補完計画の完成

以上で梅田氏の書いているネット世界の「三大法則」が、すべて法則と呼べないものであることが論証できた。第一法則と第二法則はともに、単なる「結果」としての現象を法則にしている点で法則と呼べない。

しかも第一法則は、仮にそれを法則と呼ばず、結果としての「現象」と呼ぶにしても、深刻な事実誤認を含んでいる。

つまり、ネット利用者がクリティカル・マスにまで増大した結果、膨大なデータベースとその統計処理が行われるようになっただけの現象を、まるで機械が「神」のようにウェブサイトの意味を「理解」しているかのように過大評価している点で、現象の認定そのものが誤っている。正しくは「神の視点からの世界理解」ではなく、「テラバイト級の膨大なデータとその統計処理の実現」といった、常識的な言葉づかいで十分正確に表現できる現象である。

第二法則も、その内容自体に事実誤認がある。一部のネット利用者が、ネット世界の分身である自分のウェブサイトに一定の金額を稼がせることができるのは、現時点でネットを駆使する企業・個人とそうでない企業・個人の間に、能力や情報の格差があるからに過ぎない。

ネットがさらに普及することでその格差が小さくなれば、市場原理の収穫逓減の法則にしたがって、もはやネットの分身に稼がせることは不可能になる(「ネット世界は収穫逓増の法則が支配する世界だ!」などという反論は、無根拠な妄想なのでやめて頂きたい)。したがって梅田氏の言うような「新しい経済圏」など存在せず、そこにあるのは昔ながらの市場主義経済圏である。したがって、第二法則は法則ごと抹消できる。

そして第三法則は、人間が瞬時に知的成果物を産出するのに必要な、長期間にわたる蓄積(教育など)を無視している点で、これも法則の内容そのものが誤っている。人間がときにたった3秒で付加価値を生み出せるのは、それまでの何千時間、何万時間という蓄積があるからこそだ。この事実を完全に無視しているために、第三法則も法則ごと抹消できる。

もうこれでいいだろう。ベストセラーというものは、出版社や書籍流通業界、マスメディアといった既存のメディアや権威が、大量の資金を投じて人工的に作り出すものであり、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』もその例外ではない。不特定多数の人々を信頼するという梅田氏の主張が本当なら、これほど粗雑で根拠薄弱なウェブ進化擁護論がベストセラーになるはずがない。

賢明なる「愛と苦悩の日記」の読者の皆さんには、ティム・オライリー氏の『Web2.0とは何か』の和訳を読むことをお勧めしておけば十分だろう。IT業界では有名な出版社社長のこの試論を読めば、いまウェブの世界で何が起こりつつあるのか、誇張も論理的飛躍もない的確な理解を手に入れることができる。それは他でもない、オライリー氏がウェブ世界のれっきとしたエスタブリッシュメントであり、権威であるからだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

やはり単なる「結果」でしかない『ウェブ進化論』の第二法則

さて、第一法則につづいて、梅田望夫氏『ウェブ進化論』の第二法則「ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏」を検討してみたい。

この第二法則は次のように説明されている。「第二法則とは、『ネット上にできた経済圏に依存して生計を立てる生き方』を人々が追求できるようになったことである。ネット上に自分自身の分身(ウェブサイト)を作ると、リアルな自分が働き、遊び、眠る間も、その分身がネット上で稼いでくれる世界が生まれた」(p.36)

この第二法則は比較的かんたんに反駁できる。自分が眠る間に稼いでくれるようなウェブサイトを作ろうと思えば、どれほどの技術力、独創的なアイデア、それを実装するための労力が必要かを梅田氏は完全に無視している。

自分の分身として勝手に稼いでくれるだけのコンテンツをもつウェブサイトを作り上げるに足る、技術力や独創的なアイデアを得るには、高い教育水準と、経済的な安定に加えて、特定分野について一般人と差別化できる極めて深い知識が必要であることは言うまでもない。

梅田氏は第二法則の事例として、第二章でGoogleのアドセンスという広告サービス、第三章でAmazonのWebサービスAPIをあげている。アドセンスとはウェブサイトの内容に合わせた広告を自動的に選別して表示するサービスで、個人でも申し込めることが画期的だと書かれている。表示された広告がクリックされると、1クリックあたりいくらという風にウェブサイトの運営者に広告料が支払われるしくみだ。

梅田氏は次のように根拠のない楽観論をふりまわしている。

「月に10万円稼ぐにはテーマ性の高い人気サイトを作らなければならないからたいへんだが、月数万円規模ならば少々の努力で、月数千円規模ならばかなりの確率でたどりつく。家に引きこもって、ウェブサイトを通じてネット世界とつながっているだけで、リアル世界で通用する小遣い銭が自然に入ってくる仕組みである」(p.75)

たしかに梅田氏の友人知人には月数万円を軽く稼いでいる人がたくさんいるのだろう。しかしそれは梅田氏の友人知人が野心に燃えた起業家だったり、梅田氏に匹敵する高度な教育を受けたエリートたちだからであるに過ぎない。『ウェブ進化論』批判の最初でもふれたように、梅田望夫という人物は、自分がいかに恵まれた環境にあるかについてあまりに無自覚である。

同じページには続けてこう書かれている。「『何だ、ケチな話をしているなぁ。それだけじゃ喰えないだろ』などと言うなかれ。それはフルタイムの安定した仕事に従事する『持てる者』の発想だ。グーグル経済圏に最も敏感に反応するのは『持たざるもの』である」(p.75)

では、上野公園のビニールテントで生活している皆さんはどうしてグーグル経済圏に敏感に反応しないのだろうか。このあたりの梅田氏の議論は、荒唐無稽、ナンセンスもいいところである。

Googleのアドセンスはたしかに個人のウェブサイトでも広告掲載できるが、インターネット広告は始まった当初から広告掲載に厳しい制限はなかった。例えばこの「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」には、約9年前の一時期、ホンダの新車の広告が表示されていたことがある。ホンダの広告を表示するには、1日で終わる簡単な審査があっただけ。Googleのアドセンスで個人が広告が出せるということは何ら目新しいことではない。

Googleのアドセンスの新しさは次の2点である。(1)ウェブサイトの内容を自動的に判別する仕組み、(2)10年前と比べると個人のウェブサイトが爆発的に増加したことによる「ロングテール」現象。ただし(2)はGoogleのアドセンス自体の新しさというより、ウェブ利用者の増加でネット広告業界が等しくうけている恩恵なので、厳密に言えばアドセンスの独創性は(1)だけである。

しかもアドセンスのウェブサイトの内容を自動的に判別すると言っても、同音異義語を文脈から正しく解釈できるわけではなく、様々なキーワードの組み合わせによる出現頻度を統計処理しているに過ぎない。

だから例えば「ユリイカ」という単語が頻出するウェブサイトに、日本の若手映画監督のDVDの広告を表示すればいいのか、現代思想や現代詩の新刊広告を表示すればいいのか、残念ながらアドセンスには判別できない。アドセンスの表示する広告を注意して見ていると、この種の微笑ましい「勘違い」にかなりの確率で出会う。

梅田氏がもう一つ上げている例はAmazonが書籍検索機能を無償公開している点だ。ここにAmazonのアフィリエート・プログラムを付け加えてもいいだろう。しかしこれもアドセンスと同じ議論で反駁できる。

月数万円の収入になるほど広告をクリックしてもらえるようなウェブサイト、月数万円の収入になるほど閲覧者にAmazonで本を買わせることができるウェブサイトを作ろうと思えば、一般人はいったいどれほどの時間と労力、そして前提となる一定の教育水準と情報リテラシーが必要だろうか。

(それにWebサービスのAPIを個人のウェブサイトに自力で組み込めるだけのITスキルのある人間があり余るほどいるなら、今の日本のIT人材不足を梅田氏はどう説明するのだろうか)

梅田氏の主張とは正反対で、アドセンスやアフィリエート・プログラムは所詮「持てる者」の小遣い稼ぎ以外の何ものでもない。

さらに今後、梅田氏の『ウェブ進化論』を読んでアドセンスを知った企業が増えるとともに、アドセンスの広告主が増えていけば、需要と供給の均衡で価格が決まる市場原理によって、1クリックあたりの広告料は少しずつ高くなっていく。

すると費用対効果についてより敏感な中小企業から、アドセンスのようなネット広告をあきらめることになり、それとともにウェブサイトの運営者である個人一人あたりに落ちるお金も収穫逓減の法則にしたがって一定水準以上には増えなくなる。

つまり、ウェブサイトが自分の分身として勝手に稼いでくれるという現象は、アドセンスのような広告を知っている広告主やウェブサイト運営者が、現実の世界に存在する企業数や人口に比べて圧倒的に少なく、そのごく少数の、いわば「ネットエリート」である企業や個人たちが情報の非対称性を利用して、一時的に享受している現象でしかないのだ。

第二法則もやはり一つの「結果」でしかないことがわかる。現時点で企業や人々の間に存在する情報の非対称性を「原因」とする、一つの「結果」としての現象でしかないのである。単なる「結果」を法則あつかいする誤りを、梅田氏はここでも犯している。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

【補論】『ウェブ進化論』第一法則の単純なミス

梅田望夫氏『ウェブ進化論』第一法則「神の視点からの世界理解」批判に付け加えたいことがある。昨日書いたように、梅田氏は原因と結果を取り違えて、結果を「法則」と読んでしまう深刻な誤りを犯している。

ECサイトや検索エンジンが、大量の購買履歴データやWebサイトの索引データを手に入れ、それを計算処理することによって、梅田氏のような素朴なウェブ信奉者に対して、世界を「理解」しているかのような外観を与えることができているのは、それ以前にそれらECサイトや検索エンジンが独創的なサービスを提供したからである。

ウェブ世界の法則を論じるなら、その独創的なサービスにひそんでいる法則性をとりあげるべきであって、その単なる結果である大規模なデータベースと計算処理能力をとりあげるのは誤りである。昨日ここでそのように書いた。

さらに考えてみよう。たとえAmazonやGoogleが独創的なサービスを提供し始めたとしても、数百万、数千万単位の人々がその利点に気づかなければ利用者は増えず、結果として大規模なデータベース構築はできない。厳密に言えばGoogleはプログラムが自動的にWebサイトの索引を作成するので、利用者に認知されるかどうかは無関係だが、彼らの主要な収益源であり存立基盤である広告事業の成功には、相当数の利用者に便利な検索サイトとして認知される必要があった。

ではAmazonや楽天、Google、そしてYahoo!といったウェブ上のサービス提供者が、現在のような圧倒的多数の利用者を勝ち得た原因は何だろうか。梅田氏ならおそらく、独創的なサービスが口コミでひろがる、ウェブ特有のバイラルマーケティングの成果だとぶち上げるだろうが、果たして本当にそうだろうか。

これらのサービス提供者は、現実には現在のようなウェブ特有の口コミ宣伝が成立する以前の時期に、ウェブを利用したことがない人々をも顧客として取り込む必要があった。そのために彼らがやったことは、当然のことだが既存のメディアを利用した広告戦略である。

Amazonや楽天はCEOが既存メディアで派手に立ち回ることで自ら広告塔となり、サービスの認知度を根気よく高めていった。Googleも僕や梅田氏のようなコンピュータのヘビーユーザ以外の、一般的な認知を得たのは、IPOや時価総額で経済関連メディアに話題をふりまいたからだ。

Yahoo!は登場した当時、ウェブ上の「電話帳」としてほぼ競合他社が存在しない状態だった。この「愛と苦悩の日記」の親サイト「think or die」がYahoo!JAPANで新世紀エヴァンゲリオンの登録サイトになったのはもう10年前の話だが、当時はYahoo!はウェブのディレクトリ(電話帳)サービスとして圧倒的シェアを握っていながら、同時に手近な存在でもあった。ネットの利用者数が少なかった時代に少ない広告宣伝費で独占の地位を築き、先行者利益を享受したと言える。

これらのサービス提供者に対抗しようとして消えていった事業者は数知れず。現在でも対抗できている事業者は、大量の資金を投じて既存メディアで広告を打つか、堀江貴文氏のように「特殊な」広告宣伝技法を用いなければ、ウェブ上でサービスを事業として存続させるだけの顧客数(クリティカル・マス)を獲得できない。

結局のところ、営利企業である以上、いくら独自性のあるサービスを開発したところで、リアルの世界で既存メディアを利用して一定数の認知を得なければ、Amazonも楽天もGoogleもYahoo!存続できなかったのだ。Amazonが「ロングテール」を利用して収益を上げられるのも、数億単位の利用者の認知を得たからこそなのである。

以前にもこの「愛と苦悩の日記」に書いたが、このリアル世界での認知獲得の重要性を理解せず、ウェブの口コミマーケティング効果が自分たちにも当てはまるのだと誤解して、特攻隊的に事業展開するネット企業は、これまでも無数に登場しては消えている。

Web2.0の典型として紹介されるサービス、たとえばアスク・ジーヴズやWikipediaのようなサービスのうち、「最近ブログを始めました」というウェブ利用者が知っているものが一体いくつあるだろうか。アスク・ジーヴズやオールアバウト・ジャパンが日本でテレビCMを放送していたという事実さえ知らないウェブ利用者が過半数ではないのか。毎日ウェブで証券取引をやっている人も、「はてな」って何?という程度の認識しかないのが現実ではないのか。

ウェブ世界にどっぷり浸っている梅田氏のような人物は、AmazonやGoogleがこれまで認知獲得のために、あるときは直接に(広告宣伝費として)、またあるときは間接に(派手なM&A戦略などで)、いかに大量の資金をリアル世界でつぎ込んでいるかを過小評価している。まるでAmazonやGoogleはサービスの独創性とネット上の口コミ宣伝だけで、現在の地位にのし上がったかのような誤った印象を与えようとする。

AmazonやGoogleのようなサービス提供者は、まず独創的なサービスを思いつき、それを現実の世界で認知させるために、あの手この手の広告宣伝を打ち、それによって一定数の顧客を獲得し、その結果初めて「神」が「世界を理解」しているかのような外観を与えることができているのである。

梅田氏の議論はそれらの中間段階をすべてすっ飛ばして、最終結果をウェブ世界の「第一法則」として祭り上げてしまっている。このように検証してみても、梅田氏の議論がいかに粗雑であるかがご理解いただけるだろう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

『エウレカセブン』全50話完走

ようやく『交響詩篇エウレカセブン』の全50話をインターネット放送で観終えた。13日かけたので1日あたり4話。出勤前、朝食をとりながら1話、帰宅後に3話のペースだ。この「愛と苦悩の日記」はフランス現代思想に関する記事を除いて、分かる人にしか分からないヲタク的サイトにしたくないので、『交響詩篇エウレカセブン』について専門用語を最小限にとどめた個人的な解説を書いておく。専門用語に関する詳細な解説は「はてな」の「エウレカセブン」グループを参照のこと。

『交響詩篇エウレカセブン』は、スカブコーラル(「サンゴ礁状のかさぶた」の意味)と呼ばれる知的生命体と、同じく知的生命体である人間が、地球上で共生することは可能かという問いを主題としている。おそらく人間と自然の共生という永遠の主題の反復である。

舞台設定は今から1万年後の地球。1万年前(つまり現代)、何らかのきっかけで地球に飛来したスカブコーラルの原型は、融合するという方法でしか他者と意思疎通できないため、地球上のあらゆる生命をのみ込んでいく。人類はそれを恐れて地球を脱出、スカブコーラルは地球を覆いつくしたところで、自らが完全な孤独に陥ったことに気づき、他者の存在がいかに大切かを初めて知る。

1万年後、人類が再び地球にもどって来たとき、スカブコーラルは人類こそ自らが対話し得る唯一の知的生命体であることを理解していたので、1万年前のようにただ融合しようとして人類を恐れさせるのではなく、それ以外の方法で人類と対話し、地球上で人類と共生する可能性を模索しようとした。そのためにスカブコーラルは、人間と同じ形をした人型コーラリアンを人類のもとに送り出した。

その人型コーラリアンの一つが、このアニメのタイトルにもなっている主人公の少女エウレカである。エウレカは自らの出自についての記憶がなく、いわば「白紙の書物」として人類に提示される。

しかし人類の一部は人類だけが地球上で生き延びるべき存在だと主張、スカブコーラルを殲滅するための地球規模の軍事作戦を発動する。これを阻止し、人類とスカブコーラルの共存をめざす集団は、エウレカを人間の少年レントンと引き合わせ、この二人に人類とスカブコーラルの共存する未来を託す。

これだけコンパクトにまとめてしまうと、何ということもないエコロジーなお話だが、エウレカとレントンの極めて個人的な恋愛の成就が、地球の救済と直結しているという飛躍がアニメーションらしいおとぎ話になっている。ラブストーリーとして観た場合、スカブコーラル(女性)と人間(男性)と人型ロボット(女性)の三角関係、スカブコーラル(女性)と人間(男性)と人間(男性)の三角関係など、種を超えた関係の心理描写にまで踏み込んでいる点が興味深い。

また、仏教に似た宗教を信仰する急進派のテロリズムが描かれたり、「ワルサワ」という都市で民族浄化のための大量虐殺が起こるなど、現実のテロや戦争を想起させる挿話もある。仏教的含意が盛りだくさんでありながら、クラブミュージックやサーフィンに似たスポーツなどのサブカルチャーも登場する。

それでいて男は男らしく、女は女らしくという保守的な性別役割分業が徹底している物語で、少女エウレカが冷徹な軍人からしおらしい少女に変化していくと同時に、少年レントンは情けない子供から、頼りがいのある男に成長していく。

しかし日曜朝7時という幼稚園児や小学校低学年向けの放送時間と、狙いとしている視聴者層がまったく合っていないことや、主人公の少女エウレカに「セブン」をつけて、明らかにウルトラセブンを連想させる「エウレカセブン」というダサダサの題名をつけてしまったことから、視聴率はかなり低迷したままテレビ放送を終えたようだ。ちなみに「セブン」は放送時間の朝7時ということと、劇中、スカブコーラルと人間が心を通わせたときに七色の虹が空を覆う超常現象を意味している。らしい。

長いフィクションに付き合うと、そのフィクションの出来、不出来にかかわらず、完結したところで多少の虚脱感に襲われるのはやむを得ないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/15

『ウェブ進化論』第一法則「神の視点からの世界理解」の単純なミス

大ベストセラー、梅田望夫『ウェブ進化論』の詳細な再検討のつづき、今回はネット世界の第一法則「神の視点からの世界理解」についてである。「神の視点」とは、インターネットが「『全体』を丸ごと分析し、『全体』として何が起きているのかを理解できるようになった」(p.35)ことだと書かれてあるが、これは端的にウソだ。

梅田氏があげている事例は、楽天などのオンライン・ショップ(ECサイト)の購買履歴と、Googleのロボットが作り上げる膨大な索引情報である。

まずオンライン・ショップの購買履歴だが、より広く言えば、無数の利用者がWebサイトのどのページを開いたかを時系列で蓄積したデータということになる。Amazon.co.jpでは直前に検索した書籍、過去に購入した書籍などが、個人を特定するIDとひもづけて蓄積されている。それによってAmazonは個々の利用者が興味を持ちそうな書籍を自動的に推薦できる。

Webサイトの閲覧履歴を記録する機能は、もともとWebサーバに存在する。その行動履歴を、利用者IDとひもづけてデータベース化するのは、目新しい技術ではない。記憶装置の価格が年々下落しているので、当然のことながら、大量の行動履歴データを安く蓄積できるようになっている。

驚くべきことに梅田氏は、ここへ唐突に「神」の比喩を持ち込んでいるのだ。つまりインターネットは膨大な行動履歴データを通じて、神のように世界のすみずみを理解する「全知全能」の存在、「ビッグブラザー」のような存在だというわけだ。

しかしECサイトがやっていることは、単に膨大な行動履歴データを統計処理して、個々の利用者の次の行動を予測しているだけであり、なぜそうなるのかを「理解」しているわけではない。

例えばAmazon.co.jpでフレイザー著『金枝篇』を検索すると、『交響詩篇エウレカセブン』というアニメーションのコミック単行本が推薦図書として表示される。これは、単に膨大な購買履歴データを統計処理した結果が表示されているだけであって、決してAmazon.co.jpが「『エウレカセブン』というアニメが『金枝篇』で取り上げられている『王殺し』に着想を得ているからだ」と「理解」しているからではない。統計処理の結果がかなりの確率で当たっているので、まるでAmazon.co.jpがものごとの原因を「理解」しているかのように見えるだけの話だ。

Googleの膨大な索引データについても同じことが言える。Googleが利用者の入力するキーワードから、利用者の求めるWebサイトを一定の確率で検索結果として表示するのは、グーグルが全てのWebサイトの内容を「理解」しているからではない。

単にWebサイト間のハイパーリンクの張られ具合を統計処理して、どのWebサイトがいちばん重要そうかを推測しているだけのことだ。もしGoogleの検索エンジンがWebサイトの内容を「理解」できるなら、自然言語を理解できるはずだが、残念ながらGoogleはいまだに自然言語による検索ができない。人間の方がかなり頭をつかって検索キーワードを工夫しないと、まともな検索結果が得られない。

Amazon.co.jpが先進的であると言われる理由は、大量の購買履歴を統計処理できるからではない。そうではなく、(1)誰でも書評を書き込めるようにすることで、利用者がそれぞれの書物についての「理解」や評価を共有する場を提供したこと、(2)誰でも手持ちの古書を出品できるようにすることで、古書の流動性を飛躍的に高めたこと、(3)書籍検索の機能をアフィリエート制度というインセンティブつきで無償開放し、潜在的に全てのWebサイトを自らの「支店」にしたこと、などである。断じてAmazon.co.jpがネット世界を「理解」する「神」のような存在だから先進的なのではない。

同様にGoogleが先進的であると言われる理由は、個々のWebサイトの重要性を、サイト間のリンクの張られ具合から定量的に計算する方法を発明したからであり、決してGoogleの検索エンジンが「世界中のウェブサイトに『何が書かれているのか』ということを『全体を俯瞰した視点』で理解することができる」(p.36)からではない。

梅田氏のいう第一法則「神の視点からの世界理解」は、「神」という比喩によってコンピュータの計算処理をいたずらに神秘化しようとしている。この点で梅田氏はウェブの進化を誇大広告する誤りを犯している。

しかも、Web2.0の先進性は、梅田氏が「神」という比喩で過大評価したがっているような、大量のデータを安価に蓄積し、短時間で計算処理できるようになった点にはない。この意味で梅田氏は二重の誤りを犯していることになる。

Web2.0の本当の先進性は、商品に対する評価や、「リンクを張る」という行為を通じたWebサイトの評価など、人間でなければ産み出せない知的活動の成果を共有し、流通させる「場」を無料で提供したことにあるのではないのか。

本書の別の箇所で、梅田氏はインターネットには「中心」が存在しないことをくりかえし強調している。まさにその通りで、ECサイトや検索エンジンの先進性は、自らが「中心」となることなく、人間だけが産み出しうる知的生産物が流通する「場」を提供している点にあるのだ。

ところが「神の視点からの世界理解」という比喩は、インターネットの世界に「中心」が(唯一ではないにせよ)いくつか存在することを認めてしまっている。しかし仮にAmazonがオンライン書店の「神」であり、Googleが検索エンジンの「神」であるとしても、それはAmazonやGoogleが先進的なサービスを提供した結果であって、原因ではない。

ネット世界の「法則」を論じるのであれば、なぜAmazonやGoogleが「神の視点」になり得たのか、その原因を「法則」として提示しなければならない。なぜ梅田氏は、単なる「結果」を「法則」を取り違えるような初歩的なミスを犯してしまっているのだろうか。「万有引力の法則」は、リンゴが落ちたことの「原因」だから「法則」と呼べるわけで、誰も「リンゴ落下の法則」などと言わない。こんなの、当たり前のことじゃないか。

梅田氏の議論はこのように基本的なところで誤っているがゆえに信用できない。このように粗雑な議論しかできないような人物が、ネットの先進性を称揚するものだから、旧世代の人々にとってネット世界はますます胡散臭いものに見えてしまう。このことが僕には残念でならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/13

梅田望夫氏『ウェブ進化論』のアナロジーに関する深刻な矛盾

引き続き梅田望夫著『ウェブ進化論』の詳細な再検討である。読み進めるうちに、これだけつぎつぎと論理的な破綻や飛躍が出てくる書物というのも珍しい。少し前に保坂和志の『小説の自由』という小説論を読んでいたのだが、小説家である保坂氏の文章の方が、情報科学専攻のバリバリの理系出身者である梅田氏の文章よりもはるかに緻密で論理的なのはどうしたことか。

さて今回は梅田氏が「第一章『革命』であることの真の意味」で提示しているネット世界の三大法則のうち、第一法則「神の視点からの世界理解」を検証しようと思う。だがその前にこの三大法則そのものについて、梅田氏が信じがたい矛盾をきたしている点を指摘しておきたい。

梅田氏は第一章で、Web2.0のインターネットの世界の独自性を強調するために、「ノーベル物理学賞を受賞した」ファインマン教授の議論を援用している。ところで、このように「ノーベル物理学賞を受賞した」という枕詞をわざわざつけた上で、ノーベル賞受賞者の権威を借りて持論を補強するという方法も、梅田氏が典型的な権威側の人間、エスタブリッシュメントであることを図らずも露呈してしまっている。この梅田氏の無防備さ、素直さはいったい何なのだろうか。

話をもどそう。梅田氏がファインマン教授を援用しているのは、教授がニュートン力学の世界と量子力学の世界の違いの大きさを強調するために、自分の学生たちに対して「ニュートン力学からのアナロジーで」量子力学を理解しようとしてはいけないと諭していたからである。

『ウェブ進化論』の「あとがき」で梅田氏はふたたび、ネット世界をリアルな世界のアナロジーで理解しようとしてはいけないと、特に「『昨日から今日に至る日本社会』をで最も優れた仕事をされてきた方々」、つまり現在50代、60代あたりの年齢層の人たちに対して念を押している。なぜなら、ネット世界をリアル世界のアナロジーで理解しようとすると、「ネット世界の過小評価と、若い世代に対するやや悲観的でシニカルな視線」を結論づけてしまう場合が多くなるためだ。

「そのアプローチを改めてほしい。ウェブ進化を、アナロジーによってではなく丸ごと理解してほしい」(p.248)と、しつこいくらいにアナロジーによるネット世界の理解を否定している。

にもかかわらず、ネット世界を支配する三大法則の最初の二つは、「神の視点からの世界理解」「ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏」なのだ。「神の視点」という表現の一体どこがアナロジーでないと言うのか。「人間の分身」という表現がアナロジーでないなら、アナロジーとは何なのだろうか。

この『ウェブ進化論』という書物は、「あとがき」を読むまでもなく、明らかにWeb2.0のインターネットの世界をよく理解していない人たちに向けて、そのネット世界の独自性を理解してもらうことを目的として書かれており、その目的を達成するために実にさまざまなアナロジーが駆使されている。15ページに出てくる「甲子園に進むための高校野球予選のような仕組み」という表現、第二章に頻繁に登場する「グーグルの情報発電所」という表現など、いたるところにアナロジーが散りばめられている。

一方では激烈な調子で、ファインマン教授まで援用して、アナロジーによってネット世界の本質を理解することの不可能性を主張しながら、他方では本書の至るところに魅力的なアナロジーを散りばめる。ここにも梅田氏によって書かれた本書の深刻な矛盾がある。そしてやはり、梅田氏はこの矛盾に全く気づいている様子がない。この矛盾が意図的なものだというなら、ぜひこのブログにトラックバックで弁明をして頂きたい。

アナロジーをめぐる梅田氏の深刻な矛盾を指摘しているうちに、この記事も長くなってしまったので、第一法則「神の視点からの世界理解」の再検討はまた次にしたい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

LotusScriptでノーツ文書に自動的に画像を挿入する

Notes/DominoのLotusScriptで、文書中のリッチテキストに画像を次々と自動的に貼り付けていく処理をどう記述すればいいのか。最後にコーディングしたのは5年以上前なので思い出すのに苦労したが、ようやく思い出したのでGoogleで検索されるようにここに記しておく。

Lotus ScriptのNotesRichTextItemクラスのEmbedObjectメソッドを使うと、どうやっても添付ファイルか埋め込みオブジェクトにしかならず、画像がレンダリングされた状態、つまり画像が画像として表示されている状態で、リッチテキストに挿入することは不可能である。

いま自動化したい処理をNotesクライアントで手動でおこなうと次のようになる。新規文書を作成し、カーソルをリッチテキスト・フィールドに移動する。そしてメニューの「作成」→「画像」をクリックし、ファイル選択の画面から挿入したい画像ファイルを選んで「呼び出し」ボタンをクリックする。

この処理をLotusScriptで自動化するには、NotesUIWorkspaceクラスやNotesUIDocumentクラスを使えば良さそうだということが予測できる。そこでDomino Designerのヘルプをあれこれ調べてみると、やはりNotessUIDocumentクラスのImportメソッドを使えばよいことが分かった。実際のコードを例示すると下記のようになる。

Dim ws As New NotesUIWorkspace
Dim uidoc As NotesUIDocument

Set uidoc = ws.ComposeDocument("", "", "(フォーム名称)")
Call uidoc.FieldClear("(リッチテキスト・フィールドの名称)")
Call uidoc.GotoField("(リッチテキスト・フィールドの名称)")
Call uidoc.Import("JPEG Image", "(貼り付ける画像のファイル名)")
Call uidoc.Save()
Call uidoc.Close(True)

NotesUIWorkspaceクラスのComposeDocumentメソッドで新規文書を作成し、まずリッチテキスト・フィールドの中身をClearメソッドでクリアする。それからそのリッチテキスト・フィールドにフォーカスを移動して、Importメソッドで画像形式と画像のファイル名のフルパスを指定して画像を挿入する。最後にSaveメソッドで保存し、Closeメソッドで文書を閉じるという処理だ。(最後にCloseメソッドで文書を閉じるのを忘れると、Notesクライアント上で大量のウィンドウが開いたままになり、そのうちエラーで処理が中断される)

NotesUIDocumentクラスのImportメソッドを使うというのが最大のポイントだ。

既存文書に対して同様の処理を実行したいなら、ComposeDocumentメソッドの部分を下記のように書き換えればいい。

Dim cdoc As NotesDocument
Set uidoc = ws.EditDocument(True, cdoc, False)

cdocというNotesDocumentオブジェクトに、データベース内から様々な方法で検索した文書を代入しておいてから、NotesUIWorkspaceオブジェクトのEditDocumentメソッドを呼び出すという手順だ。

以上、将来また同じコードを書く必要が出てきたときのために(そんなことは二度となさそうだが)ここに記しておく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

梅田望夫『ウェブ進化論』第三法則「不特定多数無限大」の虚偽

昨日に引き続き梅田望夫氏『ウェブ進化論』の詳細な再検討を行う。今回は(≒無限大)×(≒ゼロ)=Somethingという仮説を取り上げる。この仮説は「第一章『革命』であることの真の意味」で、ネット世界が劇的な発展を始めた根拠としてのネット世界の「三大法則」というべき新しいルールの一つとして、「神の視点からの世界理解」「ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏」とならんで第三法則としてあげられているものだ。

この第三法則は序章「ウェブ社会-本当の大変化はこれから始まる」で真っ先に取り上げられている。以下にその説明を引用してみる。第三法則を成立させた要因として「不特定多数無限大の人々とのつながりを持つためのコストがほぼゼロになった」ということがある。

「従業員一万人の企業といえば立派な大企業であるが、この企業が一日稼動すると八万時間が価値創出のために使われる計算になる。『1万人×8時間』の人数を増やしながら、時間を短くしていくとどうなるだろう。10万人から48分ずつ時間を集めることができれば8万時間になる。100万人ならば1人4分48秒でいい。1000万人なら28.8秒。1億人なら3秒弱である。つまり従業員1万人の企業の社員が丸1日フルに働くのと同じ価値を、ひょっとしたら1億人の時間を3秒ずつ集めることでできるかもしれないのだ」

この仮説が端的に間違いであることは明らかだ。たしかに人間は3秒間で何らかの付加価値を生み出すかもしれないが、3秒間で付加価値を生み出せるのは、その人が生まれてからそれまでに一定の教育を受け、自らも情報収集し、それにもとづいて何かを考えたり労働したりした結果なのであり、3秒間で何もないところから付加価値を生み出すわけではない。

付加価値創出の瞬間だけに注目すれば、それはたったの3秒かもしれないが、その付加価値が生み出されるためには、人間というものは長い学習期間が必要なのだ。そして残念ながら人間が何事かを学習するための期間を、かんたんに短縮することはできない。

人間が何事かを一定水準にまで習熟するためには、必ず一定の期間が必要である。そこが人間とコンピュータの決定的な違いであり、あらかじめ作成したプログラムを流し込みさえすれば、瞬時に付加価値を生み出せるコンピュータと、脳細胞が有機的に変化するまで待たなければならない人間との違いだ。これは普通の人なら誰でも理解できる、コンピュータと人間との差異である。

梅田氏がこの点を完全に無視して、付加価値の算出に関与する人間の数と、同僚の価値の算出に必要な1人あたりの「労働」時間に、単純な双曲線を仮定してしまうのは、素朴というにもあまりに素朴すぎる。

『ウェブ進化論』の中では、この第三法則が随所で援用されている。たとえば「第4章 ブログと総表現社会」では、「本書全体を貫く背骨の一つに『不特定多数無限大』というキーワードがある」として、この第三法則がネットによる人類の「知的生産革命」とでも言うべきものの根拠とされている。

「革命」という名前がついているからには、梅田氏は意識的・無意識的とにかかわらず、そこに階級闘争の含意をもたせており、第4章の主題は「エリート対大衆」という表現行為における二層構造を崩壊させる「革命」的な力をネットがもっているということである。この点はまた後日、詳細に検討したい。

もう一点、「不特定多数無限大」という上述の第三法則は、人間の価値創出行為が一定の学習期間を必要としていることだけでなく、人間にとって時間の流れが必ずしも均質なものではないことも無視している。梅田氏は、人間にとってはどの1秒も同じ1秒であるという素朴な時間観、今となっては時代錯誤のデカルト的な空間化された時間観を、何の反省もなく前提してしまっているのだ。

しかし、人間は客観的に測定された同じ1秒間で、つねに同一量の価値創出ができるわけではない。価値創出の作業に集中している場合でも、人間の行為にはむらがある。これも常識的に考えれば当たり前のことで、むしろ人間が同じ単位時間でつねに同じ価値創出ができるという梅田氏の考え方の方が無理がある。

もっと卑俗な表現をすれば、人間にはそもそも休息時間が必要だし、意図せずして思考や行為が横道にそれていくこともある。このように梅田氏の主張する第三法則は、氏がテレビ東京系『ワールドビジネスサテライト』に出演したときも、わざわざフリップ付きで紹介されていたにもかかわらず、僕らの常識的にも、現代哲学の観点からも、そしておそらくは現代の最先端の科学の観点からも、信用するに値しない仮定なのである。

だとすれば、この仮定が「本書全体を貫く背骨の一つ」であるとされる本書全体の主張が深刻な危機にさらされることになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/12

既存の権威を体現する梅田望夫『ウェブ進化論』の深刻な矛盾

話題のベストセラー梅田望夫著『ウェブ進化論』は視野が狭く、矛盾だらけの楽観論に満ちていることを、これから数回に分けて論証していきたい。

梅田望夫著『ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)はいたるところ矛盾と飛躍に満ちた奇怪なベストセラーだ。文章に書いてある中身は論理的な根拠が薄弱な飛躍が各所に見られ、文章に書いてあることと著者がじっさいに行っている行動の間には深刻な矛盾がある。

これから数回に分けて本書の論理的飛躍や矛盾を検証し、本書が書かれる価値のなかった本であり、したがって読む価値のない本であることを示して行きたい。

「序章 ウェブ社会-本当の大変化はこれから始まる」で読者はいきなり深刻な矛盾につきあたる。筆者は「チープ革命」と呼ばれる現象を手放しで称揚している。「チープ革命」とはハードウェア価格の下落、オープンソース登場によるソフトウェアの無料化、高速回線の価格下落、検索エンジンのような無償サービスの充実などが、表現行為のためのコスト面の敷居を下げ、表現者数を増加させることだ。

それによって「ありとあらゆる表現行為について、甲子園に進むための高校野球選手権のような」「自由競争・継続競争の」「仕組みが、世界中すべての人に開かれているのが常態となる」。ネット上の情報の玉石混交問題が解決されれば、いわゆる権威が既存メディアを通じて届ける情報よりも、ネット上の情報の質が高くなり、「さらに専門家もネット上の議論に本気で参加しはじめるとき、既存メディアの権威は本当に揺らいでいく」。
「プロフェッショナルを(中略)認定する権威は、既存メディアから、グーグルをはじめとするテクノロジーに移行する」。

たしかに梅田氏は「ネットはメディアを殺すのか」といった単純な議論は否定するが、「チープ革命」によって既存メディアの権威は数十年かけて相対化されるだろうと、確信をもって書いている。

しかし梅田氏の経歴を見てみると、慶應義塾大学工学部卒業、東京大学大学院情報科学科修士課程修了という、まさに現代の日本では「権威そのもの」と言える経歴である。さらに本書がベストセラーになったのは、筑摩書房という典型的な「権威ある」既存メディアが多額の広告宣伝費をかけて宣伝したからでなくて何だろうか。本書を手に取るまで、僕は梅田氏がブログを開設していることさえ知らなかった。(梅田氏への反論として、グーグルのような検索エンジンの限界については、また後日書きたいと思う)

筑摩書房が新書シリーズのテコ入れのために、僕の大学時代の師である高橋哲哉を始め、野中郁次郎、茂木健一郎、四方田犬彦、養老孟司、加藤周一といった、そうそうたる権威に依存して執筆依頼をつづけているのはれっきとした事実である。梅田氏はその一員として、権威ある執筆者として既存メディアに選ばれたのだ。

笑ってしまうのは本書に差し込まれている日本版『フォーサイト』の広告である。そこに梅田氏は推薦のことばを寄せており、毎月『フォーサイト』を愛読していると書いている。その理由は「玉石混交の情報から『玉』を選び出す『質の高い編集』が行われている」からであり、「『フォーサイト』は、これから淘汰が起こるはずの雑誌メディア界でも確実に生き残る一誌だと確信しています」と書いている。

結局のところ梅田氏は既存メディアの人脈を駆使した情報選別能力と、それを継続することによって築き上げられる権威を全面的に信頼しているのであって、自らも慶応大学、東京大学大学院、シリコンバレー(シリコンバレーが現代のインターネット文化の「権威」の中枢でないというのは欺瞞である)という、現代日本に典型的な権威の王道をたどっている。

梅田氏がウェブによる既存メディアの相対化という主題を安心して展開できるのは、『フォーサイト』誌と同じく、自らの「権威」がウェブの進化によって覆される心配がまったくないからである。なぜなら梅田氏は日本で誰よりも早く「Web 2.0の革命性」に気づき、それを啓蒙しうる立場にある「権威」だからだ。

それがウェブであろうと既存メディアであろうと、誰が権威を得るかは結局のところ「情報の非対称性」で決まる。梅田氏は、同年齢の溶接工やタクシードライバーよりも、現代のウェブの先進性について圧倒的な情報量をもっていることは間違いない。

その理由は梅田氏が、極めてコストの高い教育をうけることができる経済的に恵まれた環境に育ったからで、梅田氏が称揚するネット先進企業の社員や、オープンソース・ソフトウェアの開発に参加するハッカーたちにも同じことが言える。

そのようにして自らが体現しているきわめて伝統的な権威を、梅田氏は意識的にか、無意識にか、完全に無視して本書の議論を進めている。自らが筑摩書房に選ばれる権威であり、テレビ東京系『ワールドビジネスサテライト』にゲストとして選ばれる権威であることをわきに置いたままで、自分の「ウェブ進化論」を展開できると信じている。

このように梅田氏は自らが書いている内容のレベルと、自らの現実の行動レベルで深刻な矛盾をきたしており、自らが書いているものの中でその矛盾を完全に無視しているように見える。本書に書かれている内容を検討するにあたっては、まずこの点をはっきりと認識しておくべきだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/11

ココログを更新しているのは単なるSEO対策

ちなみに、ロリポップサーバへの引越しが完了しているのに、こちらのココログを更新し続けているのは、単なるSEO対策である。今後は基本的にロリポップサーバのhttp://tod-blog.com/の方を更新することに違いはない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『エウレカセブン』に不覚にも「思い出し泣き」

■お笑い番組が好きな僕は、たまに強烈なギャグに思い出し笑いすることがあるが、「思い出し泣き」をしたのは、たぶん今回が初めてだと思う。

USENのブロードバンド放送「Gyao」で2006/04/10まで『交響詩篇エウレカセブン』第1話~25話が「エウレカセブンラリー・Trace ray=out25」と称して無料放送されていた。第14話あたりからの重苦しい展開に夢でうなされながらも、第20話まで何とか無料で観ることができた。第20話まで観ると残りを観ないわけには行かなくなり、まさに制作側の思う壷、続きをUSENの「ShowTime」で観ているところだ。

こうして一話ずつじっくり観ても、今まで書いたことを訂正する必要はないと感じた。『少女革命ウテナ』のような作品がアニメでしか表現できない極限を追求しているのに対し、『交響詩篇エウレカセブン』はやはり教養小説的でオーソドックスなドラマである。

ただ、今まで書いたことに付け加えるとすれば、オーソドックスなドラマとしては非常によく出来ている。出来すぎなくらいだ。例えばビームス夫妻と主人公の少年レントンの出会いから別れまで(第22話から第28話)はこの部分だけでも一編のドラマとして見る価値がある。残念ながら背景を理解するには第1話から観る必要があるので、この部分だけ切り出してご覧になっても殆ど意味が分からないかもしれない。

戦艦「月光号」の仲間たちに見放されたと思い込んだ少年レントンは、絶望して黙って戦艦を立ち去り、行き着いた街を放浪する。寝ている間に荷物を盗まれ、無一文になったレントンは偶然ビームス夫妻に助けられる。

夫妻はレントンを実の息子のように温かく迎え、それまでの戦闘で傷ついた心を癒されたレントンは、養子として平穏に暮らすことを考え始める。レントンは幼い頃に父母を亡くし、母代わりの姉に育てられた子供だった。ビームス夫妻はレントンにとって、初めて父さん、母さんと呼べる存在だったのだ。

ビームス夫妻もレントンを息子として育てていこうと決める。夫チャールズの妻レイは、過去のある出来事のために子供ができない体になってしまった。チャールズはそれを知った上でレイと結婚したのだった。

しかしレントンが月光号の乗組員であること、そして少女エウレカとともに人型ロボット「ニルヴァーシュ Type ZERO」を操縦していることを告白すると、夫妻の顔色が変わる。チャールズ夫妻は月光号と敵対する軍の傭兵であり、エウレカとニルヴァーシュの奪取を任務としていたからだ。そしてチャールズは月光号のリーダ・ホランドと、かつては同じ軍隊の盟友だった。

真実を知ったレントンはエウレカを守るために月光号に戻ることを決意し、チャールズは自分たちの戦艦から去るレントンを送り出す。妻のレイはせっかく手に入れた「息子」との三人の幸福な生活が、もろくも崩れ去ったことに慟哭する。しかしチャールズと果たすべき任務に変わりはなかった。チャールズはレントンと対決することになると知った上で送り出したのだ。そしてレイが子供を産めない体になったのは、実は人間ではない特殊な生命体であるエウレカが引き起こした、大規模な超常現象の影響だった。

月光号にもどったレントンはビームス夫妻の作戦を明かすが、それは対決を何としても避けたい思いからだった。しかしビームス夫妻は月光号に生身で侵入するという強襲をかけ、月光号のリーダ・ホランドは至近距離での銃撃戦の末、かつての盟友チャールズを射殺する。妻レイはチャールズがあらかじめ飲み込んであった時限爆弾が爆発し、チャールズの体が大破するすきに逃亡する。

数日後、レイは再び月光号に一人で奇襲をしかけてくる。ひとときでも父親と呼べた人を目の前で殺されたレントンは、交戦を避けようとレイに呼びかけるが、エウレカへの復讐を心に誓ったレイは聞く耳を持たない。

月光号は激しい交戦の末、ついにレイの戦艦を大破させ、レイは墜落する戦艦の中、ちぎれて吹き飛んだ自分の左腕のところまで這っていく途中で力尽きる。その左腕の薬指には、あのとき病院のベッドで、自分が子供ができない体になったことを知りながら、明るくプロポーズしたチャールズがはめてくれた指輪が、まだしっかりとはまっていた...。

ちなみに僕が「思い出し泣き」をしたのはビームス夫妻とレントンの逸話とは直接関係のない、第24話のとある場面なのだが、分かった方はトラックバックを頂きたい。(と言ってもこのブログの読者にそんな暇な方はいないだろうが)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

メルキオール『現代フランス思想とは何か』

■J.G.メルキオール『現代フランス思想とは何か―レヴィ=ストロース、バルト、デリダへの批判的アプローチ』を読み終えた。メルキオールのような啓蒙主義の考え方の人は、考えるという行為の生産性を重要視するようだ。つまりある書物を読んだとき、読者がどれくらい賢くなるか、それがその書物に書かれていることの価値を決めるということだ。

そんなメルキオールのような人が、デリダを「思想の文学化だ」と何度も繰り返し厳しく批判するのは理解できる。また、文学作品を読むとき、テキストの外部、たとえば著者の生い立ちや、その書物が書かれた時代背景といったものすべてを排除するポスト構造主義のテキスト分析の考え方は、文学作品の読みを浅薄なものにしてしまうという批判も、啓蒙主義らしい批判だ。

またメルキオールは、構造主義がsyntagmを重視し、paradigmをほぼ無視することで、歴史を否定するか無視するかのどちらかで、ポスト構造主義が歴史を単なる遅延、つまり決定不可能性に還元してしまっていると批判する。これも啓蒙主義という立場を考えれば、納得の批判である。

一人ひとりの人間は毎日少しずつ成長し、賢くなってしかるべきだし(この言い方、どこかで読んだと思ったら、親サイトで徹底批判したアンソニー・ロビンズ『夢と幸せをつかむ!成功への9ステップ』ではないか。啓蒙主義がプラグマティズムと親和性があるのは当然かもしれないが)、人類総体としても少しずつ賢くなってしかるべきだ。

しかし後期デリダの政治的な発言をメルキオールはどう考えるのだろうか。たしかにデリダの思想をサブカルチャー批判など、言語学や記号論と親和性の高い分野に適用する限りは、メルキオールの啓蒙主義からの批判は有効かもしれないが、高橋哲哉氏のようにデリダ研究者でありながら、もっとも先鋭的な歴史問題に取り組んでいる事例は、どのような批判を受けるのだろうか。残念ながら一介の会社員である僕には、この興味深いデリダ研究テーマに取り組む時間がない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/05

トラック架装メーカー偽装工事で国交省の機能不全

■毎日いろいろと面白い事が起こるものだが、トラックの架装メーカー47社、昨年末までの3年間で8670台の車両に、最大積載量を水増しするための偽装工事が行われていたようだ。(ある架装メーカーのWebサイトによれば、「架装」とはもともと「加装」つまり装備を追加すると書いたようで、車体の形状そのものを変更する一次架装と、車体に対して単なる補足工事を行うだけの「二次架装」があるようだ。今回のトラックの架装は二次架装ということになる)

発覚のきっかけになったのが三菱ふそうトラック・バス子会社の架装メーカー「パブコ」だったので、またもや三菱ふそうの不祥事かと思ったら、神奈川県警の調べによればトラック業界全体でメーカーと販売会社の共謀で長年にわたって横行していた不正行為というから驚きだ。

47社もある架装メーカーのうち、今回の最大積載量偽装が発覚したのが、なぜ三菱ふそうトラック・バス子会社からだったのか。この点が非常に興味深い。パブコが不正車検を国土交通省に報告したのが2006/02/03、それから2か月たってようやく業界全体での不正行為であることが判明したということだ。

2006/02/03より以前の2006/01/10に、元三菱ふそう関連社員が、同グループの販売会社から偽の発注で車両をだまし取り、詐欺容疑で逮捕されるというニュースが共同通信から報道されている。また周知のように、三菱ふそうトラック・バスは2004年以降のリコール隠し・ヤミ改修で国土交通省から「目をつけられていた」ということもある。

想像するにこれらの状況が「幸いして」、業界全体での不正が三菱ふそう系列から明るみに出たのではないか。三菱ふそうに関係する社員の内部告発である可能性もある。

しかし、神奈川県警や国土交通省が、三菱自動車と三菱ふそうのリコール隠しであれだけ両社や系列会社に調べを入れていたにもかかわらず、トラック業界全体での不正行為を明らかにできなかったというのは何故なのだろうか。

問題の大きさとしては、三菱自動車1社の不正行為と、業界全体でのトラックメーカーや系列販社を巻き込んでの不正行為と、比較するまでもなく後者の方が重大な問題である。それを監督官庁である国土交通省が、リコール問題であれだけ三菱自動車・三菱ふそうに踏み込んでおきながら発見できなかったというのは、監督官庁としての単なる怠慢ではないか。

もちろん不正行為におよぶトラックメーカーと販社に非があることに違いないのだが、三菱1社のリコール問題にあれだけこだわっておきながら、トラック業界全体の不正行為を発見できなかった監督官庁の責任も問われてしかるべきだろう。法制度の有効性が担保されるのは、それが正しく執行される限りにおいてである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/04/04

NHK『ニュースウォッチ9』から目が離せない

■NHKは変わろうとしているのか。4月1日から始まった毎晩9時の新番組『ニュースウォッチ9』は、テレビ朝日でもここまで徹底しているかと思うほど、政府や官庁への批判が手厳しい。今日はBSE専門調査会の専門員の半数が辞任したニュースについて、はっきりと「政府の政治的圧力があったと語る委員がいた」と報道していたし、官庁の随意契約問題では、環境庁の発注案件の93%が随意契約になっており、ホームページの作成や報告書の作成などについて、一般競争入札にすれば明らかに税金の無駄遣いが防げることを専門家の意見から実証し、公然と環境庁批判を展開していた。

僕の大学時代の先輩や同級生にもディレクター志望でNHKに就職した人が数人いたが、右か左かどちらかと言われれば左寄りの人が多かったと記憶している。従軍慰安婦のドキュメンタリー番組について、政治家の圧力があったのではないかという問題の記憶も新しい時期に起こった不祥事を経て、NHKの中で左寄りの人たちがのびのびと仕事ができるようになってきているのだとすれば、これは相当面白い見ものだ。

これからの『ニュースウォッチ9』は見逃せない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/04/03

三瓶由布子・名塚佳織

■ここ2か月くらい『交響詩篇エウレカセブン』の無料インターネット放送を毎週観ていたこともあり、久しぶりに毎週アニラジ(=アニメーション関係のラジオ番組)『エウレカセブン RADIO ray=out』を聴いていた。

昨日アニメーション放送と同日にラジオ番組も最終回ということを知っていたので、23:30には布団の中で準備万端だった。ところが野球中継の延長で30分遅れての開始。これだから野球シーズンは嫌いなのだ。半年間テレビやラジオが何もかも野球中継優先になってしまう。

『新世紀エヴァンゲリオン』にハマっていたときは、緒方恵美(主人公の少年・碇シンジ役)の『銀河に吠えろ』と林原めぐみ(ヒロイン?の綾波レイ役)の『東京ブギーナイト』を両方聴く必要があった。今回は主人公の少年レントン役・三瓶由布子(さんぺい・ゆうこ)とヒロインのエウレカ役・名塚佳織(なづか・かおり)が二人とも『RADIO ray=out』に出演している。

『完成目前!緊急ナビ!!』というインターネット番組で(なぜか司会はお笑いコンビ次長課長)初めて三瓶由布子と名塚佳織の顔を見たが、三瓶由布子は僕が少年役ということで勝手に緒方恵美とダブらせていたイメージとまったく違って、普通の20歳の女性だった。

たまたま「アニメイトTV Web」というサイトで三瓶由布子の劇団若草の宣材写真を見つけたのだが、色あせ具合がまるで1980年代のアイドルのようだ。現在の彼女の写真は『RADIO ray=out』の公式ブログで確認できる。トップページ左上の2人のうち、茶髪で肩幅が広い方が少女エウレカ役の名塚佳織、黒髪の方が少年レントン役の三瓶由布子である。三瓶由布子は劇団若草のインタビュー記事にも登場している

次にエウレカ役の方の名塚佳織の肩幅が、なぜあんなに広いのか気になるところだが、その前にアニラジというのがどんなものか体験したい方は、「音泉」というWebサイトでストリーミング放送『名塚佳織 かもさん学園』などをお聴きになられたい。ここでの名塚佳織はエウレカ役とは無関係な声色でゆる~いトークを展開している。(ちなみに第70回放送の中では「やっぱり肩幅ガッチリしてますねって言われるより、腕が細いって言われる方がうれしいですね」と自ら語っている)

Wikipediaによれば名塚佳織は小学生の頃からミュージカルに出演しているようで、ダンスもできるらしい。三瓶由布子とは同年齢。あるWebサイトによれば「癒し系へたれろりろりボイスの代表格」とのこと。ちなみに同じWebサイトによると三瓶由布子は「ショタ系の声質が、ヲタ層を敬遠させている」らしい。何と的確な評なのだろうか。

以上、僕に藤原正彦批判をする資格のないことが明々白々な下らない記事だった。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/04/02

「生命は誰のものか」という問いと尊厳死

■富山県射水市の市民病院で、男性外科医が延命治療中の患者の人工呼吸器を、家族同意のもと外して死亡させていたというニュースがあった。中国新聞の社説から引用すると、1995年横浜地裁の、延命治療の中止による消極的安楽死が許される条件は、(1)耐え難い肉体的苦痛がある(2)死期が迫っている(3)苦痛を除去、緩和する他の手段がない(4)本人の意思表示があるの4つがすべてそろっていることだそうだ。

(1)について。肉体的苦痛が「耐え難い」かどうかは本人にしか判断できない。(2)について。いくら医療が発達しても死期を正確に予測することは難しいだろうし、末期がん患者のドキュメンタリー番組などを観ていると、医師の予測は概して保守的である。つまり、患者やその家族に虚しい期待を抱かせないように、余命について短めに見積る傾向があることがわかる。したがって医師の見積もった余命にもとづいて、安楽死を許可する基準とするのは、患者本人の判断や意思表示に比較すると、危険な恣意が入り込む可能性が高い。

(3)について。患者本人が苦痛を苦痛と感じられなくなっている場合にはどうすればいいのか。(4)について。今回の富山県の市民病院の事例のように、患者本人がもはや意思表示できない状態にある場合にはどうすればいいのか。

横浜地裁の提示した暫定的な消極的安楽死の基準は、意識がはっきりしていて、苦痛にのたうちまわっているような患者を想定している。脳死状態でも心臓を動かし続けることができたり、麻薬で苦痛を和らげることができたりといった医療の「進歩」で、このような患者はむしろ少数派ではないかと想像する。

では事前に一人ひとりが延命治療中止の条件を宣言できることを法制化したらどうかという議論がでてくる。ところがこれに対しては、テレビで「尊厳死」に反対する市民団体の代表がこんなことを話していた。ひとたび「尊厳死」を合法化してしまうと、社会的弱者は無言の圧力によって「自分など社会の役に立たないのだから死んだほうがいい」と考える傾向が生じるのを避けられない。だから「尊厳死」に反対する、と。

この反論は、尊厳死の根拠を主に本人の意思表示に置こうという尊厳死擁護派に対する深刻な反論である。個人の生命は本人の意思によってしか左右できない、とまでは言わないまでも、個人の生命を左右するもっとも重要な要素は本人の意思である、という社会通念は確かに存在する。その証拠に「個人の生命は個人だけのものではない」と書いてみると、やや宗教じみた響きになり、僕らの日常生活を支えている法制度の合理主義にそぐわない。

死刑という刑罰が最も重い刑罰たりうるのも、逆説的ではあるが、個人の生命をどうするかは本人の自由、というところにその根拠がある。つまり、本来は自分を生かすも殺すも本人の意思なのに、その意思を国家が暴力的に奪ってしまうことによって初めて、死刑は「極刑」たりえているということだ。

そのような意味で「尊厳死」反対派の意見は、「個人の命を本人の意思にゆだねるのは危険である」という意見に立っていて、とても深刻な反論だ。「尊厳死」に反対する人たちは当然、自殺は罪だと考えるだろう。個々人には自分の命を左右する権利はないのだから。

多くの新聞がいまだに「本人の意思確認があったか」を論点にしているが、本人の意思確認ができない場合であっても「尊厳死」を認めるかどうかまで踏み込まなければ、この議論は不十分だ。一歩踏み込んだ神戸新聞の社説であっても、「人間らしい終末期」という議論の立て方では「個人の命は個人のもの」という倫理観の域を出ていない。

マスコミも含めた世論全体がこの域を出ない限り、国会で尊厳死の許可条件が法制化されるのは時間の問題だろう。そこからカート・ヴォネガットの小説に登場する「自殺パーラー」までの距離は、そう遠くないかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『国家の品格』藤原正彦氏に関するおすすめブログ

■藤原正彦氏のエッセーについて、立ち読み程度で言いっぱなしも失礼だと考えたので、昨日近所の古本屋で氏のエッセイストとしてのデビュー作と思われる『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)を買って、きっちりテキスト分析をしようと計画した矢先、まさに先回りして同じことをやって下さっているブログの記事からトラックバックを頂いた。ここで改めてご紹介したい。

sleepless nightさんによるブログ『性・宗教・メディア・倫理』の今日2006/04/02の記事「新田次郎によろしく」である。エッセイストとしての藤原氏の「歴史」がコンパクト、かつ、非常に的確にまとまっているので、ぜひご一読下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『交響詩篇エウレカセブン』最終回

今日、『交響詩篇エウレカセブン』最終回1時間スペシャルが放送された。ShowTimeでの無料インターネット放送は今日の深夜24時からなので、待ちきれず、初めてハードディスク録画して午前中観ていた。

ところで僕がこの「愛と苦悩の日記」で『交響詩篇エウレカセブン』をこきおろしていることに関連して、10代の『エウレカセブン』ファンの少年からメールを頂いた。『エウレカセブン』はいろんな賞を受賞しているのだから、けなさないで欲しいという、別の権威にすがって僕に反論するという、少年らしい内容のメールだ。

ただ、この「愛と苦悩の日記」の親サイトである「think or die」のエッセーも含めて、筆者である僕が相当ひねくれた性格であることを考えると、ここ最近書いている『エウレカセブン』批判も文字どおりに読んでいいだろうか。

結局のところ僕は1月から毎週インターネット放送で『エウレカセブン』を観続けているし、今日の最終回もしっかり観てしまっている。確かにその作品世界は『新世紀エヴァンゲリオン』に比べれば、男女の異性愛をはじめとする分かりやすい二元論が支配しているし、何よりも明るい。底抜けに明るい。

今日の最終回でも、まさかハートマークの中に「レントン」「エウレカ」の文字といった、相合傘レベルの落書きが地球を救った英雄の「墓碑銘」になるとは思わなかったし、主人公の少年レントンが、純白の機体に変貌をとげたニルヴァーシュtype ZEROという人型ロボット(このネーミングも容易に『エヴァンゲリオン』のエヴァ零号機を思い出させる)に乗って、エウレカのいる巨大な球体に侵入していくのは、恥ずかしいくらい明らかに「受精」のメタファーになっている。球体の中でレントンがエウレカに再会したとき、「君と一体になりたいんだ」と語るのも、僕と同じ世代の『エウレカセブン』の脚本家がそこに性交の含意をもたせていることは明白だ。

要するにこれ以上ないというくらい屈託のないハッピーエンドだったのである。敵軍だった少年ドミニクと少女アネモネも、面映くなるくらい日常的な恋人どうしにもどっているし、人型ロボットのニルヴァーシュは、その名前から予想されたとおり、悟りの境地である涅槃(ニルヴァーナ)の具現化だったことが最終回で明らかになった。

...という具合に、ここまで細部に注目しながら毎週放送を観てきた僕にとって、『交響詩篇エウレカセブン』というアニメーションが、その出来の悪さゆえに愛すべき作品でないわけがない。メールを頂いた10代の少年は、ちょうどホランドやタルホのように、ストレートな愛情表現ができない大人の事情というのを分かってほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

依然夜間不通のココログ:責任感の希薄な富士通

■@niftyのブログサービス「ココログ」だが、バージョンアップ作業依頼、依然として付加が高く、夜間はほとんど記事の新規作成ができない状態だ。まったく富士通もいい加減にしてほしい。

有償で提供しているサービスの内容を勝手に変更して、負荷が高くなったからといって運営側の都合で勝手に接続制限をかけてサービス水準を落としておいて、しかも、新たに追加されたサービスの不具合に関する詳細な報告はあるものの、既存のサービス水準がなぜ落ちたのかについての説明がほとんどない。

インターネットプロバイダというのは、ある程度までは通信業者や電力会社と同じように公共性をもった企業としての自覚をもつべきだろう。東証のシステムについても、富士通という企業そのものに社会的責任を有する組織としての認識が不足しているのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

読んであきれる『国家の品格』まえがき

■昨日、近所の大型書店で『国家の品格』を立ち読みしたけれど、まえがきで著者自身が自分に品格のないことを認めている上に、自分の奥さんがここに書いてあることの半分以上は信用ならないと言っているなどと書いてあるではないか。

自ら品格のないことを認めておきながら、自分の地位を利用して大真面目で国家の品格を啓蒙する本を出版するような、いい加減な大人の存在こそが藤原氏自身の嘆くような現状を産み出しているのではないのか。

まったく、あきれてモノも言えない。モノが「言えない」ので、その代わりに「書いて」みた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »