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2006/01/29

東横インの不正改造問題

■ほとんどの支配人が女性であるということで、以前から女性労働力の活用(人間をモノ扱いしたこの表現、自分で書いていて強い違和感があるのだが)で注目されていた「東横イン」というホテルチェーンで、身体障害者のために義務付けられている施設をいったんは建設しながら、法定検査の後、撤去、ロビー拡張や客室を増やすなどの偽装工事を行っていたとして、建築基準法違反に問われているようだ。

「東横」という名前が付いているので、てっきり東急グループ企業だと僕も勘違いしていたのだが、東急グループとはまったく無関係だ。コンプライアンス意識が低く、「バレなければ多少の違法行為は許される」という「赤信号みんなでわたれば恐くない」的意識は、耐震偽装やライブドアに限らず、官製談合も含めて、日本の実業界にあっては「古き悪しき伝統」であり、今に始まった話ではない。

したがって、最近になって急激に日本に拝金主義がはびこっているかのような、「関口宏のサンデーモーニング的」論調は浅はかすぎて、議論としてはまったく生産的でなく、自体の改善にもつながらない。

結局、一企業の中でそのような違法行為が始まったときに、同じ組織の中でそれを阻止する自浄作用が働くしくみが、違法行為が起こる以前から組織に組み込まれているかどうかが本質的な問題だ。

こういった急成長ベンチャーに典型的なのが、創業者の周囲をかためる経営陣に、創業者に根本的な批判や疑義をさしはさむことのできない「イエスパーソン」ばかりが集まってしまうという弊害である。創業者が意図してイエスパーソンばかりを集めているというよりも、創業以来、創業者の理念に心酔して、結果的に会社の中枢が創業者の単なるフォロワーで固められてしまう、と言った方が正確だろう。

このようなベンチャー企業でコンプライアンスが正常に機能するには、創業者自身が自分とは異質なものを、監査役なり適切な位置に配置するだけの、冷静さや、相対主義的な考え方を身につけているかどうかにかかっている。

おそらくヒューザーの小島社長や、東横インの西田社長は、ある意味「純粋」な人たちであったために、自分自身の経営理念に一転の疑問も抱かず、がむしゃらに事業に打ち込み、自分の周囲がイエスパーソンで固められていくことに無自覚だったのだろう。企業理念というものに対して純粋でナイーブ過ぎるがゆえに、社内の部門間牽制が働かず、違法行為を発生させる温床を作り出してしまったのだ。

ライブドアの堀江元社長に彼らのようなナイーブさはなく、まったく逆で、意図的に法制度の限界に知的に挑戦するゲームを楽しんでいたのだろう。

多くの日本人はこれらの企業家と同じようにナイーブで、企業理念の実現を目指して仕事に打ち込む企業家の純粋さを、かんたんに称揚してしまう。拝金主義を批判する前に、一つの企業には創業者の情熱という「熱い」側面と、コンプライアンスのような、ある意味「しらけた視点」の「冷たい」側面の両方があって、初めて永続的な法人として成立するのだという、当たり前のことを思い出すべきだろう。

そして企業内に「熱い」側面と「冷たい」側面の拮抗状態を作り出すよう強制する制度が、日本の資本主義には未整備であることが最大の問題である。日本のマスコミも、関口宏の『サンデーモーニング』に典型的に現れているように、制度の未整備という本質的な点を議論せず、拝金主義批判や「お金より大切なものがある」などといった安易な道徳論ばかりをふりかざす。それが結果として制度の未整備を放置するという悪循環がある。

創業者の周囲にイエスパーソンばかりという企業は、財務諸表に現れない経営リスクを抱えているということが、もう少し経済界の常識になっていいと思うのだが、歴史大河ロマンの好きな日本人はなかなか考え方を変えられないのだろう。

2月からの日本経済新聞の連載は堺屋太一の『チンギスハン』だというし。また歴史物か、という感じで、うんざりだ。

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gyaoでイエス2001年アムステルダム公演放送中(02/16まで)

■ネットサーフィンしていたら、どこだかのブログで今USENのブロードバンドテレビ「gyao」で2001年のyesアムステルダム公演が放送されていると知り、さっそく視聴してみた。番組は3時間近く。まだ全ては観ていないが、ヨーロピアン・フェスティバル・オーケストラという40人編成の管弦楽とのコラボレーションで、1曲目がいきなり『Close to the Edge』である。

何と表現すればいいのだろう。身体的な反応をそのまま報告するしかないのだが、鳥肌が立った。yesの「危機」を全曲通して聴くのも久しぶりだが、オーケストラとの競演でゆったりとした編曲がなされており、このライブ版ではさらに長く30分近くの壮大かつ重厚な演奏になっている。発表から30年を経てもまったく迫力とスリルを失わない曲だ。

画面に現れるスティーブ・ハウは強い老眼鏡をかけて、一人際立って老け込んでしまっているのだが、1曲ごとに使うギターを取替え、すばやい左手の運指と演奏の正確さは変わらない。ジョン・アンダーソンの甲高いボーカルも変わっていない。美しいコーラスワークもライブであることを感じさせない。

僕は正直言うと1980年代『ロンリーハート』がリアルタイムのyes体験で、弟の影響を受けて1970年代の作品群と聴き比べ、「すでにyesは終わっている」と、その後のアルバムはほとんど聴いていない。今になってyesが2001年にアルバムを出していたことを知ったのも、俗化したyesはyesではないとばかり考えていたためだ。

しかしこのライブでは2001年のアルバム『マグニフィケイション』からも何曲か演奏されているのだが、いつの間にyesは1970年代の「神学」を取り戻していたのだろうか。ライブで新曲を紹介するジョン・アンダーソンのコメントは、ナイーブなほどに「神学的」である。

2006/02/16まで放送しているので、まだ観ておられないプログレッシヴ・ロック・ファンは、今すぐにでも通信環境を光ファイバーにする工事を申請してでもこのyesのライブを視聴すべきだ。

リック・ウェイクマンとビル・ブラッフォードは観ることができないが、オリジナルメンバーでは、ジョン・アンダーソン、スティーブ・ハウの他、ベースのクリス・スクワイア、『イエスソングズ』でドラムを担当していたアラン・ホワイトも観ることができる。キーボードはトム・ブリズリンという青年が担当しているが、違和感をまったく抱かせない素晴らしい演奏をしている。スティーブ・ハウは中ほどでクラシック・ギター(ガットギター)の演奏も聴かせてくれる。


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2006/01/26

スピヴァク『グラマトロジーについて』英語版序文

■先週、近所の図書館でふと『デリダ論』というタイトルが目に止まってしまったので、文庫サイズということもあり、ガヤトリ・C.スピヴァク著『デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文』(平凡社ライブラリー)を借りて読み始めている。この本は2005年に出版されたものだが、原著のスピヴァクによる英語版序文は1976年に出版されている。30年の年月を経て今ごろスピヴァクの序文の翻訳が出版されたのは、「追悼デリダ」ということらしい。

(ご存じない方のために付け加えておくと、デリダというのはフランスの現代哲学者の名前で、日本の哲学研究家の間では1980年代にかなり「流行」した。2004年に死んでいる。どういう思想を考え出した哲学者かと言うと...とっても説明しにくい。というより、僕はいまだにデリダの思想を正しく理解している自信が持てない)

ところで、いつになったら僕はデリダをあきらめられるのだろうか。僕がデリダをあきらめられない理由は、僕が「いつかはきっとデリダを正しく理解できる」と考えていることにある。

今よりもフランス語やドイツ語が読めた学生時代、デリダの思想に強くひかれ、『エクリチュールと差異』のゼミに出席したり、高橋哲哉の講義に出席したりしながらも、結局のところデリダを「正しく理解」することができないまま終わった。卒論にデリダを引用しているにもかかわらず、である。

社会人になってからも、数年に一度は思い出したようにデリダ関連書を読んだり、『序文』にも書かれているように、デリダが差延というキーワードの着想をそこから得ているフッサールやフロイトといった思想家の本を読んだり、このまま死ぬまで「デリダを正しく理解する」という欲望から逃れられないのではないか。

しかし、いつまでたっても正しく理解できないというのが、正しいデリダ理解なのではないか。今日、ふとそんなことを考えた。


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2006/01/25

ExcelからMSDE2000に接続する方法

■前回にひきつづき、マイクロソフトが提供している無償のリレーショナルデータベース(SQL Serverの機能限定版のようなもの)MSDE2000について、Windows XPクライアントからODBC設定なしで接続できてしまう方法を追加でご紹介したい。

社内で使っているWindows XPパソコンが、セキュリティ設定上、自分でODBC接続の設定を作成・変更できないようになっている場合がある。このようにセキュリティ制限がかかっている場合でも、Microsoft Excel 2002以上を使えば、ネットワーク経由で別のコンピュータ上にあるMSDE2000に接続できてしまうのだ。

ポート番号の指定もせず、MSDE2000がインストールされているコンピュータのIPアドレスを設定するだけで、なぜかMSDE2000に接続できてしまう。MSDE2000のポート番号は自動で決定されていて、Windows機同士ならいちいちポート番号を指定しなくても勝手に接続してくれるのだろうが、あまり深く考えずに設定方法をご説明する。

(1)Excelを起動する。
(2)「データ」→「外部データの取り込み」→「新しいデータベースクエリ」をクリックする。
(3)すると「データソースの選択」という画面が開くので、ここで「<新規データソース>」という文字をダブルクリックする。
(4)すると「新規データソースの作成」という画面が開く。まず「新規データソース名」として好きな名前を入力する。(例:「MSDE2000」など)
(5)次に「アクセスするデータベースの種類に対応するドライバ」の欄で「SQL Server」を選択する。
(6)次に「接続」ボタンをクリックする。
(7)すると「SQL Serverログイン」という画面が開く。「サーバ」欄にMSDE2000のインストールされているサーバのIPアドレスを入力する。名前解決できるネットワーク構成になっている場合は、サーバの名前でもOK。
(8)次に「セキュリティ接続を使用する」のチェックマークをはずす。
(9)そしてログインIDとパスワード欄に、MSDE2000に登録してあるユーザ名とパスワードを入力する。前回の記事のように「SA」とそれに対応するパスワードしか登録していない場合は「SA」とそのパスワードを入力する。
(10)次に「オプション>>」ボタンをクリックすると下半分の画面が展開する。デフォルトで利用するデータベースを指定したい場合は、「データベース」欄で選択しておく。「言語」欄には「Japanese」を設定し、その他の欄は初期値のままでいいはずなので「OK」ボタンをクリックする。

ちなみに、デフォルトで利用するデータベースを指定しないまま、VBScriptやVisual Basicの中でMSDE2000に接続した後、使用するデータベースを切り替えたい場合は、以下のようなコードを書けばよいだけだ。

Set oConn = CreateObject("ADODB.Connection")
Call oConn.Open("
Call oConn.Execute("use (データベース名)")

(11)もとの「新規データソースの作成」画面に戻るので、今後いちいちユーザIDとパスワードを入力したくない場合は「データソースの定義にユーザIDとパスワードを保存する」にチェックマークを入れてから、「OK」ボタンをクリックする。

以上でデータソースが作成される。パソコンに対して管理者権限を持っていなくても、ユーザ権限さえあれば、Excel用のデータソースが作成できてしまうということだ。

このデータソースをつかって、今設定したMSDE2000に接続するには、次のようにすればよい。

(1)同上の「データソースの選択」画面から、いま作成した新規データソースをクリックして反転の状態にする。
(2)同じ画面の「クエリウィザードを使ってクエリを作成/編集する」に好みに応じてチェックマークをつける。つけなかった場合は、「OK」ボタンをクリックすると、すぐにMicrosoft Queryの画面が起動する。ここから先はMicrosoft Accessのクエリ作成と同じ要領で、MSDE2000内にある複数のテーブルを組み合わせてクエリを作成していけばよい。

Microsoft Excelに付属しているMicrosoft Queryは、データベースやクエリから抽出したデータをExcelのワークシートに返すことができるので、簡単なデータ抽出ツールとして活用できる。

XAMPP環境では、ちょっとしたデータ抽出をしたい場合でもPHPスクリプトでCSVファイルを返すプログラムを記述する必要があるし、いくらmyphpadminが使いやすいツールとは言っても、Microsoft QueryのようにGUIでデータベースに対する問い合わせ文を組み立てられるわけではない。

上記の作業には一切文字化けのおそれはないし、結局のところWindowsサーバにWindowsクライアントの組合せを使っている場合は、MSDE2000、Excel、Microsoft Queryと、マイクロソフト製のツールを組み合わせる開発が、悲しいかな最も効率的ということになってしまうのかもしれない。

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MSDE2000に簡単にSQL文を発行するツール

■ひきつづきマイクロソフトの無償リレーショナルデータベースMSDE2000を、かんたんなデータ蓄積の目的で使う方法について書くことにする。

先に述べたようにExcelに付属しているデータ取り出し機能を使えば、パソコンに対して管理者権限がなくてもデータソースの新規作成をして、ネットワーク経由でMSDE2000に接続できる。

しかし、テーブルやビューの作成などのSQL文を発行するのに、わざわざVBScriptやVisual Basic for Applicationsでプログラムを書くのは面倒なので、Oracleでいう「SQL*Plus」のようにSQLコマンドを直接サーバ上のMSDE2000に向かって発行できるツールがあると便利である。

そこでvectorで無償のツールを探してみたところ最適なツールが見つかった。acure氏作成の「Microsoft SQL Server 2000 / MSDE」向け超簡易SQL発行ツール MSQLW.exeである。このツールの良いところは、ADOがインストールされている通常のWindowsパソコンであれば、パソコンに対して管理者権限がなくても、ただ実行形式ファイルを実行するだけで使える点だ。vectorからダウンロードしたファイルをマイドキュメントなどのフォルダ内に解凍するだけで使える。

ダウンロードして解凍した後の「MSQLW.exe」というファイルを実行し、最初に左上隅の「接続/切断」ボタンをクリックしてログインする。「Server」欄にはMSDE2000のインストールされているコンピュータのIPアドレス、「login name」欄にはMSDE2000のユーザID、「passwd」欄には同じくそのパスワードを入力する。実行するたびにログインしなければならないのがやや面倒だが、OracleのSQL*Plusも同様なのでまあいいだろう。

次に「DB」という名前のプルダウンリストから、使用するデータベース名を選択すると、その下に自動的にテーブル名一覧が表示される。このテーブル一覧から、任意のテーブル名をダブルクリックすると、自動的に「SELECT * FROM テーブル名」というSQL文が発行され、右下のグリッドにデータ一覧が表示される。非常に便利である。

残念ながらこのグリッドではデータの編集はできない。逆に、かんたんにデータの編集が出来てしまったのでは困る場合もあるので、仕様としては正しい仕様だろう。自分でSQL文を発行したい場合は、右上のテキストエリアにSQL文を入力してから、SELECT文なら「Select」ボタンを、それ以外の作成・削除・更新系のSQL文なら「Execute」ボタンをクリックすれば、そのSQL文が実行される。テーブル内容をグリッド画面で確認できる点では、OracleのSQL*Plusよりも数段使いやすい。

この「MSQLW.exe」をSQL*Plus代わりに利用すれば、ネットワーク経由でMSDE2000に接続して、自由にテーブルやビューの作成、データ内容の確認ができる。「MSQLW.exe」を補助ツールとしてテーブルやビューの定義を行いながら、Excelのデータ抽出機能をエンドユーザに提供する。このような組合せで開発をすすめれば、お金をかけずに簡単なデータウェアハウスっぽいデータ蓄積・データ検索のしくみを社内で開発することもできる。何よりExcelという、エンドユーザがある程度使いなれたツールでデータ抽出機能を提供できる点が、この方法の便利なところだ。

もちろん運用ではMSDE2000に蓄積されたデータのバックアップはどうするのかなどの問題はあるが、そのあたりは専門書やマイクロソフトのMSDNのWebサイトをご参照頂きたい(というより僕自身がまだ調査しきれていないのだが、まあMSDE2000のサービスを夜間の一定時間停止して、その間にMSDE2000のデータファイルを丸ごとコールドバックアップしておけば大丈夫だろう)。

ちょっとしたデータベースアプリケーションを開発する場合、Windowsプラットフォームを使うという前提で、これでもまだ、わざわざ文字化けの回避が難しいMySQLを使う意味があるかどうか。微妙なところではないだろうか。

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2006/01/23

MSDE2000のインストールとODBC接続設定方法

マイクロソフトが無償で配布しているリレーショナルデータベース・エンジン「MSDE2000」を、リモートのマシンからも接続できるようにインストールする方法を簡単にまとめておく。XAMPP同梱のMySQLでは日本語が文字化けして、気軽にデータを蓄積するためのデータベースとしては使えないとお嘆きのSEの皆さんのための記事である。

(1)マイクロソフトのWebサイトを「MSDE」というキーワードで検索し、MSDE2000のダウンロードページを見つけ、ダウンロードする。2006/01/23現在MSDE2000は「Microsoft SQL Server 2000 Desktop Engine (MSDE 2000) Release A」という名称になっており、日本語版のダウンロードファイル名は「JPN_MSDE2000A.exe」である。
(2)ダウンロードしたファイルを実行すると、指定したフォルダの中にインストールに必要なファイルが解凍される。
(3)指定したフォルダ直下にある「setup.exe」を実行する前に、「setup.ini」を以下のように書き換える。

[Options]
SAPWD="(好きなパスワード)"
DISABLENETWORKPROTOCOLS=0
SECURITYMODE=SQL

まず「SAPWD」は特権ユーザ「SA」のパスワードを指定するための行だ。MSDE2000に重要なデータを格納するつもりならば、推測されにくいパスワードを付けておこう。この行を書き忘れると「setup.exe」を実行したとたんにエラーで停止し、それ以上先に進まないので要注意だ。

次に「DISABLENETWORKPROTOCOLS=0」というのは、ネットワーク経由で他のコンピュータからも接続できるようにするための行だ。この行を書き忘れたり、「0」を「1」にしたりすると、他のコンピュータからは接続できなくなってしまうので要注意である。

最後の「SECURITYMODE=SQL」というのは、ネットワーク経由で他のコンピュータからMSDE2000に接続するとき、Windows認証ではなく、MSDE2000独自のユーザ名とパスワードで接続できるようにするための行だ。この行を書き忘れると、MSDE2000をインストールしたWindowsマシン上に登録されているローカルのWindowsユーザ名とパスワードでMSDE2000に接続することしかできなくなってしまう。

以上のように「setup.ini」を書き換えてから「setup.exe」を実行する。すぐ終わると思いきや、数分間待たされた後、何のメッセージもなくインストールが完了するので、いつ終わったのかよくわからない。とにかくダイアログ画面が消えたらインストール完了だ。Windows 2003 Serverにインストールする場合、サーバを再起動する必要がない点は便利だ。

MSDE2000はWindowsのサービス(常駐プログラム)としてインストールされるが、この状態ではまだサービスは開始されていない。マイコンピュータのアイコンを右クリックして「管理」をクリックするか、コントロールパネルなどから「サービス」一覧画面を表示させる。すると「MSSQLSERVER」という名前のサービスが存在するので、これを「開始」させるとよい。

仮に「setup.ini」を書き換えないまま「setup.exe」を実行してしまった場合や、「setup.ini」の記述を間違えたまま「setup.exe」を実行してしまった場合は、ふつうにコントロールパネルの「プログラムの追加と削除」から「Microsoft SQL Server Desktop Engine」を選択して削除してから、再インストールすればよい。

次にネットワーク経由で他のパソコンからODBC接続の設定をする方法を説明したい。

最近のWindowsXPパソコンなら、最初からSQL Server用のODBCドライバはインストールされている。もし見つからない場合はマイクロソフトの「Microsoft Universal Data Access」というページから「Universal Data Access関連ダウンロード」というページに移動すれば、MDAC(Microsoft Data Access Components)を無償でダウンロードできる。ここから最新のMDACをダウンロードしてインストールしよう。

SQL Server用のドライバがインストールされているものとして、ODBC接続設定の方法を説明する。
(1)コントロールパネルの「管理ツール」から「データソース(ODBC)」を開く。
(2)「システムDSN」のタブをクリックして「追加(D)」ボタンをクリック。
(3)「SQL Server」という名称のドライバを選択して「完了」をクリック。
(4)データソースの名前は「MSSQL」など適当な名前をつける。接続するSQL Serverサーバ名には、MSDE2000をインストールしたサーバのIPアドレスを入力する(名前解決可能な環境であればサーバ名を入力してもよい)。
(5)ログインIDの権限の確認を行う方法としては「SQL Server用のログインID」の方を選択し、「SQL Serverに接続して追加の構成オプションの規定設定を...」にチェックを入れて、ユーザ名は「SA」、パスワードは上記の「setup.ini」で記述した「SA」用のパスワードを入力する。
(6)後は「次へ」ボタンをクリックし続けて設定を完了させる。

これで他のコンピュータ上のVBScriptやVBA、MS-AccessなどからODBC接続でMSDE2000に接続することができる。OracleのSQL*Plusのような対話型のツールがあると便利なのだが、その手のツールをいちいちインストールせずとも、VBScriptでテーブル作成も簡単にできてしまう。

Set oConn = CreateObject("ADODB.Connection")
Call oConn.Open("DSN=MSSQL;UID=SA;PWD=XXXXXX")
sSql = "CREATE TABLE test_table ("
sSql = sSql & " username VARCHAR(50)"
sSql = sSql & ",login_datetime VARCHAR(200) "
sSql = sSql & " PRIMARY KEY (username, login_datetime))"
Call oConn.Execute(sSql)
Call oConn.Close()
Set oConn = Nothing

同じく無償のスクリプトであるPHPとMySQLの組合せで同じことをやろうとすると、環境を構築するだけでも一日がかりになってしまうが、この程度のデータベース操作でよければ、Windows環境のみという条件つきで、VBScriptとMSDE2000の組合せの方がはるかにお手軽だ。

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2006/01/22

サンライズ製作のアニメーション『プラネテス』

■先日『新世紀エヴァンゲリオン』に比肩するアニメーション作品を教えてほしいと呼びかけたところ、とある読者の方から推薦のあった作品『プラネテス』のDVDを近所のTSUTAYAから借りてきてパソコンのDVDドライブで観てみた。どうやらNHKで放送されていたサンライズ制作の作品らしい。

推薦して頂いた読者の方にはたいへん申し訳ないのだが、『少女革命ウテナ』やガイナックス作品の『フリクリ』など榎戸洋司脚本作品と比較すると、その凡庸さは際立ってしまう。おそらくこの読者の方は、僕のようなアニメーションになじみのない会社員にとっては『プラネテス』のような作品がいちばん「オタ臭」もなく、入門作品として最適だろうという考えから紹介して頂いたのだと思う。本当はもっとマニアックな作品をたくさん観ていらっしゃるのだろうが、その中から僕にとっていちばん入りやすいものをお勧め頂いたのだと想像する。

たしかに僕自身が勤務先のアニメーションにまったく関心のない同僚から、「最近のアニメでオタクっぽくないやつで何か面白いのない?」とたずねられたら、迷わずこの『プラネテス』を勧めるだろう。『プラネテス』をひとことで言うと、SFアニメに姿を借りた典型的なサラリーマン悲哀劇である。

主人公たちはとある会社組織の中で最も泥臭い、宇宙空間の廃棄物回収という肉体労働を行う部署で働いている窓際族だ。そこへ理想に燃えた元気のいい女性新入社員が入社してきて、日々の仕事に流されているだけの先輩社員たちと対立しながらも成長していくという、絵に描いたような「サラリーマンもの」なのだ(TVドラマの『ショムニ』を見たことがないが、たぶん同じような感じだと想像する)。

もし僕が典型的なサラリーマンであれば『プラネテス』に熱中したかもしれないが、残念ながら僕が見たかったのは『少女革命ウテナ』や『フリクリ』のように、アニメーションでなければできない表現を追及したアニメーションらしいアニメーション作品なのである。

『プラネテス』はその物語を抽出してコミックにもできるし、お金をかければ実写ドラマにもできる。70年後という舞台設定を変えれば若手社員が喜んで読みそうな高杉良風の小説にもなる。つまりアニメーションである必然性はまったくなく、アニメーションという表現形態は物語を語るための単なる手段に堕してしまっている。

他方、『少女革命ウテナ』や『フリクリ』は明らかにアニメーションでなければ表現できない表現になっている。これらの作品は文字どおり僕らが見たこともないような「現実」を描いている。『少女革命ウテナ』に登場する巨大壮麗な構造物としての「学園」や、「外の世界」のニセモノである失踪する巨大な宮殿といったものは、そのまま僕らの悪夢に出てきそうなほどの存在感をもって描かれる。そして『フリクリ』はおそらく何重ものメタ・アニメーション、メタ・コミックとしての重層構造をもっている。

小説には小説でしか表現できない「現実」や「実在」といったものがあり、アニメーションにもアニメーションでしか表現できないそれらがある。『新世紀エヴァンゲリオン』が素晴らしい作品だったのは、どこまでいっても終わらない謎解きを許すようなサインがあちこちに散りばめられていたからではなく、アニメーションでしか表現できない「地球大の綾波レイ」や「使徒」などといった、やはり悪夢に出てきそうな「現実」を僕らの目の前に現前させることに成功していたからなのだ。

『プラネテス』の宇宙生活の描写にも確かにリアリティーはあるが、それは単なる「70年後の僕らの退屈な日常生活」でしかない。たまたま近未来を舞台に置いているだけであって、そこに描かれているのは僕らが生きている日常である。その日常では、僕らはかんたんに「理想と現実」といった二項対立を前提し、その相克の中で悩みながら生きているというステレオタイプを当前のこととして受け取って生活している。

しかしその「理想と現実」の二項対立というステレオタイプは、僕らが退屈な日常生活を生き抜くための一つのフィクションに過ぎない。現に僕らは理想を云々する以前に、すでに会社員生活を始めてしまっている。会社員はあたかも追及すべき理想が会社員生活の中に存在するかのようにして、会社員生活に意義があるかのような幻想を、自分自身に対して作り出しているのだ。

そんな会社員である僕にとって、本当にリアルなもの、現実的なものとは、「そのものとしてしか存在することができず、それ以外のものとしては存在できないようなもの」のことである。例えば巨大壮麗な「学園」というわけのわからない存在が『少女革命ウテナ』以外にそのようなものとして存在しうるだろうか。少年の頭から生えてくるロボットといったものが『フリクリ』以外にそのようなものとして存在しうるだろうか。

『少女革命ウテナ』でなければ現前させられないような現実、『フリクリ』でなければ現前させられないような現実があるからこそ、これらのアニメーション作品は本当の意味で「リアル」たりえているのだ。


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連合会長と女子アナのかみあわないトーク番組

■早朝、深夜のAMラジオ番組は、外国の短波放送を盗聴しているような気分にさせることがある。テレビのゴールデン番組では絶対に成立しないような会話が、恥ずかしげもなく堂々と放送されていることがよくあるからだ。

昨日、土曜日の早朝、たまたま目が覚めたので耳にイヤホンをつっこんで文化放送に合わせると、ありがちな人生相談のコーナーが聞こえてきた。が、その相談内容がめずらしい。「最近、勤め先に労働組合ができて加入を勧められているのですが、加入すると上司や経営層から目をつけられるのでやめた方がいいという人もいます。どうすればいいでしょうか」。

そんな相談に対して、きわめて聴きとりづらいダミ声の中年男性メインパーソナリティーが、「会社の経営者のなかには労働組合を毛嫌いする人もいますが、信じられません。労働組合ほど経営者にとってありがたいものはないんですよ。会社をよくするために一生懸命、協力してくれるんですから。ぜひ加入してください」。アシスタントの女性がさりげなくフォローを入れて、「まわりの方たちとよく相談した上で決めてみてはいかがでしょうか」と言うと、メインパーソナリティの中年男性はこの意見を完全に無視して、「ぜひ労働組合に入ってください」とくりかえした。

番組の終わりを告げる軽快なBGMがなり始めると、アシスタントの女性はいきなり話題をかえて、「ところで高木さんはどんなおなべがお好きですか」。すると高木というメインパーソナリティは何事もなかったかのように「やっぱりカキの土手鍋ですねぇ」「味噌味ですね」「ええ、大好きなんですよ。鍋をつつきながら日本酒で一杯」。さっきまでの真剣な労働組合談義はどこへやら。

この番組、文化放送毎週土曜日朝6:50から10分間放送されている『おはよう!高木茶屋』というらしい。高木というメインパーソナリティーと、アシスタントのアンバランスが強烈に印象に残ったので、インターネットでいろいろ調べてみた。

まずこの高木というダミ声の中年男性は、なんとまぁ僕の大先輩、東京大学法学部卒業の62歳、全旭化成労働組合連合会書記長、UIゼンセン書記長を歴任し、2005/10に連合・日本労働組合総連合会の会長に選出された高木剛氏だったのだ。どうりで労働組合擁護論を熱く語るわけだ。

一方、まったくかみあっていない「常識人」であるアシスタントの女性は、1974/04/16秋田県秋田市生まれ、早稲田大学政治経済学部経済科卒業で1997年文化放送に入社したアナウンサー石川真紀さんということがわかった(ちなみに同姓同名のグラビアアイドルがいるようだが別人)。

こういう下らない発見があるので、早朝・深夜、ふと目が覚めたときのAMラジオ聴取はやめられない。

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2006/01/21

ライブドア狙い撃ちの底知れぬ恐ろしさ

■見事にライブドアは当局に狙い撃ちされたな、という印象だ。株式市場にこれほどの混乱を与える危険をおかしてまで、なぜ東京地検が一ベンチャー企業の摘発に血道をあげたのか。意図的なライブドア攻撃以外に理由は見あたらない。

他方では、なんど独禁法違反に問われても、飽かず談合をくり返す大企業集団がいるし、まだ明るみに出ていない粉飾決算は上場企業の中にも星の数ほどある(じっさい僕自身、過去とある勤務先で粉飾の片棒をかついでいたくらいなのだから)。

日本社会は時にこうして出る杭をきちんと打ちのめすことで、「バランス」という美名の下に悪しき平等主義をとりかえそうとする。そこに政府の意思がはたらいていない、単にライブドアは「運が悪かっただけだ」というのは、あまりに能天気な考え方である。

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第42回文藝賞受賞作・三並夏『平成マシンガンズ』

■先日、史上最年少の15歳で第42回文藝賞を受賞した三並夏著『平成マシンガンズ』(河出書房新社)を読んだ。

話者である中学三年生の「あたし」から見れば、自分をとりまく人間関係は自力では制御できないものとして描かれる。それに対峙する象徴的として少女の夢の中に登場するマシンガンが対置されているが、それはそのまま小説家としての三並夏が自らを取りまく世界と対峙するために手にとった「武器」である「小説」と重なっている。

この小説は、三並夏にとって「小説とは何か」ということについて書いた小説であり、「小説についての小説」、メタフィクションとして読まれるべきものだ。十五歳の少女が社会に対する不平不満をただ単にぶちまけて、最後はオトナ的妥協をする物語という読み方は一面的である。そういう読み方をする読者に、この小説を評価する資格はない。

小説とはつねにあらかじめ構想された物語を時系列にしたがって語るための単なる手段で、小説の面白さはそのストーリーにある。小説をこんな風にしか読めない読者は、三並夏がこれから先、世界と対峙するための言葉としての小説について、どのような小説を描く可能性を秘めているかを期待する楽しみさえ失っている。

この小説について語られるべきは、「十五歳のわりにすごい小説を書くなぁ」「十五歳らしく下らない小説だなぁ」という月並みな感想ではなく、十五歳にして小説についての小説を書く一つの視点を手に入れてしまった彼女が、これからマシンガン以外のどのような展開を見せてくれるかということへの期待であるはずなのだ。


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2006/01/19

劇場版『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』

■次に幾原邦彦監督『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録【劇場版】』(1999年)の方だが、こちらにはもうお手上げといった感じだ。観た後の感じは、舞王城太郎の『阿修羅ガール』や、高橋源一郎が美内すずえの『ガラスの仮面』をパロディーにした小説の読後感と極めて似ている。

メールでこの作品を推薦して頂いた方の言葉どおり、題名だけを見ると『ベルサイユのばら』のような宝塚的世界観のコテコテの少女マンガだという先入観を抱いてしまうが、観終わった後にはこれが完全な誤解であることがわかる。

正直この劇場版の冒頭20分くらいは、「やっぱりこれって女性同性愛の宝塚的世界の貧弱なパロディーじゃないの」という不安を抱かせたのだが、そのまま観つづけていると、「革命」や「王子さま」「薔薇の刻印」「外の世界」といった意味ありげな言葉や役割、小道具、環境が、ほぼ完全に奥行きや深さといったものを持たず、どのような読み込みや解釈も許さない純粋な現前、ソシュールの言語学の概念を借りれば、シニフィエを欠いたシニフィァンであることが分かってくるのだ。

まったく意味づけや奥行きを欠いたまま、すべての舞台装置が、それ自体何だかわからない出口のようなものに向かって、後に残るものを瓦解させながら疾走していく様子、そしてその疾走が女性同性愛描写と、「絶対」「運命」「黙示録」という、またしてもシニフィエを欠いたシニフィアンの連呼とともに廃墟へ突き進んでいく描写は、『少女革命ウテナ』という題名からくるあらゆる事前の想定を裏切った、純粋表層とでも言ったものを見せてくれる。

このような表現はアニメーションでしか表現できないという意味で、たしかにこの作品はアニメーション表現の一つの極北を示している。この作品を観て「何のことだかさっぱりわからん」という感想しか漏らせない人は、すべての芸術作品は何かを表現するために作られているという根本的な誤解をしている人に違いない。

確かにある時代までの芸術は何かを表現するための手段でしかなかったが、いまや映画も、小説も、音楽も、絵画も、それ自体として立ち上がってくる表現になり得ている。それと同じようにこの『少女革命ウテナ』も、何かを表現するための手段に成り下っていない、それ自体で僕らの目の前に立ち上がってくる現前そのものたりえていることは、ただ驚きである。

ネットで調べて分かったのだが、監督の幾原邦彦氏は1964年生まれで『美少女戦士セーラームーン』シリーズのディレクターだ。なるほど。そういえば僕が学生時代、同じ研究室の助手さんはバリバリのシュールレアリズム研究者でありながら(というより、そうであるからこそ)『美少女戦士セーラームーン』にハマっていたことを思い出す。


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『ターンAガンダム』第一話

■先日『新世紀エヴァンゲリオン』を超えるアニメーション作品を教えてほしいと呼びかけたところ、さすが「think or die」の読者は素晴らしい。速攻でさまざまなアドバイスを頂いた。これぞWebサイト筆者冥利に尽きる瞬間である。メールでアドバイス頂いた方々には改めて感謝したい。その中から早速、『ターンAガンダム』第一話をストリーミング放送で、『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999年)をDVDで観た。

『ターンAガンダム』第一話は、推薦していただいた読者の方によれば、ガンダムの生みの親である富野監督が初代ガンダムの後、いくつかの駄作を世に出してしまったことからくる長い鬱状態を脱した後に完成させたシリーズ最高作とのこと。

第一話「月に吠える」だけを見ると「えっ?これってモビルスーツが出てくるガンダムなの」という感じになる。確かに冒頭、月から地球に舞い降りるシーンはいかにもロボットアニメなのだが、その後の主人公3人をめぐる一連のエピソードは、19世紀のヨーロッパを舞台にした「世界名作劇場」のように堅実な描写である。SF的世界と欧州大河小説的世界のそれぞれが、ある意味ステレオタイプの物語世界にはまりながら、これからどう交錯していくのか。見ごたえのありそうな作品である。


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糖尿病の娘を失った両親が教祖を提訴

■あまりにも悲しすぎるニュースを『報道ステーション』で見た。インスリンを注射しなければ死んでしまう小児糖尿病の娘を、とある新興宗教の施設にあずけたために死なせてしまった父母が、その教祖に1億円の損害賠償を請求する訴えを起こしたらしい。
両親が争点にするのは、施設に娘を連れて行ったとき、確かに教祖に対して「娘はインスリンを注射しなければ死んでしまう」と説明したということだ。教祖がそれを認めれば、死の危険を知りながら、少女をインスリン注射しないまま施設に置いたことになり、教祖の責任を追及できるというわけだ。

何が悲しいといって、まさにこの同じ理由で両親の責任も問われるということだ。両親は「娘はインスリンを注射しなければ死んでしまう」ことを知りながら、インスリンを持たせずに娘を自ら施設に連れて行き、娘を置いたまま帰ってきてしまった。教祖側の弁護士はこの点を厳しく追及するに違いない。教団はこの少女を強制的に拉致・誘拐したわけではないので、なおさら教祖側の弁護に説得力が生まれる。

最愛の娘を失った両親は、自分たちの争点を強く主張すればするほど、自分たち自身が不利になるという悲劇的な状況におかれてしまった。両親がこの訴訟に勝とうとすれば、自分で自分が話したことを信じていなかった(つまりインスリンよりもガマの穂の粉末の方が病気に効くと信じていた)ことを主張しつつ、しかし教祖の方はその言葉を信じていた(つまりガマの穂の粉末よりもインスリンの方が病気に効くと信じていた)ことを主張するという、完全に矛盾した議論を展開するしかないのだ。自分は自分の言ったことを信じていなかったけれど、聞いた相手は信じていた、という完全に矛盾した主張。

きっとこのご両親は「なぜあんな下らない新興宗教にすがって、みすみす娘の命を落とすようなことをしてしまったのだろう」と悔やんでも悔やみきれない思いで毎日を過ごされているだろう。こういう人々を救うために司法制度は合理性を超えたところで一体なにができるのか。続報を待ちたい。(日本テレビ系の動画ニュースでは岐阜県警が教祖だけでなく母親も来月書類送検する方針とあるが、他のニュース記事に同様の記述は見当たらない。本当なのだろうか)

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2006/01/16

他者という重圧について

■連日自殺の話ばかりで本当に申し訳ないが、昨日の日記について早速ご意見をいただいた。要約すると「自分の人生の意味は自分だけでは決められない」ということだ。つまり、自殺するのは確かに本人の選択かもしれないが、その自殺によって周囲の人々には重い問いが残される。その問いはあまりに重すぎて、ときに周囲の人々が自らの人生の意味を問い直さざるをえないほどだ。だから、人は自分の人生の意味を自分だけで決めているようでも、実際には、他の人が生きているという事実、または、他の人が死んでしまったという事実によっても自分の人生の意味を決定されている。僕の理解が正しければ、このような意見である。

この意見はもっともで、他人の存在が自分の人生の意味づけに影響しないなどということはない。自分の人生の意味のいくらかは、確かに他の人によって与えられている。その意味で「自分の人生の意味は自分だけでは決められない」というのは真実である。しかし、そうして自分の人生が他人の人生まで左右しているという事実の重さに耐えられないからこそ、死にたいと願う人もいるのではないだろうか。

一方では、ただただ孤独で、世界から見捨てられたように感じ、その虚しさから死を願う人もいるだろう。しかし他方では、自分の周囲にいる人たち、家族や職場の人たちが、あまりに自分の人生によって影響をうけてしまうがために、そのことの重大さに耐えきれず、死を願う人もいるのではないか。

つまり、「あなたは一人で生きているのではない」という言葉でなぐさめられる自殺志願者がいる一方で、その同じ言葉の重圧によって打ちひしがれる自殺志願者もいるということだ。家族を残して自殺する中高年は、ほとんどが後者だろう。家族を養わなければならないのに解雇されて再就職の見込みも立たないというとき、そんな人が死を願うのはまさに、自分が家族の人生の意味を決定的に左右してしまうからなのだ。

また、若者であっても同じ理由から死を願う人はいるだろう。例えば、ここまで親が期待をかけて育ててくれたのに、定職にもつけず、人並みの幸福な生活を送ることさえできない。そんな親に対する負い目から、いっそのこと消えてしまいたいと思う人もいるはずだ。

このように、自殺志願者に死を思いとどまらせるということは、それほど単純なことではない。自分の人生が他人を左右してしまっていることに重圧を感じている人たちに、「あなたは一人で生きているのではない」という言葉は逆に追い討ちをかけることになる。人間は生まれたときから他者に借りがある。そのことはある人にとっては生きる意味になるが、別の人にとっては死ぬ動機になる。

だからこそ、自殺志願者に対して安易に「生きろ」という意味のメッセージを投げかけるべきではない。生きる理由が人それぞれなら、死ぬ理由も人それぞれで、ひとつの言葉に還元することは不可能である。自殺をふみとどまる理由がおおむね一つに集約されるのだとしたら、どうしてこれほど多くの人が自殺を選択するだろうか。

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2006/01/15

『交響詩篇エウレカセブン』の単純な二元論的世界観

■以前から気になっていた『交響詩篇エウレカセブン』というアニメーションをインターネットのストリーミング放送で見た。見たといっても、前半のダイジェスト編と最新回だけだ。気になっていた理由は、どこかでちらっと目にした番組宣伝で、ロボット(という表現が適切なのかどうかわからないが)のデザイン、それに乗り込む戦闘員が少年・少女であること、宣伝に曰く「独特の世界観」を「壮大なスケールで描く」ということなどが『新世紀エヴァンゲリオン』を想起させたからだ。

(もう一つ、「エウレカ」という言葉が、言うまでもなく古代ギリシアの数学者アルキメデスが叫んだという「我、発見せり!」、別の日本語表記では「ユリイカ」であることから、きっと少しインテリぶった設定のアニメーションなのだろうと想像したこともある)

実際に見てみての感想は、単純に失望である。この『交響詩篇エウレカセブン』は確かに多くを『新世紀エヴァンゲリオン』に負っている。ロボット(という表現が適切なのかどうかわからないが)は半分機械、半分生物のような存在であること。主人公の少年が過去にトラウマを抱えていること。その少年が思いを寄せる少女が人間ではないこと。話の途中でその少女の身体が融解して形を失いそうになること。少年が怒りに我を忘れて血みどろの戦闘シーンを演じてしまうこと。などなど、類似点をあげればきりがない。

しかし『新世紀エヴァンゲリオン』との決定的な違いは、『交響詩篇エウレカセブン』が話のはじめから非常にシンプルな二元論に立脚している点だ。『エウレカセブン』では男は女を守るために戦うという、極めて保守的な男性原理/女性原理の二元論が貫いている。また、地球が対立する二つの陣営にわかれて戦っている点もシンプルな二項対立の図式だ。

この2つの二元論的症状だけで、せっかく『新世紀エヴァンゲリオン』が開拓した日本アニメーションのサブカルチャー的極北を、『エウレカセブン』があっさり捨て去ってしまっていることがわかる(同じ角川書店『少年エース』連載なのに)。『エウレカセブン』には、すでに一般大衆のために消費しやすく俗化されてしまったニセの「サブカルチャー」しか存在しない。

この「愛と苦悩の日記」の読者でアニメーションやコミックに詳しい方。どうか『新世紀エヴァンゲリオン』から僕が受けた衝撃を、もう一度体験させてくれるような作品を紹介していただけないだろうか。


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昨夜の『ジェネジャンSP』テーマは「自殺」

■自殺の話ばかりで申し訳ないが、昨夜たまたまテレビを見ていると、堂本光一司会の日本テレビ系列『ジェネジャン GENERATION JUNGLE』という番組のスペシャル版が自殺を取り上げていた。一般視聴者からのゲストは、集団自殺の首謀者や自殺志願の若者たちである。昨年この番組に出演して肺ガンで余命1か月であることを告白した若者がいたらしく、その後この若者が自作の長編小説を出版し、その直後に亡くなったというエピソードが番組の中で紹介されていた。そのエピソードから、ゲストである集団自殺の首謀者に自殺について考え直させるという内容だった。

もちろん番組の制作者は「自殺は悪である」という大前提に立ち、すべての自殺志願者に自殺をやめるように呼びかける趣旨でこの番組を作ったに違いない。というより、そうとしか解釈できない番組の作り方だった。お笑い芸人のまちゃまちゃは、最近、自殺した友人のエピソードを紹介し、葬儀のとき大勢の「友だち」が棺を囲んで号泣していた、その場面を死ぬ前に一度でいいからそいつに見せてやりたかったと、涙ながらに語っていた。

しかし、世の中の自殺者のほとんどは、こうして番組に出演依頼されることもなく、ひとり静かに死んでいく。そして、まちゃまちゃの友人のように、ほとんどの自殺者は死んだ後に初めて同情され、悲しみの対象となる。自殺者の死に涙を流す人たちは、その人の死を惜しんでいるのかもしれないし、自殺を止められなかったことを悔やんでいるのかもしれない。

しかし、ひどく皮肉な言い方になるのを恐れず書かせてもらうと、残された人々の悲しみはすべて偽善である。自己満足である。死んでから泣くぐらいなら、死ぬ前に共に泣くべきだろう。死んでから自殺を止められなかったことを悔いるくらいなら、死ぬ前に止める努力をすべきだったろう。こういう皮肉な反論が可能なのは、そもそも自殺志願者の死を思いとどまらせることが無条件に「善」であるという考え方があるからだ。

自殺そのものは善でも悪でもなく、単に一人の人間の選択の結果である。人間は朝食をごはんにするかパンにするかという選択と同じように、明日も生き続けるか死んでしまうかという選択もする能力を与えられてしまっている。たしかに「生きていれば良いことがあるかもしれない」が、それとまったく同じ確からしさで「生きていても何も良いことはないかもしれない」ということも言える。どちらを選択するかは、その人にまかされているのだ。

自殺志願者に「死ぬな」と呼びかけるのは、そういう意味でとても傲慢である。自分は相手の人生を生きているわけではないのに、相手の人生に生きる価値があると勝手に決めているからだ。しかしその人にとっての生きる意味というのは、その人にしか理解できない。その人にとっての生きる意味を決めるのは、他の誰でもなくその人自身なのだ。

だとすれば一人の人間が自殺を選択することについて、周囲の人々が「生きろ」という意味の言葉をかけるのは、自殺を選択しない側の人々の傲慢さ以外の何ものでもない。目の前にいる人がもし自殺志願者であることが分かったら、僕ならばさしあたり言うべきことは一つだけしかない。「それって単なる病気かもしれないから、心療内科に行って薬をもらってみたら」。もし病気でなければ、それ以上何ができるというのだろうか。その人に代わってその人の人生を生きることなどできないのだから。

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セサミストリートの変化

■今朝テレビ東京の『セサミストリート』をしばらくぶりに見た。やはり当初の日本を意識した番組づくりが不評だったのか、本家米国制作のコントやアニメーションが使われるようになっており、英語学習部分が長くなった印象がある。僕と同じような意見の視聴者が少なくなかったのだろうか。

しかしその変化がもとのNHK教育版にもどる方向になっている事実を考えると、やはりセサミワークショップはこの番組が、日本でどのように愛されてきたかについて、いかにも米国人らしい誤りをおかしていたのではないか。

つまり『セサミストリート』という番組は各国の文化に自由に染まる白地の画布のようなものだ、という誤解だ。実際には米国の主張する「自由」や「民主主義」といった価値観と同じく、米国の外から見れば決して中立ではなく、いかにも米国らしい文化なのである。『セサミストリート』が日本的になることを望んでいる日本の視聴者などいない。

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2006/01/13

書いた尻から男性3人集団自殺

■昨日、毎日新聞の連載を取り上げた尻から、2006/01/12深夜に埼玉県で携帯電話で知り合った男性3人が集団自殺を図るというニュースがあった。2人は一命をとりとめたようだが、1人の方は亡くなった。年齢は23歳が2人と30歳。

日本政府が介護や年金などの高齢者問題に目を奪われている間に、少子化と、20~30代のニート化や集団自殺の問題は着実に進行している。もちろん高齢者問題に解決をつければ、安心して子供を産んだり、若者が未来に希望を持てるようになる、ということもあろうが、本当にこういう優先順位でいいだろうか。

むしろ少子化や若者の就業対策を先にやらないと、高齢者問題の解決は一種の「イタチごっこ」にならないか。つまり、少子化や若者の就業対策を放置した結果、年金を支える年齢層の人口がますます減少し、高齢者問題の対策をいくら打っても効力がなくなる。そういう事態に、すでになりつつあるような気がするのだが。

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2006/01/12

20~30代の死因の1位は自殺

■印象深い記事をYahoo!ニュースで見つけた。毎日新聞に『縦並び社会』という連載があるらしく、その2006/01/11付けの記事である。「やり直すために」というタイトルで、Webサイトで知り合った男女と集団自殺を図った31歳の男性が「社会復帰」しつつある事例を取り上げている。

初めて知ったのだが、厚生労働省の統計によれば、2002年から3年連続で20~30代の死因の第一位は自殺だという。まあ20~30代では病気で死にようがないので、自殺か事故が死因の大多数を占めるのは当然だろうと考えるが、2003年の「性・年齢(5歳階級)別総死亡数に占める自殺死亡数の割合・死因順序」という資料を見ると驚くべき数字がある。

20~24歳の総死亡数に占める自殺死亡数の割合は男性36.4%、女性38.0%、25~29歳では男性41.6%、女性38.9%、30~34歳では男性38.9%、女性はぐっと減って30.2%、35~39歳では男性32.8%、女性はさらに減って21.5%だ。ちなみに男女とも、自殺死亡数の割合は全年齢のうち20~30代が大きな山をなしている。

つまり僕と同年代で死にゆく男性の3分の1が自殺で死んでいることになる。20~30代の男性にとって自殺というのは、ごくありふれた死に方なのだということがよく分かる。

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2006/01/10

自動化機能の豊富な開発基盤の是非

■そういえば昨年、東京ビッグサイトで開催されたNECグループの展示会「C&Cユーザーフォーラム & iEXPO 2005」に出かけたとき、J2EEのStrutsフレームワークを基盤とする開発環境が展示されていた。ぱっと見たところ、以前の勤務先で導入が決まったNEC情報システムズの「Orteus(オルテウス)」という開発基盤と酷似していたので、説明員の方に声をかけて詳しい話を聞いてみた。

一通り説明を受けた後に「Orteusとよく似ていますね」と言ったところ、言葉を濁されてしまったのだが、業務プロセスのモデリングツールにIDS Sheer社製の「ARIS」を使っている点、データベース定義の自動生成にMicrosoft Excelを利用しない点など、細かな点を除くと、コンセプトと開発の流れはほぼ「Orteus」と同じで、驚いてしまった。

「Orteus」の方は業務プロセスのモデリングに「ARIS」よりはるかに安価なMicrosoft Visioを利用していたので、「Orteus」は開発コストを抑えたい企業向けという位置づけなのかも知れないが、典型的なグループ内競合というやつだ。

ただ個人的には、基幹システムを開発する開発環境に、Strutsなどのはやりすたりの激しいフレームワークに依存した「画面の自動生成機能」や「データテーブルの自動生成機能」などを機能として付けることが正しいのか、疑問に感じる。

WebSphereやWebLogicなどのミドルウェアが、製品ラインナップの一部として持っている開発環境にとどめておくのが正しいのではないかと考える。開発環境の「自動化機能」に依存した開発を進めると、基幹システムの保守が開発環境のバージョンアップやセキュリティパッチなどの状況に依存してしまう。豊富な「自動化」機能が売りの開発環境は、基幹システムの開発環境としては、あまり筋が良くないのではないか。

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2006/01/09

高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』

高橋源一郎『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(集英社)を読み終えた。短編小説24本に、A-1、B-1、A-2、B-2という具合に、レコードのA面、B面を模した連番が付けられている。24本の短編には一貫した物語や登場人物はないが、ところどころ同一の(?)人物が登場するなど、統一感と多様性の適度なバランスがとれた構成になっている。

それぞれの短編には高橋源一郎らしい独創性あふれた文体や主題が凝縮されていて、きわめて密度の濃い540ページで、純文学でありながらまったく飽きさせないのはさすがだ。主題の面でも、高橋源一郎らしく、希望と絶望、楽観と悲観、テクノロジーとノスタルジー、即物性と幻想性が、それぞれバランスよく交錯し、うんざりさせられる箇所がない。

それぞれの短編は宮澤賢治作品に触発されてはいるが、物語や設定に直接的な共通性はない。

A-1「オッベルと象」は人間にとってペットとは何かを主題にした短編。
B-1「革トランク」は世界のはじまりと終わりと、親子関係についての短編。

A-2「注文の多い料理店」は名作文学の題名をもじったアダルトビデオを企画するうちに本好きになり、トラウマをかかえたレズビアンのカップルを口説いて出演させるまでにこぎつけるという物語。
B-2「ポラーノの広場」は五万円も払ってセックスもせず、『ポラーノの広場』という謎の本について語り始める客と出会ったデリヘル嬢のお話。

A-3「飢餓陣営」は四人の若い男女が、何となくはやりということでネットによる集団自殺を図るお話。自殺の手段は餓死というところが気が利いている。
B-3「永訣の朝」は聴衆が自ら朗読するという奇妙な朗読会のお話。

A-4「セロひきのゴーシュ」は伝説のホームレスとして語り継がれる「ゴーシュ」が何故セロをひくようになったのか、その謎が明かされる。
B-4「氷河鼠の毛皮」は精神病棟の一室のような殺風景な部屋で、猫の幻影に悩まされながらも物語を書き続ける人物の話。

A-5「猫の事務所」は生まれてこの方「仕事」というものをしたことがない中高年のキムラさんが、初めて猫の事務所に職が見つかり、そこで働き始めるというお話。
B-5「二十六夜」は老人ホームに収容されている鉄腕アトムたピーターパンなど、往年のスーパーヒーローたちの末路に関する物語。

A-6「風の又三郎」は世界は「ちんこ」と「まんこ」がすべてだと思っている売れないホスト三人の鼎談。
B-6「祭の晩」は老年と生と死と記憶と睡眠導入剤による短編(これ以外に要約する手段のない静謐で深い短編)。

A-7「ビヂテリアン大祭」は子供たちが面倒を見たがらないので、やむなく糟糠の妻を老人病院に入れている老人男性が、正体不明の「国際老人会議」なるものに招待され、米国に旅行するお話。
B-7「グスコーブドリの伝記」は「本を読む」という行為を通じて、世界についての認識を徐々に形成していく鉄腕アトムの極めて哲学的・言語学的な内的独白。オチの部分にはもう一体、有名なアニメのキャラクターが登場する。他の短編の約3倍の分量がある。なお、この物語に「ネリ」というキーワードが登場するので要注意。

A-8「春と修羅」は徐々に認知症になっていく父親を冷静に見つめる娘の視点からの物語。
B-8「プリオシン海岸」は小学生の頃、クラスのいじめられっ子から授業中に回ってきた紙切れに書かれていた「プリオシン海岸」という謎の言葉に、数十年後、夕刊紙のデリヘル広告で出会い、電話をかけてみたところから始まる、生物の「個体」の定義をめぐる奇妙な時空間旅行の話。

A-9「やまなし―クラムボン殺人事件」は出会い系サイトの「さくら」をやっている男の一人が、山梨在住の客の一人をとんでもない格好で待ち合わせ場所に呼び出して大恥をかかせたことから殺されてしまうという物語。
B-9「ガドルフの百合」は何重にも入れ子になっている同じ夢から何度もさめるが、永遠に覚めない主人公ガドルフのヌーボーロマン風の物語。

A-10「なめとこ山の熊」は渋谷センター街を遊び場にしている芸能コースの女子高生3人組、シーちゃん(『天空の城ラピュタ』のシータ)、チヒロちゃん(『千と千尋の神隠し』の千尋)、キキちゃん(もう言うまでもないだろう)のお話。
B-10「虔十公園林」は虔十という小学生の男の子のクラスではやっているエロゲーのお話。

A-11「イーハトーボ農学校の春」は人々がつぎつぎと若返って、最後には受精前の卵子と精子になってしまうという奇妙な現象に襲われる農村のお話。
B-11「どんぐりと山猫」は裁判制度に関する哲学的な省察を、山猫と人間の裁判に関する考え方の対立を軸に展開するお話。

A-12「ざしき童子のはなし」は老夫婦の間にできた息子が「ネリ」という見えないお友だちとの交流にひきこまれるうち、最後には衰弱して死んでしまうお話。
B-12「水仙月の四月」は雪童子が雪婆んごとの対話から、「術」と「呪文」について考えを深めていく果てに他なる自我と出会う物語。

このように極めて乱暴な要約をつけてみただけでも、本作がとても多様な主題や文体、音色や旋律、色彩やタッチを豊かに含んだ、濃厚な短編集であることがお分かり頂けると思う。高橋源一郎の想像力の果てしのなさには、ただただ驚くばかりである。


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ニート問題の主因は企業の不作為

■日本経済新聞の若者についての記事を読むたびに、偏見に満ちた内容に怒りをおぼえる。そういう偏見に凝り固まった四十代、五十代が人事権を握っているから、ニートと呼ばれる人たちにはいつまでたってもまともな就業機会が与えられないのだが、もちろん日本経済新聞の記者にその自覚はない。

日本経済新聞の若者に関する論調をまとめると次のようになる。今の若者はひ弱だし、コミュニケーションも下手くそだし、企業にとって即戦力になるわけではない。しかしITを駆使できる人もいるし、外国人アレルギーのない人もいる。欠点より長所を見て若年層労働力を活かそう。

しかし、社会人経験のない若者が、企業にとってはさまざまな欠点のある労働力であるのは当然だ。これまで企業は、そういう「使いものにならない」若者を「使いものになる」労働力に育て上げるという社会的責任を果たしていた。

ところが今の四十代、五十代は、自分たちが会社に育ててもらう前は、ニートと同じく「使いものにならない」労働力だったことを見事に忘れ去り、まるで現代の若者が労働力として「使いものにならない」のは若者自身の責任であるかのように考えているのだ。

だからこそ、若者についての記事が、若者の長所やニート就業の成功例を必死になって探すといった論調になってしまうのである。もし企業の中核を担っている四十代、五十代の「おじさん」たちが、「自分たちも会社が育ててくれなかったらただのニートだった」という事実を自覚していたら、若者についての記事は、ただただ企業の怠慢を批判する内容になっているはずだ。


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