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2005/08/30

『難事例のブリーフセラピー』

■ブリーフセラピー関連書として『解決のための面接技法―ソリューション・フォーカスト・アプローチの手引き』『難事例のブリーフセラピー―MRIミニマルシンキング』を読んだ。

前者は学生向けテキストといった感じで、ミラクルクエスチョンやスケーリングなどの基本的な技法が、セラピーの実録とともにていねいに解説されている。巻末には技法を簡潔にまとめたガイドまで付いているという心配りの細かさ。後者は過食症や自傷癖など、より深刻な事例にブリーフセラピーを適用した実例が豊富に引用され、問題解決指向の心理療法と、解決構築指向のブリーフセラピーがいかに異なるかがっはっきりわかる非常に興味深い書物だ。

直線的な因果律を前提とする限り、心理療法は過去の原因となる出来事へとさかのぼる。しかしブリーフセラピーは、原因と結果の循環を前提とし、心の病は人と人との相互作用であると考える。「なぜ」と問う代わりに「何を」と問う。これから何をするのかを問うのだ。

過食症の女性の症状を悪化させているのは、必死で食べさせようとする母親であり、ブリーフセラピーはその同じ母親が娘に「食べさせない」ような態度をとるように介入する。過食症の原因を本人の心の中にさがし求めることで解決しようとするのではなく、二人の人間の相互作用を別の何かに変えることで問題を解消しようとする。

ジャック・デリダへの言及があるという関連書『解決志向の言語学―言葉はもともと魔法だった』もぜひ読んでみたい。


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2005/08/29

仁義ある戦い

■辻本清美の出馬について執行猶予の身でと批判かまびすしいが、亀井静香の応援演説で「仁義ある選挙を」と堀江氏への当てつけをする菅原文太氏しかり、選挙にきれいごとを持ち込もうとすればするほど、偽善の悪臭で鼻が曲がりそうになる。

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ラジオ深夜便3時台

■昨晩のNHK『ラジオ深夜便』午前3時台は1982年のヒット曲特集だった。岩崎宏美『聖母たちのララバイ』、欧陽菲菲『ラブ・イズ・オーバー』、河合奈保子『けんかをやめて』に続いて、薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』がかかった。夜中の3時台の主たる聴取者である戦中・戦前世代には何の感慨もないのだろうが、岩崎宏美の歌う歌はどの曲も美しい。『セーラー服と機関銃』を聴くと、ワンシーンワンカット、固定ロングショットの相米監督の映像とともに、胸の奥をキュッとつねられたような切ない想い出がよみがえる。

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2005/08/28

今年もやはり南越谷阿波踊り

■例年のように南越谷の阿波踊りを見に行ったが、今年は本場徳島の天水連、阿波踊りグループ「虹」と、舞踊集団・菊の会の組踊りを初めて劇場の中で観た。いずれも個性的な味付けのある阿波踊りになっていた。

天水連はリズムのアレンジが完全に予想を裏切る斬新さ。男踊り、女踊りのアンサンブルのリズムが、途中からいきなり8分の6拍子になるのだ。バーンスタイン作曲『ウェストサイド物語』の「アメリカ」という曲の、まさにあのリズム。「タツツ・タツツ・タツ・タツ・タツ」あのリズムにのせて阿波踊りが踊られるのである。阿波踊りはご存知のようにリズムが「チャンカチャンカ」とバウンスしているので、それを三連符と解釈すれば確かに8分の6拍子の2小節分になる。でも踊りはそういう解釈になっていなかった気がする。また、男踊りでコサックダンスのように腰を低く、ひざを曲げたまま踊る場面もあった。天水連のライブ映像をご覧になりたい方はこちらからどうぞ。2005/08/28現在ではまだ2005年の模様は観られないが、2004年の映像で天水連の09分13秒くらいのところから、くだんの8分の6拍子の阿波踊りを観ることができる。

舞踊集団・菊の会は黒澤明監督の『夢』に出演しているそうだ。阿波踊りだけをやっているグループではないので、女踊りの振りのそろい方や、なめらかに変化していくフォーメーションの美しさは本場の連もかなわない。天水連と同じく奴凧をあやつるマイムの踊りが挿入されていたが、やはり菊の会の凧役の男性の動きのなめらかさは本場以上だ。グループ「虹」は4人による女踊りだけと、構成からして個性的。笛の吹き手が舞台中央にバックライトで浮かび上がるなど、幻想的な演出が出色だった。

毎年見てもそれほど飽きるということがないのは、もともと僕が阿波踊りの伴奏のようなミニマルな音楽を好むせいかもしれない。阿波踊りの「ぞめき囃し」はこちらから聴くことができる

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つくばエクスプレス体験記

■北千住から南流山までつくばエクスプレスに乗ってみた。電車の乗り心地そのものより、沿線開発がどの程度進んでいるかを見たかったからだ。ところが北千住駅を出ると電車はいきなり地下にもぐり、青井駅、六町駅とつづけて地面の下。周囲の状況はまったくわからない。八潮駅で地上に出たが、一面の田んぼの中に突如こぎれいな構造物が出現した感じで、駅前の商業施設と藤和不動産のマンションはまだ建設中。お隣りの三郷中央駅では実際に下車してみたが、コンビニ一軒さえなく、土曜日だったせいか駅構内のキヨスクも閉店していた。駅前のバスターミナルからは武蔵野線の三郷駅や吉川駅との間を往復するバスが出ていて、その目の前で東急不動産のマンションとマルエツの建設が進んでいる。両駅とも駅前こそ年内にマンションと商業施設が完成するが、その周辺まで街が広がっていくのに一体何年かかるだろうかと思わせた。でも八潮市にはいままで鉄道駅がなく、八潮駅は市民の悲願だったという。都心へのアクセスの良さを考えると、つくばエクスプレスも少なくとも埼玉高速鉄道沿線くらいには開発が進むのではないか。ちなみに電車の乗り心地はレールの継ぎ目が少ない分、縦の振動はほとんどなく、横方向の振動も気のせいか少なかったように感じた。八潮駅から三郷中央駅へ入っていくカーブのなめらかな遠心力はなかなか心地よい。また、床からすぐ壁が外へふくらみながら立ち上がっているので、車内の空間はとても広く感じる。

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2005/08/21

星空のエンジェル・クィーン by デラ・セダカ

■中学生時代は「喜多郎なんて退屈だ、次のコード進行が読めるから」などと言っていたものだが、今25年前の映画『1000年女王』の音楽を聴くと、神秘的なシンセサイザーの音色が素晴らしいと感じる。エンディングテーマの「Angel Queen」をギターで弾き語りするために、イントロのメロディーからコードをとってみたのだ。単純な3和音では平板に感じたので、注意深く伴奏のメロディーを追ってみると、古代風の響きを演出するためか、メジャーコードには6度と9度の音が聞える(6度ではなく13度かもしれない)。

それにしても『1000年女王』のサウンドトラックはCD化されていないようで、ネット・オークションを探しまわってもLP版しかない。デジタル化されている音源は『新竹取物語 1000年女王 DVD-BOX 』同梱のものだけだが、何と47,250円也である。しかも限定生産なのでお早めにお買い求め下さいとのこと。DVD-BOXには「1000年女王ゴンドラ 携帯ストラップ」付きだと。東映に足元を見られているようで嫌な感じ。ギターの弾き語りで我慢するしかない。


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『女王の教室』のゆとり教育批判

■日経新聞は『女王の教室』と『ドラゴン桜』を総称して、「階層格差ドラマ」と呼んでいるらしい。上流と中流の格差拡大という日本の世相を反映したドラマということらしいが、実際『女王の教室』で言う6%の人間に選ばれながら、都心に住むでもなく、郊外の賃貸マンションでモロ中流の生活を送っている僕としては、これらのドラマも所詮、原作者や製作者のインテリ・コンプレックスの産物としか見えない。

ただ、『ドラゴン桜』のつくりの稚拙さは論外として、『女王の教室』を階層格差ドラマとしてだけとらえるのはやや浅薄だ。むしろ「ゆとり教育」批判と見るべきだろう。子供が将来自分の力で生きられるようになるために、大人は本当は何を教えるべきか。天海祐希の妙にハマった担任教師役は「ゆとり教育」の正反対を極端にまで推し進めたキャラクターとして、かなり真剣な問題提起をしている。

もう一つ、このドラマはいかにも日本的な悪平等主義、結果の平等主義に対する強烈な批判にもなっている。天海祐希の受け持つ生徒たちは、みんなが1位でゴールする徒競走を演出する大人たちの価値観を見事に体現している。一人の落伍者も出さず、みんな仲良くやっていくのが一番という価値観だ。

このサイトで取り上げた高橋伸介が『虚妄の「成果主義」』で書いているように、高度経済成長期の日本、つまり成果主義が導入される前の日本は、実際には大量の同期入社どうしが管理職のポストを争う、今より競争の激しい時代だった。「ゆとり教育」や「結果の平等主義」はそんな社会を生きた「おじさん」たちの偽善の具現化だ。「純粋な」子供たちには、こんな非人間的な競争をさせてはいけない。みんな友達。みんな平等。それが偽善でなくて何だろうか。6%に入っても、ピンキリの人生がある。それこそ本当の競争社会なのに。


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2台のフィット

■帰宅途中、住宅街の狭い道路で、僕をうしろから追い抜いた水色のフィットが、路肩に駐車していたシルバーのフィットの右のドアミラーを「バキッ」とぶつけて折った。水色のフィットはとまどうようにスローダウンして、しばらくゆるゆると走っていたが、異常を察して店から飛び出した持ち主の姿が見えるや否や、いきなり加速して逃亡した。持ち主はシルバーのフィットにあわてて乗り込み、水色のフィットのあとを追ったが、追いついたのかどうか。犯罪検挙率が大幅に悪化し、まさに今の日本は「逃げ得」の社会。僕のような傍観者が世の中にあふれ、こういう小さな罪が見過ごされるところから、それは始まっている。

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堀江氏、広島6区で何をする

■まさかライブドアの堀江社長が衆院選に出馬するとは想定外だったが、関係の浅い土地の小選挙区で仮に当選したとして、一体なにがやりたいのだろうか。一人でも多く郵政民営化賛成の議員が衆議院に増えることは、郵政民営化が日本のパブリックセクターの効率化の第一歩として必要不可欠であることを考えると、望ましいことなのだが、堀江氏が何をやりたいのかがよく分からない。

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2005/08/18

『人間コミュニケーションの語用論』

『人間コミュニケーションの語用論―相互作用パターン、病理とパラドックスの研究』(二瓶社)を読んだ。最近このサイトでたびたび触れているブリーフセラピーの理論的裏付けとなる書物だ。ベイトソンのダブルバインド理論などをもとに、人間どうしのコミュニケーションが終わりのない相互作用の過程であり、それはいくつかのパターンに分類できることを論じている。

僕が某自動車会社でドイツ人上司の下、IT部門内のチェンジマネジメントに関わっていたとき、コミュニケーションの重要性について共通の理解をもつための言葉があった。それは「人はコミュニケーションしないことはできない」という言葉だ。人間はコミュニケーションしないということによっても、何かを伝えてしまう。この重要な命題は本書の最初の部分でも確認されている。

精神病理についても、個人の内面に病気の原因をさがすのではなく、人と人との相互作用に病気の解決法を求めようとする本書の考え方が、ブリーフセラピーの支柱になっている。個人の心を閉じた系と見なすのではなく、周囲の環境のなかで他の人間とともに大きなシステムを構成する一つのオブジェクトと見なすシステム論の考え方も、その背景にある。

精神分析が主流だった心理療法の世界で、ブリーフセラピーのような解決指向の方法論がどのようにして生まれてきたかがよく分かる一冊だ。


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2005/08/13

過程の陳腐さが結果の独創性を担保する

■ビジネス戦略を考えるという行為は非常に不思議である。デカルト風の誇張懐疑の手法を使って、自分が当たり前と考えていることをすべて疑っていけば、それぞれの業界で常識と思われていることなど簡単に捨て去ることができる。しかし、ビジネスの世界でこの方法的懐疑を押し進めすぎると、確実にどこかでただのナンセンスに突き当たる。

では、どこまでがビジネスとして有効性のある「斬新なアイデア」で、どこからが「単なるナンセンス」なのか、その境界線を演繹的に決定することはできない。演繹的に定義できないということは、仮説、検証のサイクルを繰り返すことで、帰納的にその境界を定めるしかないわけだ。つまり、やってみてダメなら、それは「単なるナンセンス」だったということが後からわかる、ということだ。

ところが問題をもっと複雑にしているのは、仮説、検証を行うビジネス環境そのものが、時とともに変化しているということだ。ある時期に失敗したものが、別の時期に成功することもあり得る。業界経験が長い人ほど「斬新なアイデア」と「単なるナンセンス」の境界線をより保守的に見積る確率が高いが、業界経験の短い人は「単なるナンセンス」の試行に経営資源を浪費する確率が高い。こういった問題に対しては、より多くの人の意見を聴くことが有効なのか、自分の信念にもとづいて仮説を立てることが有効なのか、それさえ事前に決定することができない。

一言で表現すれば、ビジネス戦略を練る行為は、純然たるバクチに限りなく違い。こういう問題系を相手にするとき、僕は正直言ってどう対応すればいいのか、ただ途方に暮れるだけだ。その点、社内SEとして利用者の要求を実現する過程で突き当たる問題群は、大部分が安定している。問題への対処方法を事前に決定できる。

しかし、本当にビジネス戦略を考えるという行為は、事前にコントロールできないバクチのような行為だろうか。僕がかつてドイツ人の上司から学んだことの一つに「方法論において独創性はいらない。独創性が求められるのは結果である」ということがある。

ビジネス戦略を考えるプロセスに独創性はいらない。教科書どおりにコントロールすべきである。真の問題は、その結果として産み出される戦略に独創性があるかどうかだ。プロセスさえコントロールできないのでは、産み出された戦略が戦略と呼べる代物なのかどうかさえ確認不可能になってしまう。

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2005/08/07

運航ミスの荒唐無稽な精神論

■今日の日経朝刊は「日航機墜落事故から20年」というタイトルで、最近の運航トラブルに見られる安全意識の薄れによるミス頻発をとりあげている。日経に限らず、公共交通機関の事故原因となると、過半の新聞報道は「安全に対する意識が薄れてきている」ことを第一に取り上げる。しかし「安全に対する意識」といったようなつかみどころのないものを、第一の事故原因にするのは、それこそ責任の所在をあいまいにする議論の進め方ではないか。

それに20年前の社員と現在の社員で、「安全に対する意識」が明らかに低下しているということを新聞社は一体どうやって検証したのか。ミスが多く発生しているという事実から、勝手に「安全意識の低下」という原因を推測しているのではないのか。ミスや事故の原因を、個々の社員の「意識」といった抽象的なものと短絡させてしまう日経新聞の記者こそ、記者としての「意識が低下」しているのではないか。

20年前の航空会社社員の置かれている環境と現在とで、客観的に変化している事実がある。それはこの記事でも触れられているように、国内線の輸送人員が20年前の二倍になっているのに、社員数は二倍になっていないということだ。合理化努力で社員一人当たりの業務負荷が増えている。これこそ客観的に検証可能な事実であり、まず第一にミス多発の原因として疑うべき事実ではないのか。

「安全意識」や「社員の緊張感」といった抽象的なものが、あたかも空の安全の鍵をにぎっているかのような論調は、大手新聞社の記事としては明らかにずさんであり、論理的に破綻している。この記事を書いた記者は、このような指摘を受けたとしたらおそらく、「記者としての意識が低下していました」と論点のずれた反省をするに違いない。自分で自分のことを客観的に分析することができない記者が、どうして他人のミスを客観的に分析できるだろうか。そしてこういう記事が、「ミスの原因は意識低下である」という荒唐無稽な世論をますます根強くし、各社が事故に対して真に有効な対策をとる可能性をつみとってしまう。

日本の新聞記者はいったいいつになったら日本的精神論から卒業し、この種の問題を実証的に議論できるようになるのだろうか。そうならない限り、業務負荷増がそのままミス多発につながる日本の企業組織も変わらないだろう。


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2005/08/06

4弦だけフレットに錆目

■しばらく弾かずに置いてあった僕のクラシックギターの5弦が切れていた。ギターケースのポケットをあさると、いつ買ったものか、弦が1セット残っていたので一本ずつ張りかえ始めたら、4弦だけが足りない。そういえば前に4弦だけを張りかえたことがあった気がする。仕方なくいったん外した4弦をもう一度張りなおした。4弦だけがちょうどフレットのところに錆目をつけている。新品の弦はのびやかな倍音。4弦だけは乾いた倍音を出している。

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『ブリーフセラピーの登龍門』

■近所の市立図書館に立ち寄ると、新着図書のコーナーに心理療法書らしからぬ装丁の心理療法書があったので、思わず借りて読んでしまった。若島孔文・生田倫子編『ブリーフセラピーの登龍門』(アルテ)。

ブリーフセラピー(短期療法)とは、以前このページでも取り上げた『精神と自然』の著者グレゴリー・ベイトソンと、心理療法家ミルトン・エリクソンを「産みの父親」としてもつ心理療法の一種で、少ない回数の面談で来訪者に解決をもたらす手法とのことだ。本書はブリーフセラピーの本質を分かりやすく簡潔に、かつユーモアをまじえて伝えることに成功している絶妙の入門書と言える。心理療法書らしからぬ装丁もその一環として意図されたものに違いない。

ここ2年ほど精神分析、精神医学関係書を間をおいて読んできたが、学生時代に現代思想研究の必要から精神分析をかじったせいで、僕は長い時間をかけて来訪者の病根をときほぐす精神分析の手法こそ唯一正統な心理療法のあり方だと考えていたふしがある。

しかし本書を読むと、何か月も、場合によっては何年もかけて一人の来訪者の過去をさかのぼり、仮に病気の原因をさぐり当てたとしても、それを完全に取り除くことができるのだろうか、心の病を完全に解決できるなどということがありえるのだろうかと考えさせられる。ブリーフセラピーは心の病を解決するよりもむしろ、問題をそもそも問題でなくする、問題を「解消」するという、もう一つの心理療法のあり方、オールタナティブを提示しているようだ。

本書に引用されているエリクソンの「すきっ歯の女性」の事例はその典型だ。すきっ歯であることを気に病んで彼を訪れた女性に、エリクソンはそのすきっ歯を何かに利用できないかと尋ねる。水を飛ばすことができるかもしれないという答えに、エリクソンはすきっ歯の間からできるだけ遠く水を飛ばす訓練をするように提案する。女性はその訓練をしているところへちょうど入ってきた男性に、あやまって水をかけてしまい、それが縁になってその男性と結婚したという。

一つの問題を解決しようとする努力そのものが、かえってその問題を固定化する原因になっていることがある。問題解決の力は来訪者自身がもっている。すきっ歯の事例のように、問題解決のために使える資源はなんでも使う、などなど、ブリーフセラピーはロジャーズが提唱した来訪者中心主義を、本当に実現するための工夫に満ちている、とても興味深い手法だ。

ちなみに本書には、子供をもつパニック障害の男性の事例が引かれている。セラピストはその男性に対して、パニックが起こりそうになったら子供の腕相撲することを提案している。こうした介入の方法は、一般の人が日常生活でセルフセラピーをするのにとても参考になるのではないかと考える。ブリーフセラピー関連書は、何となく心の凝りがほぐれない人たちにとっての必読書かもしれない。


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