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2005/05/31

戦闘的少子化対策論の誤り

■どうやら今日で日本経済新聞朝刊一面の『少子化に挑む』という連載コラムが終わったようだが、少子化問題に対して「挑む」とか「闘う」などという勇ましい筆致であることに僕は強い違和感を抱く。

少子化問題については別に誰かが何かの規制や障害に対して挑んだり闘ったりしているわけではなく、不妊治療の保険適用を求めている人たちなど少数の例外を除けば、単に消極的な理由で子供をなんとなくもたない、なんとなく結婚しないほうが楽だという人たちの行動が、原因の大部分を占めているのだ。

問題の取り上げ方からしてすでに日本経済新聞は間違っているのであって、政府や官僚も同じ間違いをしているから少子化問題は一向に解決しないのだ。自らのアプローチの間違いに気づかない限り、日本経済新聞のコラムがいくら吼えたって本質的な問題提起にさえならない。そのことに気づけないのは、やはり日本経済新聞という会社や記者の皆さん自身が、少子化問題を他人事としてしか論じられていない何よりの証拠だ。

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2005/05/29

國分康孝『カウンセリングの理論』

■別にキャリアカウンセリング関連の資格を取ろうと思っているわけではないのだが、渡辺三枝子、エドウィン・L・ハー著『キャリアカウンセリング入門―人と仕事の橋渡し』(ナカニシヤ出版)という本を読んで、カウンセリングの基礎理論に関する記述が消化不良だったので、近所の図書館でたまたま見つけた手ごろな分量の國分康孝著『カウンセリングの理論』(誠信書房)を読んだ。これが意外に面白かった。

精神分析を基礎として自らのカウンセリング技法を実践の中で鍛え上げてきた著者が、主要なカウンセリング理論を次から次へばっさばっさと快刀乱麻を断つごとく長所と短所を解説していくスタイルで、単なる読み物としても面白い。もちろん僕が実存主義や現象学、精神分析などの西洋思想史をかじっているからこれだけ面白く読めたのかもしれないが、カウンセリング理論の入門書としては痛快無比だ。著者の國分康孝氏の徹底した来訪者中心主義(client-centered approach)と、そこから来る徹底した折衷主義があまりに痛快なので、続いて同氏の著作『カウンセリングの技法』(誠信書房)も読み始めた。

キャリアカウンセリングの基礎理論の勉強のつもりがどんどん横道にそれて、このままだと交流分析、特性因子論、実存主義的アプローチ、ロジャーズ、行動主義などの各論にまで踏み込んでしまいそうな勢いだ。

しかし國分氏いによればカウンセラー自身に求められる第一の資質は自分自身に肯定的な評価ができる人物であること。自分で自分を嫌っていては来訪者を肯定的に受容できない。ちょっと僕にはカウンセラーはつとまらないが、転職経験豊富なのでキャリア開発の支援なら出来そうか。


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財津和夫の人生ゲーム21

■『林原めぐみのTokyo Boogie Night』、『小森まなみのエールを君に』、『普天間かおりのヘルシー&ダイエット』に続いて、最近また一つ「知る人ぞ知る」タイプのラジオ番組を見つけて聴くようになってしまった。ちなみに最近はネット上にWikipediaという、一般人がよってたかって作る百科事典のようなものが出来ていて、上述の2番組もここで詳細を調べることができる。う~ん、しかし小森まなみが1959年生まれだったとは...。

話を戻して、新たに見つけた番組とは『財津和夫の人生ゲーム21』(キー局:東海ラジオ、提供:トヨタ自動車)だ。過去の青春を懐かしむだけでなく、第二の青春を見つけようという財津和夫の年齢にふさわしいテーマの30分番組で、リクエスト曲ばかりかかる合間に、財津和夫のとつとつとしたしゃべりがなんとかすべりこんでいるという感じだ。もとは60分番組がネット曲の拡大と同時に30分に短縮されたというが、確かにあのしゃべりで60分は少々きつい。

一度リスナーからaikoの『カブトムシ』がリクエストされたときも、財津氏は彼女のことを全く知らなかったらしく、曲がかかった後に、「いいんじゃないですか。ちょっと転調っぽいところもあったりして。でも曲はまあまあ。詞も、まあいいですね。いちばんいいのは彼女の声。声が好きになりました」と大御所らしい辛口コメント。

別の回でリクエスト曲にGacktがかかった後は予想どおりコメントなしだった。リクエストメッセージの中に「ぜひGacktさんをゲストに呼んでください」と書かれてあったのに対しては、「Gacktさんのような方が、こんな『第二の青春を見つけましょう』なんて番組に出ていただける訳がないじゃないですか。もっとチャラチャラした番組に出るのがいいんじゃないんですか」と、朴訥な語り口ながらも、やはり大御所らしく超辛口コメント。

東海ラジオの同番組のページを見ると、普天間かおりがゲストとして出演したことがあるらしい。これこそマイナーラジオ番組つながり。

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2005/05/22

女性ヘルパーの4割がセクハラ経験

山形新聞の2005/05/20付け記事によると、山形県天童市内で県内187事業所を通じて1179人の女性ヘルパーを対象としたアンケート調査で、その4割が利用者や利用者の家族からセクハラを受けた経験があり、勤務する事業所に報告しても、まともに取り合ってもらえず泣き寝入りになるケースが多いという。

介護保険制度で介護が有料化されたことから、逆に「何をやってもいい」という意識が利用者に生まれているのではないかという分析もあるようだ。当然、被害者となったヘルパーはセクハラを受けた利用者の家庭を訪問することに嫌悪や恐怖を抱くようになる。

様々な制度上の欠陥が指摘されている介護保険制度だが、こういったセクハラのようなミクロレベルからの「自滅」が起こるのは、ウェットな日本社会ならではだ。介護保険制度は今まで身内が行っていた介護を「社会化」する制度なわけだが、社会化しても介護行為自体のもつウェットな「甘え」の側面は残り、ヘルパーとの間でそれが再現されてしまう。

いくら介護事業所でセクハラ防止の取り組みをしても、利用者側の意識を改善する対策でなければ効果はない。「成人どうしの身体的接触が必要な私的領域」の社会化としては、介護は近代社会が性的行為の社会化の次に経験する二度目の社会化ではないか。

だとすれば、性的行為が社会化された結果、良くも悪くもこれだけの産業に育ってしまっている現実を考えると、女性ヘルパーをセクハラの被害から守るには、残念ながら、本当に残念ながら、介護サービス利用者に対して既存の性的サービス(デリヘル等)を代替案として勧めるしか現実的な解決策はなさそうだ。

「介護利用者の男性に性欲がない」などというのは単なる幻想である。そのことを介護事業者は認識せざるをえないのかもしれない。さもないと介護の社会化という大きな社会的事業そのものが破綻してしまう。本当に残念なことではあるが、避けて通れない問題のようである。

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2005/05/20

舞城王太郎『阿修羅ガール』

■三島由紀夫賞を受賞した舞城王太郎『阿修羅ガール』(新潮文庫)を読んだ。高橋源一郎センセイ絶賛の現代小説家だが、確かに現実と幻想の間を自由に往還するスピード感のある文体と、乾いた暴力描写はクセになりそうだ。

この文庫版に初収録された短編『川を泳いで渡る蛇』は、意外と言ってはなんだが、『阿修羅ガール』と同じ京王線沿線の調布を舞台にしながら、主人公の何と言うことのない日常生活の中の哲学的考察が展開される、まるで芥川賞作家が書いたみたいな私小説的佳作だ。メフィスト賞作家ならではのB級ハチャメチャ展開小説を期待している初期からのファンは、こんな短編を読まされると「難しくてダメ」となってしまうのではないかと危惧するのは余計なお世話だろう。ただ、「グルグル魔人」についての最後の謎解きと愛子の倫理的考察は、作品として完結させようという「とってつけた」感が強い。

そう、『阿修羅ガール』だけなのかもしれないが、これだけ乾いた暴力描写がありながら、主人公はとてもまっとうな倫理観をもっている設定になっているのだ。もしかするとこの倫理性こそ舞城作品の芯となっている魅力なのかもしれない。とにかく舞城作品はもう一冊は読んでみようと思う。


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2005/05/19

『ガラスの部屋』

■月刊『歌謡曲』の最新刊に『ガラスの部屋』というカンツォーネの楽譜がのっていたので、二日間ほどギターの弾き語りで練習して、何とか詰まらずにイタリア語で歌えるようになった。「Che vuole questa musica stasera (この曲は今夜何をしたいのだろうか)/ Che mi riporta un pocco del passato(それは私に過去を少し思い出させる)」。イタリア語はフランス語に似ているので、翻訳と見比べながらなら簡単に単語の意味を取っていくことができる。えっ?『ガラスの部屋』なんて歌は知らないって?ヒロシです。ヒロシは抜きにしても、曲が良かとです。Peppino Gagliardi - ガラスの部屋~ヒロシが選ぶ哀愁のヨーロピアン・ミュージック - ガラスの部屋

関連リンク:イタリア語辞典

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異常さに気づけない日本人

■先日昼食をとりに入ったファミリーレストランの隣の席に、ジーパン姿の若い母親と5歳くらいの男の子が入ってきた。料理が運ばれると母親は口元にどんぶりを近づけたまま、箸でちびちびと食べ物を口に運び続け、子供は一時も落ち着いて食事をすることなく、テーブルの下にもぐったり、椅子の背もたれから身を乗り出したりして動きまわっている。

すると突然「ちゃんと座って食べなさいって言ってるでしょ」と、母親が一文字一文字がコンクリート製の活字になって口から飛び出しているのではないかという店中に響きわたる声で、子供の方を見るでもなく、まっすぐ宙を見つめたまま口元にどんぶりを近づけた状態のまま叫んだ。母親のそばに置かれているブランド物のコピーっぽい皮製ハンドバックは、手提げの部分がボロボロになって今にもちぎれそうだ。

子供は叱られてぐずり出すが、しばらくすると何事もなかったようにふたたび動きまわりはじめる。すると母親はまたコンクリート製の活字を口から吐き出して「ちゃんと食べなさい」と今度は子供の目を覗き込んで叱りつける。子供は「だってもう食べたくないもん」と懇願するように今にも泣き出しそうな声で答える。しかししばらくするとまた何事もなかったように男の子はテーブルにもぐって母親の足元を通って反対側に顔を出したり、背もたれから身を乗り出したりし始める。

この母子は延々とそんなことを繰り返し、母親の食事は遅々として進まず、子供は何度も叱りつけられて完全に食欲を失っている様子。食事中にろくに食事もできないほど叱られれば慢性の胃腸病になるだろうし、栄養を十分にとれないかもしれない。本来楽しいはずの食事という行為が苦痛でしかなくなるだろう。

客観的に観ると明らかに問題のある育児をしているのに、まったく自覚のない親というのを最近、電車の中など公共の場でよく見かける。電車に乗り込むや否や真っ先に子供にあいている席に座らせて、その正面に立つ親。わがままし放題の子供は家庭の中のボスなのだろう。親は公共の場に出ても自分の子供のボス意識を改めさせない。果たしてこの自意識の肥大した子供は将来、集団生活に適応できるだろうか。

明らかに異常な育児をする親の数が増えているという感覚は、決して気のせいではないはずだ。自分の家庭の中で起こっていること、自分の企業の中で起こっていることを相対化できない日本人が増えているのは、多様な価値観にふれる経験に乏しく、自分たちの嗜好に合うものだけを追求する生活様式の日本人が増えているからである。

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2005/05/17

フルーツバットのココナツソース煮

■この間テレビをザッピングしていたら埼玉テレビで10年以上前、おそらくバブル時代のダイビング番組を再放送していて、しばらく美しいグアムの海中遊泳の映像が続いたと思ったら、レポーターの女性が評判のレストランでグアムならではの料理を頂きたいと思いますということでオーダーしたのが「フルーツバットのココナツソース煮」。小型のこうもりを生きたまま丸ごと鍋でグツグツと煮込んで、肉のエキスが出てきたところで、茹で上がったこうもうりを取り出し、煮汁にココナツスープを加えてスープを作り、もう一度こうもりをそのスープで煮込むという料理。

完成した料理は白い皿の上にこうもりが四肢を硬直させて仰向けになっており、白いココナツスープに浸っているという格好。こうもりは煮られて皮膚が縮んでいるので、小さな口が全開で歯がむき出しになっている、まさに断末魔の表情。そしてその腹はくりぬかれ、スプーンを突っ込んで肉をほじくり出して食べられるようにしてある。夢に出てきそうなおぞましい図柄なのだ。

ところがこの料理、そのダイビング番組でゲテモノとしてではなく、美味な地元料理として普通に紹介されていて、きれいにメイクした短いソバージュの女性レポーターも「じゃあまずスープを頂いてみますね」とカメラ目線でこうもりが浸っている白いスープをスプーンですくって飲んでいる。それ以上見る気がしなかったのでそこでチャンネルをかえたのだが、今ならゲテモノというくくりでなく、普通のスポーツ番組で普通にフルーツバットの姿煮が登場するような番組づくりをするだろうか。やっぱりバブル期の日本って何かおかしかったんじゃないのかと感じた。

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2005/05/15

叩かれた者を叩き続ける人々

■本当に下らないことだが、大阪出身で幼い頃から吉本新喜劇漬けだったせいで今もお笑い系バラエティー番組大好きな僕は、昨日も例によって『めちゃイケ』を見ていた。その中に例の奈良県の騒音訴訟で傷害罪の実刑判決を受けた49歳主婦のパロディーのコーナーがあった。被害者の方が見ていたら不愉快だろうし、この主婦が出所後また同じことを繰り返すだろうと考えると笑ってはいられないのだが、この程度の事件なら笑い飛ばすのも一つの社会的トラウマの浄化方法かもしれないと考えながら見ていた。

その中で製作者側のちょっとした悪意を感じた場面があった。くだんの主婦が自動車のクラクションで騒音を撒き散らしていた場面のパロディーで、某国内自動車メーカ製の車が使われていたことだ。

確かにワイドショーなどで何度も放送されたビデオで実際にあの主婦はそのメーカの車に乗っていたが、もしこれが他の国内自動車メーカの車だったらどうだったろうか。単なるパロディーとは言え、そのメーカにとってみれば一種のネガティブ・キャンペーンになる訳で、当然『めちゃイケ』の番組スタッフはこのメーカの許可はとっていないだろう。例の主婦が同社製品に乗っていたのは偶然とはいえ、パロディーの場面では車種が分からないようにモザイクをかけるなどの加工はできたはずだ。

先日同社は車輪にモータを内蔵する方式の電気自動車を開発したと発表したが、閑散とした記者会見で記者の一人がガソリン車の売り上げが回復しない中でなぜ電気自動車なのかと質問して同社を鼻白ませていたようだし、技術偏重の体質が様々な弊害を生み出していたはずなのに、やはり技術で独自性を追求するしか選択肢はないのかと考えさせられたりしたが、今や国内自動車メーカーでは唯一の負け組になってしまった同社を今もなお叩き続ける日本社会はやはり異常だ。

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2005/05/14

TVドラマと全く違う『雨と夢のあとに』

■『雨と夢のあとに』が原作となっているテレビ朝日系放映の同じタイトルのテレビドラマを先に見て、ああ、芥川賞作家の柳美里も、重い私小説は卒業して、『いま、会いにゆきます』みたいな、通俗的な怪談恋愛モノを書くようになったんだ、とショックを受けた昔からの柳美里ファンは安心してほしい。

本書は一応ドラマの原作ということにはなっているが、まったく別の物語だ。むしろ彼女が芥川賞を受賞した前後の、私小説的な作品の閉塞感や絶望感は消え、強い倫理性に裏打ちされた不思議な透明感のある親子愛の物語になっている。

テレビドラマでは主人公の桜井雨は高校生だが、原作では小学6年生の無邪気さを残す少女だ。ドラマでは何人も幽霊が登場し、残された人々の愛情に気づくことで成仏(?)するというワンパターンの一話完結ものになっているが、原作に登場する幽霊は雨の父親と、たまたまマンションの隣室に住んで、ある理由で死んだ若い女性の二人だけ。

あくまで雨と父親の穏やかな愛情が、限りある日々のなかで静かに交感される、淡々としつつも深い感動を残す小品。まさにフォーレの『夢のあとに』のようだ。幽霊の希薄な存在感をさりげない文体で、説得力をもって描く柳美里の筆力はさすが。はじめて柳美里を読む人にもおすすめだけれど、彼女の初期の小説や戯曲を愛していた人たちも、まったく裏切られることはない、美しい小説である。

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2005/05/10

某番組の某進学高校のダンス6人組

■某バラエティー番組で某進学男子校の生徒6人が、この番組の司会をしているアイドルグループのダンスをコピーして文化祭で発表するという企画を最近放送しているのだが、僕にとっても懐かしい校舎は昔のおもかげがまったくなく、清潔な内装になっていて、しかも個性の強いあの音楽の先生、しゃべり方はそのままでも、すっかり頭がごま塩になって。でも僕がいた頃もこの企画に登場するような美男は結構いたぞ。もちろん僕はその中には含まれないけれども。

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2005/05/08

私的制裁好きな日本人

■その後もJR西日本福知山線の脱線事故について、同社の社員が衆議院議員と宴会をやっていたとか、運転士に対する一般市民の嫌がらせが70件あったとか、いろんなことが報道されているが、日本社会の未熟さがよく分かる。やはり日本人は法制度にもとづかない私的制裁が大好きな国民なのだ。

JR西日本社員だけでなく、直接関係のない議員の私的な行動まで掘り返して非難することに加えて、一般市民が運転士に嫌がらせをするなど、日本人がそれぞれに義憤を爆発させて筋違いの良心を満足させていく。その結果、法制度にもとづいた原因究明や責任追及が本格化するころには、マスコミもふくめてガス抜きが終わった状態になっていて、直接の被害者だけが怒りとともに取り残される。

おそらく今回の事故でさらに糾弾されてしかるべきは国交省だろう。自動車のリコール制度と比較しても、自動停車装置の設置を制度的に義務付けないのはバランスを欠くのではないか。管轄省庁は異なるが国民の生命の安全を守るという同じ観点から、食品や薬剤の安全性についての法制度と比較するとどうなのだろうか。民営化されたJTに対する健康被害についての注意書きの義務付けや厳しい広告規制と比較して、鉄道の安全に対する法規制は甘くないか。

しかし、先日この日記で取り上げた畑村東大名誉教授の『失敗学のすすめ』で取り上げられていた、1997年の信楽鉄道事故の失敗が生かされず、今回の事故が起こってしまった。となると、今回の事故でも日本人は私的制裁でそれぞれにガス抜きを済ませてしまった後は、法制度面の追及や整備をおろそかにし、次の事故の原因を残したままにするのではないだろうか。

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2005/05/07

「現実」と「理念」の往還

■JR西日本脱線事故中のボウリング大会についてまた別の読者の方からご意見があり、企業イメージを損ねる行為であることを知りながら娯楽に興じたのは不作為による過失であり、企業としてのリスク管理上問題があるという主旨だ。確かに事実としてJR西日本はバッシングされているのであり、事故中のボウリング大会が企業イメージ毀損リスクになってしまうのもまた事実である。現状追認の観点からするとボウリング大会を続けた判断はもちろん誤りだ。

すでにお分かりの通り、僕は現状追認の水準ではなく「理想」の水準で議論をしている。リスク管理の文脈で言えば、偽善に満ちたマスコミが大企業を袋叩きにする日本社会そのものがリスクを規定している。リスクはコントロールできるが、リスクの原因である日本社会はコントロールできない。リスク管理に限らず企業のあらゆる種類のマネジメント、ひいてはビジネスというものが本質的に現状追認を基盤とする保守的なものだ。

ただ、ここで思考停止したのでは「あるべき姿」の水準で思考を作動させている「think or die」の存在意義がない。そしてビジネスも「あるべき姿」からの呼びかけに答えることを忘れては、変革の契機を完全に失うことになる。

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2005/05/06

血色の良い上野樹里が...

■血色の良い丸々したほっぺの上野樹里が訪問看護師の見守る中、涙でファンデーションを流しながら息を引き取るというテレビドラマを見ながら大泣きした。『山田太一ドラマスペシャル・やがて来る日のために』(フジテレビ)。どちらかというと看護師役の星野真理の方が病人面なので完全なミスキャストだが、それでも上野樹里はいい。単なる上野樹里ファンのたわ言である。

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制度のレベルと倫理のレベルの峻別

■休暇中のJR西日本の社員を叩くいかにも日本的な集団心理こそ、安全性軽視の非科学的企業体質と共通する後進性だという僕の批判について、大いに賛同というトラックバックやメールを頂いている。しかし一方で、一つだけ反論のメールを頂いた。休暇中とはいえ同僚との親睦会なのだから、半分勤務・半分休暇みたいなもので、やはり社員として責任は問われるべきだという反論だ。

この反論を頂いた方が正直にメールアドレスを入力頂いたとすれば、某大手企業の方なのだが、その会社の社風がとても率直に現れていると感じた。会社の社風によっては、「半分勤務・半分休暇」という状態をすんなり受け入れられるのかもしれない。
僕が言いたかったことは、少なくとも制度上は、100%休暇か、100%勤務中かのどちらかの状態しかないと考えるべきということだ。仕事と私生活のけじめをあいまいにしてしまう考え方があるから、「日勤教育」のように、業務とは無関係な面で社員を追い詰める悪習が生まれるのであり、合理的な根拠にもとづく安全対策が着実に進まなかったのである。

また、メールを頂いた方は決してそうではないと思うが、「同じJR西日本の社員なんだから責任がある」という「連帯責任」的な考え方が混じっているとすれば、それこそ軍国主義に逆戻りである。

あくまで休暇中の社員は一私人であり、事故現場に駆けつけるかどうかは個人の良心の問題である。そして彼らの良心を責めるなら、問題は「法制度」のレベルから「倫理」のレベルにジャンプしていることになり、その責めは自分自身にも向かう。あの事故が起こっているとき、自分は何をやっていたかを自問すべきだ。

また、半分勤務・半分休暇といったあいまいな状態は、少なくとも「制度」上存在してはならない。これについては労災認定訴訟のことなどを想起されるとよい。過労による自殺で夫を亡くした家族を救うには、半分勤務・半分休暇などというあいまいな状態を決して許してはならない。

このように考えると、「純粋に休暇とはいえない」状態を認めてしまう考え方は、制度の中で生きる会社員としてかなりリスキーな発想であることがご理解頂けると思う。(決して反論頂いた方を個人攻撃しているわけではないので、どうか誤解されないようお願い致します)

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エスカレートするJR西日本たたき

■予想どおりJR西日本天王寺車掌区の休暇中の社員が、JR福知山線脱線事故当日にボウリング大会をおこなっていたことに対する下品なバッシングが、昼間のワイドショーを中心として、『報道ステーション』のようなプライムタイムのニュースでまで高揚してきた。

こうなると単なる「日本人ぐるみのJR西日本いじめ」になってくる。一般大衆が勘違いの正義感をふりかざして、JR西日本をたたくことはすべて正当化されてしまう。いかにも日本的な陰湿な社会的いじめである。

休暇中の天王寺車掌区の社員がボウリングに興じていたことで、非人間のような非難をあびなければいけないのなら、事故現場に駆けつけなかったJR西日本社員全員が同罪だという暴論になる。

ボウリング大会がダメなら、自宅でテレビゲームをやっていた休暇中の社員はどうなのか、愛知万博に出かけていた社員はどうか、スーパーで買い物していたくらいなら許されるのか。それとも今回の事故で遺族全員との和解が成立するまで、JR西日本社員は勤務時間外まで全員首をうなだれて生活しろということか。

たまたま連休で昼間のテレビのワイドショーを目にしたのだが、JR西日本という格好の獲物が登場したのをいいことに、ここぞとばかりに日本人が、各種報道機関の記者たちも含めて、飢えた正義感を癒そうと義憤を噴出させている。

この集団心理こそ、安全性を軽視するとともに、運転士の人間的側面(人間かならず失敗する)を無視したJR西日本の企業体質と同じ根っこである。日本人はどうやら、今回の大事故の失敗から何ひとつ学べそうにない。


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リクルートエイブリック編集『転職徒然草』

リクルートエイブリック編集『転職徒然草』(新潮文庫)を読んだ。人材紹介業者である同社があつかった個々の転職事例をコンパクトにまとめたエッセーが数十収録されている。主旨が簡潔に表現されたタイトル、冒頭の要約部分、教訓的な締めくくりという紋切り型で整理されたエッセーには、いかにもリクルートっぽい一貫した編集方針がうかがえ、とても読みやすい。まえがきにもあるように、この本は転職を成功させるためのノウハウ本ではなく、悲喜こもごもの転職群像である。

僕自身、人より多く転職を経験している立場として共感をもって面白く読めたのだが、一つ問題があるとすれば、失敗例の比率が少なすぎることだ。先日読んだ畑村洋太郎『失敗学のすすめ』(講談社文庫)ではないが、人間は失敗例からこそ本質的な教訓を得ることができる。

もちろん失敗例を紹介することでリクルートエイブリックの転職エージェントとしての社会的評価に傷がつくということもあるが、転職を考える人にとって、転職経験者の「こんなはずではなかった」という転職事例こそもっとも参考になる失敗事例のはずだ。

また一般的には転職イコール、キャリアアップという上昇的転職観が当たり前のようになっているが、より快適な職場環境を目指すとか、仕事以外の生きがいを追求するために転職するなどといった、「水平的」転職も人生の一つの選択肢であることが、もっと社会的に広く認知されるべきだろう。

いってみればネガティブな動機による転職であっても、まずまずの転職先が見つかれば人生OKなのである。年収アップやキャリアアップがすべて、といった転職支援の考え方では、転職エージェントのビジネスの幅は広がらないだろう。


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2005/05/05

休暇中の社員まで非難する愚かさ

■JR福知山線の脱線事故について、事故当日休暇をとっていたJR西日本社員がボウリング大会に行っていたということに対するバッシングが始まったが、同社に対する批判もいよいよ非本質的で下品でワイドショー的になってきた。

同社社長が記者会見で「勤務時間外だったので」と弁明したことについて、「勤務時間外でも社員は社員なのだから現場の救助支援に向かうべきだった」と憤慨する意見はまったくのナンセンスだ。私生活にまで踏み込んで社員としての責任を問う、そういう風に社員を100%組織人としてとらえ、一私人としての側面を完全に無視する日本的な考え方こそ、JR西日本の「日勤教育」に見られるような個人に対して抑圧的な組織の体質の原因になっているのだ。

休暇中の社員が現場に駆けつけるかどうかは個人としての良心の問題であって、社長が謝るような問題ではない。にもかかわらず社長に謝らせることで、企業の管理強化を社員の私生活にまで及ばせ、同じような事故が再び起こるように仕向けている。これこそ日本社会の醜い愚かさだ。こんなときだからこそ、科学的な事故原因の究明を最優先に同社を追及すべきであって、こんなワイドショー的なネタで安全性に関する議論を非本質的な方向へそらすべきではない。

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携帯版ZANACのもたらす下らない感慨

■最近携帯電話で格好の暇つぶしを見つけた。BREWで動作する「ZANAC」というゲームだ。電車内の読書時間が侵食されるのでほどほどにしてはいるが、とても懐かしい匂いがするのでつい夢中になる。

僕は初代ファミコンを含めてゲーム専用機を所有したことがなく、当然テレビゲームもやったことがないが、中学時代8ビットパソコンを持っていた頃はカセットテープや8インチフロッピーから起動するゲームにのめりこんでいた。「DOOR DOOR」や「ロードランナー」の他、縦スクロールのシューティングゲームで今でもBGMを歌えるほど熱中していたのがナムコ製「XEVIOUS」だ。「ZANAC」はその「XEVIOUS」を想起させる。

「XEVIOUS」よりも遥かに複雑なゲームが掌の中の小さな機械で高速に動作しているのを見ると実に隔世の感がある。今のビデオデッキほどの大きさがあったSHARP X1 turboとauの端末を比べたら、それはauの端末の方が比較にならないほど高性能なのだから当然なのだが、20年の間に集積技術は信じられないほど長足の進歩を遂げた。20年ぶりの縦スクロール・シューティングゲーム「ZANAC」はそういう下らない感慨をもたらすのである。

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2005/05/02

自民党議員たちの論理的な破綻

■郵政三事業民営化に反対している自民党の議員はまったくわけがわからない。自民党議員は郵政民営化をマニフェストとしてかかげる小泉氏を自民党総裁に選んだのだから、そのマニフェストを有権者との約束どおり実行しようとする段になって自民党議員が反対する権利はない。郵政民営化に反対なら総裁選挙で小泉氏に投票すべきでないし、総裁に従えないのなら衆議院を解散するか、離党するしか彼らに選択肢はない。郵政民営化が適切な政策かどうかは僕には判断できないが、自民党にしがみつきながら郵政民営化に反対する自民党議員が完全に国民を無視していることだけは明瞭に理解できる。

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失敗から学んでいたJR東日本

東京大学名誉教授・畑村洋太郎著『失敗学のすすめ』(講談社文庫)を読み終えたが、文庫版だけに収録されている「あとがき」に一つ貴重な情報があったので読者の皆さんにぜひ紹介させて頂きたい。

2004/10に起こった新潟県中越地震で上越新幹線が脱線事故を起こしたとき、読売新聞をはじめとしてほとんどの報道機関が「新幹線の安全神話が崩壊した」などと否定的な論調だった。

しかし畑村名誉教授は一人の負傷者も出さなかったこの脱線事故の背景に、JR東日本の地道な安全対策があったことを指摘している。阪神大震災の教訓から、JR東日本は管内新幹線の高架部分の支柱補強工事を着々と進めていた。そのおかげで、新潟県中越地震が直下型だったにもかかわらず支柱はびくともせず、高架橋全体が崩壊するという最悪の事態を見事に回避したというのだ。

文庫版の「あとがき」には上越新幹線の高架のすぐ近くにあるマンホールが地盤の液状化で石塔のように1メートル以上も浮き出している写真が紹介されている。それくらい地盤が急激に軟弱化したあの地震にあっても、上越新幹線の高架橋は無事で、新幹線は車両が脱線しただけですみ、負傷者は出なかった。

阪神大震災の失敗から学んだJR東日本の地道な努力を評価せず、脱線の負の側面ばかりを非難する日本の社会(というより報道機関)こそが、企業が失敗から学ぶことを妨げる環境をつくりだしているのだという畑村氏の主張には説得力がある。失敗から学ぶことなく同じ失敗をくりかえす企業は論外だが、失敗から学んだ形跡がないかを注視することはたしかに重要だ。

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