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2005年4月の記事

2005/04/30

「集団圧力」と「同調行動」

■「うちの会社の常識は、世間の非常識」と自嘲的に語るサラリーマンは多い。今朝の日経新聞三面の「働くということ2005」というコラムは、「集団心理の落とし穴」と題して、次々と発覚する企業不祥事の背景に、米国の心理学者ソロモン・アッシュが実証した「集団圧力」と「同調行動」を見ている。

このコラムによれば同教授は「一人でも違う意見を述べれば同調の圧力は一気に弱まる」と言っているらしく、だからこそ「新鮮な視点を持つ外部からの人材導入はその有力な手段となりうる」とこのコラムは書いている。2004年は全産業で中途採用を実施した企業が50%を超え、10年前に比べて「16~18ポイント高まって」いるらしい。しかし、である。その「新鮮な視点」を活かすも殺すも受け入れ側の組織しだい。歴史の長い組織ほど「新鮮な視点」を、何の悪意もなく無意識のうちに圧殺する性格を抜きがたく有している。

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ベテラン社員の文書化・標準化軽視

■科学的プロジェクト管理が日本企業の情報システム開発になかなか根付かないのは、ベテラン社員が標準的なプロジェクト管理業務に慣れすぎてしまい、そこからはみ出した事態に対処することにしか仕事としてのやりがいがを見出せなくなっているからではないか。

日本企業の中間管理職は仕事を複雑化し、自分にしかできない仕事に変えていくことで自己保身している。そのためプロジェクト管理においても、日程遅れや要件定義の甘さなどといった問題が、まるでこれから必ず起こるかのように想定し、当たり前の管理手順をちゃんと踏むことを後回しにして、起こるかもしれない問題に対処することを優先してしまう誤りを犯している。

ベテラン社員たちは標準的な手順をきちっと踏むことをバカにし、必ずしも起こるとは限らない問題に先回りして対処することこそが、まるで中間管理職としての存在意義であり、経験の活かしどころだと勘違いしているのだ。社内の規程類を整備する当事者である中間管理職の彼らが、規程類を軽視することに自らの存在意義を見出しているような状況では、科学的プロジェクト管理手法のような体系的な方法論が根付かないのはむしろ当然である。

ベテラン社員は若手社員のマニュアル至上主義を批判する前に、まずマニュアルこそ最低限の業務品質と業務効率を保つ唯一の手段であることを思い出すべきだ。業務を文書化・標準化すること自体が悪なのではない。業務を文書化・標準化することで初めて、業務のうち文書化・標準化できない部分が明らかになる。逆に言えば、業務のうち標準的な部分が、文書化されてきっちり伝承されないような職場で、それよりもさらに高度な業務、つまり、文書化・標準化することが難しい業務がきっちり伝承されるわけがない。

ベテラン社員は即興演奏的な仕事のスタイルこそが、ベテランたるゆえんであるという勘違いをしているために、若手社員への正確な業務ノウハウの伝承に失敗している。

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2005/04/29

楽器店のバッハ少年

■先週の週末、暇つぶしに近所の楽器店に入ると、バッハのオルガン曲の旋律が聞こえてきたので、その上手さに思わず音のする方を振り返った。電子ピアノの音色をパイプオルガンに変えて、その短調の旋律を弾いていたのは10歳くらいの少年だった。バッハのオルガン曲といっても誰もが知っている『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』の例の冒頭のフレーズだけではなく、僕が持っている『トッカータとフーガ ジルバーマンの傑作オルガンによるバッハ・コンサート』というCD-ROMに収録されている、それほど有名ではない曲のフレーズも弾いていた。たしかに内向的な感じはあるが、まだ幼い顔立ちと、バッハの重厚な短調の旋律があまりに対照的で驚いた。

しかし今日、それがそのときだけの出来事ではなかったことを知った。

暇つぶしに同じ楽器店に立ち寄ると、同じ少年が今度は携帯型の安いキーボードでバッハの旋律に没頭していたのだ。色あせた暗い灰色の綿パンに、くすんだ紫色のポロシャツを無造作に突っ込んでいる。店にいる人たちに聞かせるというよりも、自分の指先が生み出す音に必死で耳を傾けている様子で、少し近寄りがたい雰囲気さえただよわせていた。店での演奏にのめりこんでいることからして、自宅には楽器がないのだろう。数万円のキーボードさえ買う余裕のない家庭の少年が、どうやってバッハのさほど有名でない旋律を知り、弾けるようになったのか。小学校の音楽の授業で聞き知って、音楽室のピアノで練習したのだろうか。僕自身、もし鍵盤楽器が弾けたらバッハの幾何学的に美しい旋律を弾くことに没頭するに違いない。自分の音の世界に閉じこもっている少年の横顔に、少しシンパシーを感じた。

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2005/04/28

「日勤教育」という名の組織保身

■失敗原因には階層性があり、会社組織の失敗は往々にして現場担当者一人の責任にされがちだが、その背後には組織運営上の原因が潜んでいることが多い。企業が事故や不祥事を起こしたとき、当該企業や管轄する役所が原因究明のための特別チームを作ることはよくあるが、世間に与える影響を考慮して、当たり障りのない結論を出してお茶を濁すこともある。

以上はちょうど昨日から読み始めた東京大学名誉教授・畑村洋太郎著『失敗学のすすめ』(講談社文庫)から自由に引用したものだ。

先日の大阪での脱線事故について、その後の報道でこの鉄道会社では、駅からの発車時間が数十秒遅れたり、ホームをオーバーランした場合、その運転手に「日勤教育」という、業務に直接関係のないレポートを何十枚も書かされたり、複数名の上司から集団で詰問されるなどの、精神的懲罰を与える制度があったという。この鉄道会社の時代錯誤ぶりにはあいた口がふさがらない。

「日勤教育」では再度ミスを犯した場合、運転手を辞める誓約書を書かされることもあったというから、運転手に与える精神的圧力は強力で、昨日の『報道ステーション』は「日勤教育」が直接の原因となった自殺者のケースも紹介されていた。

今回の事故の運転手も一度オーバーランを起こして二週間弱の「日勤教育」を受けており、事故直前に二度目のオーバーランを起こして1分半の遅れまで生じてしまっている。まだ二十代前半という若さで、遅れを取り戻そうという精神的重圧と、二度とハンドルを握れないかもしれないという将来に対する悲観が入り混じって、パニック状態になっていたことは容易に想像できる。

さきほどの引用にもあるように、事故を現場担当者個人の責任に帰したのでは、まったく問題解決にはならない。また、国土交通省の鉄道事故調査委員会は「原因特定には時間がかかる」と、早くもお茶を濁しにかかっている。事故直後に鉄道会社幹部が「置き石」説を強調したのも、運転手をかばうというよりは、自分たちも含めた経営層の保身のためである。

このままいけば個人に責任をなすりつけ、まったく実質的な効果のない「日勤教育」という時代錯誤の懲罰制度は見直されないまま、事故原因はこの鉄道会社と国土交通省の最強タッグでうやむやにされてしまうことだろう。
ところで僕が通勤に使っている私鉄は、『失敗学のすすめ』でも取り上げられている数年前の脱線事故を起こした地下鉄と相互乗り入れしているが、ほぼ3日に1日は夜のラッシュ時間帯に3~5分の運行遅れを起こす。乗客の安全を最優先にして、定時運行の効率性を犠牲にするこの私鉄の運行方針はきわめて正しい(それでも最近、人手による無理な踏切の運用が原因で死亡事故を起こしてしまっているが)。

今回脱線事故を起こした鉄道会社は逆に、乗客の安全と現場運転手を犠牲にして、企業としての効率性と経営層の自己正当化を最優先にしている。おそらく同社の体質はそうかんたんには変わらないだろう。

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2005/04/27

組織の統治における力の拮抗

■今朝の日本経済新聞「春秋」には先日のJR脱線事故について、JR西日本にはいまだに「国鉄一家」としての閉鎖性が残っているのではないかと書かれていた。事故原因として当初置石の可能性を強調し、身内である運転手をかばおうとしたためだ。

ただし日本で身内をかばう発想が弱い企業がどれだけあるか。中途採用者を次々受け入れて組織が拡大途上の企業でもない限り、社員の大部分が新卒採用の生え抜きといった日本企業なら、身内をかばう発想はむしろ避けられない。身内をかばう内向きの考え方があること自体が問題なのではなく、それに対抗して組織としてバランスをとる反対向きの力、客観的に自分の組織をチェックする力が存在しないことが問題なのだ。

客観的に自分たちの組織をチェックする「他者の視点」は、言うまでもなく意識して導入しようとしなければ導入できない。会社全体のガバナンスのレベルでいえばそれは今東京証券取引所が上場企業に対して義務付けようとしている社外取締役制度だったりするのだろう。

ITを仕事としている僕がITガバナンスのレベルで考えれば、「他者の視点」というのは利害関係のない第三者によるアセスメントやシステム監査であったり、特定のベンダーとべったりの関係になることを防ぐための、公正な調達プロセスであったりする。社内ITが「他者の視点」を欠くと、技術的なロックイン状態が起こって、技術の盛衰のリスクに対して脆弱な情報システムができたり、社員のモチベーションの維持に失敗したり、情報システムの品質を維持できずに「安物買いの銭失い」状態になったりといった弊害が生じる。大切なのは反対向きの二つの力が拮抗していることであって、身内の理論の存在そのものが悪なのではない。

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冗談キツすぎます、エバ・チェンさん

■トレンドマイクロ社製のウィルス対策ソフトウェア「ウィルスバスター」が未検査のパターンファイルを配信して、多数の日本企業で被害が出たようだ。来日した社長が不具合を起こしたパターンファイルの番号にちなんで当面自分の報酬を594円にするとは、こんなときに下らない冗談を言っている場合かと非難したくなり、同社のITベンチャー風超楽観主義の企業文化と日本企業社会の文化の落差を感じさせる。

僕が過去に勤めた企業をサンプルにとると、ウィルスバスターを使っていたのは1社だけで、ほとんどがシマンテック社製のノートンアンチウィルス、マカフィー社製品も少数派だ。ただ、ウィルス対策ソフトなしでは安心してインターネットを利用できないこのような状態になったのは、そもそも基本ソフトであるWindows側のセキュリティ対策が後手に回っていたからで、Windowsのパッチを当てたおかげでパッケージソフトが動かなくなったという、今でもなお繰り返されている被害に比べれば、パターンファイル1つの不具合くらい大した問題ではないと言える。その意味でトレンドマイクロ社が今回の不具合による賠償を否定したのもやむを得ない。

同社が今回の件で損害賠償する必要があるくらいなら、マイクロソフト社はなおさらそうだということになるからだ。そういえばWindowsにこっそりhostsファイルを仕込んで、パターンファイルの配信元サーバを別IPアドレスのサーバに密かに切りかえるようなウィルスってまだ発生していないのだろうか。そんなのが出てくるとかなりたちが悪そうだが。

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2005/04/26

サマータイムの恐怖

■サマータイムを2007年実施に向けて日本政府が検討しているとかいう話だけれど、ITのことなどまったく分かっていないお年寄りたちはそんなに気軽にサマータイム、サマータイムなどと言わないでほしいものだ。今までOSのサマータイム運用などしたことがなくて、自分の会社の情報システムがちゃんとサマータイムに対応できるのか不安で仕方ない。

一台でもサマータイム運用できないサーバがあったら、他のサーバとの時間差で一体何が起こるか想像もつかない。ファイルのタイムスタンプでシステム間のファイル送受信管理をしているシステムがあったら、同じファイルを二度読み込んでしまうことにならないだろうか。Lotus Notesのレプリケーションはうまくいくのだろうか。監査証跡として処理時刻が致命的な重要性をもつトランザクションで、本当は同じ時刻に処理されているデータが1時間違いで処理されていることになったらどうなってしまうのか。

1台のコンピュータだけのことを考えればタイムゾーンを変更するだけで済むことは分かるのだが、日本中のすべてのコンピュータのタイムゾーンがちゃんとサマータイムに設定変更されないと、一体どんなことが起こるのだろうかと思ってしまうのは、サマータイムのことを分かっていない素人考えなのだろうか。

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2005/04/24

「かくれんぼ」と「水之月」

■矢野絢子の新譜『浅き夢』を例によってギターで和音をとりながら一曲ずつ覚え始めた。矢野絢子 - 浅き夢 - EP今晩、一時間ほど歌って「かくれんぼ」「水之月」をだいたい弾き語りできるようになった。「かくれんぼ」はG→D7→Em→Cの循環コード、「水之月」はシャンソン風の美しい三拍子でEm→Am→B7→EmとAm→Em→B7→Emの2パターンと、クライマックスでのト長調への転調だけで、どちらの曲も彼女の曲らしくとてもシンプルなコード進行。素人にはとても覚えやすく、しかも旋律が良いので、弾き語りしていると本当にハマって何度でも歌ってしまう。続けて矢野絢子について書くのはよそうと思ったけれど、こうなってしまったくらいに愛すべき歌なのだ。

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2005/04/22

矢野絢子『浅き夢』

■『浅き夢』というのは2005/04/13に発売された矢野絢子の新しいコンセプトミニアルバムで、近所のTOWER RECORDSにてろっと立ち寄って偶然見つけた。

毎晩『ナイルの一滴』を聴かない日はないという生活になり、このメジャーデビューアルバムについては、ほぼ全曲コードをとってギターで弾き語りできるまでに至っていたので、当然二枚目のアルバムを待っていた。CDショップで気づくとは不覚だったし、この@niftyのココログに彼女が期間限定のblogを開設していることに気づかなかったのも不覚だった。

日本的叙情性がほぼ高知でしか活動しないという彼女の個性であることは確かなのだが、レコード会社のマーケティングなのか「美しき日本の憧憬を綴る」というコンセプトが行き過ぎで、和太鼓を取り入れた祭囃子風の『風の子』、三味線と彼女のピアノが競演する『とうとやつめ』の二曲についてはあざとさが否定できない。それ以外の5曲は、インストゥルメンタルの『空色ふう子』を含めて申し分なく、1曲目『かくれんぼ』は「もういいかい」という呼びかけに対する「もういいよ」という答えが実は深い「赦し」の意味を秘めていたのだということを気づかせてくれる、彼女らしい世界観が体現されたバラードだし、最後7曲目の『燐光』も力強いボーカルにふさわしいスケールの大きさを感じさせる彼女の王道と言える作品だ。『ナイルの一滴』での物語性の強い三拍子の大作『ニーナ』に対応するのが、本作ではやはり三拍子で演奏時間も長めの『水之月』、とぼけたメロディと単純な歌詞ながら希望と絶望の入り混じった『ゾウリムシ』は前作の『ひとさじ』や『レモンスライスほおばって』の流れにある。

椅子、水の中などのモチーフは前作からしっかりと引き継がれている。マスメディアや首都圏ではあまりお目にかかれないことは残念だけれど、矢野絢子にはいつまでもこのまま歌い続けてほしいし、その変わらなさが今の邦楽界での彼女の稀有な位置なのだろう。


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2005/04/18

まずは制度上の問題をクリアに

■今日の日本経済新聞朝刊一面に「石は投げた人に向かう」という大きなコラムタイトルが見えたので、てっきりこの「人」というのは日本人のことだと思った。ところがこの日中関係についてのコラムをよく読んでみると中国人のことらしいのだ。中国全土に波及しつつあるデモで事実として投石しているのはたしかに中国人だが、このコラムで小泉首相の靖国参拝問題と教科書検定問題が後半に付け足しのように述べられているのは、きわめてバランスを欠いている。こんな記事が経済紙の一面に載ってしまうのでは、日本全体が右傾化していると中国や韓国に解釈されても無理はない。ただし同じ朝刊の社説は首相の靖国参拝をきちんと批判的な観点から論じているので、日本経済新聞全体としてはバランスがとれている。

日中関係や日韓関係がこじれるたびに、この問題をイデオロギー問題だと勘違いする人が多いようだが、純粋に制度の問題だと割り切った方がいい。一つは教科書検定という制度があるために、まるで日本政府が一部の国粋主義的な教科書に「お墨付き」を与えているかのような印象を、中国や韓国に抱かせる。そもそもの元凶は検定制度にあるのであって、国粋主義的な教科書があったり、自虐史観的な教科書があったりする言論の多様性そのものには何ら問題はない(というより別の次元の問題としてちゃんと論じられるべきである)。

また、靖国参拝についても、そもそも30年前にA級戦犯を合祀してしまったことがすべての元凶なのであって、戦没者の慰霊施設を別に新設するなどの制度的な対応をとって、小泉首相にはそちらを毎年参拝してもらえばいい。

こういう制度上の問題を放置したまま、無神経に靖国神社に参拝したり、教科書検定を続けたりしていたのでは、中国や韓国から見れば、日本政府がわざと近隣アジア諸国の神経を定期的に逆なでして、彼らの不満や怒りを鬱積させているのだと解釈されても仕方ない。

まずはこれら制度上の問題を解決した上で、それでも「新しい教科書をつくる会」の言っていることには問題があるとか、それでも小泉首相が新しい慰霊施設ではなく靖国神社に参拝したいというなら、そのときに問題ははじめて政治的イデオロギーの領域に入っていく。

制度改革など単なる技術論の問題なのに、その努力を先にやらずに、中国や韓国の反応を行き過ぎたナショナリズムだと批判する権利は日本にはないと思うのだが。今の状態は、日本政府が単なる制度上の問題を、わざわざイデオロギー対立の問題にまでこじらせてしまっていると言える。これはあまりスマートなやり方ではない。

日本政府が靖国参拝や教科書問題がじつは単なる制度上の問題ではなく、その背後に日本政府として確固たる政治的イデオロギーがあった上で、教科書を検定し、靖国神社に参拝しているというなら、日本政府は意図的に中国や韓国を挑発してきたことになる。この問題が単なる制度上の問題でないならば、今回の大規模なデモはまさしく、日本が投げた石が、日本に帰ってきただけの話で、日本政府がこれまでおこなってきた中国や韓国に対する挑発の、当然の代償だ。

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2005/04/17

右手が筋肉痛

■右手が筋肉痛になった。2時間で4,000字近くも手で文字を書いたのは高校時代の受験勉強以来ではないか。書くべき内容は頭の中にあるのに、キーボードをたたくのと違って自分の右手が思考の速度にまったく付いてこない。制限時間5分前になってようやくすべてを書き終えた。今日は春期情報処理技術者試験の日。「システム監査技術者」午後Ⅱ論文の話だ。帰宅してまず株式会社アイテックの解答速報のページを探しあて、午前の問題で足切りになっていないかを調べた。55問中45問正解なのでまず大丈夫そうか。これで右手を酷使した午後の解答も採点の対象となり、無駄にならずに済んだ。ただ、読める字になっていたかどうか...。

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2005/04/16

手のひら認証カードのナゾ

■今、某銀行が手のひら静脈認証付きのカードを年会費無料で作れると、ものすごい勢いで宣伝している。ただ、この件についてまったく理解できないことが一つある。

同行のWebサイトに最小のフォントで書いてある「ご留意事項」を、よくよく読んでみると、こんなことが書いてある。「クレジットカード機能・電子マネー『Edy』機能では身体認証(バイオメトリクス)をご利用いただけません」。えっ?手のひら認証って、カードの安全性を高めるための機能じゃなかったでしたっけ。ところが手のひら認証付きカードを作るには、クレジットカードと「Edy」の機能をつけなければいけない。しかもこの2つの機能については手のひら認証機能が使えない。

とすると、万が一カードを盗まれたら、たしかに銀行のキャッシュカードとしては手のひら認証で保護されるかもしれないけれど、クレジットカードとして買い物にじゃんじゃん使われたり、キャッシングされたりしたら、手のひら認証の意味がない。たしかにクレジットカードのキャッシングには利用限度額があるが、ショッピング利用可能枠の範囲内で何度も買い物されてしまえば同じこと。そうとは知らずに手のひら認証カードを作ってしまった人たちは別として、預金者側のメリットはほとんどない。全銀協は先日カード盗難の場合の賠償には応じない方針を発表したばかりだし、なのにどうして手のひら認証をあんなに大々的に宣伝しているのだろう。本当に不思議だ。

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2005/04/14

インターネットを少しPUSH型へ

■ひまつぶしにインターネットでもと思って、まずYahoo!JAPANを開くのだが、そこからクリックする先はいつも同じ。そもそも自分でクリックしなきゃ次へ進まないPULL型メディアだから、当然といえば当然なのだが、例えばこんなポータルサイトが出てこないものだろうか。

いろんなジャンルの優れたサイトを、利用者の嗜好などお構いなしに、まったくランダムに表示する。気に入らなければ「次へ」ボタンをクリックすると、つぎつぎ無節操にいろんなサイトをザッピングできる。そんなポータルサイトがあれば、インターネットをテレビと同じPUSH型メディアに仮想的に変換できると思うのだが。どうだろう。

なぜこんなことを考えたのかと言えば、インターネット広告のことを考えていたからだ。利用者の入力した検索キーワードによって、表示される広告が変わるなど、利用者の嗜好にぴったり合った広告が、インターネットの特性を活かした新しい広告のように言われている。しかし、そもそも広告とは、すでに消費者の中にある欲望にこたえるというより、消費者の中に存在しない欲望をつくりだすものじゃなかっただろうか。

漫然とテレビをザッピングしていて出くわしたCMで、今までまったく興味のなかったものでも、「へぇ~そんなものが出来たんだ」と思えば、一度買ってみようか、行ってみようかと思う。そういう風に、消費者の中に新しい欲望を作り出すのが広告のもっとも先端的でクリエイティブな部分であって、利用者の嗜好に合わせたインターネット広告なんて、単なる企業のセールス支援ツールに堕してしまっている。

堀江社長はテレビやラジオに対して、PULL型だからこそのインターネットの独自性を訴えていたけれど、むしろインターネットはPUSH型に傾いていかないと、広告やエンターテインメントの媒体としては限界がある。広告もエンターテインメントも本質的には「受身」のものだからだ。

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2005/04/11

美しいファサード

■近くに用事があったので、昔勤めていた会社の店舗を遠まきにのぞいてみた。この店舗はファサードがガラス張りで、表から店舗内の物販スペースが丸見えで体裁が悪いという問題があり、街の雰囲気にあった外装にする計画があった。今日見てみるとファサードはほぼ全面すりガラスに張りかえられ、そのすりガラスには、表現するのが難しいのだが、余白をぜいたくにとった大きなモノトーンの模様があしらわれていた。

細長い葉が優雅に渦を巻いているような姿の模様が、三つほど点々と、水墨画のようでもあり、現代美術のようでもある。確かに大人の街の雰囲気に溶け込んでいて美しい。しかし他方でこの街はパチンコ屋やスナックのネオンがけばけばしい街でもある。大人しい意匠がこの街を少し入った路地にすっかり溶け込んでいるのはよいのだが、少し大人しすぎるようにも感じた。

ここまでフェミニンな雰囲気を狙うのであれば、いっそのことコーポレートカラーの水色も捨てて、この店舗だけグレーか暖色系のパステルカラーにしてしまい、女性客に思い切ってフォーカスすべきではないかとも考えた。この改装で果たして会員数が増えたのかどうか。

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2005/04/09

世の中、金がすべてです

■鈴木さんは田中さんに5,000円を貸しています。二人の共通の友達にプレゼントを買うことになりました。借りがある田中さんが買いに行く予定でしたが、都合が悪くなったので、鈴木さんが田中さんのお金を10,000円預かって買いに行きました。でも10,000円ではいいものが見つからず、鈴木さんは自分のお金から3,000円を足して、13,000円のプレゼントを買いました。さて、鈴木さんと田中さんの間でどういうお金のやり取りをすれば、貸し借りがなくなるでしょうか。僕、この問題、10分考えてもわかりませんでした。人間として欠陥があるんでしょうか。

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2005/04/05

インターネットというメディアの計画不可能性

■ライブドアのニッポン放送買収劇について、ライブドアはラジオとインターネットの融合について、具体的で革新的な提案を出来ていない。だから買収提案に説得力がないという議論がある。インターネットとメディアの融合など10年前から言われていることで、AOLによるタイム・ワーナー買収も失敗したじゃないかという意見も聞かれる。

しかし当時とは通信回線の速度やインターネットの普及度からして、状況がまったく違っている。そもそもインターネットというビジネスは、基盤整備が安価でお手軽なので、綿密な計画に基づいて厳密にコントロールされた事業展開にはなじまない。旧来のメディアのように番組一本作るにしても数千万円単位の多額な投資が必要であれば、なるほど事前に明確な提案を示すことも必要だろうが、インターネットは最初から不特定多数の匿名性の高い利用者が参加しているメディアで、事前のコントロールが効くような性質のメディアではない。

したがってライブドアのラジオとインターネットの融合に関する提案に具体性が欠けているのは、かえってライブドアがインターネットというメディアの性格をよく知っていることを示している。ライブドアの提案は具体性に欠けると批判する人たちは、一つひとつの番組の投資規模が大きいテレビ、ラジオのようなメディアと、インターネットの違いを理解していない。

さらに言えば、インターネットの原理なんてひとことで説明できてしまう、ひどく単純なものだ。しかしその単純な仕組みが人々の生活に定着するにつれて、予想もつかない変化が、気づかないところでじわじわと起こってきた。インターネットのもたらす変革とはそういうものであって、街頭テレビがたちまち戦後の一般大衆に熱狂を作り出したような性格のメディアとは違うのだ。ニッポン放送やフジテレビの経営陣、そしてライブドアの提案に具体性がないと批判するすべての人たちは、こういうことが分かっていない。

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2005/04/02

綾波もアスカもミサトも一児の母

■庵野秀明が日産のテレビCMに出演しているのは『新世紀エヴァンゲリオン』にハマッた世代がもうTIIDAを買うような年齢になっているからということなのかどうかは分からないが、たまたま先週末、例によって寝入りばな耳にイアフォンを入れたまままどろんでいたら、久しぶりに林原めぐみの『Tokyo Boogie Night』を耳にした。

「耳にした」という受身の書き方になるのは、眠れるまでAMラジオのチャンネルをNHK第一から文化放送まで行ったり来たりするのが習慣になっていて、日曜日の深夜は翌朝の出勤に備えて11時半には寝入るようにしているので、昔は11時台だったのに今は0時始まりになった『Tokyo Boogie Night』は本当にたまたま耳にしたのだ。その中で彼女が、エヴァの綾波(彼女自身)もアスカ(宮村優子)もミサト(三石琴乃)もいまやもう一児の母だという意味のことをしゃべっていた。林原めぐみが出産したことは知っていたが、ウィキペディアで調べてみると確かに林原めぐみは2004年6月に女児を出産、宮村優子は2004年9月に女児、『うちくる』のナレーションでも有名な三石琴乃は2000年に結婚して「一女あり」とのことだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』の第壱話が1995年10月放送だというから、もう10年が経っているわけで、オンタイムでは劇場版しか観ていない僕でも1997年からなので8年。それは3人のヒロインの声優がそろって一児の母になっていて何の不思議もないし、庵野秀明が日産のCMに出演して元『エヴァ』ファンの視線をTIIDAに誘導しても不思議はない。社会人になってから『エヴァ』を観た僕にとっても、すでに『エヴァ』は青春の思い出といったこっぱずかしい表現が相応なくらい輪郭のかすんだ遠い過去になりつつあるということなのだろうか。

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