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2005年1月の記事

2005/01/31

少子化問題記事がむなしく響くわけ

■日本経済新聞で少子化問題の記事を読むたびに、記事を書いている記者や大学教授たちに当事者意識がほとんど読み取れないことを歯がゆく思う。働く女性が妊娠したとき、日本企業の大多数を占める中小企業ではあからさまな「退職のすすめ」が行われている。中小企業が短期・中期的な人件費を抑えるために、女性社員に育児休暇をとらせまいと、結婚した女性社員や、妊娠した女性社員、結婚後も長く勤めている女性社員に退職の圧力をかけるということが横行しているのは、日本の会社員なら誰でも知っている事実だ。

ならば少子化問題を報道するメディアはまず、自分たちの職場の状況について考えるべきではないか。自分たちの職場で深夜残業が当たり前になっていて、女性社員はとても妊娠や育児どころではないという状況であれば、しかつめらしく少子化問題を論じるまでもなく、少子化は当たり前の帰結なのだ。

何も難しい問題ではない。自分たちの会社で育児休暇の取得率が増えなければ、世の中小企業でも取得率は増えないだろう。働く女性にとって子供を持ちやすい企業は、その企業独自の努力によるものだが、逆に、働く女性にとって子供が持ちにくい企業は、すべての企業に共通な理由によるものだ。

個々の企業に改善を呼びかけるような少子化問題の記事は、まったくの的外れだ。少子化問題とは、その99%が男性である企業経営者の考え方の問題、社会慣習の問題、文化的な問題なのである。少子化問題の改善を呼びかける新聞記事やコラム、社説が虚しく響くのは、その記事を書いている人々自身が「こんなこと書いてもムダだろうねぇ」と、すでにあきらめているからだ。そのあきらめは、記事が客観的で、社会全体に呼びかけるものであればあるほど、行間からにじみ出る。

ひとつ提案なのだが、マスコミが少子化問題をとりあげるときは、必ず自分の会社だけを標的にするということにしてみたらどうだろうか。大学教授が少子化問題に関する論説を新聞に載せるときも、自分の所属する大学しか批判の標的にしてはいけないということにしたらどうか。そうすれば少子化問題については非常に絶望的な記事しか書けなくなるだろう。それでこそ少子化問題の真実に迫っているのだ。

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2005/01/30

相米慎二『東京上空いらっしゃいませ』

■昨日書いたような訳で『セーラー服と機関銃』に引き続いて、相米慎二監督『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)を近所のTSUTAYAで借りてきて観た。改めて相米監督が可能な限りワンシーン・ワンカットで撮りたいということが分かる。前半のジャズクラブで三浦友和と中井貴一が話し合うシーンはワンカット5分もある。故郷の川越を訪れる牧瀬里穂が幼なじみと橋の上で久しぶりに出会うシーンも、クレーンを使いながらのワンシーンワンカット。本作でデビューの牧瀬里穂にほとんど元気な芝居しかさせない潔さがかえって彼女の魅力を引き出している。

今観るとチープな特撮はご愛嬌として、主題歌の井上陽水作曲『帰れない二人』もあいまって相米監督の隠れた名作ファンタジーだ。予想に違わず「相米マジック」にかかってしまい、今はピーターと仲良しのおばさんになってしまった牧瀬里穂のデビュー当時に完全に魅了された。この脚本の設定はよく考えると本質的に「白血病もの」に通じるね。


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二日連続、薬師丸ひろ子

■今日何となくBSデジタルをザッピングしていたら森村誠一原作シリーズの角川映画『野性の証明』(1978年)が放送されていた。二日連続で薬師丸ひろ子とは。小学生のとき薬師丸ひろ子の連絡先を探そうと、全国の電話帳が置いてある電話局に出かけて薬師丸姓を必死で探したことを思い出す。『野性の証明』はリアルタイムでは見ておらず、『セーラー服と機関銃』で熱烈なファンになった後に観ただけだが、佐藤純彌監督の演出のせいか時代のせいか、サスペンスドラマのように安っぽい映画だ。薬師丸ひろ子がカワイイことだけは間違いないのだが。

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相米慎二『セーラー服と機関銃』

■夜中にBSデジタルで相米慎二監督『セーラー服と機関銃』(1981年)をついつい終わりまで観てしまった。「はじめての口づけを、中年のオジンにあげてしまいました。ワタクシ、愚かな女になりそうです、マル」。小学5年生のときリアルタイムで観て、学生時代に観て、これで3回目だ。

映画そのものの素晴らしさは言うまでもないのでここでは触れないとして、今観ると11歳の頃の僕がこの映画を観て頭がおかしくなるくらい薬師丸ひろ子のファンになった理由がまったく分からない。学生時代にリアルタイムで観た同じ相米慎二監督の『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)のときも、危うく牧瀬里穂のファンになりかけたものだ。相米マジックか?相米監督は2001年に故人となっているが、貴重な人材を失くしたものだ。


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政治的圧力に敏感な組織

■NHKの会長が辞任した直後「後進の育成」という理由で顧問に就任したが、抗議の電話が殺到して新会長があわてて本人の希望という形で取り消したという騒動。番組改変問題とは直接関係ないが、顧問就任取り消し会見で記者が質問していたように、元会長の顧問就任に抗議が殺到することなど誰でも予想できることだ。それさえ予想しなかった、あるいは予想しても押し通そうとしたのだとすれば、やはりNHKの経営陣は視聴者よりも、自分たちの上の権力者を重んじていると非難されても仕方ないだろう。

もちろん権力者寄りの放送局があっても構わないのだが、公共放送局がここまであからさまに権力者寄りであることは許されない。本来ならNHKは事業収入の9割以上を占める受信料を受け取っている事実を逆手にとって、視聴者を味方にして権力者に対抗する戦術をとりやすいはずだ。「あんたが圧力をかけると受信料の支払い拒否がもっと増えますよ、それでいいんですか」という具合に。これこそ経営陣が様々な圧力に対する自律性を確保するためのもっとも経済合理性のある戦術だろう。

なのに、実際支払い拒否が広がっているにもかかわらず、元会長を顧問に就任させるなどということをやってしまうのは、経済合理性以外の理由で意思決定が行われていると判断せざるをえない。それが何かと言ったら政治的圧力しかないだろう。NHKという組織は、会長を辞して部外者になった人物でも政治的圧力をかけられるような、政治的圧力に対する感受性の高い組織であると考えるしかないだろう。視聴者からの意見に対する感受性は極端に低いけれども。

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2005/01/28

自己満足の善意

■朝の通勤電車で最近こんなことがあった。都心に入って空いてきた車内、座っている僕の左隣には会社員が例によって腕を組んで大股開きという下品な姿で熟睡し、右隣には一人半くらいの空間があいている。そこへOLが座り、僕との間に少し隙間があったので「どうぞ座ってください」と言わんばかりにその空間を広げた。それでもコートで着膨れした中年サラリーマンにはとても座れそうにない。ところがOLが隙間を広げたところへたまたま通りかかった小太りの中年サラリーマンが僕とOLの間に無理やり割り込んだ。僕もそのサラリーマンも落ち着いて座っていられたものではないくらいにすし詰めになり、僕は下車駅までもう2駅しかなかったので仕方なく立ち上がることにした。するとサラリーマンはあわてて「いやいや、どうぞ座ってください。そんなつもりじゃなかったんです」と僕のコートをひっぱって元の位置に座らせた。「となりの方のところが空いていたもんですから」と言って、そのサラリーマンは僕の左隣で熟睡していた会社員のさらに左側に空いた隙間を指差してから、隣の車両へ空いた座席を探しに去っていった。このちょっとした騒ぎで気持ちよく熟睡してた会社員は目を覚ましてしまった。そしてOLは相変わらず澄ました顔で座っている。このOLのマスターベーション的善意は唾棄すべきものだ。OLは少し横へずれて空間を作ることで自分の善意を満足させたが、その空間は大人一人座れない無駄な空間だ。かえってそのために通りすがりのサラリーマンは妙な気を遣うはめになり、僕はそのサラリーマンに申し訳ない思いをし、左隣の会社員は安眠を破られた。人さまの為になるどころか三人に不愉快な思いをさせた善行で、自己満足にひたるOLはその後も澄まして座りつづけ、僕とOLの間の誰も座れない空間はそのまま虚しく口を開けていた。

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通勤途上の流血騒ぎ

■通勤途中の新橋駅で、昨日の朝サラリーマンどうしの喧嘩に出くわし、ホームへ上っていく階段にかなりの量の鮮血が流れていた。救急車の担架に上体だけ起こして額から流血しているサラリーマンは、喧嘩の相手とおぼしき男とまだ口論していて、救急隊員と警察官がその二人を取り囲んでいた。くすんだ灰色の石が敷かれている階段の上でも血の色はつくりものかと思うほど取ってつけたような「赤」だった。朝っぱらから新橋のサラリーマンは何を愚かしいことをやっているのか。

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2005/01/23

ソフィア・コッポラ『ロスト・イン・トランスレーション』

■Finally I watched 'Lost in Translation' (2003) directed by Sofia Coppola. When I was working for an automobile company, my German colleague strongly recommended this movie. I couldn't find time to go to the theatre while this movie was first-run. Even after DVD was released in video rental shops at the end of the last year, I was still waiting until we can rent it DVD for one week because newly released DVDs can be usually rented only one night. If you can't rent it for one week, you must rent it exactly the day before you watch the movie. But how can you ensure nothing will prevent you from watching it the day after you rent it? That's the reason why I need one-week-rental.

Anyway I've finally watched 'Lost in Translation'. In Japan it seems 'feminine delicacy' is stereotype evaluation of her movies since her first movie 'Virgin Suicides' (1999). I also think her script is nuance-filled and not a typical American movie. No big accidents happen. Only the situation where two Americans happen to be in Tokyo produces surprisingly stoic and low-keyed story with a kind of deep emotion after the end of the movie. The camera moves gently just like the story. Almost all through the movie, the slightly shaking frame of the handheld camera tells the uneasiness of two main characters, while some still shots with a bit longer cut are mixed skillfully.

The only American characteristics about this moive might be the fact it has a lot of music. Even a bit too much music for me. I was surprised one Japanese song called 'Kaze Wo Atsumete' is inserted not only in the sequence in Karaoke but at the end of the credit roll because this is one of my favorite songs. I'm not sure if it is only me who is irretated by some scenes slightly out of focus in the camera.

We can summarize the theme of the script like this: those who live a desperate life not decisively in desperation while they can't run away from it. I sympathize with this theme so strongly. That might be because the director is the same generation called 'X generation' as me.

ソフィア・コッポラ監督『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)をようやくDVDで観た。以前、自動車メーカーに勤めていたときに同僚のドイツ人が自分たちの置かれている状況そのものだから是非観てほしいと勧められていたが、ロードショーは逃してしまった。DVDがレンタルビデオ店に並んでからも一週間レンタルができるまで待っていたら今になってしまったということだ。

ソフィア・コッポラ監督作品については『ヴァージン・スーサイズ』(1999年)の時から紋切り型のように言われているようだが、アメリカ映画らしからぬ繊細な脚本は女性脚本家ならではということか。決定的な事件が起こるわけでもなく、異国におかれたアメリカ人二人という状況だけで意外にストイックな物語は淡々と進むが、後には静かな感動を残すというタイプの脚本。物語に合わせるようにカメラの動きも穏やかで、ほとんどがかすかにフレームが揺れる不安定な手持ち風のカットだが、スチルに近い長めのカットもうまく使い分けられている。

個人的には少し多すぎたように思うが、音楽たっぷりなところは唯一アメリカ映画らしいところ。はっぴーえんどの『風をあつめて』がカラオケのシーンだけでなく、エンドロールにまで流れてきたのには少し驚いた。ピントが甘いカットが二、三気になったのは僕だけだろうか。逃げ出したい現実に絶望しながら、しかし決定的には絶望せずに生きているという主題には共感でき過ぎて恐いくらいだが、それもソフィア・コッポラ監督が僕と同じX世代だからだろうか。


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2005/01/22

NHK番組内容変更問題の「理想」と「自由」

■NHKの番組内容変更問題について、もう二言。

まず一言め。各放送局が組織内での「自己検閲」まったくなしに、ある意味で「偏向」した番組をどんどん放送しながらも、視聴者がそれらを正しく評価できるという社会の状態は、確かに実現がほぼ不可能な理想状態だ。しかし「戦争のない世界」も同じように理想状態である。「戦争のない世界」を追い求めることは悪いことだろうか。

つぎに二言め。放送の自己検閲にはいくつかの段階がある。番組企画者個人の内心での自己検閲、番組制作グループ内部での自己検閲、放送局内部での自己検閲、日本という国の内部での自己検閲という具合に、個人から集団に至る段階がある。どの段階までの自己検閲を認めるかというとき、その線引きをできるだけ個人の方へ寄せるのが自由主義の大原則ではないのか。放送局内部での自己検閲をあっさり認めてしまうなら、国家単位での自己検閲、つまり国家による報道統制の実現は簡単だ。この線引きを公共の福祉とバランスを取りつつも、できるだけ個人の方へ寄せる自由主義的な努力をあきらめるのれあれば、むしろ堂々と国による報道統制に賛成すればいい。その時は「国による報道統制に賛成」と発言することさえ統制されるだろうが。

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2005/01/21

意見を憎んで、人を憎まず

■NHKと朝日新聞の論争についてトラックバックが意外にたくさんあるが、一つ非常に下らない反論があった。何が下らないと言って、論争するとき、意見に対する評価に、意見を言った人間に対する評価を混在させているからだ。いくらバカな意見を言う人間であっても、その人間に向かって「お前はバカだ」と言ったのでは議論にならない。その反論の中で僕は「脳みそお花畑の楽天家」扱いされている。個人に対する誹謗を混在させなければ議論ができないような人間の反論に、まともに反論することはできない。きっと彼は罵詈雑言の文体に自己陶酔しているのだろう(と、人物についての評価をわざと混ぜてみた)。

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2005/01/19

NHK従軍慰安婦番組問題:番組を判断するのは視聴者

■従軍慰安婦特集番組の問題について、とある読者の方から、政治家がNHKに圧力をかけて番組内容を変更させたという記事は、朝日新聞記者の捏造というのが真実だというご指摘を頂いた。この方は様々な情報源を調べた上でそう結論づけているので、この点については僕が間違いで、政治家が圧力をかけて番組内容を変更させたというのは嘘だと意見を変えたい。そもそもNHKが何者かに圧力を受けた事実さえなかったのかもしれない。

しかし、NHK自身が同番組の担当デスクの意図に反して、番組内容を変更した事実に変わりはない。番組内容が事実に反する捏造であるという理由で変更したのなら正当だが、仮に番組内容が「偏っている」というだけの理由で放送前に番組内容を変更したとすれば、問題がある。

従軍慰安婦問題について、例えば強制連行の事実はなかったと主張する人たちが、NHKが番組内容を変更した事実そのものに問題はないと考えているとすれば、それは別個の問題を一緒にする誤りをおかしている。今回の問題と、「従軍慰安婦」という歴史的事実があったかどうかという問題は、まったく別の問題である。今回問題になっているのは、NHKが放送前に番組内容を変更するという行為が放送局として正しいか否かということだ。放送局が放送前に番組を自己検閲することに問題はないのかという問いだ。

もちろんこの問いについても相反する意見があるだろう。「NHKが一個の組織である以上、自己検閲は当然であり、担当デスクは組織を離れて同様の番組なり映画なりを作るべきだ」という意見と、「NHKだけでなく全ての放送局は自己検閲などすべきでなく、自己検閲はメディアの自己否定だ」という意見があるだろう。

僕は「番組内容について判断する権利を持っているのは視聴者である」という考えだ。メディアはどんな奇妙キテレツな意見であれ、じゃんじゃん放送すべきである。メディアは単なる「媒体」で、「メディアの自己検閲」というのは形容矛盾だ。真の議論は、番組が視聴者に届いたときに初めて始まるのである。

今回の問題でNHKは朝日新聞記者の記事捏造をあばくことに成功したとすれば、そういう情報は様々な番組を通じて僕らにちゃんと届いた。ところが、当時NHK内部で何があったのか、そのことについての情報はいまだ僕らに届かない。朝日新聞は自分で仕掛けたワナにはまる失態を露呈したが、そのような自分自身の失態さえ露呈してしまうだけ、まだメディアとして正しく機能している。ところがNHKは、番組内容変更の理由について何も説明していないか、または、「内容が偏っていたから」(つまり「自己検閲しました」)という以外の説明をしていない。これはNHKがメディアとして機能不全に陥っていることを示していないか。

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2005/01/18

センター試験に小津安二郎

■センター試験の国語Ⅰ・国語Ⅱの第1問に、小津安二郎についてのとても蓮実重彦っぽい吉田喜重氏の文章が出題されていた。よほどの映画マニアでなければ知らないようなこんなマニアックな映画批評がセンター試験なんかに出題されてもいいんだろうか。

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2005/01/16

認定Javaプログラマ合格

■仕事上の必要からというより、Javaというものが日本に紹介されて以来、趣味的にJavaで遊んできたことを形にしておこうということで、Sun Certified Programmer for the Java Platform(Sun認定Javaプログラマ:310-035J)を受験した。

資格試験代行で有名なアールプロメトリックという会社の御茶ノ水にある試験会場で、待合室にはCCNAの参考書を読む人など、様々なベンダー資格の受験者が集まっているようだった。10分前までに待合室のロッカーに写真付き身分証明書以外のすべての荷物を入れ、財布も携帯電話も筆記用具も持たず、まったく手ぶらの状態で「受験セット」を手渡されて教室に入る。

「受験セット」とはA4サイズの透明のフォルダに教室番号・座席番号が書かれたカードと、受験に関する注意書きと、メモ用の方眼紙と水性サインペンが入ったものだ。写真付き身分証明書を入れるためのポケットもついているが、僕の場合は運転免許証がないので、小さなポケットにパスポートをねじ込んだ。試験中に計算やメモ書きが必要なときは、ラミネート加工した黄色い方眼紙と水性サインペンを使う。

試験会場に着いたらすぐに、受験に関する注意書きについて誓約のためのサインを書かされるのだが、一人一枚誓約書があるわけではなく、一枚の紙に一行一名ずつ署名していく方式だし、荷物を入れるロッカーもぺらぺらの鉄板の安物だし、メモ用紙が何度でも使いまわせるラミネート加工用紙になっていたのも、不正防止というよりコスト削減のためだと思わせる。教室に入ると個人指導の塾かインターネット喫茶のように個々のブースが仕切られており、パソコンに向かって回答していく。早めに終われば自由に退出していい。

僕は120分の試験時間を30分残して退出。試験の最後に印刷指示を出すようになっていて、教室を出るとすぐに結果を手渡される。勉強に使った問題集より難易度が高くて少し慌てたが、無事合格して受験料をムダにせずに済んだ。認定証は後日サンマイクロシステムズから郵送されるようだ。これで胸を張って「Javaプログラマーです」と言える。


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2005/01/15

日本のことは忘れてください、中村修二さん

■青色LED訴訟が総額8億4000万円の支払いで和解したが、中村修二氏の記者会見なりインタビュー記事なりを見るたびに違和感を禁じえない。氏の意見はまったくの正論だが、ある意見が正しいためには文脈が必要である。

全く同じ意見でも誰がその意見を言ったか、いつどこで言ったかなどの文脈によって、正しいか、正しくないか、どちらでもないかが決まる。中村氏の意見は地球人が「火星に水がないなんて許せない!」と言っているようにしか聞こえない。日本企業の集団主義を日本で嘆いても虚しい。中村氏のような突出した才能の持ち主は、正当に評価してもらえる米国のような環境で存分に活躍すればいい。捨てた日本に唾することはない。

中村氏が仮に日亜化学在籍時すでに自分の才能の開花を確信していたのなら、青色LEDを発明する前に渡米すべきだった。そうでないのなら才能が開花したのがたまたま自分の祖国であったことを恨むしかない。つまり自分が日本に生まれたことを恨むしかない。

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2005/01/14

受信料不払で徹底抗戦!

■NHKの従軍慰安婦番組の問題で、政治家の圧力で番組内容を変更した事実はないとしてNHKが朝日新聞に訂正を求めたけれども、おそらく今晩の『報道ステーション』で天野祐吉が言っていた、NHK幹部が政治家の言葉に過剰反応して「自主規制」してしまったというあたりが真実だろう。

このWebサイトでも過去には間違えてNHKのことを「国営放送」と書いたこともあるが、NHKは「国営放送」ではなく「公共放送」である。事業収入の9割以上を受信料でまかなっている公共放送が、政治家の圧力に過剰反応するばかりか、その事実を報道した他のテレビ局に抗議まで行うとは、制作費詐取事件とはまったくレベルの違う話だ。読者の皆さんもこれに便乗して受信料不払いで徹底抗議してはどうか。

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むしろ昨日が15年前のよう

■全然関係ないが当の従軍慰安婦番組の出演者の証言ということで、『報道ステーション』に僕が大学時代にフッサールやデリダを教わった高橋哲哉大先生が登場していた。久しぶりにテレビで拝見して思ったより老けていたことに驚いたが、無理もない、僕自身があの頃からもう15歳も年をとっているのだから。知らぬ間に15歳も年をとっている。先日散歩に出かけた西永福や駒場キャンパスの学生会館は大して変わりもしないのに、こっちは15歳も年をとっている。つい昨日と15年前と、どっちかって言うと、つい昨日が15年前で、15年前がつい昨日のようだ。

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2005/01/13

美しい日本語と谷川俊太郎詩集

■こうして「愛と苦悩の日記」を書くときもそうなのだが、最近特に自分の書く日本語が何度も推敲しなければまともに読めるものにならないことに苛立っている。一発で無駄な言葉のそぎ落とされた簡潔にして美しい日本語を書きたいのだが、一体いつになったらそんな日本語が書けるようになるのだろうか。

もしかすると書くのではなく、実際には「入力している」ことがその原因かもしれない。テキストエディタで軽快に入力していくので、後からじっくり推敲できる安心感からまずい日本語を書き下してしまうのだろうか。だからというわけではないのだが、我が日本語の貧困さを恥じて、最近、現代詩文庫で谷川俊太郎の詩集を読んでいる。ずっと以前に買ったまま半分も読んでいなかった詩集だ。


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坂本龍一とガムラン

■先週末だったか、眠りながらFMラジオを聴いていると珍しく坂本龍一が出演して自分の音楽遍歴を語っていた。ミニマル・ミュージックの中ではいちばん好きだというスティーヴ・ライヒ(僕も大好きでアルバムを何枚か持っている)の曲もいくつかかかっていたが、ライヒが学んだというバリのガムランもかけられた。ガムランの曲が最高潮になる部分はテレビなどで何度も聴いたことはあるが、最初から聴いたのは初めてだった。シンプルなリズムが徐々に複雑になっていく様子はまさにライヒで(本当は逆なのだが)非常に面白かった。最近technoもhouseも聴いていないので、ガムランから聴き直してみる必要がありそうだ。

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社会保険庁の「振り込め詐欺」

■昨年末、近所の社会保険事務所から突然、国民年金の保険料を払いなさいという電話がかかってきた。社会保険庁の業務改革で督促業務をアウトソースされているらしきコールセンターの女性オペレータは、半年間、未納になっていると言い張る。

その期間僕はふつうに民間企業で働いて、厚生年金の保険料を給与から天引きされていたので、そんなことはないと食い下がると、女性オペレーターは「その勤務先で正しく手続きがされていない可能性があります」とまで言う。不安になってその期間勤めていた会社に確認してみると、ちゃんと渋谷の社会保険事務所に届出をしてあるという。届出が受理された年月日と厚生年金の番号まで確認できた。

この事実を確認した2004/12/29、こっちは年末でもまだ働いているというのに、トップは変わっても相変わらずのお役所仕事の社会保険庁はすでに正月休み。仕方なく年が明けてから督促の電話をかけてきた近所の社会保険事務所に電話をして事実を伝えると、電話に出た男性職員が「ちょっとお待ちください」と受話器をはずした。

しばらく後、その男性職員は「こちらでも確認できました。連絡が行き違いになったようで、済みませんでした」と答えた。民間出身の長官を起用して改革、改革と叫んでいるくせに、作ってもいない借金の督促をするなと言いたい。これでは社会保険庁も「振り込め詐欺」と大差ない。読者の皆さんもある日突然、社会保険庁から覚えのない言いがかりをつけられる恐れが十分にあるので、用心されたい。

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2005/01/12

河瀬直美『沙羅双樹』

■河瀬直美監督『沙羅双樹』(2003年)を観た。DVDに収録されているメイキングの中でインタビューに答えて、監督は映画制作を得意なカレーライスでお客さんをもてなすことにたとえている。故郷の奈良を舞台にするのは秘密のスパイスを効かせて、いかに観客に楽しんでもらうか、それが映画を作るということだと明言している。

しかし『萌の朱雀』(1997年)もそうだったが、監督の作品は時に説明を省略し過ぎる。『沙羅双樹』についても予告篇を見ない限り、冒頭のシーケンスが「双生児の一方が神隠しにあった」様子を描いていることは分からない。少なくともあの兄弟が双生児であることは、カットされなかった脚本では一度も語られないままである。双生児であることを映画の題名から想像しろというのは無理な話だ。どちらかと言えば映画マニアである僕にとっても明らかに説明不足の脚本は、客観的に「観客を楽しませるための映画」などとは決して言えない。

もちろん僕はそれが悪いと言っているのではない。監督は自分の作品が極めて限られた観客にしか受容されないことに自覚的になった方が、もっと個性むき出しの素晴らしい作品を産み出せるのではないかと考えたのだ。手持ちカメラでワンシーン、ワンカット、同時録音のドキュメンタリー手法。俳優の演技も最小限に抑え、感情の抑揚もなく淡々としている。監督も言うように演出によって徹底的に作り込まれた超・人為的な「普通」である。その極北が神隠しにあった弟の生まれ変わりが産まれるという大団円によって、非常に嘘っぽい「ドラマ」になり果てている。それが気になるのだ。


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サラリーマンと女子高生

■正月休みに深夜のテレビ番組を見ていたら、若いタレントたちが新橋のサラリーマンは横に並んで歩いて道をふさぐので困る、まるで女子高生みたいだという話題で盛り上がっていた。確かにサラリーマンも女子高生も群れで行動し、群れからはじき出されることを極端に恐れ、みな同じような服装をし、同じような行動をし、一人では何も出来ず、妙な先輩後輩関係に支配され、根っこのところで自分の存在価値に確信を持てず、何のために生きているのかという問いに答えを出したいと思いながらもはっきりした答えを出せず、平板な毎日を嫌いながら平板な毎日を淡々と追いやっている点で共通している。

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2005/01/09

ハンバーガー屋は健康的?

■大学時代の知人から年始の挨拶メールで、映画『スーパーサイズミー』が日本で封切りされたことにちなんで、僕がいろんなことにこだわりを持っている中で、ファーストフードへの偏愛だけは意外だというコメントを頂いた。面白いテーマだと思ったのでここでその理由を書いてみたい。まず僕がファーストフードを利用するのは土日祝日の昼食だけであることを断っておく。平日の朝食は自宅、昼食は会社の食堂で味の決まった定食、夕食は自宅である。土日祝日の朝食は平日と同じ、昼食はファーストフード、夕食は自宅ということで、僕がファーストフードを食べるのは会社がない日の昼食だけだ。では、土日祝日の昼食にファーストフードを利用する理由の一つめ。読書しながら1時間以上かけてゆっくり食事できる店であること。二つめ、読書する都合上、片手でできる食事を出す店であること。三つめ、食事だけでは1時間以上ねばれないので、コーヒーも出している店であること。四つめ、1回あたりの費用が700円以内であること。週末とはいえたかが昼食に1000円近い金額を出す気にはなれない。五つめ、駅から歩いてすぐの店。運転免許を持っていない僕にとって鉄道駅からの近さは必須条件だ。この条件がなければ国道や県道沿いのレストランも選択肢に入るのだが。六つめ、定番メニューがあり、考えずに注文できること。七つめ、注文してから待たされないこと。八つめ、野菜を摂れること。この八つめのポイントは重要だ。マクドナルドは創業者が降板してから、サイドメニューの選択肢に生野菜のサラダが追加された。モスバーガーであればオニオンの千切りをたっぷり食べられる。700円以内の外食で野菜を最も多く摂れるのはラーメン屋かハンバーガー屋だが、ラーメン屋は客の回転を速くして利益を確保するのでゆっくり読書ができない。九つめ、喫煙席と禁煙席が分離されていること。2フロア以上ある都心のハンバーガー屋は、必ずと言っていいほど喫煙者用フロアと禁煙席フロアが分離されている。ここまで分煙が徹底している外食店はハンバーガーチェーン店しかない。フロア別の分煙までやっているファミリーレストラン、うどん・そば屋、ラーメン屋はほとんど存在しない。これらの外食業態がフロア別の分煙などやってしまうと採算が取れなくなるからだ。以上のような理由から僕が週末に昼食をとる場所は必然的にハンバーガー屋しかなくなる。ハンバーガー屋は受動喫煙を避けつつ、野菜のある昼食を700円以内でゆっくり摂れる、とても健康的な外食店なのである。

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2005/01/03

利重剛『BeRLiN』

■昨日に引き続き利重剛監督・脚本の『BeRLiN』(1995年)を観た。107分の長編。正直、脚本の出来は『エレファントソング』の方がいい。主人公の「キョウコ(仮名)」の人物像がさまざまな人の証言であぶり出され、そのうち数人が消息を絶った彼女の捜索に日常生活を犠牲にしてまでのめり込んでいく。その過程で脚本の必然的な流れとして、中谷美紀演じる主役が一種の「天使」として理想化されてしまう。にもかかわらず結末は永瀬正敏と中谷美紀の二人の狭い世界に収束するのだから、さんざん伏線を引いておいて謎解きのつまらないミステリーみたいなものだ。

このアンチクライマックスの脚本を映画として観られる作品にしているのは、紛れもなく監督としての利重剛の才能だ。キャストの中ではダンカンと山田辰夫の演技が明らかに力不足だが、それでも佳作になっているのはやはり監督の才能だ。『エレファントソング』の松田美由紀の号泣は文字どおり森にこだまする「エレファントソング」として必然性はあるが(ネタバレさせないためにあえてよく分からない表現にしておく)、本作で中谷美紀にPTSDとおぼしき発作の演技をさせるのは、「キョウコ(仮名)」の根本的な弱さの提示で彼女の「天使」性を強化することにしかならない。彼女の精神異常はその前の自傷癖の描写で十分すぎるほど伝わっている。

このように脚本が空回りしている点がとても残念な作品だ。あまりに残念なので『クロエ』(2001年)も観てみることにしたい。(ちなみに昨日の日記で利重剛氏の姓名の区切りが「り・じゅうごう」となっていたのは「りじゅう・ごう」の誤りだったことをお詫びするとともに、ご指摘頂いた読者の方に感謝いたします)


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「映画」を初めて学んだ映画『地獄に堕ちた勇者ども』

■BSデジタル放送は民放各局もNHKのように地味な番組を放送しているので意外に楽しめる。BSフジは深夜にヴィスコンティ作品のノーカット放映などやっているものだから(しかもCMの量は地上波より格段に少ない)ついつい観てしまう。『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)も断片的ではあるが久しぶりに観た。ヴィスコンティ作品はこんなにズームが多用されていたかと意外に思った。確かにいちいち計算し尽くされているズームで、ズームを使ってでもワンカットで撮るのには何か意図があったのだろう。

別の場所にも書いたが、参考までに『地獄に堕ちた勇者ども』は筆者が高校時代の彼女に大阪のオフシアター(たぶん大毎地下劇場)に連れて行かれて初めて観たヨーロッパ映画で、それまで007シリーズやハリウッドのロードショー、アイドル映画ばかりを観ていた僕が、「映画を観る」ということを教えられた映画である。


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2005/01/02

利重剛『エレファントソング』

■狭い世界のついでながら利重剛(りじゅう・ごう)監督・脚本『エレファントソング』(1994年)を観た。60分の中編。1995年ベルリン国際映画祭ベスト・アジア映画賞受賞作。最近僕が観た映画とのつながりは説明不要だろう。DVD版には偶然にも『この窓は君のもの』を撮影し終えたばかりの古厩智之が監督した約12分のメイキングが収録されている。本作もプロデュースが仙頭武則だからか知らないが、本当に世界は狭い。プロの撮影現場を初めて経験する古厩監督自身の初々しいナレーション付きだ。

このメイキングを観て分かったのだが、手持ちと思ったカメラは実はロープで宙吊りにされていた。フレームが観客の潜在意識に与える影響は観客自身が思うより大きく、ロープで吊るされているのか、人間がかついでいるのか、ステディカムなのか、完全に固定されているのかでカットの印象はまったく変わる。一貫して固定カメラの作品に手持ちのカットが入ると、それは誰かの見た目ということに自動的になってしまう。映画の規則の面白いところだ。そんなことはどうでもいいのだが、メイキングで利重剛監督は「浮遊感覚」を出すのためにロープで吊るしたと語っている(正確には古厩監督のナレーションがそう引用している)。

救いを与えてくれた人の死にどう報いるかという重いテーマが、そのカメラの「浮遊感覚」と、素朴な脚本と、主演の松田美由紀のおかげで軽やかな感動を残すドラマになっている。利重剛の他の作品も観たいと思った。

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福島拓哉『自由』『JAM』

■福島拓哉監督『自由』(2003年)をDVDで観た。37分の短編映画で、同じDVDに短編『JAM』(1999年)も収録されている。この監督の作品は初めて観るのだが『JAM』の完成度は期待以上だった。プロデュースのP-kraftは映画制作・配給・上映のサイクルを自社のみで完結することを目標に結成されたクリエーター集団のようで、映像作品の受注もしているらしい。そのせいかデジタルビデオ作品のわりに、シーンごとの露出やデジタルエフェクトはよく考えられており技術的な完成度は高い。

俳優としての福島拓哉氏の演技もまったく不安なく感情移入させる。脚本もうまい。ただ『自由』については前半の女子高生の挿話部分は凡庸すぎるし、主役の女優にも不満が残る。前半の展開でヤマになる「事件」は映画の脚本としては平凡に思える。あの男子高校生がなぜ「事件」を起こすまでに至ったのかがまったく描かれず、女子高生が「事件」に巻き込まれた必然性が見えない。結果として、走る女子高生のシーケンスも、せっかくの移動撮影も含めてやや上滑りになっている。

それに対して後半は矛盾した男女の関係が、強い説得力で書きこまれていて素晴らしい。このDVDを観るなら『自由』の後半と『JAM』だけでいい。『JAM』はたった30分に濃密な主題性とスタイリッシュな映像・音楽が凝縮されて、ムダなところがない。強いて言えば主人公とその「兄貴」の具体的な挿話が一つ脚本に入っていれば完璧だと思われる。ラスト、暗転してからのセリフの残り具合も絶妙で、思わずクール!と叫んでしまいたくなる。同監督では『PRISM』というDVDも発売されているが、残念ながらサイコサスペンスで僕には観ることができない。


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2005/01/01

青山真治『EUREKA ユリイカ』

■青山真治監督・脚本・編集・音楽『EUREKA ユリイカ』(2000年)をDVDで観た。2000年のカンヌ映画祭の国際批評家連盟賞を受賞している。液晶ワイドテレビでシネスコの画面をまともに観るために画面サイズ変更ボタンを何度か押して迷ってしまった。

4時間近い映画を観るのが久々だったせいか、中盤のカットがあまりに長すぎたせいか、途中、何度か倍速再生した。バスジャック事件の凄惨な現場から生還した人々が、そのトラウマから再生する物語ということで、トラウマによるパニックに日常生活でいまだ多少の不自由を感じている僕には映画として突き放して観づらかったこともあるのだろう。カメラがあまり動かず、ロングショットと長回しが多用されている典型的なタルコフスキー型「哲学映画」で、学生時代の僕なら熱狂したかもしれないが、今の僕には一つの佳作としか評価できない。

演出は抑制が効いていて上品だし、演技も過剰なところが一つもないので基本的には好きな種類の映画であることには違いない。ただ。哲学的な主題の追求には明らかに不適切なシーケンスがひとつあった。四人の登場人物がみなサングラスをかけて高原を歩いて登っていくところだ。あのシーケンスだけで感情移入を妨げられたと言ってもいい。

それから劇場で観ていれば違ったのだろうが、同時録音の音声が聞きづらく、DVDに収録されているフランス語字幕を参考にしなければならなかった。モノクロネガをカラーポジに焼き付ける実験的な方法のモノクロ映画で、「再生」が実現したと思われるラストシーンだけがカラーになるというのは予想通りの展開。やはりこの映画に4時間近くも費やすことはなかったのかもしれない。

プロデューサーは仙頭武則。青山真治とともに音楽を担当しているのは、何と古厩監督『この窓は君のもの』の音楽の山田勲生(ちなみに音楽もあまりに気に入ったので先日『この窓は君のもの』のサントラCDをAmazon.co.jpで購入してしまった)。役所広司の妹役で出演している尾野真千子は『萌の朱雀』の主演女優。バスジャック犯役の利重剛は矢口史靖監督『ひみつの花園』に西田尚美の相手役で出演していた。役所広司に殺人の嫌疑をかける刑事役の松重豊は矢口監督『アドレナリン・ドライブ』にヤクザ役で出演していた。なんだかこの手の映画は世界が狭くって。


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ドラマ・映画の世界は狭い

■そういえば年末に昨年のTVドラマ『白い巨塔』の再放送があり、改めて法廷で真実を証言する看護婦役の西田尚美を見た。同じく再放送のあったTVドラマ『世界の中心で、愛をさけぶ』も見てしまった。主人公の友人役で出演し、今年3月からNHK朝の連続テレビ小説の主役に抜擢された本仮屋ユイカがどんな風だったかを確認するためだ。

それから同じく再放送されていたTVドラマ『オレンジデイズ』にチョイ役で出ていた上野樹里も確認のために見た。『オレンジデイズ』を見て分かったのだが、あれは『ジョゼと虎と魚たち』のパクリだ。障害者との恋愛もので、しかも主演が同じ妻夫木聡と来ている。『オレンジデイズ』の脚本家は『ジョゼと虎と魚たち』のハッピーエンド版を書きたかっただけなのではないか。ちなみに上野樹里は『ジョゼと虎と魚たち』で池脇千鶴のライバル役を演じている。この辺りも世界は狭い。

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園子温『うつしみ』

■園子温監督・脚本『うつしみ』(1999年)をDVDで観た。ゴダールだと思えば観ることができるビデオ作品。写真家・荒木経惟、ファッションデザイナー・荒川眞一朗、俳優・麿赤児が登場するドキュメンタリー部分と、鈴木卓爾主演のフィクション部分が編集で織り合わされている。

字幕の多用と詩的なセリフはまさにゴダール張りだが、ゴダールよりはるかに露悪的。鈴木卓爾が張子のペニスを持ち、張子のヴァギナを追いかけて走り回る妙に即物的なシーケンスはどうだろうか。あれさえなければ、案外平凡なハッピーエンドも納得できる範囲内の抒情性になったと思われる。渋谷での街頭パフォーマンスのシーケンスもあまり好きではない。

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