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2004年11月の記事

2004/11/30

矢口史靖『ひみつの花園』

■これで矢口史靖監督・脚本作品をすべて観たことになる。一昨日の日記にも書いたように最寄のTSUTAYAにはなかったので、会社からウチに帰る途中の駅にあるTSUTAYAをさがして、見つけた『ひみつの花園』(1997年)を借りた。

強烈なお金大好きキャラを演じる主演の西田尚美は、最近フジテレビのドラマ『白い巨塔』で法廷で真実を証言する看護婦役で見たばかりだ。本作で日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞している。最終的にこの主人公の女と同棲する大学の助手役の利重剛は脚本家・小山内美江子の長男で、故・鷺沢萠と結婚していたこともあるらしい。

矢口作品では常連の「引越しのサカイ」のおじさん徳井優と田中要次(『スウィングガールズ』でパチンコ屋の店主)、おそろしく太っていた頃の伊集院光、ちょい役で濱田マリ、という具合に、決してマイナーな俳優ばかりが出演している映画ではないということが分かるのだが、DVDがなくてVHSビデオで観たこの作品は、つい7年前の映画とは思えないほどKODAKフイルムの発色が悪く、監督が意図的に安っぽい張りぼて人形やプラモデルを使った「特撮」をしていることもあってまるで1960年代の映画のようだった。オリジナルがモノラル録音であることも、そう思わせた一因かもしれない。

最近の作品に比べると、人物に寄ったスチルショットが特に前半でやたらと多く、背景までセットを作りこむ予算がなかったのではないか。アフレコがされていない無音のシーンも目立つ。ちょっと信じられないくらい大胆な省略法も、どちらかと言えば予算があればきっちり撮りたかった絵が撮れないことが原因の、脚本上の苦肉の処理という面が強いのではないだろうか。

この作品が鈴木卓爾との共同脚本になっているから、最近の矢口作品にはないかっとび感があるのだという説もあるが、予算制約説の方が本当なのではないかと思う。省略しすぎじゃないかというシーケンスと、ここは省略してもいいだろうというシーケンスのバラつきが、個人的にはかなり目についた。

たった2年後に撮られた『アドレナリン・ドライブ』と比べても、編集のバランス感覚は雲泥の差がある。それをB級スラップスティックの魅力が失われたと感じるのか、矢口監督が本来撮りたかったものが撮れる予算を確保できるようになったと見るのか。僕は矢口監督の才能がだんだんと発揮されるようになってきていると見たいのだが。

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2004/11/28

矢口史靖『アドレナリン・ドライブ』『ウォーターボーイズ』

■久しぶりに短い間にたくさんの映画を観て、やっぱり映画は僕が帰っていくべきひとつの場所だと感じたので、前回日記を書いてから矢口史靖監督『アドレナリン・ドライブ』(1999年)『ウォーターボーイズ』(2001年)を観た。これで矢口氏単独での監督長編作品はあと『ひみつの花園』(1997年)を残すだけだ。

近所のTSUTAYAにはないのでなんとかどこかのTSUTAYAで探し出さなければ。こういうときに会員証が全店舗共通になったのは便利だ(目ざとい読者ならすでにTSUTAYAについてのエッセーが削除されていることにお気づきかもしれない)。『ウォーターボーイズ』はおそらくいちばん商業的には成功しているのだろうけれど、脚本としてはほぼ破綻している。

『スウィングガールズ』のパンフレットの中で監督自身が語っているように、竹中直人演じる水族館のイルカの調教師役は「超ご都合主義」が本領の矢口脚本にしても、位置づけのよくわからない役柄になっている。プールの水道料金や魚の弁償など、金銭的な問題が出てくるのに、男子高校生たちの家庭環境はまったく隠されたままだ。その意味で『ウォーターボーイズ』は脚本・映像とも、男子高校生たちだけに依存しすぎていて映画としては計算が甘い。

『アドレナリン・ドライブ』ははるかに超ご都合主義的脚本が冴えていて、最後のどんでん返しも粋なハッピーエンドとして、純粋にフィクションとして十分楽しめる。それ以上の感想についてはYahoo!JAPAN MOVIEに書いたレビューを参照いただきたい。たいしたことは書いていないけれど。

このレビューで書いたジャンピングカットだが、そう言えば『スウィングガールズ』でも高校野球の予選大会で、山河高校攻撃の九回裏、ラストバッターの最初の2ストライクのシーンで使われていた。

それからこれら3作品に共通する要素として眼鏡の女の子がいる。このテーマについても『ウォーターボーイズ』は消化不良だが、『アドレナリン・ドライブ』の石田ひかりと『スウィングガールズ』の本仮屋ユイカは脚本でよく活かされている。テレビのニュースにしても3脚本共通で、矢口監督のお決まりの道具立てのようだ。『アドレナリン・ドライブ』では石田ひかりが札束の入ったナップサックを横取りした男を救命して警察表彰される下り、『ウォーターボーイズ』では高校生たちがスクープ狙いの一般市民の誤解から一躍有名人になってしまうシーン、『スウィングガールズ』ではご承知のとおり食中毒の場面で使われる。

そういえば警察表彰というのは『アドレナリン・ドライブ』と『スウィングガールズ』に共通する道具立て。軽快なアコースティックギターでBGMが処理されている部分もよく似たシーンが見つかる。要するに矢口監督作品は、やはり一連の大いなるワンパターン・スラップスティックコメディーとしてアタマをからっぽにして楽しむコメディだということがよくわかる。しかも最近の邦画のコメディとしては、演出はかなり上品である。

『ウォーターボーイズ』で、『ベニスに死す』のマーラーの交響曲第五番第三楽章が流用されていたのにはすこし驚いたが、こういう名作の引用やパロディに限らず、矢口監督は基本的にクローズアップからロングショットまで、とてもまじめに演出をする人であることがわかる。だから僕のようなクソまじめな人間が観ても心から笑える映画をちゃんと作れる監督なのだ。今から次回作が楽しみである。

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高橋哲哉著『教育と国家』

■高橋哲哉氏の『教育と国家』(講談社現代新書)を読んだ。「think or die」ファンの読者ならすでにご存知のとおり、高橋哲哉先生は僕が某国立大学でデリダの勉強をしたいと思いたったまさにその理由である。先生と同じ進路ということではじめから文学部を選ばず、大学院進学のときに哲学科へ入るという計画まで立てていただのが、もろもろの事情で今じゃ一介のサラリーマン。

そんなことはどうでもよくて、本書は語りおろしだけあって、とてもわかりやすい。中身としても論理的な破綻のない、相変わらず抑制のきいた着実な論の進め方で、ただただ納得しながら読みすすめることができる。もちろんそれは僕自身が「新しい教科書を作る会」のような新保守主義者ではないからなのだが、それを割り引いても論理的には正しいことが書いてある本だろう。

しかし、しかしである。一読者としてのもの足りなさはまさにその「正論」ぶりにある。日本を軍国主義的な国に逆もどりさせようという新保守主義が、どう考えたってアナクロで無理があるのに、小林よしのりをはじめとして、どうしてここまで支持されちゃってるのか。そのことについて本書はあえて考えることを避けているように見える。

本書は新保守主義に対して真っ向から論駁する書であり、その限りにおいては大衆向けの書物としてもほぼカンペキだが、それが新保守主義に対する効果的な対決のしかたであるかどうかは、正直いって疑問だ。本書は新装版の講談社現代新書の最初の10冊であるにもかかわらず、もう大型書店からは姿を消している。

新保守主義は一般大衆にうったえかけるわかりやすさがあるから、一定の支持を得てしまっている。その点に分析のメスを入れない新保守主義批判は、残念ながらそれほどの効力は持たない。たとえば今の「韓流」ブームはどうだろうか。新保守主義の人たちから見れば、教科書問題でうるさく「内政干渉」してくる韓国の、そのトップスターに、日本人女性が熱を上げている様子はただただふがいない光景に違いない。韓国ブームをになう日本人大衆に対しては、新保守主義の人たちもさすがに正面きって韓国たたきはできないだろう。

たしかに一時的な韓国ブームで、日本人が自分たちの歴史観を突然まじめに見つめなおすとは限らないのだが、少なくとも新保守主義者たちの短絡的な韓国バッシングには拒否反応をしめせるはずだ。大衆性には大衆性で対抗するのか、そうでないのか。たぶんこの問題ってデリダの問題系でいえば「パルマコン」というキーワードになると思うのだけれど、そういう方向でこれから高橋哲哉先生の新保守主義との対決がどういう風に発展していくか、とっても楽しみだ。

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2004/11/21

李継賢『思い出の夏』

■昨日は日比谷シャンテシネで『やさしい嘘』(2003年)を観て、その夜はTSUTAYAで借りてきた李継賢(リー・チーシァン)監督『思い出の夏』(2001年)を観た。中国映画である。原題は『王首先的夏天 High Sky Summer』で、主人公の少年、王首先の夏の空という意味だ。

中国山西省の小さく貧しい村に北京から映画の撮影隊がやってくる。村でただ一つの小学校に通う子供たちと撮影隊との、夏の短い期間だけの交流を描いた映画で、キャストは2人を除いてすべて素人。子供たちはほんとうに中国の農村に暮らす子供たちらしい。この映画そのものが脚本の内容とダブり、なかばドキュメンタリーのような作り方の作品になっている。演出は全体としてやや中国映画らしいクドさはあるけれども、主人公の少年は、まったくの素人にどうやってここまでの演技をさせたのだろうと驚くほどだ。広大な自然をいかしたロングショットが印象的で、すこしキアロスタミを思わせるようなところがあった。

しかし撮影隊の助監督が道に迷った少年をついに見つける場面など、場面によっては人物に寄るべきではないかと思ったところもある。また、ラストのビデオ映像の長い引用は、すこし監督自身の感傷が入りすぎではないか。いずれにせよ力強い倫理観に裏づけられたこのタイプの中国映画は、退廃的な中国映画よりは個人的に好きだ。

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トリュフォー『あこがれ』『突然炎のごとく』

■そして今日は今日で、池袋のいつの間に改装されていた新文芸座でフランソワ・トリュフォーの2本立て『あこがれ』(1958年)『突然炎のごとく』(1961年)を観てきた。以前にも書いたようにトリュフォー作品は好きでたくさん観ているのだが、短編の『あこがれ』は初めてだ。現代のわれわれが観ると、そのエロティシズムはすこし素朴すぎて思わず笑ってしまいそうになるが、実験的な手法が随所に使われていて興味深い。そして『突然炎のごとく』は2回目なのだが、まるで初めて観たかのような新鮮な驚きがたくさんあった。それについてはまた日を改めてゆっくりと書きたい。

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2004/11/18

BADA再発見

■このWebサイトのサイト内検索につかわれたキーワードを、Webサイト管理者である僕は参照することができるのだが、先日なんとなく検索キーワードの履歴をみていたら「S.E.S」というのが見つかった。そういえばまだ名古屋にいた1999年ごろ、僕はこの韓国人女性歌手3人のHIP&HOPグループ、S.E.Sのファンだった。

なつかしくなってインターネットで「S.E.S」をキーワードに検索したところ、「S.E.S. Fan Club in Japan "Hana"」というサイトが見つかった。いまだに日本にもファンクラブのWebサイトが残っていたのだ。1999年当時は「S.E.Sペッキム」という非公式ファンサイトがあって、韓国スポーツ紙のS.E.S関連記事が日本語に訳されていたりしたのでよくおとずれていたが、こちらはすでに閉鎖されているようだ。

僕は3人のなかでもパンチのある歌唱力がずばぬけているバダのファンだったのだが、もうあれから5年、彼女もすっかり表舞台から消えてしまったのだろうと思ったら、韓国では2004/09にバダの2枚目のソロアルバムが出たばかりだというではないか。さっそく「セトネット」というWebサイト経由で韓国に1,500円で注文したCDが、今日とどいた。CDの歌詞カードがミニ写真集のようになっているのだが、これを見てびっくり、韓国の化粧品メーカとのタイアップCDになっていて、そのメーカから「BADAコレクション」としてルージュなどが発売されているらしい。

日本でS.E.Sとして登場していたころは、残りの2人、ユージンとシューが「ルックス担当」、バダは「歌唱力担当」だったような記憶があるのだが、すっかりイメージが変わっている。興味のある方は韓国のレコード会社plyzerのこちらのページでご確認いただきたい。歌番組やインタビュー番組の動画までたっぷり掲載されているところが、ブロードバンドが日本よりも早くから普及している韓国らしいが、ずいぶんS.E.Sのころとは印象が変わっている。

しかしこのレコード会社のバダのページ、当然ことながらすべてハングルなので、何が書いてあるのかさっぱりわからないのが残念。また勉強し直そうかという気になってきた。2枚目のソロアルバムについては明日から携帯MP3プレーヤーでじっくり聴きたいと思うので、レビューはまた後日。

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2004/11/15

武田國男氏批判の反響

■武田國男氏の「私の履歴書」を批判したことに対して、2人の読者からほぼ同じ反論メールがとどいた。どうして彼のような生き方に共感できるのか理解に苦しむ。

連載の第一回目に、氏の兄が死んだとき、氏が父親から自分の存在を否定されるようなことを言われたという下りは僕もちゃんと読んでいる。しかし、だからといって親のスネをかじりながら、親の期待にそむくという矛盾した生き方を、社会人になってまで続けていいということにはならないだろう。

せいぜい大学生までなら、若者らしい反抗期とでも言えるが、会社から給料をもらってなお遊びほうけるなど、単なる無責任な大人としか言いようがないではないか。そんなに商家の厳格な家庭が嫌だったなら、親からの独立を決意して家を出るなりすればいい。そうでなければ、いつか父親を見返してやるぞと決意して、黙々と努力すればいい。

そのどちらにも踏み切れずに、親の経済力に頼りながら親に反発しつづけるという矛盾した生き方のどこがまっとうな生き方なのか。こんな生き方にどうして共感できるのか僕にはまったく理解できない。

以前ここにも書いたかもしれないが、僕も「自分はこの世に存在してもいいのだろうか」という疑問を抱きながら生きてきた種類の人間だ。しかしそういう疑問を抱いているからこそ、自分の存在理由を何とか見出そうと、さまざまな努力を積み重ねるのではないか。それが倫理的に生きようとするということではないのか。

もう一度書くけれども、世の中には経済的な理由で大学に行けない、留学ができないという人がたくさんいる。そのような人たちの境遇を考えれば、武田國男氏の生き方は徹底して自己中心的、自己陶酔的である。

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2004/11/14

武田國男氏の「私の履歴書」を連載中止に

■今年の正月はインフルエンザで死ぬ思いをしたので、この冬は二度とゴメンだということで、昨日、予防接種をしてきた。インフルエンザの予防接種なんて小学生のとき以来じゃないかと思うのだが、皮下注射した後のにぶい痛みの感覚がなつかしい。注射する直前に病院で検温したらなぜか36.9度もあったので、「くれぐれも発熱したら風呂に入らないでくださいね」と医者に念を押され、インフルエンザの症状が出たらどうしようとドキドキしていたが、結局、小学生のときと同じでなんともなかった。これでこの冬は、たとえインフルエンザにかかっても今年の正月みたいな重症になることはないだろう。

■ちょっとおもしろいことを思いついた。武田國男氏の「私の履歴書」をthink or dieの読者でこぞって連載中止にしてみましょう、という企画だ。もちろん数十人がメールを送ったからといって、連載中止になることはないんだけれど、おもしろいと思った方は日経新聞のWebサイト管理者あてに意見を送ってみよう。

とある読者の方からは、武田國男氏に同情的なメールを頂いたのだが、どの経営者も僕らのようなフツーの会社員にくらべて、並大抵でない努力をしているのは当たり前のこと。今後の「履歴書」でいろんな苦労話が出てくるのは当然で、そんなものは読まなくったってわかっている。

問題はそれまでの過程にある。世の中には経済的な理由のために、大学進学や留学をあきらめなければいけない人がたくさんいるのに、親の金で甲南大学に進学しては遊びほうけ、入社してからも会社の金でフランス留学させてもらったクセに勉強もしない(留学先の学校にちょっと表彰してもらったくらいが何だというのだ)。そんな人物が「私の履歴書」で、まるでサラリーマンのお手本であるかのような扱いをうける資格はまったくない。連載中止の要望を送った結果、何か返答がかえってきた人は筆者あてにご一報を下さい。

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2004/11/13

武田國男氏「親の七光り」

■日本経済新聞朝刊の「私の履歴書」、今月は武田薬品工業会長の武田國男氏なのだが、とにかくヒドい。ヒドすぎる。親の七光りさえあれば、バカでもなんでも経営者になれちゃうんだということがよくわかる。

大学時代までまったく勉強せずに遊びたおして、社会人になってからもろくに仕事をせずにフラフラしていても、それでも親が社長でさえあれば経営者になれるという理不尽さ。このエッセーを進学塾に通っている子供たちが読んだら、「このおじさんは何の努力をしなくても社長になれているのに、いっしょうけんめい勉強してるぼくら(わたしたち)はいったい何なの」と思うに違いない。

こんな下らない人物に「私の履歴書」など書かせないで欲しい。「私の履歴書」を書くというだけでも、まるで武田國男氏がひとかどの人物であるかのような錯覚を、世間の人々にあたえてしまうではないか。ほんとうにヒドい。ヒドすぎる。

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2004/11/08

『Good Luck』ベストセラーもう一つの理由

■『Good Luck』という本がベストセラーになっている理由だが、もう一つ、こちらの方が真実に近いんじゃないかという理由が見つかった。それは、名作が読まれなくなったことだ。

『Good Luck』に書かれているような教訓は、偉人の伝記を一冊でも読めば十分学べると思う。昔で言えば三木清とか亀井勝一郎とか(ちょっと古すぎるか)、もっと昔で言えば武者小路実篤とか、その手の人生についてのいわゆる「名作」がまったく読まれなくなっていることが本当の理由ではないか。

『Good Luck』のような「自己啓発系」の書物は、名作が読まれなくなった現代にあって、名作のお手軽な代役を果たしているのだ。『Good Luck』も別に妙なことが書いてある分けではなく、人生論としては極めてまっとうだ。ただ、たった一つの教訓を言うために丸一冊の本を費やすのは森林資源に優しくない。『Good Luck』を読んで感動した高校生くらいの人たちには、ぜひ小林秀雄の『考えるヒント』とか、そのあたりの名随筆も読んで欲しいものだ。

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「通りの角から三軒目/メリヤス工場の塀の陰」

■お風呂に入ってリラックスすると妙なことをふと思い出したりするもので、今晩はいきなり口を突いてテレビドラマ『あかんたれ』の主題歌が出てきた。しかも正確な歌詞とメロディーで。「通りの角から三軒め/メリヤス工場の塀の陰/いつも泣いてるあかんたれ/なんで泣くかと聞いたなら/返事もせずにまた泣いた」。詳しくはこちらのWebサイトを参照してほしい。なんと主題歌のMIDIファイルも聴ける。十年以上思い出したこともなかった1976年放送のドラマの主題歌を、どうして今晩いきなり思い出したのだろうか。その理由がまったく分からない。

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2004/11/07

新『セサミストリート』に完全に失望

■今朝、2004/10から放送が始まっている新しくなった『セサミストリート』(第5回放送)を初めて見た。NHKが放送していたときとはまたく内容が様変わりして、がっかりさせられた。ただ、今回NHKが放送できなくなったのは、NHKが日本語版の制作を拒否したからで、日本語版制作はこの番組の提供元である「セサミワークショップ」の考え方だからやむを得ない。このあたりについて詳しくは、All About Japanの『子育て事情』(ガイド:河崎 環氏)の「新生セサミストリート裏事情」をご参照頂きたい。

要点は同ワークショップの日本側のパートナーとして設立されたセサミストリート パートナーズ ジャパンの以下の言葉に表現されている。「新しく始まる日本の『セサミストリート』は、日本の子供たちを取り巻く環境を掘り下げて、日本の子供たちのために日本のスタッフの手によって制作されました。 単なる英語教育番組ではなく、子供たち一人ひとりが、自分とは違う何かや、初めてのことをおもしろいと感じることができる『多様性』を持てるように」ということだ。

しかし、新しい『セサミストリート』のどこに「多様性」を見出せるだろう。完全に日本語、副音声なし。最後の方に短い英語のフレーズを紹介するコーナーがあるだけ。しかも今日の放送分で紹介されたフレーズは「Tastes bad」だ。登場するのは日本人と白人のアメリカ人だけ。その他の人種は一切登場しない。しかも健常者ばかり。日本語にしても、一つのマペットが関西弁をしゃべっていた他は、全員、標準語。セットは米国版のようなダウンタウン風でもなく、どこにも実在しない清潔で無表情な書き割り。さて、いったいどこに「多様性」を見出せるのか。

僕らの世代は米国版のオリジナルを見ることで、日本と米国の差異をはっきりと感じとれた。登場人物の顔立ちや街並み、言葉がまったく日常生活でふれるものとは違う。英語が分からなくても、愛らしいしぐさから伝わるメッセージがあるから、マペットたちの存在意義があった。

日本語を話すマペットを登場させるくらいなら、『セサミストリート』という道具にたよらず、はじめから自力で日本人向けの子供番組を作ればいいではないか。NHK教育テレビがやっているように、日本人キャスト、日本人のデザインした着ぐるみで、日本の文化的背景にもとづいた、日本語による番組を作ればいいのだ。

『セサミストリート』が日本で教育番組として何か価値をもっていたとすれば、それは良くも悪くも、アメリカという国をのぞく窓だったからではないのか。アメリカに対する最初の違和感とあこがれを感じる媒体だったからではないのか。僕らはアメリカという異国を通じて、はじめて世界の「多様性」を学んだのではなかったのか。

そのあこがれや違和感をキレイにそぎ落とされてしまった『セサミストリート』に、いったいどんな存在理由があるのか。米国の「セサミワークショップ」は残念ながら『セサミストリート』という番組が日本国内で持っていた存在理由を、完全に誤解したようだ。その誤解にもとづいてNHKから放送権を剥奪し、間違ったパートナーに与えてしまった。これもやはり米国人一般の、国際感覚の欠如の一端だろう。

This morning I watched the new Japanese version of Sesame Street for the first time. Some months ago Sesame Workshop(SW), original provider of Sesame Street, took away the broadcasting right from NHK (only governmental broadcasting corporation in Japan like BBC in England) and gave it to a newly instituted group called Sesame Street Partners Japan(SSPJ) as an official partner of SW. The mission of SSPJ is to teach Japanese children 'diversity'. But the new Japanese version can never teach it. Everybody in the new Japanese version speaks standard Japanese, except for only one muppet speaking Western Japanese dialect. Only Japanese and white American appear. No black people, no Chinese, no Koreans, no people with different nationality appear. No differently-abled person appear. No English language, no German-accented English, no other languages are spoken. No American downtown street. There is just a nowhere set design with no characteristics. From this program, how can Japanese children learn 'diversity' of the world? When NHK still broadcasted American original Sesame Street, we as a child could learn at least the fact that America is quite different from Japan. The original Sesame Street was a kind of window through which we could watch how different the United States is from ourselves. The new Sesame Street in Japanese version has lost every good aspects the original one once had. Everything is Sesame Workshop's fault because it is SW itself that obliged NHK to produce Japanese version. NHK rightly refused it because NHK knows Sesame Street has raison-d'etre in Japan as long as its American original version is being broadcasted. SW, as an ordinary American who knows little about outside of the United States, couldn't understand NHK was right and gave the broadcasting right to a wrong Japanese partner, SSPJ. That's too bad. C'est domage...

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『Good Luck』ベストセラーの理由

グリーンの表紙の『Good Luck』という本がベストセラーになっているのはご存知だと思うが、それこそ幸運なことにタダで読める機会があったので10分くらいで読み終えた。

日本人なら「人事を尽くして天命を待つ」のひとことですむ教訓を、出来の悪い寓話で説明した本で、このWebサイトの読者は当然まったく読む必要はない。なぜこんな本がベストセラーになったのか、その原因を考えてみた。というのも、単に広告宣伝が成功しただけではなさそうなのだ。

Amazon.co.jpの書評を見ると、この本に感動している人たちが現に存在する。僕が考えた原因は主に3つ。(1)言われている以上に今の日本にはウツ病の人が多い、(2)まともな道徳教育をうけずに育った人が増えてきた、(3)単に怠惰な人が増えてきた。

まず(1)だが、この本を読んで感動するというのは、よほど日頃気持ちの沈んだ生活を送らざるを得ない人だろう。ウツ病はカゼと同じように薬で治るということを、国はもっと真剣に宣伝した方がいい。

つぎに(2)については、子供に基本的なしつけができる大人が減ったために、社会人になってから突然、本書のようないわゆる「自己啓発書」で道徳に目覚める日本人が増えたこと。電車の中で子供を叫ばせっぱなし、遊ばせっぱなしにしている、いい年をした中年たちを見れば、彼ら自身、生きるうえで基本的な道徳観をまったく身に着けてこなかったことがわかる。そういう日本人が増えたために、こんな本がベストセラーになってしまうのだ。

そして(3)は、高齢化社会や環境問題、テロなど、どうせ努力しても明るい未来はないとあきらめて怠惰にならざるをえない日本人が増えているということだ。『Good Luck』がベストセラーになる日本というのは、かなり深刻な状態になっているのではないか。そう考えると『Good Luck』という本は、その存在自体が一種の社会派ホラーと言えなくもない。

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2004/11/03

三谷幸喜『笑の大学』

■三谷幸喜脚本、星護監督『笑の大学』(2004年)を観てきた。三谷幸喜の脚本だけでほとんどもっているような映画なので、この脚本を舞台で観た人は、この映画を観る必要はないかもしれない。テレビや映画で『世にも不思議な物語』を演出しているだけあって、星護監督の映像上の演出は、二人の対話の切りかえしショットのフレーミングや、照明の工夫などツボをおさえている。

ただ、コメディ映画であるにしても、『石川三十五郎』の舞台の小松政夫のカットバックはくどいし、劇場に入っていく役所広司を、建物の中まで追っていくシーケンスは、あそこまで撮る必要があったかどうかは疑問だ。検閲室で役所広司が警官役を演じて、初めて芝居の面白さに歓喜するシーンも、テレビ向きの過剰演出ではないか。それでも脚本の面白さを味わうのに邪魔にならない映像という意味では、映画として十分楽しむことができた。この脚本をより多くの人たちが観られるように映画化した功績は大きい。

脚本に話を移すと、『笑の大学』はコメディと言っても、かなりまじめなコメディだ。扱っているテーマは、三谷幸喜自身の喜劇作家としての使命感であり、だからこそ映画の最後には三谷の分身である椿一(つばき・はじめ)の命を懸けた脚本に感動さえ覚える。それだけに、椿一が徹夜してまで最後の脚本を仕上げた理由が、「状況が変わったから」ということになっている部分には、かなりがっかりした。

個人的には、ただ検閲官の向坂睦男の笑顔のためだけに、最後の脚本を仕上げてきたのだ、という理由づけの方が、もっと喜劇作家としての使命感が強く表現できたのではないかと考えるのだが。そうすれば、あの脚本を検閲官がひとり楽しむためだけでなく、大勢の観客たちを笑わせるためにきっといつか劇場で上演しようという約束も、もっと感動的になったはずだ。僕が『笑の大学』の脚本に「検閲」を入れるとすれば、この点だけである。

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