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2004年8月の記事

2004/08/30

レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』

■マイケル・ムーア監督『華氏911』を観たということで、この映画の題名の元ネタになっているレイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』(ハヤカワ文庫)を読まねばなるまいと思い、今さらながらではあるが昨日から今日にかけて読んでみた。

皆さんご承知のように「ファイア・マン」が消防士ではなく焚書を任務とする人々を意味する近未来の話で、書かれたのは第二次大戦後、米国でレッドパージの嵐が吹き荒れていた頃というから、極めて政治的な空想小説だ。『華氏911』の参照元になっている理由もうなずける。

映像や音楽の氾濫が人々から考える時間を奪い、戦争で大勢の人が死んでいるということがますます現実味の薄いものになっていくという、『華氏四五一度』の基本的な舞台設定は、まるで現代の僕らが生活しているこの世界そのものではないかというのは、この小説について繰り返しなされる指摘だ。ただしその対抗軸として「書物」に象徴される啓蒙主義を持ってくるのは、現代においてはそれほど有効な施策ではないだろう。

愚民化政策の成功は、文字よりも映像や音楽を選択したという媒体の差異に帰せられるものではない。映像であっても「批判的な映像」は存在するし、音楽であっても「批判的な音楽」は存在する。文字媒体でなければ批判は成立しないという主張は、文字を武器にした権威主義だと批判され得る。本当の意味で愚民化政策を推進したい政府なら、焚書よりもむしろ、無批判な書物を社会に氾濫させる方法を選択するだろう。

無批判な映像・音楽・書物の氾濫。こちらの方が現代の僕らが生活する世界にはるかにぴったりする形容だ。媒体はなんでもよい。とにかく受け手に疑問を抱かせず、自己確認の契機しか与えないような、否、自己確認を行うためにはまず自己の外に出る必要があるのだから、自己を外から眺める契機すら与えないような、無批判なコンテンツを、あらゆるメディアを通じて氾濫させることで、本当に人々の「思考」を停止させることができる。

その意味で、文字媒体と映像を対照的に描写するブラッドベリの、新技術嫌いはややナイーブという感じがするが、ようやく映像媒体が登場し始めた時代の限界なのかもしれない。今、誰かが現代版の『華氏四五一度』を書くとすれば、媒体の差異は本質的な差異ではないという前提を置くだろうし、現にマイケル・ムーアは映像媒体で批判を行っている。そういえば『華氏四五一度』を映画化したフランソワ・トリュフォー含むヌーベルバーグも、それまでのフランス映画に対する批判を映像で行ったのだった。

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2004/08/29

田宮二郎主演『白い巨塔』

■そういえば先日、田宮二郎主演のテレビドラマ『白い巨塔』最終回を偶然目にする機会があった。まだ小学生だった僕の脳裏にトラウマのように焼きついていたシーン、財前五郎が洗面所の鏡をのぞきこんで、目の下にできた隈と手のひらの黄疸から、癌の進行を確証する場面に、二十五年ぶりに再会できた。

今見ると田宮二郎の演技はまったく過剰で、鬼気迫るというより滑稽なくらいで、最後の場面、白いシーツに覆われた財前の遺体が病院の廊下(この廊下の狭いこと)を進んでゆくシーンで朗読される財前の遺書も、「反省」という言葉が登場するほど単純な勧善懲悪劇になってしまっている。つまり「悪い」医者だった財前が、自ら癌に侵されることで「反省」「改心」したというわけだ。

その単純さはリメイク版の『白い巨塔』以上で、興冷めですらある。小学生の僕は財前が鏡をのぞきこむシーンを見た後、自分でも鏡をのぞきこんで、その頃から中学受験の勉強を始めたために目の下に出来はじめた寝不足による隈を発見し、自分ももしかすると癌かもしれない、余命わずかかもしれない、などと真剣に心配したものだが(やはり僕はそうとう重症のヒポコンデリーだったのだ)、罪なテレビドラマである。

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マイケル・ムーア『華氏911』

■銀座でマイケル・ムーア監督『華氏911』を観て来た。まずスノッブな映画評論風に感想を書くとこうなる。

世界貿易センタービルでのテロについて、まったく別の物語をつむぎ出すことに成功しているという点で、ノンフィクションでありながら一貫性のある一つの映画たりえている。その物語は今まで僕が日本でテレビや新聞での報道から得ていた情報からは、決してつむぎ出すことができなかったものなので、僕はこの映画を観ながら、まるで僕の知らないところにもう一つ別の世界があって、そこはこの世界と表面上はとても似通っており、似たような人物が似たような生活を送っているにもかかわらず、まったく異なる規則にしたがって機能しているかのような錯覚に陥った。

そして僕が今まで生活していると思っていた世界と、この映画を観ることで見出されたもう一つ別の世界とが、どちらも同じくらいの現実味を帯びており、同じくらいの説得性をもって存在しており、僕自身はそのどちらとも同じくらい強く(あるいは弱く)結びついているように思われる。

その二つの世界が実際には同じ一つの世界の異なる側面でしかないのであれば、僕は僕自身、いかに一つの世界の片側しか見ていなかったかということに驚きを隠せない。平板な日常を異邦人の眼で眺めさせることによって、この世界がこのようなものとして存立していることそのものを、あらためて驚きをもって感じさせてくれるようなものを芸術と呼ぶなら、たしかにこの映画は芸術に違いない。

次に、経済紙の映画評風に感想を書くと、もっと簡潔に、この映画は米国がなぜイラク戦争に踏み切ったかについての説得力のある理由付けを、さまざまな映像の断片を織り合わせるあざやかな手さばきによって成功させている、という感じになる。

ところで『ボウリング・フォー・コロンバイン』と比較すると、軽さやお遊びはかなり息を潜め、後半はとても真剣な反戦映画になっている。この夏、夏になると毎年そうであるように、テレビでも戦争の惨禍を想起させるドキュメンタリーやドラマが放送されていたが、やはり大半は日本がうけた被害を中心に戦争の悲惨さを訴えるもので、今まさにイラクで行われている戦争と、それを支持する日本政府の歯切れの悪さはあたかも60年前の戦争とは無縁のものであるかのようにしか語られていなかったように思う。

米国人の上司と仕事をして、僕も彼らのマッチョなリーダーシップが改めて嫌いになったが、それでもマイケル・ムーアのような「良心」を殺さずにおく米国はまだ尊敬に値する部分を残している。サンケイグループの煽動を中心として右傾化しつつある日本にとって、この映画が全国160館にも配給される勢いを持っているのは、カンヌ映画祭パルム・ドールの後ろ盾があったからこそとは言え、頼もしい反撃だ。

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2004/08/23

報道ステーションの的外れな箱モノ行政批判

■テレビ朝日の報道ステーションで泉佐野市が10年前の「関西国際空港バブル」に踊らされて、箱モノ行政に走り、まったく利用されない豪華な公共施設に数千億円を投資し、結果として財政再建が不可能な状態になる崖っぷちにまで追い込まれたという事実が報道されていた。

ところが報道ステーションが報じていたのは、市長に対する市民の怒りであり、古館伊知郎と長野智子がコメントとして語っていたのは、小泉首相の三位一体改革への批判だった。

泉佐野市がこれほどまでにひどい状況になったことを、市長個人のリーダシップや中央政府の責任にしてしまうことは簡単だが、たとえ中央政府からの後押しがあったとしても、果たして市長がこれほど容易に「暴走」することなどあり得るだろうか。いや、そんなことあるはずかない。明らかに市長をとめられなかった市議会にも責任がある。

では市議会の議員たちを選んだのは誰か。もちろん泉佐野市の市民たちである。以前も同じような議論をここに書いたことがあるが、市長の箱モノ行政を許したことについて、市民たちに責任がないとは言えない。むしろ報道ステーションは無能な歴代市長を選んできた泉佐野市市民の不明もきちんと批判することで、選挙というものの重要性を伝えるべきではないのか。

そうした報道こそが、次の選挙で本当に市民の意見を反映した代表が選ばれることにつながるのであり、テレビ朝日が目指している真の「革新」ということではないのか。何でもかんでもお上や偉い人を批判すればよいというのは、革新勢力の悪しき「判断停止」である。

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2004/08/22

一見大型スーパー、その実パチンコ屋

■駅前でご隠居さんが二人立ち話。駅前にスーパーマーケットができるんだってね。サラリーマンを引退しても近所の情報通であることを自認しているらしいが、残念でした。お二人がスーパーマーケットだと思っている工事中の建物はパチンコ屋。もとあった建物を拡張改装して、見た目三倍ほどの巨大なパチンコ屋が出現しつつある。

確かに窓がなく、明るいベージュの壁をしているので遠目にはイトーヨーカドーに見えなくもないが、都心にも店舗を持つパチンコのチェーン店だ。地元の常連さんはまた開店前から薄汚い洋服で入り口に列を作るのだろうが、この巨大な建物の建築費が自分たちの負けでまかなわれていることに複雑な感情を抱かないのだろうか。なんなら自分たちがこのパチンコ屋を育ててやっているのだとでも思っているのだろうか。人間の愚かさは底知れない。

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2004/08/21

平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』

■平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』(文芸春秋)を読んだ。この実験的な短編集を読むと『日蝕』が一つの文体の実験だったということがはっきりする。

『瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟』の前半「瀕死の午後」は初期の大江健三郎を思わせる粘液質の物語で、『最後の変身』はカフカの『変身』についての作者の解釈が同時に小説になっているというもので、『初七日』は僕が普段はまず読むことがないタイプの文体(たぶん中上健次っぽいのではないかと想像する)、『バベルのコンピュータ』は現代美術批評がそのまま小説になっているなど、非常に多様な形式の作品を楽しめる一冊。

小説に形式や文体以上の何かを求めている読者にとってはつまらない一冊かもしれないが、これら多彩なスタイルが今後の平野啓一郎の作品としてどのように結実するかを楽しみにさせてくれる、可能性としての一冊。

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町田康『きれぎれ』

■町田康『きれぎれ』(文春文庫)を読んだ。夏休みの時期であるせいか、やはり予想通り「8月は純文学月間です」ということになってしまった。非現実的なイメージが非常に具体的という矛盾を、軽々と乗り越えてしまう文体が不思議といえば不思議。ふつう僕らが当然のことと思っている事物の存在感や現実感といったものが、いともかんたんにひっくりかえされている文体と、登場人物のひっくりかえり具合があまりにも一致しすぎてしまっているところがおかしさにつながっているのだろう。「ベタな笑い」というやつだ。

登場人物の置かれている状況も、日本の現代という状況の中ではかなり悲惨ではあるが、悲劇的かといえばそうではない。悲劇的というからには本人の意思とは無関係な運命とかいったものの力の存在が前提だが、町田作品に登場する人々は自分の意思で悲惨な状況に陥る。その意思も、あらかじめ意図したこととは別の結果を生み出してしまう意思で、その意図と結果のズレは漫才でいう「ボケ」そのもの。登場人物は際限なくひとりボケツッコミを繰り返しつつ饒舌な悲惨に陥っていくが、その速度を文体が担って、爽快さや、ちょうど映画で、自動車に積んだカメラが沿道を失踪する人物を真横からとらえるときのような美しさを表現することができているのかもしれない。

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村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

■近所の小さな本屋の文庫本コーナーに、いまさらながら『ノルウェーの森』が平積みになっていて、『世界の中心で、愛をさけぶ』の大先輩の感動作であるといった趣旨の、店員手書きのPOPが添えてあった。自分の人生を左右するほどの大きな存在だった恋人を亡くた男性の主人公の独白の回想で、どちらかと言えば淡々とした文体で、飛行機で海外に旅立つ場面もあり、その恋人と過ごした日々が今となってはまるでそこだけ切り離されたもののように感じられ、しかしながら今もなおその喪失感は心に大きな穴をあけているなどといったところが確かに『ノルウェーの森』と『世界の中心で、愛をさけぶ』の共通点だ。

この手の物語は、主題や文体、その作品が書かれた時代背景がどうあれ、普遍的にいつの時代も日本人の若者に受け入れられるのかもしれない。ただ同じくくりにされるのは、どうも釈然としない。『ノルウェーの森』は読んでから随分経つので、もう一度読んでみれば両者の違いがはっきりするかもしれないが、昨日は『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)の方を買ってしまった。

今朝読み始めて、これは読んだことがあるかもしれない、気のせいだろうか、村上春樹の小説はどれを読んでも似た印象をうけるから、気のせいかもしれないと思いつつ、このWebサイトを検索したら、やはり2年前に読んでいる。最近ますますそうなのだけれど、つい2年前の僕自身でさえ誰かまったく知らない人のように思えてくる。どうしてあんなことをしていたのだろうとか、そんなこと言ったっけ、やったっけという具合に、自分の過去の言行に驚かされる。過去の自分の行為が他人がやったことのように新鮮に感じられることもある。つい2年前のことでも、子供のころの思い出のように現実感が失われ、そそくさと過去の堆積の中に遠ざかってしまう。これは年齢のせいなのか、僕がどこかで意図的に昨日の自分さえ、いそいで現在から切り離そうと努力しているからなのか、よくわからない。

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2004/08/17

『誰も知らない』主題歌を歌うタテタカコのアルバム

■映画『誰も知らない』がかなり良かったので、挿入歌の収録されているタテタカコのアルバム『そら』を買ってきた。早速ギターを弾きながらコピーをしていたが、Fメジャー(ヘ長調)でベースラインが聴き取りやすいのでコード進行は意外に簡単だった。F-AmonE-Dm-FonC/Bb-BbonCという感じ。

しかしこのアルバムに収録されている、彼女自身の作詞作曲による他の曲はかなり異彩を放っている。流行の邦楽を聴き慣れた耳には、とくに一曲目の『夕立』などは新鮮に聞こえる。タテタカコが国立音大卒ということもあるのだろうが、どちらかと言うとPOPSというよりも合唱コンクール課題曲と言う感じで、クラシックの歌曲を思わせる転調とテンポの変化が美しい。

ただ、どの曲ももう少しちゃんとしたスタジオで、完璧な調律のピアノで録音して欲しかったような気がする。このアルバムの売上げで儲かったら、映画挿入歌の『宝石』をもう一度録音し直して欲しい。

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2004/08/15

日経の奇妙な少子化対策論

■昨日(2004/08/14)の日本経済新聞朝刊の社説は実に奇妙な論理にもとづいて少子化対策を論じていた。「出生率が上がっている町がある」という題名で、静岡県長泉町の合計特殊出生率が1990年の1.62から2000年には1.72へ跳ね上がった背景を紹介している。乳幼児医療費を無条件で無料化し、保育園の待機児童を出さないというのが長泉町のとった少子化対策だ。保育園に併設された「子育て支援センター」という施設も紹介されている。

しかしよく読むと当地の母親たちの声として、「県外から長泉周辺の企業に転勤する子育て中の知人には、負担の軽いこの地での居住を積極的に勧めている」という意見が引用されている。つまり、長泉町が周辺地域から子育て中の家族を吸い寄せているだけであり、この町の出生率が増加したのは、単に隣りと比べたらまだましだという理由でしかないのだ。

たとえば、全国の自治体が長泉町と同じく小学校入学までのすべての乳幼児の医療費を無料化するなどという施策が可能だろうか。長泉町よりはるかに人口密度の高い首都圏で、保育所の待機児童をゼロにすることが財政的に可能だろうか。長泉町の出生率の増加は、周囲と比べて相対的に条件が良かったというだけの理由であり、その施策が絶対的な効果を持っていたわけではないのだ。その証拠に静岡県全体の合計特殊出生率は、1990年の1.60から2000年の1.47へと低下している。自分の町だけ出生率を上げたいのであれば、子育て中の家族に有利に働く施策なら、子育てに直接関係なくても何でも打ち出し、町外に働きかけて転入者を増やせば出生率は上がる。

本当に日本全国の出生率を増加させたいのであれば、子供を持つ家族の数そのものを増やす必要があるのであって、もともと子供を持つつもりの家族や、子供がすでにある家族を他所から連れてくるだけではまったく意味がないのだ。そして、子供を持つつもりの家族を増やすために、乳幼児の医療費を無条件で無料化したり、保育所の待機児童をなくすことがどれほどの効果があるかは極めて疑わしい。なぜなら育児の経済的負担は小学校に入学してからが「本番」なのであり、乳幼児の段階での支援では、子供を「持ちたくない」夫婦を持つ気にさせることはまずできない。

最近の少子化対策の議論はそうした根本的なところで、真に効果のある施策を見誤っている。自分の老後にさえ希望の持てない二十代の夫婦が、どうして育児の経済的負担までかぶろうという気になるだろうか。まだ子供を持ったことのない夫婦に育児の喜びなど分からない。したがって「経済的負担に勝る喜びが育児にはあるのだ」という言葉は、子供を持つ前の夫婦に何の説得力もない。まだ子供を持ったことのな夫婦に説得力があるのは、ただ育児の経済的合理性を訴えることだけと考えるべきである。

それくらいラディカルな議論を展開しなければ、出生率を増加させることなど不可能なのだ。が、日本経済新聞も含めて、そのことを理解している人がどれだけいるだろうか。

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礼儀をわきまえない愚かな老人

■最寄り駅の構内にある書店でのできごと。ごま塩頭の老人男性が店内で商品の陳列をしている若い女性の店員に向かって、いきなり「しょーぎしかい!」としわがれた声で話しかけた。びっくりして振り返った店員は「はい?」と、しばらく事情が飲み込めない様子だったが、その老人が「しょーぎしかいは?」と繰り返すに及んで、本の名前を告げようとしていることに気づいたらしく、「もう一度お願いできますか?」と問い返した。老人は「しょーぎしかい!」とまったく同じことを繰り返すだけだ。

レジカウンタにいた別の女性店員が「ああ『将棋世界』ですね」と、頑固に同じ単語を繰りあける老人と、頭の上にいくつも疑問符を浮かばせている店員のもとへ駆け寄ってきて、老人の方を趣味の雑誌のコーナーを案内した。残された店員は、ああ『将棋世界』ねと、納得顔で商品の陳列を始めた。

たとえ相手が店員であれ、他人にものをたずねるときに「すみませんが」や「ちょっとお尋ねしますが」などといった前置きなしにいきなり切り出すのは、人間として最低限のマナーを欠いている。おそらくこの老人は自宅で配偶者に対して「飯!」「風呂!」などとぞんざいな言葉づかいをし、それを当然のことのように公共の場にまで持ち出しているのだ。最近、電車や街中でこの手の横柄でぞんざいで偉そうな初老の男性を実にたくさん見かける。紳士とは程遠いその振る舞いに、だからこの国には閉塞感が漂うのだと言ってやりたくなる。

■昨日(2004/08/14)の日本経済新聞朝刊の社説は実に奇妙な論理にもとづいて少子化対策を論じていた。「出生率が上がっている町がある」という題名で、静岡県長泉町の合計特殊出生率が1990年の1.62から2000年には1.72へ跳ね上がった背景を紹介している。乳幼児医療費を無条件で無料化し、保育園の待機児童を出さないというのが長泉町のとった少子化対策だ。保育園に併設された「子育て支援センター」という施設も紹介されている。

しかしよく読むと当地の母親たちの声として、「県外から長泉周辺の企業に転勤する子育て中の知人には、負担の軽いこの地での居住を積極的に勧めている」という意見が引用されている。つまり、長泉町が周辺地域から子育て中の家族を吸い寄せているだけであり、この町の出生率が増加したのは、単に隣りと比べたらまだましだという理由でしかないのだ。

たとえば、全国の自治体が長泉町と同じく小学校入学までのすべての乳幼児の医療費を無料化するなどという施策が可能だろうか。長泉町よりはるかに人口密度の高い首都圏で、保育所の待機児童をゼロにすることが財政的に可能だろうか。長泉町の出生率の増加は、周囲と比べて相対的に条件が良かったというだけの理由であり、その施策が絶対的な効果を持っていたわけではないのだ。その証拠に静岡県全体の合計特殊出生率は、1990年の1.60から2000年の1.47へと低下している。自分の町だけ出生率を上げたいのであれば、子育て中の家族に有利に働く施策なら、子育てに直接関係なくても何でも打ち出し、町外に働きかけて転入者を増やせば出生率は上がる。

本当に日本全国の出生率を増加させたいのであれば、子供を持つ家族の数そのものを増やす必要があるのであって、もともと子供を持つつもりの家族や、子供がすでにある家族を他所から連れてくるだけではまったく意味がないのだ。そして、子供を持つつもりの家族を増やすために、乳幼児の医療費を無条件で無料化したり、保育所の待機児童をなくすことがどれほどの効果があるかは極めて疑わしい。なぜなら育児の経済的負担は小学校に入学してからが「本番」なのであり、乳幼児の段階での支援では、子供を「持ちたくない」夫婦を持つ気にさせることはまずできない。

最近の少子化対策の議論はそうした根本的なところで、真に効果のある施策を見誤っている。自分の老後にさえ希望の持てない二十代の夫婦が、どうして育児の経済的負担までかぶろうという気になるだろうか。まだ子供を持ったことのない夫婦に育児の喜びなど分からない。したがって「経済的負担に勝る喜びが育児にはあるのだ」という言葉は、子供を持つ前の夫婦に何の説得力もない。まだ子供を持ったことのな夫婦に説得力があるのは、ただ育児の経済的合理性を訴えることだけと考えるべきである。

それくらいラディカルな議論を展開しなければ、出生率を増加させることなど不可能なのだ。が、日本経済新聞も含めて、そのことを理解している人がどれだけいるだろうか。

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2004/08/12

阿部和重『ニッポニアニッポン』

■と、かなり攻撃的な文体になっているのは、ついさっき阿部和重『ニッポニアニッポン』(新潮文庫)を読み終えたばかりだからかもしれない。

いわば反体制テロリズムの戯画小説で、主人公が意図的に卑小に書かれている。主人公の片思いの恋人、というより主人公のストーカー行為の被害者と主人公との関係についての描写が小出しにされていたり、トキ襲撃の計画が構想されていく経過と主人公の過去が交互に物語られるなど、基本的な語り方の技術は阿部氏の他の小説同様、凝っていて読ませる。

ただ一つ、これは単に僕の読解力が不足しているのかもしれないが、主人公を三人称で語りつつ、トキの襲撃現場に駆けつけて主人公に刺殺された警備会社の社員も、ネット上で主人公に拳銃を売りつけるフリをした中学生も、同様の三人称で語られている理由がよく分からなかった。主人公と他の二人は明らかにこの小説で果たす役割の重みが異なるので、セクションを分けるだけで、まったく同じ語りで処理するのはどういうわけなんだろうか、という疑問だ。どなたかお分かりの方は教えていただきたい。

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「目算」を「メサン」と話す中年オヤジ

■帰宅途中の地下鉄に、赤ら顔でアルコール臭を撒き散らしながら中年会社員が同僚と二人で乗り込んできた。座席に座るなり右足首を左の膝頭に載せるという周りの迷惑をかえりみないデカい態度で、なおかつ大きな声で「金がなくたって幸せってことはあるんだよ」と、自分ではもっともらしい人生哲学でも語っているつもりなのだろうが、傍から見るとどう見ても頭が空っぽのバカオヤジにしか見えない。

こういう態度がデカい上に声もデカく、いちいち偉そうにしゃべるオヤジに限ってIQが低いんだよと密かに思っていたら、「だいたい金額のメサンはついてるんだけどね、メサンは」と大声で話し続けていた。それを言うなら「目算(もくさん)」だよ、バカオヤジ。

かつてこのページの一部のエッセーは団塊の世代に対する敵意むき出しだったが、自分の年齢が上がるにつれてその敵意はやわらぐかと思えば全くそんなことはない。電車の中で大股を広げて座る中年男性を見るたびに(このことは以前にも書いたが)、お前は自分の一物の大きさでも自慢したいか、それとも股関節脱臼か、と尋ねたくなる。

四十歳以上の中年男性たちは、景気の動向や社会問題を憂う前に、まず公共の場所での紳士的な振る舞いを見につけるべきだ。換言すれば「お前らの存在自体が『社会問題』なんだよ!」ということだ。もちろんこのページの読者の紳士的な皆さんは別である。

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2004/08/11

差別は合法的であるがゆえに機能する

■とある読者の方から過日の「TSUTAYAは女性差別企業だ」というエッセーについてコメント頂き、差別とは「特定の人間を限定的に区別し、不当な扱いをすること」だからTSUTAYAが単独で有効な証明書として運転免許証を挙げていることは女性差別にならないと指摘しておられた。
同じメールのなかで外国人に指紋押捺を義務付けることは差別ではないと主張しておられたので、僕との考え方の差異がはっきりした。この読者の方は指紋押捺が合法の判決を受けたという事実にもとづいて、それが差別でないとお考えのようだが、そもそも差別は合法的になされるがゆえに差別として機能するのである。

もし違法であればそれは差別ではなく、純然たる違法行為ではないか。法制度を援用して行われるからこそ、その行為は差別と呼ばれるのであって、合法の判決を受けたという事実はむしろ、指紋押捺が立派な差別であることを裏付けている。

そのように、特定の人間を限定的に区別し、不当な扱いをするような差別は、客観的に分かりやすいが、そもそも差別はそんなに分かりやすいものではないのだ。一見事務的な手続きを装いながら、間接的に実際上の不利益をもたらすのがむしろ現代の法治国家における差別というものではないか。

セクシャルハラスメントにしても法制度は、常に事実としての差別を後から追いかけることしかできない。つまり差別は、差別と認識されたときには常に合法的な行為なのである。残念ながらこの読者の方は差別の本質をまったく理解されていないようだ。

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2004/08/09

平野啓一郎『日蝕』

■平野啓一郎『日蝕』(新潮文庫)を読み終えた。『広告批評』で高橋源一郎との対談で話しているように、著者が文学史のおさらいを意図してわざとこの文体と主題を選んでいると知っているので読むことができたが、横光利一の『日輪』しかり、舞台を歴史的な過去に設定してそこから一歩も足を踏み外さない小説というのは、僕にとってはどうもしっくりこない。その虚構性ばかりが目についてしまうのだ。こういう作品を読むと、所詮僕にとって小説は「他者」でしかないのだなぁと寂しい気持ちになる。この分ではたぶん同じ作者の『葬送』は自分には無理だろうなと思う。

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2004/08/08

「夢」を語る未熟な「レジャー産業」

■仕事の関係で『月刊レジャー産業』(綜合ユニコム)という月刊誌の2004/07号を読むことがあったのだが、店舗改装による集客力向上が特集になっており、スポーツクラブ業界向けの某コンサルティング会社の代表取締役がこんなことを書いていた。

「M&Aは短期間で企業成長できるというメリットがある半面、急ぎすぎて業績が悪化したり、この事業に対する夢や希望が、利益を追求する会社による資本の論理につぶされてしまうといったデメリットもあり、メリットだけを得られるかどうかが明暗の差を生むのだろう」(p.38~39)。

国内ではM&Aによって急成長しているスポーツクラブ運営企業があるが、企業規模が大きくなっても好業績につながらない事例もあるという文脈で書かれている。しかし「夢や希望」が「資本の論理につぶされてしまう」というのは、あまりにも素朴すぎる考え方ではないだろうか。

夢や希望だけでビジネスが成り立つならそんなに素晴らしいことはないが、会社を運営していくためには資金を拠出してくれる株主の存在が不可欠であり、資金があるからこそ夢や希望を追いかけることができるのだ。M&Aの後に業績改善に失敗したとすれば、それは何も資本の論理が社員の夢や希望をつぶしたからではなく、単純に採算度外視の放漫な経営をしたツケが回っただけのことではないか。

この代表取締役は自分がオーナーであるコンサルティング会社の経営者でもあるので、所有と経営が分離している経営環境に馴染みがないのだろう。一般的な上場企業では所有と経営の分離など当たり前の環境なのだが、その厳しさに馴染みがないせいで、こんな未熟な物言いになってしまうに違いない。彼の言葉が『月刊レジャー産業』のような業界紙で専門家の意見として通ってしまうこと自体、この産業が未熟であり、経営の観点から改善の余地が大いにあることをはっきりと示している。

一度トヨタ出身のコンサルタントに店舗オペレーションの効率化でもお願いしてみたらどうだろうか。おそらくムダはたくさんあるはずだ。休憩時間でもないのに従業員が楽しくおしゃべりしているのを「現場の士気を高めるために必要な息抜きの時間だ」と言い張るなら、そもそもトヨタ式のカイゼン以前の問題ということになるが。

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2004/08/07

吉田修一『パレード』

■吉田修一『パレード』を読み終えた。一昨日に「思いのほか『いい話』だ」と書いたのは部分的にはその通りなのだが、最後まで読むととんでもない深淵がぽっかりと口を開ける。深淵がぽっかりと口を開ける部分までの、普通に「いい話」の集積として成り立っている物語が、実は最後に明らかになる深淵の上にしか成り立ち得ないということがその深淵の出現そのものによって明らかになる。

この小説は語りの上ではメタフィクションになっていないのだが、それまで普通の青春群像だと思って読んでいた小説が、最後のところで、実は登場人物が全員その深淵を知っていながらも(そして同時に知っているからこそ)そのような小説として成り立っていたのだということが突然明らかになるという意味では、一種のメタフィクションとして読んでいいのではないか。

物語の中で実際に起こっている事件の真相を、登場人物の全員が知りながら知らないふりをすることで、登場人物の物語の中での存在そのものが辛うじて成り立っている。登場人物の全員が知りながら知らないふりをしていた当の事件が、小説全体を一挙に二つの層に引き剥がし、それまで単なる青春群像として読んでいた物語が決して単純な青春群像ではなかったことが露呈する。この「開け」があまりに衝撃的なので、引き剥がされた層のうち背後にあるものが、読者の現実の側にまで押し寄せてきて、一種のメタフィクションのような印象を与えるほどなのだ。

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2004/08/05

片山恭一の下手くそさ加減

■ということで(どういうことなのかは下記の昨日の日記を参照)吉田修一の『パレード』を読み始めたのだが、さすがタカハシ先生、こうして普通の純文学を読むと片山恭一の下手くそさ加減がはっきりと分かる。現代の若手作家と言えば阿部和重くらいしか読んだことがないので、とても乾いた、場合によっては暴力的なものを予想していたのだが、思いのほか「いい話」だ。

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2004/08/04

『広告批評』高橋源一郎と五人の若手小説家の対談

■渋谷のブックファーストで『内側から見た富士通 「成果主義」の崩壊』の次に何を読もうかと仕事が終わってから一時間半も文庫本コーナー、哲学書、文芸書、ノンフィクション、精神医学と歩き回ったがまったく決まらず、結局一階まで降りてきてふと目に止まった『広告批評』の最新号が偶然にも高橋源一郎と五人の若手小説家との対談を特集として組んでいたので迷わず購入して読んだ。やはりそろそろ読書をノンフィクションモードに切り替えなさいという神様のお告げだったのかもしれない。

僕にとって常に高橋源一郎の書評はいままで手にしたこともなかった小説を手にするきっかけになっていて、今回は吉田修一、平野啓一郎に挑戦することになった。というより、高橋源一郎というきっかけがなければ純文学を読まないのなら、初めから読まなければいいという議論もなくはないだろうが、決して純文学を読みたい気がないわけではない。

ただ、小説を読むとなると一冊あたり最低でも週末の一日をつぶすことになるので、ハズレの作品を読んでしまう時間を節約するための最善の方法が、いままでのところ高橋源一郎の書評をあてにすることなのだ。もちろんハズレを読んでしまうことも含めての読書体験であるべきなのだが、加えて言えば高橋源一郎の書評をまず読むことによって作品を読むときに必要な一定の視点を手に入れられるという利点もある。

僕のような純文学音痴が純文学を読むためにはどうしても氏のような導き手が必要ということだ。映画なら社会人になりたての頃、現実逃避の目的も込みで週末に四本も五本も観ることで、ハズレも含めた映画体験が可能なのだが、小説は週末に四冊も五冊もというわけにはいかない。まだ人生は長いので、そのうちトーマス・マンも読まなければいけない。

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2004/08/01

マクドナルドの安っぽい新制服

■衣食住に関しては既製品・規格品が大好きなので、僕はマクドナルドのヘビーユーザでもある。経営陣が一新されてから足を遠ざけていたものの、最近、週末にはまた通うようになった。しかし良くなったことといえばポテトが揚げたてになったくらいで、アルバイトさんの仕事の分担方式が変わっているようで現場が多少混乱しており、待たされる時間は長くなったように感じる。

そして今日気づいたのは、制服が変わっているという点だ。以前の制服はボタンダウンで、そのフォーマルな感じがアルバイトを含めて店員の皆さんの「誇り」のようなものを感じさせたが、最近の制服はユニクロなどで1,980円程度で売っていそうな化繊のジップアップのベスト、相当安っぽい。たぶんコストダウンの一環なのだろうし、店員さんもタイトスカートより動きやすいのだろうが、飲食店に来たというより、スポーツ用品店に来た感じがして落ち着かない。制服が「カワイイ」からその店のアルバイトに募集するという女性も多いというから、ジップアップベストは今後のマクドナルドのアルバイトさんの質を決めるかもしれない。

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『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』

■先週、光文社から『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』という本がペーパバック形式で出版された。今日たまたま書店で見かけて購入し、読み始めたのだが、現在の富士通経営陣に対して非常に厳く、ここまで内部資料を載せてしまっていいのかと思うほど率直な内部告発で、非常に面白い。僕も元社員として思い当たる点が多々あり、読み終えたら必ず書評をこのWebサイトに掲載したい。

筆者は1973年生まれで、東京大学法学部卒業の後、富士通に入社、人事部門でまさに富士通型「成果主義」の制度運用の現場を担っていた人物だ。すでに富士通を退社しているようで、執筆量からして退社前か、退社後すぐに本書を書き始めたのではないかと想像される。こんな内部告発本を生み出してしまうという事実そのものが、今の富士通社内の混乱ぶりをはっきりと証明してしまっているのではないか。

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