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2004/02/25

日欧の業務改善手法の根本的な違い

■業務プロセスの標準化とはプロセスの途中でいつ、どのような成果物を作成しなければならないかを定義することだが、これはふつう「どのように」業務を行うかを意味するプロセス(=過程)を、「なにを」産み出すかという成果で置き換えていくことに他ならない。

それまでそれぞれの人が自分なりのやりかたでバラバラに進めていた仕事の過程について、その途中で「なにを」作成しなければならないかを定義し、その作成を強制することによって過程が標準化される。

別の言いかたをすれば、仕事の過程をいくつかの段階に区切り、それぞれの段階の最後に産み出されるべき結果を定義する。そうすることで誰がその仕事をやっても、同じ過程をたどるようにする。それが業務プロセスの標準化ということだ。

日本人会社員の多くは、業務を改善するために業務プロセスの標準化ではなく、業務プロセスに習熟する方法を選択しがちである。日本人会社員が単に「業務改善」と言われたときには、その業務に習熟する努力によって、そのプロセス(過程)を迅速に処理することを目標にしがちだ。

ところが欧米から輸入された業務改善は業務プロセスの標準化によって、つまりプロセス(過程)をいくつかの結果に置き換えることで、人による方法の多様性をなくして業務改善を実現しようとする。「日本風」の業務改善は過程を過程のまま、それに習熟することで改善しようとすることで、つまり、「どのように」を洗練させることで業務改善を実現しようとするのに対して、「欧米風」の業務改善は過程を複数の結果に変換することで、つまり「どのように」を「なにを」に置き換えることで改善しようとする。

そのため、新しい「どのように」を求めている日本人が、そのかわりにいくつかの「なにを」すべきかを与えられると、期待が裏切られることになる。そしてこんどはその成果物を「どのように」作るのかという問いに対する答えを求め始める。

しかし一つの仕事の過程をいくつかの段階に区切って「なにを」に置き換えるということは、その区切られた一つひとつの段階がそれ自体がまた一つの仕事の過程になるということだ。その「なにを」を作るためにはまた「どのように」を問わなければならないことになり、欧米人はそれに対してさらにそれをふくすうの「なにを」に分割することで改善しようとする。このようにして業務プロセスの成果物による微分が際限なくつづくことで、業務プロセスは徐々に精緻に標準化されていく。

日本風の業務改善は逆に、過程を過程のままで習熟によって改善しようとする。業務改善になじみのない読者は僕が何を言っているのかお解かりいただけないかもしれないが、これは業務改善における文化的差異に関するごく短い試論だ。僕がいちばん問題にしたいのは、このような文化的差異の存在に気づきさえしないまま、「欧米風」の業務改善手法を日本人の組織に適用している日本企業が山ほどあるということだ。

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2004/02/22

日本のプロジェクト失敗の真の原因

■新しいプロジェクト管理手法の導入によってプロジェクトの成功率をあげようという発想は、間違いかもしれない。

ここ数年、日本のIT業界にプロジェクト管理の必要性が叫ばれているが、日本企業のITプロジェクトが失敗するのは本当にプロジェクト管理手法のまずさが主因なのだろうか。僕はむしろ、処理できないほどのプロジェクトを一度に走らせようとするマネジメントのまずさが主因ではないかと考える。

つまりたくさんあるプロジェクトのうち、どれが本当に最優先のプロジェクトなのか、その優先順位づけを経営陣ができないので、重要なプロジェクトも重要でないプロジェクトも実現しようとする。その結果、人員が不足して、プロジェクト管理の必要性はわかっているのに、十分な管理ができない。プロジェクト管理のスキルが完全に不足しているわけではなく、プロジェクト管理をしている余裕さえまったくない状況なのだ。

It might be a wrong idea to increase the number of successful projects by introducing a new project management methodology. Since several years, it is said that Japanese companies need to introduce appropriate project management methodologies in order to make IT projects more successful. But I think that the main reason of IT project failure is not a bad project management methodology but bad management of managers. Since the managers can't prioritize IT projects, both critical projects and trivial projects are started at the same time. As a result, the capacity necessary for realizing the IT projects always exceeds the total capacity of IT department. IT people recognize the necessity of introducing appropriate project management methodology but simply they have no time to think about it. It's not because they are reluctant to introduce a new project management methodology but simply because they don't have enough time to be motivated to introduce the new methodology. This is the mismanagement of managers.

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ブロイアー、フロイト『ヒステリー研究』

ちくま学芸文庫で新訳が出たブロイアー、フロイト著『ヒステリー研究』を読んだ。上巻の症例報告はまさに精神分析が産声をあげる瞬間の記録といった感じで、非常に興味深く読めた。精神分析の基本的な技法が実際の症例での試行錯誤の中でどのように産まれたかがよく理解できる。すでにフロイトの著作に親しんでいる人にも、おすすめの一冊だ。

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2004/02/15

ふたたびお勧め『虚妄の成果主義』

■高橋伸夫著『虚妄の成果主義』だが、今日の日本経済新聞の書評欄で取り上げられていた。同じ紙面にあった八重洲ブックセンターのビジネス書ベストセラーでは何と6位にまで食い込んでいる。より多くの人がこの書物を読んで、節操なく米国の経営手法を輸入することの愚かさ加減に気づいてほしいものだ。

高橋氏の著作の中でも、日本的経営と欧米型経営の評価が十年ごとに入れ替わるような、経営学の無節操さが再三にわたって批判されている。高橋氏自身、日本の経営学界で一顧だにされなかった論文が英訳で日の目を見た経験を、苦い思い出として書いている。学界でさえ健全な批判機能を欠いているのだから、ましてそれをお手本にする実業界は言うまでもない。もちろん実業界の人々に「批判精神」など期待できないのだが、そのために犠牲になるのは生身の人間なのだ。

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2004/02/12

ジャック・ラカン『セミネール』英訳

■最近は米Amazon.comから入手したJacques LacanのSeminaireの英訳をぼちぼち読んでいる。『エクリ』に比べれば格段に分かりやすいし、現場の雰囲気が生々しく伝わってくるところも面白く読めるのだが、それでも想像界、象徴界、現実界を凸面鏡の前に置いた花瓶の実物と花束の虚像の例えで説明してもらってもまったく理解できないのだ。今読んでいるのは英訳で出版されている第一巻Freuds Papers on Technique (Seminar of Jacques Lacan (Cloth), Bk 1)で、フロイトの技法論が主題になっているため、図書館でフロイト全集の該当巻を借りてきているが、ここには通称ラットマン、シュレーバー氏、通称ウルフマンの3つの症例が記述されている。セミネールの中で受講者が発表する事例を読むにつけても、精神分析にとって症例研究がいかに重要かが痛感される。彼らには目の前の患者を治療するという第一義的な目的があり、あくまでそのための技法であり、理論なのだ。ラカンからネオアカ受けするポストモダン思想の上ずみだけをすくいとることに不遜さを感じてしまう。一人のパニック障害患者としての情緒的感想かもしれないが。

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2004/02/11

ドイツ語検定2級は二次試験も合格

ドイツ語検定2級は結局二次試験も合格となり、無事合格証書が届いていた。二次の面接試験では、やはり試験官のドイツ人の質問をかなりのスピードで理解できたという点が評価されたのかもしれない。こちらの受け答えのドイツ語は多少つたなくても、ネイティブの質問を十分に理解できれば2級としては合格ということなのだろう。履歴書に書くことがまた一つ増えた

Today I received the certification of the zweite Stufe of German Examination called Dokken that is the abbreviation of Doitsu-go (=German language) Kentei (=examination). I think it was good that I could understand the questions of German native speakers quickly in the oral examination that was held in the last month, although my answers in German were not so fluent. Now I have got another item I can write down on my curriculum vitae.

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2004/02/10

このサイトのCGI版iモードサイト完成

■このホームページのiモード版を以前から完全に動的に生成するように変更しようと考えてなかなか手をつけられなかったのだが、やってみると以外に簡単なPerlのCGIで作ることができた。今までは既存のパソコン用コンテンツをバッチ処理でiモード対応ページに細切れにしてから、出来上がった千個以上のHTMLファイルを長時間かけてftpでアップロードしていたのだが、これでパソコン用のエッセーを追加するだけで自動的にiモードでも即座に閲覧できるようになった。フォーマットの異なる「愛と苦悩の日記」と、会員専用領域にある「サラリーマンの現象学」だけは対象から外したが止むを得まい。

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2004/02/08

日本マクドナルドの新CEO起用は失敗では?

日本マクドナルドの持ち株会社が元アップルコンピュータの社長をCEOとして招くらしい。現CEOは会長に就任するとのことだ。目的はマクドナルド・ブランドを再生するためらしいが、この的外れな人事を見ても、いかに米マクドナルド本社が日本に適合した経営に失敗しつつあるかがわかる。確かにアップルはパソコン業界で非常に高いブランドイメージを持っているが、それは対象とする消費者を、映像制作、音楽、服飾など、いわゆるクリエイティブ系の人たちに絞り込んできたからだ。

そもそもアップル社はウィンドウズとシェアを争う拡大路線を捨て、市場占有率と無関係な戦略に転向して成功した。他方マクドナルドにとって、シェアを捨ててブランドイメージを向上させることは業績回復に不適切な方法だろう。むしろ創業者の藤田氏が多角化の一環として着手していたプレタマンジェのような業態に最適な戦略だったはずだが、米経営陣はすでにこのサンドイッチチェーンから撤退を決めてしまった。プレタマンジェタリーズなどにふさわしい、シェアを捨ててブランドイメージを向上させるという戦略を、マクドナルド本体で採用するのは完全な誤りなのだ。マクドナルドがすでに獲得している顧客層が広すぎるからである。

そこでヒントになりそうなのは、マッキントッシュよりもむしろユニクロではないか。薄利多売でありながらブランドイメージを向上させることにある程度まで成功したユニクロにこそ、マクドナルドは学ぶべき点が多いと思うのだが、新CEOをアップルから持ってくるような完全な見当違いをする米国本社の経営陣では、日本マクドナルドの未来はおぼつかない。

少しずつシェアを落とし、かといって商品単価もそう簡単には上げられず、そうこうしているうちにアルバイトの士気が落ち込んで、レジの前に行列ができたり、先日指摘した物流のまずさから欠品を起こしたりしながら、ゆっくりと三流バーガーチェーンに落ち込んでいくのが、もっともありそうな未来だと個人的には考える。

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日経の興膳宏氏コラム批判への反論への反論

■予想以上に苛烈だったインフルエンザとの闘病生活をようやく終えて一週間ぶりの「愛と苦悩の日記」だが、前回の興膳宏氏批判について、「傍若無人」という言葉の説明のためのコラムの中で単なる例示でしかない部分の欠陥ともいえないような欠陥に乗じた批判は不適切であるとのご指摘を、ある読者の方から頂いた。

言うまでもなく僕はコラムの中の非本質的な部分だからこそ批判したのである。仮に「人は見かけによらぬもの」という言葉の説明のためのコラムがあったとして、その例示に、らい病患者が例として挙げられていたら、日経新聞読者の誰もが偏った例示だと考えるだろう。

このように容易に意識化される偏見については、熊本県の某ホテルの支配人など少数の事例をのぞいて、取り立てて批判する必要もない。批判するまでもなく、誰もがその偏見を指摘できるからだ。しかし「傍若無人」という語の説明の例示に、若者、アベック、高校生が登場して会社員や中年女性が登場しないその偏見は、あえてことあげしないかぎり誰も気づかないおそれがある。

だからこそわざわざその部分だけを取り上げて批判する意味があるのだ。「僕のように思う新聞の読者が多くない」からこそ、僕が批判する意味があるのだ。興膳氏ほどの社会的地位のある人物が、自分の注意の行き届いた部分でうっかり自分の偏見を露呈させるほど無防備だとは考えにくい。それだけに、例示というあまり重要でない部分にこそ偏見が現れやすくなる。それだけの社会的地位があるなら、自分の言葉が印刷物として定着され、何百万人という日本経済新聞の読者に読まれることを自覚すべきなのだ。

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インフルエンザ闘病記

■「予想以上に苛烈だった」インフルエンザ闘病記を簡潔に。

02/02(月曜日)会社から帰宅、夕食後急に喉がいがらっぽくなり、僕にとって典型的な風邪のひき始めと判断。早めに治療すべく飲み残しの抗生物質を服用(多剤耐性ウイルスを作り出すことになるので抗生物質の濫用はお勧めできない行為)。しかし効果虚しく夜中のうちに体温が摂氏38.6度に達し、高熱に輾転反側した挙句、明け方、タンスをあさって一年以上前に飲み残した頓服解熱剤を探し出し、副作用を心配しながらも背に腹はかえられず、服用。無理やり熱を下げて数時間安眠。

翌朝02/03(火曜日)、解熱剤の効いているうちに近所の開業医にかかったところ、普通の風邪だろうから費用をかけてインフルエンザ検査する必要なしとの診断、普通の風邪薬を処方される。昼食から服用し始めるも、熱はまったく下がらず前日と同じ眠れぬ夜。一時間おきに全身汗ぐっしょりで目覚める。体温は摂氏39.5度近くまで上がり、明け方、まだ残りがあったはずとタンスをあさり、昨日と同じ解熱剤を奇跡的に4錠で発掘。昨日の実績があったので安心して1錠服用し、ようやく寝付く。この開業医まったく当てにならぬと、その飲み残しの解熱剤を一年以上前に処方した入院施設付きキリスト教系中規模病院へ

翌02/04(水曜日)朝一番で出かけたところ、即座に「インフルエンザの検査をします」と一方的に宣言され、結果は見事陽性。「昨日は8人検査したうち6人が陽性、ものすごく流行ってますね」とは担当医の談、「明日は休んでください。必ず周りに感染しますから」と自宅待機の命令まで受け、今度は抗インフルエンザ薬、せき止め・痰出し薬3種類(うち1種は昔懐かしい甘味シロップタイプだが、処方量を服用すると頭がふらつくほど強力)、頓服の解熱剤、トローチを処方される。

処方通り服用し始めるがその夜も体温は摂氏39度台から下がらず、やはり一時間ごとに全身汗で目覚めることの繰り返し。関節痛や皮膚表面の過敏もあり、寝ているだけで背中に痛痒い不快感。5時間おきに頓服の解熱剤を服用してようやく熱が38度台に抑えられる程度。高温が続くため鼓動も早鐘のまま、心臓に相当負担がかかっており、そう思うせいか左胸が差し込む鈍痛までしてくる。本当に回復しているのか疑心暗鬼。

02/05(木曜日)は強力な薬のせいもあり、一日布団の中で半ば睡眠、半ば覚醒の状態。これで三日連続の文化放送『吉田照美のやる気MANMAN!』。学生時代はよく聴いたが、まだ続いているのは驚異。それを言うなら『道上洋三』の方が驚異的か。熱は38度台後半からまったく下がらず、せき・鼻水はほとんど無し。

翌02/06(金曜日)の朝、妙に体が軽くなっており、反対にせき・鼻水が出始める。体温は37度台まで下がっている。鼻水は膿に近い黄緑の色合い。これだけせきが出るのでは確かに「周りに感染」する。頓服は38.6度以上の場合だけなので控えたところ、日中には体温が38度台前半に逆戻り。4日間も闘ってまだ決着がつかないのかとうんざりし、その夜もやはり一時間おきに全身汗で目覚めるだけでなく、今度は妙に現実的なストーリが気を滅入らせる夢を何度も見た。

翌02/07(土曜日)の朝、さらに体は軽くなり体温も37度台前半を示し始める。代わってせきと膿のような鼻水が激しくなり、いよいよ最後の追い込み。するとその夕、嘘のように体がす~っと軽くなっていったかと思うと、体温がほぼ平熱まで下がっているではないか。同時に抗インフルエンザ薬の最後の1カプセルを服用。医者は4日の闘病期間を正確に予期していたのだ。もうインフルエンザはごめんだ。今年の年末は必ずワクチンの注射を受けることにしたい。

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2004/02/01

「変化しないこと=悪」という短絡

■昨日のエッセーにまとめたように、成果主義システムはあまりに多くの欠陥があるため、いかなる組織においてもその導入は正当化できない。多くの日本企業の人事担当者がこのシステムに違和感を抱いているにもかかわらず、日本企業が次々と、トヨタ自動車までもが、この欠陥だらけのシステムを導入しているのは一体どうしてなのだろうか。

おそらく日本人は同じところにとどまっていることが、無条件に悪だという風に洗脳されてしまっているのだ。とにかく変化しさえすればいいのであって、その変化の内容はどうでもいいかのように。まるで変化せずにとどまっていることが禁止されているかのように。まるで変化することが絶対命令であるかのように。

いったいその命令はどこから来たのだろうか。誰が変化せよと命じているのだろうか。なぜ変化する必要があることの理由を詳細に分析しないまま、変化しなければならないのだろうか。変化しなければいけないと言うとき、どれくらい長く、深く、過去の状況について考えただろうか。

もし十分に考えていなければ、間違った選択をするのはある意味あたりまえではないのか。変化を決断する以前に、変化する必要が本当にあるのかどうかを自分自身に問い直す必要がある。変化が常に正しい方法でないことは自明だ。深く考えずに変化に飛びつくのは、僕らが怠惰な証拠だ

As I summarized in yesterday's essay, the performance-based salary system has too many defects to justify its introduction into any organization. I wonder why more and more Japanese companies, even Toyota, introduce this defective system even though many Japanese emloyees in charge of human resource management feel uncomfortable for it. Maybe Japanese are brainwashed to believe that remaining the same is indisputably a bad thing. That is as if we have only to change, whatever change it might be. As if it were prohibited to stay unchanged. As if it were an absolut order to change. Where does the order come from? Who orders us to change? Why do we have to change without a detailed analysis of the reasons why we have to change? When you say that we have to change, how long and how far did you analyze your status in the past? If you don't have a basis strong enough, it will be inevitable for you to take a wrong alternative, such as performance-based salary system. We have to ask ourselves whether or not we really have to change at all before deciding to change. It is self-evident that change is not always a right way. It is our laziness to jump at change without thinking deeply.

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日経新聞興膳宏氏コラムの偏見

■今日の日本経済新聞朝刊文化面に京都国立博物館長・興膳宏(こうぜんひろし)という人物が次のような文章を書いている。

「電車の中は、さながら不作法のデパートだ。シルバーシートにふんぞり返る若者、大きな荷物をそばに置いて二人分の座席を占拠している人、これらはいわば古典的な不作法である。最近では、それに加えてアベックのいちゃつき、ドアの前に立ったまま(時には座りこんだまま)動こうとしない高校生、携帯電話であたりかまわず話す人」。

ここから人を示す言葉だけを抜き出してみると、興膳宏氏の見方がかなり偏っていることが分かる。「若者」「人」「アベック」「高校生」「人」、年齢層が特定できる表現はすべて若者を意味しており、「人」と表現されている部分では年齢が分からなくなっている。

しかし電車の中で「不作法」な行動に及ぶ人間で、数の上で圧倒的に多いのは中高年層の会社員である。携帯電話の利用(僕は個人的に電車の中で携帯電話を使うのが不作法だとはまったく思わないが、この興膳宏という人物の定義を採用すればの話である)も、周囲に迷惑のかかる音声通話は圧倒的に中高年の会社員だし、座席に大股を広げてふんぞりかえっているのもほとんどが中高年の会社員、夜遅い電車で大声を上げて騒ぐ酔っ払いもほとんどが中高年の会社員、混雑した車内で通路のど真ん中に立ちふさがっているのもほとんどが中高年の会社員、満員電車の中で人の移動を意地になって妨害するのも体格のでかい中年の会社員、猥雑なスポーツ新聞を全開にして読みふけるのも中高年の会社員、朝の通勤電車で大いびきをかいているのも中高年の会社員、朝っぱらからニンニクやポマードの異様な臭気を醸し出しているのも中高年の会社員、そして、興膳宏氏も含め、そうした自分の醜く不作法な姿にまったく自覚がないのも中高年の皆さんなのである。

昭和57年から京都大学文学部教授をつとめ、平成10年には文学部長、平成12年には名誉教授、平成13年には独立行政法人国立博物館理事に就任した人物が、自分の年代の大人たちの「不作法」を棚にあげて、「若者」や「高校生」や若い「アベック」にこれほどまでに不寛容であるのだから、日本の若者が将来を悲観するのも当たり前である。興膳宏氏は全国紙にこのような若者に対する偏見にあふれた記事を書くことを恥じるがよい。

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