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2004年1月の記事

2004/01/29

McDonald USA's Ignorance

■Since McDonald's in Japan was owned by the American parent company, they have ignored how McDonald's has been loved by Japanese consumers since its first appearance in Ginza in 70's. For Japanese people, McDonald's was the symbol of Westernized dietary culture. McDonald's was not just a place to eat effectively and efficiently but a place to enjoy an "American style" family life. This "American style" is not a real American life but pseudo-American style invented by Japanese management. We don't need the real American life. We just wanted to enjoy the virtual American life. Now the American management completely destroys this cultural aspect and wrongly focuses on the efficiency. For example, now they open the shops in the suburbs earlier in the morning. This means they don't know who are their customers. Their main customers in the suburbs are the families with the children younger than elementary school pupils because Japanese high school students tend to choose other burger shops. Another example, now I sometimes observe the stock-out. This means they don't know the difference of logistics between the US and Japan. In addition, they stop their own broadcasting services. Before the buyout, their shops had a large LDC screen in which the original television programs are broadcasted endlessly. Of course, no customer watched carefully this "Mac Vision". But it surely produced a comfortable atmosphere as if we watch TV at home. Now they stop "Mac Vision" and only the cheap background music is flowing out from the loudspeakers. I can understand the American management can save money by doing this. But we can't feel at home any more in McDonald's shops. Just looking at a few changes that happened recently, we can clearly understand the new American management of McDonald's never knows their Japanese customers while they focus on their stakeholders. I can predict they are losing their Japanese customers year by year. Other burger shops, such as Lotteria, Mos Burger, First Kitchen, will take their place. The American management in Japanese companies tends to be too self-confident, too impatient and not able to adapt themselves to Japanese context.

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2004/01/27

部下の自発性はオーナーシップから生まれる

■上司による進捗管理なしで、部下が自発的に仕事を進めるのは、部下がその仕事にオーナーシップ(自分のものだという感覚)を感じている場合だけだ。

では、オーナーシップはどこから発生するのか。それは、その仕事に対して自分が変化を加えることができた場合だけだ。その仕事に対して自分がまったく変化を加えることができないにもかかわらず、その仕事を自発的に進めよと命令する上司は、部下を感情のない機械だと見なしている。その機械の燃料は、給料である。高橋伸夫の『虚妄の成果主義』を読みながら、そんなことを考えた。

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情報セキュリティのリスクの大きさをどのように評価するかということについて

■情報セキュリティのリスクの大きさをどのように評価するかということについて、ひとつの驚くべき方法があるらしい。リスクによって影響をうける可能性のある人たちに、そのリスクの大きさの感覚を質問する。そして、回答を平均すれば、リスクの大きさが評価できるという見方だ。

なぜこの方法が「驚くべき方法」なのかと言えば、もしこの方法が正しければ、リスクの評価そのものが不要になってしまうからだ。というのは、リスクの大きさの感覚を質問する代わりに、最初から対策の優先順位を質問すれば十分だからだ。わざわざリスクの大きさを質問して、リスクを重要度にしたがって並べて、個別のリスクに対応する対策を書き出して、対策の優先順位をつけるという非効率な方法を採用する必要はまったくない。初めから、対策の優先順位を質問すれば、そこにいたるまでのステップをすべて省略できる。

ところが、こんなセキュリティリスクの評価方法を顧客に提案して実施するコンサルティング・ファームが実在するのだから、困ったものである。

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2004/01/26

高橋伸夫『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』

高橋伸夫『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』(日経BP社)を読んだ。新刊である。すべての日本企業の人事部員が読むべき本。

すべての日本企業は今すぐ成果主義と呼ぶことができるあらゆる種類の人事制度をやめなければ、5年後、「どうしてうちの会社はこんなことになってしまったのだろう」とため息をつきながら5年前のこの本の存在を知って自分の無知を呪うことになるだろう。

この手のタイトルの本にありがちなセンセーショナルな内容では決してなく(一部あまりに軽妙な筆者の文体がそう思わせてしまう箇所もあるにはあるが)、ある程度評価の固まった過去の経営学の理論にもとづいた非常に論理的で緻密な背景を持った内容の本。読者のなかで会社員として働く人も必読。

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2004/01/25

情報セキュリティの世界のいかがわしさ

■今朝、とあるテレビ番組を見ていて、情報セキュリティの世界が非常にいかがわしい理由の一つがわかった。番組の中で毎日新聞の記者が鯉ヘルペスの大発生によって多くの業者が廃業に追い込まれたニュースをについて、「いったいどうなれば安全なのかという規準をはっきりさせなければ、どこまでいっても問題はおさまらない」と話したのだ。鯉の肉について安全基準を明確にすれば本当にこの問題が解決するのかどうかは別として、情報セキュリティの世界のいかがわしさはここにヒントがありそうだ。

情報セキュリティ対策を商品にしている企業は、情報セキュリティがいかに危ないかについては語るのに、どうなれば安全かについてはあまり語りたがらない。これには二つの理由があって、一つは、どうなれば安全かを明確にしてしまうと、そこで彼らの商売が終わってしまうから。

もう一つは、どうなれば安全かなどということは定義上明確にできないから。情報セキュリティ上の被害というのは、まだ起こっていなくて、これから起こる可能性のあることである。したがってここまでの被害を想定していれば大丈夫だと言いきれる範囲は、定義上、明確にすることが不可能なのだ。だからこそほどほどのところ(例えば「ベストプラクティス」と呼ばれる、まあこれだけやっておけば大丈夫でしょうという水準)で手を打つか、あるいは、限りなくふくらんでいく想像上の被害に、限りなく対策を講じ続けて、限りなく経営資源を投下していくか、どちらかの選択肢しかない。

うちの会社には他の会社にはない情報セキュリティ上の被害の可能性があると信じ込んで、後者の際限ない道を選択してしまった企業は不幸だ。情報セキュリティ対策を商売にするコンサルティング会社の食い物になってしまうことになるのだから。

When I was watching a TV program this morning, I have come up with one of the reasons why information security is so esoteric, mystic and far from rational thinking. Regarding the strange disease which recently enforced most of the Japanese carp farmers to give up their business (for Japanese the carp meat is expensive and special dish eaten only in limited celebratory occasions), one commentator said that it is important to clarify the definition of safety of carp meat. I'm not sure how to ensure the safety of carp meat, but we can say the same thing about information security. We should talk not only about the insecurity threats but also about the definition of what kind of status can be said secure. The information security threats are what don't happen yet but what might happen in the future. So we can't say by definition, "As long as these threats are considered, we are secure" because a new threat can happen at anytime. We can't limit the scope of threats we must cope with in order to realize the security. All we can do is one of the followin two options. The first option is just to implement the generally accepted information security measures. The other option is to think about threat as many as possible by fully using your creativity and imagination and to widen the scope endlessly. Of course, if your company takes the latter option, it will be pretty favorable for the information security audit vendors because they can squeeze as much money as they like from your company. But if your company takes the first option, i.e. "just implement the generally accepted security measures without conducting any audit", the vendors will feel sad.

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武蔵大学でドイツ語検定2級の口答試験

■今日は東京都練馬区の江古田にある武蔵大学というところでドイツ語検定2級の口答試験を受けてきた。一次の筆記試験では聴き取りテストがほとんど零点だったにもかかわらず合格で、こんなことでいいのかと思いながらの二次の口答試験だったのだが、事前に書店で過去問題集を立ち読みして得ていた情報のとおり、5分程度の短い面接だった。

試験官はドイツ人一人と日本人一人、面接はもっぱらドイツ人試験官が行い、日本人試験官は横でその様子をみながら採点するというしくみ。ドイツ人の女性試験官は遠慮せず早口で質問を矢継ぎ早にくりだし、日本人の男性試験官は僕のドイツ語を厳しい表情で聞いている。

数年前受験したフランス語検定2級の同じような内容水準の面接試験と比べると、かなり心理的圧迫感があったのはこちらのドイツ語がフランス語に比べておそまつなせいか。問答の内容はだいたい以下のとおり。

「お名前は?」
「○×です」
「会社員ですか学生ですか」
「会社で働いています」
「どんな仕事ですか」
「IT部門に属しています」
「仕事の内容が分からないので、具体的に説明してもらえますか」
「情報処理の仕事です。たとえば最近は社内のデータ機密の企画をやっています(後で考えるとこの部分は意味が通じない)」
「大学のときにドイツ語を勉強していましたか」
「はい」
「いまドイツ語はどこで勉強していますか」
「どこで?」
「仕事と並行して勉強しているのですか」
「はい、仕事と並行してです」
「どうやってですか」
「ひとりでです」
「本を読んだりテレビを見たり?」
「ええ、本を読んだりテレビを見たり(このあたりほとんど試験官のドイツ語を繰り返しているだけだった)」
「趣味はありますか」
「本を読むのが好きです」
「どんな本ですか」
「日本の現代小説です」
「好きな作家は誰ですか」
「最近は小島信夫や藤枝静男です。あまり有名ではありませんが」
「なぜ好きなんですか」
「私小説で、哲学的だからです」
「健康のために何かしていますか」
「特に何も」
「スポーツとか、食べ物とか」
「良い食べ物を食べようと試みています(このドイツ語も果たして意味が通じていたのか)」
「旅行するのは好きですか」
「いいえ、好きではありません」
「音楽を聞くのは好きですか」
「はい」
「どんな音楽が好きですか」
「ポピュラーです(ここでpopulärと言わずに英語風にpopularと発音してしまった)」
「映画は好きですか」
「はい」
「どんな映画が好きですか」
「フランス映画です」
「どうしてですか」
「大学のときにフランス語も勉強していて、高校生のときフランス映画が好きだったからです」。

だいたいこんなところだ。面接中に4、5回、Wie, bitte?を繰り返してしまった。さあこの程度のドイツ語会話力で2級に合格するかどうか、報告は後日。乞うご期待。

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2004/01/24

藤枝静男『悲しいだけ 欣求浄土』

藤枝静男『悲しいだけ 欣求浄土』(講談社文芸文庫)を読んだ。すべて読んだわけではなく、収録作品のうちの『欣求浄土』『厭離穢土』『一家団欒』『悲しいだけ』だが、これらの作品を読むだけでも『田紳有楽』につながる主題がすでに現れており、やはり『田紳有楽』が一種の私小説であることが納得できる。

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2004/01/20

理性による介入は常に問題を解決するか?

■会社の組織の中で起こっていることのすべてを人間の意思の力でなんとかしようという欧米人の発想は、傍で見ていて涙ぐましく感じられる。

独立した意思を持った人間がたった数十人が集まっただけでも、人と人との間の相互作用が、表にあらわれるものも無言のかけひきも含めてどれだけ複雑になるかは、ゲーム理論などを援用するまでもなく想像もつかないほどなのだ。そのように組織の中で時々刻々と変化する人間どうしの相互作用を、一人の人間が介入して秩序だったものにしようとして成功するのは、ごく限られた場合だけであることはいうまでもない。

まして日本人と欧米人という、大きく異なった文化的背景をもつ社員が混在しているのだから、人間の介入によって組織内ではたらく力関係や考え方を変化させるのはきわめて難しい。ところが欧米人は、社員一人ひとりに定義されている役割と責任にしたがって、一人の担当者が、たとえばある規則を決めれば、他のすべての社員がいつかは必ずそれにしたがうようになると考えているのだ。

そして思ったように事が進まなければ、根気よくその規則の有効性を説得するというふうにして介入すれば、組織は最後には秩序立ったものになると考えている。人間の主体的な意思によって組織に影響を与えることができるという彼ら欧米人の信念は、日本人から見ると、あまりに素朴すぎる考え方だ。エゴサントリスムというのか、啓蒙主義というのか、主知主義というのか、呼び方はどうでもいいが、とにかく個人というものをあまりに信頼しすぎているのだ。

おそらくほとんどの日本人は、場合によっては組織の相互作用をそのままにしておいて自然のなりゆきにまかせた方がうまくいう場合もあるということを知っている。欧米人は、なりゆきにまかせることを無責任だと考えるようだ。

その証拠のひとつとして、先日とあるセミナーで欧米人の講師がコミュニケーションという主題について次のようなことを話していた。「コミュニケーションをしないということは不可能である。なぜなら、何も言わないことも何かを伝えることになってしまうから。だから言うことがなくても、何かを言うようにしよう」。

日本人だとぜったいこういう結論にはならず、「何も言わない方がいいときもある」となるだろう。自然にまかせるというのは別に無責任なことではなくて、少し前に流行った「複雑系」ではないけれども、一人の人間が意識的にコントロールできる範囲というのは限られていて、個人の能力の限界を知っているということなのだ。

ところが一般の欧米人はいまだにカント以前の時代を生きていて、一人の人間の理性の能力が無限だとでも考えているらしく、どこまでいっても理性的な判断にもとづく介入によってものごとを良くできると信じている。この素朴さは微笑ましくもあるし、涙が出そうでもある。この人たちはまだ合理主義の時代に生きているのだな、という具合に。

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2004/01/19

楽観的な人々はリスクマネジメントに不向き

■楽観的な人々は、会社員の心の健康と、リスク・マネジメントの問題には手を出さない方がいいのではないか。先日読んだ斎藤環の本に、米国と日本では病気と正常の境界が異なるということが書いてあった。米国ではふつうの人でも日本では躁病と診断されるおそれがあるし、日本ではふつうの人でも米国ではうつ病と診断されるおそれがある。

これは欧米人と日本人が混在する職場では深刻な問題になりうる。陽気な欧米人上司が日本人部下に対してふつうに接しているつもりでも、すこし内気な日本人部下は明るすぎる欧米人上司のために、精神的に疲れ果てることがじゅうぶん考えられるし、欧米人上司がたんなる議論のつもりで意見していても、言われた日本人部下の側はいじめやパワーハラスメントと解釈するおそれがある。

また、リスク・マネジメントについて、楽天的で陽気な欧米人が日本の経営環境でバランスのとれたリスク感覚を持つことはとても難しいと思われる。彼らは東海地震や、東京都心でイスラム過激派のテロが起こる可能性に過敏であるわりには、高速道路を猛スピードで飛ばして平気である。まるで高速道路で死ぬ確率よりも、地震で死ぬ確率の方が高いとでもいうように行動しているが、日本人からするとリスク感覚が完全にズレている。

他の例をあげれば、業績の悪い企業は、外部からネットワーク経由で侵入されて情報を盗まれることよりも、内部の人間が少ない給与を補うために意図的に機密情報を売りわたすことを心配すべきである。外部の犯罪者にとって業績の悪い企業はそれほど魅力がなく、自ら危険を冒す価値もないから、内部の人間がすすんで情報を売りわたしてくれるまで待てばよい。

欧米人はマスメディアによって日常的に脅されているせいか、外部からの脅威にばかり敏感なようだ。テロにしても地震にしても外部からの不意打ちだが、そうしたリスクには敏感なわりに、自分が毎日運転している自動車という「内部」のリスクにはおそろしく鈍感だ。同じように情報セキュリティに関するリスクについても、外部からの攻撃や侵入、そして内部の人間によるあからさまな違法行為などに対してはおそろしく敏感なくせに、内部の人間が隠れて働く背信的な行為については鈍感だ。

心の問題に対する鈍感さと、リスクについての不均衡な感覚は、どちらも楽天的でポジティブな精神性が原因と思われる。楽天的でポジティブな人間は、人格としてバランスを欠いているのだ。

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2004/01/18

金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』

金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』(朝日文庫)を読んだ。

よくもまあこれだけのとりめのない会話と毒舌が一つの小説になるものだと思うが、会話文と地の文が区別なくつづく息の長い一文という作者持ち前のスタイルによって、それらの会話も含めた世界に対する語り手の距離感がたもたれ、これらの毒舌の下品さを緩和しているのかもしれない。

ある種の人間たちに対する語り手の軽蔑はときに露骨すぎるほどだが、彼らに直接語られることはなく語り手の内部で反響するだけであることによって、語り手が最低限の社会的な倫理といったものを実行しようとしているとでも作者は書きたいのだろうか。

もちろん作者はそういった倫理を肯定しているのでも否定してるのでもないと言い張るのだろうが、語り手がそれらの人々に直接自分の軽蔑をぶちまけることを書かないことをなぜ選択しているのかについて、この小説のなかのどこかに説明されているということなのか。

小説そのものとしては楽しく読め、僕自身もあの種の人間たちに対する軽蔑には事欠かないわけだが、そうした小説をあとがきで自画自賛してしまう金井美恵子には少々吐き気を催したということを付け加えざるをえない。ちなみに金井美恵子の小説を読むのは学生時代に『愛の生活』を読んで以来だと思う。

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サラリーマン社会では常に既に異邦人の僕

■たびたび読者の方々から頂く感想のメールに、かえって自分自身がぎょっとさせられるということがあるのだが、最近頂いたものに「サラリーマン社会」の中にあって自分の考えを貫いて生きる僕にある種の痛々しさを感じるということが書いてあった。

僕としてあえて訂正させて頂くと、僕はサラリーマン社会の大勢をしめる考えに対抗して自分の考えを貫いているのではない。はじめからすでに僕の考え方がサラリーマン社会になじまないものだっただけであり、ともに働く人たちを客観的な目で見つめているのも、サラリーマン社会に馴染むまいとする強い意志からきているのではなく、はじめからすでにともに働く人たちを客観的な目で見るより他の見方ができなかっただけなのだ。

異邦人になるべく努力しているわけではなく、はじめからすでに異邦人だったのであり、異邦人になるまいとすればするほど、自分の異質さを意識せざるをえないという一種の循環に陥ってしまっているだけなのだ。いちど疑ってしまったものは、二度と疑う前の素朴な信念の状態にさかのぼることなどできない。

残されている唯一の方法は、疑っている自分を疑い、そこから疑っていた対象の妥当性をいくらか救うことだけなのだが、自分を疑うことでかえって疑うという操作の適切さがいっそう強く根拠づけられてしまうのだ。疑うことが唯一の方法である、という具合に。

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2004/01/16

ウォルマート支配下の西友不買運動のすすめ

■社会運動に縁のない方々も、西友の不買運動でもひとつやってみるというのはどうだろうか。ご存知のように西友は2002/12に米国のウォルマート・ストアーズが筆頭株主になってから、同社から役員を迎えるなど、ウォルマートの経営手法を導入して再建を進めてきた。

しかし「エブリデー・ロー・プライス」など、そもそも米国でしか通用しない手法を日本で無理やり実施したため、業績はまったく良くならなかった。そしてついに今日報道されていたように、社員の25%を上限として希望退職者をつのり、希望者が少なければなんと退職勧告までするのだという。

とんでもない。ウォルマートから乗りこんできた経営陣は自らの経営責任は棚上げで、本国では絶対にやらないようなやり方で、30歳から58歳までの中堅社員をバッサリ切り落とすというわけだ。西友で買物をする人たちと、明治屋や成城石井で買物をする人たちをくらべれば分かるように、ウォルマートに首を切られる社員は、まさに西友で買物をする人たちではないか。

今日から西友で買物をする人たちは、レジにならんでいる間にちょっと考えてみるべきだろう。このスーパーを経営している米国のウォルマートという会社は、自分の夫だったり妻だったり、父親だったり母親だったり、学生時代の友人だったりしたかもしれない人たちを、この不況の世の中で路頭に迷わせようというのだ。ウォルマートに首を切られた元西友社員の家族は、もう西友で買物をすることさえできなくなるかもしれない。もちろん意図的に感傷的な書き方をしているのだが、米国人は米国だけが世界ではないということを、いい加減に認識したらどうだろうか

Even if you have no experience of participating in any demontrations, why don't you stop purchasing things in SEIYU supermarket? As you know, Wal-Mart Stores became the major shareholder of SEIYU in 2002 and dispatched its management to SEIYU. Since then SEIYU was trying to improve its performance by introducing the various strategies of Wal-Mart Stores. But all that Wal-Mart strategies produced was chaos among the store staffs. Wal-Mart Stores completely failed until now because they forced SEIYU to introduce their own measures, such as "Everyday Low Price" which can never be effective in Japan, whose distribution system is widely different from that of the United States. Finally Wal-Mart Stores have decided, as Japanese mass media reported today, to dismiss up to 25% of SEIYU employees. Such a recommended dismissal rarely happens in Japanese companies. The management who came from Wal-Mart Stores to SEIYU plans to dismiss the employees from 30 to 58 years old while they don't take responsibility for their own terrible and self-centered management. Wal-Mart Stores are said never to do the same thing in their home town. The SEIYU employees who will be dismissed by Wal-Mart Stores are just the same middle class as those who do shopping in SEIYU itself. From today, everybody shopping in SEIYU supermarket should deliberate as follows, standing in a queue in front of cash registers. An American company called Wal-Mart Stores, which manages this supermarket, throws away those who could be your husband or wife, father or mother, or one of your old highschool friends and make them homeless. Those who are dismissed by Wal-Mart Stores will never be able to enjoy shopping in SEIYU again. Of course, I intentionally describe things too sentimentally here. By the way, when on earth will the 'stupid' Americans, as Michael Moore called, notice that the United States don't represent the rest of the world?

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2004/01/12

カフカ『変身』をドイツ語で読む

■ドイツ語の勉強としてカフカ『変身』をドイツ語で最後まで読んでみた。一字一句正確に意味をとりながらではなく、どうしても引っかかる単語だけ意味を調べつつ、原文をそっくりそのままタイピングして書き写すという方法で読んだ。

つまり僕が入力したMS-Word形式の『変身』のドイツ語テキストが僕の手元にあるということだが、グーテンベルク・プロジェクトにすでに『変身』のオンライン・テキストは存在するので、みなさんにはお勧めできない無駄な努力である。しかしキーボードで入力しながらじっくり読んでみると、事務的な文体でありながらもこんなに切ないお話だっただろうかという発見があった。

保坂和志と小島信夫の往復書簡集『小説修業』で保坂和志が「甲虫」に変身した主人公のザムザと書いたところ、小島信夫が『変身』には単に「害虫」とあるだけで「甲虫」とはどこにも書いていないと指摘し、保坂氏も間違いを認めているのだが、じつは『変身』の中にはザムザが変身したものが甲虫であることを示す単語がある。何とかという昆虫の名前が具体的に出てくるのだが、ちょっと今は日本語訳が手元にないので探せない。

ところでカフカ作品を、Amazon.deで取り寄せた独英対訳現代ドイツ語短編小説アンソロジーに収録されている作品と読み比べると、カフカのドイツ語は僕のドイツ語力でも読みやすい部類の、過剰な装飾のない簡潔な文体であることがよくわかる。アンソロジーの作品集の方は1ページ読むだけでも相当骨が折れる。

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2004/01/11

藤枝静男『田紳有楽』

藤枝静男『田紳有楽』(講談社文芸文庫)を読んだ。なんとも読後感想の書きにくい小説だが、主な登場人物が「茶碗」だと書けばその理由の一端は想像してもらえるだろうか。

さまざまな出自をもつ茶碗が交代で一人称で語り、人間へと自在に姿を変えながら、水脈を伝って日本中をかけめぐる小説である。実際にこの小説を読んでいない人には何のことだがさっぱりわからないと思うのだが、小説というスタイルの可能性の広さを痛感させられる作品。

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斎藤環『ひきこもり文化論』

斎藤環『ひきこもり文化論』(紀伊国屋書店)を午後、図書館で借りてきて一日で読んでしまった。2003/12/25に出版されたばかりの新刊を見つけてうれしくなったのと、ひきこもりについてまとまったものを読んだことがなかったのが本書を手に取った理由だ。

ひきこもりと言えばテレビ朝日『ニュースステーション』の解説者が「ひきこもりは贅沢」と発言して物議をかもしたことが記憶に新しいが、逆にひきこもりを擁護する立場からもそうしたイデオロギー的な発言が多いようだ。僕自身もそのどちらにくみするべきなのか判断しかねていたが、本書を読んで、むしろいい加減な判断をするよりもまずひきこもりの良し悪しについてのイデオロギー的な判断を停止し、斎藤環氏のような「啓蒙家」や、ひきこもり当事者の告白などのひきこもりに関する多様な言説に耳を傾けることが大切なのだということを理解した。

はっきりした判断をしないという立場は、この問題に限らずとても微妙で繊細な立場なのだが、メディアに流布する善悪の明確な言説によって偏見を育てることを避けるには、そのような立場をとるしかない。これは先日『白い巨塔』批判で書いたのと同じことである。

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2004/01/06

ニフティーから入会10周年のお祝いメール

■10年といえば@niftyから入会10年を祝うメールが届いていた。当時はまだニフティー・サーブで日商岩井の資本も入っていた。昔からパソコンを趣味でやっていらっしゃる方々はお解かりだろうが、僕が入会した10年前は一般人が気楽に接続できるインターネット接続サービスなど存在せず、文字だけの「パソコン通信」しかなかった。

入会して数年後にようやく、ニフティー・サーブのメールとインターネットメールの送受信ができるようになった。「MXE02332」などのニフティーのIDの代わりに、頭に「INET:」の5文字を付け加えたインターネット・メールアドレスを指定すると、インターネットへそのメールが回送されるというサービスだ。ニフティー・サーブとインターネットというのは、まったく別のネットワークだったのだ。これで理系の学部にいてUNIXワークステーションでインターネットに接続している知人とメールが自由に交換できると、感激したものだった。

基本ソフトがWindows95になってからは、Nifty Managerというニフティー・サーブ専用の通信ソフトを使った。やがてインターネットへの接続サービスが始まり、同時にニフティーの大型コンピュータを間借りして自分のホームページを持てるようになり、料金も従量制から定額制になり、専用ソフトを使わなくてもPOPクライアントでニフティーのメールを読めるようになり、ニフティーの大型コンピュータへのログインはもう不要になり(もっとも今でもニフティーのWebメール・サービスを使えば、大型コンピュータの端末エミュレータの雰囲気を味わえるのだが)、インターネットへの接続もダイヤルアップから常時接続になり、そんな10年だった。そう考えるとこれからの10年間で、いったいどんなことになってしまうのだろうと、それが楽しみだ。

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自明なボトルネックに気付かない職場

■二日前の日記で制約性理論のことを書いたが、どうやら僕の職場で恒常的にボトルネックになっているのは、日本語から英語、英語から日本語への翻訳工程のようだ。日本語のまったくできない少数の外国人と、英語がそれほど得意でない多数の日本人が同居している職場では、どこでも状況は同じだろう。

日本語だけで作成していればその日のうちに完成する資料でも、専門の担当者に翻訳を依頼するだけで半日以上は確実に遅れるし、いい加減な翻訳をしようものなら、相手の誤解をとくために会議が中断したりする。誤解に気づけばまだいいほうで、気づかないまま話が進んで、後になって「どうもヘンだぞ」となり、ようやく翻訳の不備に気づくことさえある。

しかもこの翻訳の工程は、ほとんどすべての社員がからみ、パソコンやコピー機のように、慣れればなんとかなるというものでは決してない。職場で言いたいことを正確に伝えるための英語力を身につけるのは、それほどかんたんなことではないのだ。

そう考えると、このボトルネックを解消することで、この種の職場は劇的に、ほんとうに文字どおり劇的に効率化されるはずなのだが、だれも真剣にそのボトルネックをなくそうとしないのはまったく不思議だ。たとえば、僕は海外生活の経験がなく、話す・聞くはいまひとつだが、読む・書くについては仕事に必要な正確な表現ができるだけの英語力はある。

しかし仕事の波によっては、一日の半分以上をいままでの仕事の整理に使うだけの日もけっこうある。そんな日にあたりを見まわすと、仕事が山積みの翻訳担当者がいたり、英語の資料を読むのに苦心している日本人がたくさんいたりする。

僕のようにあまり目立たない社員が、翻訳工程のボトルネック解消などを提案しても、こんな現場レベルの問題をお偉方がまともに取り合ってくれないことは分かっているし、いつになったらみんなが気づくのか観察していたいので黙っている。僕が「サラリーマン社会」でフィールドワークをするようになって10年近くになるが、こういった実に不思議な現象がときどき観察される。

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2004/01/05

老後の海外生活で身の程知らずのサラリーマン

■以前、無茶なマンション購入のことを書くきっかけになったテレビ東京『大丈夫!?わが家の財産』というとんでも番組で、今日は年金生活を海外で送る夫婦が紹介されていた。

フィリピンのコンドミニアムで、住み込みメイド付き・運転手付きながら月20万円で生活している夫婦だが、実は毎月5万円以上の貯金を取り崩して生活している。例によって夫婦はファイナンシャル・プランナーに指摘されて始めて、あと3年で貯金がなくなることに気づく。すました顔でとりつくろう奥さんの笑顔がはた目に痛々しい。

そもそも組織の寄生虫であるサラリーマンは、生活設計能力など税金を源泉徴収されるようになった瞬間から奪われている。それにサラリーマンなんて、日本の生活でいかに自分が会社や国に助けてもらっているかということに無関心だ。退職後の海外生活でそれに初めて気づいただけでも、海外生活をした価値はあるだろうが、テレビに登場した夫婦はたぶんまだ気づいていないだろう。

そしてその夫婦の家計を改善しようと、ファイナンシャル・プランナーは、簡素な賃貸住宅に住む別の日本人老夫婦を紹介する。この夫婦は食材を地元の市場で買いだめし、メイドも運転手も雇わないという質素だが普通の生活。質素に生活しさえすれば、海外での年金生活も夢ではありませんというのが番組のメッセージだが、とんでもない。

番組の中で紹介されていたように、そもそも日本に比べて物価の安い国は、だいたいインフレ率が高く、政情も不安定だ。日本から送金される年金はインフレのせいで勝手に目減りしていく。しかも、番組に登場した夫婦はどれもまだ60代だからいいようなものの、これから70代、80代になって本当に医者にかかりきりになったとき、健康保険が使えず、医療費は全額本人負担になる。貯金を取り崩しているかどうかなんて、これからのフィリピンのインフレ進行や医療費の全額負担、政情不安や治安悪化のリスクにくらべれは、とるにたりない問題ではないか。

経営者として財産形成してきたのならまだしも、サラリーマンなんていちばんリスクに鈍感な人種なのだから、若くもないのに海外で生活できると思うこと自体がどうかしている。サラリーマンはよく言われるように、会社の中の地位が高くなると、まるで自分がひとかどの人物であるかのような勘違いをしがちで、自分にない能力まであると思い込んでしまう生き物だが、海外で年金生活を送る人々はその典型と言えるだろう。

僕もサラリーマンとしての自戒をこめて、「サラリーマンは身の程を知ろう!」ということだ。ついでに言えばこの番組中では「厚生年金が毎年上がっていく」と解説されていたが、正しくは「厚生年金保険料」だろう。いかにいい加減な番組かがよくわかる。というより、司会がみのもんたという時点で、こんな番組見ちゃいけないのだが、テレビをたれ流しながらドイツ語の勉強をしているもので、ついついネタにしてしまった。

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2004/01/04

制約性理論をホワイトカラーの職場に応用

■お風呂の中でまだ風邪気味のぼんやりした頭で制約性理論のことを思い浮かべていた。皆さんご存知のように制約性理論というのは数年前日本でもベストセラーになった『ザ・ゴール』という小説仕立てのビジネス書で紹介された製造工程の全体最適化についての考え方で、ボトルネックになっている工程の能力を100%活用することだけに集中し、それ以外の工程はフル回転させてはいけないという、ごく当たり前のことを言っている。

これをホワイトカラーの日常業務に当てはめることもできる。あなたが働いている組織の中で、いつもきまってボトルネックになる部署というのがきっとあるはずだ。その部署の仕事が進まないから業務全体がとどこおるという部署である。制約性理論によれば、その部署以外の部署で働いている人は、絶対に人を100%使い切ってはいけないことになる。

もしそんなことをすれば、ボトルネックになっている部署の前に「仕掛品」の山を築いてしまうことになる。ボトルネック部署以外の部署は、絶対に全力投球してはいけないのである。そのボトルネック部署は、いつもきまってボトルネックになる必要さえない。特定の業務、たとえば年度計画の作成業務とか、経理システムの開発業務などの業務ごとに考えたときに、特定の業務についてはかならずボトルネックになるというだけでよい。

そしてあなたの部署がそのボトルネック部署に対してなんらかのアウトプットを提供しているということ。あなたの部署が逆にアウトプットの提供をうけていようがいまいが関係ない。

このような条件がととのっている場合、あなたの部署は絶対に全力投球してはいけない。生産ラインとちがって、ホワイトカラーは残業でいくらでも過負荷に対応できるので、あなたの部署が全力投球しつづけると、ボトルネック部署は本来やる必要のない残業をつねにやらなきゃいけないことになる。

結果として全社員が一生懸命がんばっているようなことになり、とってもよさそうな感じだが、じっさいには組織全体で非効率なことをやっている。もしあなたの部の部長が年頭のあいさつで「今年も全力でかんばりましょう」みたいなことをしゃべったら、制約性理論をつかって反論してみよう。

「部長も『ザ・ゴール』の制約性理論をご存じだと思いますが、ボトルネックでない部署が全力投球すると、かえって全体の効率を悪くしますよね」という具合に。そんなことを風呂につかりながら考えていたのだが、すでに僕の頭の中は正月休みモードから仕事モードに切り替わっているかもしれない。

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フジテレビ、在日ドキュメンタリー映画でひと儲けか

■映画『踊る大捜査線』のヒットに気を良くしたフジテレビが、こんどは在日韓国人のドキュメンタリー映画でひと儲けしようと考えているらしい。マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』の反響から、ドキュメンタリー映画にも一定の需要があると判断したようだ。『白い巨塔』では日本のテレビドラマ初のアウシュビッツ収容所ロケーションといううたい文句で視聴率稼ぎに走ったのに引き続いての暴挙だ。どうしたフジテレビ。金儲けのためなら、もう何でもありか。

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紅白歌合戦で『能登半島』

■一般人なみの常識をもちあわせない僕でも、と、こんなことを書くからいつまでたっても青二才なのだが、青二才という言葉がただちにある小説家のことを思い起こさせるので別の言葉を使ったほうがいいかもしれないが、それはどうでもよいとして、大晦日に紅白歌合戦を観るくらいのことはする。といっても、その時間帯にたまたま紅白歌合戦を観る以外にすることがなかっただけのことだ。

今回の紅白で注目されたのは石川さゆりの『能登半島』を、もう思い出せないくらい久しぶりに本人の歌唱で聴けたことと、生中継で歌った倉木麻衣の声量が大したことなかったこと、舞台に登場する女性歌手や女性ダンサーの露出度が高くてもしかするとNHKは妙なところで視聴率を稼ごうとしているのではないかとハラハラさせられたこと、長渕剛がどう見てもブルース・スプリングスティーンにしか見えなくて困ってしまったこと、それくらいだろうか。

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2004/01/03

藤枝静男『田紳有楽・空気頭』

■講談社文芸文庫の藤枝静男『田紳有楽・空気頭』で『空気頭』だけを読んでみた。「私小説」についての考え方が完全に裏切られる、いってみればぶっ飛んだ「私小説」。妻の病気と闘う日々と、糞尿からの精製物で性欲の昂進を取り戻す日々が並置された「私小説」。僕らがふつうに「私小説」を読んでいるものには何が書かれていないかがよく分かる「私小説」。

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2004/01/02

天王寺公園のカラオケ屋台問題

■天王寺公園のカラオケ屋台がまた違法営業を再開したみたいだけれど、あれは知っていて違法駐車をする運転手や、暴走族の言い分と同じ理屈だ。天王寺公園も道路も公のもので、特定の個人や団体のものではないのだから、誰がどう使ってもかまわないということなんだろう。

つまり彼らは特定の個人や団体が権利を主張しないものは誰でも自由に使えると思い込んでいる。公であるということは、たんに誰のものでもないという否定的な意味だけでなく、すべての人が共有するものだという積極的な意味ももっているんだけれども、彼らの弱い頭には理解できない。

彼らにそれを本当に分からせようと思ったら、たとえばカラオケ屋台のすぐとなりで、大音響でレイブ・パーティーでもやってみたらどうだろう。その騒音で彼らもカラオケどころではなくなるけれど、レイブ・パーティーの主催者に抗議したところで、自分自身を同じ理屈で抗議しなきゃいけないことになる。

結局そうまでしなければ分からないバカには、大阪市が淡々と処分を進めるしかないということになる。違法駐車や暴走族も、警察が淡々と検挙していくしかないのと同じように。ああいう「庶民の味方」気取りのバカ(テレビのニュースに登場していたカラオケ屋台の女店主のことだけど)につけるクスリはないってことだ。

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ドイツ語の電子辞書選び

■ドイツ語の電子辞書はどれがいちばんいいだろうと考えていて、英語の辞書ならどんなものにも入っているのだが、なんといってもドイツ語は英語に比べるとマイナーで、有楽町ビックカメラの店頭をおとずれるまではCASIO XD-R7100しかないものとばかり思っていたが、実はシャープ PW-A8000という製品はSDカードで提供されているいろいろな辞書を追加できると店頭で知り、しかも本体と追加の独語辞書カード(クラウン独和辞典、新コンサイス和独辞典、わがまま歩き旅行会話ドイツ語+英語)をあわせても、さきほどのドイツ語専用のCASIOの製品より安くあがるということが分かったのでこちらを購入した。仏語辞書カードを追加すれば、プチ・ロワイヤル仏和・和仏も携帯できるのだから、僕のように英仏独3か国語の辞書を持ち歩きたい少数派には最適の選択だ。画面も大きくフォントサイズも変更できるので、とても使い勝手がよい。

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保坂和志『この人の閾』『生きる歓び』

■保坂和志『この人の閾』『生きる歓び』を読んだ。それぞれ新潮文庫の同じ本に収録されている他の作品はまだだが。結局冬休みの読書はこの二冊だけになりそうだ。ドイツ語の勉強に時間を取られすぎた。ところで一日を、通勤電車の無用な苛立ちから始める必要がない日々がこれほど心静かだとは。

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