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2003/12/30

ドイツ語字幕付きDVD映画はないか

■今年も残るところあと一日となりましたが、ところで日本でふつうに売っているDVDでドイツ語字幕つきのものがまったくないわけではない。比較的最近制作された『es[エス]』というドイツ映画のDVDにはドイツ語字幕がついているようだ。少し前からこのことは知っていたが、この映画は実際に行われた「監獄実験」と呼ばれる心理学の実験を映画化したもので心理的な恐怖映画らしいので、僕にはぜったいに観られない。心理学に関係しているからフロイトの「es」というタイトルがついているのかもっとふつうのドイツ映画をドイツ語字幕つきで発売してもらえないだろうかと思った。

ただ、ふつうのドイツ映画なんて日本ではぜったい売れないだろうから、こんなヘンな映画しかドイツ語字幕つきで出てこないのは仕方ないか。だったら、フリッツ・ラングの『M』とか、昔のドイツ名作映画を字幕つきで出したらどうだ。いくら映画好きだからって、誰もドイツ語字幕で観たい映画マニアはいないか。

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年の瀬の珍事件、Amazon.comの誤配

■玄関のモニタフォンが鳴ったので受話器をとると、画面には二十代らしき女性が映っており、「郵便です」と告げた。おそらくAmazon.comに注文していた英独対訳のドイツ語短編小説集が届いたのだろうと予想はついたが、それにしても郵政公社は経費節減のために、年賀状の配達だけでなく、ふつうの小包の配達にも学生を、それも女子学生を雇うようになったのかと玄関の扉を開けたら、ダンボールを抱えているのはやはりどう見ても女子大生で、それは安っぽいがセンスのいいモノトーンの服装でわかるのだが、郵便配達ならせめて制服の上着くらいは貸してやったらどうかと思っていたら、手に抱えているダンボールの口がすでに開いている。

「わたしもアマゾンに本を頼んでいたんで知らずに開けたんですけど、よく見たらこちらのあて先になっていて、まちがって配達されたみたいなんですけど、郵便局に連絡するよりもってきたほうが早いと思ってもってきました。かってに開けちゃったんですけど、中身はだいじょうぶですか」。

はぁ、そういうことですか。中身はちゃんと僕の注文したペンギン・ブックスの『PARALLEL TEXT : Deutsche Kurzgeschichten 1』と、ドーヴァー出版社の『Five Great German Short Stories : A Dual-Language Book』が入っている。納品書にはたしかにうちの住所が印刷してある。推測するに、郵政公社の職員は配達先を間違っていなくて、おそらくAmazon.comの倉庫から出荷されるとき、出荷作業をしたアメリカ人には、この女子大生の住所とうちの住所の区別がつかなかったため、ひとつのダンボール箱にまとめてしまい、表面には女子大生の住所を貼り付けてしまったのだろう。

みなさんもAmazon.comに注文した洋書がなかなか届かないときは、わずか一、二日の差で、たまたまあなたの近所に住んでいる人がAmazon.comに本を注文し(本以外の商品なら別の方法で梱包しなければならないので、同じ出荷担当者が一つの箱にまとめてしまう間違いは起こらないだろう)、そちらの住所にまとめて配達されてしまっているという可能性を考えた方がいい。年の瀬に起こった珍事件だった。

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3時間ぶっ通しで独りギター弾き語り

■今日は無性に歌いたくなったので、家でひとりで楽譜を見ながらアコースティック・ギターの弾き語りで3時間ぶっ通しに歌い続けてしまった。たまにこういう日があって、歌い出すと本当に止まらなくなってしまう。使った楽譜が今年のヒット曲集だったので、たまたま最近のヒットばかりになった。それぞれの曲を2、3回ずつ繰り返して歌っているのでこれだけで3時間になってしまう。カラオケに行ったらおそらくもっと気分がのって体力の限界まで歌い続けてしまうだろう。

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2003/12/27

ドイツ語字幕つきDVDをAmazonで購入

■懲りずにAmazon.deからドイツ語字幕つきDVDを3枚取り寄せてみたが、今回は1枚が大成功、1枚がまずまず、残り1枚が失敗だった。

大成功だった1枚はKleine Haieというドイツのコメディ映画(1992年)で、難聴者用のドイツ語字幕が物語の要約ではなく、脚本とぴったり一致している。まずますの1枚は27 Missing Kissesという2000年のグルジア映画(ちなみにグルジアとはトルコの北隣の国、グルジア映画といえばパラジャーノフだな)で、ドイツ語吹き替えと字幕は80%程度一致しているので、まったく勉強にならないということはない。

失敗だったのはヴィム・ヴェンダース監督のAm Ende der Gewalt(『エンド・オブ・バイオレンス』1997年)で、Amazon.deの「このDVDについての技術情報」のページには確かに「字幕:ドイツ語、英語」とも「字幕:なし」とも書いてある。注文するときには「字幕:ドイツ語、英語」の方だけしか見ていなかったので、てっきり字幕があると思って購入したが、実際には「字幕:なし」の方が本当だった。ただヴィム・ベンダースなので英語で楽しむことにする。

結論としては、もともとドイツ語で制作された比較的新しい映画で、難聴者用のドイツ語字幕がついているDVDを購入すれば、PAL形式対応のDVDプレーヤーでドイツ口語の勉強ができるということになる。ドイツ口語の勉強をしている方(いったい日本にどれくらいいるのかわからないが)はご参考にどうぞ。

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2003/12/25

保坂和志の哲学に関する記述の稚拙さ

■保坂和志と小島信夫の往復書簡集『小説修業』を読み終えたのだが、どうも保坂和志の哲学についての論述は素人くさくて読んでいるこちらの方が恥かしくなってくる。哲学についての記述があまりに稚拙なので、この書簡集でも保坂氏のせっかくの小説論が台無しだ。

たとえば、一人の人間が生まれる前にも死んだ後にもこの世界は存在し続けているのだということは、それほど繰り返し力説するようなことだろうか。自分の生まれる前と死ぬ後に世界は存在しない、自分の見ているものがすべてだと信じているような人が、果たして世の中にどれくらいいるだろうか。むしろ自分とは独立して世界は存続していると信じている人のほうが多いのではないか。

保坂氏はこんなことをやっきになって肯定したり否定したりする必要はまったくないのに、どうしてこうも同じことを繰り返し書くのだろう。元会社員としての保坂氏の周囲にあまりに凡庸な人間が多すぎたということだろうか。それとも保坂氏は生まれてから小説を書き始めるまで、いちども自己と世界の問題について考えたことがなかったというのだろうか。

たとえば科学の発展について保坂氏は、宇宙には人間とは別の原理がある、などと書いているが、その原理がどんなものであるにせよ、原理と呼ばれるからには人間が宇宙に勝手に与えたお荷物のようなもので、宇宙がもともと持っていたものではなく、人間の産物ではないか。

なのに保坂氏は宇宙の原理というものが、人間とは独立して存在するなどということをあっさりと書いてしまうのだ。本当に保坂氏のいうように、宇宙をふくめた世界全体が人間のあるなしにかかわらず独立して存在しているなら、宇宙にとってみれば、自分に原理があろうがなかろうがどちらでもいいことで、わざわざ人間が原理といったものを自分の中に発見して、そう名づけてくれるのは、大きなお世話だろう。

逆に人間が宇宙の中に発見する原理に価値があると保坂氏が言いたいのなら、宇宙の存在は人間のあるなしに関係ないとは言えないはずだ。科学や哲学について論じたところでボロを出すだけなので、保坂氏は小説を書くことに専念してほしいものだ。

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『日経ビジネスAssocie』が『白い巨塔』制作者を賞賛

■またやってくれました『日経ビジネスAssocie』。今回はあまりに馬鹿げていて実際に買う気にならなかったが、2004/01/06号でテレビドラマ『白い巨塔』の企画制作を手がけたフジテレビの和田行(40歳)をヒットメーカーだと賞賛する記事を掲載しているようなのだ。

ますます同誌の編集部の知的水準と倫理的水準が分かるというものだが、同誌によればこのフジテレビ編成制作局編成部主任は、”男臭いドラマは流行らない”という常識を覆した”不器用”なヒットメーカーなのだそうだ。たしかにアウシュビッツでのロケをネタに視聴率を稼ごうとするような人道に反することをやって平気なのだから、常識を覆す不器用な男であることに間違いはないだろう。『日経ビジネスAssocie』が自分たちの非倫理性に気づくのに、今日で遅いということはない。

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裸の王様を産みやすい日本企業の残酷さ

■会社というのはつくづく残酷なところだ。会議である人が明らかに矛盾したこと、会社や部門の方針にそぐわないことを発言し、多くの人がそれに気づいているのに、その人の気分を害したくない、その場の雰囲気を悪くしたくない、人間関係を悪くしたくないというさまざまな配慮からその事実を指摘せずに済ませてしまう。

発言をした本人は自分の考え方がおかしいということに気づかないどころか、反対に、その場にいた全員が自分の考え方に賛成してくれてたという勘違いをしたまま会社で仕事をつづけ、ますます自分の考えに自信をもったような言動をエスカレートさせていく。

こうなってしまうと、賞与が減ったり、他の部へ異動させられたりなどといった決定的なかたちで現れるまで、本人はその誤解に気づかない。多くの日本人は組織としての和を乱したくないためにこのような行動をとりがちなので、その中で自分の誤りを、正しいと信じてしまわないためには、つねに自分で自分の言動を疑うように習慣づけるしかないのだ。つまり日本人の組織の中で、勝手な思い込みによるリスクを避けるためにもっとも有効な方法は、自信を持たないこと、つねに自分を疑うことになる。

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2003/12/24

小島信夫・保坂和志往復書簡集『小説修業』

■保坂和志の『カンバセイション・ピース』が『プレーンソング』に比べて理屈っぽいという文句を書いたが、彼と小島信夫の往復書簡集『小説修業』(この題名は通勤電車の中で読んでいると、いかにもいっちょ小説で当てて脱サラしてやろうというあさはかな会社員に誤解されそうなので単純に『保坂和志・小島信夫往復書簡』などニュートラルな題名にして欲しかったのだが)で小島信夫が初期の保坂作品では保坂和志は「身をやつしている」と指摘していることで納得がいった。

保坂和志は初期の小説を意図的に自分が考えているすべての幅で書かずにいたということらしい。それにしてもこの往復書簡集での小島信夫はすごすぎる。高橋源一郎が、小島信夫は書く文章が自動的に小説になってしまうのでぜったいにマネできないと言っていた意味がよくわかる。書簡なのに小説になっているのだから。

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2003/12/22

俗悪な夕刊紙読者のサラリーマンたちへ

■帰宅する電車の中で内容の俗悪な夕刊紙や漫画雑誌をだらしなく広げているサラリーマンを数え切れないほど目にするわけだが、一時間以上かけて通勤している彼らのほとんどが、おそらくは郊外に「わが家」を構えて住宅ローンや教育費などのために働くのと引き換えに、自身の精神的な生活を犠牲にしており、その結果が劣悪な夕刊紙や漫画雑誌にしか向き合えない貧困な精神生活なのだろうが、いったい彼らは何のために生きているのだろか。

こう問えばおそらくすぐに答えは返ってきて「家族のため」ということになるだろうが、もしそういう答えなら、「家族のため」に仕事をしてくれる人なら別にあなたでなくても、他の誰かでもいいのではないかと問い返したい。あなたでなければならない理由がいったいどこにあるのか、と。

僕は非常に不安なのだ。将来この同じ質問を自分自身に問いかけたとき、答えるべき言葉があるかどうか。もしないのだとしたら、今から前もって問いかける必要がある。

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成果主義の負の効果を予測できない経営者たち

■今日も日経新聞に横河電機が成果主義を導入するという記事があった。一方では、ニ、三日前の同じ日経新聞に、新入社員の考え方が年々保守化している、つまり、年功給を望む若者が増えているという、人事担当者の嘆きが紹介されていた。

日本企業の経営者はいつもながら頭をつかわず「右へならえ」で、成果主義、成果主義と、本当にバカとしか言いようがない。若者が保守化しているところへ成果主義を導入したらどういうことになるか、経営者たちは真剣に考えたことがあるのだろうか。

ますます保守化する若者たちは、管理職になって、成果によって評価される部分が大きくなり、そのために給料が大きく上下するくらいなら、あえて出世を避けて「低空安定飛行」を望むに決まっているではないか。理由はかんたん。そのほうが生活設計がやりやすいからだ。

給料はあまり増えないけれど、一定の幅におさまることが予想できれば、じゃあ中古マンションで我慢しておこうとか、子供は作らないことにしようなど、ちゃんと生活防衛ができる。日本企業がつぎつぎ成果主義を導入することで、「低空安定飛行」を望む大量の若者層が、実業界に出現するのだ。

日本企業を経営者するおじさんたちは、日本の将来を担う若者たちのことを、頼りにならないとか、覇気がないとか批判することがあるけれども、若者をますますそんな風に仕向けているのが自分たちだということに気づいていないみたいだ。彼らは若かった頃の自分たちと、いまの若者では、生きている環境がまったく違うということを理解していないし、いまの若者が何を考えて仕事に向き合っているかということも、まったく理解していない。しかも、それらのことを自分たちが理解していないという事実を、理解しようともしない。これだからオジサン連中は救いようがないのだ。

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2003/12/20

ドイツ語検定2級一次試験合格

■この秋、独検2級を受験して筆記試験はおよそ8割だったが聴き取り試験は1問しか正答していなかったのですっかりあきらめていたのだが、一次試験の合格通知が届いていた。「今期合格最低点 56.40点」で僕の得点は66.86点。中途半端な点数になっているのは172点満点を100点満点に換算しているためらしい。

56.40点でも合格するのだから随分甘い判定だが、二次の面接試験はたったの5分間。いったい何を聞かれるのだろうか。名古屋でフランス語検定2級の面接を受験したときは「今朝何時に起きたか」「仕事は何をしているのか」「休日は何をしているか」といった非常に基本的な質問を日本人からフランス語で問われて、最終的にはデリダやドゥルーズの本を読むのが趣味だなどと好きなことをしゃべって合格してしまったのだが、今度はフッサールの『イデーン』をドイツ語で読んだことがありますとかなんとかしゃべって帰ってくることになるのだろうか。

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カタログと違ってドイツ語字幕のないDVD

■ドイツ語の勉強のためにと、欧州のPAL方式が再生できるDVDプレーヤーをインターネットから1万円で購入して、同時にAmazon.deからドイツ語字幕(der Untertitel)つきDVDを取り寄せたはいいが、『Berlin - Ruine 1945 - Metropole 2000』というベルリン戦後史についてのドキュメンタリータイトルは、Amazon.de上の技術情報でドイツ語字幕付きとなっていたにもかかわらず字幕がまったくない。

もう一枚、セサミストリートでお馴染みのマペット、かえるのカーミット君が登場する『Die Muppets-Weihnachtsgeschichte』(邦題『マペットのクリスマス・キャロル』)はたしかにマペットたちが英語とドイツ語と伊語でしゃべって歌い、字幕はドイツ語、英語、仏語、西語、伊語で表示され、しかもドイツ語吹き替えとドイツ語字幕を同時に見られるのだが、字幕の内容としゃべっているドイツ語が違うのだ。

特に歌詞の部分はほとんど一致していない。サビの歌詞くらいは合わせておいて欲しかった。おそらく字幕は耳の不自由な人たちのためで、しゃべっているドイツ語に忠実でなくてもいいのだろうが、これではほとんどドイツ語の勉強にならない。というわけでこの2枚のDVDは無駄になった。懲りずに今度は劇映画のDVDを3枚取り寄せてみたので、その結果はまたここでご報告する。

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2003/12/19

保坂和志『カンバセイション・ピース』

■保坂和志『カンバセイション・ピース』を読み終わった。なんでもない会話の部分は読ませるが、一人称の独白は『プレーンソング』に比べるとずいぶん理屈っぽくなっていて、それも単に理屈っぽいのではなくて、認識論的に理屈っぽくなっていて読みにくかった。

小説は読みにくくあるべきと書いている保坂氏のことだからそれでいいのだろうし、読後感は相変わらずさっぱりすっきりしているので満足だったが、できれば理屈っぽくない文体で延々と書き続けて欲しいというのが読者としての要望だ。

ちなみに埴谷雄高『死霊』はあまりに大仰な文体が下らなすぎて読みさし、古井由吉『杳子』は登場人物の「杳子」の心の病がパニック障害の発作を連想させて読みつづけられなくなり、なぜか今は小島信夫『抱擁家族』を読んでいる。これは面白いし、すごい。

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2003/12/15

Bad Long-term Effests of Process Standardization

■The concept of process standardization itself is good and right. But in the long term, it surely erodes the basic capability and motivation of Japanese salary-men. Most of Japanese employees have no special skill at all when they start working and spend long time in learning the knowledge which depends on the company's context through on-the-job training. The only area they can exercise their creativity is to optimize daily operation processes. It is not expertise or standardized knowledge but context-dependent experience that is necessary for optimizing these processes which have been formed according to the company's restrictions in aspects of human resources and financial resources. If someone succeeded in optimizing and standardizing those processes, the employees are robbed of the only opportunity to exercise their own creativity. This seriously demotivates the employees to follow the standardized processes. If the daily operation processes are standardized by someone, all that the employees can do every day is just to follow the defined processes and fulfill daily obligations. There is no room for process improvement by themselves. Now they are prohibited from improving their own daily processes by themselves. They feel they are denied creativity completely because process optimization is the only element where their own creativity can survive. As a result, they feel they are denied independence. They start depending on someone else's creativity of optimizing processes and stop thinking. This dependency and automatism deprive Japanese employees of the last moment of voluntary Kaizen activities. It is natural that this situation leads to long-term degradation of operational quality. And the declining quality of daily operations inevitably results in the degradation of product quality. Please watch carefully what will happen regarding the quality of products and services of Japanese companies in the long-term. I can forecast with assurance that the products of some Japanese comapnies in which the operations are radically optimized by external factors will be worsening little by little in their quality. In effect we can already see some examples. The product name "QUALIA" explicitly means it puts stress upon "quality". We can easily imagine that after a radical optimization of production processes, this company tries to return to the former manufacturing process, i.e. each assembly-person is encouraged to optimize the manufacturing processes by themselves. But now it is very difficult for the company to go back to the autonomous continuous improvement because the workers are already demotivated by the preceding activities for process standardization. We should think again whether we should graft a Western tree's branch to a Japanese trunk.

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2003/12/14

フジドラマ制作部に『白い巨塔』視聴率の大書

■昨日フジテレビの『めちゃイケ』を観ていたら、ドラマ制作部に『白い巨塔』の毎週の視聴率が大書して貼り出されてある様子が映っていた。やっぱりだ。アウシュビッツは悲しいことに、ドラマ部門を強化したいという日本の一テレビ局の企業戦略の片棒をかつぐことになってしまった。おそらくテレビドラマ初のアウシュビッツ・ロケ敢行という謳い文句で、『白い巨塔』の視聴率はますます上がるだろう。まったくフジテレビは許しがたい。

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成果給の広まりは経営者の見識の無さ

■会社員の賃金の年功色が薄れ、管理職層については年齢給部分がまったくない完全成果給の導入が広まりつつある。しかしそもそも会社員というのは、自営業や企業家ではなく被雇用者として働くことを選択した人たちで、報酬が毎年大きく変動するようなことを期待していなかったわけだ。

報酬がある程度の幅で一定しているということが会社員と呼ばれる人たちが働き続けるための、もっとも基本的な動機付けになっているのだから、成果主義の強化はとくに管理職を、いわばそれぞれの責任範囲で自営業者や企業家として扱うことに他ならない。ひとことで言うと、管理職の擬似経営者化である。

もともと自ら経営者になりたくないから、サラリーマンになっているのに、そういう人たちに擬似経営者になることを強要すれば、どういうことになるかは明らかだ。つまり管理職層から年齢給部分を完全になくすことは、管理職になるなというメッセージになる。

僕は個人的には逆ではないかと思うのだが。管理職はその責任の重さや、会社に対する個人的な犠牲の大きさと引き換えに、一般社員よりも厚遇になっている。管理職になっても一定の年齢給が保障されているからこそ、これまで一般社員は個人の時間を犠牲にしてでも管理職になろうとしたのだ。

しかし管理職の年齢給がゼロになるということは、「そこまでして管理職になりたくないよ」という一般社員を増大させることになる。すでに管理職になっている人は、報酬の多寡よりも、報酬が一定しているということに動機付けを見出してきたのに、それがなくなるとなれば確実に「手を抜く」ようになるだろう。

ところで日本の企業組織で中間管理職が果たす役割の大きさは、野中郁次郎の著作を読むまでもなく明らかである。ところが成果主義が広がるにつれて、これからの日本企業は、自発的に管理職になってやろうという人がどんどん少なくなり、間違いなく必要な人数の中間管理職を確保できなくなる。

すると、少数の経営層が、不釣合いなほど大人数の一般社員をトップダウンで指導するという寡頭体制に移行せざるをえなくなる。日本企業は、一般市民の比較的高い教育水準を前提に、中間層の厚い企業組織を作り上げてきて、それを支えるために年齢給を維持してきたのだが、管理職層の年齢給をゼロにすることは、全般的な教育水準の高さという、日本社会のもつ特性とまったく合わない寡頭体制的な企業組織を作り出すことになってしまうのだ。

成果給の広がりの結果うまれる寡頭体制的な組織は、中間層がもっている知識創造力を確実に埋もれさせてしまう。そうすれば日本企業がもっていた生産性の高さは確実に失われる。おそらく今の日本企業を経営している経営者たちは、そう簡単には変えられない日本社会そのものの特性まで、簡単に変わるもののように勘違いして、じゃんじゃん自分の会社内部の組織構造を変えてしまっている。

彼らはサラリーマン経営者である自分たちの認識の狭さ、つまり、個別の企業経営という観点だけでなく、日本人の中の依然として膨大な中間層の生産性をどうやって維持するかまでを考える広い観点を持てていないことに、まったく気づいていない。だから、サラリーマン経営者もふくめて、仕事のことしか知らない日本のサラリーマンはダメなのだ。

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2003/12/11

アウシュビッツで視聴率を稼ぐフジテレビ

■フジテレビは犯罪的でさえある。開局45周年記念だかなんだか知らないが『白い巨塔』がテレビドラマとして始めてアウシュビッツでロケを行ったということを話題にして視聴率を稼ごうとしているのだから。アウシュビッツを番組宣伝のだしに使うことに、まったく良心の呵責を感じていない様子なのだから、フジテレビの社員は正常な倫理的判断能力を完全に失っていると考えてよい。これまでフジテレビが何をしてきたか、これからフジテレビが何をするか、そういったこと一切と無関係に、アウシュビッツを視聴率稼ぎにつかうという今回の行為だけでフジテレビは十分、人道上の罪を犯したという意味での「犯罪者」である。

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タカ派・小泉首相の仮面はがれる

■日ごとにタカ派・小泉首相の仮面の下の本当の顔が明瞭に見えてきた。自衛隊の視察をし、「マスコミのみなさんも批判ばかりしないで(自衛隊を)激励してやって下さい」と記者に答えているところなどを見ると、いよいよ日本もまともな軍隊をもった独立国家になったかと感慨無量である(念のために付け加えておくともちろんこれは皮肉だ)。

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2003/12/09

保坂和志と橋田脚本の違い

■保坂和志の『カンバセーションピース』を読んでいて、延々と続く登場人物たちのおしゃべりに『渡る世間は鬼ばかり』を思い出した。同じ会話を描きながら、この違いはいったい何なのだろうかと考え始めたら、案外すぐに答えが見つかった。

橋田脚本になぜ多くの日本人が感動するのかといえば、登場人物がつねに他人の言葉を代弁しているからなのではないか。自分では切り出しにくいことを、自分の心情をよく理解している第三者が代わりに伝えてくれる。本心を直接的に言葉にできない慎み深さと、その本心を傍から汲み取ってやる心優しさが橋田脚本の倫理観であり、その「代弁」がいつもタイミングよくなされるわけではなく、逆に多くの場合遅すぎたり、早すぎたりすることによってドラマが生まれる、それが橋田脚本に描かれているドラマを根本のところで規定している構造だ。

しかし根も葉もない言い方をすれば、本人と相手という二人ですむ話に、わざわざ代弁者としての第三者を加え、その第三者が最初の二人のどちらかに直接話せばすむことを、ふたたび四人目の「第三者」を加えて...という構造的な操作を繰り返していけば、コミュニケーションの失敗のバリエーションはいくらでも生成できる。

そこにドラマが生まれるのは、「成功したコミュニケーション」という理想的な状態を、橋田脚本がつねに言外に想定しているからだ。橋田脚本におけるコミュニケーションは、理想にたどりつこうとしながらもつねに失敗するコミュニケーションである。

一方、保坂和志の小説で延々と続く会話は、はじめから成功したコミュニケーションなどというものをまったく前提としていない。そのように成功も失敗もない会話に、そもそも「代弁」というものはありえない。「代弁」とは、本人がなしえなかったコミュニケーションの成功を、第三者が代わりに達成することなので、成功も失敗も問題にならない会話に「代弁」が成り立つ可能性はない。

もしかするとそこに実在するのは会話だけであり、話している主体というものは実在しないのかもしれない。少なくともその実在が保坂和志の会話の中に積極的に描かれることはない。『プレーンソング』の最後の部分で延々とつづく地の文のない会話が、そのことをよく極端な形で示していると考えられる。

そう考えてみると、職場で自分がいかに他人の言葉を「代弁」していることが多いかということを、あらためて気づかされた。僕が職場でつねに他人の言葉を「代弁」しているかのような印象を自分自身に対して抱かざるをえないのは、言うまでもなく職場での仕事について僕は自分自身で言いたいことなどほとんどないからだ。

それも当然である。そもそも職場での仕事そのものが、会社から命令されてやっていることなのだから、他人の望んだことに自分自身の考えを持つなどということは、定義上、不可能である。

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2003/12/08

武富士会長の盗聴関与と日本企業の「連帯責任」制

■武富士の武井元会長が遂に盗聴への関与を認め、引責辞任したという報道があったが、武井氏が送検された直後、経営陣が記者会見での質問に答えて、会長の無実を信じているという主旨の発言をしたという。テレビのあるコメンテータがこれを評して、まったく自浄作用のない組織であると話していた。

それと関連して、たとえば情報セキュリティのようなことに関して、自分の部下が機密情報を漏洩したとしたら、上司である自分は社内の各種規定によって処罰されるべきかそうでないか、ということを考えてみる価値がある。日本人的な価値観には、どうしても連帯責任という考え方が染み付いているので、当然、上司も責任の一端を担って、ある程度の処分を受けることはやむをえないだろうという結論になる。

じっさい先日の日本テレビの視聴率調査でも、武富士の事例とは異なり、会社ぐるみではなかったものの、経営陣にまで処分が及んだ。しかし社内で起こったあらゆる違法行為や、社内規定に抵触する行為について、つねにその上司や、さらにその上司、またそのさらに上司...といった具合に、経営陣までが連鎖的に処分を受けるというのが、本当に社内の不正行為を抑止するという考え方と一貫性があるかといえば、はなはだ疑問だ。

このような連帯責任は、つねに社内での倫理的な均質性を前提としている。部下が不正なことをしたのは、上司がその不正を見逃すに十分な程度に「不正」だったという理屈が背後に隠れている。

しかしこのような考え方は、社員一人ひとりの個人としての責任よりも、組織全体の責任を重視する。というよりも、社員一人ひとりの責任はほとんど無視して、あたかも経営陣の会社経営のしかたそのものに責任があるかのように主張することになる。

しかしこのように個人としての責任がいつのまにか組織としての責任に変換されてしまう瞬間にこそ、組織の中で起こりうるあらゆる不正の「発生」があるのではないだろうか。

そもそも武富士に社内の不正を許さないただしい考え方が存在すれば、社長が送検された後に、ただちに独自の社内調査を行って警察の捜査に協力するという行動を起こせたはずである。個人が組織の中で不正行為を行ったとき、その個人としての責任を、節操もなく上司や経営陣をふくめた連帯責任と混同しないようにする必要があるのではないだろうか。連帯責任を外から見て決して「美しい」などと思ってはいけないのだ。

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2003/12/07

保坂和志を生んだのは古き良き時代の西武帝国

■講談社文庫版のあとがきは保坂和志自身が書いているが、『プレーンソング』のような小説を中里介山の『大菩薩峠』のように書き連ねていけたらいい、などということが書いてあって、単純にすごいと思った。

そして彼が西武百貨店が主催する文化教室の企画のようなことをやっているサラリーマンで、哲学研究家の木田元などを呼んだりしていたということを読んで、「おいしい生活」なんてコピーで一世を風靡していた古きよき時代の西武百貨店があったからこそ保坂和志は生活に困らずに小説の構想をあたためられたのだと考えた。あまり関係ないかもしれないが。

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保坂和志『プレーンソング 草の上の朝食』

■保坂和志の『草の上の朝食』は中公文庫にしか入っていないのだと思っていたら、近所の図書館(この日記に登場する近所の図書館はじっさいには二つあって、大きな図書館と小さな図書館である。大きな図書館の方は、人によっては大きすぎるほど大きな図書館かもしれないが、『イデーン』の日本語訳も蔵書していない図書館はいくら大きくても大きな図書館とは言えない。

ところでここに登場する図書館は小さい方の図書館で、くすんだ色の身なりをした定年退職者が昼寝をしに来るためにあるような図書館だ)に講談社文庫で、しかも『プレーンソング』と『草の上の朝食』の両方が収録されているものがあった。

Amazon.co.jpで調べると在庫切れで、いつもながら検索速度とトップページのリダイレクトが嫌になるほど遅い「bk1」で調べると(というところまで書いて検索ボタンをクリックしたが、ここまで入力してもまだ結果が表示されない)、該当データなしというありさまだった。もう「bk1」は会社をたたんだ方がいいと思う。

しかし読んでしまった『プレーンソング』を、『草の上の朝食』を読むために通勤電車の中を持ち歩くのがおっくうなので結局借りず、かわりに単行本のコーナで、まだ書店に平積みになっている『カンバセーションピース』が誰にも借りられずにあったので、うれしくなってこちらの方を借りた。まだ書店にならんでいる新刊を図書館で借りるのはうれしいものだ。

こんなことを感じる読者がいるから著作家たちと図書館の確執は長引くのだが、今晩の僕の通勤カバンには結果的に講談社文庫版『プレーンソング 草の上の朝食』よりもひとまわり大きな『カンバセーションピース』と、Amazon.co.jpマーケットプレイスで昨日売れていたこれもそうとう分厚い『ゼミナール現代会計学』と、ジョン・グレイ『グローバリズムのという妄想』が入っており、いっぱいにふくらんでしまっている。

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政府のプロパガンダに利用されたイラク犠牲者

■家にいるときはテレビをつけっぱなしにしていることが多いのだが、番組の間にニュースが流れるたびに、イラクで犠牲になった外交官の話題なので、いったいどうしてしまったのだろうとぼんやりした不安におそわれた。しかもニュースに登場するのは彼らの使命感をたたえる言葉がほとんどで、はやくも日本のマスコミは戦争の犠牲者を美化し、自衛官よ、彼らに続け、とばかりのプロパガンダを始めたのではないかと錯覚したためだろう。これが単に僕の錯覚であればよいのだが。

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2003/12/06

徐々に遅くなるNECノートパソコン

■今使っているNECのノートパソコンに買い換えてからそろそろ一年が経とうとしているのだが、このWindows XP Home Editionはだんだんと動作がのろくなってきた。アプリケーションからファイル保存のダイアログを開くと、小さなアイコンの一覧が目に見えるほどゆっくりと「デフォルト」のアイコンからアプリケーション固有のアイコンへとぱらぱら置き換わっていく。ディスクのdefragmentationを実行してもまったく効果がない。仮想メモリ領域が不足するほどブートドライブの残容量が少なくなっているわけでもない。理由はよくわからないが、Windowsは長く使えば使うほど少しずつ老化してくるのだということにしておこう。

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保坂和志『プレーンソング』

■保坂和志『プレーンソング』を読んだ。彼の小説を読むのは初めてなので、デビュー作をまず読もうと考えたのだが、とくに事件らしい事件は起こらず、登場人物の生い立ちなどの背景も説明されず、回想の場面もなく、あえて言えばこの小説全体が語り手の回想なのだが、語り手が語っている時点からいったいどれくらい昔の話なのかについての説明もなく、その頃が現在の語り手にとっていったいどんな意味を持つのかについての説明もなく、誰かが生まれるわけでも死ぬわけでもなく、僕が個人的に考えている「零度」の小説に非常に近いという意味で高橋源一郎が氏の小説に惚れこんでいるのが納得できた。いま一方で読み進めている埴谷雄高『死霊』の息抜きに読んでみたが、まったく対照的といえば対照的な小説だ。

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2003/12/04

昔のサラリーマンの愛社精神は単なる年功序列の産物

■サラリーマンとして生活しているなかで、昔にくらべると最近やけに「モチベーション」という言葉をよく耳にするようになった。おそらくサラリーマン全般のモチベーションが下がってきているからだろう。特にこのような外来語を抵抗なく使える若年層が、サラリーマンとしての仕事に動機づけを見出しづらくなっていることの何よりの証拠だと僕は考えている。

サラリーマンとしての将来を悲観させる材料には事欠かないのだから、当然といえば当然である。それを「モチベーション」としか表現できないのがサラリーマンの世界の欺瞞だ。

別に一人ひとりの動機づけが問題なのではない。無理やり一人ひとりの背中を押したところで、仕事の方へ若者を突き動かすことには結びつかない。問題は一人ひとりの仕事への動機づけではなく、将来を悲観せざるを得ないサラリーマン社会の構造の方なのだから。

一方で年金制度の見直しや年功型賃金の廃止で、人にまつわる固定費や債務を削減しながら、他方で「モチベーション」を問題化するというのは明らかに矛盾しているのだ。給与や年金など、人に金をかけられないのなら、動機づけの低下によって生産性が落ちることは当然の帰結として受け入れなければならない。

高度成長期のサラリーマンが高い「モチベーション」を維持できたのは、何も会社に対する忠誠心が高かったからではない。損得勘定ぬきで会社に貢献しようという「職業倫理」があったからではない。長く勤めればそれだけ給与が上がることが保証されていたからにすぎない。

金で時間を売るサラリーマンは、30年前も今も同じように打算的なのであり、30年前のサラリーマンが高い「職業倫理」を持っていたように見えるのは、単にその当時は未来が経済的にバラ色だったからだけのことだ。30年前の若手サラリーマンが今の若手サラリーマンとくらべて、立派だったわけでも何でもない。

いま企業を経営する立場に立っている30年前の若手サラリーマンは、そのことがわかっていないので、平気で「最近の若者は働く意欲をなくしてしまって嘆かわしい」などということを口にする。自分たちだって未来がバラ色でなかったとしたら、仕事などしなかったに違いないのに。

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サラリーマンの擬似「倫理観」

■先日の日記に書いたように、一般的にサラリーマンは会社に雇われることによって、何が本当の意味で良いことなのか、悪いことなのかという判断を停止している。多くの場合、そのように倫理的判断を停止したことそのものについて自覚がない。

その理由は、本当の意味での倫理的判断を放棄するかわりに、サラリーマンが「倫理観のようなもの」を手に入れるからだ。それは、会社のために自分を犠牲にするという行動で表現される。

一般的なサラリーマンが、長時間の残業や休日出勤、自宅に仕事を持ち帰るなど、会社に対して献身的であったり、自己犠牲的であったりすることにそれほど苦痛をおぼえないどころか、逆に充実や満足さえ感じるのは、それによって自分がある種の職業倫理とでもいったものを実行していると信じているからだ。

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2003/12/01

サラリーマンの仕事が本質的に退屈な理由

■なぜサラリーマンの仕事が僕にとって退屈かと言って、その一つの理由は自分にとって新しいものが何もないからだ。語学を習得すればそれだけ原典で読めるものが多くなり、可能性として世界が広がって豊かになる。哲学書を読めばいままで自分の中に見出すことのできなかった新しい考え方を発見できる。

しかしサラリーマンとして仕事をしていても、新しいものとの出会いがない。新しい人との出会いがあるではないかという意見も聞こえてきそうだが、残念ながらサラリーマンとの出会いから「新しい人」を発見することはほぼ不可能である。

たいていのサラリーマンはサラリーマンという先入観を裏切るほど新しい行動様式も考え方も持ち合わせていない。どこまで行ってもすでに体験したようなことにしか出会わない。それがサラリーマン社会にとって本質的な特徴である。

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ドイツ語学校について読者から情報

■ドイツ語学校について、実際に通学していたことがあるという読者の方から情報を頂き、直接その方にもお礼のメールを差し上げたが、ここでも感謝の意を表しておきたい。その方に紹介いただいたのはハイデルベルクという学校だったので、僕自身は欧日協会ドイツ語ゼミナールの資料を取り寄せてみた。こちらは1学期11回で、1回1.5時間の基礎編1学期が3万円以下(この他に入学金6,000円、テキスト代数千円)とベルリッツと比較にならないほど良心的な金額だった。自分の一生を考えると語学を勉強して成果の出るぎりぎりの年齢だと考えられるので、この機会に必死でドイツ語を詰め込んで、せめてフランス語と同程度のレベルまでには押し上げたいものだと考えている。

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