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2003年11月の記事

2003/11/28

ベルリッツのドイツ語クラスは超高額

■街中の語学教室でドイツ語のレッスンを受けたらいくらほどかかるのだろうと疑問に思ったので、会社帰りに「ベルリッツ」というところへ立ち寄ってみたところ、なんと一回2時間の授業が25,200円(プライベート・クラス)、週一回で一か月10万円にもなりお話にならない、セミプライベートという生徒が最大3名のクラスでも一回1万円近くかかり、渋谷校でしか受講できないばかりか同じレベルの受講希望者が出てこない限り開講されないというのだからやはりお話にならない。おそらく他の語学教室も似たような金額だと思うのだが、英語以外の授業をそもそもサービスとして提供する気があるのだろうか。ちなみにこの金額はドイツ語以外の、まあまあメジャーな外国語(フランス語やイタリア語)でも同じだ。

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2003/11/25

サラリーマンに「倫理」は不要、「順法」で十分

■企業の不祥事が問題化されるようになって以来、「企業倫理」ということがはやり言葉になっている。しかし僕は「倫理」のような重い言葉ではなく、「遵法」という現実的な言葉でじゅうぶんだと考える。

仮に企業が「倫理」を真面目に考え始めたらいったいどんなことが起こるか。自動車メーカの社員は、製品が一台売れるたびに大気汚染がひどくなることを「倫理的に」反省せざるを得なくなり、仕事を続けられなくなる。電機メーカの社員は、原子力発電所に部品を提供して、行き場のない放射性物資を増やすことを「倫理的に」正しいと主張できず、仕事をやめざるを得なくなる。

サラリーマンは自分を雇ってくれている会社の事業について、倫理的な判断を中止することではじめて仕事をつづけられるのだ。すべての社員がつねに「倫理的かどうか」を規準に行動するようにしむけたら、大多数が事業内容そのものに疑問を抱いて、仕事どころではなくなるだろう。

じっさいに「企業倫理」という言葉が指しているのは、とりあえず法律に違反しないようにしましょう、というだけのことで、別に「倫理的に」行動しろ、と言っているわけではない。「企業倫理」という言葉は明らかに大きすぎるのだ。単に「遵法」(コンプライアンス)といえば違法行為を防止するのにじゅうぶんであり、その努力に「倫理」という名をあたえるのはまちがいなく偽善である。

牛肉を偽装するのも、腐敗した牛乳で食中毒を起こすのも、リコールを隠すのも、既存の法律を守りさえすれば防止できる不祥事であって、わざわざ「倫理」を持ち出すことなどまったくない。こんな下らない不祥事の防止に「倫理」という言葉を持ち出すのは、「倫理」に対する冒涜だ。日本の実業界は「倫理」の重さを見くびっているのである。

もっとも日本のサラリーマンや元サラリーマンが「倫理」という言葉を軽く見るのも無理はない。上述のようにサラリーマンは「倫理的」判断を中止することで初めてサラリーマンとして存在できるからである。つまり「倫理的なサラリーマン」というのは、静的にとらえれば自己矛盾の表現なのだ(ただし動的にとらえれば、一人のサラリーマンが、昼間は何の疑問もなく仕事に没頭し、夜になると「倫理的な」問題についての苦悩を日記に書くなどして、二つの極の間をたえず往復することはありうる)。

こんなことを書こうと思ったのは、新幹線の運転手が勤務中に携帯電話で撮影した写真を女友達に送っていたという「不祥事」について、どこかの新聞が「職業倫理」という言葉を使っていたからだ。最近は高い「職業倫理」をもったサラリーマンがいなくなっているとか何とか書いてあったのだが、サラリーマンに職業「倫理」を教育することがそもそも可能だろうかと考えたからだ。

もちろん深く考えずに職業「倫理」を教育してしまうことはできる。しかしそんな研修に効果があるだろうか。効果がなければ企業の場合は、費用がかかるだけやらない方がいいということになる。サラリーマンについて僕らはどのように「倫理」という言葉を使うべきなのだろうか。

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2003/11/23

ドイツ語検定2級1次試験受検

■今日は電車で20分ばかりの私立大学へ独検2級を受験しに出かけた。今春3級に合格したばかりなので無謀といえば無謀だが、独検のWebサイトに早速アップロードされていたPDF形式の解答集で採点すると、お見事(自分でほめるな)筆記試験は約80点で間違いなく合格点。

ところがヒアリングがひどい。たった一問しか正答していないのだ。まったく問題外である。筆記は単語が分からなくても、何度も読めば前後関係で意味を推測できるが、ヒアリングは一度、正確には問題文は二度読まれるので二度聞き逃せばそれでおしまい。もっと耳で聞き分けられる語彙を増やさねば。それにしても大学のキャンパスというのは自分と無関係であっても、何度訪れても落ち着ける空間だ。

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2003/11/19

日本テレビ視聴率不正操作問題の「空気」と「視聴率至上主義」

■日本テレビの視聴率不正操作問題で昨夜NHKラジオのニュースを聞いていたら、調査委員会の報告では「視聴率重視の空気が不正の引き金になった」と指摘されているなんていうことを言っていた。「空気」である。

じっさいに日本テレビのWebサイトに掲載されている「『視聴率操作』に関する調査報告書」を読むと、本当に「視聴率重視の空気」と書いてあるではないか。その部分を引用してみる。

「視聴率により番組制作能力が評価され視聴率に貢献することが人事評価にも必然的に反映されざるを得ない視聴率重視の空気が日本テレビを含む業界に存在していた」。

「視聴率重視の空気」とはいったいどんな「空気」なのだろうか。この調査委員会は山本七平が三十年前に批判した考え方をいまだに援用しているというわけだ。視聴率重視が「空気」だったという報告は、誰の責任でもないという報告であり、報告の体をなしていない。

社内に視聴率重視の考え方がほんとうに存在したなら、誰がその責任をとるべきなのかを特定する必要がある。「日本テレビを含む業界に」という言葉で責任はさらにあいまいにされている。この報告書のいい加減さの責任は、この調査委員会の委員長である江幡修三氏にあることは言うまでもない。

また、委員長代行をつとめている河上和雄氏はテレビでも放送された記者会見で、「他のテレビ局との関係は見つからなかったのか」と質問されて、うっかり「残念ながら、なかった」と口をすべらせていた。ちなみに元東京地検特捜部長の河上和雄氏は、よく日本テレビで顔を拝見するし、日本テレビから『好き嫌いで決めろ』という著書を出版しているようだ。身内による調査が不完全な報告しかできなかったのは、当然といえば当然だろう。日本テレビが批判されるべきはこの点である。

しかし共同通信によれば日本テレビは視聴者からの抗議があいついでいるらいが、こちらについては視聴者の方が批判されるべきである。というのもその抗議の中に「視聴率至上主義を見直すべきだ」という意見があったというのだ。

上述の報告書でも「視聴率至上主義」が問題視されているが、本当にそうだろうか。「視聴率至上主義」を問題視しているということはつまり「テレビ番組にとって視聴率より大切なことがある」ということだ。「視聴率より大切なこと」というのはおそらく番組の「質」のことだろう。

しかし日本テレビに電話や電子メールで抗議した人々もふくめて、一般の視聴者が本当にテレビ番組に「視聴率」よりも「質」を求めているなら、日本テレビを見るのをやめればいいではないか。視聴者が本当にテレビ番組に「視聴率」より「質」を求めていれば、そもそも日本テレビに「視聴率至上主義の空気」など生まれるはずはなかった。

日本テレビの番組の「質」が悪ければ、自動的に視聴率は下がり、良ければ上がったはずで、ディレクターたちは番組の質と視聴率が比例することを経験から学び、みずからすすんで質の良い番組ばかりを作ったはずだからだ。ところが現実にはそうならなかった。なぜだろうか。視聴者が逆に「質」の悪い番組ばかりを見るからだ。こんなに明快な理屈が他にあるだろうか。

だとすれば「視聴率」と「質」が比例しない状況を作り出し、日本テレビの内部に「質」よりも「視聴率」を重視する「空気」を作り出したのは、視聴者以外の誰でもない。それ以前の問題としてテレビ番組の「質が良い」とは、いったいどういうことなのか、そもそもその定義さえはっきりしない。

こういう場合に勇んでテレビ局を批判する「良識派」に限って、番組の「質が良い」のはNHKだなどと権威主義的なことしか言えない。そもそもテレビ番組なんて多くの場合、学校や職場の話題にする程度の存在意義しかないのだから、視聴者が多ければ多いほどその存在意義にかなうことになる。その意味で「視聴率至上主義」は、コンピュータメーカが1台でも多くコンピュータを売ろうとするのと同じくらい企業の営業努力として当然のことであり、それ自体を批判することにまったく意味はない。

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2003/11/18

think or die読者の衆院選出口調査

■一週間が経過したので今回の衆院選についての「think or die出口調査」を締め切った。投票はYahoo!JAPANのeGroupsにある投票機能を使った。二重投票がやりにくい仕組みなのでそこそこ信頼できると思う。

比例区でのじっさいの各政党の得票率と「think or die」出口調査を比較した結果が下のグラフだ。

民主党は倍、自民党は五分の一、公明党はほとんどゼロ、共産党はちょっと多く、社会党はちょっと少ない。think or dieの方に「その他」という区分があるのは、「think or die出口調査」にご協力いただいた読者の中に、比例区を棄権したので小選挙区で投票した候補者の政党名を選択したか、間違って小選挙区で投票した候補者の政党名を選択したか、まだ選挙権がない学生さんが自分ならこの党に投票するだろうという政党が比例区に含まれていないかのいずれかだろう。

ただし注意すべきは、この「出口調査」に参加して頂いたということ自体がある種のふるいになっているという点だ。自民党支持の読者は、「この人がつねづね書いていることからするときっと左翼だ。自分は自民党支持だから出口調査には協力しにくいな」と考えたかもしれない。それにしてもこの出口調査の結果は次のようにまとめられるのではないか。「think or dieの読者は保守と宗教がキライ。だってどっちも独断的だもん」。

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ヘーゲル『小論理学』

■先週ごろから、僕はヘーゲルの弁証法のことをどれくらい理解しているのだろうかと不安になってきて、仕事も手につかなくなってきたので(これはウソ)、インターネットのどこかで英語版の『大論理学』か『小論理学』がないかと探していた。

英語で『大論理学』のことはScience of Logicと言い、『小論理学』は本当は『哲学的諸学のエンチクロベディア』の第一部なのだがLesser LogicShorter Logicと言うらしい。ドイツ語ができればプロジェクト・グーテンベルクのヘーゲルのページで『大論理学』のオンライン版が読めてしまうのだが、涙をのんでWallaceの英訳で『小論理学』を読むことにした(この英訳がMarxists Internet ArchiveというWebサイトの一部分になっているのは、まるで二十一世紀にもなってヘーゲルを読むやつはみんなマルクス主義者だと決めつけられているようで嫌なのだが)。

『小論理学』の序文にはいきなりこんなことが書いてある。「われわれは何も独断的に前提できないし、何も確証できない。他人の確証や前提を受け入れることもできない。それでもわれわれは始まりを作らなければならない。そして始まりは第一義的かつ非派生的なものであり、始まりが前提を作り、あるいはむしろ始まり自身が前提なのだ。まるで始まりを作るのがまったく不可能であるかのように見える」(§1)。

これは哲学が他のさまざまな学問のように、それが対象とするものの実在に安易にのっかかるわけにはいかないという冒頭の記述につづく部分だ。対象さえあやふやな哲学という学問を、僕らはどうやって始めたらいいのか。

これは高橋源一郎が『小説教室』の中でなかなか小説を書き始めないのと似ているかもしれない。ヘーゲルはこんなにすごかったのかと、今さらながらに感動してしまったのだが、学生時代に『小論理学』を岩波文庫の日本語訳で読んだときは冒頭からこんなに感動しなかった気がする。

そもそも僕が『小論理学』という書物の存在を知ったのは、高校時代、日本史の教師が傍線を引きまくりながら読んでボロボロになった自分の岩波文庫版『小論理学』を授業に持ってきたときだから、二十年近くたってもまだ僕は『小論理学』のあたりでウロウロしているわけで、これがうんざりせずにいられることか。

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『現代詩手帖』保坂和志のサラリーマン批判

■『現代詩手帖特集版 高橋源一郎』は予想に違わず通勤電車のすぐれた暇つぶしになているのだが、高橋源一郎と保坂和志の対談に予想に反してサラリーマン批判が登場したのでうれしくなって、ここに引用しておく。高橋源一郎が「意味のない文学的修辞を小説は使うべきではない。

なぜなら、それは一見、文学の味方に見えて、実は敵だからです」と語る直前で、保坂和志が次のように言っている。「ノンフィクションは、フィクションよりもくさいフィクションの手法を使いますよね」。ここで僕がたちまち佐野眞一のうんざりするほど劇的な文体のことを思い出したのは言うまでもない。

「最近ぼくは、ひとりキャンペーンを張ろうと思っているんですけど、日本のビジネスマンって、文学のことを読まなくても平気みたいに思ってて、バカにするじゃない。でも、日常語は小説語とべつだけど、もっとさかのぼってみると日常語を作り出したのは文学なんですよ。ビジネスマンが考えている美意識とか因果関係の作り方とか論理構造っていうのは、さかのぼっていくと全部文学が与えてくれたもので、それがいまのくさいノンフィクションみたいなやり方してるとぜんぜん駄目なのね。一部の『小説性』のある小説があるから、さかのぼって昔の文学も保証される。それをビジネスマンは気がついていない。日本のビジネスマンがいちばん気がついてなくてさ、ほんとに知の最下層階級じゃないかと思うんだけど」。

よくぞ言ってくれました保坂和志。これはまさに僕が以前このページに書いたサラリーマンにおける物語批判だと僕は意を強くしたぞ。プレゼンやるにしても、管理会計の資料を説明するにしても、サラリーマンは何かといえば「ストーリーがない」「よし、そのストーリーで行こう」などとやたら物語にこだわるくせに文学を軽蔑している。それはサラリーマンが文学なんてたかが物語りだとたかをくくっており、司馬遼太郎や佐野眞一や高杉良を読むことで「やっぱりそうじゃないか」と思ってしまうからだ。

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2003/11/17

哲学書を読み進めるコツ

■最近このサイトを読み始めたばかりの大学生という方から感想のメールを頂き、その中でデリダのような哲学書を読み進める上でのコツをご教示くださいと質問を受けたのだが、超いい加減な日曜哲学書読者の僕に回答する資格があるとは到底考えられない。

まして僕は今まで哲学書を読んで「分かった!」と思ったことなど、覚えている限りほとんどない気がする。いくら読んでも分からないからサラリーマンになってもなお哲学書を読み続けているのであって、デリダのように見るからに分かりにくく、読んでみるとやっぱり分かりにくい著作から、ドゥルーズのように一見分かりやすく、読んでみるとさっぱり分からない著作まで、そう簡単に分からないところこそ哲学書の面白さだと言えるので、哲学書を「わかる!」と思いながら読めるようになったら僕の人生はそこでおしまいだとさえ言ってよい。

ただ一つだけ助言できることがあるとすれば、この読者は大学生らしいのだから一人で読んでいずに、同じような読書傾向を持つ友人と読書会をやるとか、何でもよいので哲学書をテキストにした講義にもぐりこむとか、さまざまな手段や機会を利用して複数の人数で同じテキストを読みあうことをやった方がよいと思う。

僕個人の経験で言えば、何よりも学生時代に高橋哲哉センセイのゼミで『暴力と形而上学』を読んだことがデリダを読む上でいちばん役立ったし、研究室の友人たちとドゥルーズの『ベルクソンの哲学』だったかを読書会形式で輪読したのも貴重だった。

しかし今から考えれば個人的にフッサールの『イデーン』を読みながら、分からない箇所を学内で高橋哲哉大センセイをつかまえて直接質問できたなどとは随分贅沢なもので、それだけで半年分の学費だけの値打ちはあったと回想される。郷愁にひたるのはいい加減にして、この読者が複数人で読むことから今後死ぬまで哲学書を読み続ける始まりの始まりに立つことを期待する。

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2003/11/15

なぜ自販機ではなく長蛇の列で定期券を買うのか

■またまたつまらないことだが、JRの定期券を購入するとき、窓口にできた長蛇の列を尻目にものの数分で自販機からスイカ定期券を購入できた。2台あった自販機の前には誰も並んでおらず、自販機の横にはご丁寧にも女性の説明員がずっと立っていたのだが、それでもサラリーマンのみなさんが窓口にこだわる理由が分からなかった。

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新幹線回数券に関する豆知識

■つまらないことだが、先日、京都へ出張したとき大阪まで足を延ばすのに、回数券でとっておいた指定券の新幹線が出発した後、大阪・天王寺駅へ翌日の列車への変更を申し込んだところ、窓口の駅員に「残念ですが指定の列車が出発した後の、指定席券の変更はできません」と断られてしまった。

うかつにも帰りの新幹線代を自費でまかなうはめになったと、かなりへこんだのだが、帰り道の京都駅で回数券から指定券を発行する自動販売機というものを偶然見つけ、ダメもとで回数券を入れてみたところ、追加料金なしで無事、その日の指定券を再発行できた。

あの天王寺駅の若い駅員は、この裏技を知らなかったのか、そもそもこれは裏技ではなかったのか。いずれにせよ出張でよく新幹線を使う方は、覚えておいて損はない。指定の列車が出てしまった後でも、機械なら指定券の再発行ができる。

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人妻モノの官能小説を物色する老紳士

■近所の比較的大きな書店で、職場の西欧人の上司が翻訳版を手に入れて嬉しそうだった村上春樹の『象の消滅』『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』を、文庫版で見つけようと探していたら、70代後半くらい、やせ細って眼鏡をかけ、頭髪はほとんどなく僧侶を思わせる横顔だが、かなり安っぽいジャージ姿の老人男性が、棚から棚をゆっくりと移動しながら、黙々と官能小説を探し回っていた。どうやら人妻ものが好みらしかった。書店で堂々と官能小説を漁る老人を見るのも珍しいので、書いてみた。

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井伏鱒二『黒い雨』

■井伏鱒二『黒い雨』を読み終えた。先日の新橋古本市で100円で買った。庶民の視点から淡々と原爆投下前後の広島を描写する小説。投下から十年を経ても原爆症を発症して死に往く人々がいるが、それでも人生はつづく。死の風景があまりに日常的であることに、かえって恐ろしさを感じることができる。

■図書館で現代詩手帖の高橋源一郎特集号を見つけて迷わず借りた。

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2003/11/14

日記を公開領域に移してからアクセス数増加

■この日記を公開領域に移動してから、いつGoogleの検索で再び引っかかるようになるか、毎日確認していたのだが、予想どおり引っかかるようになってから一日あたりのアクセス数が増加し始めた。検索エンジンでたまたまこの日記がひっかかり、そこから読み始めて下さる読者が多いようだ。

■As you know, recently I'm thinking how we can bridge the difference of working culture between Japanese and Westerners. And I found one missing point. European and American office workers consider themselves as "brain worker". So they behave as intellectualist, putting too much stress upon intellectual aspects of human beings while neglecting physical aspects. But if you watch baseball games and Olympic events, the most important difference between Japanese and Westerners exists in physical aspects. The examples like Ichiro and Matsui in major-league baseball are still exceptional. The physical capacity average of Japanese is much less than that of Westerners. If Japanese can't concentrate intensive and difficult discussion with Westerners for three hours, it is not because Japanese have less intelligence but because we have less physical strength. Westerners neglect the difference of physical capacity by saying, "We are brain workers" while Japanese are exhausted. As long as we neglect physical aspects in office work, Japanese and Westerners will not be able to even start meaningful discussion about how to bridge the cultural difference which is one of intellectual aspects in the working place.

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2003/11/12

衆院選 think or die 読者出口調査中

■いま、Yahoo!JAPAN eGroups上のthink or die会員領域で、「think or die出口調査」をやっている。まだ会員でない方も、トップページから会員専用領域を読むための登録をすれば、この「出口調査」に参加できる(会員登録はこちらから可能)。今回の衆院選でどの政党に投票したか(小選挙区も含めて)。さてさて、このページの読者ということで、実際の比例区の結果とどれくらい差が出るのかが楽しみだ。今後もちょくちょく、こういったアンケート調査を定期的にやっていきたい。何かアンケートのネタを思いついた読者の方は、ぜひ筆者あてにお寄せ頂きたい。

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2003/11/11

続・無茶な住宅ローンを抱える愚かな夫婦

■昨日の日記について読者の方から、「あの夫は『(銀行を)2・3回ってみたけれども、収入の面から審査が通らなかった』と番組中で語っていたのだから、ローンの内容を知らなかったわけではない。だから借りた本人がローンの内容を知らなかったということを根拠に、出演者である夫婦を『愚か』呼ばわりするのは間違っている」というご指摘を頂いた。

しかし収入の半分以上をローン返済に充てる計画を立てることの愚かさに比べれば、ローンの内容を知っていたか知らなかったかなど取るに足りない問題だ。たとえローンの金利構成を知らなかったとしても、それ以前の問題として自分の手取り収入の半分以上がローンの返済にもっていかれる事態を「おかしい」と感じないのは「愚か」としか言いようがない。

さらにあの夫が番組中で「銀行を2、3回ってみた」と言っていたのは、住宅ローンを借りる前ではなく、自分でも借り換えの可能性をさぐってみたが、2、3訪ねたどの銀行からも借り換えを断られた、という文脈だった。番組に出演する前からこの夫婦は自分たちの住宅ローンがとんでもないものであることに気づいており(だからこそ番組出演に応募したのだろう)、少なくとも借り換えによって金利負担を軽減しようという努力はしていたことになる。

しかし夫婦が「何かがおかしい」ということに気づいたのは、返済が苦しくなってきてからであり、独身時代の夫がマンションを購入した時点ではローンの内容について無知だったと推定することに、それほど無理はないと考える。仮に購入時点で問題があることに気づいていれば、自分がそもそも有利な金利への借り換え審査に合格しないことを知っているはずであり、今になって借り換えの努力などしないはずだからだ。

こんな下らない理屈をここにくどくど書くまでもなく、まさに他山の石で、たいした事前調査やローンについてのお勉強もせずに3000万円もの借金などすべきでないという教訓を読み取れればよいと考える。もちろん僕の読者にそんな不用意な人はいないだろうが。

■ついでに言えば、たしかに僕は以前からローンを抱えてまで自分が住むための住宅を購入するのことに対して否定的な意見を書いているが、それは自分の収入に不相応なローンを抱えてまでそうすることに対してであって、住宅を購入することは何が何でも悪いと書いたわけではない。昨日の番組の夫婦(厳密に言えば夫の方)は明らかに収入に不相応なローンを抱えているのであって、僕が自分の意見の一貫性を重視するなら、当然批判されるべき対象である。つまり、僕はマンションを買った人全員を批判したいわけではないので、その点はどうか誤解なされぬよう。

■昨日の番組について僕がもう一つ考えたのは、住宅金融公庫はなぜこんな無分別な人に、1000万円以上の借金を負わせてしまったのかということだ。この夫よりも住宅金融公庫の方が、借金については(おそらく)より多くのことを知っているはずで、もしそういった知識に加えて住宅金融公庫にひとかけらの良心があれば、あえて「あんたみたいな人はこんな巨額な借金をしちゃダメ」という結論を出すべきではなかったか。以前このページでも『日経ビジネス』の記事を引用しながらふれたことだが、これこそ土建業界と官僚の癒着の典型例であって、民間ならまさに7%もの金利でなければ貸せないような人物に、住宅金融公庫は「ゆとり返済」だか何だか知らないが、目先は有利な金利で1000万円以上の借金を負わせ、結局その金はマンションを建てたり売ったりしている企業へ流れていくわけだ。ひとつのたとえとして、無知な消費者を経由して、間接的に建設業者や不動産業者に融資している、とさえ言ってもいいのではないかと考える。

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2003/11/10

無茶な住宅ローンを抱える愚かな夫婦

■あるテレビ番組で住宅ローンに苦しむ愚かな夫婦が紹介されていた。手取り月給24万円の夫は、なぜか独身時代に、審査が通るかどうか一か八かでローンを申込み、月14万円の返済で3210万円のマンションを買うという無謀な行為に及んだ。収入の半分以上を住宅ローンにあて、しかもそのローンが7%の30年間固定金利と、3段階で金利の上がる30年の住宅金融公庫ローンの組み合わせだということを、借りた本人が知らなかったというのだ。

世の中にはかくも愚かな人々が多く存在するのだから、僕は世間についてまだ悲観し足りないと考えざるを得ない。

例えば通勤電車の中で薄汚いスーツを着た白髪のサラリーマンが座席に腰かけて、口に放り込む飴の包み紙をつぎつぎ足元へ捨てて靴の裏で座席の下へ隠しながら、耳掻きで耳をほじくっては耳クソをこれも足元にパラパラと落とすという動作を永遠に繰り返しているのを見たり、別のサラリーマンが混雑しているのに大股広げて座席に腰かけ、さもそれが当然だという風にすました顔で腕を組んでいたり、酒によっているでもないサラリーマンの集団が、生まれてこの方もう一千回以上は耳にしたような世間話をくどくど繰り返していたり、こうした人々の姿を目にし、こんな愚かな人々と生きていかなければならないと思うと暗澹たる気分に落ち込んでしまうのだ。

そういった人たちがいつ何時僕の前に立ちはだかって、理不尽な行為で僕に嫌がらせをしないとも限らない。やはりまだ一般人に対して絶望し足りないかもしれない。ここまで書いて気がついたのだが、これってもしかすると典型的な被害妄想癖の症状かもしれない。やれやれ、いろんなことがもっとどうでもよくなるような、寛容な精神構造に生まれ変われぬものだろうか。自分で自分が嫌になってくる。

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2003/11/08

主力選手を手放すダイエーの愚行

■高橋和巳の『わが解体』はすでに読み終えているのだが(河出文庫では『死者の視野にあるもの』『内ゲバの論理はこえられるか』も収録されているが、さすがに『内ゲバ』はあまりに僕にとって現実感がなくて最後まで読めなかった。樺美智子その他にふれた『死者』の方はまだ読むことはできたが)、もしかすると大学を運営する立場の人々は、あの大学紛争にもかかわらず、というよりも大学紛争がうやむやのうちにい終結してしまったからこそ、自分たちの世界とそれ以外の世界の違いについて考えずに現在まできてしまっているのではないか。

紛争は大学を運営する立場の人々が、外部との多様な意思疎通のやり方を学習する絶好の機会だったかもしれないのだが、その機会は高橋和巳のような特定の個人の苦悩に転じてしまい、大学は無傷のまま、外部に汚染されないまま、純粋なままで終わってしまったのかもしれない。

■昨夜、妙な夢を見た。フランス人だかアメリカ人だかの男性と住宅街を歩きながら、「右とは何か?左とは何か?」ということについて英語で議論する夢だ。随分早足で歩きながらの議論だった。「右」や「左」という言葉をつけて使うことのできる名詞は何か、そこから「右」と「左」ということは何かを考えようと議論していた。その途中で僕はふと思いつき、「『神様』について、『神様の右』や『神様の左』とは言えない。なぜなら『神様』には大きさがないからだ」と話した。そこから、「右」や「左」などの方向が意味を持つのは、有限な大きさをもつものについてだけであることがわかった。夢の中でまでこんな抽象的な議論を、本気でやっている自分にあきれた。

■僕は野球にほとんど興味がないので、このページでも野球にふれることはないのだが、経営の観点から気になることがあったので、ちょっと。ここまで書けばすでにおわかりのとおり、今たいへん話題になっている主力選手の巨人への無償トレードのことだ。

主力選手を無償でトレードするなどということは、野球界ではありえないことのようで、中内正オーナーが純粋に人件費削減のためにいわば「指名解雇」したと解釈されても仕方ない。オーナーは他の選手の反発を招き、事態の収拾に努力しているが、いまのところ相手にされていないという。

ダイエーは先日の中間決算で再建目標を達成できず、福岡三事業と呼ばれるホテル、ドーム球場、球団のうち、ホテルと球場を米国の投資会社に売却することを発表している。逆に言えばダイエーにとって球団は金の卵を産むガチョウだった。しかしその球団の経済的な価値を完全に失わせるような愚行に、中内オーナーは出たということになる。

球団の経営状況を改善するためには、いちばん給料の高い人間を解雇するのが効率がいいのは誰が考えても分かるが、球団の無形資産の価値が何によって、誰のおかげで高められているのかについて、オーナーはまったく理解していなかったことになる。この主力選手がトレードを承諾した背景には、オーナー代行との確執もあったようだが、それでも無償トレードを最終的に決定するのはオーナーである。

これではせっかく手元に残した球団事業というガチョウを、ダイエーがみずから絞めてしまったようなものだ。ダイエー経営陣のおそまつさが、今回の無償トレード問題にはっきりと現れている。...なんていう記事がそのうち日本経済新聞に掲載されるのではないかと予想しているのだが。

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2003/11/06

『フッサールの哲学における発生の問題』

■会員専用領域の「サラリーマンの現象学」で読書報告をはじめた『フッサールの哲学における発生の問題』について、さっそく読者の方々からさまざまなご指摘があったので修正しておいた。それらの電子メールでは必要以上に僕の意図を善意に解釈して頂いているのだが、残念ながら僕には『発生』をまともに読むだけの西洋哲学についての基本的な知識が不足しているということを認めざるを得ない。

それでもフランス語から離れてもう10年近くたった「日曜哲学愛好家」がデリダなどを読むとどんなことになってしまうのかは、デリダを自分の仕事として読んだことのある人から見れば、面白い見世物になるだろうし、デリダなんて読んだこともないという、とくに一般的なサラリーマンがこれを機会に西洋哲学から付け焼刃でない「ロジカル・シンキング」でも学んでやろうかという気になれば、僕にとってそれ以上の喜びはない。

サラリーマンの世界では最近、「グローバリゼーション」や「抜本的な改革」が流行だが、日本人が簡単に西洋人と理解しあえるわけもないし、改革が熱意や「腹を割った話し合い」だけで実現できるものでもない。そうした他者との出会いや自分とは異なるものとの出会いとは、サラリーマンが思うほど楽天的になれるようなものでは決してないということ、そしてそれらの出会いの根本的な困難さのようなことを実感するためには、デリダのようなものを読むのがいちばん足しになると、僕は確信している。

日本人だけでなく欧米人も、他者との出会いについてあまりに楽天的すぎるのだ。それにしてもやはり、読者からのアドバイスを読んでフランス語で読まなきゃいけないかもしれないと考え直し、さっそくamazon.frで注文してしまった。本が届くまで2~3週間かかるようなので、それまでは英語で読み続けざるをえないが。

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2003/11/04

「愛と苦悩の日記」を公開領域に戻した理由

■この「愛と苦悩の日記」をなぜ会員専用領域から一般公開の領域へもどしたのかというお問い合わせを頂いたので、この場で説明させて頂きたい。その理由は会員専用領域へ移動したために、Googleに引っかからなくなってしまったことだ。

このページの新しい読者はGoogleなどで自分に興味のある単語を検索し、たまたまこの「愛と苦悩の日記」が引っかかったことをきっかけにこのページを発見する場合が多いようなのだ。もう一つの理由は、会員の皆さんがいちいちユーザ名とパスワードを入力しなければ「日記」さえ読めないというのでは不便だということ。僕が会員の皆さんだけにお伝えしたいことは、今後も「サラリーマンの現象学」のコーナーでパスワードに保護してお伝えしていきたい。読者の方からご要望があるまでこういった説明をしなかったことを会員の皆さんにお詫びします。

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2003/11/03

甘やかす老人・甘やかされる子供

■都心へ向かう電車に座っていたのだが、ある駅に到着すしたとき隣の老婦人があわてて立ち上がったので、体の不自由な人か老人かが乗り込んできたのだと思ったら、入れ違いに座ったのは小学校中学年くらいの少年だった。その少年に付き添っていたのは、いましがたあわてて立ち上がった老婦人と同年輩の老夫婦。「真っ直ぐ座りなさい」と、おそらく祖父であろうその老紳士がさとしても、少年は無視して僕の方へ体をもたれさせたままだらしなく座っている。無視されても老夫婦はにこやかに少年に話かけ続け、少年は無視しつづける。

見ず知らずの少年の姿を目にするや立ち上がった老婦人と、孫を甘やかし放題の老夫婦、そして甘やかされるのが分かっていて両親に子供を預ける少年の父母、これらの大人たちに存分に可愛がられ、大人たちに自分の欲望を否定されることなく成長していく少年が成人したとき、いったいどんな人間になっているのか。

こうして自閉的な人格が一人また一人と生産されていくのだと、うすら寒く感じた...などと書くと読売新聞のコラムのようだが、本当に少年を甘やかし放題の老夫婦は馬鹿ではないかと思ったのだ。彼らが少年の将来を本気で心配しているなら、電車の中で隣に座っている人間に体をもたせかけて足を組んで座り続けることが、あまり望ましいことではないことを少年に分からせ、行動も直させるべきだと考えるのはおかしいだろうか。

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2003/11/01

高橋和巳『わが解体』

■いま高橋和巳の『わが解体』をブックカバーもかけずに電車の中で読むという時代錯誤なことをやっているのだが、学園闘争の内幕を知ることができるという以外に、大学を運営する側と学生の間に立って両者の橋渡しをしたいと考えながら、そのような政治的対立の中で一人の人間が実現できることの卑小さに歯噛みする高橋氏の姿が身につまされる。

なぜ身につまされるかというと、事の重大さはまったく比較にならないのだが、僕も外国人と日本人の間に立って両者の橋渡しをしたいと考えながら、そうするにはそもそも寡黙すぎるし、話し言葉の表現力にもとぼしいという能力の限界に歯噛みする日々だからだ。日常生活の雑談のレベル、仕事をはなれた一市民としてなら外国人と日本人は問題なく付き合えるようなのだが、仕事となると考え方、進め方がまったく異なるので、気づかないうちに誤解が大きくなり、問題として顕在化するころには解決に丸一日かかるといったことも少なくない。

そうなる前に、ある程度欧米人の合理的な思考パターンを習得している日本人を議論の初めの段階に参加させ、日本人だけの間で議論がおかしくなりかけたら、欧米人関係者に報告し、両者の距離を縮めるということを繰り返すことはできるはず。異文化が混在している組織ではそのような橋渡し役、ブリッジパーソンを一つの職種として正式に設置すべきではないかと考える。

■今朝たまたまNHKラジオ第二放送のフランス語講座応用編を聴いていたのだが、セネガルの映画監督であり作家でもあるウスマン・センベーヌ(Ousmane Sembène)の小説が教材になっていた。フランス以外の国のフランス語作品がいままでNHKのフランス語講座で取り上げられたことがあるかどうか知らないが、フランス語講座といえばフランス本国の文化・社会・政治などを題材にするのが当たり前という感覚があったので、旧植民地の題材が新鮮に感じられた。

ということはいまや大学のフランス語教室でも旧植民地のフランス語作品が取り上げられていたりするのだろうか。いまだにフランス本国の白人の書いた作品しか取り上げられていないのではないかと想像する。大学に進学してフランス語を学ぼうという学生が期待するのは、旧植民地の文学ではないはずだし、旧植民地の文学をまともに研究しているフランス文学研究者はまだ少数派のはずだから。この想像が実態と違っていたら、ぜひ大学関係者のご連絡お待ちしています。

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