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2003年9月の記事

2003/09/30

高橋源一郎『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔』

■片岡義男『日本語の外へ』といっしょに高橋源一郎大センセイの『人に言えない習慣、罪深い愉しみ―読書中毒者の懺悔』(朝日文庫)という長いタイトルの書評を買っていたのだが、後からこの書評の中に『日本語の外へ』がとりあげられていることを知って驚いた。それにしても高橋源一郎大センセイの書評を読むと、ブンガクが読みたくなってくるから不思議だ。伊藤左千夫『野菊の墓』、織田作之助『夫婦善哉』、川上弘美『蛇を踏む』をたてつづけに読んでしまった。『夫婦善哉』には個人的になじみ深い新興宗教の名前が出てきたりして、時代こそ違うが、僕の生まれ育った大阪の下町を思い起こさせた。『野菊の墓』は映画化されてるくらいだから(映画は観たことがないが)クサくて読んでいられないような小説だろうと思っていたが、案外あっさりしていた(それでも最後のほうは登場人物が泣いてばかりいて単にしめっぽい物語だが)。川上弘美は夢で見るような世界、自他の境界があいまいで不条理なできごとがつぎつぎ起こるくせに、細かい道具立てはどこにでもありそうなものばかり、といった世界を、描写の対象と一定の距離感をたもったままの淡々とした文体で描いている。こういうのもありか、と思ったのは、たぶん僕が最近まったく現代文学を読んでいなかったからだろう。

■西欧人が仕事の日程計画をきっちり立てるようにうるさく言うのに対して、日本人はひどく働かされるのではないかと警戒するのだが、彼らが日程計画にこだわるのは、徹夜してでも仕事は期限までに終わらせろという日本人サラリーマン的な労働強化の発想からきているわけではなくて、本当にいまある人員でその期限に無理がないかどうかを合理的に検証し、もし無理であれば期限をうしろへずらすためなのだ。彼らは日本人管理職のように、どう考えても無理な期限を押し切ることはまずない。そうしなければ業務の品質が確保できないという、あたりまえのことをやっているだけなのだが、JR東日本の失態や、金融機関の大規模システムのトラブルなどを見るにつけ、単なる労働強化で厳しい期限を乗り切ろうという精神性はもう現実に通用しなくなっているのではないかと考える。昔のモーレツサラリーマンは、まるで新興宗教の信者のように会社に帰依し、私生活を犠牲にしてまで仕事に埋没していたかもしれないが、将来に夢も希望ももてない今のサラリーマンにそんなことを期待するのは無理というものだ。ところが経営トップやベテランたちの世代は、それを無意識のうちに当たり前こととして仕事をすすめるので、現場で作業をする若い世代と決定的な認識のズレを生じているのではないか。テレビで頭を下げている経営陣を見ても、どうせあの人たちは現場を責めることしか考えていないのだろうな、自分の責任なんてじつはちっとも考えていないのだろうなと、しらけた気分になる。

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2003/09/27

あまりに違いすぎる

■あまりに違いすぎる。先日部内の定例打ち合わせで「チャレンジについての言語学的考察」のプレゼンテーションをした。なぜこんなことをするのかというと、業務上わが部にとって「チャレンジ」とは何かということになり、それにはまず「チャレンジ」という言葉の定義を理解しておく必要があると西欧人の上司が提案した。そこで「チャレンジ」という言葉について考えるワークショップが開かれたのだ。読者のみなさんはすでによくご存知のとおり、僕はこの種の言語フェチ的な思弁が大好きなので、嬉々としてプレゼンを行った。ところがこれが同じ部の他の人たちには難しすぎると極めて不評で、楽しめたのは僕とその西欧人の上司だけらしかったのだ。しかも今後はこの種のワークショップを二度とやらないということになってしまった。あまりに思考様式が違いすぎるのだ。隣の同僚は最近年のせいか頭の働きが悪い、テレビで乾燥ニンニクがシナプスを再生させると聞いたので、最近食べるようにしたら気のせいか頭がさえてきた、と語りながら、昼食にインスタントラーメンを食べて塩分たっぷりの汁まで飲み干している。腸の調子が悪いとこぼしていた日も、とても胃腸に良いとは思えないインスタントラーメンをやはり汁まで飲み干していた。言っていることとやっていることが完全に矛盾している。その矛盾にさえ気づかないのだから、言語学的考察なんて知ったこっちゃないのは言うまでもない。たしかにフランス現代思想までかじっておいて、サラリーマンなんぞになった僕の方が悪いのだ。以前から書いていることではあるが、サラリーマン社会は僕の住む場所ではないが、これ以外に適当な食い扶持を稼ぐ手段も見つからない。引退するまでよそ者ということだ。

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2003/09/25

今日となりに座っている日本人の同僚に

■今日となりに座っている日本人の同僚に、「わが社と実績のある取引先って、英語でどう書けばいいだろう」と質問された。どうやら「実績のある」という英語の形容詞がないかどうか、オンラインの和英辞典で検索したが見つからなかったようなのだ。これは、英語での表現に困っている日本人に日常的に観察できる現象で、どうしても日本語の単語と一対一に対応する英単語をさがそうとしてしまうらしいのだ。その同僚の英語力があれば、冷静になって考えれば答えはすぐ見つかるはずである。たとえば「...the vendors that had several contracts with our company in the past」など、簡単な単語ばかりをつかって「実績のある取引先」という日本語をじゅうぶんに表現できる。無理にむずかしい英語の形容詞や名詞を覚えようとするから、ますます「英語はむずかしい」ということになってしまう。ちなみに同じその人は自分の意見を言うとき、必ず「My imagination is ...」とか「My thinking is ...」と言う。それを聞くたびに僕は、「I think ...と言えば済むことなのになぁ」と不思議に思っている。

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2003/09/24

英語を使っての会議中に

■英語を使っての会議中に、日本人が言いたいことをなかなか英語で表現できずに、言葉につまったままになるという場面によく出くわす。そういうとき、その日本人が自分の英語力のなさをくやしく思っていることが手に取るようにわかる。職場で西欧人と日本人のコミュニケーション不全が問題にされる場合、多くの場合日本人の英語力の不足がその原因とされる。しかし、日本人が英語で西欧人に何かを伝えようとして言葉に詰まる場合、その90%は語学力不足の問題ではない。言いたいことそのものがあいまいなのだ。言いたいことがあいまいなままでも、日本語を使う限り「玉虫色の表現」を駆使して好きなだけごまかすことができる。そのせいで自分が明晰な思考をしていると勘違いしてしまうのだ。そのため、英語で自己表現しようとする日本人のほとんどが、「自分は思考は明晰だが英語力が足りないだけなんだ」という勘違いをしてしまう。そういう勘違いをしている人を判別する一つの方法は、日本語でしゃべらせたときに話が長いかどうかということだ。一つの事柄について日本語で簡潔に話せない人は、英語力以前の問題として、明晰な思考力に欠けている証拠だ。日本語で自分の考えを簡潔に表現できる人は、それを英語で置き換えるのに困難を感じることはない。英語での意思疎通を上達させたいという人は、英語を勉強するよりも、まず日本語で簡潔明瞭な自己表現をする訓練をすべきである。英語力の不足を言い訳にして、自分の思考のあいまいさをごまかすべきではないのだ。
■先日僕の背後で、年配社員二人が西欧人の言行についてグチをこぼしあっていたのだが、相当ひどいことを話していた。僕の職場の西欧人は、日本的な「あ・うんの呼吸」が無責任という悪い結果を産まないようにするために、意図的に「すべてを言葉で表現する」という戦術をとっている。すべてを言わなくても分かり合える日本人からすれば、そうした西欧人は細かいことまで説明しないと分かってもらえない難しい相手ということになる。年配社員の一人はそういう西欧人の一人を「察しの悪い人」と表現して、「すべてを言葉にして説明しろしろと言うけれど、単に察しが悪いだけじゃないか」と評した。ひどい評価である。すると相手の年配社員は「日本人なら『おい』というだけでお茶が出てくる」という、これまたひどい例示で激しく同意していた。「おい」だけで夫婦の会話が成り立つと思っているから、熟年離婚で累積した誤解の復讐をうけることになるのだ。教育的配慮から意図的にすべてを言葉で表現する努力をしている西欧人を「察しの悪い人間」と評する方こそ「察しが悪い」し、夫婦間のような対人関係を企業の中に平気で持ち込もうとする発想も理解に苦しむ。こういう年配社員に限って、自分たちがいかにその企業特有の暗黙の了解事項にどっぷりつかっているかを客観的に評価できない。コミュニケーション不全は、何も西欧人と日本人の間だけの問題ではない。僕のような中途採用者にとっては、自分が長年過ごしてきた企業文化を相対化できない年配社員も、西欧人と同じくらい「異なる」人々なのだ。こちらはそのコミュニケーション不全を意識的に克服しようとするのだが、あちらは僕が日本人なだけに、すべてを言わなくても分かるはずだと思い込んでいるので、かえって困難な状況だとも言える。この場合にもやはり問題は、西欧文化をどれだけ理解できるかではなく、自分自身の文化的背景(日本文化や企業文化)をどれだけ明瞭に説明できるかということなのだ。
■僕は心霊写真などオカルトのたぐいはまったく信じない。しかし会社で仕事をしていると、電子メールや会議の場でオカルト用語がしばしば登場する。そのたびに僕は、自分が一般企業ではなく宗教団体で働いているのかもしれないと考える。たとえば「魂」という言葉。職場というのは最終的に会社の利益に帰結するかどうかということにもとづいて機能しているはずだが、そのような環境で「魂」などというオカルト的な言葉を使う思考回路が、僕にはどうしても理解できないのだ。今まで特定の一人だけだと信じていたのだが、どうやらその人が所属する部署では一般的な業務用語として「魂」という言葉が使われているらしいことが、最近の電子メールで判明した。はっきり言ってショックだった。良い意味でも悪い意味でも非常に日本的な大企業として、西欧的な企業文化に対して強いアレルギー反応を示したくなるのはやむをえないとしても、それを「新しい制度を入れたとしても社員の魂に響かなければ」とか、「新しい規則を作っても、仏つくって魂を入れずになってはだめだからね」とか、「魂」という定義不可能な言葉を使うことで自分の態度をあいまいにするのは無責任きわまりない。説明責任を果たしたいのなら、同じことを「魂」という言葉を使わずに説明すべきだろう。「魂」という言葉を使っている当の本人が説明責任の重要性をいくら口にしてもまったく説得力がない。似たような表現で「理解できるが納得できない」という言い回しもよく使われる。この表現が使われる場合は二つに分類できる。一つは本当は理解できないのだが、それを認めたくないために言い訳として使われる。日本的無責任の典型のような表現である。もう一つの場合は理解した上で反対なのだが、反対の理由をはっきり述べられないために言い訳として使われる場合だ。なんとなく反感はあるが特に理論的な理由があるわけではない、ということなのだろう。「魂」にせよ、「理解」と「納得」の奇妙な使い分けにせよ、これらの言葉を使っている人たちがいかに論理的思考能力を欠いているかをよく示している。こういった不正確な言葉づかいや、オカルト的な言葉づかいをする人たちに、論理的思考について述べる資格がないことは明らかだ。彼らは「魂」などの言葉を使う自分たちの思考がいかに非論理的かを自覚する能力さえない。本当に論理的思考を身につけたいと思うのなら、まずオカルト的な言葉づかいをやめることから始めるのがよい。
■ということで、再び日本語のあいまいさが主題化されたので、新橋の書店で偶然目に留まった片岡義男『日本語の外へ』を文庫で読み始めた。片岡義男を単なる流行作家だと言って侮ってはいけない。以前このページでも触れたように高橋源一郎センセイの評価は意外に高いのだ。

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2003/09/21

勝負事一般に興味なし

■阪神タイガースが優勝したが、小学生時代は『月刊タイガース』を定期講読するほど熱烈な阪神ファンだった僕も、中学生以降は野球をはじめとしてスポーツ全般に興味がなくなった。瞬間が勝敗を決する高揚感を共有できないので、野球に限らずあらゆるスポーツに熱中できない。たとえ瞬間が勝敗を決しないような、たとえば囲碁将棋のたぐいでも、勝負事一般に興味がないのかもしれない。

したがって概して勝ち負けが物語をもりあげる構成になっている少年漫画にもまったく興味を惹かれないし、公営ギャンブルやパチンコも同様だ。平家物語ではないが盛者必衰なのだから、勝利に高揚したところで無駄である。どうせ騒ぐなら騒ぐために騒ぐ、盛り上がるために盛り上がる、自己目的化した純粋なお祭りであるべきだと考える。

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石井ふく子演出にひと言

■石井ふく子が気に入らないなら何が良いのかというと、言うまでもなく小津安二郎のような極限まで抑制された演出だ。見るものの感情移入を特定の感情表出の形へと強制するような演出は評価できない。受け手による解釈の可能性を最大限に残しながら、演出家の意図が何であるかについては正確に伝えるといった演出でなければダメだ。

特にそれが日常生活のような誰もが体験する状況を題材としている場合にはそうだろう。誰も体験しない架空の状況設定であれば、むしろ感情表出の形式を具体的に特定した方が、そうでない場合について受け手の想像力を喚起できる。

しかし家庭を舞台にして日常生活を題材にする場合には、すでに受け手は自分自身の感情表出を日常的に行っている。それに対して演出家が自分だけの独創的な感情表出を提示できると考えているのなら、思い上がりだろう。むしろ受け手一人ひとりの感情表出のかたちを尊重して、演出家としては自分の意図を伝えるために必要な最小限の水準にまで、演出を切り詰めるべきである。

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小学館『独和大辞典』を購入

■Yahoo!オークションで購入した小学館『独和大辞典』(コンパクト版)が今日届いたのだが、豊富なイラストがなかなかおちゃめでかわいい。例えばder Rummelplatzという単語(=縁日などの移動遊園地)をひくと、移動遊園地のイラストがページの半分を使って描かれており、das Karussell(回転馬車)、das Kettenkarussell(=鎖の回転馬車=飛行椅子)、das Bierzelt(=ビールのテント=仮設ビアホール)、das Riesenrad(=巨大な車輪=観覧車)、der Kraftmesser(=力くらべ器。思い切り大きなハンマーを振り下ろしておもりがどれだけ跳ね上がるかで力くらべをする遊具のこと)、die Geisterbahn(=乗り物に乗ってまわるお化け屋敷)、die Rostbraterei(=グリル食堂、焼き網で焼いた食べ物を出す露天商)、das Kasperletheater(=人形劇)、das Lachkabinett(=笑い+小部屋、ゆがんだ鏡が置いてあり、それに映った自分の姿を見て笑う部屋)などなど、いったい何の役に立つのか分からないマイナーな単語がかわいいイラストとともに列挙されている。ちなみにder Kraftwagen(自動車)をひくと当然のことながら自動車のイラストがあり、各部位がドイツ語の単語で説明されているのだが、そのイラストは明らかにベンツである。

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2003/09/18

感情移入を許さない石井ふく子演出

■石井ふく子プロデュースのテレビドラマをたまたま観ていたのだが、こちらがまったく感情移入できないにもかかわらず、役者が必死でクサい演技を続けるのでいい加減腹が立ってきた。同じ石井ふく子プロデュースの『渡る世間は鬼ばかり』についても同じことが言える。若い脚本家のやたらと陰惨なドラマも、ご年配プロデューサーの脂がにじみ出るような演出過剰のドラマも、僕にとっては変わるところがない。

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2003/09/13

最近米国のマスメディアは世論の変化を受けてようやく政府のイラク占領政策について批...

■最近米国のマスメディアは世論の変化を受けてようやく政府のイラク占領政策について批判的な報道を一部でするようになったというが、世論を後追いすることしかできない御用報道機関に存在意義があるのだろうか。批判可能性を確保することは自由主義にとって必要不可欠だと思うのだが、世論に迎合することしかできないメディアは自由主義の自己否定だ。Recently part of the American mass media has begun criticism against the government's occupation policy of Iraq according to the metamorphose of the public opinion. Is there any raison-d'être for the mass media that can only follow the public opinion? I think that it is indispensable for liberalism to ensure the possibility of criticism at any time. The mass media that can only follow the public opinion is a kind of self-denying of liberalism.
■外国人と一緒に仕事をしていて思うのだが(外国人に限ったことではないかもしれないが)、彼らはどうしてあれほどまでに外部の業者に対する猜疑心が強いのだろうか。もちろん品質の悪い成果物に対価は支払えないという考え方は適切なのだが、対価は会社が支払うのであって社員個人ではない。何故彼らが会社の判断規準をあれほど簡単に自分の価値規準にしてしまえるのか理解できない。彼らは給与と引き換えに自分の価値観を売り渡しているのだと考えれば、業者も同様に金で自分の価値観を売り渡しているという判断が働くのは納得できる。しかし僕はそこまで会社の価値観を内面化できないので、同様に業者で働く人間も別に一分でも多く手を抜いて、一円でも多く手に入れることばかり考えていると考えることができないのだが。僕の倫理観は業者がつねに一円でも多く強奪しようとしていると考えることを許さない。やはり僕の倫理観は実業向きでないのかもしれない。 When I'm working with foreign colleagues, the most uncomfortable thing is that they have incredibly strong suspicions of vendors' behavoir. Indeed it is appropriate to think that we can pay nothing for the bad quality results. But it isn't ourselves but the company who pays for the vendors. I can't understand why they can so easily follow the company's value criteria. It can be said that they sell out their own sense of value to the company in order to get paid. They naturally think that the employees of vendors think in just the same way. But I can't sell out my own sense of value so easily. So I can't think the employees of vendors can sell out their own sense of value so easily. I think that the vendors don't always think of getting more money with saving more working hours. My ethics never allows me to think that the vendors are always trying to snatch money from our company. My ethics might not be appropriate for business.

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2003/09/11

川島武宜『日本人の法意識』

■ある読者の方から、先日のエッセー「Nomos Ethikos」についての感想メールを頂いた。彼女はこのエッセーを読んで『日本人の法意識』という本のことを思い出したと書いているが、まさにそのとおり、ついこの間、川島武宜著の同書(岩波新書・青版)を読んだばかりなのだ。今回のエッセーを書くに当たって同書を直接参考にはしなかったが、エッセーと同じく法律の比較文化研究(そんなものがあるのか?)という観点で読んだことには違いない。やはりthink or dieの読者はthink or dieな人である(意味不明)。

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2003/09/09

ブリヂストン栃木工場長が従業員の過負荷というようなことはなかったとテレビ局の記者...

■ブリヂストン栃木工場長が従業員の過負荷というようなことはなかったとテレビ局の記者に答えていたが、従業員の負荷余裕を許すほど本社の指導は甘くないはずだ。負荷の余裕を放置しておけば更迭もありうるのだから、当然ぎりぎりまで従業員の負荷を増やすのが工場長として合理的な行動である。自分が合理的な行動をとっていないと公言するのは明らかな嘘である。嘘はやめたほうがよい。正直に本社からの指導で人件費抑制のために過負荷状態にせざるをえませんでしたと告白するべきだろう。嘘をついてまで会社をかばうということは、この工場長は今回の火災で被害をうけた地域住民や那須の環境よりも、自分の会社の方が重要なのだ。極言すれば工場の立地している地域のことなどどうでもいいのである。そうでないというなら本社と戦っても安全の維持に必要な人員と負荷を確保しなければならない。そうしなかったということは火災他、地域に公害をまきちらして那須の自然環境にタダ乗りしてもやむなしと考えている証拠だ。
■文庫の新刊、吉本隆明・大塚英志対談集『だいたいで、いいじゃない。』(文春文庫)と佐野眞一著『東電OL殺人事件』(新潮文庫)を読んだ。吉本隆明の本はまともに読んだことがないのだが、こんなくだけた口語を使う人だとは予想しなかった。大塚氏の分析は明晰すぎて、分析対象のもつ誤解可能性をきれいにそぎ落としてしまっているという点で、やはり僕らとは世代が違うと感じた。だからといってつまらない本だということではない。吉本隆明が糖尿で歩けなくなったことから身体性について考え直したというエピソードも興味深い。『東電OL殺人事件』は先日のthink or die第一回オフ会で話題にのぼったので読んでみたのだが、以前読んだ『カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」』(新潮文庫)と同様、個人的にはどうしても佐野眞一の必要以上に劇的な筆致が鼻について好きになれない。ただその真実追求の執念にはただならぬものがある。特にネパール取材の経緯は圧巻だ。肝心の「東電OL」については最後の方の単行本書き下ろし部分に、斎藤学との対談であまりにあざやかに精神分析されていて、こちらも対象のもつ誤解可能性がそぎ落とされている。ただ超自我による自己処罰だという分析は、東電OLの世代から考えると真実の可能性もあると考える。事件の被害者となった東電OLは僕らの一世代上だが、彼女たちの世代ならまだ「父親との精神的な近親相姦」など、精神分析学のステレオタイプのドラマを地で行くことができていたのかもしれない。他方、大塚氏が対談で再三言及していた幼女誘拐殺人事件は、合理的な分析の残滓がどこまでいってもぬぐいされない。佐野眞一は生理的な欲求に突き動かされて東電OL殺人事件の取材に没頭したと書いているが、宮崎勤の事件は佐野氏のようなタイプのノンフィクションライターを拒絶するのだろう。
■しばらく脱線していたが、これでやっとマックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』(岩波文庫)を読み始められる。

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2003/09/08

某自動車メーカのフランス人デザイナーがとあるWebサイトで大手出版社のインタビュ...

■某自動車メーカのフランス人デザイナーがとあるWebサイトで大手出版社のインタビューを受け、あなたは今回の新車で「日本的なデザインを強調しました」ねと尋ねられてこんなことを答えている。「微妙な季節の移ろいを感じる日本人の感性を×××××(その新車の名前)では意識しました」(auto ASCIIから引用)。驚いたことにこのデザイナーはその新車を日本的にする意図でデザインしたというのだ。ちなみに某自動車専門誌のレビューでこの車のフロントマスクは「イカつ過ぎる」と評されていた。僕もそう思う。日本的な柔和さが微塵も感じられない。日産マーチを代表として、新型カローラや最新型のオデッセイ、フィッツでさえも、ヘッドランプには必ず「つぶらな瞳」を連想させる円形が生かされている。それが日本的な柔和さ、かわいさのあるデザインだと僕は思うのだが、上記の新車のフロントマスクはその対極にあり、まるでワシかタカなどの猛禽類のような顔をしている。むしろスポーツカーにふさわしい顔なのだ。それを「微妙な季節の移ろいを感じる」日本人の感性だと思い込んでいるのは、日本文化に対する誤解も甚だしい。ところがこのデザイナーは続いてこんなことを言っている。「歴史的に言うと日本の自動車産業はまずマイクロ・アメリカンを作ることから始まり、つぎにマイクロ・ユーロピアンを作ろうとしてきました。今までは学習期間ですね」。つまり日本の自動車産業が米国や欧州のサル真似からようやく脱出した証明が、自分のデザインだと言いたいのである。日本文化を完全に誤解した上に、日本の消費者を軽蔑しきったこの考え方は何なのだろうか。しかし彼が日本的だと信じ込んでいるデザインが、日本人から見ると完全にヨーロッパ的であり、それゆえにこの新車が競合メーカとの競争においてすき間市場で一定の支持を得る可能性を残しているというのは皮肉である。彼はおそらくこのままずっと日本文化を誤解しつづけるべきだろう。変に正しく理解してしまっては、彼は他の自動車メーカと似たようなデザインしかできなくなってしまうだろうから。
■新日鉄名古屋工場と言い、ブリヂストン栃木工場と言い、日本の大企業は現場の人員を減らしすぎだ。今回の事故のために新日鉄は2004年3月期で最大300億円の減益要因になるという。ブリヂストンも1999/03/23に関連会社社員が社長室で割腹自殺して以来、2000年のファイアストン問題、そして今年2003年、近隣の住民が避難を強いられたり消防車80台が徹夜で消火活動に当たるなど社会的な損害をも与えている大火災ときて、なかなか企業イメージが良くならない。割腹自殺した社員の抗議文にはブリヂストンの当時の数千人単位の人員削減より不稼動資産の処分を優先させるべきだと書かれていたという。今回の事故もおそらくは大規模な人員整理の副作用に違いない。ブリヂストンという会社の経営陣は、弊害を生まずに人員整理をできないのだ。会社の人材というものについての合理的な判断能力が欠如しているとしか言いようがない。
■ソースネクストは何を考えているのか分からない。McAfeeウイルススキャンオンラインで、パターンファイルの自動更新処理がいつまでたっても完了しない問題について、先日のユーザ宛メールでは「サーバのメンテナンス作業のため」と原因を書いておきながら、今日のメールでは「原因は調査中」とのこと。つまり先日のメールには嘘を書いていたということだ。原因はどうでもいいのだが、パターンファイルの更新がたとえ一日でもできないようではウィルス対策ソフトウェアの意味が全くないのだ。マカフィーのウィルス対策ソフトもここまでか。ちなみに僕はすでにシマンテックのNorton AntiVirusにもどした。二度とMcAfeeは使うまい。

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2003/09/07

女子十二楽坊では張爽さんのファン

■先日のthink or dieはじめてのおつかい、もとい、はじめてのオフ会で話題に上った佐野眞一『東電OL殺人事件』が秋の新潮文庫の新刊でいよいよ文庫化されたようだ。読みそびれた方はぜひどうぞ。

■二酸化炭素を吸収するための植林を一生懸命行っていますという偽善的なテレビコマーシャルでお馴染みの出光興産提供『題名のない音楽会』で女子十二楽坊を観て琵琶奏者、張爽さんのファンということにさせて頂く。早速TSUTAYAでCDを借りてきて付録のメンバー紹介を見たところ、日本語で完全な自己紹介をしたのは張爽さんだけだった。笑顔で演奏しながら拍子をとるように首を時折クッ、クッと左に振るのを見て、大方勉強熱心な人なのだろうと思ったらその通りだった。素朴すぎる感想で申し訳ない。CDを聴いてみたが日本人向けに媚びた邦楽のカバーやオリジナル曲よりも「山水」など伝統音楽に近いものの方が技術面で聴きごたえがあるのは当然である。でも伝統音楽ばかりのアルバムを作ったらオリコンアルバムチャートで2週連続1位になれないし日本のテレビ番組に出演できないのも当然である。

■SymantecのNorton AntiVirusが期限切れになったので、SOURCENEXTが販売しているMcAfee Virus ScanOnlineを安さに釣られて購入したのだが、2003/09/04からサーバのメンテナンス作業とやらでパターンファイルの更新がまったくできない状態だ。今朝ようやく更新できたと思ったらパターンファイルの日付が2003/09/03に戻っている。やはり安かろう悪かろうで、ウィルス対策ソフトはSymantecの方がよい。

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2003/09/06

[Deutsch] Heute habe ich Tama Zoologisch...

[Deutsch] Heute habe ich Tama Zoologischer Garten besucht. Am letzten Wochenende habe ich Ueno Zoo besucht. So besuchte ich die Zoos zwei Wochen hintereinander. Es ist sehr ergötzlich, die Tiere durch die Linse zu beobachten. Wenn ich die 400mm teleskopische Linse an meiner Kamera ansetze, kann ich die Gesichter der Tiere sehen, als ob sie in der Nähe von mir wären. Ich kann auch entdecken, was ich nicht entdecken kann, während ich fotografiert habe. Deshalb kann ich an den niedlichen Tieren zweimal mich erfreuen. Ich habe verstand, warum das ist so ergötzlich, die Tiere zu fotografieren. Fotografen dürfen für die Objekte nicht sorgen. Die Tiere klagen nicht, auch wenn die Fotografen sehr lange sie fotografierten. Ausserdem sind die Tiere sich ihrer Bilder nicht bewusst. Sie aussetzen natürlichen Ausdruck. Sie sind als Objekt von der Amateurfotografen am besten geeignet. [English] I visited Tama Zoological Park and took pictures of animals. Last week-end I went to Ueno Zoo to take pictures. So I took animals' pictures two weeks in succession. It's very amusing to watch animals through the object finder of my Canon EOS 55. When I set 400mm telescopic lens, I can see the animals' face as if it were just in front of me. When I check the prints, I can discover what I didn't notice at the time of photographing. Therefore I can enjoy cute animals twice. I found the reason why it is so amusing to take animals' pictures. That's because the photographers don't have to care the object. They don't complain no matter how long the photographers direct the lens to them. In addition, they aren't conscious of their image in the camera at all. They expose natural expression. The animals are the most suitable objects for amateur photographers. You can understand that there were many male photographers, with single lens reflex camera hung from their neck, hanging around in the zoo among families with children. Yes, I was one of them. [Japanese]多摩動物公園に行って写真を撮ってきた。先週の上野動物園に引き続いてだが、コアラやレッサーパンダを被写体にするのが楽しくないと言えば嘘になる。400mmの望遠でのぞくと表情が手に取るように分かるし、プリントを見ると現場で気づかなかった細部を発見できるので「一粒で二度おいしい」というやつだ。なぜ動物を取るのが楽しいのか、よく考えてみると被写体に気を遣わなくてもすむからだということが分かった。撮影者側の勝手な都合だが、どれだけ長くレンズを向けていても文句を言われることはないし、嫌がられることもない。しかも相手はカメラを意識しないので「自然な」表情を見せてくれる。素人カメラ愛好家の被写体としてはうってつけ。どうりで一眼レフを首から下げた成人男性の一人客が、家族連れのなかに散見された。僕もその一人というわけである。

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2003/09/02

資本の掌握にもとづく経営権の取得について

■資本の掌握にもとづく経営権の取得について、勝つ・負けるという言葉を使うのが適切かどうかは別として、資本の理論からすると事実上すでに「負けて」いるにもかかわらず、なかなかその「負け」を認めようとしない日本人サラリーマンがいるのは、まさに、第二次大戦で日本軍が事実として米国に負けていたにもかかわらず、死ぬまで戦った玉砕の精神とまったく同じだ。こんな精神主義がいまだに日本企業の中にちゃんと生き残っているのだが、馬鹿らしすぎて言葉もない。理不尽な精神論に体力を消耗するのはやめたほうがいい。

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2003/09/01

例の長野県の第3セクターの社長だが

■例の長野県の第3セクターの社長だが、今朝の日本経済新聞に業績をたたえる記事があった。たしかに2年前倒しで黒字化を達成した実力は素晴らしい。しかしあえて書けば、それまでの経営があまりにひどすぎたために、当たり前のことをするだけでも相当な効果が上がったということなのだろう。彼のあげた最大の成果は、抵抗勢力の批判を、CEOという地位に定義上与えられている権力でうまく抑えつけたことだ。それくらい県職員出身の前社長に、営利企業経営の知識も技術もなかったということになる。ただしこれもこの前社長自身の責任ではなく、不適切な人物を任命した前長野県知事の責任である。県庁にしか勤めたことのない人間に営利企業の経営ができるわけがない。でも同じ間違いを今もおかしている知事は他にもたくさんいるんだろうなぁ。

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