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2003/03/30

正岡子規、廣津柳浪、宇野浩二

■ああつまらない。昨日は正岡子規の短編小説『花の枕』と廣津柳浪『變目傳』を読んでいた。今日は同じく廣津柳浪『雨』と、図書館で新たに借りた宇野浩二の作品集で『蔵の中』を読んだ。ついでにゴーゴリの『外套・鼻』(岩波文庫)も借りてきた。いずれも先日読んだ後藤明生の小説入門にあった作品だ。そういえば島田雅彦がEPSONのテレビCMなんかに出てるし。

ああまったくつまらない。パソコンで斎藤緑雨の『油地獄』をテキスト化していたが、今日、筑摩書房の明治文学全集、斎藤緑雨の巻に序、小説評註の部分も含めて収録されているのを知った。テキスト化することに大して意味はなく、じっくり読むついでにキーボードで文章をなぞっているようなものだ。

この「小説評註」とは、緑雨自身が擬古文体、漢文体、言文一致体の小説をそれぞれパロディで一編ずつでっちあげ、さらにそれぞれの序まで作って、それらを引用しながら註をつけていくという少々凝った作りの序文だ。擬古文体のが『初嵐猫毛衣』、漢文体のが『塞翁馬』、言文一致体のが『あんま針』。言文一致体は「です・ます」調で山田美妙っぽい。「太陽は今まさに没します、没すれば日は暮れます、暮れれば地球の半ばは夜です」。くだらなすぎて笑えるというのはこのことだ。

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2003/03/27

廣津柳浪『今戸心中』

■廣津柳浪『今戸心中』をようやく読んだ。明治文学全集はそう気軽に通勤に持ち歩ける重さでないので、寝る前の枕元でしか読めないのだ。芸妓と男が心中に至るきっかけとなる一夜は事細かに描写され、そこで芸妓の心境の変化を納得させてしまう心理描写こそ柳浪の真骨頂。そこから心中までは周辺人物を伏線にして省略法で一気に雪崩れ込む。これが柳浪のリズムであり、スピードだ。

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国立国会図書館の近代デジタルライブラリー

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーはかなり使える。文庫版の『あられ酒』を図書館で読みさしてから斎藤緑雨にはアレルギー気味だったが、オンラインで『油地獄』を読み始めたらくだらなすぎて止まらなくなった。何がどう下らないのかはそのうちご紹介できると思う。それまで待てない方はご自身でアクセスしてほしい。

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ドイツ語のレベルチェック面接テスト

■明治文学にばかりうつつを抜かしているというわけでもなく、先日、来月から始まるドイツ語研修のレベルチェックのために15分間の面接テストを受けた。初級テキストをとびとびにめくりながらいくつかドイツ語で質問されたが、Wie heissen Sie? / Wo wohnen Sie? / Was essen Sie jeden Morgen? あたりは答えられたし、面接時間中にfernsehenという分離動詞も一つ覚えた。ただ道順の説明もできなかったし、Abendessen(中)に食べる物は「日によって違う」ということも言えなかった。語彙の不足を痛感。本日128MBのSDメモリを増設したMP3プレーヤが通勤電車で大活躍しそうだ。

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宮武外骨『明治奇聞』

■先日神保町に出かけたときの収穫3冊のうち未読だった最後の1冊、宮武外骨『明治奇聞』(河出文庫)を読み終えた。

本書の序文で編者の吉野孝雄氏が背景を説明している。「震災による大火災で、貴重な文化遺産が失われたことに危機感をもった文化人たちは、それらの文化遺産を後世に伝えるにはどうしたらよいかを真剣に考えはじめていた。こうした機運のなかで生まれたのが(中略)外骨たちにより大正十三年に創始された明治文化研究会であった」。この流れで外骨が発行した『明治奇聞』『奇態流行史』『明治史料』『明治演説史』『震災画報』からの抜粋によってこの文庫本は編まれている。

外骨らしい際物エピソードが満載だが、それでも『震災画報』の抜粋部分からは被害の甚大さが生々しく想像できてシリアスだ。本書でしばらく笑いが止まらなかった「奇聞」をひとつ引用したい。

「大正5年七月の末に、東京市外千駄ヶ谷辺のある家に生まれた子供は、毎晩一定の時が来ると、四十ばかりの女の声で「去年の今夜を覚えているか」と恨めしそうに叫ぶので、親たちは気味悪がって、その子供に二千円の金を付けて、他家へやったが、もらった家でも毎晩『去年の今夜』を叫ばれるのが畏ろしく、その子供ともらった金を返してくるので、またほかへやると同じく返してくる。その子供には生まれながら上下に歯が生えそろっている、などいう妄説が行われて、それが二、三の新聞紙上にも出たので、評判になったが、その子供よりは金をもらいたい連中が、わざわざ千駄ヶ谷辺を尋ね回ってもその家が判からない、あるいは下渋谷の八幡前だというので、そこへ行ってみても同じく要領を得なかったそうな、など一時俗間に言いはやされたが、それをアテ込んだ小冊本ができ、また見世物にも仕組まれたそうである。」


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2003/03/24

SONIC blue社製のMP3プレーヤを買ったばかりなのに

■SONIC blue社製のMP3プレーヤを買ったばかりなのに、なんと同社が米破産法11条の適用を申請したらしい。事業そのものは別の会社に売却されるので、MP3プレーヤの「Rio」シリーズがなくなることはなさそうでホッとした。今回購入前に他社製品の仕様も調べたが、ネット上の評価でもRioシリーズが性能、操作性、価格性能比とも優れているとのことで、実際Rioを使ってその通りだと感じる。先日も書いたが、機構の劣化を気にすることなく、同じ箇所を気の済むまで繰り返し聴けるのがとにかく語学の勉強にうってつけ。どうしてもっと早く買わなかったのだろう。

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2003/03/22

開戦ということでオフィスの窓際におかれているテレビデオが一日中つけっぱなしになっ...

■開戦ということでオフィスの窓際におかれているテレビデオが一日中つけっぱなしになっていた。戦争報道を聴きながらも、仕事そっちのけで定時後の宴会の段取りを平然とやっているのだから、不謹慎にも程がある(笑)。窓一枚隔てた外界とこれほどまでの「温度差」を苦もなく作り出してしまうのが、サラリーマン社会というものなのだ。この地点から法律を平然と破るに到るまでは、一歩で充分であることは言うまでもない。
■と言いつつ僕自身も不謹慎ながら図書館で借りた後藤明生の小説論『小説―いかに読み、いかに書くか』(講談社新書)を一日で読み通した。それくらい読みごたえがあったということだ。春の蔵書整理期間が明けた市立図書館をぶらついていると、地元にゆかりのある作家のコーナに後藤明生の著書がズラリならんでいた。そんなコーナがあることに今日はじめて気づいたのだ。そういえば後藤明生はその図書館を取り囲む大団地の住民だった。『挟み撃ち』しか読んだことがないのにいきなり小説論は性急すぎるかもしれないが、結果として宇野浩二や椎名鱗三も読まなきゃ、という動機づけになったのでよかったことにしよう。
■国立国会図書館が近代デジタルライブラリーなるWebサイトで、明治時代の刊行図書をスキャンした画像を公開している。著作権の不明な図書に関する情報提供をインターネットを通じて呼びかけているというニュースが、新聞だったかに載っていたことから、このサイトの存在を知った。さっそく見つけた廣津柳浪のごく初期の短編を別項にテキストデータ化して載せてみたが、これがなかなか面白い。スキャンされている画像が初版本らしく、作品によっては装丁や挿し絵が楽しめる。できればカラーでスキャンしておいて欲しかったものだが。ものによっては変体仮名が使われているが、ネット上の解説サイトを参考に何とか読み進められる。何となく読み始めた山田美妙の『ぬれころも』なんて、いきなり幼女が野良犬に噛みつかれたか「足の指から血がだらだら」という例によっての残虐趣味なのだから、思わず笑ってしまう。皆さんも全集にも文庫にもなっていない、埋れた「迷作」を発掘してみてはどうだろうか。
■先週、神保町で収穫したうちの一冊、正岡子規の小説『月の都』(岩波文庫)を読んだ。まだ学生時代の作品で、原稿を持って幸田露伴を訪れたが、露伴は褒める場所がなくて、やむなく作中の俳句を褒めたとか。物語としては、かなわぬ恋に絶望した男女が、それぞれに自死するというものだが、僕にはちょっと装飾過多でよくわからなかった。そもそも上の巻が「第一爻(こう)」から始まるのだ。「爻」というのは漢和辞典によると易の卦を組み立てているもので、陰爻と陽爻とがあるという。で、この「第一爻」の副題が「用※馬壮吉(※=手偏に極のつくり)」でどういう意味なのかさっぱり分からない。書き出しはこんな感じだ。「三十一文字の徳は神明に通じ十七文字の感応は鬼神を驚かすといふめるを、花に寄せ鳥に寄せては詠み出づる歌に恋の誠をあらはし、月に比へ雪に比へては口すさむ句に世になき美人の面影を偲ぶことここに何年、斯くても猶出雲の御神玉津島明神をはじめ八百萬の神々は知らず顔にうしろむき給ふは如何にぞや。末世に及びて神霊も衰へたるか我が信心の足らぬか美人一人今の世になき事かと計りあけくれ歎くすき心、浮世もよしや足引の山の手辺に住居して今業平と正札つきの桂男、目には見ゆれど手には取られずと歎つ近所の評判、まだ十三の歳より道徳堅固の高僧を三度振り返らせて罪を造り初めけるとなん其名を高木直人と云ふ」。一人の女性への恋心を短歌や俳句に虚しく読む続ける美男である主人公を紹介するのに、これだけの修辞を駆使するのだから、二葉亭四迷の小説からいかに遠く隔たっていることか。2003年春の岩波文庫リクエスト復刊なので、ご興味のある方は早めにご購入を。

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2003/03/19

ついに携帯型MP3プレーヤを購入した

■ついに携帯型MP3プレーヤを購入した。売上第一位で箱が山積みになっていたソニックブルーの「Rio S10」で、内蔵メモリが64MB。語学の参考書に付属していたCDを、手持ちのラジカセでMDに落としたのだが、トラック数が40もあるので携帯型MDプレーヤで正常に再生できないのだ。しかもその原因が、ラジカセのMDプレーヤなのか、生MDなのか、携帯型MDプレーヤなのかが分からない。同じようなことが今までにもたびたびあったので、MDという記録媒体の脆さに嫌気がさしていたところだった。Rio S10を付属のケーブルでパソコンにUSB接続し、同梱のRealOneというリアルネットワーク社製のソフトウェアを使うと、パソコンのCD-ROMドライブに入れた音楽CDをMP3形式に変換してハードディスクに保存できる。そのMP3ファイルをRio S10に転送すれば作業完了。MDに落とすときのように、CDの演奏時間だけ待たされることもない。約50分の録音をMP3に変換するのに約12分、Rio S10に転送するのに約6分で、時間の短縮にもなる。音質は通勤電車の中での語学の勉強なので、さほどこだわらない。50分の語学CD1枚を落としても、64MBの内蔵メモリのうち60%しか使わずにすんだ。語学の場合、どうしても同じ箇所を何度も繰り返し聞くことになるが、そんなときもMP3プレーヤなら電池の消耗や機械的な劣化を気にする必要がまったくない。Rio S10は単3アルカリ電池1本で35時間再生できる。電池が切れてもただの単3なのでどこででも買える。しかもSDメモリを増設できる。操作性も、必要にして最小限の機能が備わっており、ボタン類も簡潔で、迷うことはまったくない。本体も手のひらにすっぽりおさまる大きさで、衝撃を吸収するための専用ソフトケースが付属し、首からぶら下げたい人にはストラップまで付いてくる(これは僕が購入した量販店だけの特典だったかもしれないが)。とにかくこれは便利。明日から通勤電車での勉強が楽しみになる。
■仮名垣魯文『安愚楽鍋』(岩波文庫)を読み終えた。分量は少ないが、戯作調でとにかく読みにくかった。牛鍋屋でさまざまな職業の老若男女が、すきやきを食べながら勝手なことをくっちゃべるその雑談の内容を文字にしたもので、特に物語はないし、各話のオチも現代人のわれわれにとっては面白くも何ともない。登場人物の容姿に関する描写も単調だし、形式的には戯作文学の延長でしかない。魯文の作品を読みたい方は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーでどうぞ。残念ながら『安愚楽鍋』は読めないようだ。参考までに初編(第一巻のようなもの)から少し引用してみる。仮名遣いや送りがな、漢字などは読みやすいように勝手に返させて頂くので、原典を読みたい方は岩波文庫か明治文学全集などを当たってほしい。
■「○西洋好きの聴き取り/年頃は三十四五の男、色あさぐろかれど、シャボンを朝夕使うと見えて、あくぬけて色つやよく、頭はなでつけか、総髪にでもなるところか、百日このかた生やしたるを、右のかたへなでつけ、もっともヲーテコロリと言える、香水を使うとみえて、髪の毛の艶よく、わげは格別大きからず。きぬごろのみちゆきぶりに、とう糸二たねの綿入れまがい、さらさの下着裏は、はりかえしのがく裏なるべし。カナキンではりたる、こうもり傘を、かたわらへ置き、苦しい算段にて求めたる、袖時計の安物を、襟から外して、ときどき時を見るはそっちのけ、実は他の者への見せかけなり。ただし鎖は、金のてんぷらと見えたり。となりに牛を食っている、客に話をしかける。「もしあなたえ、牛はしごく高味でごすね。この肉がひらけちゃ、ぼたんや紅葉は、食えやせん。こんな清潔なものを、なぜいままで、食わなかったのでごうしょう。西洋では、千六百二三十年前から、専ら食うようになりやしたが、そのまえは、牛や羊はその国の王か、全権と云って、家老のような人でなけりゃあ、平人の口へは、這入りやせんのさ。追々我が国も、文明開化と言って、ひらけてきやしたから、我々までが、食うようになったのは、実にありがたいわけでごす。それを未だに、野蛮の弊習と言ってね、ひらけねえ奴等が、肉食をすりゃあ、神仏へ手が合わされねえの、やれ穢れるのと、わからねえ野暮を言うのは、窮理学をわきまえねえからの、ことでげす。そんなえびすに、福沢の書いた肉食の説でも、読ませてえね。もし西洋にゃあ、そんなことはごうせん。この人ござりませんを、ごうせん、ござりますを、げすなど、言うくせあり。あっちはすべて、理で押してゆく国だから、蒸気の船や車のしかけなんざあ、おそれいったもんだね。既にご覧じろ、伝信機の針の先で、新聞紙の銅板を彫ったり、風船で空から風をもってくる工夫は、妙じゃごうせんか。あれはね、もし、こういう訳でごぜえす。地球の図の中に、暖帯と出てありやす国が、あるがね。あすこが、赤道といって、日の照りの近い土地だから、あついことはたまらねえ。そこでもって、国の人が日に焼けて、みんな黒ん坊さ。それだから、その国の王がいろいろ工夫をして、風船というものを造って、大きな円い袋の中へ、風をはらませて、空からおろすと、そのふくろの口を開きやすね。すると、大きなふくろへいっぱい、はらませてきた風だから、四方八方へ広がって、国の内が涼しくなる、という工夫でごす。まだ奇妙なことがありやす。おろしやなんぞという、ごく寒い国へゆくと、寒中は勿論、夏でも雪が降ったり、氷が張るので、往来ができやせん。そこでかの蒸気車というものを、工夫しやしたが、感心なものさね。一体蒸気車というものは、地獄の火の車から考え出したのだそうだが、大勢を車へのせて、車の下へ火筒をつけて、そのなかで石炭をどんどん焚くから、くるまの上に乗っている大勢は、寒気を忘れて、遠道の通行ができやしょう。なんと、考えたものさね。何さ、このれえな工夫は。あっちの手合いは、ちゃぶちゃぶ前でげす。この大千世界のかたちさえ、混沌として毬のごとし、と考えたわさ。その以前は、釈迦如来が須彌山と、名付けたところが、西洋人はまんまんたる、海上を渡って、世界の果てからはてまでを、見きわめたのだから、釈迦坊も後悔したそうさ。そこでもって、海をわたる工夫を、西洋じゃ後悔術と言いやすはな。おやもう、お帰りか。はい、さようなら。「おいおい、ねえさん。生で一合。葱もいっしょに、たのむたのむ。」(岩波文庫p.28~30)

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2003/03/16

昨日からアクセス数がほぼ倍になっているのだが

■昨日からアクセス数がほぼ倍になっているのだが、今回も何が原因なのかさっぱり分からない。思い当たる読者の方がいらっしゃればご教示下さい。
■先日の蔭山泰之著『批判的合理主義の思想』( ポイエーシス叢書)にひきつづき、講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズで小河原誠著『ポパー-批判的合理主義』を読んでいるのだが、入門書だけ読んで理解した気分になれるという、あまり好ましくない状況を自覚しながら、肝心の原著が図書館にないのだから仕方ない。それでもポパーの明解な方法論について一定の理解が得られ、会社員生活の実践にも独断論的態度を避ける方法として応用が効くので無駄としない。

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2003/03/15

十川信介編『明治文学回想集(上)』

■十川信介編『明治文学回想集(上)』(岩波文庫)を読んだ。明治初期の文学を楽しむのに時代背景のお勉強もちょっとは必要だということから。通勤電車で読める軽量の明治文学を求めて、何年か振りで神保町の古書店めぐりをした。結局買ったのは古書ではなく、新品の文庫本3冊。何を買ったのかはこの日記の中で明らかになるだろう。

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電車の中の精神病患者

■優先座席にすわって携帯電話でメールを打つのに没頭している、どこにでもいそうな二十代の女性が、いきなり喉の裂けそうな声で『ひょっこりひょうたん島』を歌い出したら誰でも驚くだろう。今日、電車で見かけた精神病患者はそういう人だった。

目の前にいない嫁をなじるような独り言をつぶやく老婆というのも同じ路線で見かけたことがあるが、車内の騒音にかき消されてしまう声はそれほど気にならなかった。ところが今日見かけた若い女性は、まさに悲鳴としか言いようのない声で『ひょっこりひょうたん島』を歌う、というより「叫び」、それでいて平然と携帯電話でメールを打ちつづけるのだから逆に車内を静まりかえらせた。

そして「どうせ私はお客さん相手のバイトには向いてないわよ。どうせダメなことはわかってるのよ!」と自虐的な独り言を叫びつづけた。その言葉は概して自虐的で、「嫌い、嫌い、みんな大嫌い!」という、台詞のように調子のととのった叫びを含んでいた。

僕は即座に『新世紀エヴァンゲリオン』のコピーではないかと疑ったのだが、声優にあこがれるアニメファンの少女が、社会に適応できない自分を否定するあまり心を病んだのではないかという仮説が簡単に成立してしまった。その独り言は決して支離滅裂ではなく、演劇の練習をしているような、台本に書かれたような独り言なのだ。彼女が生きている世界は下界からかなりの程度、閉ざされていて、彼女自身が紡ぎ出す言葉が叫ばざるを得ないほどに横溢しているのだろう。

しかし僕自身も会社員の生活圏で強い違和感を持ちながら生活しなければならず、現実との乖離は他人事ではない。僕はニヒリズムに近い相対主義を自認せざるを得ず、特定の趣味に没頭することで仕事の憂さを晴らせることや、長年携わってきた専門分野へのこだわりなどとは無縁である。

エンジニアリングとは何の関係もない仕事を無理にエンジニアリング用語に押し込んでしまう偏狭な「プロフェッショナル意識」を前にして、しらけることしかできないのだ。そんなとき僕の頭の中ではグールドの演奏する超高速のモーツァルトがエンドレスでかかっていたりする。会議の相づちが自分でも台詞のようによそよそしい。すべてがやらせで、真剣に演じていることがとてもおかしくなってくることもある。

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2003/03/12

『ベルツの日記』

■それにしても職場にどんどん外国人が増えていく。なにしろ日本中の外国人が集まってきそうな勢いなのだ。そういうわけでもないが、この日記では毎度おなじみの明治文学全集で明治初期に来日したベルツ氏の日記を読んでいる。日本人の非生産的な仕事はまったく変わっていないことが分かる。ちなみに僕の職場の外国人が最近気に入っている日本語のフレーズは「Muda kaigi dou herasuka de mata kaigi」である。日本語教師も無駄な日本語を教えるものだ。ひとつテーブルに何十人も額を寄せて何も決まらないのが日本人の会議とは、明治の頃から決まっているらしい。

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深沢七郎『東京のプリンスたち』

■同じ新潮文庫に収録の深沢七郎『東京のプリンスたち』を読んだ。やはりよくわからなかった。強いて言えば登場人物が高校教師を殴る場面が、音声の切れたスローモーションのようで印象深かった。意図的にねじれた文体はやや鼻についた。当時の「不良学生」の風俗そのものが時代がかっているので、感興も半減するのかもしれない。

『楢山節考』に話をもどすと、たしかに対象を突き放した冷淡な描写で姥捨てという残酷な主題を扱っている点は特徴と言わねばならないし、おりんという人物の骨太な造形も優れている。しかし楢山節に関する解説が幾度となく反復されるのは、この小説の構成として必要なのか、よく理解できなかった。

■昨日は理由もなく人生が非常に退屈だった。今日はそれほどでもない。通勤電車で朝刊を読むことから始まって、一日のすべてがワンパターンで飽き飽きする。

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2003/03/10

深沢七郎『楢山節考』

■深沢七郎『楢山節考』(新潮文庫)を読んだ。表題作と『月のアペニン山』を読んだだけで、『東京のプリンスたち』は未読。しかし残念ながらどこが名作なのかまったく分からなかった。

今ごろになって深沢七郎を読んだのは中条省平の『小説の解剖学』で「無手勝流(注:むてかつりゅう・戦わずして勝つこと)の名人芸」と評されていたためだが、どこが名人芸なのかさっぱり分からない。廣津柳浪の『残菊』は面白がるくせに、学生時代に読んだフローベールもわからなかったし、やはり僕には文学の素養がないのだろう。

文学の素養を育てるには、子どもの頃に漫画ばかり読んでいたのではダメなのだ。小学生時代の僕はアレクサンドル・デュマの『厳窟王』など子供向けの抄録を嫌々読まされる一方で、『銀河鉄道999』や『サーキットの狼』なんていう下らない漫画にうつつをぬかしていたものだから、30を過ぎて深沢七郎を味わうことさえできないのだ。これはまったく不幸なことである。

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2003/03/08

四方田犬彦『月島物語』

■四方田犬彦『月島物語』(集英社文庫)を読んだ。近所の古本屋で見つけた本だ。斎藤緑雨賞という文学賞を受賞したらしいが、四方田氏の名前と、月島の地名がミスマッチだったので思わず手にとってしまった。ちなみに斎藤緑雨は何度も読みかけては諦めている作家の一人だ。Webサイト『青空文庫』で一作品だけ読めるのでご一読頂きたいが、完全な擬古文は読み進むのに骨が折れる。

『月島物語』はもちろん現代文、というより、雑多な文体の交錯する超・現代文。いやみのない衒学趣味と伏線がちりばめられて非常に面白く読めるエッセー集だ。埋め立てられてまだ100年の月島が、なぜ下町の代表のように言われるのか。つい先日、初めて地下鉄有楽町線・月島駅で降りると、なるほど僕が幼年時代を過ごした大阪市生野区を思い出させる長屋が残っていた。月島といえばもんじゃ焼きの連想しか持てない方には、ぜひともお勧めのエッセーだ。月島の歴史を通じて、東京という都市そのものの本質も垣間見られる。

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2003/03/06

2003/03/04の日記には読者からかなり反論があった

■2003/03/04の日記には読者からかなり反論があったが、すべてが誤解だった。僕は倫理的な正しさを問題にしたわけではない。利潤の追求と対比させたので、読者はそう思いこんだのだろうが、僕は真理としての正しさを問題にしている。その上で、真理としての正しさと、論理的な妥当性を区別している。サラリーマンとして仕事をする上で、誰も自分の仕事が真理であると言い張ることはできない。ただし、倫理的に正しいと言い張ることはできるかもしれない。いずれにせよ、僕自身は、どちらの意味でも自分の仕事が正しいなどと絶対に言わない。私生活でさえ、自分の選択が、真理だとか、倫理的に正しいとか言うつもりはない。そんなことを言うのは、端的に傲慢だからだ。仕事における決定について、それがどんな意味であれ「正しい」などと言うのはなおさら傲慢だ。そう言う人は、一体自分がどんな権利で「正しい」と言うことができるのかをよく考えてみるべきだ。ちなみに、僕の意見が極論でバランスを欠いていると反論した読者には、バランスの定義を逆に尋ねたい。僕が理解する限り、サラリーマンの言う「バランス」とは、決定的な判断ができなかったことの言い訳である。もちろん僕自身も職場でバランスのとれた判断を日常的に行っている。しかし僕はそれをバランスの取れた判断とは言わない。「サラリーマン生活は妥協の連続である」と表現する。少なくともその方が正直だ。
■「サラリーマンの仕事は価値中立である」という問題はこれで片が付いたので、読書報告。今日はなんと2冊。中条省平著『小説の解剖学』(ちくま文庫)。これはCWSレクチャーブックス刊『小説家になる!』の文庫化だが、この手の軽い文芸批評はたまに読むと面白い。で、本書で言及されていたので、何を血迷ったかこの年になってJ.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳・白水Uブックス)を続けて読んでしまった。エッセーやなんかで百万回も取り上げられてる名作らしいんで、50年前から読みたくってしかたなかったんだ。もうすぐ村上春樹訳が出るとかなんとかってことが新聞に出てたりしたんで、がまんできなくなって読んでみたってわけさ。ところが、どこが名作なのかわかんなかったんだな。でもこれを書いたとき、サリンジャーは今の僕と同じくらいの年だったんだよ。本当だよ。村上春樹はどんな風に訳すかね。
■おかげで廣津柳浪の『今戸心中』が全然読み進まないんだよ。

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2003/03/04

会社の意思決定に正誤はない

■会社で仕事をしているときに、こちらをとるかあちらをとるか、選択を迫られる場面がたびたびある。そのとき「こちらの方が『正しい』から」という理由で意思決定をするサラリーマンがいるなんて、僕には信じられない。仕事とは、会社ができる限り多くの利益をあげるためにやっていることである。それ自体が「正しい」か「間違っている」かなんて、考えてもまったく意味がないことだ。

サラリーマンの仕事に「正しい」とか「間違っている」とかいった価値判断の入り込む余地などない。せいぜい利潤を最大化するのに「適切」か「不適切」か、論理的に「妥当」かそうでないかの区別があるだけだ。まして会社の仕事で自分が下した決定について「正しい」と言い張ってしまうなんて、よほどナイーブな人間でなければできないことだ。

そんな人はきっと、生まれてこのかた、「この宇宙はだれが作ったのだろう」とか「人は何のために生きているのだろう」とか、まっとうな人間なら一度は考えることを、とうとう考えずに来てしまったのだろうと思う。これはこれでまことに不幸なことだ。一度でもその種のことを考えたことがあれば、職場は「正しい」か「間違っている」かを考える場所ではないことがよく分かるはずだ。

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2003/03/01

ポパーの入門書を読んで反証主義

■ポパーの入門書を読んで反証主義(falsification)の考え方がある程度理解できた。それと同時に、反論することによってより多くのものを産み出そうとする西洋人の基本的な態度が、日本人サラリーマンといかにかけ離れているかに気づかされた。ポパーと一般的な西洋人の考え方を同一視するのが乱暴であることは承知しているが、少なくとも西洋人が日本人よりはポパー的であるという前提で以下の文章をお読みいただきたい。日本人会社員の議論は、権威や立場の優位性を背後に自分の意見をごり押しするか、事態の複雑さを利用して相手を煙に巻くかのどちらかだが、西洋人会社員の議論は反問によって相手の論理の不整合を突く。日本人会社員の議論は立場と立場の政治的な戦いになるが、西洋人会社員の議論は理論と理論の相互検証の戦いになる、と言い換えてもいい。前者の後味の悪さと、後者の後腐れのなさは主にこうした違いから来るものだろう。ただこれほどまでに議論の態度に違いがあると、日常の会議や打ち合わせの席での議論が非常に非生産的なものになってしまう。西洋人は議論によってある考えの優位性が論証され、その場の全員が説得されれば、それ以降、論駁されるまではその考え方が有効であると暗黙の内に理解し、行動する。ところが日本人の方は、そうした議論はその場限りのものだと見事に割り切り、理論と現実の落差を口実にして、それまでの現実のままに仕事を続ける。西洋人は自分も含めた関係者がみな説得されたつもりで、新しい考え方にしたがって仕事を始めようとするのに対して、日本人はそういう考え方の変化を無視して惰性で仕事をしつづける。思考が現実を産み出すか、現実が思考を産み出すかという根本的な態度の相違があるのだ。こうした日本人の態度は西洋人からすると極めて不誠実に映るし、日本人からすると西洋人は理想を追いすぎて現実を見ないと映る。実践的に言えば、西洋人があっさり権威主義的になってくれさえすれば、日本人にとってはむしろ納得のいく事態になるのだが、対等な議論に職業人としての倫理を見いだす西洋人会社員にはそうすることもできないらしい。これは僕にとって簡単に結論の出ない問題である。

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