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2003/01/29

『日経ビジネス』掲載「新モーレツ主義」批判

■「新モーレツ主義」の続きである。日本人はこんな主義に手を出す前に解決しなければならない問題を山ほどかかえている。

その問題の一つに、新しい仕事を始めるとき、何も考えずにいきなり始めてしまうということがある。新しい仕事を始める前には、その仕事が自分の命じられている仕事全体のどこに位置付けられるかということ(目標との整合性の確認)、その仕事をどのような手順で進めるかと、どうなったら完了したと見なせるかということ(プロセスの定義)などなどを最低限、考えておく必要がある。

もしこれらについてさえ考えずに始めてしまったらどうなるか。実はまったくやる必要のない仕事だった、とか、人によって仕事の結果がバラバラになってしまった、とか、何度もやり直しているうちに一体いつまでその仕事を続ければよいのか分からなくなってしまった、などなど、非効率な結果がたくさん生まれる。

日本人が「効率」を語るときは、すでにやっている仕事をいかに効率化するかを言っている場合が多い。しかし、すでにやっている仕事を効率化するだけが効率化ではない。これから始める仕事に安定した地盤を与えること、つまり、仕事を進める手順の定義や、仕事に使う様式のひな形化などの方が、実はより大きな効率化を実現できるのである。

多くの日本人はこのことをあまり理解していないようだ。理解していないから、いつも思いつきで新しい仕事を始める。その人がマネージャであれば部下がみな試行錯誤の巻き添えを食う。こういう仕事のスタイルを改めないかぎり、無意味な試行錯誤のために日本のホワイトカラーの勤務時間が浪費されつづける。

逆にこの問題を解決するだけで、「新モーレツ主義」など持ち出す必要もなく余剰時間を作り出せる。どうすれば仕事が早く終わるかだけでなく、どうすればムダな仕事をしなくてすむか、まずそこから考えなければ、モーレツと慢性的残業のいたちごっこは永遠に解決しない。『日経ビジネス』の編集者たちにこの種の合理性を要求するのは無理なことかも知れないが。

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2003/01/27

読者から早速京都旅行への反響

■昨日、京都への夜行バス旅行についてのエッセーをアップしたら、京都在住の読者の方と、飛行機の運航乗務員の方から早速メールを頂いた。京都在住の読者の方は、僕が行こうとしていた五条近辺にある銭湯の名前をメールの中でズバリ当ててあった。驚きと同時に当意即妙というか、まさにホームページ作者冥利に尽きる喜びを感じた。

メールによればその銭湯は土曜日の朝は営業しないという。電話帳で京都タワーの銭湯を見つけたおかげで、無駄足を運ばずに済んだというわけだ。運航乗務員の方からは、現在、シートベルトは必ずしも離着陸のときだけ締めればよいのではなく、常に締めておくようアナウンスとしているとの情報を頂いた。

ちなみに「運航乗務員」の定義をインターネットで検索したところ「機長、副操縦士」とある。航空会社によって違うのかも知れないが、特殊技術を持つ人がこのホームページの読者であるという事実は、やはりホームページ作者冥利に尽きるというものだ。そういうわけで今朝は通勤途上の地下道で携帯電話に転送したこれらのメールを読みながら、至福の時を味わったのだった。

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職場の西欧人との意思疎通の難しさ

■外国人スタッフと一緒に出張に行った帰り、早めに駅に着いたので、新幹線の指定席を早い時間の列車に換えてもらおうと、当人の代わりにみどりの窓口にならんだ。もし禁煙席がなかったらどうしようかと疑問に思ったので当人に尋ねたら、(1)禁煙席があれば禁煙席を予約する、(2)禁煙席がなければ喫煙席を予約した上で、(3)乗車してから禁煙の自由席の空席をさがす、こんなことは聞かなくても自分で考えればわかるはずだという意味のことを英語でまくし立てられた。

しかし僕がわざわざ当人に確認した理由は(4)列車を一本遅らせてでも禁煙の指定席に乗る、という第4の選択肢があるからだと当人に反論したところ、こんなド田舎の駅でどうやって時間をつぶすんだとさらに反論された。そんなこと尋ねるまで分からないではないか。

日本人の馬鹿さ加減がそんなにイライラするなら、自分でみどりの窓口に並んだらどうだ、と言いたくなったが、これが異文化コミュニケーションというものだと思って言葉をのんだ。きっと毎日オフィスに来ては、日本人は能率の悪いことばかりして物事が一向にはかどらない、まったく頭の悪い連中とは一緒にやってられないと思いながら仕事をしているんだろうなぁということが容易に読みとれた瞬間だった。いかなる場合であっても仕事上の関係しかない異国人とのコミュニケーションで本音を表現するのは危険である。Frankly speaking,... と話すのは飽くまでレトリックに留めておくのがよいだろう。

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「新モーレツ主義」のバカさ加減

■ところで今週の『日経ビジネス』は「もっと働け日本人~新モーレツ主義のススメ」だと。笑わせる。タイトルだけで馬鹿らしくて読む気がしない。同誌編集者諸子は一度西洋人と仕事をしてみるべきだ。西洋人の合理的思考の前に日本人はただ恥じ入るしかないのだ。

以前読者の方にご指摘頂いたとおり、西洋人はいかに仕事をしないかを徹底して合理的に考える。その合理性の徹底ぶりと比較すれば、日本人の仕事は半分が単なる時間つぶしである。日本電産の社長が何を言っているか知らないが、日本人に対して「もっと働け」というのは「もっと無駄な仕事をしろ」と言っているに等しい。いやしくも多少の権威のある経済誌を標榜するなら『日経ビジネス』は次のように正しく呼びかけるべきである。「もっと頭をつかって考えろ日本人~新合理主義のススメ」。

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2003/01/12

中年オヤジというのはどうして電車の中でああも大股を広げて2人分の空間を占有する勢...

■中年オヤジというのはどうして電車の中でああも大股を広げて2人分の空間を占有する勢いで座りたがるのだろうか。別に自分だけ特別料金を払っているわけでもあるまいし、少し尻をずらせば体の大きな男性とは言わないまでも華奢な女性なら1人十分に座れるだけの空間をあけて見ず知らずの人に通りすがりの親切を施して「まぁこの不況続きの世知辛い世の中でこの紳士は何と博愛精神の豊かな尊敬すべき人物であろうか」と衆人から畏敬のまなざしを集める絶好のチャンスであるにもかかわらず、そのすこし尻をずらすという最小限の寛容ささえ持ち合わせていない狭い狭い心の持ち主であることを平然と露呈して何ら恥と感じないだけの鈍り腐った神経なのだ。公共の場でそんなことを平気でできる品性下劣な中年オヤジに何を言っても始まらないことは重々承知でその背後にありうる合理的な理由を推測してみよう。まず第一に考えられるのは太ももに自堕落からくる脂肪が無闇につきすぎてそもそも物理的にそれ以上閉じることができないという哀れな理由。しかしこれにしても本人が節制をできないことからくるものなのだから、責められるべきはこの中年オヤジ以外の誰でもない。第二に考えられる理由は内ももに万年の皮膚病を飼っていること。しかし皮膚病くらいは治療しようと思えばできないことはない。僕もごくまれに右脚の小指と薬指の股に白鮮菌を飼うことがあるが、発見次第薬剤で駆除して絶対にその日のうちに治療することにしているし、日頃から風呂で必ず脚の指の股をすべて清潔にするように心がけているので通常は白鮮菌に寄生されることはない。日々体の隅々まで清潔にするという一般的な心がけさえあればまず皮膚病を万年内ももに飼うということはありえないのだから、この点についても残念ながら責めは当人にある。もっと言えばたかが皮膚病くらいと自分の皮膚を健康に保つことを、他の何かがもっと重要であるということを口実にさぼっているだけなのだ。中年オヤジが常に持ち出すのはこの「優先順位」というものである。毎日会社で仕事の優先順位や費用対効果ということを耳にタコができるほど聞かされた結果、その優先順位を私生活でも自分の身勝手な嗜好の口実として拝借するようになってしまったのだ。生まれて以来、仕事を離れて人生の価値など哲学的な命題に頭を悩ませたことのない中年オヤジは、会社というところに入って「優先順位」や「費用対効果」などもっともらしい似非哲学を聞かされると、まるでそれが人生すべての真理であるかのようにとんでもない勘違いをし、そのうち「結婚生活も一種のマネージメントだ」などといったうわごとを白昼堂々口走るようになる。そうなってしまったらもう人間はおしまいで、自分がやりたくないことをすべて「優先順位」や「費用対効果」といった口実でサボるようになる。そうなってしまった人間が一般的な生活人の尊敬を集めることができないのは当然のことで、会社以外の場でむしろ軽蔑されるのは自業自得というものである。第三の...と書き出そうと思ったが中年オヤジが大股を広げてしか自分の存在価値を主張できないというのは、自分が人間存在としてもっとも惨めな位置にあることを自ら認めているようなものなのでこれ以上溺れている人間の足首にコンクリートブロックをくくり付けた上で、靴の底でもがいている頭を水中に押し込むようなことはやめておいてあげようと思う。(たまにはこんな「日記」もいかが)

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2003/01/11

コンパクトフラッシュのリーダを購入しようとお隣の駅のダイエーの家電売場「パレック...

■コンパクトフラッシュのリーダを購入しようとお隣の駅のダイエーの家電売場「パレックス」に出かけたが、売場に到着してからダイエーがパソコンを売らなくなったことを思い出して無駄足をふんだ。しかしあのBGMは一体何なのだろうか。演歌歌手のような渋い男声がサンバのリズムにのって、「パッパッパッ、パレックス、パッパッパッ、パレックス」、あの趣味の悪さは依然としてダイエーのマーケティングが消費者の感覚とかけ離れたままであることを雄弁に物語っている。できればパレックスには二度と行きたくない。あのBGMを聞かされると思うだけでパレックスに近づきたくなくあるのだ。いずれにせよCFリーダを買うには4駅先のヤマダ電機に行くしかなさそうだ。舌っ足らずな少女が元気な声で歌うヤマダ電機のBGMは家族客がほのぼのと買い物を楽しむのに適している。パレックスのBGMはいわば「濡れ落ち葉のから元気」、買い物をしていて気分が滅入る。ところでダイエーは家電部門の販売テコ入れのためのヤマダ電機との協力関係を解消したという。ダイエー側の言い分は「ヤマダ電機に合意内容を遵守する姿勢がない」とのことだが、たとえダイエーが法的措置をとって勝利したとしても、最終的に消費者がどちらの肩を持つかは火を見るよりも明らかだ。ダイエーはヤマダ電機に対する法的措置云々を言い出すことで、どれだけ消費者の心証を悪くするか、計算できないのだろうか。こういう点にもダイエーと消費者の「距離」を感じてしまうのは、僕だけではないはずだ。

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2003/01/04

『ロックバルーンは99』翻訳に読者から感想

■新年のあいさつがわりに30代男性の読者の方からネーナ『ロックバルーンは99』ドイツ歌詞の日本語訳案をメールで頂いた。エンジニアとしてドイツに赴任され、日常会話でドイツ語を使った経験があり、かつ、ドイツ語の教養もお持ちのようで大変参考になった。まず歌詞全体がドイツ古詩という伝統的な詩の形式を踏襲しており、19世紀辻音楽士の歌、「ご用とお急ぎでない方は、聞いてらっしゃい、見てらっしゃい」風の導入部分を真似ているとのこと。an-gemachtは「攻撃される」という意味で、よく使われる軍事用語であり、Man!は感嘆詞であるとのご指摘などなど、名作には名作たる所以ありということがなおさらはっきりしてきた。改めてこの読者の方に感謝申し上げたい。

もうお一人、労組職員の方からも感想のメールを頂いた。新人そっちのけで30代後半の組合員どうしが社内政治に明け暮れている様に、入社早々労組に失望したとか。もちろんはじめから希望など抱いていらっしゃらなかったとは思いますが、ベテランサラリーマンにもっとも必要なこと、それは今勤めている会社以外の会社を知ること、「会社」という場以外の生活の場を知ること、そうやって自分の置かれている立場や考え方を相対化すること、それしかないのでは。ただ宮仕えが各企業という単位での部分最適にならないようにするのは、経営者の観点からも至難の業だろうな。

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高橋源一郎『君が代は千代に八千代に』

■今頃で申し訳ないが高橋源一郎大センセイの『君が代は千代に八千代に』を読んだ(文藝春秋社・2002/05/30刊)。2000年1月から翌2001年11月にかけて『文学界』に連載された作品群と、2000年4月『小説新潮』に掲載された「鬼畜」を単行本にまとめたもので、これまでの高橋作品ではもっともセックスと暴力色と倒錯性の強い作品群だろう。

それが良いことか悪いことかは別として。少なくとも冒頭からして年明けに読むような小説ではないことは確か。しかしこの程度の倒錯性・暴力性をもった現代小説はむしろありふれており、こういった記述は僕自身がいかに無菌室の中で純粋培養された純文学しか読んでいないかということを物語っているに過ぎない。

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ミスタードーナツで『ロックバルーン』

■『ロックバルーン』について書いた直後、近所のミスドでくつろいでいたところへこの曲がBGMとして流れてきて、メロディーを間違って覚えていたことに気づいた。最近のミスドでは80年代洋楽を流すのか、懐かしいFalcoの『Rock Me Amadeus』(1985)や、Howard Jonesの『What Is Love』(1984)などが聞こえてきた。ところで松原団地駅前のミスドでは昨年末ドーナツを約半額で叩き売りしていたが、そういうサービスはなくなって心機一転ということか。

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2003/01/03

国宝に釘で照明を固定した若者

■年末の『ゆく年くる年』の生中継でNHKの委託業者が国宝の鐘楼に釘を打ち付けて照明を固定させたというニュースを聞いて、この業者の担当者は悪いことだと知ってわざとそうしたのか、言われるまで知らなかったのかと考えたが、おそらく言われるまで知らなかったのではないか。

想像するに釘で照明を固定する作業を担当した若者にとっては国宝もテレビ局のセットも釘を打ち付ける対象として区別がなかった。一方彼の上司であるベテランは国宝とセットの違いなど言わずもがなだと思っていた。その結果起こった小さな「事故」。小さな事故ですんだのはたまたま釘6本程度の問題だったからだ。

1970年代生まれの僕らにとって当たり前だった善悪の境界線は1980年代生まれの世代にとっては必ずしも当たり前ではない。そうした世代間のギャップは僕らの世代の前後に限らずつねに生じているはずだが、多くの事柄の中から重要なことを優先して伝えるという世代間の伝承の基本的なルールが守られなくなっているのは新しい現象ではないか。

社会的な安全性を確保するのは、単に犯罪を防ぐという「悪」の抑止の側面だけではなく、最低限のことがつねになされているという「善」の遍在の側面もある。「悪」は多くの場合意図的なものなので対決しやすいが、「善」の欠如は国宝の釘と同様、誰も意図せずに起こってしまうので、対策を立てるのがとても難しい。

社会的信頼を失った企業の再建も似たところがある。みんな一生懸命に建て直しをやっているつもりで、その一生懸命さが社会的信頼を失った当時のその企業の行動様式から抜け出せていないために、再び過去の泥沼に少しずつ逆戻りしつつあるといった状況。もちろんここまで企業が再建されるためには、ここまで根本的に変わる必要はないのかも知れない。とりあえず収益が上向けば企業としてはそれで良しということなのだろうが。

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2003/01/02

この日記が始まってからもう6年めになる

■この日記が始まってからもう6年めになる。6年も経つと筆者の思考も相当変化するが、過去のエッセーについて感想のメールを頂くこともしばしばで冷や汗ものだ。できれば自分の思考スタイルは不変で、かつ、その帰結も不変。ただし思考の道筋はより深遠になっていて欲しいのだが。たとえば1998/01/02の日記では日本経済新聞の健全なリベラリズムを称揚している。僕は相変わらず日経朝刊の購読者だが、最近はそれほど楽観的になれない。1999/01/05の日記では「僕は仕事は好きだが会社は嫌いだ」とのたまっているが、この件は僕に分が良いようで、いかにもなサラリーマン的心性を体現したサラリーマンは最近では優秀な経営陣の受けも悪いようだ(旧態依然の会社は別)。
■大晦日の夜は他に見る番組がなかったので、紅白をぶっ通しで見ていた。生放送で、生伴奏の歌唱を聴くと、歌手の実力差が如実にわかる。歌のへたくそな歌手はさっさと歌手を止めて欲しい。まず持田香織は哀れを催す下手さ加減。声量があればまだ許せるが、声量もない、高音も出ない、裏声も出ない、かといって踊れるわけでもない、彼女は自分が歌手である事実を屈辱的だと感じる良識さえ失っている。良識がかけらでもあれば、作曲者の菊池一仁氏に「どうかキーを2つほどさげて下さい」と頼むべきだ。大トリの五木ひろしまでつんくの楽曲で、今回の紅白はメロン記念日まで出演するつんく関係の露出度の高さに「日本の歌謡界の才能枯渇もここまで進んだか」の感が否めなかったが、それでも藤本美貴や松浦亜弥は、持田香織など問題にもしない歌唱力だ。おまけにアイドルとしてのエンターテインメント性も極限まで追求されている。小柳ゆきも実力がないのに実力派とのたまうのはやめよう。R&Bをああこぢんまり歌われたのではたまらない。中島美嘉は、誰かあのネコ背を注意してやる人間は周囲にいないのか。舞台映えするように豪華な衣裳を着せてもらっているのに、あんなに背中を丸めたのでは滑稽にしか見えない。ネコ背では胸がひらかず声も出ないし、口から先でしか歌えてないのは当然だろう。紅白に関係ないが鬼束ちひろもしかり、彼女たちに正しい発声法の必要性を感じている関係者は本当にいないのだろうか。安室奈美恵には、やる気がないなら出演するなとだけ言いたい。オープニング早々、かったるそうな表情を画面に見せるのはやめろ。歌って踊るR&B歌手ならBoAの方が余程上質である。華原朋美は紅白のブランクを感じさせない安定ぶり。hitomiはロックだから力強くさえあればいい。モー娘の「2002Ver.」は短編ミュージカルと思えば比較的よくできているし、島谷ひとみは演歌出身だけあって初出場と思えない落ち着き。夏川りみの『涙そうそう』は期待どおりの美しさで、中森明菜は中島みゆきほどではないが堂々としていた。
■つぎに男性歌手について書くと、CHEMISTRYは二人のキーが微妙にずれるので気持ちが悪い。しかも一曲のうちハモるのはサビの一部だけなのだから、ハーモニーを売り物にするのなら生演奏でもそれくらいは完璧に合わせて欲しい。ユニクロのテレビCMで、小学生相手に教室でハモる場面があったが、あの程度で小学生から拍手をもらってCMにまで撮られているようでは駄目だろう。ハーモニーの点でも、エンターテインメント性でも、ゴスペラーズはもちろんのこと、RAG FAIRの方が数段上だ。なぜか今ごろ初出場のBEGIN『島人ぬ宝』は、松山千春の『大空と大地の中で』の盗作ではないかと耳を疑うほど凡庸な曲。彼らは自分たちが島人である事実に甘えて、本土との差異を歌えなくなっているのではないか。アルゼンチン人のアルフレド・カセーロと日本人・宮沢和史が歌う『島歌』の方がはるかに強度がある。前川清の『ひまわり』は紅白で聞くと完全に役不足。福山雅治のメロディーには空間的な広がりがない。浜崎あゆみの『Voyage』など、長尾大の方が断然良い。SMAPはいきなり中居君がソロでかわいそうだった。さだまさしについては、一年の締めくくりに『精霊流し』みたいなクラ~い歌なんか聴きたかねぇよな、のひと言だけ。森進一の『運河』は自分で作曲したようだが、どこにでもある没個性的な演歌になってしまって聴くに耐えない。あれなら『冬のリビエラ』でも歌った方が良かった。細川たかし『津軽山唄』は圧巻。これを聴くにつけ、前川清は楽曲で大損した。演歌歌手は演歌で、民謡歌手は民謡で勝負すればいいんだ。鳥羽一郎の『海よ海よ』は阿木燿子・宇崎竜童コンビの楽曲だが、威勢の良さだけで勝負している感じ、曲にメリハリがない。Gacktは紅白であろうが何であろうが、どの番組に出ても基本的に同じなのでどうでもよい。キンモクセイ『二人のアカボシ』はちょっと70年代の香りがする佳作で、演奏も意外に良かった。しかしトリがつんくの楽曲というのは、五木ひろしほどの大御所でさえ大舞台に使う楽曲をつんくに頼らざるをえないほど、歌謡界にクリエイターが不足しているということなのだ。

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