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2002/11/25

六義園で撮った写真

■六義園で撮った写真のプリントが仕上がってきたがKONICAのネガフィルムで撮影した分は発色が最悪、SUPERIA400で撮影した分は雨上がりの曇天、かつ森の中で光量が足らず、手ブレしまくって全然ダメ。やはり三脚を担いで行くべきだったようだ。悔しくて来週は旧古河庭園へでも行ってやろうかという気になる。目に見えているものをそのまま再現するだけのことに何故これだけ腐心しなければならないのか。

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横光利一『日輪』

■横光利一『日輪』を読んで岩波文庫一冊読了となった。この『日輪』、神話を真似た即物的な文体(解説によればフローベールの『サランボー』の影響が強いらしいが学生時代にフランス語を第一外国語にしていたくせに僕はフローベールがどうも好きになれなかった)と卑弥呼の時代という舞台設定はたしかにファンタジー小説っぽくて実験的な読み物として面白いが、これが芸術作品かと言えばそうじゃないんじゃないかという気がする。要はあまり好きになれなかったということだ。

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2002/11/24

駒込の六義園を訪れた

Rikugien紅葉の季節ということで雪の鬼怒川の意趣返しをもかねて駒込の六義園を訪れた。いかにも日本庭園然とした人工的な山水は地下鉄都営三田線・千石駅に近い方の正門側を入ってすぐだが、JR駒込駅側の門から入ったために鬱蒼とした森の中に紛れ込んでしまった。意図的に山林を再現したのか、もとあった森を囲い込んだのか判然としないが、一見雑然と折り重なる紅と黄のグラデーションは美しいことには違いなかった。都営地下鉄の駅貼りポスターには浜離宮も紅葉の名所のようなことが書いてあるが六義園の足下にも及ばない。わざわざ鬼怒川くんだりまで旅することはなかった。

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日本語の「出来る」の語源

■朝方NHK教育ラジオを聴いていたら民俗学入門のようなことを話していた。日本語に現れた日本人の思想というテーマで、「こんど結婚することになりました」「できる」の2例がひかれていた。結婚するのは当人たちの意思に違いないのに、まるで状況がそうさせでもしたかのような「~することになった」という言い方。そして本人の能力をあらわす言葉であるのに、「どこからか出て来る」という語源をもつ「出来る」。

いずれの日本語にも、非人称の存在のあらがい難い力という思想が根底にあるという。その非人称の存在は「世間」と言っても「空気」と言ってもいいだろう。職場で西洋人といっしょに仕事をすると、このように日本語そのものに織り込まれた、決して悪い意味ではない「無責任の思想」と戦わねばならないというわけだ。

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最近明治文学を気に入っているわけ

■最近明治文学を気に入っているのは、それが近代日本の青春時代だからである。青春時代は「私は誰か」というアイデンティティーの問題に悩む年代だが、グローバル化の今ほどそのことが再び強く問われたことは明治以来なかったのではないか、という考えが僕をして明治文学を読ませているのではないか。本棚からしいて明治文学を選択しているのは僕自身の意思であるにもかかわらず。

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横光利一『春は馬車に乗って』

■つまらない人にはつまらないかもしれないが読書報告。広津柳浪(今日図書館で明治文学全集を立ち読みして広津和郎の父親ということを知った)につづいて大正時代にスキップし、横光利一『日輪・春は馬車に乗って』(岩波文庫)を読んでいる。同年代の方なら教科書でお馴染みの『蠅』も収録されている。『ナポレオンと田虫』も久しぶりに読んだがこんな奇妙な短編だったろうか。

新感覚派というくくりでこれら二作が横光利一の典型だという先入観があるので、『春は馬車に乗って』を読み終えたとき意外なほど叙情たっぷりで電車の中で思わず涙ぐんでしまった。今のうちに予告しておくと、次に控えているのは萩原朔太郎『猫町』(岩波文庫)である。読まないうちに茶々を入れたい人はすぐ筆者宛にメールせよ。

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2002/11/23

問題は正しく問われたときすでにその答えは見つかっている

■問題は正しく問われたときすでにその答えは見つかっている、という言葉をどこかで読んだことがある。僕はこの言葉は正しいと考える。正しく問われた問題はすでに解決方法を示唆しており、後は実行することしか残されていない。したがって問題解決においてもっとも難しいのは、それを問題として認識する過程ということになる。問題として認識されれば、その問題を正しく問うことはまともな国語力があればさほど困難ではない。ただし問題を問題として認識するという最も困難な過程をとても簡単にする方法がある。問題を問題として認識するには背景からその問題を浮かび上がらせればいいわけだが、認識の背景は多くの場合意識化されていないため、問題とその背景を区別することができない。それを区別するために異なる背景をもつ人たちの意見を一度そのまま受け入れてみることだ。しかしここにもその意見を異なる意見として認識できるかどうかという不確実性がある。このように考えてくると自分が問題として認識していることが果たして本当に問題なのか疑わしくさえなってくる。自分は問題を正しく認識していると無条件に信じられることが辛うじて問題を問題として成立させているのではないかと考えたくなるほどである。
■最近AppleはMacintoshはWindowsに比べてわけのわからないトラブルが少なく初心者向きであるというテレビCM(リアルピープル・シリーズ)を流しているが、パソコンがかんたんか難しいかは絶対的な尺度で評価できるものではなく、利用者の情報リテラシーという相対的な尺度でしか評価できない。情報リテラシーの高い利用者にとって「難しいパソコン」というのはそもそも存在しないのと同様に、情報リテラシーが低い利用者にとって「かんたんなパソコン」も存在しない。AppleのCMが主張するようにMacintoshユーザの平均的なリテラシー水準の期待値がWindowsユーザよりも低いということが真実なら、このCMはMacintoshはそうした利用者の期待を裏切ることしかできない。グラフィックスにもDTPにもDTMにも興味のないパソコン初心者が、果たしてMacintoshを選択する理由とは何だろうかと改めて考えさせられるCMである。

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2002/11/21

広津柳浪『河内屋・黒とかげ』

■先週末、近所の市立図書館で岩波文庫を3冊借りてきて、うち一冊、広津柳浪(ひろつれうろう)『河内屋・黒とかげ』(とかげの二文字目がパソコンになかつたので平仮名とした)を4日間で読み終えた。広津柳浪は明治時代に観念小説・深刻小説の一時代を築いた小説家といふ。巻末の解説によれば『河内屋』という明治29年の作品については露伴は絶賛、鴎外も高い評価を与えているらしい。

日本の近代文学史における観念小説の位置づけに詳しくないが、作者の価値観を強く反映した小説で、写実主義の対義語になるやうだ。ただ作者の価値観を反映しない純粋写実などありえない。眉山の『観音岩』は観念小説と言ひながら「社会派」とでも呼びたくなるものだつたし、色恋沙汰ではなく、社会の暗部に焦点を当てたものが観念小説なら、小杉天外の『魔風恋風』だつて観念小説になりさうなものだ。

収録の3作(表題作以外に『骨ぬすみ』)はいづれも悲劇的な結末で、登場人物が泣いてばかりなのには辟易するが、たしかに上手い小説だ。ただ最近の夜のテレビドラマ風の大袈裟な物語の展開に依存する面があり、鴎外等淡々とした展開に心理描写が織り込まれる成熟とは距離がある。物語に依存しないという意味では『骨ぬすみ』がもつともよいと思つた。

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2002/11/17

今さら人間にとって自由とは

■最近、今さらながら人間にとって自由とは何かと考える。ぼんやりと年をとってしまうと、いつの間にか自分の自由がのっぴきならないところまで制限されてしまっていることに気づかされる。好むと好まざるとにかかわらず現状の惰性で生きて行かざるを得ないというわけだ。そうなったとき人間は一体何に希望を見いだして生きていけばよいというのだろうか。

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テレビCMのでたらめなフランス語

■花王のシャンプー「エッセンシャル」のテレビCMで女優がしゃべっているフランス語は発音がでたらめで理解不能、見るたびにこちらが恥ずかしくなる。あんなフランス語で菓子職人留学の夢を見られるほど世の中甘くない。もちろん本当にそうなりたいという思いがあれば語学など二次的な問題だが。

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夏目漱石『坊ちゃん』

■今日のうちに漱石の『坊ちゃん』を読んでしまった。たしかに後期の漱石のように執拗な内面描写はないが、そう単純な勧善懲悪の物語では決してない。主人公は結局憂さ晴らしをしたに過ぎず、「世間」に負けて東京に帰ってくる。痛快青春ドラマでも何でもない。著者自身が主人公と正反対の精神性の持ち主なのだから、二重に屈折した小説である。

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2002/11/16

紅葉を求めて鬼怒川へ

■先日紅葉の風景を求めて鬼怒川温泉に出かけたところがまったくの冬だった。ねずみ色の雲が山々の頂をふさぎ、傘をさしてもコートの前に白くこびりつくほど降りしきる雪の中で渓谷に向かってシャッターを切ったが、出来上がった写真には無数の白い筋が映っているだけ。厚い雲で光量が足りず、シャッター速度が遅すぎた。50mmf1.8の単焦点を持っていれば、雪を止めることができたかもしれない。紅葉狩りをする天気ではなかったので、温泉に入ってその日のうちに帰ってきた。それでものんびりとした東武線の旅はなかなか楽しめた。

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読んでいなかった『坊っちゃん』

■前回のこの日記は永井荷風の『おかめ笹』を読み終えたと言うところから始まっていたが、その後、途中で読みさしたままだったゴールドラット著『チェンジ・ザ・ルール!』(ダイヤモンド社)を読破し、しばらく木田元『現象学の思想』(ちくま学芸文庫)を読んでいた。ただメルロ・ポンティに関する論文ばかりなのに辟易して、夏目漱石『坊ちゃん』を読み始めた。文庫化されている漱石の小説はたいてい読んだつもりだが、よく考えると『坊っちゃん』だけ読まないことに本屋の中で気づいたためだ。マドンナだの赤シャツだの『坊っちゃん』については『我輩は猫である』同様その親しみやすさだけが強調されるためかえって僕のようなへそ曲がりには敬遠される結果になった。

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2002/11/08

誤解しつつも笑いあう外国人と日本人

■目の前で一人の壮年の外国人と同年代の一人の日本人が会話のふとしたことからどっと笑い出した。しかし僕はあいまいな頬笑みを顔に貼りつけて二人の様子を眺めているだけだ。なぜ笑いの輪に入れないのか。それは目の前の二人がまったく異なることをきっかけに笑い出しているのに、主に日本人側の英語力の不足が理由で、二人ともその事実に気づいていないためだ。

彼らは楽しみの感情を共有できているが、僕は真相を知っているがためにそこからはじき出されている。お互いに誤解していながら感情は共有している二人と、二人の誤解を完全に理解しているために感情を共有できない僕。このような場合、コミュニケーションを成立させているといえるのは、この二人なのだろうか、僕とこの二人のおのおのなのだろうか。

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永井荷風『おかめ笹』

■前回のこの日記は鴎外の『雁』を読み始めたというところで終わっていたが、しっとりと静謐な余韻を残すこの名作を読み終えた後、永井荷風の『おかめ笹』を同じく岩波文庫で読み終えた今日、月を越して久しぶりの日記となった。

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