« 2002年5月 | トップページ | 2002年7月 »

2002年6月の記事

2002/06/25

会社員の給与は基本的に仕事内容や企業のリスクの高さに比例するのではないかという気...

■会社員の給与は基本的に仕事内容や企業のリスクの高さに比例するのではないかという気がしてきた。実力主義や成果主義で社員の給与が決まるという会社は、給与原資の配分方法を変更する必要に迫られているからには、何らかの意味で「転換期」にあり、将来の業績の予測可能性が低くなっており、つまりは事業リスクが高くなっている、そのために給与が高くなる(可能性がある)ということかもしれない。会社の事業そのものがハイリスク・ハイリターンの場合は社員の給与も高くなる傾向はあるのではないか。また外資系のコンサルタントなどは「up or out(昇進するか辞めるか)」というリスクに常にさらされているので給与が高くて当然とも言える。たとえ事業のリスクが低くても、その会社に組織運営上のリスクや事務処理上の(オペレーショナル)リスクがある場合も、やはり給与は同業他社に比べて高くなるのではないかと思う。これはあくまで思いつきの仮説なので何の根拠もないが、定職においてどれだけのリスクを取れるかが給与に連動しているというのは、人生においてその人がハイリスク・ハイリターン型を求めるか、ローリスク・ローリターン型を求めるかという大きな分岐点だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/24

「韓日交流祭」展示の日本語誤植の多さ

■ちなみにK-POPのアーティストに関する日本語の情報としては、掲載アーティスト数と週間チャートやニュースなど最新情報の充実の点でこちらの『韓国情報発信基地!Innolife.net』が充実している。

■昨日分の日記で書き忘れたが「韓日交流祭」についてどうしても書いておかなければならないのは、展示に添えられた日本語のひどさである。漢字がすべて旧字体であるというのは、そもそも日本の現在の漢字は日本が勝手に作った省略体であるから仕方ないとしても、パンフレット類などわけのわからない誤植や落丁が多すぎる。

韓国で展示資料類を作成するときに日本語のネイティブチェックを行う日本人がいないのだろうか。普通日本企業が海外向け展示会に出展するときなどネイティブチェックは必須だと思うのだが。多少間違っていても通じるからという費用対効果を見越した手抜きなのだろうか。日本人の見学者としてあまり愉快でないことは確かだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/23

「韓日交流祭 KOREA SUPER EXPO 2002」

BoAの日本語アルバムを通勤電車で毎日聴き、S.E.Sの韓国語アルバムを購入したばかりだからというわけではないが、幕張メッセで2002/06/19~23まで開催されていた「韓日交流祭 KOREA SUPER EXPO 2002」に行って来た。日本側の主催はNHKと朝日新聞社。

伝統文化の紹介ということで韓国の伝統的な婚礼の儀式を日本人の若い夫婦が新郎・新婦役で参加しておこなっていた。韓国人のおじさんが日本語で「新郎を表す色は『陽』の赤、新婦を表す色は『陰』の青」などの解説を差し挟みながら、来場客の取り巻きの中、なごやかな雰囲気で儀式は進んだ。

フィナーレとして韓国の音楽専門チャンネル「M.NET」(第一製糖という企業が出資する放送局)主催のコンサートが開かれた。ジャニーズの「嵐」を思わせる男性5人組アイドルグループ「BLACK BEAT」の歌唱力はかなりのものだったが、衣裳がマイケル・ジャクソンの『スリラー』そのままでいかにも時代錯誤だったのはご愛敬。しっとりバラードを聴かせる「隣愛」は五輪真弓『恋人よ』のカバーを歌った。現代風のスマートなアレンジに嫌みは無かったが、背後の大画面に流れていたプロモーションビデオは韓国風こってりメロドラマでこれもご愛敬。

コンサートの司会をつとめたのは日本でデビューして韓国で活躍している女性3人組の「TOYA」(トゥ・ヤ)。S.E.Sの二匹目のドジョウっぽいが歌唱力はそこそこ。日本デビュー曲を日本語で歌っていたが残念ながら僕は聴いたこともなかった。それから日本全国をライブで回っているということでTBSの何かの番組で取り上げられたという男性3人のラッパー「DRUNKEN TIGER」は他の出演者と違って気取りのないお兄ちゃんたちで聴衆を乗せるのがいちばんうまかった。

そして今回のFIFAワールドカップの開会式に出演したという実力派R&B女性シンガーPark JungHyun(ニックネームは「LENA PARK」)。確かに2曲目の『Desperado』で聴かせたフェイクの歌唱力は抜群だが、声質が幼く、背も小さく、容貌も中学生のように愛らしいのに無理やりブロンドに染めたソバージュとしっかりメイクで大人っぽく見せようとしているのがやや痛々しかった。あと、失礼ながら名前は忘れたが最初に登場した「セクシーお姉さん」歌手はベタベタのユーロビート。

一人だけ日本人アーティストとして元X-JapanのYoshikiプロデュースの「shiro」が登場したが、ステージ衣裳があまりに普通のカジュアル・ファッションで、ルックスも非常に地味。「スター」を絵に描いたような韓国陣との落差が激しかった。

内省的かつ自閉症的な日本人アーティストに比べて、K-POPのアーティストたちは、それぞれの曲は典型的なR&Bであったり、典型的なユーロビートであったり、典型的なラップであったりするが、聴衆に対するサービス精神旺盛でまさにエンターテインメントの王道を行っている。単純に楽しめた「KOREA SUPER EXPO 2002」」だったが3回目の今年で最終回とのこと。この文章に含まれる韓国人アーティストへのリンクをさがすのにどれだけ骨を折ったかを考えると、韓国大衆文化と日本の交流はまだまだなのだが、「KOREA SUPER EXPO」は一定の役割を果たしたと言うことだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/21

今日は上司に説教してしまった

■今日は上司に説教してしまった。成果を出すことが求められる仕事の場では、あえて人間の愚かさに不寛容にならなければならないのだが、やはり気持のいいものではない。「何をしたらいいのか分からないから何もしない」というレベルの判断力しかない人間を部長に据えた上に、管理職向けの教育も行わないとは、残酷で理不尽な会社だとつくづく思う(この会社の実名はこのページで近日中に明らかにされる可能性が高い)。能力のない人間にプレッシャーをかけてこの会社は何が面白いのか。GEのジャック・ウェルチだったか、日本経済新聞連載の自伝に「首切りは本人のためにするのだ」という主旨のことを書いていたが、まさにそのとおり。仕事をするだけが人生ではない。能力不足の人間は地味な仕事をこなす幸福な人生もある。能力不足の人間に相応の選択肢を用意することで、活躍したい人には機会を与えることができる。そうすればみんなが幸福ではないか。無理に年功序列にこだわるから、無理に部長職をやらされる人、無能な部長の下で仕事がしにくい部下、そんな部長と部員では部門としてもまともな成果がでず、結果的に会社全体が不幸になるだけなのだが、それに気づかない愚かな経営者が会社を経営しているのだから仕方ない。
■ひさしぶりにCDショップに出かけた。銀座HMV。購入したのは次の3点。S.E.Sの韓国語による第5弾アルバム、Duran Duranの『THE GREATEST HITS』、X-PRESS 2の『MUZIKIZM』。S.E.Sについてはこのページでも何度か出てきているのでご存じの方が多いだろうが「韓国のSPEED」と言われながらSPEEDよりもやや年上の3人の女性ボーカルグループで、SPEEDよりも長く続いており、今回のワールドカップの名誉親善大使みたいなこともしている。メンバーの一人であるシューは最近日本の舞台で女優としても活躍した。僕が好きなのは圧倒的な歌唱力のパダ(SEAとも呼ばれる)だが、この第5弾では彼女のフェイクがそれほど目立たないのでやや不満。僕が以前ヘビーローテーションで聞いていたのは日本で発売された日本語アルバム『REACH OUT』だが、やはり韓国向けのアルバムと日本向けのアルバムは作りが違うようだ。韓国向けのせいかこの第5弾はポップス色が強く、R&B色が弱い。さて、Duran Duranのベスト盤だが、これは衝動買い。最後の方に収録されている90年代後半のものは例外として、通して聴くと涙がちょちょ切れる懐かしさ。思わず風呂場で『Reflex』を歌ってしまう。最後のX-PRESS 2は英国プログレッシブ・ハウスの3人組。あのデヴィッド・バーンがなぜか3曲目にボーカルとして参加している。Talking Headsとハウスはプリミティブなリズムということでつながらなくもないが、一体どういう人脈なのかはよく知らない。どなかたご存じの方はメールでフィードバックして頂きたい。ハウスのアルバムは久しぶりに購入したが、実はこの手のミニマルな音楽を聴けるようになったのは「パニック障害」がほとんど完治してきたからなのだ。おそらく心の病には反復の多い無機的な音というのは良くない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/20

銀行システム障害で日経の的外れな批判

■金融庁によるM銀行に対する業務改善命令が出たが、これに関する日本経済新聞の社説がやや的を外している。「システム障害を起こした原因で最も深刻なのは、システム管理担当者が真の情報を経営陣に伝えていなかったことである。都合の悪い情報がトップに入らなければ、経営のかじ取りは不可能だ」とあるが、真の情報が経営陣に伝わらなかったのは果たしてシステム管理担当者の責任だろうか。今回の処分でもCIOが辞任したが、これは単なるトカゲのしっぽ切りではないだろうか。

形式的にはシステムに障害が出たのだからシステムの最高責任者が責任を取るのは一見まっとうだが、今回のシステム障害はそもそもそうしたM銀行内の既存の職制による責任分担に限界があったからこそ起こった障害だ。つまりシステムの責任はCIOが取るものであり、経営陣は我関せず、といった既存の職制が今回のシステム障害の原因であり、その原因を除去しない限り問題の根本的な解決にはならない。

にもかかわらずM銀行の処分も日経新聞の社説も、その観点は既存の職制の枠内にとどまっている。上記の社説は正しくはこう書かれるべきであった。「システム障害を起こした原因で最も深刻なのは、経営陣がシステム管理担当者の報告の信憑性をチェックできる監査体制を事前に作っていなかったことである。監査体制がなければ都合の悪い情報がトップに入らないのは当然だ」。

企業統治では社外取締役などのチェック機能が大きな問題になるくせに、システムについてはCIOに対する監査は不要だというのだろうか。M銀行の処分や日経の社説の背後にある、こうした情報システム軽視の考え方こそ問われているのだが、どうやらM銀行も日経新聞もそのことには気づいていないようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『日経コンピュータ』の顧客満足度調査に疑問

■『日経コンピュータ』誌2002/06/17号の「特集・顧客満足度」調査に強い疑念を抱くのは僕だけだろうか。システム構築サービスのランキングでNEC系企業が上位を占めるというのは、まぁSEの方々が地道な努力をしているのだろうということで理解できる。

しかしWebアプリケーションサーバでNECのWebOTXが、IBMのWebSphereや富士通のINTERSTAGEを抑えて1位だったり、ERPパッケージでNECのEXPLANNERが日本オラクルのOracle EBSやSAPジャパンのSAP R/3を抑えて1位というのは果たしてありえる結果だろうか。同誌から質問票を送付された企業のうち、回答した1485社にかなり統計的な偏りがあるのではないかと考えるのが普通だ。こんな「あやしい」集計結果がまかり通っていいものだろうかという気がするが...。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/19

情けないほどに奴隷根性の染み付いたタイプの人間がいるもので

■情けないほどに奴隷根性の染み付いたタイプの人間がいるもので、自分が責任のある立場から、他の責任者に下駄を預けられる立場になったとたんに、肩の荷が降りた安堵感からかえってやる気が出てしまうという社員。それが担当者レベルならまだ許せるが、仮にも「部長」という肩書きをもつ人間だとなると給料泥棒としか言いようがない。一つの部門の責任者として必要な行動を起こしていない実行力のなさを責められると、「それだけの技術力のある人間がいないからだ」とすべてを「技術力不足」のせいにしようとする。不足しているのは技術力ではなく指導力だということがまったく自覚されていないのだから始末が悪い。「技術力不足」だと言いながら部下に技術を習得させるための施策を講じているかと言えば、外部の講習会の参加は担当者たちの「自主性」に任せている。すべては部門の責任者に不適格な人間が部長という肩書きを持っていることが原因なのだが、当の本人がそれを自覚していないというのは、この部署に限ったことではなく、会社全体でも同じ構造が繰り返されている。組織が再帰的に、自分のマネージャとしての不適格性に無自覚なマネージャによってマネージされているときているのだ。(言っておくがこれは他人から聞いた話の抜粋である)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/16

アスペクト指向はJavaの進化か?

■何となくひまつぶしに読もうと『Java World』という月刊誌を購入して、JavaとXMLの世界の変化に驚いた。「SimpleTypeFactoryはsimpleTypeを表すインタフェースISimpleTypeの具象クラスの生成を、FacetFactoryはファセットを表すインタフェースIFacetの具象クラスの生成を行います」。これはいったい何語だろうか。前提知識がなければほとんど理解不可能な言語だ。

僕がナイーブな進歩主義者ならJavaの世界の「進歩」と書くところだが、単なる「変化」である。技術者は長く考えれば考えるほど技術領域を細分化・専門化してエントロピーを増大させてしまう。これは惰性的な変化であって、何事かが進歩しているわけでは決してない。その証拠に細分化・専門化の後には統合化・体系化の動きが必ず続く。

Javaの例で言えばJavaが複数の専門分野に細分化していくのは、Javaという生まれて間もないプログラミング言語が世界の多様さに適応していく過程というより、モジュール化に体裁のいい名前を付けているだけではないだろうか。Javaの登場でプログラミング言語が記述しうる世界の複雑さの水準が高まったわけではなく、表現方法がちょっと洗練されたというだけのことだ。

たとえばアスペクト指向を見ればそれがオブジェクト指向の「進歩」ではなく単なる「変化」、悪くすれば「退化」かもしれないということがよく分かる。もともとプログラミングとは対象としての世界を記述する手段であり、世界の客観的な自律性を暗黙の前提として初めて成立する。

ところがアスペクト指向はせっかく作り上げたその「客観的な自律性をもつ世界」という虚構に、人間の主観的な「関心事」を持ち込んで、並立する対象に気まぐれな横串を貫通させてしまう(アスペクト指向プログラミングはサブジェクト[=主体]指向プログラミングとも呼ばれる)。

これはプログラミングの存立基盤そのものを危うくさせる「禁じ手」であり、オブジェクト指向の「退化」ではないのか。それを「オブジェクト指向の欠点を補う新しいパラダイム」と紹介してしまうのだから、情報技術にかかわる技術者が自分自身の依拠する問題領域の境界や前提条件にいかに無自覚かということがわかる。

情報技術者たちは自分たちがちょっと哲学チックな領域に踏み込んでいるという、検討違いな自尊心を捨てるべきだ。情報技術は単なる応用科学なのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/14

後藤明夫『挟み撃ち』、香山リカ『若者の法則』

■後藤明夫『挟み撃ち』(講談社文芸文庫)。脱線した話がぜんぜんもとにもどってこないという小説。実験的な小説で楽しめる。香山リカ『若者の法則』(岩波新書)。自分が「若者」であるかどうかの確認のために読んだ。結論としては僕は「若者」ではない。ただ日常的に「若者」に不愉快を感じている人は、まず本書を手にとらないだろうし、仮に手にとったとして書かれていることを理解するだけの柔らかい頭を持っているかどうか疑問。彼女の「手紙」は誰に届くのか?

■無難なことしか書けなくてごめんなさい(僕にとって大切な昔からの読者の皆様へ)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『システム障害はなぜ起きたか みずほの教訓』

■あまり書くべきことがないというか書けるようなことがないのだが、せめて最近読んだ書名だけでも覚え書き程度にしるしておこう。『システム障害はなぜ起きたか みずほの教訓』(日経BP社)。みずほのシステム障害に関する詳細な報告はそれとして、むしろ東京三菱銀行合併時のシステム統合が成功したのは、当時の同行経営陣がシステム開発のプロジェクト管理に深くコミットしたからこそであるという成功事例の紹介が興味深い。

同様に北洋銀行が破綻した旧拓銀の勘定系を採用するに至った経緯も成功事例として詳述されており、やはり経営陣がじっさいにプロジェクトの最高責任者として迅速な意思決定を行なわなければ、情報システムの戦略的な活用は画餅に帰すということがよくわかる。でもこの本をどれだけの経営層が読んでいるかは極めて疑わしく、おそらく情報システムにまつわる状況は改善されないのではないかと思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/06

日常生活ではたまにどう考えても理屈に合わないことというのが起こる

■日常生活ではたまにどう考えても理屈に合わないことというのが起こる。今日、帰りの電車の中で途中から運良く座席に座れた。しばらくすると左隣の席が空き、かわって体のがっちりしたサラリーマンが例によって大股開きでどっかと腰掛けた。携帯電話で必死にメールを入力しているその右肘で、文庫本を読んでいる僕の左肘を強烈に押してくる。まぁこれはやたらと体ばかり大きくて頭は空っぽなサラリーマンにありがちな態度だから黙って辛抱するよりほかない。ところがしばらくして今度は右隣の席が空き、かわりに乗ってきた駅から明らかに女子大生と分かる若い女性が座った。女性は男に比べれば華奢なので肘で少しでも自分の場所を広く確保しようなどという浅ましい行動に出る人はいない。ところが、である。その女子大生がトートバッグから携帯電話を取り出して、やはり親指をつかって必死でメールを入力し始めるや否や、左肘を僕の右肘と彼女の体のすき間にものすごい力で割り込ませようともがき始めたのだ。僕としてはそれほど混雑していない車内で、しかも向かい側には空いている座席もあるというのに、なぜそれほどまでにこの女子大生が必死に自分の座っている空間を左肘で押し広げようとするのか、しかもそれまでは何の主張もなく座っていたにもかかわらず携帯電話でメールを入力し始めることをきっかけに突然、性格が豹変したかのように左肘で僕の右肘を痛いほど押し分け始めたのか。僕の右肘が痛いということは、それほど筋肉質ではない彼女の左肘も相当痛いはずなのに、それほどまでして携帯電話を入力するためのお決まりの姿勢を形成したいとでもいうのか。こちらはできるだけ両脇に座っている人に迷惑をかけないように肘を横へ押し広げることなく、文庫本を膝の上で読むのにぎりぎりの横幅しか占有せずに座っているだけなのに、その僕からなおも横幅を奪い取ろうと肘で両脇から侵攻してくるこの二人はいったい何者なのだろうか。そこまでして空間を広げたいことの理由がまったく理解できないのだ。僕は何となく馬鹿らしくなって大仰に文庫本を持ったまま両手を前に差し出し、ちょうどバレーボールのレシーブのような両腕の形をとって「はいはい、そんなに肘を広げたいんだったらどうぞ」という格好を一瞬とってから、ゆっくりと立ち上がって電車から降りた。ちょうど自宅の最寄り駅に着いたところだったので。誰かあの女子大生の心理を合理的に説明できる方は教えてほしい。通勤電車の中では押されようが何されようが、その人がそうせざるを得ない理由が容易に想像できるのであまり腹を立てないが、今日の女子大生の行為だけは理解に苦しんだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/03

音楽についてしばらく書くのを忘れていた

■音楽についてしばらく書くのを忘れていた。書店で韓国ポップスの月刊誌を見つけてパラパラとめくったところ、久しぶりにS.E.S.の名前を目にした。インタビュー記事にはパダの自信家の側面がよく現れている。ニューアルバムではパダの歌声が後退してシュー、ユージン2人のボーカルが全面に出てきているとのこと。それについてパダはどうしてもっと早く2人のボーカルを目立たせなかったのか、他の2人のボーカルがあまりに上手いので自分と間違える人もいると語っている。つまり3人の中でいちばん歌唱力があるのは自分だと明言しているわけである。それでも嫌みにならないくらい実際に歌が上手いのだから仕方ない。屋外イベントで3人の写真が掲載されていたが、「男性的」な性格のパダのタイトスカート姿には違和感があった。3人とも大人っぽさを強調する方向へイメージチェンジしているのだろうが、パダの歌声がもっと全面に出るべきだと考えていた僕としては新しいアルバムの音楽的な方向性はやや残念。プロデューサーはパダも含めて何としても3人の「女性性」で売りたいのかもしれないが、パダがタイトスカートでは彼女の個性が台無しではないか。S.E.S.についてこんなに熱く語ってどうする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2002/06/01

翻訳なしに米国合理主義を持ち込む怠慢

■『アメリカの影』という題名にひかれたのには単に東浩紀が『郵便的不安たち』の中で加藤典洋と高橋哲哉の論争に言及していて、たまたま文庫本コーナーで見かけたからというだけではない理由がある。僕が勤務している会社で社内的に評価の高い30代の若手社員がどうして例外なくアングロサクソン的経営論を無批判に称揚してしまうのか、単なる疑問をこえて日々いらだちさえ感じているためだ。

とにかくその感染され具合は無邪気と言えるレベルである。英語ができないのに何とかマネージメントのカタカナ用語を振りかざし、それでベテラン社員に対して反論できているつもりでいる。アングロサクソンの経営論を超保守的な日本企業の職場で実践に応用するのは結構だが、最低限の努力として日本の文脈に翻訳しなおすくらいのことはすべきだ。翻訳なしに米国の合理主義的な経営論を保守的な日本企業に持ち込むのは怠慢である。

同じことは情報技術関係の各種イベント、展示会で日系のシステム構築会社の講演を聴いていても感じる。例によって自社の商品やサービスの前に「インターネット社会の到来」だの「ニューエコノミー」だのいろいろと能書きを垂れるわけだが、その能書きは米国の情報技術系サイトで読んだような内容の受け売り。日本の文脈に翻訳しなおす作業がここでもサボられている。どちらの例も自分の思考停止を露呈してしまっていることに羞恥心のかけらもないのだ。彼らはおそらく彼ら自身が称揚する合理主義によって自らが「リストラ」にでも遭わない限り、自分の無邪気さを改めて考え直すことはないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

他人を評価する唯一の判断基準

■僕が他人を評価するときの基準はただ一つ、尊敬できるかどうかである。僕にとって尊敬に値する人間とは、自分の不完全さを正確に把握していて、少しでも完全になろうと行動している人のことだ。自分が何を知らないか、何ができないかを知っていて、かつそれを開き直らずつねに処方箋を案出しようとしている人。ずいぶん以前のこの日記にも書いたような気がするが、ベテラン会社員のほとんどが僕にとって尊敬に値しない人物である。彼らにあるのは開き直りだけだからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東浩紀『郵便的不安たち』

■職場のある超高層ビルの3階の本屋でたまたま見かけたので東浩紀『郵便的不安たち』の朝日文庫版を手にとった。読むのは二度目だが文庫化で新たに収録された評論があるといことで購入した。

相手が外国人であろうが「デリダ」や「ドゥルーズ」といった固有名で話がツーカーになってしまうオタク的コミュニケーションに対置される郵便的なるもの。こんな要約をしていてもこの要約自体にノスタルジーしか感じなくなっているのはこれらの固有名を参照する資格がすでに僕にはなくなってしまっているからか。

逆にこれらの固有名に縛られない自由さも獲得しているわけで、明治初期の言文一致から現代文学評論モードへひとっ跳び、今日は久しぶりに中央図書館の文庫本コーナーで著者別配列の「あ」行から「た」行までねばりにねばった結果、阿部和重『インディビジュアル・プロダクション』(新潮文庫・東浩紀が解題を書いている)、加藤典洋『アメリカの影』(講談社学術文庫・同著者の『敗戦後論』について東浩紀が言及している)、後藤明生『挟み撃ち』(講談社文芸文庫)、『戦後短編小説再発見10・表現の冒険』(講談社文芸文庫)の4冊を借りて、『インディビジュアル・プロジェクション』を一気に読み終えてしまった。

解題で東浩紀が指摘しているように、「普通の」小説なら当然のこととして前提とされる作者と読者と主人公の関係が宙づりにされてしまう奇妙な読後感を残す小説で、映画でも漫画でもなく小説にしかできないことをやっている小説。ただこれを「J文学の騎手あらわる」と紹介して、発刊当時の僕の読む意欲を失わせた出版社の出した手紙は僕ではなく一体誰に誤送されたのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2002年5月 | トップページ | 2002年7月 »