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2002年1月の記事

2002/01/31

NGO参加拒否問題で日経の驚くべき不見識

■今朝の日本経済新聞『春秋』を読んで愕然とした。今回のNGO参加拒否問題で「大損したのは鈴木氏」「同情を集める真紀子氏の損は小さい」と書いてある。この『春秋』の記者、今回いちばん損をしたのがNGOであることにまったく触れていないのだ。これで日経の記者がつとまるなら日経はきっと御用新聞なのだろう。信じがたい不見識である。

ピースウィンズ・ジャパンの大西氏が鈴木氏とのやりとりのメモを2002/01/30に発表した。メモの真偽はどうでもいいが、メモについて鈴木氏は読売新聞に対し「自分が言ったのは『君たちは国民の税金を使うので、国民に感謝しなくてはだめだ』という趣旨だ」と述べたという。

この鈴木氏の発言がいかに的を外しているか。命の危険を冒して難民救援活動をおこなうNGOに感謝しているのは、むしろ国民の方なのだ。NGOが国民に感謝するのではなく、国民がNGOに感謝しているのだ。いったい国民の誰が「税金を使わせてやっているのだから、NGOもちょっとは感謝しろ!」などと不遜なことを思うだろうか。

そんな不遜なことを思うのは鈴木氏のような政治家だけだろう。彼はまるで自分が国民の意見を代表しているかのような口ぶりだが、国民の支援を受けているのはNGOの方ではないか。鈴木氏を擁護する『春秋』の記者も同罪、今回の問題で国民の善意をもっとも反映しているのがNGOであり、その次が田中外相であるということをこの記者はまったく理解していない。

たしかに田中外相の人気はポピュリズムの部分もあるだろう。だがワイドショーが鈴木氏を悪役にしたのは厳然たる過半数の「民意」だ。いったい日経はいつから御用新聞になったのだろうか。外務省が鈴木氏の影響力に左右されているように、日本経済新聞も隠然たる権力の奴隷になってしまっているのかもしれない。

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2002/01/30

田中外相、野上事務次官

■田中外相、野上事務次官、鈴木委員長の三方一両損で小泉首相の采配に快哉している場合ではない。もう一人の当事者であるNGO「ピースウィンズ・ジャパン」(大西健丞・統括責任者)が完全に忘れられている。NGOが排除された真の原因はついに藪の中。小泉首相は非政府団体の原因究明要求を無視して、政府のメンツを救ったわけだ。国会運営正常化のためと言うが、国会は誰のためにあるのか。非政府である国民の声が無視されたまま、政府・国会の内部事情ですべての事が丸くおさめられる。小泉首相といえども政府や国会がたんなる国民の代表者でしかないことを忘れている。それでも小泉首相を支持する必要があるだろうか?
■会社の現状にいろいろと不満はあるけれど、理想論を言えばきりがない。人的資源、金銭的資源などすべての資源においてそれぞれの企業は制約条件を負っているなかで最善の努力をしようとしているだけなのだ。

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2002/01/28

組織の成長にしたがって業務は複雑化し

■組織の成長にしたがって業務は複雑化し、従業員に要求される業務の水準も高まる。組織としてそれに追随するには教育制度の充実が必須だ。いくら金や資産があっても企業はそれを構成する「人」以上にはなれない。それを忘れて事業の拡大ばかりに目を向けていると、組織は足元から崩れる。現に僕の身近なところから、組織の成長に人が追いつかず、人が組織の成長の足をひっぱっている様子が見える。

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2002/01/27

頼まれた仕事を後先考えずに何でも引き受けることは無責任以外の何物でもない

■頼まれた仕事を後先考えずに何でも引き受けることは無責任以外の何物でもない。仕事を安請け合いする会社員は一見上司にとって都合の良い部下のようだが、その実、部下に適切な仕事の配分ができない無能な上司と無責任な部下のお似合いのペアというだけのこと。部下も部下だが上司も上司で、職場での責任の重さから言えば上司に改善の責任があることは言うまでもない。しかしそういう二人がお互いの非を責め合っている場面に出くわしたらあなたはどうするだろうか。もう笑うしかないだろう。もちろん彼らは愛すべき二人である。僕も含めて世の中に完璧な人間など一人として存在しないのだから。
■近所のTOWER RECORDSで購入したアストラッド・ジルベルトの『The Silver Collection: The Astrud Gilberto Album』は大当たりだった。ジャケット写真は彼女の『おいしい水』というアルバムと同じだが、この海外版のコンピレーションは何と25曲入りで1690円でありながら、彼女の主要作品をひととおり聴けてしまうというボサノバ入門者必聴のアルバム。ボサノヴァ女性ボーカルといえば日本では小野リサのような「ささやき系」でビブラートやファルセットのないボーカルをイメージする人が多いと思うが、アストラッド・ジルベルトがその原形になっているのかもしれない。というのは彼女にボサノヴァのボーカルを教えたと言われているナラ・レオンの『美しきボサノヴァのミューズ』が大ハズレだったのだ。1曲目からボサノヴァじゃなくて60年安保時代の日本のフォークソングみたいじゃないか。僕がボサノヴァに期待しているのは南国の涼しい木陰で遠くに聴く波音であって、街中の地下の薄暗い酒場にくゆるタバコの煙ではない。ビブラートの効いた渋い声でボサノヴァを歌われた日にゃぁ、って感じ。舌足らずな声のささやき系がお好みの方には初期のアストラッド・ジルベルトがおすすめ。

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2002/01/24

某食品会社で輸入牛肉を国産牛肉と偽って業界団体に買い取らせた事件

■某食品会社で輸入牛肉を国産牛肉と偽って業界団体に買い取らせた事件、発覚したのはおそらく社内関係者からのリーク、偽装工作の動機はおそらく輸入牛肉在庫増への対応を迫られ、窮地に追い詰められた47歳のセンター長の会社への意趣返しだろう。そもそも牛肉の在庫が積みあがったのは政府の狂牛病対策が後手に回った責任である。しかしその責任を問われるのは食品業者のしかも現場の責任者。輸入牛肉の在庫増は数字で社内にガラス張りになっていたはずで、センター長は経営陣からもその責任を直接・間接に追求されていたに違いない。経営陣は輸入牛肉の在庫増に対して全社的な対策を講じることなく、センター長に全責任を負わせ、必要であれば人事的な処分をするつもりだったはず。人間、いくら困った状況におかれたとしても、センター長とて偽装工作などすれば社会的な大問題となり、同社グループの再建が事実上不可能になることは予想できたはず。それでもなお偽装工作というあきらかな違法行為に出たのは、現場の長である自分が狂牛病騒動の全責任を負わされる理不尽さに対する意識的な「反乱」だったにちがいない。同社経営陣が昨年11月の社内調査で偽装工作を徹底的に調査しなかったのも、そこで偽装工作が明らかになれば自分たち経営陣の責任が重くなるためだろう。あえて不十分な調査にとどめることで問題の表面化を回避し、さらに追い詰められた現場責任者がより直接的な違法行為に出るように誘導、自分たち経営陣を対外的に「被害者」の立場に演出する意図があったのではないか。センター長はいずれにせよ路頭に迷うが、経営陣は事件後もそこそこの生活を送れる。そうはさせまいと偽装工作に関係した一社員がリークし、問題が発覚した。そう考えるとすべてが納得できる。全員が保身を目的に合理的に行動すれば、そのしわよせは少しずつ下へ下へと降りていく。いかにも日本的な組織ではないか。

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2002/01/22

『たけしのTVタックル』持ち家神話のとんでもない帰結

■コマーシャルの合間に『たけしのTVタックル』の「持ち家か賃貸か」というテーマの討論を見ていたら、あるパネラーが阪神大震災で持ち家を焼失しながら住宅ローンを支払い続けている人々の話を紹介したところ客席から「えーっ!」という驚きの声が上がって驚いたのはこっちだ。そもそも数千万円も借金して住宅を購入するなどという贅沢をしながら、地震でその住宅が焼失したからといって借金を帳消しにしてもらおうという方が虫のよすぎる話なのだ。住宅を購入することと純金を購入することの区別がついていないのか、それとも住宅ローンは借金じゃなくて資産とでも勘違いしているのか。日本人の持ち家神話もここまで来ているのかと、ただあきれた。

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2002/01/14

三宅花圃『籔の鶯』

■近所の図書館で講談社『豪華版 日本現代文学全集 樋口一葉』収録のテニスン『イノック・アーデン』翻訳と三宅花圃の『籔の鶯』など明治初期の女流文学を読んでいた。三宅花圃は樋口一葉と同じ萩の舎出身だが、残されている写真は一葉と対照的に洋装で『籔の鶯』も西洋風の舞踏会なんぞを物語の舞台としている。当時の女性の社会的地位に関する言及や、上流階級の社交場での言葉づかいから車夫の雑談までが入り混じる言語空間はなかなか面白い。

同じ全集の幸田露伴の巻に樋口一葉論を読んだが、一度しか面会した事のない露伴が一葉は『にごりえ』の主人公お力のような人物だという風評を必死で否定しようと論じているのも面白い。ちなみに露伴が一葉の傑作としてあげているのは日記と『にごりえ』だそうで、やはり一葉の日記が傑作なのは露伴も同意するところらしい。

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2002/01/13

夕方の真っ暗な道で考えたこと

■夕方の真っ暗な道を帰りながら、僕は何のために生きているのだろうかという疑問がひさしぶりに頭をよぎった。誤解のないように言い添えれば、死にたいわけではない。生活に忙殺されていると「より良く生きる」ということを忘れがちなのだ。

仕事は数年単位の短期的な目標(ビジネスの世界で数年というのは短期ではなく中長期だが)を与えてくれるため、それにかまけているだけでも年月は瞬く間に過ぎていく。しかし「何のために生きるのか」という問いは十年単位の問いである。

もし家を買って、子供を育ててという他人と同じような生活のためだけに生きるのなら、神様か仏様か知らないが僕を僕としてこの世に生まれさせた存在に対して申し訳が立たない。そのような超越的な存在者に頼るまでもなく、僕は何らかの点で他人とは違うことを表現しながら生きる義務があると考える。存在の横溢なしにただ生活するだけなら自分を匿名の存在であると認めることになり、生きている意味がない。ではその溢れ出す部分とは一体何なのだろうか。

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樋口一葉の日記

■樋口一葉全集で彼女の日記を読んでいるのだが、記憶力や生真面目さに驚かされる。ある集まりで男性と女性、年齢の合計はどちらが多いかというゲームになったという下りがあるが、日記には20人近くの年齢が逐一記されている。おそらく一葉は翌日になって前日の行動を反省しつつ日記を記したと思われるが、ここまで律儀に日記を書く人も珍しい。また、図書館通いをして男子学生の中に自分ばかり女性で気恥ずかしい思いを書いている部分や、生計を立てるための針仕事の疲れについ勉強を怠ってしまう自分を戒める部分は、眉をよせながら筆を走らせる姿が思い浮かべられるようでチャーミングでさえある。

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ワークシェアリングに関する『サンデーモーニング』の勘違い

■TBS『サンデーモーニング』「風をよむ21」というコーナーのディレクターは報道番組をやめてドラマに移ったほうがいい。毎回コメンテーターと知的水準の差が大きすぎ、自分で番組を作っていて恥ずかしくないのだろうかと思う。

今日のワークシェアリングの取り上げ方を見てもわかる。何が「痛みを分け合うワークシェアリング」だ。自分も一介のサラリーマンなら入社当時どれだけサービス残業させられたか少し振り返ってみれば日本のサラリーマン社会はそもそも「痛みを分け合う」社会だったということが分かりそうなものだ。

サービス残業で痛みを分け合い、つきあい残業で残業代をムダに着服し、総合職・一般職の賃金格差が当然のように存在し、派遣・パート・アルバイトと福利厚生費の負担が不要な企業にとって都合のいい労働者が学生や主婦層を中心に多数存在し、そうやって個々の企業の業績不振という本来は経営者の責に帰せられるべき問題を自分たちの痛みとして分け合うことで日本人は大規模な解雇を避けてきたのだ。

いま業績不振の企業が聖域とされてきた雇用に手を入れて千人単位の解雇をすすめるなかで、そこそこの業績を維持している企業の経営者がワークシェアリングを言い出すのは、単に賃下げの口実を求めているだけではないか。それが分からないのであれば、イメージでしか物を捉えられない「風をよむ21」のディレクターはドラマに移ったほうがいい。TBSの報道水準そのものが疑われ、報道のTBSとしての信用が失墜することを真剣に心配する。

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2002/01/06

正月の閑散とした最寄り駅

■正月、最寄り駅のホームに立つとどことなく閑散とした感じ。思えば正月の駅はいつも駅名表示板が風にゆれてきしむ音さえ聞こえるほど冬の空気が静かだ。何が違うかお分かりだろうか。駅員のアナウンスがまったくないのだ。電光掲示板が音もなく次の電車の行き先と到着時刻を表示し、ホームで電車を待つ人影もまばらでコートに首をすくめてじっとたたずんでいる。

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『馬場信幸のカラーリバーサルフィルムのためのこだわり露出テクニック~TTL測光フル活用~』

■市立図書館で『馬場信幸のカラーリバーサルフィルムのためのこだわり露出テクニック~TTL測光フル活用~』(毎日新聞社)という本を借りて読んだ。

肉眼はどのカメラにも勝ると言われるが僕らがどのような状況でも的確に物を見ることができるのは、連続してなめらかに変化しながら網膜に映る動画を頭の中で一つの静止画として総合し、加工しているからであって、個々の瞬間の静止画をそのまま見ているわけではないからだ。

他方カメラはシャッターを開いているごく短い時間という制約条件下で最適な露出による像を作り出す必要があるのだから、適切な写真を撮ることが裸眼で対象を見るより難しいのはよく考えれば当然のことである。僕らはコンパクトカメラや使い捨てカメラが氾濫し、写真は素人でも簡単に撮れるという常識の中で生きているために、写真がいかに困難なバランスの上に成り立っているかを意識しない。

ところがこれは因果がまったく逆で、写真がいかに難しいかを知りすぎている写真機メーカーやフィルムメーカーが、何とか一般大衆にも写真を撮らせようと長年にわたって写真は簡単という宣伝と技術革新を続けてきた結果なのだ。

シャッターを押して映ったものが写真であるということを僕も今まで疑うことさえしなかったが、休日にたった2冊の書物を読むだけでそれが十分に疑う余地のある命題であることを発見できた。コンパクトカメラしか使ったことのない僕がいきなりカラーリバーサルフィルムのための露出術を学ぶ理由は、写真というものについて理解可能な範囲でできるだけ困難な形態に触れたかったからだ。

本書を読めばスローストロボ機能のないコンパクトカメラで夜景を背景に人物を撮影するのが無意味なこと、カメラのカタログに言う「適正露出」が適正な露出という意味ではないことなどがよくわかるが、コンパクトカメラや使い捨てカメラで写真を撮る気がしなくなってしまうという副作用もある。何も分からずに使い捨てカメラで写真を撮っているうちが幸せなのかも。

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2002/01/03

国文科の樋口一葉のテキスト

■正月、妻の実家を訪れたところ、学生時代に国文科で使っていたという一葉のテキストを発見。テキストらしく実に事細かな校註つきで日記が抄録されており、半井桃水が一葉を尾崎紅葉と引き合わせようとしたが浮名惜しさに一葉がそれを断る経緯が面白くついつい引き込まれた。まるでそれ自体ひとつの小説であるかのように自らの私小説を克明に写す日記に驚き。これは図書館で全集を借りてくるしかないか。

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『Corporate Irresponsibility --- America's Newest Export』

■その他幸田露伴『五重塔』(岩波文庫版)など最近明治文学づくしでこの日記の文体も少々ヘンになっているのはご勘弁を。一種の文体練習のつもりで言文一致、擬古文ふくめて読んでいるので。

そのなかでも唯一の現代物がようやくamazon.co.jpから取り寄せることができた『Corporate Irresponsibility --- America's Newest Export』(Lawrence E. Mitchell, Yale University Press)という現代企業の短期的な株価志向経営を批判する書物。短期的株価上昇を志向する経営をつきつめると結局短期的な株価上昇に失敗するという、命題の自壊をねらう論述戦略はおそらく経済学におけるポストモダンの手法と呼ぶにふさわしいものであるに違いないと期待しつつページを繰っているところ。

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小杉天外『初すがた』

■小杉天外『初すがた』(明治33年)読了。『魔風恋風』が通俗小説家としてのベストセラーなら、自然主義作家としての出世作はどうかと読んでみた(筑摩書房刊・明治文学全集65)。冒頭、延々とつづく演芸会のスケッチ風描写は「読者の感動すると否とは詩人の関する所では無い、詩人は、唯その空想したる物を在のままに写す可きのみである」(『はやり唄』「叙」より)の思想にそって、群衆の要所要所を会話中心に点描するスタイルが鮮やか。

この調子でと読み進めたところが後半は単に物語を語らんがための急速な場面転換となり、直接話法による会話の他はほとんどが人物の服装に関する描写のみで『魔風恋風』が顔をのぞかせている。物語自体は一葉『たけくらべ』の大人版といった面白みも何もないもの。天外のスタイルは風俗小説家としては無駄のないものなのかもしれないが『はやり唄』以降の全集は読む気がしなくなった。

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浅草「スーツ・アンド・スーツ」へ

■年の瀬、テレビのニュース番組で紹介されていた激安スーツの店『スーツ・アンド・スーツ』に行ってきた。浅草駅徒歩5分、浅草寺二天門目の前という分かりやすい立地ながら裏町で家賃が安い古びた雑居ビルを、壁面は白、床はフローリングで高級ブランド店かと見まがうほど見事に改装した店舗、明るく重厚なガラス戸を押して入ると左側にまず採寸コーナーがあり、JIS規格風と違って体のタテヨコを別々に採寸するイタリア流で48種類のうちの一つにサイズが決まる。

フロアはそのサイズごとに区切られており、体形にぴたりのスーツがならぶ区画へ一直線で時間のムダもない。忘れてならないのは値付けで、全商品100ドル、2001/12/30現在の店舗独自の交換レートは1ドル=120円なので要は全品税抜き12,000円の均一価格。中国産ながらグレー、チャコールグレー、紺を中心とするイタリア風シルエットのスーツがずらり、三つ釦の品揃えも豊富で一品一品が異なる生地、お目当てのものが必ず見つかるという仕組み。

ニュース番組で紹介されたときは新橋のサラリーマンに50万円の有名ブランドスーツとどちらがブランド物かというクイズの趣向で、ほとんどが100ドルスーツを「アルマーニ」と勘違いしたとか。生地の質や種類、サイズのバラエティーもダイエーの9,000円スーツとは雲泥の差。僕も起毛でやや光沢のあるチャコールグレーのスーツを購入、裾上げは1階の専用コーナーで調整してもらい、費用は1,000円、所要時間たった1時間、わざわざ後日取りに来る手間もなく大助かり。

店のカタログを良く見るとなるほど一昨年日比谷店に出かけたことのある「INHALE+EXHALE」と同系列とのこと。デフレ下で追い風を受けているアパレルもダイエーのようにただ安いだけではダメでユニクロしかりブランドイメージは重要という教訓。

ところで同じ店内で明らかに関西出身の男性二人組が大声で「おまえ、それ似おぅてるわ」などとわめきながらのスーツ選定、安売りスーツを買いに来ているという最低限の羞恥心もないがめつさ下品さに同じ関西出身として鼻白む思い。これやから関西人は東京へ出てきても都会人としての洗練が身につへけんのや、アホ。

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