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2001/12/31

この冬はデロンギのオイルヒーターを買おうと電器量販店に出かけたが暖かくなるまで1...

■この冬はデロンギのオイルヒーターを買おうと電器量販店に出かけたが暖かくなるまで1~2時間もかかるというので電気ストーブとガスファンヒータと併用する例年どおりの姿に落ち着いた。立ち上がりに時間がかかるのはタイマーで24時間運転することを前提としており生活サイクルに合わない。

元はと言えば昨年の冬、ある人物がエアコンやらファンヒーターやら風で空気を温める暖房は効率が悪い、オイルヒーターのような輻射熱暖房は実はとても暖かいのに日本で普及しないのは解せないという持論を展開していたので今年こそはと思ったのだが、日本で輻射熱暖房が普及しないのは単なる一般的日本人の不明のせいだろうかと考えてみた。

核家族化の進んだ日本家庭は昼間無人か、主婦が一人で過ごすことが多い。一人だけを暖める暖房として立ち上がりに時間のかかるオイルヒーターは効率が悪いし性能が過剰である。電気ストーブかこたつで十分。老人は一日在宅としてあの細かい爪をスライドさせるダイヤル型タイマーは非常に使いづらい。日本家屋はマンションでさえ間仕切りが引き戸になっていることが多く気密性の低い空間になっている。欧州に比べると気候が温暖でガラス窓が断熱のための二重構造になっている住居がほとんどない(防音のための二重窓はあろうが)。また、できるだけ窓から採光しようと壁に対する窓の面積が広く、その上天井高が低い。輻射熱を反射するための壁の面積が狭いのだ。

朝晩家族が集まる短い時間にこのような空間を効率よく暖めるには、輻射熱のように直接対象物を暖めるより、石油ストーブのように高カロリーの化石燃料を燃やしたり、ファンヒーターのように暖気を強制的に押し出して対流によって空気を暖める方が適している。僕らは案外合理的に石油ストーブやファンヒーターを選択しているのだ。

■年末休みの暇にまかせてテレビを見ていると荒川区の31階建て高層マンションの建設反対運動がレポートされていた。この手のレポートは日照を奪われる住民の不利益ばかりがクローズアップされるが、このマンションに入居できるおかげで100世帯以上もの家族が1時間以上の通勤地獄から解放され、ゆとりのある生活を送れるようになるのだ。

しかもマンションの北側に住む人は日照のない生活をする点で反対派と同舟。彼ら反対派に新たに荒川区に引っ越してくる人たちのゆとりある生活を否定する権利はないはずである。こういうとき日本人はどうして現状維持の方向で利害調整しようとするのか。

細分化された土地にせいぜい3階建ての一軒屋が建ちならび、それら「選ばれた住民たち」が荒川区から都心への快適なアクセスを享受している状態と、彼らの土地をまとめて高層マンションを建築し、一人でも多くの人が23区内に住む便利さを享受するのと、どちらか首都圏全体として見たときに望ましい状態だろうか。

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2001/12/28

社内情報システム部門の仕事が性にあっているのはそれが中立的な存在だからだろう

■社内情報システム部門の仕事が性にあっているのはそれが中立的な存在だからだろう。社内の情報システム部門は純粋なコンピュータ技術者ではない。社内に情報システム部門が存在する意味はその企業特有の事情と世間一般の情報技術を結びつけることにあるためだ。かといってもちろん純粋な業務部門でもない。情報システムの構築・企画は特殊なスキルが必要な専門職だからだ。さらに情報システム部門は社内のすべての部門を平等に見て全体最適を考える必要があるし、全体最適を考えることのできる部門である。業務部門偏重でも現場部門偏重でもいけない。それだけに社内SEの資質として党派性が強くてはいけない。派閥を作って他の派閥を陰で非難したり、特定の開発ツールや開発思想にこだわることは許されない。そのときそのときで明確な方針を打ち出すことは必要だが、その方針が「正しい」ものだと考えてはいけない。要は何が正しくて、何が間違っているかという議論に巻き込まれてはいけない。そんなことは一人ひとりの人生全体において考えるべき課題であり、会社の仕事で考えるべきことではない。どの党派にも組せず、偏らず、あえて言えば経営者の意思をうけて全体最適を考える境界性が社内情報システム部門の存在意義だ。ベンダー側のSEは少なくとも自社の技術やサービスを売りこむ必要があるので完全な中立というわけにはいかない。社内情報システム部門は中立的でなければならない。

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2001/12/26

『日経ビジネス』の戦後住宅政策記事

■珍しく店頭販売している本屋が見つかったので久しぶりに『日経ビジネス』を購入して読んだ。『マイホームが危ない--住宅政策3つの大罪』という特集記事がお目当て。

政府による戦後住宅政策を「持ち家政策の罪」「景気対策活用の罪」「新築偏重の罪」の3つに分類し、住宅金融公庫の甘い貸出基準が新築住宅の価格を吊り上げることで住宅業界を利する一方、一般消費者をローンで苦しめている矛盾を指摘している。

公庫を廃止して民間金融機関に住宅ローンの貸出を競争させれば、供給量に見合って住宅の価格も下がるという議論には納得だ。ただしそのおかげで庶民が持ち家を購入しやすくなれば逆に「持ち家主義」が強化されることになり、この点で同誌の記事は矛盾をきたしている。

むしろ公共部門は家族向け賃貸住宅を供給することに集中したらどうか。それにしても戦前まで当たり前だった借家住まいから一転して政府の持ち家主義プロパガンダにあっさり洗脳されてしまう日本人っていったい何なのだろうか。

特に同記事で最初にとりあげられている会社員の自己破産事例を読むと、住宅政策の罪というより「男の沽券」など実にくだらない価値観を信じこむあまりの自業自得という気がする。それが自業自得でないなら日本人の持ち家主義は経済の問題ではなく文化の問題だ。「一国一城の主」的な家父長制的信仰を相対化できれば住宅金融公庫だってこれほど「うまく」機能することはなかっただろう。

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2001/12/21

日経の今日の記事に奇妙な記述を見つけた

■日経の今日の記事に奇妙な記述を見つけた。「技術情報をネット上で公開したところ、これまでに情報を利用するため閲覧登録をした人は約千八百人に達し大きな反響を呼んでいる」。本屋CDが1,800売れたといって誰が「大きな反響」というだろう。「技術情報」というのは科学技術振興事業団北野プロジェクトのものだが、日本のネット人口も今や数千万人台、そのうちたった1,800人しか閲覧登録していない事実が「大きな反響」だろうか。この記事を書いた日経新聞の記者がいかにIT音痴かということがよく分かる下りである。
■日本で広告代理店をはじめて本格的にとりあげたルポルタージュ、田原総一朗『電通』(朝日文庫)を読んだ。1984年刊で1980年前後の状況を中心に描かれているため現在の電通の状況とは大きく異なるのかもしれないが、以前に古本屋で仕入れてあった本書を読むきっかけはこうだ。テレビ番組に妊婦の登場する頻度が最近多くなったような気がする。「子育ても悪くない」なんていうコピーの自動車のCMもあったりする。これは雅子さまご出産のお祝いムードで少子化を解消しようという一大キャンペーンではないかと直感したのだ。自分でも深読みしすぎとは思うが、出産関連ビジネスの活性化で景気浮揚を期待する企業や政府の利害が一致すれば、広告代理店が「産めよ殖やせよ」ムードを演出するのもビジネスとして儲かる案件と言えなくもない。同書には過去の政府の政策展開に電通が深く関与していることをにおわせるエピソードがいくつか紹介されている。メディアの一受容者としては軽重問わずその手の情報操作に乗せられないだけの見識が必要だと考えた。
■一方でちくま文庫版の森鴎外全集第3巻『灰燼 かのように』を読んでいた。今まで読んだことのない鴎外の短編に触れた。『蛇』『鼠坂』など怪奇ミステリーっぽい作品は冷徹で合理主義的なテーマ選定がほとんどの中で異彩を放って興味深い。『蛇』においては狂人と化した女主人、『鼠坂』においては陵辱の上に殺された中国人女性が神秘的なものや怪奇現象の要因にされている点が家父長的な性差観を濃厚に反映している。日本人が大陸で行きずりの中国人女性を陵辱した経験を宴席の暴露話に明かされるという設定の『鼠坂』は当時の一般的な日本人の中国観を露呈している。これら政治的トーンが鼻についてくるのは鴎外が意識的に文学に政治を持ち込むまいとしながら、不可避的にある種の政治色に浸透されてしまっているからなのだろう。

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2001/12/20

会社員の組合離れが議論されて久しい

■会社員の組合離れが議論されて久しい。組合が廃れようが何しようがど~でもいいことだが、組合がなくなったからといってストライキがなくなるわけではないと日々「肌で感じている」のは僕だけだろうか。組合が主導する組織的なストライキは確かに時代の遺物かもしれないが、士気の低下した個々の社員が「自主的に」仕事の能率を低下させ、ひいては会社全体の業績低下を引き起こし、さらに社員の士気を低下させるという悪循環による緩慢なストライキが進行している企業は少なくないのでは。特に経営トップが社内に気を配らず外を向いてばかりいる企業は、気が付くと全社員が自主的に罷業していた、なんてこともありうる。「労働者」の要求が不明確なまま水面下で進行する緩慢な罷業と、組合が明確な要求を掲げて組織する目にもあきらかな罷業、経営者にとって脅威なのは実は前者ではないか。

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2001/12/19

準急も止まらない東京郊外の駅に最近

■準急も止まらない東京郊外の駅に最近、新しいバス路線ができた。乗車ステップの低いマイクロバスで、朝夕の通勤時間帯にほとんど乗客がいないわりに、開通当日の日曜日にはバス停に列ができていた。ほとんどが老人か子供で、自家用車を足として使えない高齢者が主に日中利用する路線と思われる。バスは衰退業種と思っていたが今後高齢化の進む都市郊外は十分鉄道網が行きわたらない住宅地が広がっている分、小型のバスを運行すれば案外採算の合う商売なのかもしれない。小さなバスが住宅街の隅々を巡回すれば高齢者の消費意欲が少しは高まって地域経済の活性化に寄与する「かも」しれない。巡回バスなので暇なときに目的もなく乗りこんで一周してみたい。
■角川文庫版の樋口一葉『たけくらべ・にごりえ』を読み終えた。他の短編もなかなかの佳作だが、家父長制下の女の不幸しか描けなかった一葉が多少なりとも男女平等に近づいた現代の女性の生活に取材すればその何を描いたろうか。

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2001/12/15

なぜ僕の文章にかぎかっこが多いのか

■なぜ自分の書く文章に鉤括弧が多いのか。それは自分の書こうとする言葉がどれもどこかで読んだり聞いたりしたような言葉ばかりだからだ。人が話す言葉はすべて他人から学んだものなのだから本来はすべての言葉を括弧でくくらなければならない。その括弧をいちいちつけていると読みにくくなるので省略しているつもりなのだろうが、それでもあえて括弧をつけた言葉はなかでもこれが他人の言葉の引用であることを強調したいのだ。

裏を返せば世の中には他人の言葉で語っていながらさもそれが自分の言葉であるかのようにして言葉に対して無反省な人が多いと言うことになる。何を書いてもどこかで読んだような文章になるというのは理想だろうか、悪夢だろうか。

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樋口一葉『大つごもり』

■こういう本をいままで読まずに過ごしてきたかと思えばそのことがひどく悔やまれる。先日とある酒席で例によってウーロン茶を飲んでいた僕に「酒が飲めないんじゃどうやってストレス解消してるの」とたずねた人があったが確信をもって言おう。読書がストレス解消法だ。

ストレスを「抑圧」ととれば目には目をで酒なりニコチンなり別種の力を借りなければならないが、それは生活が仕事に従属しているためだ。そもそも仕事と生活はどちらが主従ということはなく二つの並行した世界である。だから仕事に疲れれば生活に逃げればよい。生活に倦めば仕事に逃げればよい。

僕にとって読書は生活の不可欠な一部であり、仕事のために生活がある人の言う「ストレス解消法」にあたる。このページで既に紋切り型になっている「酒の力を借りなければ本音の言えないサラリーマン」が活躍する年の瀬にふさわしい『大つごもり』という題名の作品で始まる角川文庫版『たけくらべ・にごりえ』こそ僕にこれまで読まないことを悔やませた本、「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の往来にはかり知られぬ全盛をうらなひて」とは、たしかに註でもなければ読む気も失せるが、読後感を言えば「まるで溝口健二の映画のよう」、改行も読点も鉤括弧もなく風景の描写も心理描写も会話も切れ目なくなめらかにつながっていながら流れの底からふつふつと人の情念が沸き出すような文体は溝口映画のカメラワークのよう、流れるべきところは流れ、光景の転じるべきところは残酷なほど一転し、『にごりえ』(五)にある主人公お力の心理描写は圧巻、物語の終末とあいまって『近松物語』を思い起こさせるその迫力は改めて一葉に触れる機会を与えてくれた高橋源一郎大センセイへの感謝の念を改めさせた。

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2001/12/13

グレンミラー・オーケストラ・コンサート

■先日サントリーホールでグレンミラー・オーケストラの演奏を聴いた。別にビッグバンドの愛好家でも何でもないのだが、事前に『グレン・ミラー物語』という典型的なテクニカラー時代の旧き良きアメリカ映画で勉強した限りでは、複数の演奏者が同一の楽器で一つのパートをなし、そのパート内で和声を発生させるような編曲をジャズに適用したのはグレン・ミラーが先駆者らしい。メロディーとコード進行だけでなく最終的な音の響きまでを創作したという意味で、ポール・モーリアなど僕の大嫌いなイージーリスニング系のご先祖ということなのだろう。

コンサート自体は間に15分間の休憩をはさんで約2時間、ステージの真横の席だったので前にしか音がでない金管楽器ばかりのビッグバンドを聴く席としては最悪だったが、終始4ビートでノリノリといった感じ。やはりこれも旧き良きアメリカ、敗戦後の多くの日本人が憧憬の対象としていた頃のアメリカへの懐古趣味として楽しむべきものだろう。

ところで後から考えてみるに、毎年世界を回ってグレン・ミラーの決まりきったレパートリーを紋切り型のパフォーマンスで演奏しつづけるのは、一音楽家として幸福なことなのだろうか。これがクラシックのオーケストラの一奏者なら指揮者の解釈によって、また演目によって音楽家としての変化や刺激も経験できるだろうが、グレン・ミラーの指揮に解釈もヘチマもない。

昔の夢に浸りたい老人がいる限り仕事がなくなることはなかろうが、音楽家としての自己実現を彼らはどこで満たせるのか。あるいは自分たちは純粋な芸人であると割り切っているのか。彼らバンドメンバーにそのあたりの葛藤がないとも言えないが。ちなみにオリジナル編曲が1曲だけ演奏された。グレン・ミラー風『川の流れのように』(美空ひばり)である。

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それでもWeb化が必要か?

■全国に分散している拠点に高価な広帯域ネットワークを敷設する必要がないし、クライアント側モジュールのメンテナンスも不要なので社内業務アプリケーションをWeb対応にしました、というのは2年程前からどの大企業でも聞かれた情報システム部門の業務システムに関する弁である。

しかしADSLの普及のおかげでクライアント・サーバでもそう支障のない性能の出る広帯域回線が安価で手に入るようになった。さらに世間でもっとも普及しているWebブラウザはコンピュータウィルスの標的となり毎月のようにサービスパックを当てなければ安心して使えない代物になっている。これでもまだ社内業務システムをWeb対応に大改造する費用対効果があるだろうか。

いくらWebクライアントの表現力が改善したとはいえ、入力効率の問われる業務システムに必要な水準にはまだ程遠い。つい先日も100%Javaで記述されたOracle E-Business Suiteのクライアントのデモを初めて見たのだが、swingコンポーネントの動きの一つひとつがぎこちなく、とても業務システムらしくは見えない。

こんなものを使わされるくらいならサクサク動くVisual Basic製の実行モジュールがサーバ上のオブジェクトと交信する三層システムの方がまだまだ操作性、効率性、開発維持コストの面でもまだまだ有利なのではないか。Javaの開発言語としての洗練性は理解できるが、業務システムの開発言語に必要なのは言語としての洗練よりも、道具としてどれだけ手になじみやすいかだろう。それはまだCOBOLが生き残っていることからも分かる。

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書籍はテレビより高効率な媒体

■受動的なメディアの中でも読書の利点は消化の速度を自分で制御できるという点だろう。テレビや映画は時間の流れる速度を作る側が支配している。短いカットの積み重ねでテンポの速い映像にするか、長回しでゆったりとした映像にするかは作り手が決める。書物であっても芸術性の高いものは作家が時間を支配しているが、人文科学系の啓蒙的な書物はある程度読み手の理解能力が速度を決定する。

そういう意味でまどろっこしいのはテレビの教養番組だ。とくに最近嫌と言うほど目に付く健康番組。『クイズためしてガッテン』『特命リサーチ200X』『あるある大事典』などなど。専門書で読めば理解に十分とかからないような薄い内容をCMごとに視聴者をじらせて50分間にわたって放送する。

見ているほうは効率良く実利的な知識を吸収できたと自己満足してその実大変な時間のムダをしていることに気付かない。単位時間あたりに消化する情報量を自分で制御できる読書は実はもっとも効率の良い情報処理の手段なのかもしれない。

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2001/12/12

武蔵野線に乗るとき

■武蔵野線に乗るとき車窓を流れる見わたす限りの平原にところどころ残された雑木林に舗装されていない砂利道さえ通っていると、かつては林深く手つかずの自然の姿だったころが想像され、まるで国木田独歩の作品そのままではないかと思い返すとなるほどこの路線には「武蔵野」線という名がついているのだった。
■コンサルティングファームと米国型楽天的啓蒙主義の自己矛盾について近日中にエッセーをまとめたい。

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2001/12/09

今たいていの組織でいわゆる「リストラ」のターゲットになっている団塊の世代

■今たいていの組織でいわゆる「リストラ」のターゲットになっている団塊の世代。「抵抗勢力」として磐石の層をなしている彼ら・彼女らを批判している20代、30代の若い世代(僕もその一人なのだが)について一つだけ確実に言えることがある。僕らの世代が50代になったとき、僕らの大部分は今の50代よりもっと始末の悪い「抵抗勢力」になっているだろうということだ。団塊の世代が改革に抵抗する理由は、彼らが右肩上がりの経済成長下でただ所与の解答を受け入れて生きてきたため変化に適応できないからだと言われている。しかし20代、30代の世代が本気でそんなことを考えているのだとすれば相当におめでたいと言わざるを得ない。第一に団塊の世代は石油ショックを乗り越えてきているのだ。第二に彼らは高度経済成長による豊かさを決して当然のこととして享受してきたわけではない。彼らが生きていた時代は公害問題など経済成長の負の側面が未解決だったし、資本主義に対するアンチテーゼが「サヨク」として現存していたのだ。それに比べて僕らの世代は団塊の世代に比べればはるかに変化の少ない時代を生きてきた。公害問題はきれいに解決された後で経済成長の弊害を知ることもなく、「サヨク」の「サ」の字も知らないために米国型資本主義をたやすく受け入れてしまっている。つまり自分たちが生活してきた環境以外のものに対する耐性という点では、団塊の世代を戦中世代と比較した以上に抵抗力をもたない。石油ショック以降に生まれた僕らの世代は、戦後初めて米国型資本主義の保育器の中で純粋培養された世代なのだ。そんな僕らが50代になったとき、今の団塊の世代以上に保守的な「抵抗勢力」になっているだろうということは自然な推論である。米国型資本主義や小泉首相のリベラリズムを相対化する論点を、20代、30代であるあなたはいったいどれほど持ち合わせているだろうか。そう問われて答えに窮するとすれば、あなたは未来の「抵抗勢力」に間違いない。
■2001/12/08、僕は「歩くブンガク」に接近遭遇した。詳細は後日この項を見よ。

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2001/12/07

セグウェイのどこが「世界的」発明?

■昨年から謎の発明品として話題だった「Ginger」がSEGWAYという商品名で発売されたらしい。詳細は『TIME』誌の記事でも読んで欲しいが、これを作った人間がこんなものを世界的な発明だと思っているところが西側世界の恐るべき楽天主義である。

小売向けモデルは3,000ドルという高額商品、企業向けは8,000ドルもするらしいが、広大な敷地内での移動に最適だということでGEやAmazon.comから引き合いがあるらしい。だが土地のない日本は工場にしても物流センターにしても垂直集積して無人の自動倉庫化する方が普通である。

また街中の移動手段としてみた場合、残念ながら日本には歩行者がSEGWAYのような立ち乗りスクーターで走行できるほど幅広い歩道はほとんど存在しないし、東京の都心部でも坂道や段差が多く、使い物にならないだろう。そもそも都心部の居住人口が少なく、実質的な生活空間である郊外での移動は都心部と変わらない狭苦しい歩道をぶらぶら歩くか、国道沿いの大型店舗へ自動車で買い物に行くか、そうでなければ自転車や原付バイク、最近では原動機付き自転車。

つまりSEGWAYのような乗り物が実用に供するのは、住職接近で平坦な地形、しかも雨の少ない欧米の都市だけであり、自動車の普遍的な利便性や、東南アジアの悪路でも乗りつぶされているスーパーカブのコストパフォーマンスと比較すれば世紀の発明でも何でもない。

ごく限られた地域でしか有用性のないおもちゃのようなものだ。これを「Reinvent the wheel」だと言って米国のメディアが1年近く騒ぎ立てていたのは白人の天動説にも程がある。最近のアフガニスタン内戦でも鼻につく欧米諸国の自己中心主義的な啓蒙主義世界観はもう20世紀で終わりにして欲しいものだ。

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2001/12/04

名古屋で生活していた頃

■名古屋で生活していた頃、FMラジオを聴きながら名鉄瀬戸線で小幡駅から大曽根駅まで通うのが常だった。ローカルタレントのジェームスという男がDJをつとめる番組の合間に流れるコマーシャルに、体育会系営業マンのガッツと誠実さをショートドラマ仕立てで伝える内容のものがあった。過剰な声優の演技に一般聴取者はイメージの良い会社だと感じたかもしれないが、僕はそのCMを聴くたびに不快に思った。それはちょうど某消費者金融のテレビCMでコールセンターの女性社員が「恋人のように親身になって」と言いながらわざとらしく赤面するのを目にしたときの言いようのない不快感に通じる。その名古屋のFMラジオのコマーシャルは「サワコーコーポレーション」という会社のものだった。今年8月に名古屋地裁に民事再生手続きを申請して事実上倒産した後に、株価維持のために粉飾決算を行っていたことが判明、社長以下3名が今日逮捕されたとか。当時は急成長の地元企業ということで名古屋では少なからず話題になっていた。そういえば以前出張で立ち寄ったことのある浜松の駅前で見つけた「松菱」というローカル百貨店。ローカルの割に重厚な作りの玄関で実は60年以上の歴史のある老舗だったらしいが、今年倒産したようだ。名古屋ローカルのベンチャー企業と、浜松ローカルの老舗の倒産。東京で生活している僕は棲んでいる業界が業界だけにまだ不況の深刻さに対する認識が甘いのかもしれないが、かつて生活したことのある中部圏ではここ東京で肌で感じる以上に状況は厳しいのかもしれない。

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2001/12/03

「ジブリ美術館」チケットがネットオークションで高騰

■今年10月に開園した「三鷹の森ジブリ美術館」のチケットが正価大人1,000円のところネットオークションで最高10倍の価格で取引されているとのこと。美術館側がネットオークション会社に取引停止を求めたが、そもそも規約上個別の取引に介入することができないと断られ、頭を痛めているというニュースを聞いた。日時指定の予約制で来年春まですでに予約が埋まっているため、高値取引されてしまうとのことだ。

市場原理に忠実になれば解決策は一つしかない。ネットオークションで10,000円の値が付くということは、そもそも1,000円という価格設定がジブリ美術館のサービスの需要と供給の均衡点よりも不当に低く設定されているということである。従ってチケットを少なくともディズニーランド並に値上げして、まず需要の水準を下げる。それによって増加した収益で美術館を拡張し、より多くの子供たちが来館できるようにする。

それからチケットの価格を下げればよい。これで10,000円などという不当な高額でチケットを買わされる消費者は少なくなるし、将来的に美術館のサービスを享受できる人数が増える。美術館側にとっても増加した収益でより質の高いサービスを提供できるし、映画の制作費に還元することで『千と千尋』に続く宮崎作品が期待できる。みんなハッピーで言うことなしだと思うのだが、元新左翼の宮崎氏が市場主義への忠誠を思想的に受け入れるかどうかだけが問題だろう。

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2001/12/02

「愛と苦悩の日記」5年目突入

■ちなみに今月でこの「愛と苦悩の日記」は5年目に入る。4年前、1997/12の日記を覗いてみると、ほぼ毎週末映画で時間をつぶしていたことが分かる。当時は日経新聞の「健全なリベラリズム」に感動していたのだから僕も相当お目出たいものだが、皇室に男子の跡とりがいないことついて、男女平等のご時世という理由で皇室典範の改訂を社説で大真面目に論じる日経はたしかに「健全」以外の何物でもない。

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来週の高橋源一郎講演会でオフ会

■来週の土曜日、埼玉県桶川市民ホールで高橋源一郎大センセイの講演会『日本文学盛衰史』が開催される(開場13時30分、開演14時)。参加希望の往復はがきを早く出さなければ満員御礼になってしまうと妻の名前を語って2枚出したのが両方とも参加券が印刷されて返ってきた。

その文面に曰く「若干の余裕が見込まれますので、お知り合いの方で希望される方がありましたら、お電話にてご連絡ください」とご丁寧に波下線まで引いてある。はがきを出した数が余程少なかったと見える。というわけで来週の土曜日は第一回「think or die」のオフライン・ミーティングとしたい。

といってもお茶しながら歓談するなどの趣向はまったくない。ただ講演会に参加して高橋源一郎大センセイのお話を有難く拝聴することが関東圏在住「think or die」の懸命なる読者諸君に課せられた使命である。もちろん事前に『日本文学盛衰史』を読んでおくこと。

筆者のように石川啄木の『雲は天才である』や国木田独歩の『武蔵野』、二葉亭四迷『浮雲』、小杉天外『魔風恋風』まで読む必要はない。そして会場で想像をたくましく一体どれが筆者なのか挙動不審気味に探り、その日の夜にでも「ひょっとして舞台に向かって左手の前から6列目に紺色のセーターを着て座ってませんでした?」とこっそりメールを下されば、それで第一回オフミの成立である。

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上の階に空き巣が

■上の階に空き巣が入った。マンションの管理人が翌日のうちに玄関の鍵をピッキングに強い型式のものに交換してくれた。毎月の管理費から出るのでこちらに負担はないが、不景気による社会的コストのひとつか。どこからどう見ても新婚向け、五十平米足らずで金目のものなどあると思えない集合住宅にさえ盗みに入らざるを得ない空き巣の追い詰められ具合といったら悲しいものさえある。

この近辺は30年ほど前から戸建て住宅地としての開発が進み、昭和45年から60年の15年間で世帯数が倍になっている。町内会の活動も盛んで、地域コミュニティーの結束が比較的高い「閑静な住宅街」と感じていたのだが、2層ワンルームマンションが近所だけでも2か所新築中、駅前のペンシルビルは外壁を塗りかえたにもかかわらず半年以上テナントが一つも入らない惨状。

市内最大の繁華街を要する隣の乗り換え駅にビジネスホテルでもできたかと思ったビルが実はパチンコ屋だったり。不景気で財布の紐が固くなるにつれて、盗みやら賭け事やら却って下らないリスク選好が高まるという典型的な庶民生活の様相を如実に示す郊外である。

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学校では教えない石川啄木

■子供の頃にしか名作に出逢えないのは不幸だ。筑摩書房『啄木全集 第三巻・小説』を借りている図書館の貸出し冊数がもう上限の3冊に達しているので(あとの2冊は鴎外全集と小杉天外)、別の図書館から講談社『豪華版 日本現代文学全集 15 石川啄木集』を借りてきた。

日記と『弓町より』他の評論が読みたかったからだが、一作家一冊の文学全集なので当然『一握の砂』『悲しき玩具』も収録されている。小学生の頃、国語の教科書に載っていたのは「東海の小島の磯の」や「たはむれに母を背負ひて」などのみ。担任の教師を通じて学ぶことができるのは「貧乏と孤独の中にあっても親孝行で実直な青年」というニセの石川啄木像である。

日本の学校教育で純文学が生徒に忌避されがちなのは、文学の浪漫主義的側面をあまりに強調しすぎるからではないか。『弓町より』を読んでも分かるように啄木はむしろ詩は「人間の感情生活(中略)の変化の厳密なる報告、正直な日記でなければならぬ」と考えていた。

「いつも逢ふ電車の中の小男の/稜(かど)ある眼/このごろ気になる」
「考えれば、/ほんとに欲しと思ふこと有るようで無し。/煙管をみがく。」
「猫の耳を引つぱりてみて、/にやと啼けば、/びつくりして喜ぶ子供の顔かな。」

日記のように短歌を書いてベストセラーになった人があったのに、啄木が教科書にしか登場しないのは、教育の中で文学がわざわざ「高尚で近寄りがたいもの」として紹介されているためではないか。こういう事態こそまさに啄木が拒絶した文学の在り方で、死してなお啄木は生前の恨みと闘わなければならないハメになっているわけだ。でも高橋源一郎大センセイ(このセンセイにはニャンコ先生くらいの重みしかないのだが)のお蔭で三十を過ぎてから再び啄木と出逢うことができたことの幸福。

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