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2001/03/23

わざわざフランス語であやまっておいたので勘のいい方はお分かりかと思う

■わざわざフランス語であやまっておいたので勘のいい方はお分かりかと思うが、パリとロンドンに2日半ずつ滞在してきた。リゾート地への旅は「何もしないこと」が目的だが、都市の旅は「住人になりきる」ことが目的である。そのための必須条件は語学力と移動手段だ。言葉もできずにバスのツアーで名所をうわずみだけさらうなど、万博でパビリオンを見るのと大して変わらない。何気ない日常会話やてきぱきと乗り換える地下鉄にこそ都市観光の本当のおもしろさがある。パリは2度目で、語学力の点では大学の卒業旅行で訪れた頃の方が間違いなく上だったはずだ。しかし可処分所得が増えたのと、年齢とともに図々しくなった分、今回の方がパリ人たちとのフランス語でのやりとりを楽しむことができた。パリとロンドンという選択は、フランス語と英語という僕自身の語学力に対応したものである。(詳細は別途エッセーにて)。

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2001/03/15

私用で1週間ほど更新ができなくなる

■私用で1週間ほど更新ができなくなるが、ご容赦いただきたい。Desole。

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2001/03/12

『L'EXPRESS』『Le Monde』のWebサイト

■近日中にパリに行くのでちょっとはフランス語を思い出そうとインターネットで『L'EXPRESS』と『Le Monde』のWebサイトを読んでいた。フランスはMiniTelのせいでインターネットの普及に取り残されているのではという先入観があったが、ちゃんとformat imprimable(プリントアウト用)のページがあったり英米系のサイトと遜色ない。

さてフランス語の方は辞書を引きながらやっと6割理解できるといったレベルで、維持しようと努力しない語学力は落ちるものだ。しかし日本の政局や経済政策についてきっちりした分析つきで掲載されているのには驚かされる。たとえば日本のメディアはフランス統一地方選挙のことをどれだけ取り上げているか。結局日本は米国のフィルタを通してしか世界を見ていないということだ。

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2001/03/11

『チーズはどこへ消えた』の皮肉な読み

■『チーズはどこへ消えた』について皮肉な読み方をすれば、この本に書いてあるのは「ネズミ(スニフとスカリー)のように何も考えず迅速に行動するのがいちばん」ということだけ、とも言える。アメリカ人らしい楽天主義だがおそらく正しい解釈は人間はいくらあがいてもこの本に登場するネズミにはなれないのだから、せいぜいヘム(変化を受け入れようとしない頑固者)にならないようにしよう、ということなのだろう。

さまざまな解釈を許す点がこの本のいいところなのかもしれないが、日本でこの本がベストセラーになったのはマスメディアが騒ぎ立てた、というだけの理由だろう。こんな政治経済情勢で日本人がここまで楽観的になるのは逆に危険だ。「変化に備え、変化を受け入れる」ということと「なるようになれ」というのはまったく違うから。

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2001/03/10

スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた』

■話題のベストセラー(←紋切り型)『チーズはどこへ消えた』(スペンサー・ジョンソン著、門田美鈴訳、扶桑社、880円)をハンバーガーを食べながら15分で読了。単純だが重要な主張を寓話で伝える、たしかに良書だ。世の中は少しずつだが確実に変化している、という当たり前のことを認めたがらない人たちには耳の痛い本だろう。

昨今は「IT革命」「構造改革」など急激な変化ばかりが喧伝されるので、「変化」というものは誰の目にもハッキリとわかる急激なものだという間違った考えが支配的だ。だが、そもそも「変化」とは日ごろから注意していなければ気づかないほどごくわずかずつ起こるものなのだ。

それがある限界値を超えると、いきなり誰の目にも分かるほど大きな現象になるので、人はついつい「変化=急激なもの」と思いこんでしまう。「変化=少しずつ確実に起こるもの」ということを認めたがらない人は、いざ変化が顕在化したときにあわてふためき、自信をなくし、いっそう保守的になる。だからこそ対策が後手にならないように変化を先取りして事前に対応策を打っておくべきなのだ。そう読めばこの本はマネージメントについての本だ。もちろんその対局には流れにまかせて生きるという考え方もあり、それはそれで一つの思想として存在価値はある。しかし私企業の管理職がそれでは話にならないのだが。

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2001/03/09

人は管理職に生まれるのではない、管理職になるのだ

■人は年をとれば自然にマネージャーになるのではなく研修や訓練が絶対に必要である。人事部門がそれを理解していない会社にまともな管理職が育たないのは当然だ。あらゆる対応が後手にまわり、管理職研修にぬかりない大企業から転職してきた身からすると「今さら遅い」とため息をつくばかり。

プロジェクト・マネージメントの基本的なスキルがないのだから、大手ベンダーと打ち合わせしていてもこちらのあまりの低レベルぶりに恥ずかしい思いをすることもしばしば。特定の社員や部署に残業がかたよるのも原因は同じ。僕の胸中にはとてもシンプルなメッセージが反復される。「管理職の方々、もう少し考えて仕事しましょうよ」

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建築家・隈研吾氏の講演

建築家・隈研吾氏の講演を聴く機会があった。1979年東大大学院建築学を修了、馬頭町広重美術館(2000年)や松竹新社屋を手がけた人。

論旨は明快で「20世紀の都市の問題点は『郊外』に過剰な期待を抱いたことだ」というもの。第一次大戦後の米国は戦後の住宅不足を解消するため、住宅ローン制度の創設で郊外の持ち家政策を推進、経済成長と反映を実現したが、都心部の衰退(ニューヨークを除く)や郊外の自然破壊、交通渋滞など様々な都市問題をもたらした。他方、欧州は都心に安価な賃貸住宅を提供する政策で、経済成長では遅れをとったが、今、21世紀を迎えて欧州型の都市生活が見直されつつある。

日本は第二次大戦後、米国流「郊外の夢」を非常にまずいやり方で真似て、都心もなければ郊外もないという惨憺たる状況に。大戦前は日本でも「長屋」という賃貸生活が一般的だったが、戦後の無理な持ち家政策で水平過密の醜い都心ができあがってしまった(かのエンゲルスは持ち家は労働者を農奴以下の存在にすると言っていたらしい)。なるほどと思いながら氏の話を聴いていた。結局のところ話はつねに同じ結論に達し、日本には後藤新平など適切な都市のグランドプランを描ける人間がいたにもかかわらず、その価値を理解する政治家が一人もいなかったということだ。

それにしても冷静に考えると住宅を取得するためにだけ特別に低利の資金を貸し付けるというのは、ひじょ~に恣意的な金融政策だ。住宅ローンが20世紀初頭の米国の「発明」だと知った今、現代の日本人がウサギ小屋をめぐってまだそんな「郊外の夢」に踊らされているという状況が少し滑稽に思える。もちろん老人の住環境にかんする政策が貧困な日本では、持ち家を持つしかないのだが、「持ち家主義」というのも僕らが老人になる頃にはきっと20世紀の遺物になっているに違いない。

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2001/03/06

とある研究会に参加して痛感したことだが

■とある研究会に参加して痛感したことだが、これから仕事をしていく上でいったい何を自分の軸にするのか、個人としてのcore competenceは何かを自問する必要がある。企業にとってのcore competenceなら必ずしも従業員全員の個人的な動機付けと一致していなくてもいいが、個人のcore competenceは「何のために働くか」という個人の動機付けと一致していなければ、単なる経済上な理由だけでその「軸」を維持することは難しい。もちろんそれが一致している幸福な人は少ないわけだが。

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