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2000/11/29

悪気のない悪意ほど始末の悪いものはない

■悪気のない悪意ほど始末の悪いものはない。言っている本人はまったく悪意はないが、口から出ている言葉が他人を不愉快にさせている。そして言っている本人は他人を不愉快にさせていることにまったく気づいていない。だから本人にそのことを指摘すると「お前が悪いんだろう」という論旨で反論されてしまい、とりつく島がない。ある意味、そういう性格は僕にとってうらやましい性格でもある。自分の言葉が相手にどう響くだろう、なんてことをまったく考えずに生きられるならどんなに気楽だろうか。やれやれ。

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2000/11/26

古館一郎の番組で美輪明宏の話を聞いて「人とは腹六部の付き合い」という部分に大きく...

■古館一郎の番組で美輪明宏の話を聞いて「人とは腹六部の付き合い」という部分に大きくうなずいたのは僕だけではないはずだ。人の心には踏み込んではいけない部分がある。「水くさいこと言わずに腹を割って話そうや」というのは、孤独の尊さを知らない無神経な人間が言うことだ。サラリーマンにはそんな人が多いけれど。
■半年ぶりにNOVAのVOICEレッスン(自由会話の授業)に行った。今日訪れた教室は初めてで、すべて初対面の教師だったせいか4時間英語を話しづめでさすがに疲れた。こちらが言いたいことを英語にするのは困らないが、「e」を「i」と発音するニュージーランド訛りの教師をはじめ、やはり聴きとりに神経をつかう。ただ、繋駕(けいが)競走(harness race)の御者の資格を持っている女性教師から御者の養成コースの話を聞けたり、なかなか面白かった。最後の男性教師とはたまたま他の生徒が帰宅して一対一になってしまったので、「日米企業文化の違い」や「ベビーブーマーのリーダーは日本の政治を変えるか?」というテーマでかなりハードな議論をした。彼ら英会話教師は日本企業の典型的なサラリーマンと同等か、それ以下の学歴しか持たないのに、そういった重い話題についても40分間議論できるだけの知識と教養を持っている。この点にはNOVAのVOICEに参加するたびに驚かされる(もちろん教師にもよるが)。たとえば僕が今日その教師と議論した日米企業文化の差異について、同僚のサラリーマンをつかまえてまともな議論になるかと言えば、たぶんならないだろう。理詰めで議論することについて、あちらとこちらでは基礎体力がまったく違うのだ。
■成長企業が成熟企業へ脱皮するときに出会う最大の問題は、経済的な問題ではなく、組織文化の問題である。成長期には強力なリーダーシップの下、「全社員一丸」となる体制がとりやすい。ちょうど今までの日本がそうであったように、成長期には均質な集団と強力な指導者の組み合わせがもっとも効率的だ。やがて企業が成熟期を迎えると、経営者が単一の方向を示して求心力を維持するのが難しくなる。成熟期には均質な集団よりも、多様な個性・価値を認める組織の方が環境に適応しやすい。しかしこれまでカリスマ的な社長が社員をひとつの「家族」のように教育してきた企業の場合、その意識転換はかなり難しい。プロパーの社員の間にはどうしても「身内」意識が残ってしまうようだ。古い社員ほどはっきりとした言葉でコミュニケーションをとるのが苦手で、お互い私生活にふみこんだ付き合いをしないと本音を話せない社員が多い。そのため、いったん社内規程などを決めても「弾力的運用」で骨抜きにされてしまい、遵法意識の低い組織になってしまう。当然といえば当然で、家族どうしで水くさいことを言い合うのがおかしいのと同じように、「擬似家族的社風」に慣れてしまった社員は、「みんな仲良く」することを単純に正しいことだと勘違いして、社員どうし水くさいことを言いたがらないのだ。中元歳暮のような虚礼がまだ残っていたり、オフィス内の禁煙が徹底していないなど、細かいところに「擬似家族的社風」はあらわれる。ただ、中途採用や派遣社員など外部の人間が増えてきたとき、そうした「擬似家族的社風」は非常に危険だ。外部の人間はもといたカリスマ的経営者の洗礼を受けていないため、「擬似家族的社風」を単なる「放任主義」と受け取る。つまり「この会社は何でもありなんだ」と受け取ってしまう。その結果、新しい社員をふくめた組織全体の遵法意識が低下する。知的財産権など新しい時代の法律リスクに対してひじょうに脆い組織になってしまうのだ。対策は二つある。一つは現在の経営者が社内に対してきめこまかな助言や教育をおこない、「擬似家族的社風」を維持すること。そうでなければ、「擬似家族」を完全にあきらめて、信賞必罰の合理的な組織に転換させること。カリスマ的経営者から経営を引き継いだ社長がこのどちらも実行できないなら、その会社は財務的に破綻する前に、組織として破綻するだろう。
■NHK『サイエンス・アイ』の再放送を見た。煙草のニコチン、タール表示は規定による測定結果にすぎず、喫煙者の吸い方(煙を吸い込む間隔と一回あたりの煙の量)によって大きく変動するし、銘柄によってはニコチンの吸収効率を上げるためのアルカリ性物質が添加されている場合もある(JTは煙草の添加物に関するデータを公開していない)。国内で一年間に煙草による健康被害が原因の死亡者は交通事故による死者をはるかに超えるという。ひとつ提案があるのだが、(1)煙草にかかる税金を引き下げる、(2)個別銘柄のテレビCMを再開する、(3)煙草に起因する病気や習慣性喫煙の治療にいっさい健康保険を適用しない。これらの組み合わせで煙草による健康被害を暗に促進し、喫煙者の平均寿命をさらに短くすることで、日本の年金制度を破綻から救うというのはどうだろうか。それが喫煙者に対する正しい「受益者負担」のあり方だと思うが。

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2000/11/22

先週からのこの日記について

■先週からのこの日記について、たて続けに読者の方々からご反響頂いた。賛成、反対、どちらでもないものなど様々で、さらなる思考を喚起させられた。それらのメールに通底する問題として、改めて日本的集団主義の質(たち)の悪さについて考えた。ある読者の方は次のように書かれていた。僕のように「日本人」のレッテルが嫌な人はそれに反抗して生きていけばいいし、「日本人」でいいと言う人はそれはそれで生きればいい、それぞれ自由だ、と。まさにおっしゃる通りなのだが、困るのは「日本人」の集団主義がまさにこの「それぞれの自由」を許さない点なのである。つまり「日本人」は個人主義と集団主義の並立を許しているわけではなく、集団主義に合わせろ!と言っているのだ。これは個々の組織にも当てはまる。ある目的を達成するための手段は多様であっていいはずなのに、「日本的」なコンセンサス型組織は問題点を先鋭化する「非日本的」なやり方そのものを許さない。これは別の読者の方のメールだが、会社で仕事上の問題が起こったとき「原因究明をやりましょう」と進言したところ「犯人探しはやめようよ」と言われたという。つまり「日本的」な自由を主張する人々、「日本的であって何が悪いのだ!」という人々は、まさにそう主張することで「非日本的」な人々の自由(たとえば「原因究明をする自由」)を奪っているのだ。たしかに「日本的自由」を主張するのは自由だ。だがそれならば「非日本的」であることの自由も認めるべきだろう。自分の自由は主張しておいて、そうでない者の自由は認めないというのは、自由ではない。このように日本における自由は排他的自由、つまり集団の内部にいる限りは自由だが、部外者の自由は認めないという自由なのである。そして集団としての自由なので、誰も自由の結果の責任をとらない。それが日本的集団主義の始末の悪さなのだ。いま日本が行き詰まっているのはここに一つの原因がある。日本的集団主義は内部から変革しようとする人々を自然とはじき出すようにできてしまっているため、本質的に自浄作用を持ちえない。その意味で、例えば自民党の党運営には日本的組織のすべてが集約されている。改革分子を排除しつつ、集団で環境に適合していくのが日本的組織の姿なのだが、それでこれからもうまくいくという保証は全くない。。
■仕事の流れ(ワークフロー)が非常に複雑な企業は、自分の抱えていた問題に対して間違った答えを出した企業である。もともとの問題とは「決裁業務が特定の管理職に集中してしまい、まともに仕事ができなくなってしまった」というものだった。ならば決裁権限をもった人の数を増やすことで、管理職の負荷を分散しようということにした。その結果、業務内容別の決裁者が生まれ、ワークフローがいくつもできあがり、仕事の流れは複雑になる。おまけに新たに決裁権限を持たされた人の決裁負荷に余裕があるので、その人に回ってくる決裁が徐々に増えていく。そのうちその人にも余裕がなくなり、あらたに決裁者を設け...以降、悪循環で仕事の流れはますます複雑化する。どこで間違ったのか?言うまでもなく最初の答えである。特定の管理職に決裁業務が集中するなら、決裁者の数を増やすのではなく、決裁業務を減らすべきだったのだ。決裁業務を減らすには、決裁の必要な仕事を減らせばいい。決裁の必要な仕事を減らすには、個々の社員の責任範囲を明確にして権限委譲すればいい。そうやって初めて管理職は本当に管理職が考えるべきことに注力し、担当者は決裁待ちの時間を浪費することもなくなる。最初の答えを間違うと取り返しのつかないことになる。ではなぜ決裁業務を減らす方向に歩き出せなかったのか?理由は明白だ。決裁業務はその管理職にとって「既得権益」だったからである。それがなくなると管理職は仕事がなくなってしまうからなのだ。
■『日経コンピュータ』2000/11/6号(p.14~15)をお読みの方はご存じのように、国内であれだけSAP R/3導入の失敗事例があったにもかかわらず、16億円(内ライセンス料3億円)を投じて開発したSAP R/3システムを廃棄した企業がある。給湯器大手のノーリツだ。SAP R/3に1200本ものアドオン(外付けの追加開発ソフトウェア)を付加したために、R/3本体のバージョンアップ時に改修費用が膨大になると分かった。そこで経営陣がプロジェクト中止の英断をしたらしい。稼働開始時期を3度も延期した挙げ句のことだという。社長は現場の状況について何も知らされていなかったのだろう(ちなみにこの件は2000/10/6発表の同社「業績予想の下方修正」でふれられている)。アドオンが膨らんだ原因は生産現場が従来のやり方に固執したためとのこと。この件、問題は2つある。一つはプロジェクトの異常を早期に経営陣に報告する体制がなかったであろうこと。もう一つは現場が業務の変更を断固拒否したこと。前者のプロジェクトがまずくなり始めた瞬間に手を打てなかった理由は、同社の組織に問題を問題として認識する能力がなかったためだろう。なぜ問題化できないのかというと、異質なものは排除し、均質的な組織を維持しようとする力学が働いていたためだ。もう一つの原因である、現場が業務の変更を拒んだのも根は同じ。ノーリツという組織にとってSAP R/3は「他者」だった。そして同社の組織に「他者」を受け入れる素地はなかった。「他者」を受け入れる素地のないところに、問題を問題として感知する能力は育ちにくい。なぜなら問題化するということは、「何かが違う!」という、その「違い」に気づき、受け入れるということだからである。
■ソフトハウスのインプライズ社がまたボーランドに社名をもどすそうだ。結局「ボーランド」というブランドにすがるんだったら初めから社名変更なんかしなきゃいいのに。Turbo C++で四苦八苦しながらWin16アプリケーションを作っていたころがなつかしい。

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2000/11/21

他人の批判は個人攻撃のためにするのではない

■他人の批判は個人攻撃のためにするのではない。もしその人に問題意識や危機意識があるなら、すでに変わろうと努力しているはずだ。他人を批判することの目的は(1)問題点を明確にすること、(2)予想されるリスクを回避することの2点である。一般に自分の問題より他人の問題の方がよく見えるものだ。他人の行動に問題が見つかったら、それは自分の問題を発見するためのチャンスと考えるべきだ。自分の問題が発見できれば、それは将来のリスクを避けるための手がかりになる。最悪なのは他人の問題点に対して単に「不機嫌」という反応をしてしまうことだ。「なんとなく嫌な奴だ」というような漠然とした「不機嫌」からは、問題解決のための方途は何も見つからない。「嫌な奴だ」と思ったら、感情的にならず、それは何故なのかと問うべきなのだ。「不機嫌」という一時的な気分として流してしまったのでは、問題解決のためのせっかくのチャンスをみすみす逃すことになる。

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2000/11/20

分かっていない人ほど助言されることを嫌うものだ

■分かっていない人ほど助言されることを嫌うものだ。これをSI業界にあてはめると、自社の問題点が分かっていない企業ほどコンサルタントを嫌うものだ、ということになる。分かっていないわけではない。ただその人や企業が分かっていないと思っていることとはまったく別のことを分かっていないということが分かっていないのだ。一般的にSEにありがちなのは「自分は技術的なことが分かっていないのだ」という思いこみだ。しかし実際には政治的な力学や自分の置かれている力関係が分かっていない。

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2000/11/19

政治にあまり関心はない

■政治にあまり関心はないが、今回の内閣不信任案、加藤氏支持者は一体誰なのか、考えさせられる。あるTV番組では「組織の中で物を言えないサラリーマンの支持が多い」と伝えられていた。また今朝のフジテレビでは加藤氏自身がグループの若手と「クリスマスにはSPなしでゴルフしようと話している」など「討ち死に」を臭わせる発言をしている。加藤氏を評価できるとすればそれは自民党政治にひとつの「無」、何もない場所を作り出した点だ。つまり誰もが自分の好きなように解釈しながら、結果的に加藤氏支持の立場で一致できるような純粋な器のような空間を作りだしたことである。加藤氏の支持者は左から右まで様々なのだろうということだ。上述の「組織の中で物を言えないサラリーマン」は、もしかすると規制緩和や競争原理の強化の下、「負け組」の人々が加藤氏に保守の揺りもどしを期待しているのかもしれない。だとすれば加藤氏は超保守の支持を取り付けていることになる。逆に組織の中で十分な発言力を持つ地位にいながら、その地位のためにかえって革新的な行動を起こせない人々が加藤氏の「討ち死に」にカタルシスを感じて、自分たちは今までどおりの地位に安住したいのかもしれない。だとすれば加藤氏はふつうの自民党支持層である保守層の支持を取り付けていることになる。さらに当然のことながら自民党を政権政党から引きずり降ろそうとしている人々も加藤氏を支持する。小さな箱にボールがきっちり詰まっているとき、事態は膠着したままで変動しようがないが、ひとつでもボールを取り除いてやれば上下左右に動かすことができる。加藤氏はその「一つの空間」を作り出せればそれでいいと思っているのではないか。だから自民党総裁になることにも、野党との積極的な連合にも執着がないようなポーズがとれるのだろう。ただしそれは単なるポーズでしかなく、一方の野中氏がTVで「加藤氏の行為は人道に反する」など、あまり正直に正論を吐きすぎるのに対して、加藤氏は「執着のなさ」というポーズがかえって無党派層を味方につける正しい戦略であることを見抜いている。結局のところ野中氏は党にしか関心がないことをあまりに正直に言いすぎ、加藤氏は国民こそ第一義だというポーズをとることに成功している(ホームページもその一手段に過ぎない)。今の時代、国民がもはや「人道」や「大義」といった組織の和を重んじる儒教的な価値観で生きていないということを、野中氏はまったく見抜けていない。必要なときには恩師(宮沢氏)に刃を向けることもやむを得ない。国民が自民党政治に不信感を抱いているとすれば、それは政策についてではない(森政権が大きな失政もないのに支持されないのはそのためだ)。政策という形に具体化する以前の、自民党の価値観やものの考え方、その「組織の哲学」はもう時代遅れだと言っているのだ。加藤氏はそのことに気づいているが、野中氏はまったく気づいていない。そこが両者の根本的な違いである。

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2000/11/18

啓蒙主義と自然主義について考えた

■啓蒙主義と自然主義について考えた。日本という国は残念ながらバカであることを誇れる社会になってしまっている。裏表がなく素朴であることを誇れる社会になってしまっている。今日の日経新聞を読むと、東南アジアの技術革新は日本を先頭に残りの国が後を追う形だったが、最近それが崩れてきていると書いてある。現実としてインターネットの単位人口あたり普及率では香港とシンガポールが日本をしのいでいる。東南アジアの隣国とわが身を比べて神経をぴりぴりさせるのは「征韓論」以来の日本の悪しき伝統だが、単純に情報リテラシーの問題として見たとき、日本のインターネット普及率の悪さは、教育水準の低さと、社会の硬直性が背景にあることはまず間違いない。日本はこざかしい人間より素朴な人間を愛する文化から脱皮できない。かつ、なかなか古い習慣から抜け出せない。どうしても「自然な日本らしさが良い」という自然主義の方向へ傾いてしまう。知性より人情を過度に重んじる。経済的な状況が悪くなったり、社会がなんとなく不安な空気におおわれるとなおさらそうなる。オジサン連中が若者の「風紀の乱れ」を嘆くのは勝手だが、それは時代の変化に応じた教育をオジサン連中が作れなかったためであって、決して「日本の道徳」が失われたからではない。前に進むのが必要なときにどうして後ろへ下がろうとするのか。もしかするとこの国は旧習のぬるま湯に浸ったまま沈んでいく運命なのかもしれない。
■地下鉄のホームで若者の電車内でのマナーに関するポスターをよく見かけるのだが、酔っぱらったサラリーマンのマナーに関するポスターはまったく見かけない。最近転居したせいで首都圏通勤者らしく1時間ほど電車に揺られて帰宅するのだが、2日に一度はオジサンどうしの喧嘩を見物できる。ヘッドフォンの音がうるさいとか、床に座り込むなとか、それはそれとしてもちろん若者に対して注意すべきだが、いい年をしたオジサンどうしの喧嘩の方がよほど迷惑だ。営団地下鉄はなぜ彼らを非難しないのか。ポスターを作ったのが他ならぬオジサンだからに違いない。自分たちのことを棚に上げるオジサンの無神経さにはいまさらながら腹が立つ。
■通勤に往復2時間も費やされると生活がガラッと変わる。睡眠時間が1時間減ることで昼間の性格が少し変わった。昔から感情の起伏は少ないが、慢性的な寝不足でさらに感情の振幅がせばまった。淡々と効率よく仕事をするにはその方が好都合だが、おかげで月曜から金曜までは「仕事マシーン」になり、仕事のこと以外に気を回せなくなった。寝不足で右脳の働きがガクンと落ち込み、左脳の処理能力もやや落ちる。朝、丸1時間じっと立ちっぱなしなので膝が悪くなった。朝、体調が悪くなると満員電車で1時間も我慢できないので、途中下車せざるを得ないこともある。途中下車した駅のトイレやホームで過ごす時間はかなり虚しい。会社に着くとまた食事が欲しくなるほど空腹になっていることがある。帰りは帰りで1時間空腹を我慢することはできないので、夕方に間食をするようになった。その結果、食費が増えた。以前より疲れやすくなったので今までより多く糖分をとるようになった。ひとことで言うと精神的にも肉体的にも不健康な生活になったということだ。しかし、これが首都圏在住の会社員の標準的な生活なのだ。

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2000/11/10

OECDが日本の都市政策について8項目の勧告をまとめたと日経に書いてあった

OECDが日本の都市政策について8項目の勧告をまとめたと日経に書いてあった。主要都市の環境改善のために目的税を導入すべきだという大胆な提言(第5項目)を含んでいる。その勧告の中でOECDは日本では私権が保護されすぎていると指摘している(第6項目)。曰く「都市開発事業によってもたらされる公共の利益の実現のために私権が制限されるのは許容されるべき」。土地所有権が手厚く保護されすぎているために、一向に都市環境の改善が進まないということだ。日本の会社員が朝のラッシュで疲弊するのは都心にまともな住環境が整備できないためなのだが、それは会社員をふくむ日本人の強烈な土地所有欲のためである。要は自業自得ということだ。それを打開するために私権の制限という「トップダウン」の強攻策に頼らざるをえないとすれば、日本人はそもそも「都会」に住む資格がないということだろう。
■機会があって某大手ソフトハウス会長の話を聞いた。講演のコーディネーターは同社の新時代ネット構想にいたく感動し、ぜひ同じ話を皆さんにも聴いてほしいと思ったとのたまっていたが、これは「私は情報技術のことがぜんぜん分かってません」と公言するようなものなので、仮に感動してもあまり人には言わない方がいい。同社の新時代ネット構想よりもっと面白いSF小説はいくらでもあるのだから(もちろん同社の新時代ネット構想は稚拙なSF小説の域を出ていないと言いたいのだが)。むしろ米国での反トラスト訴訟に対する同社の開き直りにこそ「感動」すべきである。会長曰く、「われわれは25年前から消費者の利益だけを考え続けてきたのであって何も独占を目指していたわけではない」。よく恥ずかしげもなくこんなことを言えたものだ。よく考えてみよう。一匹のアリと一匹の象がいました。アリは背中がかゆくてしかたありませんでした。そこで象はアリのためを思って背中をかいてあげました。アリは一瞬のうちに踏みつぶされて死んでしまいました。同社がやったのはこれと同じことだ。仮に同社が会長の言うように本当に「善意」だったとしたら、自分たちがパソコンOS市場でいかに支配力を持っているかあまりにも無自覚すぎるのだ。その無自覚さを棚に上げて「消費者のためだけを思ってきた」などと言い張るのは、「私はバカです。自分の体重さえ分かってません」と言っているのと同じことだ。自分の体重を知らなかったという言い訳でアリ殺しが許されるなら、そんなおめでたい世の中はない。たしかに同社の新時代ネット構想からして全くおめでたいSF小説なのだから無理もない。そして何とかダッシュボードも含めて、そんな稚拙な構想に感動してしまう人たちもやはり素朴だ。おそらくそうして感動する人たちには、情報技術に対するコンプレックスがあり、同社はそんな「素人」のコンプレックスをくすぐってくれるからコンシューマはいとも簡単に信じ込まされてしまうのだろう。もちろん大企業の賢明な経営者や技術者たちは同社の構想が単なるSFであることを知っている。だからこそ日本のどのベンダーも同社の大型データベース・サーバ事業に深くコミットしたがらないし、他方で中型システムでLinuxが急速にシェアを伸ばしているのだ。

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2000/11/08

ラルフ・ネーダーが出馬していなければ

■ラルフ・ネーダーが出馬していなければ、今頃ゴア氏の勝利は確定していただろう。だってネーダー氏が265万票も民主党票を横取りしているんだから。いずれにせよ明日の今頃には勝負はついているのかな。個人的にはNTTの寡占に強烈な外圧をかけてくれる候補の方が良いなぁ。

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2000/11/05

ひじきの煮物とサバの味噌煮を作った

■ひじきの煮物とサバの味噌煮を作った。ひじきの煮物には油揚げだけでなくこんにゃくとニンジンも入れた。レシピを見なくてもサバの味噌煮に生姜が必要なことは知っていた。なのでスーパーでも生姜は買い忘れなかった。だがどうももの足りない。そう、うちには砂糖がなかったのだ。結果としてできたサバの味噌煮は決してまずくはなかったが、今度はしっかり砂糖を入れて味噌煮らしい味噌煮にしたい。
■今、大学受験で国立大学の日本史対策をやっている人におすすめしたい一冊がある。最近、新潮社が創刊した新しい文庫シリーズ「新潮OH!文庫」の『日本がわかる思想入門』(長尾剛, 600円)だ。国立の日本史はご承知のように年号を暗記するだけでは合格できない。歴史は経済的条件と思想的背景をおさえておけば演繹的に流れを把握できる(マルクスは読んだことがないけれど)。この一冊で日本史の思想的背景についてはひととおりおさらいできる。でも、なんで僕が今頃こんな本を読んでるんだ?

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2000/11/03

昨日の日記に「声の大きさ」ということを書いた

■昨日の日記に「声の大きさ」ということを書いたが、インターネットはむしろ無数の人々の「ささやき声」がきっちりと伝わる新しいメディアだ(慶應義塾大学・國領二郎教授の言葉を参考にしています)。というより、そもそも文字情報では声の大小や抑揚は伝わらないので、過度の修辞をともなった文章はかえってうさんくさく読める。僕のエッセーの文面だけを見て僕のことを饒舌で押しの強い人物だと誤解する人は、リアルな世界での文の勢いと声の大きさの相関関係をバーチャルな世界にも無意識のうちに持ち込んでいるに違いない。同じ文字情報でもこれまで活字の世界では、出版企画など上流の管理費から物流費など下流の直接経費まで総費用が高額で「ささやき声」を活字にすることなど採算が合わなかった。しかしインターネットは情報機器の初期投資さえすれば、あとは微々たる費用で個人の「ささやき声」をメディアに載せることができる。バーチャルな世界ではリアルな世界の「声が大きい=権威」という図式は成立せず、「ささやき声」が思いがけず説得力を持ってしまう。その転倒が面白い。
■ここ1年以上、声優ラジオをまったくフォローしていないのだが、なんと林原めぐみの新曲がテレビの音楽番組のチャートで20位以内に入ってきているではないか。アニソンというのはアレンジや曲想がどれも似たり寄ったりで、一発でアニソンと分かってしまうのが不思議だが、もっと不思議なのは既婚の林原めぐみが依然として声優の中では飛び抜けたポピュラリティーを持っているということと(30代半ばでプロモーションビデオの中でスリップドレスを着て上目づかいなのはやや無理があると思うのだが。しかも未婚のときより露出度が上がっている気がするし...)、普通の音楽番組で20位以内であるにもかかわらず、おそらくその番組を見ている大多数の人が林原めぐみが何者かを知らないであろうということのギャップだ。

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2000/11/01

日本人の権威主義の根深さ

■ものすごい皮肉がさらっと書いてあるのが英『The Economist』誌の醍醐味だが、今週号の森内閣批判記事もその例に漏れなかった。森首相が単なるあやつり人形だ、という批判は日本人なら誰でも分かっていることなのだが、おもしろいのはこの記事の最後のパラグラフだ。

曰く、「目まぐるしい経済成長が日本の政治を眠らせた。その空白を埋めたのは権威への盲従だ。経済状況が徐々に改善するなかで、日本人は目を覚まし始めている」。つまり森首相を選んだ日本人にの権威主義にこそ根本的な原因があるというわけだ。

よく日本企業のサラリーマン社会では「声の大きな人が勝つ」と言われるが、これも日本的な権威主義の一形態だ。意見の内容そのものではなく「声の大きさ」でしか判断できないというのは、「私は考える能力がありません」と言っているのと同じことだ。日本人の権威主義は一人ひとりにまともな判断力が備わっていないことの裏返しにすぎない。

そう考えると長野県や東京都の知事も本当に人々のまともな判断力で選ばれたのか疑わしい面がある(両知事自身の善し悪しを言っているわけではない)。同じ人々が衆議院選挙では自民党を含む保守連合を勝利させているわけだから。

つまり長野県民は田中氏の勝利が初めから分かっていたから、田中氏に投票したのではないか。石原氏についても初めから石原氏が優勢だったから石原氏に投票したのではないか。市民は最もふさわしい人物を自分で判断したわけではなく、最も当選しそうな人に投票したにすぎないのではないか。

誰が最も当選しそうかはメディアなど第三の権威がそれとなく人々に知らせる。どこまで行っても「誰か権威となる人」の判断にすがっているだけで、自分で考えているわけではない。たとえ声が小さくてもあえてその意見を採る健全な判断力。それを日本人が失っているのであれば、政治が迷走するのは当然と言えば当然。

よく言われるように、この国民にしてこの政治あり、ということだ。森首相を批判する前に自分自身が日常生活で権威におもねず自分の頭で考えているかを反省するべきだろう。

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