はじめに
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昨日、鬼束ちひろと彼女の過去の虚像について書いた。
ツイッターのフォロワーさんからコメントがあり、本人はそれほど深く考えていないのではないか、タトゥーもそんな意味で入れたのではないだろう、というご意見をいただいた。
もちろん、僕は大きなお世話であることを承知で書いており、鬼束ちひろ自身が何を考えているのかは本人にしかわからない。
ただ、鬼束ちひろがインタビューされるたびに同じ答えが返ってくることがらについて、本人がそれほど深く考えていないとするのは、やや不自然だと思う。
僕が書きたかったのは、単なる個人的な仮説だが、鬼束ちひろは自分にウソをついているかもしれないということだ。「意地を張っている」とでも言えばいいのか。
もしこの仮説があたっているとすれば、鬼束ちひろは、今のところ実体あるものを失わずに済んでいるが、これから失う可能性があるということだ。
大きなお世話であることを承知で説明をつづける。
彼女は今月発売の『TATTOO BURST』の松田美由紀との対談でも、過去の虚像は本当の自分ではなかったと語っている。エッセー『月の破片』にも同じことが書かれている。
そして『TATTOO BURST』の対談では、過去とイメージが変わったことで、世間にあれこれ言われることにはもう慣れた、と語っている。「初めから気にしていない」のではなく、「もう慣れた」のだ。
また鬼束ちひろは、いまの自分の音楽は聴きたい人が聴いてくれればいいと語っている。『BARFOUT!』201号のインタビューでも、ニコニコ生放送の『包丁の上でUTATANETS』でもくり返し語っている。
鬼束ちひろが、初めから自分の聴衆の人数について意識していないなら、このようなことを違う場所でくり返し語る必要はない。
過去の虚像と印象が変わったことで世間からいろいろ言われることを「もう慣れた」と言い、自分の聴衆の人数について「聴きたくなければ聴かなくていい」と言う。
あえて語る必要のないことを語ることで、鬼束ちひろはその言葉以上のことを語っている。
それは「本当は慣れるのに時間がかかった」ということであり、「本当は聴衆の人数を気にしている」ということだ。
ところで今月の『BARFOUT!』には、平野綾の新譜についてのインタビュー記事も掲載されている。
個人的に平野綾には興味が無い。ただ、彼女はこの記事で、ニューアルバムでこれまでと違うイメージの打ち出しをするにあたり、今までのファンにも違和感がないように注意した、と語っている。
平野綾が鬼束ちひろのように「聴きたくなければ聴かなくていい」と言い切れないのは、鬼束ちひろのような突出した実績も才能もないからだ。
ただ、もし鬼束ちひろが今のスタイルでデビューしていたら、今の鬼束ちひろの地位は存在しなかっただろう。才能があっても、認知されるきっかけがなければ、才能は埋もれる。広く認知されるには、虚像を作り上げ、既存の社会の価値観に媚びるしかない。
それをいちばん分かっているのは、鬼束ちひろ自身のはずだ。
鬼束ちひろは、現実に多くの聴き手を失いつつある。オリジナルアルバムの累計売上を見てみる。初動ではなく累計だ。
『LAS VEGAS』(2007/10/31発売) 46,659枚
『DOROTHY』(2009/10/28発売) 23,027枚
『剣と楓』(2011/04/20発売) 11,167枚
ちなみに、サブカル歌手・声優である平野綾の直近のオリジナルアルバムの累計売上を見てみる。
『スピード☆スター』(2009/11/18発売) 29,674枚
鬼束ちひろはこの4年間、アルバムを出すごとに聴衆が半減している。言葉どおり、いまだに虚像を追い求めている聴衆を切り捨てることに成功している。
今のところ彼女の音楽は、ほぼ日本国内にしか届いていない。日本より保守的なアジア圏の聴衆は、ほぼいなくなっただろう。(『LAS VEGAS』は正規の台湾版が発売された)
『BARFOUT!』のインタビューで彼女は、ロスやニューヨークはとても気に入っているが、英語によるコミュニケーションは不得意だと、正直に語っている。彼女の英会話力が、たとえば関根麻里のようなレベルにないことは明らかだ。
30代の彼女がこれから欧米の音楽シーンで高い知名度を獲得することはまず不可能だろう。
鬼束ちひろ(1980年生)は洋楽のフォロワーであって、ジャズ・ピアニスト上原ひろみ(1979年生)のように、欧米でも独自の個性を打ち出せるアーティストとは言いがたい。
『LAS VEGAS』で復帰した後の鬼束ちひろの状況を全体として見れば、すでに多くの聴き手を失いつつ、なおも聴き手を選別しつづける、突出した才能をもつアーティストということになる。
過去の虚像を失っても、鬼束ちひろは実体のあるものを何も失わない。しかし、過去の虚像をまるで実体があるもののように、過度に否定することで、過去の虚像を追い求めていた聴衆という、実体のあるものを鬼束ちひろは失いつつある。
これは究極的には、聴衆のいないアーティストが成立するか?ということだ。
なお、鬼束ちひろの虚像が歌ったオリジナル・アルバムの聴衆は以下のような規模だった。
『インソムニア』(2001/03/07発売) 1,344,726枚
『This Armor』(2002/03/06発売) 510,368枚
『Sugar High』(2002/12/11発売) 294,952枚
これだけ多くの聴衆という実体あるものを失うことと、作られた虚像という実体のないものを捨て去ることは、はたして釣り合うのだろうか。
僕には、実体のない虚像を捨て去る代償として彼女が失った実体のあるものが、あまりに大きすぎるように思えるのだ。もう少しうまい、現実の聴衆との折り合いのつけ方はないのだろうか。
うん。まったく大きなお世話だ。
大きなお世話だけれど、『剣と楓』のような素晴らしいアルバムが、たかが彼女のエキセントリックな外見ごときもののために、まだ鬼束ちひろを知らない新しい聴衆から見向きもされないのだとすれば、あまりに悲しいことではないか。
自分で新たな虚像を作ってでも、世間に媚びてでも、届けるべき自分の作品を新たな聴衆にも以前からの聴衆にも届けるほうが、アーティストとして賢明な選択とは言えないか。
鬼束ちひろは自分のファッションを貫くことと、自分の作品をより多くの聴衆にとどけることの両立に、いまのところ失敗している。なぜ聴衆を獲得するのに失敗する道の方をわざわざ選ぶのか、凡人の僕にはまったく理解できない。
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今月発売の『BARFOUT!』巻末に鬼束ちひろのニューカバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』についてのインタビュー記事が掲載されている。
先日このブログで、鬼束ちひろの言う「王道」はもはら無数の「サブカルチャー」の一つでしかなく、現代に「王道」と呼べる「メインカルチャー」はいかなるかたちでも存在しえない、と書いた。
それを証明するかのように、彼女の今回のカバーアルバムを大々的にインタビューでフィーチャーしている雑誌は、れっきとしたサブカルチャー誌である『BARFOUT!』のみ。
同じ201号には、平野綾、May'n、カジヒデキまで登場する。そういう『BARFOUT!』がサブカル誌ではなく、「王道」のメインカルチャー誌だと言いはるのは詭弁だ。
まして同じく5月発売の「本邦初のタトゥー専門情報誌」『TATTOO BURST』の巻頭を、女優であり写真家でもある松田美由紀の撮影・インタビューによる鬼束ちひろの記事が飾っている。
「本邦初のタトゥー専門情報誌」も絶対に「王道」のメインカルチャー誌とは言えない。出版社はボーイズラブから、グラビア誌や、いわゆる「実話」誌まで、さまざまな筋金入りサブカルチャー誌を出版しているコアマガジン社だ。
『BARFOUT!』のインタビューで、鬼束ちひろが『FAMOUS MICROPHONE』に寄せたことば「批判するわけではないけれど、/サブ・カルチャーが流行りとされている/この世間で、王道を行く。/私、鬼束ちひろはいつの時でも/そういう歌を歌い、そういう歌のように/生きています。」について、彼女は同じ趣旨のことをくりかえしている。
そして立派なサブカル誌である『BARFOUT!』の編集長・山崎二郎氏は「耳が痛い」と謙遜している。
鬼束ちひろは、その聞き手としての編集長の謙遜に、気づかないフリをしているのか、本気で自分が「王道」であるメインカルチャーを歩んでいると信じているのか、僕には分からない。
しかし、本物のタトゥーを入れるということは、少なくとも日本ではいかなる意味でもメインカルチャーとは言えない。
僕はタトゥーを入れる行為そのものが悪だと言いたいのではない。タトゥーを入れるのは完全に個人の自由で、誰にもそれを止める権利はない。
しかし、タトゥーを入れるというやや特殊な行為だけでなく、たとえば僕らが単にいつものように朝食をとるとか、休日に友だちに船を出してもらって釣りに出るとか、量販店で50インチの液晶テレビを買うとか、そうしたすべての行為は、自分自身だけで完結せず、必ず何らかの社会的な意味を否応なく帯びてしまう。
僕らの食べる朝食の食パンが、代官山で買った一斤350円のものか、100円ショップで買った105円のものか。牛乳が高温殺菌されたものだとすれば、なぜ低温殺菌の牛乳が手に入りにくくなったのか。
休日に友だちに船を出してもらう、その船を運転している友だちが、なぜ船舶免許をとることができたのか。
量販店で買った50インチの液晶テレビは、国産か、韓国産か、それ以外の国のメーカーのものか、そしてじっさいにどこで生産されたものか。そもそもなぜ19インチではなく、50インチでなくてはならないのか。
そうしたことはすべて、自分と社会との関係において、かならず何らかの原因を持ち、帰結をもたらす。
原因とよべるほど因果関係がはっきりしなくても、僕らの日常の一挙手一投足は、それに先立つ社会と自分との相互作用がある。「考えるのが面倒だったので、ただ何となく」という理由もふくめて。
そして、僕らの地上の一挙手一投足は、その後に起こる社会と自分との相互作用を必ずともなう。社会に何の反応も起こさなかった、という作用もふくめて。
タトゥーを入れるという行為には、とても残念ではあるけれども、現代の日本社会では行動が否応なしに狭められるという結果を生む。
たとえ社会の不寛容の側に非があると文句を言ったところで、現実として認めざるを得ない帰結だ。社会通念はたった一人の人間に、かんたんに変えられるようなものではない。
大阪市の職員も、職員である前に一人の市民であり、タトゥーを入れるのは完全に個人の自由だ。ただ、橋下という人物が市長である事実をかんたんに変えることはできない。変えるのであれば、それなりの戦略や狡猾さが必要だ。
それを持ち合わせていないなら、より寛容なコミュニティーに移住するか、社会の寛容さを獲得するための「運動」をするしかない。
残念ではあるけれども、まことに残念ではあるけれども、いまの日本社会で体のあちこちにタトゥーのある女性歌手が「王道」を歩むことはできない。
くり返しになるが、そういう日本社会の不寛容を恨むなら、その社会を変えるよう努力をしなければならない。
ただ「自分は王道を行くアーティストだ」と宣言するだけでは、単に、自分しか見えておらず、社会が見えていない人物という評価をうけるだけだ。
あるいは、「自分はかつて王道だったサブカルチャーを生きるアーティストだ」と、正直に宣言するのがよい。
鬼束ちひろが『月光』でスターダムにのし上がって、その後再起を果たすまでに失ったものは、作り上げられた虚構としての「鬼束ちひろ」の名声だ。
鬼束ちひろがよく言う「Aラインの洋服ばかり着せられて『清楚』なイメージをつくられた虚像」としての「鬼束ちひろ」は、まさに彼女の言うとおり、単なる虚像である。
鬼束ちひろは彼女自身の個性を失ったわけではない。実体のあるものを失ったわけではなく、単に他人の作った虚像を失っただけである。
つまり彼女自身は、実は何一つ失っていないのだ。逆に、彼女自身を取り戻したのである。
にもかかわらず、鬼束ちひろは、いまだに自分自身が何か実体のあるものを失い、それを取り返すために何かをしなければならないと、誤って思いこんでいる。
例えば、彼女がもともと、デビュー時に作られた虚像とは無関係な仕方で音楽を愛していたのなら、歌うためのエネルギーの通り道として、自分の体に新たなものを付け足す必要はまったくないはずである。
なのに彼女は、そのために左腕にタトゥーが必要だったと、いまだに語りつづけている。
結局のところ、他人が作り上げた虚像を、いまだに実体のあるものだったと、もっとも強く信じ続けているのは、鬼束ちひろ自身ではないのか。
いまだに『月光』ころのイメージを、鬼束ちひろの実体だと勘違いしている人々とまったく同じように、鬼束ちひろ自身もその虚構を実体だといまだに信じて、それが「失われた」という喪失感を抱いている。
喪失感がないのであれば、鬼束ちひろはただデビュー前の自分にもどれば十分であって、そこに何かを付け足す必要はないはずだからだ。
僕が今の鬼束ちひろについて、よく理解できないのはこの点なのである。
単にデビュー前の彼女にもどって、彼女の原点であるさまざまな洋楽を歌い、それらにインスピレーションを得た曲を作ればよい。彼女がなすべきことは、きわめてシンプルであるはずだ。
それを、なぜわざわざ日本の多くの聴衆に嫌悪されるような、余計な装飾、つまりエキセントリックなファッションやアイメイク、タトゥーのようなものを、意図的に付け加える必要があるのだろうか。
あるいは彼女はやはり真面目すぎるのかもしれない。
虚像であっても、それがいったん聴衆に受け入れられれば、それを実体として甘受するのがアーティストである。
真面目な鬼束ちひろはそう考えてしまうからこそ、かつての「鬼束ちひろ」を実体とみなして、それをふり払うために余分な力をふりしぼらなければならないのかもしれない。
でも、自分が過去の虚像に縛られていることを、エキセントリックなファッションやアイメイク、タトゥーのような「目に見えるもの」で、わざわざ今の聴衆に見せる必要はないだろう。
例えば今回のカバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』で、初めて鬼束ちひろというアーティストに出会う若者もいるかもしれないではないか。
そういう若者が目にする鬼束ちひろが、過去の虚像からの離脱しようともがいているアーティストである必要はまったくない。ありのままに、そこで歌っているアーティストであればよい。
過去の「鬼束ちひろ」という虚像にいちばんこだわっているのは、昔からの鬼束ちひろファンでもなく、これから鬼束ちひろと出会うかもしれない若者でもなく、ほかならぬ鬼束ちひろ自身のような気がするのだ。
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いつものように日経ビジネスオンラインの小田嶋隆氏のコラムを読んでいたら、画面右側の広告枠に大きく「断捨離」の文字があったので、思わずクリックしてしまった。
トップページを見ても意味不明なので、下記のページでメールマガジンのバックナンバーをいくつか読んでみた。
書かれてあることは、とてもまともだ。
僕は「断捨離」というのは単なる「片付け術」だと思っていたが、メールマガジンには、「質問の中にちゃんと【答え】がある」とか、「他人は自分の心を映す鏡である」とか、とてもテツガク的なことが書いてある。
問題は、多くの日本の大人が、こういうごく基本的なテツガク的知識を教育されないまま、大人になっていることにある。
「断捨離」のメールマガジンに書いてあるようなことは、たとえば岩波文庫の「青」シリーズから、西洋哲学の古典とされるものをいくつか読めば書いてある。
西洋哲学の例をあげたのは、僕が個人的に西洋哲学以外の哲学に詳しくないからだけで、きっと、仏教やイスラム教などの哲学書にも、同じようなことが書いてあるはずだ。
古代以来のさまざまな哲学思想は、人類にとって貴重な財産だ。大人になる前に、それらにひととおりふれておくことは、生きるための基本的な「技術」を身につけることである。
哲学の実際的な効用は、「断捨離」のメールマガジンで書かれている「俯瞰」の視点を身につけられることだ。
僕が学んでいた西洋哲学のことばを使えば、自分がじっさいに生きているこの世界での、さまざまな体験、感覚、知覚、判断、意見などなどを、すべていったん「かっこに入れる」ことだ。
常識的にどう考えても「悪」であることも、いったん「善」か「悪」かの判断をやめる。個人的に腹立たしい出来事も、いったん個人的な怒りの感情を留保する。その出来事そのものをよくよく観察してみる、などなど。
そうすると、「かっこに入れた」自分の体験、感覚、知覚、判断、意見などを、まるで他人の視点から見ているかのように、見つめなおすことができる。
ただし、その「他人の視点」というのは、「客観的」な視点ではない。一人の人間はどこまで行ってもほんとうに「客観的」な視点など手に入れられない。
せいぜい、無数の可能性を考えてみることで、だんだんとほんとうの「客観性」に近づくことができるだけだ。誰もほんとうの「客観性」を主張することはできない。
あらゆる個人的な「考え」を、かたっぱしから「かっこに入れる」ことで、自分の考えに明らかに限界があることを知る。そしてある種の「あきらめ」の境地に達した後、またふつうの日常生活にもどってくる。
こういった思考の訓練が、哲学の実際的な効用だ。
その結果、必ずしもまともな大人になれるとは限らない。しかし、少なくとも「自分はまともではない」ということを自覚をしつつ「まともでない大人」になることができる。「自分はまともだ」と信じ込んでいる「まともでない大人」ほど、やっかいな存在はない。
「断捨離」について僕が危ないと思うのは、次のような点だ。
大人になる前なら、そうした哲学的な思考の訓練をくりかえすことで、個人的な「考え」をほんとうに「かっこに入れる」ことができる。
しかし、大人になるまでその訓練を一度もしたことのない人が、大人になってから「断捨離」のような「ゆる~い」テツガク的なものに触れると、間違った使い方をしてしまうおそれがある、という点だ。
この「ゆる~い」テツガク的なものには、「断捨離」だけではなく、テレビのバラエティー番組に登場する占い師や僧侶の言葉もふくまれる。
間違った使い方とは、本来は自分の個人的な「考え」を徹底して「かっこに入れる」べきであるのに、逆に、自分の個人的な「考え」を正当化するために、それらのテツガク的なものを利用する、ということだ。
ほんとうの哲学が、個人的な「考え」を徹底して「かっこに入れ」ていくと、その果てにあるのは、自分が現実に生きているということさえ疑わしくなるような、一歩間違えば、自殺したくなるほどの絶望のとなりにある場所だ。
しかし、「断捨離」のようなテツガク的なものは、そこまで厳しくない。とても「ゆる~い」。自分が生きているという事実まで疑わせるようなところまで、人を追いつめない。
それは当然と言えば当然だ。「断捨離」にしても、テレビのバラエティー番組で語る占い師や僧侶にしても、基本的に聞く人たちを安心させるために語っている。
「なるほどそういうことか」「肩の荷が下りた」「楽になりました」などなど、そういう反応を期待して、彼らは語ったり書いたりしている。
でも、ほんとうの哲学は容赦ない。読者を安心させることが目的ではない。かんたんに答えを与えてくれない。永遠に解答を与えられない質問の中に、読者を放り込んだままにする。安易ななぐさめはない。
ただ、そうした哲学を大人になるまでに教養として学ぶことで、そうした救いようのない深淵が、自分が生きている現実のすぐとなりに、黒々と口を開けていることを前もって体験できる。
その深淵を前にすると、「ゆる~い」テツガク的な考えを利用して自分の個人的な「考え」を正当化し、安心すること、肩の荷をおろすこと、楽になることが、単なるごまかしであることがわかる。
もし「断捨離」がほんものの哲学なら、かならず「断捨離」は最終的に「断捨離」そのものを否定するところまで行く。または、何らかの「神さま」のようなもので自分を根拠づけるところまで行く。哲学の言葉でいえば、かならずどこかで「無限」にふれる。
しかし「断捨離」はそうなっていない。
「モノへの執着を捨てるが最大のコンセプト」「心もストレスから解放されてスッキリする」など、テツガク的な見かけをしているけれども、人々に安心を与えることが目的で、答えのない問題を考えさせることはない。
テツガク的な見かけをしたもので、人々は安心を得る。少し考えを変えるだけで、自分は正しく考えられるようになったと、自信を得る。
一方、ほんとうの哲学は、永遠に答えのでない問いを、死ぬまで問いつづけなければいけない。自分自身をかんたんに肯定することなどできない。
「断捨離」のようなテツガク的な見かけをしたものに熱心になるのは、もちろん人それぞれの自由だけれど、それが正しい答えを与えてくれるわけでもないし、それによってほんとうに「俯瞰」的な見方を得られるわけでもない。
一時的ななぐさめに過ぎないし、ともすると、まったく根拠のない自信をもつ、やっかいな人になってしまう危険がある。
不要なものを片付けているつもりで、じっさいにはタンスにあったものをクローゼットに移し、クローゼットにあったものを押入れに移し、押入れにあったものをタンスに移し、結局、モノの配置が変わっただけで、まったく片付いていない、というハメになるかもしれない。(これは村上春樹の小説『1Q84』の中に出てくる表現を借りている)
ストレスから解放されるつもりで、じっさいには無意味にモノの配置を入れ替えているだけで、ストレスを維持しているだけになっているかもしれない。
この種の「ゆる~い」テツガク的なものを、単なる生活の知恵だと割り切ることができず、そこに何か深い思想のようなものを見てしまう人は、できるだけ早く遠ざかるべきだ。
自分で自分を凝り固まった考え方に「洗脳」し、わざわざ視野を狭くするようなものだから。
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012/05/12放送のTBS『7days ニュースキャスター』で、オバマ大統領が同性婚への支持を表明したニュースについて、ビートたけしの同性婚への差別的な発言が話題になっている。
日本の英字新聞『Japan Times』に、オバマ大統領が同性婚を支持したことへの反発に、効果的に反論をこころみている『ワシントン・ポスト』紙の記事を見つけたので、日本語で要約してみる。
' Putting to rest five myths about gay marriage' (May 16, 2012, Jonathan Rauch, Japan Times)
ところで、このビートたけしの発言、「欧米先進諸国」なら著名人の発言なので大きな問題になるだろうが、日本の週刊誌や新聞は今のところまったく取り上げていないようだ。
これは個人的な想像に過ぎないが、おそらく彼を批判すると痛い目にあうといった種類の「後ろだて」が、ビートたけしには存在するのだろう。
なので、ビートたけしの発言については、2ちゃんねるや個人ブログの文字おこしに頼るしかない。見つけた限りで情報量がいちばん多かったのは、下記のブログだ。
『TBS「ニュースキャスター」で同性婚がとりあげられた!』 (2012/05/13 『Lの世界:Laraララが一番』)
このブログ記事が、何らかの理由で削除されないとも限らないので、ビートたけしと、ゲストの女優・渡辺えりと、アナウンサーのやりとりの部分だけを引用しておく。
渡辺えり:「何言ってんの。どうしてそういうこと言うんですか。日本でも同性愛の結婚が認められればいいと私は思いますけどね。いろんな子供たちとかひきとって育てたりとか、やさしいカップルがどんどんそうやって増えていけばいいんじゃないかと思うんですけど」
ビートたけし:「エジプトなんかではきょうだいで結婚する」
渡辺えり:「きょうだいって、それは、でも…」
(中略)
ビートたけし:「でも子供を育てるって…子供をもらうじゃない?それで、男の、結婚した二人が子供を育てることに関しては、その子供がどういうふうになっていくかってのはどうなんだろ?ね?」
三雲アナウンサー「でも愛情があって育てれば…」
渡辺えり:「ちゃんと育つんじゃないですか、立派に」
ビートたけし:「でもお前んとこのお母さんはお父さんだと…」
渡辺えり:「そうならないようにうまくみんなでやっていけばいいんじゃないですか、愛があって、だってそれは同じことじゃないですか。異性婚も同性婚も」
安住アナウンサー「えりさん言ってやってくださいよ、たけしさんに」
ビートたけし:「異性婚、同性婚…(笑)それはだから動物婚もあっていいだろ」
渡辺えり:「どうしてそこにいくんですか。まじめに答えてる私がおかしいんですかね?まじめになることないですよね。冗談ですよね?(笑)たけしさんが言ってるのは」
では冒頭でふれた『ワシントン・ポスト』紙の記事を要約してみる。タイトルは「同性婚の5つの神話を終わらせる」。
1つめの神話、「同性婚は結婚そのものの定義を変えてしまう」。
これは、ビートたけしが「これ、だんだんだんだんいくと、今度は動物との結婚と認めると」と表現している点だ。
この神話の内容は、結婚はそもそも異なる性の母親と父親がいっしょになり、子供とつながるものであり、異なる性という前提を変えてしまうと、結婚は結婚ではない別のものになる、という神話だ。
この記事を書いたジョナサン・ローチ氏は、同性婚に反対する人々は、結婚というものに、一つの機能しか見ていないが、複数の機能(原文では動詞のmultitask)があると反論している。
もちろん、生物学的に両親と子供を結びつける機能は、同性の結婚では実現できない。しかし結婚には生物学的ではないやり方で、両親と子供を結びつける機能もある。例えば養子制度だ。
結婚とは、子供が大人になるために必要な経済的、教育的環境を安定的にあたえるための制度でもある。
現代においてはむしろ、結婚のもつ機能として、生物学的に両親と子供を結びつけるよりも、社会が子供たちに適切な養育環境を与える機能の方が、より重要になっている。
そして、子供を育てるという点において、養子制度や同性婚は、異性婚と大きな差はない。
差があるとすれば、養父母や同性婚など、いわゆる「伝統的でない」結婚に対する社会の偏見だ。ビートたけしの発言は、たとえ冗談であれ、その偏見を助長することに加担している。
次に2つめの神話、「同性婚は子供を傷つける」。
これは、ビートたけしが「でもお前んとこのお母さんはお父さんだと」と表現している点にあたる。
ジョナサン・ローチ氏は次のように反論している。
伝統的な家族にとって最大の敵は、同性婚ではなく、異性婚の失敗である。米国では両親の離婚などで、二人の異性の両親といっしょに生活できていない子供が、子供全体の3分の1にのぼる。
これは同性婚が議論になる数十年前から、すでに起こっている事実である。
つまり、家族の絆を守りたいのであれば、最優先にすべきは同性婚に反対することではなく、結婚という規範そのものを最強化することであり、同性婚を認めることは、その後押しになる、というのがローチ氏の意見だ。
3つめの神話、「信仰の自由との衝突が不可避」。
これについては、地下鉄サリン事件のような特殊な場合を除き、日本ではそもそも信仰の自由が政治的問題になるほど、宗教に帰依している政治的圧力団体は存在しない。
某政党の母体となっている某新興宗教も、ダーウィンの進化論さえ否定する米国の一部の保守派に比べれば、宗教団体とは言いがたい。
なのでこの神話は省略する。
4つめの神話、「国全体が同じ政策をもたねばらなない」。
これも、州によって結婚についての法制度が異なる米国ならではの神話なので省略する。
最後の5つめの神話、「戦いはほぼ終わっている」。
ギャラップ社の世論調査によれば、同性婚を認める人の割合は50%を超えている。オバマ大統領も今や公に同性婚を支持した。
より若い世代は同性婚に何の問題も見出していない。なのでこの戦いはもうすぐ終わるのではないか、という神話だ。
これについて、ジョナサン・ローチ氏は慎重な意見を持っている。
米国のほとんどの州で同性婚が禁止されている事実などをあげて、同性愛者の権利だけでなく、結婚そのものの意義も論点となる同性婚について、議論はまだまだ続くだろうと書いている。
いずれにせよ、ローチ氏は日本のお笑い芸人であり、世界的な映画監督でもあるビートたけしが、オバマ大統領の同性婚支持表明をからかったことなど知らないだろう。
それでもローチ氏の議論は、ビートたけしのからかいをすでに先回りして反論し、女優・渡辺えりさんの誠実な反論を支持している。
しかもローチ氏は、ビートたけしのように、同性婚をめぐる議論の全体をからかうような、不遜なことをしていない。
同性婚がまじめな議論に値する問題であり、同性婚をめぐる議論の行く先が、同性愛者にとってかなり困難である現実を認めている。
ローチ氏と対比するだけでも、「ビートたけし」の限界は明らかだ。
「お笑い芸人・ビートたけし」はもちろんのこと、「映画監督・北野武」も、彼に金獅子賞を与えたイタリアをふくむ「欧米先進諸国」へ向けて、同性婚のような社会のさまざまな問題について、まともに議論するだけの良識を持ち合わせていない人物であることが、誰の目にも明らかだ。
つまり、「映画監督・北野武」は「欧米先進諸国」で、日本を代表する芸術家の一人であるなどと、できれば標榜してほしくない、というのが僕の個人的な望みだ。
さもないと、他の日本の芸術家たちの、一市民としての、社会の構成員としての資質まで疑われてしまう。
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On May 12, 2012, Takeshi Kitano, Japanese filmmaker and comedian, made fun of President Obama's support for gay marriage in a Japanese TV news show called '7 days Newscaster' and said that if same-sex marriage is OK, then the marriage between human and animal is also OK.
In this TV program, after the report of President Barack Obama's declaration of support for same-sex marriage, Takeshi Kitano said, "Mr. Obama seems to support same-sex marriage. This means he will support the marriage with an animal at the end, doesn't it?"
A Japanese actress Eri Watanabe, who also appeared as a commentator in this program, said to Takeshi Kitano, "What are you saying? Why do you say such a thing? I hope the same-sex marriage will be legal as well in Japan some day. Same-sex couples might be able to adopt and raise child. If such nice couples increase, I think it's a good thing."
Takeshi Kitano answered, "In Egypt blood brothers and sisters can get married."
Ms Watanabe said, "Brothers and sisters!? That... that is..."
Takeshi Kitano continued, "But let's think about a gay couple who adopt a child. If two married men raise a child, how will the child be raised? Whay do you think about it?"
The program's anchorwoman Ms Mikumo said, "If they cherish the child, then..."
Ms Watanabe continued, "The child can be properly raised. Decently."
Takeshi Kitano said, "However, the child will be bullied by saying, your mother is a father."
Ms Watanabe answered, "To avoid such a thing, we should continue make efforts, don't we? If the couple love child, what makes difference between gay couple and hetero couple?"
Takeshi Kitano said with a laugh, "If both hetero-sex marriage and same-sex marriage are OK, then you can marry an animal, don't you?"
Ms Watanabe said, "Why do you talk in such a way? Am I stupid because I listen to you seriously? Don't I have to be serious? Are you joking, Takeshi?"
This is an actual dialogue between Takeshi Kitano and a Japanese actress Eri Watanabe regarding President Obama's support for same-sex marriage.
I know Takeshi Kitano is respected as a great filmmaker around the world. But you might have to rethink about it. He not only thinks the same-sex marriage should not be legal but also think it's an inhuman act. He says once people step into the world which supports same-sex marriage, that means the world supports marriage with an animal as well.
In addition, Takeshi Kitano confirms that same-sex couple can't raise a child properly even with decent affection. If we don't call his way of thinking an obvious 'discrimination' against gay and lesbian couples, what definition can we give to the word 'discrimination'?
As a Japanese, I've been proud of Takeshi Kitano because his movies are highly evaluated around the world. But from today I have to be ashamed of his existence itself because his discrimination wrongly let the world think Japanese society is desperately backward.
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