はじめに
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TBSの『金スマ』。ああそうですか。木の実ナナがうつ病で苦しんでいたと。
彼女がうつ病を発症したのは10年以上前だから、医者がうつ病と診断できず、自律神経失調症としか診断できなかったのは仕方ないだろう。
まともな抗うつ剤が日本で一般的に処方されるようになったのは、つい最近の話だから。
でも『金スマ』で気になったのは、「誰でもうつ病になる可能性がある」という情報を一方で伝えながら、木の実ナナの生い立ちや性格の紹介に長い時間を割いていた点だ。これは完全に矛盾している。
で、同じ『金スマ』で、高木美保のパニック障害の体験が取り上げられていたときも思ったのだが、所詮、彼らは芸能人という特殊な人種だ。
木の実ナナが幼い頃、苦労したかは知らないが、僕の母親を含め、終戦直後に生まれた同年代の日本人は、多かれ少なかれ同じような貧困による苦労を強いられている。
一般人には望むべくもない収入を得ているタレントが、うつ病やパニック障害に苦しんでも、仕事は休もうと思えば休めるし、治療のための休養の時間はたっぷりとれる。
しかも、まさにこの『金スマ』のように、そのうつ病やパニック障害を仕事のネタにさえ出来る恵まれた人たちだ。
うつ病のために自殺に追い込まれる人々の多くは、同時に経済的な困窮も問題としてかかえている。
実際に仕事を失っていなくても、生活するためには仕事を続けざるを得ず、うつ病やパニック障害を治療するための、十分な休養がとれない。
結果として病状を悪化させ、自殺に至る。
それに比べれば、木の実ナナや高木美保は恵まれすぎるほど恵まれている。
木の実ナナが、うつ病になっているときにスキューバ・ダイビングという趣味に出会ったとか、高木美保が田舎での農業生活に出会ったとか。
そういう話を聞くと、正直言って、タレントはサラリーマンと違ってのん気に生活できていいなぁと思う。
はっきり言って、彼らタレントのうつ病やパニック障害の体験談は、失職すれば即、困窮といった一般人には、全く参考にならないと言ってよい。
というか、テレビの画面の中で笑っている木の実ナナや高木美保を見ると、腹が立つ。
こっちは失業したら食っていけないから、うつ病を治したくても治せないのに、まるで自分たちが悲劇のヒロインのような顔をしてテレビに出演しやがって...。
こういう心の狭さも、病気のなせる業か?
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やっぱり、1日じゃアモキサンの効果は現れないね。疲れた。
何だか、もう少し気楽に生きられる方法ってないものかね。
頸動脈の位置がどこだか分からない。いや、たぶんここだと分かるんだけれども、僕はエラが張っているので、エラの下の奥の方に、いちばん柔らかいところが隠れてしまうんだよね。
最近、夜7時前に家に帰るので、テレビ東京の『ピラメキーノ』って子供番組をみるんだけど、あの企画モノのユーロビート『Onara はずかしくないよ』は、avexの青木さやかの企画モノ『ノコギリガール~ひとりでトイレにいけるもん~』より、はるかに出来が良いよ。
まず、「女の子は、おならを我慢する必要はない」という、政治的なメッセージが良い。
それから、はんにゃ・金田が女装してメインボーカルをやるという、トランスジェンダーな味付けが良い。さすが金田、動きがよくて、パラパラ・ダンスの切れもいい。
さらに、曲が意外に良い。サビ始まりのアレンジはキャッチ―だし、AメロもBメロも単純な8小節×2回の繰り返しになってない。
どうでもいいか。もう疲れた。
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今日も、夜7時から9時のゴールデンタイムに爆睡。
一日出社するだけで心身とも疲弊し、もうろうとした意識で帰宅し、食事をとり、ゴールデンタイムに眠る。
その後、お風呂に入ってから、鬼束ちひろの『帰り路をなくして』『僕等 バラ色の日々』『edge』『We can go』『螺旋』『call』『声』、Jewelの『Foolish Game』などの歌の練習をしていた。
この分だと、「鬼束ちひろシングル全曲カバー計画」ではなく「鬼束ちひろ全曲カバー計画」になりそう。
ただ、『いい日旅立ち・西へ』だけは歌いません。
当然でしょ。鬼束ちひろの作った歌じゃないんだから。
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日曜日の朝、閑散とした大阪のオフィス街を歩いていたら、信じがたい光景を目にした。
真っ赤なかわいいデザインの自転車に乗り、つば付きの黒い帽子を斜めにかぶった、ファッショナブルな男子が、僕を後ろから追い越して走っていく。
そのついでに、道路沿いに5メートル間隔くらいで立ててある、「駐車禁止」の看板を、片っぱしから、ガシャーン!、ガシャーン!と倒して走り去って行った。
平然と。何事もなかったかのように...。
むかし、三越百貨店のあった大阪・北浜という場所で、老舗の和食店、和菓子屋、喫茶店などがある、東京で言えば日本橋のような場所だ。
そんな落ち着いた街を、おしゃれな自転車に乗って走り抜けていくのが、こういうゲスな男子なのである。
僕は大阪の下町出身だが、大阪って、アップタウンでさえ、こういう最低な街なのである。
電車で整列乗車しているのに、平気で後ろから割り込んできて先に乗り込んでしまうオッサン、オバハン。
大阪いちばんの繁華街で、停めてある自転車のカゴに、衆人環視のなか、平気でゴミを捨てるオッサン。
電車や飲食店など、公共の場所で、下品な笑い声を上げる老若男女。雄たけびを上げたり、走り回ったり、床に寝転がったりする子供を注意せず放置する親。
そりゃ、大阪のビッグエコーの新しい店舗も、あっという間に汚くなるわけだ。トイレの壁に穴があいたり、マイクの頭がへこんだり、プレミアDAMのディスプレーが壊れたり、液晶画面にヘンな黒ジミがついたり...。
大阪人は自分たちのマナーの悪さを、もっと恥じるべきだ。
橋本知事は北京をみならって、「精神文明建設」活動でも始めたらどうか?
大阪人のマナー、サイテー。
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先日、mixiの某女性シンガーソングライターのコミュニティーを退会したと書いた。実名を出せば、柴田淳のコミュニティーだ。
このコミュニティーの運営に、柴田淳やビクターのスタッフは全く関与していない。純粋にファンが立ち上げて、運営している。
退会した理由は、先日も書いた通りだ。
新譜『ゴーストライター』に関するトピックで、あるアマチュアミュージシャンが、プロデューサの起用やミックスなどについて、ちょっとプロっぽい批評を書いた。
すると、知ったかぶりするな、音楽は心で聴くものだ、など、幼稚な反論が噴き上がり、ちょっとした「炎上」になったためだ。
これでは、mixiの柴田淳コミュニティーでは、柴田淳を無条件に礼賛し、励ます書込みしかできない。いかにも日本的な、「空気」による言論統制がしかれたコミュニティーになってしまっているのだ。
ところが、ファンクラブ専用サイトの掲示板でも、同じことが起こった。
ニューアルバムの1曲目の『救世主』がロックとは言えない、柴田淳の声質に合っていないという意見に対し、柴田淳を擁護する非論理的な反対意見が出てきた。
柴田淳本人は、ファンどうしのやりとりを、いろいろな喜怒哀楽と表現し、自分の反省材料にしたいと、ファンクラブ専用ブログに、いったん書込んだが、すぐに削除した。
いつも比較対象にして申し訳ないが、鬼束ちひろのmixiコミュニティーを見てみよう。
ニューアルバム『DOROTHY』の、特に『STEAL THIS HEART』のプロモーションビデオに対する意見は、賛否両論、真っ二つに分かれた。
しかし、鬼束ちひろのコミュニティーは、ある人の批判に対して、別の人が感情的にかみつくといった「炎上」には発展していない。
良く言えば、皆さん冷静。悪く言えば、他人の意見に無関心。
柴田淳に対して、少しでも批判的なことを書くと、「柴田淳の味方」のファンの皆さんが次々登場して柴田淳を擁護し、批判的なことを書いた人物に反撃するのとは、とても対照的だ。
ファンが集まったときに形成される空気感に、これだけの差が生じるのは、なぜか?
その最大の原因は、柴田淳や鬼束ちひろ本人の振る舞い方だろう。
柴田淳の魅力は、作品の制作過程や、本人の率直な心情が、公式サイトの日記などに公開される。
そのため、ファンの中には、柴田淳という人の特定の側面に対して、感情移入しすぎてしまう人たちが出てくる。
もちろん、これは柴田淳の責任ではない。
柴田淳といえども、単なる商業音楽のアーティストの一人であり、別にファンの一人ひとりと情緒的な関係があるわけではない。
ファンは、柴田淳の作品に対して、対価を支払うことで、この社会のなかで、一定の法則やルールにそった「アーティスト」と「ファン」というコミュニケーションのゲームを楽しんでいるのである。
ところが、柴田淳がブログで心情を吐露すると、それに対して本気で感情移入してしまうファンも出てくる。
「アーティスト」と「ファン」という、あくまで大人の距離を保った関係性を超えて、まるで自分自身が柴田淳の心情を代弁できるかのような錯覚を抱くファンが出てくる。
少し昔の事例でいえば、某アイドル歌手が事務所の窓から投身自殺したとき、後追い自殺したファンのようなものだ。
柴田淳のファンには、良くも悪くも純粋な人の割合が高く、容易に彼女に感情移入して、一切の批評・批判を許さないという「親衛隊」的態度をとってしまうのだ。
一方、鬼束ちひろも、雑誌のインタビュー記事などで、かなり率直に自分の心情を吐露するタイプだ。
自責の念の強さと、自信の強さが同居しつつ、内攻的で、頑固な点など、柴田淳と鬼束ちひろには、性格の共通点が多い。
しかし、鬼束ちひろは、ファンの同情を徹底して拒絶する。
作品を作るにあたって、あてにできるのは自分だけ。自分の苦境に際しても、ファンに助けを求めたり、傷をなめ合うようなジェスチャーは全く見せない。
もっとも、そのせいで、活動を休止しなければいけないほど、悪い精神状態に追い込まれてしまうのかもしれないが...。
柴田淳とそのファンたちは、一つの心理的なつながりのあるコミュニティーを形成している。その意味で、柴田淳は「姉」っぽい。
それに対して、鬼束ちひろが関係を結ぶのは自分自身と、「神様」としか呼びようがない超越的な存在だ。鬼束ちひろのファンたちは、彼女と超越的な存在との関係を、かなり距離をおいて取り巻きながら、祈るように見つめるしかない。その意味で、鬼束ちひろは「巫女」っぽい。
こうしたファンとの関係性の違いが、mixiのような場所で、ファンが形作るコミュニティーの性質に反映している。
こんな風に客観的に分析してみると、なかなか面白いし、柴田淳と鬼束ちひろのそれぞれのプロモーション活動にも、この違いが反映されている気がする。
どちらのファン・コミュニティーも、「諸刃の剣」だ。
柴田淳のファンが作るコミュニティーは、仲間意識が強くなりすぎて、排外主義的になるおそれがある。というより、すでに、そうなりつつある。すると、ファンは減ってしまう。
中島美嘉のファンくらいの母数があれば話は別だが、決してメジャーとは言えない柴田淳のファンが、「柴田淳の味方」を標榜するあまり、排外主義的になるのは、商業的にリスクが高い。(=柴田淳が生計を立てられなくなるおそれがある)
鬼束ちひろのファンが作るコミュニティーは、ファンどうしのつながりが希薄すぎて、口コミによるファン層の拡大が望めない。コアなファンが固定化され、それ以上広がらないおそれがある。
『月光』というメガヒットがある鬼束ちひろのファンは、おそらく少しずつ減少して、今はなんとか一定数を維持している状況だろうが、これ以上、劇的にファンが減るリスクはあまりない。
音楽シーンにおけるポテンシャルは、正直言って、鬼束ちひろの方が大きい。
鬼束ちひろは、王道バラードと、ロック(それも時代遅れのハードロックではなくオルタナ)の両方に対応できるスタッフがいるし、『Tiger In My Love』のような曲の頃から、それを受け入れるファン層がいるからだ。
対して、柴田淳は、どうしても王道バラード路線がメインだ。なにせ、『救世主』のようなロック(っぽい)曲がアルバムに1曲入るだけで、ファンどうしが、ロックだ、ロックじゃないだの、激しく口論するような状態なのだから。
鬼束ちひろなら、フジテレビの『僕らの音楽』で、ニルヴァーナを原曲と全く違うアレンジでカバーしても、ニルヴァーナが何であるかを知っているファン層が確実に存在する。
しかし、柴田淳が『救世主』のような曲をアルバムに入れると、ファンから出てくる名前は、ボン・ジョヴィ、モトリー・クルー、浜田麻理、挙句はカルメン・マキと、時代錯誤もはなはだしい。
個人的には、柴田淳がロックをやるなら、ロックに関してこの程度のレベルのファンたちの理解を完全に超えているようなロックをやるべきだと思う。
分厚いディストーション・ギターで、サビにはちゃんとコーラスも入ってます、みたいな耳触りのよいハード・ロックではなく、サビ以外はベースしか鳴っていないようなスカスカの音とか、リード・ギターとサイド・ギターのリズムがバラバラだとか。
そこまでやる気がいないなら、柴田淳は、この21世紀に下手にロックに手を出さない方がよい。バート・バカラックのような、極上のメロディーメーカーとして、やっていける天才なのだから。
※ちなみに柴田淳のアルバム『ゴーストライター』のレビューは以下のページをご参照ください。
「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(1)天才的メロディー」
「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(2)歌詞と性差」
「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(3)不可能の果てに」
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今日も意味もなく倦怠感。でも部屋にいても鬱々とするだけ。
東梅田駅からディアモールをぶらぶら歩き、大阪マルビルのTOWER RECORDSに立ち寄ったら、鬼束ちひろのインタビュー記事のある雑誌『音楽と人』2007年11月号を発見。迷わず購入。
夕方の公園(たぶん新宿御苑?)で撮影された写真は、この時期特有の表情。ストレートのロングヘアで、眉間にしわを寄せたまま、完全に表情が固まっている。まったく、笑顔がない。
インタビューも、あまり会話として成立していない。
何か所か、僕の注釈をはさみながら引用してみる。(インタビュアーは青木優。男性だ)
(「Sweet Rosemary」の歌詞「人生は長いのだろう」についての質問)
―(略)失礼ですけど鬼束さんって、今おいくつですか?
「27になります」
―それで<人生は長い>と思うのって、どういうものですか。
「なんとなく、そう思ったんです」
―人生がこの先も長いのは、楽しいことだと思います?
「ううん」
―思わないですか。何でですか。
「べつに長く生きようと思ってないから」
―うーん。じゃあ楽しく生きようって思うもんじゃないですか。
「うん……私はそうじゃないんですね」
(中略)
―<せっかくだから楽しく生きればいいな>とか思いません?
「思わないな」
―ずっとそういう考えですか。
「うん。いや、物心ついてから。ジェットコースターのように行きたい」
―ジェットコースターみたいに?日々を全力で、ですか。
「全力とは違う」
(※注釈:インタビューアーはジェットコースターという乗り物を、乗客が運転しているわけではないことに気づいていないのだろうか。鬼束ちひろがここでジェットコースターという比喩を使ったのは、どちらかと言えば、自分の意思とは無関係に、激しく自分が振り回されることを表現したいのだろう)
―激しく?
「うん……そういうのが好きなんですよね」
(中略)
―ご自身ではどういうところが他人に比べて激しいと思います?
「まず感情ですね」
―つまり爆発しちゃう時が。
「あります」
―そういう時は、どんな感じになるんですか。
「ああ……怒鳴ったりするかな。怒鳴り口調になったりするかも」
―ほんとですか。あと、想像すると……泣きわめくとか?
「ああ、ありますね」
(※注釈:と、答えている鬼束ちひろは、おそらく淡々としていたに違いない)
―どういう瞬間にそうなっちゃうのか、自分でわかります?
「急になる時がありますね。不意に」
―なんかいろいろ考えてて?
「うん。でも、ひとりなんですよ」
―あ、そうなんですか。そんな自分をどんなふうに思います?
「生きにくいなぁと思います」
―(中略)ここには大人になっていくことの中で生じるジレンマや揺らぎを感じたんですよ。その収まりの悪さって持ってるんじゃないですか。
「そうですね」
―それはいつぐらいに生じたか、覚えてます?
「中学生ぐらい」
―周りとなじめなかったとか?
「なじんだふりをしていました」
―(中略)でも高校出て10年も経つと、社会で受け入れなきゃいけないことも経験してきたんじゃないですか。
「うん……いや、しなかったです。そういう場所には一度もいたことがない」
―わりと好きなことをやってきた感じか。それにたどり着けた自分はどう思いますか。
「まだ、たどり着けてないですね」
―あ、話が戻ってきましたね(笑)。
最近僕は思うのだが、活動休止前の『インソムニア』『This Armor』『SUGAR HIGH』の3枚のアルバムは、実は3枚組で発売できたアルバムで、一貫して、鬼束ちひろとプロデューサーが同じテンションで制作したのではないか。
その間、鬼束ちひろは作詞・作曲に集中して、その他の全ての「大人の事情」に関わる仕事を周囲のスタッフに任せていたに違いない。
ただ、そのテンションを維持できた条件が無くなったとき(それが何かは分からないが)、鬼束ちひろは不意に、無防備なまま「大人の事情」の中に放り出され、スタッフが取り次いでいた聴き手とのつながりを切断され、一人で歌と向き合う自分以外の何も見つからなくなったのではないか。
―(中略)自分自身に。好きになれないところが多いんですか。
「とこばっかりですね」
―そうですか。でも、みんな大なり小なりそういうところがあると思うんですよ。あなたもきっと折り合いをつけようとしてるんじゃないかなと思うんですけど……。
「つけれないから、こういう曲(※注釈:『MAGICAL WORLD』と『Angelina』のこと)を書くんだと思います」
―うん、そう思います。性格のどういうところが嫌いなんですか。
「感情の激しいところ…………執着しやすいところ」
―(中略)それは歳を重ねるごとに軽くなってます?それとも……。
「……重くなってる」
―はあー、ほんとですか。何で重くなってるんでしょうね?
「そのぶんだけ、いろいろ知るからだと思う」
―あ、経験は増えるけど、合わせることはできないと。じゃあ<何でこうなってるんだろう?>とか<何でこんなのを義務づけられてるんだろう>と思うことってあるんじゃないですか。
「……………………いっぱいありすぎて、困るんですよね」
―いっぱいある。自分がそれに対処しきれなかったりします?
「はい」
―(中略)ひさしぶりの作品を作り終えてみて今、どんなふうに思います?
「……いや、いいアルバムになったなと思います」
―はい。全力を尽くしたなという気がします?
「全力は、まだ尽くしてない」
―(中略)<もっともっとできるはずだ>と。<まだ自分の中から何か出てくるはずだ>って?
「うん」
―じゃあ苦しんだところってありました?
「やっぱりブランクがあったから、歌にすごい……」
―(中略)これを作って、何か見えたことってあります?
「とくにないです」
―自分はこういう人間だなとか。
「……それはとうにわかっているので」
―そうですか。今後<こんなことを唄いたいな>と感じるものってあります?
「長く唄えるものを作りたいですね」
―ずっと唄っていける歌?
「はい」
―ふーん。そんなふうに思われたのって、今までもありました?
「あんまりなかったですね」
―(中略)じゃあ音楽でこれからどんな活動をしていきたいと思います?
「マイペースで……自分自身を見失わないように」
―見失ってしまった時期が。
「うん……そうですね」
―今はちゃんと見えてます?
「(うなずく)」
―じゃあ今後どんな人生を送っていけたらいいと思いますか。
「…………ジェットコースターのような」
これでインタビュー記事は終り。見事なオチが付いている。
もちろん、以上はインタビューのごく一部なので、鬼束ちひろファンならAmazon.co.jpでバックナンバーを入手せよ!
Amazon.co.jp:『音楽と人』2007年11月号
ところで、名状しがたい居心地の悪さについては、『ROCKIN'ON JAPAN』2002年2月の2万字インタビューの方が分かりやすく表現されている。
以下、p.045からの引用。
「(略)でもたぶん、孤独とか不安ていうのはずっとあったと思うの、小学校の頃から。なんなんだろうこれはと思って。陸上も頑張ってきたし、勉強とかもできたけど、満足なんてしたことないし。満たされたことなんてなかったし、今も満たされてないし。もうずっと潜伏してる感じ。もうずっとあたしと一心同体なの、不安とか孤独とかが。もちろん楽しいこととかもあるけど、そんなのより孤独とか不安のほうが全然多くて。高校の時とか、ほんとに、もう、自分の中でそれを持て余してたと思うの。もうほんと、悶々としてましたね、高校の頃なんか特に。『わたしはここにいていいのかな』とか『わたしの居場所はここなのかな』っていう、そういうほんとに漠然としたことを悩んだりとか」
例の「システムとしての孤独」論だ。
それになぞらえれば、ジェットコースターの比喩は、「システムとしての人生の不条理」論と言える。
システムとしての孤独が、鬼束ちひろの作詞・作曲の源泉になり、その結果として自分では制御不能な、激しい変化の中に放り込まれて、振り回された、と。
そのような状況を、ジェットコースターなどの比喩をつかって客観視できるようになるまでの数年間が、活動休止期間で、それが自分を見失っていた時期ということだろう。
……えっと、鬼束ちひろのインタビュー記事を分析して、僕は一体何がしたいのか分からなくなってきた。
いまだにはっきり覚えているのだが、中学三年生くらいの頃、塾に行くために、大阪のJR阪和線に弟や女友達と一緒に乗っていて、女友達のうちの誰かに、長生きしたいかと聞かれて、「長生きなんかしたないわ(関西弁)」と答えた。
僕はもう40歳近くになってしまったが、すでに十分人生は長いと感じる。長すぎるくらいに長いと感じる。まさかここまで長生きするとは思わなかった。もう十分だと感じる。
というのも、上記のインタビューで鬼束ちひろが言っているように、世の中を知れば知るほど、世の中に適応できない自分自身が、どんどん重くなってくるからだ。
10年前は、まだ、もしかすると世の中、特にサラリーマン社会というものが、グローバリゼーションという外圧で、自分の思う方向に変わるかもしれないという希望があった。
しかし、グローバリゼーションによる変化によっても、僕自身にとって適応不可能なサラリーマン社会の側面は変わらないばかりか、かえって強化される結果に終わった。
不適応による精神的負担は、これからもますます重くなっていくばかりだろう。もう、諦めるしかない。
この日記は、一体何が書きたかったんだ?単に「鬼束ちひろ」でググったときのページランクを稼ぎたいだけだったりして。
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朝起きたときに、いちばん実感する。自分の病気を。
理由は単純で、1日のうち、3種類の薬の血中濃度の合計が、いちばん低くなっているからだ。
結局、日中はソラナックス次第。飲めば気分が上がるし、切れてくれば気分が下がる。
高木美保のようなテレビタレントや、鬼束ちひろのように才能のある人は、年単位で、きっちり治療ができてうらやましい。
とくに鬼束ちひろについては、最近、過去の状態もネットで可能な限りフォローしているので、回復の過程がよく見てとれる。
おそらくシングル『月光』やアルバム『インソムニア』など、過去の大ヒットで、今でもCD、DVDの印税収入など、最低限の生活ができる基盤はあるのだろう。
ニューアルバム『DOROTHY』は、短期的には10万枚も売れないだろうが(ちなみにオリコンの推計によれば、2009/11/09週間チャートは10位 14,029枚、2009/11/16週間チャートは40位 3,579枚)、シンガーソングライターは、作詞・作曲の印税も入るし、権利は彼女個人が保有しているらしいので、当面の生活は大丈夫なのだろう。
ただ、昨年のツアーが直前になってキャンセルになったこともあり、柴田淳がちょうど今やっているように、日本各地のFMラジオに出演するなどといった、本人露出による積極的なプロモーションができるほどは、まだ体力は回復していないということか。
鬼束ちひろのライブ、見たいなぁ。
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